ノックノックノック コンコンコンコン、ドラルクの指先が机を叩く。コンコンコンコン、メトロノームのように一定のリズムで、細い指先が苛立ちを刻む。
ここ数日、ドラルクが目に見えてイライラしている。話しかけても素っ気ないし、目もほとんど合わない。たまに合ったと思ったら、やたらと鋭い目でキっと睨みつけられる。いってきますのキスも、おかえりのキスもしてくれない。かと思ったら、謎のタイミングで熱っぽいキスをかましてくる。唇を離すと、涙で膜を張った赤い瞳が、縋るように見つめてくる。わからない。お前がどんな感情なのか。何にそんなに怒っているのか。聞いても答えてくれないし、聞けば聞くほど、ドラルクの苛立ちは加速する。
いまもほら、コンコンコンコン、ドラルクは険しい顔で、机を叩いている。
「なあ、なに怒ってんだよ」
「怒ってない」
「最近ずっとそうじゃん。俺なんかした?」
「……」
「……仕込み途中の肉、勝手に味見したから?」
「……それは別に、いい。元々君に食べさせる用だったし」
「晩飯いらないって、連絡するの忘れたから?」
「それも別に、いい。客人に振舞ったし」
「シュークリーム焼いてる途中で、オーブン開けたから?」
「しぼむんだよ! 途中で開けたら!」
「あ、それ?」
「……違う!」
「ポケットにティッシュ入れたまま、洗濯したから?」
「は? いつ?」
「今日……」
「最っ悪……」
「ごめんて……」
うわ俺結構色々やらかしてるな。しかしドラルク曰く、そのどれもが違うと言う。いや厳密には全部に怒っているらしいのだが、そんなのは些細な問題、らしい。つまり、それらを些細と思わせるような重大な失態を俺が犯した、という事なのだが、それが何なのか全く見当がつかない。
「なあ、言ってくれなきゃわかんねえよ」
「怒ってないってば」
「ずっと機嫌悪いじゃん」
「悪くない」
「目も合わないし」
瞬間、鋭い視線が飛んで来た。
「……合わせた! 今!」
「そういう事じゃなくてさぁ……」
そう言うと、ドラルクは顔を両手で覆って、深々とため息を吐いた。なんだよそれ、どんな感情なんだよ。丸くなった背中はやけに物悲しく見えて、言葉が詰まる。お前のそんな姿、初めて見た。俺はドラルクの後ろに立つと、そっと後ろから腕を回した。
「……やめろ、触るな」
「なんで?」
「触ってほしくないから」
「なんで触ってほしくないの?」
「嫌、だから」
「……俺のこと、嫌いになった?」
「……」
ぐっと黙り込んでしまったドラルクの頬に、そっと唇を落とす。拒否は、されなかった。
「……私のこと、好きなんじゃなかったの」
「……好きだよ。好き。三十年かけて伝えてきたつもりだったけど……伝わってなかった?」
「……」
「なあ、こっち見て」
そう言って顔を覗き込むと、ドラルクは、泣いていた。泣い…!?
「は? え?」
「……う、あ」
ドラルクの目から滾々と涙が溢れる。三十年連れ添ってきたが、こんな風に泣く所を見るのは、初めてだった。え、え、え、何? 俺どうしたらいい?
「ど、ドラルク……?」
「……なんで、言ってくれないの」
「な、何が……?」
「そう言うのって、ふつう、伴侶に真っ先に言うんじゃないの」
「なんの話……?」
「しらばっくれるな! 見たんだ!」
「何を?」
「ノート」
「ノート?」
そう言うと、ドラルクは立ち上がって出て行った。かと思ったら、一冊のノートを持ってすぐさま戻ってきた。
「あ、それ」
「死ぬ準備、してるんだろ⁉」
「はぁ⁉」
「だってこれ、このノートに、君のそ、葬式のこととか、死んだ後のことが、いっぱい書いてあって、なあ、言ったじゃん、ロナルドくん、言ったじゃんかぁ……」
「いや、違、え?」
「これからのこと、私とのこれからのこと、ちゃんと考えてくれるって、言ったのに、一人にしないって、」
「なあ、」
「私は、大丈夫だったのに! ジョンと私だけで、一人と一匹で、大丈夫だったのに! 君が、きみ、が……」
「どらこ、」
「君が! 私の世界に! 入ってきたから! も、もう、君がいないと、ダメ、に、なっちゃったのに……」
「ドラ公」
「ロナルドくんの、うそつき……!」
滾々と、滾々と透明な涙が溢れる。ああもう、何をどうしてそんなになったんだよ。しかし俺を想って流すその涙は、あまりにも綺麗だ、なんて。胸の奥から温かいものが滾々と湧き出てきて、俺はそっと、細い身体を抱き締めた。
「離せ、離せよ……!」
「嫌だ」
「離せったらぁ……」
「……」
あやすように、その背中を撫でさする。いつもは自信に満ち溢れているくせに、俺の腕の中で小さくなっているドラルクは、あまりにも頼りなくて、愛しくて、守ってやらなきゃという気持ちになって。お前、この三十年で、すっかり、
「俺、お前を人間にしちまったんだなぁ……」
「……意味わかんないんだけど」
「……なあ、聞いて?」
「……」
「死なないよ、俺」
「……そりゃ、すぐには死なないだろうけど、でもだって、あんなの書いてるってことは、死ぬ予定があるってことだろ⁉」
「いや死ぬ予定のない人間とかいないから」
「あ、あ……!」
「あーいやごめんそうじゃなくて! 俺、お前といるよ。ずっと」
涙で膜を張った瞳が、不安げに俺を見つめる。ああ、ごめん、ごめんな、そんな顔をさせて。額に唇をそっと落とすと、俺はドラルクの耳元で囁いた。
「吸血鬼とか、使い魔とか、まだ決めきれてないけど」
「……」
「お前が俺に寄り添ってくれた分、俺もお前に寄り添うから」
「……」
「今更人間なんて、な」
「……」
「お前より大事なものなんて、何一つないよ」
「……じゃあ、あれは何なの」
「エンディングノート? っていうかよく見つけてきたよな。あれ書いたの、もう十年以上前だけど」
「え」
「ほら退治人ってさ、いつ死ぬかわからないだろ。だからもしもの時の為に……ってあー、違う違う! 昔の話な! だからもう泣くなって」
「うっ……あ、」
また泣き始めたドラルクをそっと抱きしめ、背中をトントンと叩く。メトロノームのように一定のリズムで、安心を刻むように。
「大丈夫だから、大丈夫。な?」
「……うん」
「……なあ、吸血鬼になるのって、痛い?」
「……知らない。なったことないから」
「じゃあ使い魔になるのは?」
「わかんない。あとでジョンに聞いてみて」
「……そうだな」
「……ね、ロナルドくん」
「何だ?」
赤い瞳が、おずおずと俺を見上げた。
「キスして」
「ん」
薄い唇に唇を重ねると、また胸の奥から温かいものが滾々と湧き出てきた。滾々と、滾々と、コンコン、コンコン、コンコン。――ん?
「すみませーん。あ、やっぱりいた。さっきからノックしてたんですけど、」
ガチャリとドアが開く音に振り向くと、そこにはこちらをじっと見るへんなの姿が。途端、気まずい沈黙が部屋に満ちる。
「……」
「……」
「……」
へんなはあーとかうーとか言って視線をさ迷わせると、すみませんお邪魔しましたと踵を返した。いや逃がさねえから!
「ほんとお邪魔だよバーカ!」
俺はとっさにへんなを捕獲すると、正座させて懇々と説教をした。ノックしてもどうぞって言われるまで入っちゃダメだから。これ世間の常識だから!
はいすみませんはいすみませんと素直に謝るへんな。と、後ろからくすりと笑う声が。振り返ると、ドラルクが泣きはらした目でくすくすと笑っていた。
ああ、やっぱり、お前笑ってた方が可愛いよ。そう言ってすぐさま抱きしめたかったが、へんながまたじっとこちらを見ていたので、無言で殴ってまた懇々と説教をした。