サメのしりとり・その後百音の風呂上がりには、菅波が百音の髪を乾かすことがすっかり二人のお約束になっている。菅波が吟味を重ねて導入した高性能なドライヤーは安定した風量を供給し、手櫛で根本から丁寧に乾かす手際で、百音の髪は常に増して艶やかに乾く。毛先をひと束とって、乾き具合を検分した菅波が満足げに頷いて「できました」と宣言すると、百音が「ありがとございます」と笑う。
乾かしたばかりの百音の髪をそっと撫でて立ち上がった菅波は、じゃあ僕もフロ入ってきます、と着替えを持って脱衣所に向かった。その後ろ姿を見送った百音は、手持ち無沙汰になって座っていた床のクッションから立ち上がり、壁に貼られたサメのポスターの前に立った。1LDKのリビングと書斎兼寝室を仕切る壁に貼られたそれは、今日の昼食後にやったサメのしりとりで百音がカンニングしたポスターである。
改めて、ポスターに描かれたサメを眺める。東京の家で貼っていたサメポスターは書斎兼寝室に飾られていて、このリビングのポスターはそれより二回りは大きくて描かれているサメの種類も多い。あなたと行ったサメ展で買いたかったものなのですが、当時品切れだったので再販で手に入れたんです、と初めてこの家を訪れた時に嬉しそうに言う菅波がかわいかったな、と思い出しつつ、百音はポスターを眺めた。
サメのしりとりの時に見つけた『め』で始まる『メジロザメ』と『メガマウスザメ』を人差し指でなぞり、そこから『アカリコビトザメ』『イタチザメ』『ウバザメ』、あ、エで始まるサメがいない、ん、そうだ、『エイラクブカ』って言うのがいるはず、『オオセ』『カグラザメ』『キクザメ』『クロハラカラスザメ』…とあいうえお順にサメの名前を辿る。
なんだかよく分からない負けず嫌いでサメの名前をだどっていると、相変わらず烏の行水の(しかし、本人曰く登米に来てからは湯船につかることも増えたと言い張る)菅波が杢グレーのスウェットズボンに白Tシャツで百音の横に立った。髪の乾きぶりは(これもまた、僕はこれぐらいでもいいんです、それよりあなたを待たせたくない、と言い張る)八割といったところでいつも通りで。
「何を、してるんです?」
サメポスターに指を置いたまま、百音が菅波を見上げる。
「サメの名前を確認してました!」
「…なんのために…?」
「次にしりとりする時に、サメの名前言えるようにと思って」
「…あぁ!」
昼にサメのしりとりをしたことを思い出した菅波が、得心したように言う。次はポスター見ないでも先生をサメ尽くしにしてみせます、となにやら意気込んで見せる百音が、菅波にはかわいくてたまらない。
「がんばってください」
余裕めかして言ってみせると、百音が軽く頬を膨らませて菅波の両頬を引っ張るので、菅波はそれを甘んじて笑いながら受ける。しばらくむにむにと引っ張られていると、ふと百音が何かに気づいた顔になってむにむにとするのを止めた。菅波がその様子を見ていると、百音は菅波の頬をつまんだまま、菅波の顔を見上げた。
「先生」
「はひ」
百音の呼びかけに、頬をつままれたままの菅波の返事は少し間が抜けて。
「先生、私、先生のほっぺ、何も考えずにむにむにしてました」
「ほうですね」
菅波がフム、と頷いて見せると、百音が両手を離して、そっと自分の指先を見て、また菅波を見上げる。
「あの、前に桜の時に、東京の病院の裏の公園で話をしたの、覚えてますか?」
「ええ。覚えてますよ。散りばなでしたが、きれいな夜桜でした」
「あの時、先生が、いつか、って言ってくれたじゃないですか」
百音の言葉に、菅波がこくりと頷く。あの菅波の登米移住を前にした、不安交じりのあの春の夜。それから、幾度もの登米と東京の行き来で二人なりの過ごし方の形がおおよそ輪郭が整ったと思えるような晩夏の今である。
「いつか、の目安も教えてくれて」
「あくまでひとつの目安だとは思っていますが、はい」
菅波のその言葉に、百音はぎゅっと両手を握って瞳を輝かせた。
「すごいです、先生」
「え?」
「だって、私、今日、気が付いたら先生のほっぺむにむにしてたんです。緊張しないで」
「そういえば、お昼のサメのしりとりの時もそうでしたね」
菅波が頷くと、百音が首をかしげる。
「気づいてたんですか?」
「ええ、まぁ。とはいえ、それがたまたまなのかどうかは判じかねたから」
「言ってくれたらよかったのに」
百音の言葉に、菅波が右手を首元にやりながら訥々と口を開いた。
「たまたまだったかもしれないでしょう。それに、一方的に僕がそう言って、永浦さんのプレッシャーになってはいけないしと思って」
百音は口許をむぐむぐとさせて、菅波のその言葉を聞いた。以前に話をしたことを大切にしつつ、それに付け込むような言動を慎む様に、ああ、先生だなぁと百音の心に温かいものがふわりと広がる。
「うん、だから、あの日話していた、その、いつかのことは、今日気付いたから今日でないとってことでもなくて、これをきっかけに永浦さんが本当にそうだな、ってこれから思える日であれば…」
菅波が言葉を重ねる中、そっと百音が右手を菅波の左手に乗せ、菅波の言葉が途切れた。
「あ、えと、あの…」
百音がその指先を預けたまま、いつも自分を受け止めるその手をじっと見つめて言葉を探す。えっと、と何かを考える様子の百音を見つめた菅波が、じっと次の言葉を待つ。一度口を開きかけてまた閉じた百音に、「永浦さん?」と菅波がそろりと声をかける。その響きに、百音がすっと顔をあげて菅波を見た。
「最近、本当に気にしてなかったんです。先生が私のことを見ててくれるのは知ってたし。待たせてしまっているとも思っていたけど、いつって気づくのはふたりで気づくのかなって。でも…」
そこでまた言葉を区切った百音に、菅波はその瞳を見つめながら「続けて聞かせて?」と囁く。
「さっき、先生が、私が本当にそうだなって思う日で、って言った時に、やだなって思ったんです」
その言葉に菅波がわずかに首を傾げると、百音が見つめられたその瞳に光を込めて言葉を続けた。
「それが今日じゃないのは、やだな、って」
耳元をあからめながらじっと自分を見上げる百音がとても綺麗だ、と菅波が見蕩れる。自分の気持ちをまっすぐに伝えてきた百音に自分も言葉を返さないとと思いつつ、この人の判断や思いを自分が撓めることは本当になかったか?としばし自省が動いて、とっさの言葉が出てこない。
菅波のその様子に、何かを考えてるな、とすっかり理解できる百音が、菅波の左手にかけた自分の右手を手がかりに、ついっと背伸びをして、触れるだけのキスを菅波の唇に贈る。とんっと床に踵をつけて自分を見上げる百音に、菅波は耳まで真っ赤にしながら、こくり、と一つ頷いた。二人で重ねてきた時間に、別の輪郭を与える頃合いなのだ、とそのキスが教えてくれている。
「あの、ひとつ、これだけは約束してほしいんです」
菅波は、百音の右手を両手で包んで、器用な上目遣いで百音の顔をまっすぐに見つめた。
「やくそく?」
「はい」
菅波が重々しく頷く。
「もし、やはり嫌だと思ったら、必ず伝えると約束してください。いつでも気が変わっていいんです」
真摯な物言いの剣幕に、百音も重々しく頷いた。菅波のことは信頼していても、こうして先の選択肢が示されたことに覚える小さな安心感があることも事実だった。
「その時は、僕の体をどこでもいいから2回つねってください。そうしたら、何があっても止めるから。それを僕も約束します」
真面目に言い張る菅波が、一度やってみて?と自分の左腕の柔らかいところを向けて差し出すので、百音はなんだか面白い気持ちにもなりつつ、小さく2回つねってみる。なんの痕も残らないその行為だが、こうして実際の行動をなぞる機会を持って、こうすればいいんだ、と小さな安心感が確かなものになる。百音が口許をむぐむぐさせながら菅波を見上げると、その意図を受け入れた様子に菅波も安堵の色を見せた。
そっと菅波の左手が百音の頬にあてがわれ、優しいキスが落とされる。百音がそれに応えると、そのキスが一段深くなって、頬に添えられた手が百音の後頭部にまでまわる。最初に所在無さげだった百音の両手が菅波のTシャツの胸元に皺を寄せる。そのしばらくのキスで瞳を潤ませた百音が見上げる様に、菅波の目尻はすっかり下がっている。膝を曲げた菅波が百音の体をすくい上げて横抱きにすると、百音は小さく歓声をあげて菅波の首に腕を回した。至近距離になったお互いの顔が恥ずかしく、百音が菅浪の首元に額を埋める。
右手でぽんぽんと百音の肩を撫でた菅波は、その足を書斎兼寝室に向けた。
そっと百音の体をベッドに下ろし、額に軽いキスをかすめた菅波が、着ていた白Tシャツを脱ぎすてる。ぎしっと音をさせてベッドに膝を乗せた菅波が百音を真上から見下ろすと、百音が頬をあからめつつ、そっと手を伸ばして意外と引き締まって筋肉質なその胸元から肩をそっと撫でた。指先からの手のひらに感じる菅波の素肌の熱に、百音はドキドキと安らぎの両方を感じて、あぁ、だからだったんだ、と、またあの春の夜の話を思い出す。
もし、あの頃にこの時間を迎えていたら触れることだけでキャパオーバーして、目の前の菅波に向き合えなかったかもしれない。こうして、当たり前みたいに肌の温もりに手を伸ばせるから、だから感じられる機微がそこには確かにあって。百音がこの時間を自身で受け止められるようになるまで、菅波が待っていたことに、百音の口許がまた緩む。
百音の様子に全神経を集中させる菅波がいち早く、初めてのこのシチュエーションには少し似つかわしくないような百音の表情に気づいて首を傾げて見せると、百音がその頬に右手を添えた。
「先生、全部教えて?ぜんぶ、せんせいとがいい」
その言葉に、菅波がこの日で一番深いキスを百音の唇に落とし、応える百音の息が上がったところで、キスを首元に移すと、そのくすっぐったさに百音がふぇ、と声を上げると、上目遣いで見上げる。
常に百音の様子を気遣いながらのその様子に、百音はふわりと笑って首を横に振った。そっと百音が右手を菅波の左腕に添える。さっきつねった場所をただ撫でるその動きに、菅波はそっと頷いて自身の左手で百音の右手に指を絡ませて繋ぐのだった。