焼け木炭には火が点きやすい
「ねえ、シャーペンの芯、持ってる?」
突然声を掛けられて、私は目を瞬いた。まさか急に振り返ってくるとは思わなかったのだ。だからつい何も言えなくなって、ただその端正な顔を見つめてしまう。
「忘れちゃった?」
「う、ううん、ある、よ。待ってね源さん」
我に返ってペンケースを漁る。奥のほうに目当てのものを見つけ、取り出して渡した。柔らかな手のひらに安っぽいプラスチックの入れ物が当たった一瞬だけ、指先が彼女に触れる。
「ありがとう、今日忘れちゃったから」
「ううん、平気」
彼女は体の向きを元に戻した。私の視界にはまた、ふわふわとした長い髪とセーラーカラーに戻る。思わず安堵して息を漏らす。緊張した。
「ねえ」
「はいっ?」
かと思いきやまたこちらを振り返ったので、私は再び肩を強張らせた。しかしそれは当たり前だ。今シャーペンの芯を貸したばかりではないか。そりゃあ返すためにもう一度こちらを見るだろう。
「ありがとう、借りたよ。それから前、見づらくないかい?」
「えっ」
「ごめんね、今まで気が回らなかったんだけど、僕が前だと君は黒板が見づらいんじゃないかなって。換わろうか?」
あ、そういうこと。源さんは女の子の割には背が高い。だから確かに、彼女の後ろの席に座る私は前を見るのにやや体を傾けたりする必要がある。
だが私は首を振った。シャーペンの芯を受け取りながら、左右に。
「平気。ちゃんと見えてるから」
「そう?」
「うん、窓際だし、斜めからだから。見えてるよ」
「おーいそこ、私語慎めー」
先生の注意に、源さんは悪戯っぽくこちらを見て微笑みながら体を戻す。用は済んだから、きっともうこの時間に振り返ることはない。だから私は安心して彼女の後姿を見つめていた。いつも通りに、ただ。
席なんて換わられたら堪らない。彼女の視界のうちにいつも入っているだなんて思ったら、一日どころか一時間で気が狂ってしまいそうだ。あの瞳が、自分を見ているのだなんて考えただけでもどうにかなる。だからこの後ろの席がちょうどいい。
ただ後姿を、見つめるだけで。
終電の時間が過ぎたころにピンポーンとインターホンが鳴って私はげんなりした。またか、最近週の半分は来ていないか。鍵を開けると、チェーンを外す前にドアが引かれてガチャンとものすごい音を立てる。ああそうだった、この間もこれをやってチェーンから外そうと思ったばかりなのに。それもだめだとわかったら大人しくしていてくれればいいものを、ドアの向こうで彼女はガチャガチャとドアを開け閉めするのだ。
「開けてー」
「わかった、わかったから静かにして。ご近所迷惑だから」
「はぁい」
一度閉じたドアのチェーンを外した瞬間に、勢いよく再びそれは開いて同時にガバリと抱きつかれる。バランスを崩しかけて私は玄関の靴箱に手をついた。お酒臭い。
ふわふわの金色の髪が鼻先を擽った。私より身長の高い彼女にのしかかられると結構重たいのだ。しかし彼女は容赦なく体重をかけてくるので、私は呻きながら何とか靴箱を支えに体を起こす。
「ただいまあ」
「髭切の、家、ここじゃないでしょ」
「同じようなものだって、大雑把にいこうよ。僕と君の仲じゃない」
そんなのたまったものじゃない。けれど髭切は私に抱きついたままカランと履いていたパンプスを三和土に落とした。ため息をついて私は一歩下がる。タイツのまま玄関に立たせておくわけにはいかない。すると髭切は満足げに後ろ手で鍵を閉めた。
「髭切、ちゃんと弟さんに連絡した?」
「うん、君のとこに泊まるって言ってあるから大丈夫。シャワー借りるね」
「はいはい……」
上機嫌に髭切はぽいぽいと歩きながら服を脱いで、勝手にシャワールームに行ってしまう。私はそれらを後ろから拾い集めて、下着類やシャツだけ洗濯機に放り込んだ。髭切が着るスカートやらなにやらは高くて洗えるようなものじゃない。ハンガーに引っ掛けてあとで消臭剤でも掛けておこう。まったく、私の部屋の箪笥の一段は、既に彼女の衣服で埋まろうとしていた。
彼女は私の高校時代の同級生である。何の因果だか腐れ縁だかわからないが、彼女はたまたま席替えで私の前の席になり、それがきっかけで大学に入ってからも社会に出てからも……というか社会に出てからは輪をかけてひどい。週に半分は顔を合わせている。私が一人暮らしを始めたのをいいことに、こうして家に転がり込んでくるようになったからだ。学生時代から髭切にかなり手を焼かされていた年子の弟さんの苦労が計り知れない。
「ねえ、せめて一言連絡くれないかな。私寝るところだったんだけど」
シャワールームに向かって一言抗議をする。ザーッというお湯の音にまぎれて穏やかな髭切の声が響いた。
「でも別に何かしていたわけじゃないよね? あ、タオル借りるよ。出しておいてね」
「……勝手なこと言わないで。私にだって予定くらいあるのに」
その言葉はシャワーで届かなかったのか、返事はなかった。私はそれでもタオルを脱衣所に置いてリビングに戻る。置いていたスマホを見れば、確かに弟の膝丸君から「姉者がそちらに向かったと思う。すまぬがよろしく頼む」と律儀な連絡が入っていた。しかしこの受信時間を見るに、髭切はここに来る直前に弟にそれを知らせたに違いない。
どうせお腹が空いたと言ってくるだろうから、私は残っていた味噌汁の鍋を火にかけた。髭切はお風呂やシャワーが長いのだ。
しかし髭切は何故だか今日はすぐに上がってきてばさばさと髪の水気をとりながらソファに座り込む。だらしがないから何度もやめろといっているのに、髭切はパジャマの前も閉めずにただ羽織っているだけだった。
「早いね、晩御飯まだ用意できてないんだけど」
「ううん、外で食べたからそのお味噌汁だけで大丈夫。頂戴」
「はいはい。パジャマのボタン留めて」
味噌汁をよそって持っていく。髭切はつけていたテレビのチャンネルを勝手に変えて自分の好きなものに変え、いただきますと手を合わせた。
外で食べたということは飲み会帰りとかそういうのだろうか。私は麦茶を注いだグラスに口をつけながら、時計を見る。
「終電まで飲むのやめなよ、体に悪いって。最近週の半分はうちに泊まるじゃん。いくら会社から近いって言ってもさ」
「ありゃ、今日は別にお酒飲んでたわけじゃないよ?」
「じゃあ何……あ、もう、またっ?」
私が声を上げれば、ふふと笑って髭切はこちらを見る。またこの女は悪い癖が出て。私は髭切が手を伸ばしていた味噌汁を取り上げた。
「会社の男の子に手出すのやめなって何度も言ってるじゃん!」
「だって可愛かったから」
くすくすとする髭切には一切の反省だとかそういうものが見られない。私はげんなりして額に手をやった。
「あーもう、可哀想、また遊ばれて……いつか刺されるよ……」
「お味噌汁頂戴、小腹すいてるんだよね」
「はああ……」
「いいじゃない、向こうだって楽しんでるんだし。あ、ねえ具に次からジャガイモ入れて」
「弟さん憤死するんじゃないのそろそろ。この間会ったけど、平謝りしてたし」
髭切の生真面目なひとつ下の弟は、私も連絡を取る程度の仲ではある。そもそも高校の後輩であるし、髭切と仲良くなってからは自然と顔を合わせるようになったからだ。それもこうして家に転がり込まれるようになってからは、割と頻繁に会う。彼女が家に置いていった着替えだの何だのを渡すことがあるからだ。流石に私の家に髭切の服やら何やらを置きっぱなしにしておくことはできないので、たまにそうして返している。
「弟に会ったの?」
器を空にしてから髭切はそう言った。それからごちそうさまと一応手を合わせる。
「会ったよ、なんかお詫びとかでケーキくれた」
「ふぅん……」
髭切が平らげた味噌汁の器を手に、私はシンクに戻った。やれやれ、頭の痛いことだ。
いつからだったかさっぱり思い出せないのだが、髭切はすこぶる貞操観念が緩い。言い方は何だがもうがばがばである。せめて職場の男の子を引っ掛けるのはやめろと何度も言っているのだが、あまり聞いてはくれない。特定の彼氏……はあまり記憶にないのだが、引っ掛けて遊んだ相手はかなりいる。高校生のときはそんなことなかったように思うのだが。というか正統派の清純美少女だった。まだ覚えている。それがどうしてこうなってしまったんだか。
「はいはいもしもーし」
がちゃがちゃと皿を洗っていたら、背後からそんな声が聞こえたので私は振り返った。電話なら部屋から出ればいいのにと思っていたが、ぎょっとする。あれは私のスマホではないか。いったい何をしている。
「髭切っ!」
「え? ああ、今ねあの子お皿洗ってて。僕? 僕はあの子の」
「誰と喋ってるの!?」
慌てて手を拭いて髭切の手からスマホを引っこ抜いた。うわあ何をしてくれているのだ。
「もしもし、いや、あのごめんなさいちょっと友達が来てて。あー、はい、はい」
案の定混乱しきっていた相手を適当にごまかして、私は用件を聞く。その間じっと、髭切はあの琥珀色の瞳でこちらを見つめていた。通話を切って今度は自分のポケットにスマホを入れる。
「ちょっとこれ指紋認証なんだけど」
「ん? 数字もあるよね」
「そうだけど何で知ってるの!」
「だって僕の誕生日だもん」
にこりとして髭切は答える。私はぎくりと肩を震わせた。ああいやになる、もう今日の夜には変えてしまおう。しかし髭切のほうは上機嫌に笑うと、たおやかな手で私の手を取って引っ張る。
「もう寝ちゃおうよ、することもないでしょう?」
「見たいテレビがあるんだけど」
「そんなの録画でいいよね。ほら、いつもみたいに僕の髪、乾かしてよ。さっきの誰?」
ため息をついて、私はドライヤーを手に取る。
しかしスイッチを入れる前に、私はその形のいい後頭部を見ながら口を開いた。思えばずっと、高校生のときから私はこの後姿を見つめ続けている。
「……彼氏」
「え?」
「さっきの、彼氏だよ」
琥珀色の瞳がこちらを見る。手が震えないように気をつけながら、私はカチリとドライヤーのスイッチを入れた。ゴウと温風が吹き出し始める。
「だから今度から連絡もなしにうちに来ないでね」
……恋をしている。
席が前だった女の子に、不毛な恋を、ずっと。
彼女を初めて見たのは、高校の入学式のときだった。
ハーフアップにした猫っ毛の長い髪と真新しい紺のプリーツスカートが揺れる。後姿だけで同じクラスの子ではないとすぐにわかった。だってあんな綺麗な子が一緒の教室にいて気づかないはずがない。
誰かに呼ばれたのかなんなのか、ピクリと肩を揺らした彼女は振り返ろうとした。だから私は慌てて目を逸らしたのだ。そろそろ体育館に行かないと遅れてしまう。
教室の階も違って、私は彼女が何と言う名前で、どんな子なのか二年生になるまで知らなかった。源さんがくじ引きで前の席に座るまで、話したこともなかったのだ。
「すまない、待たせただろうか」
早足で待ち合わせた駅までやってきた膝丸君に、私は顔を上げて首を振る。近くで用があるとはいえ、わざわざ来てもらったのはこちらのほうだ。
「ううん、平気。それよりもごめんね、外回りのついでって言っても寄り道させちゃって」
「いや、構わない。俺も姉者の様子が気になっていた。あの喫茶店でいいだろうか、昼休みの時間をとらせてすまないが」
「大丈夫だよ」
髭切が大学二年生のときに一緒に家を出た一つ年下の膝丸君は、今は営業マンとして働いている。高校生のときから随分しっかりしていたし、難なく仕事をしているようだ。特に私と膝丸君との間に接点があったわけではないが、髭切と親しくなるにつれ自然と膝丸君と話すことも増えた。今はたまに家に置きっぱなしになっている服を渡したり、困ったときの近況報告をしたりする。今日は後者だ。
適当に私はアイスティーを、膝丸君は珈琲を注文する。それから私は手にしていた紙袋を膝丸君に渡した。
「昨日うちに置いていった服。一応消臭剤くらいは掛けておいたんだけど」
「……いつもすまない」
「ううん、膝丸君も。夜中に迎えで大変だったでしょ」
苦笑した膝丸君は「いや」とぼやいてからそれでも指先で目元を擦った。そりゃ眠いだろう、車であの時間から髭切をうちの近くまで迎えに来てからの出勤では。
「泊めようと思ったんだんだけど、ごめんね、帰っちゃって」
謝れば膝丸はぶんぶんと首を振った。
「いや、いや気にしないでくれ! 君が追い出したわけではないのは俺もわかっている。だが姉者の機嫌が悪かったのは気にかかるゆえ、それだけでも話を聞けたらと思ったのだが」
「……私にも、わからないの。いつもの気まぐれのような気がしなくもないけど」
昨夜、髭切は終電も終わった夜中に私の家から出て行った。ドライヤーをかけてやろうとしていた私の手首を掴み、カチリとスイッチを切る。
「彼氏って? 僕聞いていないよ」
「そりゃ、言ってないから」
「僕に黙って彼氏なんて作る君じゃないよね」
「ただの友達じゃない、髭切は」
あからさまに髭切は不機嫌になった。私はあえてそれを気にしないで、髭切の猫っ毛に温風を当て始める。細い髭切の髪はすぐに乾く。特に、高校生のときと違って長さが短い今は。
「それ、どこの誰」
「髭切の知らない人」
「せめて弟にしておきなよ」
「何言ってんの」
完全に乾いたのを確認してから、私はカチとドライヤーを切った。髭切の美しい顔は何の表情も浮かべていない。くるくるとドライヤーのコードを本体に巻いてしまう。
「……それはもっとだめか」
勝手に自己完結して、髭切は立ち上がる。つかつかと長い手足を動かし、ぱっと荷物だけ取るとリビングから出て行こうとした。寝室はそちらではない。
「髭切、どこに行くの」
「帰る」
「帰る? どうやって、終電もうないよ」
「もしもし弟? 今から帰るから、悪いんだけど途中まで迎えに来れる?」
一方的にそうスマホに言うと、髭切は振り返りもせずに玄関で先ほど脱いだパンプスを履く。待て、パジャマではないか。
「髭切、こんな時間に、ねえ待ってせめて着替え」
バタンと玄関が閉まった。そんな風に、髭切は昨夜私の家に勝手に来て、勝手に帰っていったのである。
膝丸君ははあとため息をついて珈琲に口を付ける。深夜に呼び出されて髭切を回収して帰ったのだから、膝丸君とてそう寝れてはいないのだろう。顔には若干の疲労が見える。
「姉者はああだからな……君にはいつも申し訳ないと思っている」
「ううん、いいのいいの。高校のときからだし。もう慣れっこだよ、平気。それよりごめんね、いつも」
「いいや、構わぬ。元々姉者のものだ。君の家に置いておくわけにもいくまい。何かあればまた遠慮なく連絡をくれ」
「……髭切は? 何か言ってた?」
私がそう聞けば、膝丸君は困ったような顔で肩を竦める。
「いいや、本当に、ただ不機嫌そうだったくらいだ」
仕事の昼休みにお互い都合をつけていたので、「じゃあこれで」と私は膝丸君と別れた。一応スマホを見てみたが、何の連絡もない。……いや、待っているわけではないのだけれど。
私と髭切は、「友達」だ。もっと詳しく言うのなら、「高校時代からの友達」、「一番仲のいい女友達」、それだけ。元々、私と髭切の間には特に大きな共通点や接点があったわけではない。本当に、ただ本当にたった一度席が前後した、それだけなのだ。
それも何か、特別な繋がりがあるわけではなくて。
「ねえ君、英語、得意?」
ふわふわの金の髪をハーフアップにしていた源さんは不意にそう言って振り返ることがあった。シャーペンの芯をあげてからしばらく、こうして彼女は話しかけてくる。
「得意ってほどじゃ、ないけど」
「今日の予習してある?」
「あるよ」
「僕、今日あたりそうなんだ。ちょっとここの問題だけ見せてくれないかい」
源さんは正統派の美少女だった。校則にしっかり従った膝丈のプリーツスカートにハイソックス。金のふわふわの髪はいつも綺麗に整えられている。真っ白な肌に映える琥珀色の瞳と、よく通った鼻筋。後で聞けば衣服や髪なんかは膝丸君の並々ならぬ努力の末に校則を厳守させていたようだが、そうでなくても目を引く美少女だったのは間違いない。
それに引き換え私は平凡を形にしたような女子高生で、きっと席が前後しなければ私と源さんは会話することさえもなかっただろう。私も彼女のことはただ「綺麗な女の子」だと、そうとしか思っていなかった。一際眩しい、女の子だと。
「ちょっとあんた、何ボーっとしてんの? さっきから画面すごいことになってるけど」
「えっ、あ、わっ」
押しっぱなしにしていたキーがそのまま画面に打ち出され、エクセルが大変なことになっていた。慌てて一気にそれらを消す。声を掛けてきた同僚が呆れたように肩を竦めた。
「上の空で資料打ち間違えても俺知らないよ? 彼氏できたからって幸せボケしないの」
「は、はは、そんなんじゃないよ」
最近彼氏ができたことを知っているからか、同僚の加州君はからかうような口調で言う。それは適当に誤魔化して、私は再びパソコンに向き直った。しかし集中しなければと思えば思うだけ、昨夜の髭切の後姿が脳裏を過る。
形のいい後頭部、揺れる襟足までの金の髪と細い首筋。あのパジャマは確か、うちに通うようになってすぐの頃髭切が持ち込んだものだ。
「君の服、僕には小さいからね」
そんな風に笑って髭切は勝手に私の箪笥の二段目にそれを入れた。それから週の半分髭切が来て、残り半分私が洗濯してそこに仕舞われているパジャマ。……昨日髭切が着て出て行ったパジャマ。
ヴヴと携帯が震えて、反射的に手に取る。しかし連絡は別なもので、益々自分が嫌になるばかりだった。忘れようとするたびに、あの後ろ姿は浮き彫りになる。私には、胸が苦しい思い出しかない。だからこれでいいと思って、彼氏を作ったはずなのに。
意味もなく作っていた文書を改行する。パコ、とやや強めにエンターキーを押す音が響いた。すると加州君は作業が一段落したと思ったのか、こちらのデスクを覗き込んで言う。
「あ、ねえあんたさ、ちょっと合コンの人数揃えるの手伝ってくれない?」
「合コン?」
「彼氏持ちなとこ悪いんだけど、女の子足りなくて。あんたの友達、めっちゃくちゃ綺麗なの一人いたじゃん」
「……あー」
髭切のことを言われているのだと瞬時に察する。前に一度、同じように合コンの人数合わせと言われて髭切を呼び、連れて行ったことがある。髭切は美人なので、それはそれは受けがよかった。
「あの子無理? ちょっと連絡取ってみれたりしない? あ、もちろん向こうも彼氏いるとかならナシ! 気にしなくていいから」
「無、理なことはないけど」
何となくぎゅっとスマホを握ってしまう。連絡を取る口実を得たいような得たくないような。というか、連絡が返ってくるのだろうか。現在進行形で不機嫌な髭切が。
お願いと手を合わせられてしまい、仕方なくその場で私はスマホを取った。ただここで電話をするのは憚られ、一度オフィスを出る。いや、いっそここで電話が通じなければ、メッセージに既読さえつかなければ諦めもつくというものだ。そうすれば暫く距離を置いて、向こうからまた気まぐれにやってくるのを待てばいい。
……そうしたら、普通の友達になれるのかもしれない。
通話ボタンを押して、スマホを耳に当てる。ワンコール、ツーコール……。
「もしもし」
うわ、出てしまった。ぎくりと肩が震える。まさかこんな早くに通じるとは。
「……もしもし? どうしたの?」
「えっ、あ、ごめん」
怪訝そうな声音がスマホから聞こえてきて、慌てて返事をした。
「君も仕事中だよね? どうかしたの?」
「あの、いや……ごめんね、髭切もなのに。ごめん、大丈夫だった?」
「いいよ、今日は特に何もなかったんだ。退屈してたくらいだよ」
クスクスと鈴を転がすような声が聞こえる。不機嫌……というには楽しげだ。昨日の今日で、もう気分は持ち直したのだろうか。
「それで、何か用だった?」
「あ、えーっとね、ちょっと髭切にお願いがあって」
「僕に?」
「合コン、来れたりしない……? うちの会社の同僚に女の子の人数が足りないって言われて。前もお願いしたけど」
一拍、二拍。髭切からの返事はなかった。地雷を踏んだのだろうか……。やや青ざめる。前に合コンに一緒に行ったときはどんな反応をしていたっけ。あまりよく思い出せない。エレベーターの電光掲示に映る数字が次々に自分がいる階に近づいてくるのを見ながら、私は壁に寄り掛かる。
嫌ならいいよ、と言うなら早めに言ってしまわねば。そうしたら昨日はどうしたのと聞いて、弟君も困ってたよなんて適当に宥めて話を納めて……。
「いいよ」
「えっ」
「いつだい? 今週?」
あっいつだろう。私は慌ててオフィスに戻った。加州君に口で「いつ?」と聞けば加州君はパッとカレンダーを手に取ってこちらに向ける。今週の金曜日だった。花金なら二次会三次会ともつれこんでも問題ないだろうというスケジュールか。指でオッケーと印を作って、私は再度廊下に戻る。
「今週の金曜日、みたい」
「わかったよ、空けておく。でも一つ条件があるんだけど」
「なに?」
スマホを持ち直し、私は聞いた。
「君の彼氏、連れて来て」
いつもより、スピーカーから聞こえてくる髭切の声が低い気がした。スマホを通しているからだろうか。だからいつもの調子と違うように耳に届くのか。
「……彼氏?」
「連れてくるなら、合こん? 行ってあげる」
加州君にオッケーを出してしまった以上、後にはもう引けないだろう。私は視線を下げた。チン、と目の前のエレベーターがこの階に到着し扉が開く。
「……わかった」
何を意図して髭切がそんなことを言っているのかさっぱりわからないが、私にはそう答える他なかった。「じゃあ、金曜日にね」と髭切はそれだけ言ってプツリと通話は途切れる。私もいつまでも席を空けておくわけにはいかない。スマホを片手にデスクまで歩く。デスクに置いた薄い板はゴン、と重い音を立てた。
「大丈夫だった?」
加州君がやってくる。私はハッとして曖昧に笑い、一つ首を縦に振る。
「来れるみたい」
「あー、サンキュ! 助かるー」
「あのでもなんか私の彼氏、見たいらしくて。合コンに連れて来てって言われちゃって」
どうかそれで難色を示してくれないだろうか。そうは思ったが、加州君はそれにも親指と人さし指で丸を作った。
「いーよいーよ、元から連れてくつもりだったし。あんた頭数に入れるのに、彼氏入れないのはやっぱないでしょ。それよりあんた、友達に彼氏紹介してなかったわけ?」
不思議そうな顔で加州君はデスクに軽く腰を掛けた。加州君は同期で、プライベートでも連絡を取る数少ない同僚である。だから私の彼氏のことも知っている。
「前の合コンのときすごい仲良さげだったじゃん、あんたと友達」
「……高校のときの同級生なの」
「へえ、付き合い長いんだ。大学も一緒?」
「ううん、大学は、違う」
高校だって、クラスが一緒だったのは二年生のときの一年だけだ。それもただ一度席が前後しただけ。部活も委員会も違った。家の方面も逆だったから、高校までは学区も別で接点なんて一つもない。それなのに、今までなんとなく「友達付き合い」が続いている。それも、途切れることなくだ。
ふぅんと加州君は指でペンをくるくると回した。デスクから降りて、それでもにこりとし加州君は小首を傾げる。
「でも、いーじゃん。そういう友達? 俺にも腐れ縁みたいなの一人いるけどさあ、そういうの、なんか居心地良いじゃん? 大人になっても何となくで連絡取れるのって」
「……そうだね」
そういう同性の友達だと、私も言えればよかった。それができないのは、私が悪い。
「こんばんは。今日は呼んでくれてありがとう」
合コンの日、髭切は白いワンピースに綺麗めの華奢なパンプスとなかなかに気合の入った服装であった。あのワンピースには覚えがある。一緒にショッピングに行ったときに買ったものだ。お揃いで買おうと言われて、だが私と髭切とではサイズが違いすぎて、私に合うものがなかった。
「いや、こちらこそ来てくれてありがとう。源さんだっけ。悪いね、人数合わせでさ」
「ううん、平気だよ。いつもあの子がお世話になってるね」
加州君に挨拶した髭切はにこやかに言う。この間の不機嫌さは一切感じられなかった。やはりあれはただの気まぐれだったのだろうか。
私が微妙な気持ちで髭切を見ていると、にこりとした彼女は軽やかな足取りでこちらにやってくる。ひらりとワンピースの裾が揺れた。一応今日会う前に、膝丸君に連絡してみたが特に家にいるときも変わったところはなかったと聞いている。ならばこの気合の入った服装は、珍しく合コンで彼氏を作るつもりがあるということだろうか。……いや、だめだ、先日も会社の男の子と遊んでいたのを注意したばかり。合コンもそういう目的かも知れない。いかん、きちんと見張らねば。
「何を怖い顔してるんだい?」
指先でずいと眉間を押される。良く整えられた爪は丸く、特に痛くもなかったが私はその指を退けた。
「どういう魂胆で来たの? 今日」
「魂胆って酷いなあ。特に何も考えちゃいないよ。それで、どれ? 彼氏」
髭切はわざわざ屈んで私の腕に自分のものを絡ませ、視線を合わせる。ヒールの高いパンプスを履いているせいで、いつも以上に髭切は私との身長差があった。仕方なしに加州君達男性陣に紛れているその人を指差す。
「あれ」
「……ふうん、あれ」
じっと髭切は彼を見つめている。琥珀色の瞳からは特に表情が読めなかった。
「なに?」
「ううん」
顔周りのふわふわとした髪を耳に掛けると、髭切は私の耳元に唇を寄せた。
「前から思ってたけど、君、男を見る目ないよね」
「は?」
くすくすとしながら髭切は「だあって」と続ける。
「まだ覚えているよ、いつかの彼氏。あれ結局彼氏が僕のこと好きになっちゃって」
「……喧嘩を売りに来られたんですかね、今日は、源さん?」
「あはは、違う違う。ただ……いつも、どうしてちょっと苦しくて辛いほうを選ぶんだろうって。ずっと思ってたんだよね」
それ、どういう意味と私が問うよりも先に加州君が私たちを呼んだ。
いつもどうして……。それは、私が女の子に恋をしていることを含めて言っているのだろうか。何も言えなくなり、私はただ立ち尽くす。
席に案内された髭切は、当然のように私の隣に座った。いや、今日の主賓はほぼ彼女である。私はそもそも端の席にいるつもりだったので髭切も自然と末席に来てしまった。私は肘で彼女を小突く。
「痛い痛い、なあに?」
「真ん中に行ってよ。今日の殆どの男の人の目当て、どう考えても髭切でしょう」
自分がちらちらと見られていることに気付かない髭切ではあるまい。変に男の人を引っ掛けられても困るのだけれど、これはこれで。だが髭切と来たらこれ見よがしに私の腕を取って、ずいと体を寄せる。席が掘り炬燵なこともあって、距離はほぼゼロだった。
「何っ?」
「ねえ君、何飲む? 僕どれにしようかなあ」
お品書きを開いて髭切はしげしげとそれを眺める。べったりとくっついた髭切に、私の頬は引き攣った。
「ねえ、前あんまり話せなかったし。二人は高校のときの同級生なんだよね? 今は? 源さんって何やってるの?」
話を振ってきた加州君のほうを髭切はちろりと見る。ちなみに加州君も彼女がいるのだ。人付き合いがよく、こういったことの幹事が得意だから駆り出されることが多いだけ。加州君ならうまい具合に髭切と話して、この引っ付き虫を他の男の人との会話に持っていってくれるだろう。私はやや安堵した。帰りに回収して変な遊びだけしないように見ていよう。
「そうだよ、ねえ。今は普通に、会社の広報さん」
「あー、いそう。源さん美人さんだしね。会社って何の?」
「んーと、宝石とか、貴金属扱う会社」
何故だか知らないが髭切は就職するときそういうメーカーを選んだ。理由を一応聞いたが「なんだか親近感が湧くから」とかよくわからないことを言っていたのだけ覚えている。何なんだ、貴金属に感じる親近感って。しかし加州君は感心したようにへえーなんて言っていた。
「すごいじゃん。で、高校からずっと仲良し?」
私はそれには一応首を振る。
「同級生って言っても、クラス一緒になったのは二年生のときだけだけど。委員会とか部活も一緒じゃなかったし」
「ありゃ、厳密には同じ部だよ。帰宅部」
クスクスと髭切は笑う。それは同じ部とは言わないだろう。私はやや苦笑した。
高校は特に部活が強制ではなかったため、私は何にも入らなかった。だが髭切はたまに呼ばれては運動部とかで適当に一緒になってプレーしていた。体育館なんかでセーラー服のまま、バスケ部に混じってボールをゴールに投げ入れていた姿を覚えている。
「へー、じゃあ運動得意なんだ」
「得意って程じゃないよ。ただたまには動かしておかないと鈍っちゃうからってだけ。それに弟が部活終わるまでの時間潰しっていうのもあったし」
「弟いるの?」
「いるよ、一つ下で。あの子は剣道部で、僕は中学までで部活には入らなくなっちゃったから」
「ちょうどいいじゃん、あそこにいるあいつも高校のとき剣道やってて」
流石加州君、ごく自然な流れで会話を外に持っていった。ほっと私は息を吐く。話してきなよと前置いて、私は自分が加州君の隣に移動することにした。
「ごめん、助かったよ」
「いや別にいいんだけどさ。源さんと話したがってたの他にもいるから回しただけだし。っていうかすごいね、仲がいい友達っていうか、距離感が恋人とかそんな感じじゃん」
その言葉に肩を竦める。昔からスキンシップの多い女の子だった。女同士だからと遠慮がなかったのかもしれないが。
「あんたもちょっと彼氏とでも話してれば? 引っこ抜いてくるからさ」
「あはは、ありがとう」
別にそう話すこともないのだが、この場で一人でお酒を飲んでいるのも空気を白けさせてしまうだろう。それに幹事の加州君をずっと引き止めるわけにもいかない。加州君は言った通り談笑していた彼氏を連れて来てくれたので、適当にひらひらと手を振って私はグラスを空にした。
一応髭切のほうを見てはみたが、普通に笑って話をしている。元々、愛想はいい方なのだ。顔立ちがいいのも相まって、基本的ににこにこしている髭切は人に囲まれやすい。高校のときもそうだったし、恐らく今だって。私なんかたぶん、席が前後しなければ話すこともきっとなかっただろう。
「随分綺麗な友達がいたんだなあ」
そんな風に言われて曖昧に笑う。先程加州君にした「高校のときの同級生」という話を私は繰り返した。それ以外に私と髭切との間のことを説明する言葉がないからだ。
「大学も、当然だけど就職先も違ったんだけどな」
あの綺麗な女の子は、何故だかずっと私の人生で先を歩き続けているのだ。たまに私の手を引っ張りながら。
「九時過ぎくらいにはお開きになるだろうから、何か食べにでも行くか? 明日は休みだし」
まあ、それも悪くないかもしれない。終電前に髭切が帰路に着くところまでは見届けたいが、休日に何か予定があるわけでもない。
しかし「そうだね」と返事をする前に後ろからぐいと腕を引かれた。振り返るといつの間にか髭切がそこに立っている。
「お手洗い」
「え、向こうだよ、そこに書いてあるから」
「一緒に行こうよ」
ずるずると引っ張られて掘り炬燵から出る。慌てて靴を引っ掛けたので、カコンとヒールが音を立てた。
「トイレ位一人で行けるでしょ?」
「ありゃ? 合こんって女の子はこうやって一緒にお手洗い行くものじゃない?」
「偏った知識だなあ」
あははと笑えば髭切も目を細める。手にしていた鞄からルージュを取り出し、髭切はそれを直し始める。特にトイレに行きたかったわけではないらしい。
「それで、合コンはどうですか源さん」
「うーん、微妙? あの剣道やってたって子、弟より弱そうだった」
「膝丸君と比べるのは可哀想すぎるからやめてあげて」
レベルが高すぎる。姉と弟なのもあるからか、髭切と膝丸君の顔はよく似通っていた。双子と言われても通用するだろう。それ故に膝丸君は高校のときからよくもてていたし、剣道が強く運動もできたことはそれに拍車を掛けていた。それと比べるのは流石に不憫だろう。
「いつも膝丸君が傍にいるから髭切は目が肥えちゃってるのかなあ」
「ふふ、どうかなあ。でも弟もあれで奥手だから困ってしまうよね。だから彼女の一人もできないんだよ。真面目すぎるのがよくないのかな」
「それはちょっと言えてるかも」
今頃膝丸君はクシャミでもしているのではなかろうか。つい先日困ったように眉間に皺を寄せていた姿を思い出して笑ってしまう。
「そう言えば今日膝丸君は?」
「ん? あー、帰る時間だけ連絡してくれって言われたねえ。迎えには来なくていいよって言ってあるけど」
「膝丸君が彼女できないのたぶん髭切の面倒見てるからもあるよ。ちゃんと彼氏作るか、変な遊びやめるかしなね」
髭切は黙ってルージュを中に放り込み、鞄の口を閉めた。色が白い髭切には赤いルージュはよく映える。
「……甘いものが食べたいなあ」
「え?」
「君の家の近くに、ふぁみれす? あったよね。あそこのぱふぇ食べたい」
急にどうしたのだ。いや確かに、髭切はあのファミレスのパフェが好きで、前に一人で二つくらい食べていたときがあったが。いつも思うのだが、この細い体のどこに大量の食べ物が納まるのだろう。髭切はよく食べるほうだった。
「パフェは無理だけど、ここも甘いものくらいあったよ。頼めんだら?」
「あれが食べたい。行こうよ。明日はお休みだもの、遅くなっても大丈夫だし、君の家も近くだし。女の子同士で行くとちょっと安くなるんじゃなかった?」
「いや、私このあと」
このあと、とそこから先が言えなくなる。ぎゅっと手首を掴まれた。
「一緒に行こうよ」
……いつも、そうなのだ。髭切はどちらかと言えば奔放で、ちょっと我儘なところがあって。それは自分のしたいと思ったことはすぐに正直に口に出すからかもしれない。
でも、無理には事を進めない。私が本当に嫌だと思うだろうということは、言わないししようとしない。自分の要求も、最後には私に決めさせる。私が選ぶのを、手だけ伸ばして待っている。
「彼氏と、ご飯食べに行く約束、しちゃったの」
顔を上げることができなかった。細い指が私の手首を掴んでいるのをただ見つめる。爪は淡いピンクに塗ってあった。丸く形の整った爪。
「……そう」
するりと白い手が離れる。カツンと華奢なヒールが音を立てた。視界の端の方でワンピースの裾が翻るのが見える。お揃いで買おうと、髭切が言ったワンピース。
九時頃に合コンはお開きになった。二次会に行くかどうか加州君は一応聞いてくれたけれど、私は首を振る。それには加州君も「彼氏一緒だもんね」と深くは追及しなかった。髭切はと言えば、同様に加州君が声を掛けたが「ううん」と手を振っていた。
「弟がねえ、心配性で」
そんな風に言う声だけが聞こえた。
最初、それはただの、憧れだと思っていた。
綺麗な女の子。頭も良くて、スポーツもできて。よく笑って、いつもきらきらしていた。目立つ女の子は今までもたくさんいたはずなのに、何故だかいつも髭切は一際よく見えた。
今日は天気がいい。電車に揺られながら、ぼんやりと高校三年生の春を思い出す。同じようによく晴れた日だった。
「ありゃ? どうしたの? なんだか元気がないね」
始業式が終わって、午前中で学校が終わったはずなのに源さんは階段に座りこんでいた私のところにやってきた。三年生になって、私と源さんはクラスが離れたのだ。ちょっと残念なような、ホッとしたような不思議な気持ちだった。けれど何故ここに。
私がいたのは教室の傍でも何でもない、外に開けた階段。それも最上階の四階から上に続くこの先には何もないような場所だ。普通生徒は室内にある方の階段を使うのに。
「……今日、膝丸君部活だっけ」
「ううん。今日君の顔を見ていないなあって思ったから、どこにいるかなって探してたんだよ。よいしょっと」
私の隣に源さんは腰を下ろした。春先の心地いい風が源さんの髪とスカーフを揺らした。始業式のためか、中身に特に何も入ってなさげな鞄を傍らに置くと、軽い音がした。
「クラスが離れてしまったねえ」
「源さん頭いいから。上級のクラスに行っただけでしょ、志望校もいいとこだし? 私とはレベルが違うから。進路指導のときそういうアンケートあったじゃない」
「なんだ、あれそういうのだったのかあ。そんなに気にしなかったから適当に答えてしまったよ。なら君と同じにすればよかった」
何を言っているのだ。私は呆れて肩の力を抜く。しかし源さんは本気でそう思っていたようで、何も言うまいと口を閉じた。
源さんは不思議だ、二年生の頃からそうだった。頭はいいけれど特にいい大学に行きたいなんて願望はないし、もっと言えば勉強したいこともそうなさそうだった。いい成績を取るのは得意なのに、その目的がよく見えないというのだろうか。とにかく成績や進路に関する頓着が一切感じられないのだ。
「高校生っていうのもあと一年だろう? だったら君と同じがよかったなあって。大学は一応、君のいういいとこ……に行こうと思ってるから」
「意外だなあ、そういう目標はあったんだ」
「んー、まあ。いい大学に行ったほうが就職ってしやすいんだろう?」
やっぱり変わっている。なんだか他人事のように自分の進路を話している。
まあ指摘したところで仕方がないので、私はそれに関しては放っておいた。ふうと息を吐いて自分の膝に頬杖を突く。そよそよとした春の風は気持ちがいい。
「それで? 君はどうしてこんなところにいるの? お腹空かないかい? 僕はもうペコペコ」
「お昼前だもんね」
「そうだ、ご飯を食べに行こう。今日はまだ早い時間だもの。寄り道して帰っても問題ないよね?」
うーんと私は首を傾げる。気乗りがしない。そんな私の様子を見て、源さんも同じように首を回した。小鳥のようだと思った。
「やめとこうか、なんだかそんな気分じゃなさそうだし」
「ごめんね」
「ううん、いいよ。やっぱり君は元気がないみたいだから。どうしたんだい」
「……別に、どうってわけじゃないんだけど」
強いて言えば、風に当たりたかったのだ。頭をすっきりとさせたかった。そうすればこの言いようのない不安が取りされる気がして。
「今年はもう受験生だし、進路への心配って言っちゃえば楽なのかもしれないけど。でもなんだろうな、ぼんやり」
このままでいいのだろうかという漠然とした気持ち。きっと皆同じように抱いている感情なのだろう。だがなんとなく、ちょっとそういうものから解放されたくて。
私のぼやきに「ふふふ」と源さんは笑った。しかしそれは茶化しているような様子でも、馬鹿にしているようでもなく不快感はない。むしろ心地よかった。穏やかでゆったりとして、優しい笑み。
「いいじゃないか。それってやっぱり、君が生きてるって証だもの」
「生きてるって、そんな大袈裟な」
「でもそうだろう? 君が一生懸命生きている証、自分の問題に向き合ってる証。君はいつも、真っ直ぐものごとを良くしようと努めている。そういう不安だから、無駄じゃないよ」
こつんと肩がぶつかった。服からなのか、髪からなのか、甘い匂いがほんのり鼻を擽る。
「……そう、なのかなあ」
「そうだよ。僕は君のそういう生きてるところがとても好きだなあって、思うけどな」
頬と耳とが一気に熱くなるのがわかった。どうしてそんなにシンプルに、惜しげもなく好意を示すのだろう。源さんはいつもそうだった。制服のスカートをぎゅっと握りしめた拳を上から源さんが包む。
「だから悩んだら、僕に話してね。クラスが別々になっても、僕たち仲良しなんだもの。今日みたいに不意にいなくなってしまったら僕、寂しいなあ」
猫のように源さんは私の頭に自分のものを擦りつける。胸のあたりにぼんやりとあった不安が溶けるようになくなって、私はふうと息を吐いた。
「お腹空いてるなら、購買でパンでも買う? もうちょっとなら、開いてると思うよ」
「おお、いいねえ。僕好きだよ、購買のくりいむぱん。行こうか」
源さんは私と手を繋いだまますっくと立ち上がる。それから中身の殆ど入っていない鞄を掴んで階段を降りはじめた。その陽気な足取りにつられるように一緒に笑って、私もその階段を離れる。春の温かい日和だった。
朗らかな微笑みとふわふわの金色の髪と、紺色のセーラー服で一層映えた白い肌。あの子がどうして私を友達に選んだのか、今でもちょっとわからない。けれどクラスが変わっても、やっぱり髭切はどこからか私を見つけて「おーい」と手を振った。大学に入っても、それは変わらなかった。就職したら流石にもう接点が減るだろうと思っていたら、今度は家に泊まりに来る頻度が増えた。
「女の子同士だもの、お泊りしても、一緒に夜更かししても、お風呂に入っても大丈夫。お揃いのお洋服や下着も着られる。同じお化粧もできる。僕たちずっと、一緒にいられるね」
髭切がそう言って笑う度に、私は本当はずっと、怖かった。
自分がこの綺麗な女の子に恋をしていることが、怖かった。
「僕はそれでも、君のことを好きになるよ」
にこりと髭切が笑う。でもなんだか、いつもより背が高くて、それに……。
「おーい、大丈夫? おーい、起きて」
「わっ」
パンと目の前で手を軽く叩かれ、びくりと肩を震わせる。ハッとすれば加州君が手を合わせた姿勢のままでこちらを見ていた。
「あは、居眠り? 何、夜更かしでもした?」
「ご、ごめん、ちょっとぼーっと」
「さっきメールで送った書類をさ、チェックしてほしくて。返事がないからもしかして埋もれたんじゃないかなーって思ってさ」
「うわ、そうかも。待って今見る」
確かに、そういう連絡が来ていた。申し訳ない、これじゃあ何のためのメールだかわからないではないか。焦ってファイルをダウンロードする。
「なに、土日デートでもしてた?」
にやにやとからかうような顔の加州君に首を振る。そんなのではない。金曜の合コンのあとも、彼氏とは普通にご飯を食べて別れた。
「そんなんじゃないって……ちょっとぼんやりしちゃっただけ。ごめんね本当に」
「ふーん? あ、ねえあんたの友達の源さん?、何人かがやっぱり連絡先知りたがってさ。一応なんだけど聞いてみてくれない?」
「あ……うん、いいよ」
たった二日しか日も経っていないけれど、髭切とは連絡を取っていない。スマホを取り出して、メッセージアプリを開いたものの、私はそのまま何もできなかった。そんな様子を見てか、加州君が心配そうに顔を覗き込む。
「無理しなくていいよ? 女友達同士だってさ、色々あるじゃん」
「ううん、いや、そういうんじゃなくて」
何故躊躇う。少なくともこの間の合コンに来ていた男の人たちは変な人たちじゃない。髭切に紹介しても申し分ないだろう。悪い遊びをされるよりよっぽどましな筈。それに、まともな彼氏を作ってくれれば膝丸君だって安心するはずで、そうしたら私も。
「……ごめんね、次に会ったとき、聞いておくから」
私はそう答えるので精一杯だった。
女の子同士なら、いつまでも一緒にいられる。その通りだ、間違っていない。友達なのだ。私と髭切は、高校時代からの友達。大人になってもそれは変わらなかった。でもどうしてだろう。大人になればなるほど苦しくなる。やめようと思えば思うほど辛くなる。離れようとすれば、あの後ろ姿は振り返ってこちらに手を伸ばすのだ。
そうして、私がそれを取るのを待っている。
「おかえりー」
ずるりと脱力してしまった。リビングで完全に寛いでいる髭切がひらひらと手を振っている。なんでだ。持ってきたのか買ったのか、真新しい部屋着でソファに座り、髭切はテレビを見ていた。
「ひ、げきり、なんっ、なんでここに」
「君ねえ、近頃物騒なんだから。鍵を置くところをいつも同じにしては危ないんだよ」
「……あ!」
玄関に戻って靴箱の上の鍵置きを見る。スペアキーがなくなっていた。笑顔の髭切の手元ではちゃりちゃりと鍵が鳴っている。嘘だろう、まさかこの間帰るときに持ち去ったというのか。
「それ犯罪! 犯罪だから!」
「あはは、まあ僕相手でよかったよね。早く座りなよ。あ、ねえ君服のサイズ変っちゃいないよね? これ僕とお揃い。着替えて着替えて」
髭切は楽しげにショップの袋を押しつける。私は頭がくらくらとした。
「何しに、えっ、何しに来たの……」
「ん? あ、今日からしばらくね、僕君の家に泊まろうと思って」
「はあっ?」
今度こそ立っていられなくなって崩れ落ちかけた私の手を髭切が掴む。なんで、と聞く前に髭切はにこりと微笑んだ。
「安心してね、ちゃんと弟には言ってきたから」
「そういう問題じゃ、大体なんで」
「だって君が、彼氏なんて作っちゃうから」
だって、それは。
忘れようと思った。もういい加減に、あの憧れから目を覚ましてもいいはず。やめてしまいたい。こんな不毛な恋をもうおしまいにしてしまいたい。もう何年もそれは思い続けたこと。それは決しておかしなことではない。それなのに。
「……大丈夫、一月したら、出て行くから」
ね、と髭切は鼻を擦りつける。そんな風に頼まれて私が断れたことがないのをわかっていてするのだからもうあまりにもたちが悪い。
「……光熱費、半分出してもらうからね」
そう答えれば髭切はパッと顔を明るくする。それからがばりと思いきりこちらに抱き着いた。重い、それから胸元の圧がすごい。
「ご飯とか家事とか、半分こしようね。ふふふ、明日から楽しみだなあ。ほら、今日は早くお風呂に入って寝てしまおう!」
一か月、一か月耐えればいいだけだ。そうしたら本当に全部忘れて、今度こそ。
ああでもなんだっけ、ぐらぐらとする私の頭に一つ諺が浮かぶ。そうそう、高校の授業で習った。
悲しいことに、焼け木杭には火がつきやすいのだ。