【6/30JBF2024サンプル】いとしのあるじ【通販予約開始】
「えっ、ほ、ほんと?」
村雲の年齢はおおよそ七〇〇歳かそこらである。南北朝だか鎌倉だか、打たれた時期に諸説あるがざっくりそのくらいなので大まかに計算するならば、七〇〇歳程度。だがこの肉体の外見年齢ならばおおよそ青年と言えて、もっと言及すると顕現してからはたかだか片手で足りるほどでしかない。だから耳は遠くないはずなのだけれど、一応確認した。聞こえてきた返事が到底信じられなかったからだ。
「うん、私も雲さんのこと好きだよ」
けれどもう一度そう繰り返してくれた彼女は、少し照れくさそうにはにかんでさえいた。その表情がとても可愛かったので村雲は上着に入れていた通信端末で写真を撮りたいと思った。勿論そんな余裕はなかった。
本当はもう一度返事を確かめたかったところだけれど、あまり聞き直すのも良くない。しつこく聞いて気が変わったりしたら嫌だ。したがって村雲はひとまず自分の耳を信用することにして、おずおずと緊張して強張っていた腕を上げて彼女の手を握った。手を取るくらいなら仮に返事が聞き間違いだったとしても、これまでだってしていたことだから嫌がられないはずだ、たぶん。
村雲が恐る恐るそうすると、彼女はそのまま村雲の手を握り返した。いつものことながら、その力が弱いことに村雲は慄いた。当然全力の握力をもってしてそうしているとは思えないけれど、それにしたって、人間、しかも女性、か弱い。
「あの……えっと……ありがとう……」
何か言葉を返さなければと思いつつ、何と言ったら良いかいまいちわからず、村雲は結局ただ彼女に礼を述べた。それが一番無難で的確な返答だと思った。すると彼女は笑ってくれたので、自分の判断は間違っていなかったらしいとホッとする。
「ううん。じゃあ、これからよろしくね」
「う、うんっ!」
気の利いた一言も言えない代わりに、村雲は何度も首を縦に振る。恐らく顔も引き攣っているだろうから、せめて自分が今現在この上なく喜んでいるということを彼女に伝えたかった。そして幸いにもそれをちゃんと彼女はわかってくれたようで、彼女はくすくすとして「そんなに振らなくても」と言った。可愛かった。動画で撮りたかった。
とにもかくにも、村雲はなんとかかんとか彼女の恋刀になった。そうして当然その晩はかなり幸せな気持ちで村雲は寝床に入った。
しかし一晩経って目が覚めると、彼女がどうして自分を選んでくれたのかさっぱりわからないことに気づいたのだった。
自分がかなり面倒臭く、かつ様々な意味で「重傷」であろうことは村雲も流石に自覚している。だがこれは仕方なく、その上どうしようもないことなのである。
「だってしょうがないだろ、一目惚れだったんだから!」
「うん、おめでとう」
雑に返事をしてくれたのはたまたま江の共用部屋に在室していた松井である。江も今は増えに増えて八振。この間部屋替えがあった。とはいえ別にバラバラに離されたというわけではなく、それまで篭手切と豊前、そして松井と桑名に五月雨と村雲の六振でかなり無理矢理使っていた部屋を江の共用部屋として使えるようにし、近接した四部屋に稲葉と富田を含めた二振ずつの部屋割りに変えたのだ。
本丸もかなり大所帯になって、部屋は広く使いたいが仲の良い者同士で離れるのはちょっと……という意見が様々なところで合致した結果である。村雲のような内向的な刀にとって、共用部屋の存在は大変ありがたかった。人恋しい、もとい刀恋しいが大広間に行くとあまり話したことがない刀ばっかりで緊張してしまうというときにちょうどいいのである。
今日村雲に割り当てられた食器洗い当番も終わった昼下がり、共用部屋にはノートパソコンを触る松井の姿があった。それで村雲は今朝からちょっと胸の内でもやもやとしていたことを言ってみたのだが、これである。松井は村雲の話を聞いているやらいないやらわからない。
「ちゃんと聞いてよぉ!」
「聞いているよ。でも交際一日目じゃ惚気るには早いと思わないか」
「惚気てない! やっぱりちゃんと聞いてない!」
自分の話を聞いていてどこが惚気になるのか。そう思って村雲はワッと声を上げたのに、松井は片眉を上げてやはり面倒くさそうにした。
「聞いていたよ。主と交際することになった、一目惚れだったから嬉しい、これのどこが惚気じゃないんだ。よかったね、毎日ここでウンウン唸っていたのが報われて」
「違う、大事なのはそこじゃなくてその前! 主はなんで俺選んでくれたのかな、わざわざ負け犬の俺選ばなくてもよくない? 普通二束三文じゃない刀を選ばない?」
どうして昨晩のうちにこんな重大な懸念点に気づかなかったのだろう。まあそれは村雲が浮かれ切っていたからなのであるが、今はいい。とにかくこれは早いうちに解決してしまいたい問題だった。だが同時に、村雲はそれを明らかにしてしまうのが非常に恐ろしかった。
だって、それが理由で「やっぱり」と断られてしまう可能性だってあるではないか。
「うぅ、それは嫌だ、お腹痛くなってきた」
「一人で何唸ってるんだ。主がそんなこと気にしたことなんか一度もないだろう」
呆れた風で松井が言い、遂にノートパソコンの蓋を閉じた。どうやら本腰を聞いてくれるようで、村雲はホッと息を吐く。
「だって、だって、主がどうして俺のこと選んでくれたのかわからないし」
「じゃあ聞いてきたら。はい解決」
「聞けるわけ……ないだろ! もうちょっといい方法考えてよぉ松井」
「なんで僕がそんなこと」
村雲が肩にしがみついてグラグラと揺さぶっても、松井はややげんなりした様子でされるがままでいるばかりだった。村雲だって自分の主張や問いかけがかなり面倒なことはよくわかっている。わかっているが助けてほしい。これまでだって散々助けてもらっているのだけれど。
そうして喧々諤々していると、畑から戻ってきた桑名が帽子を取りつつ部屋に入ってくる。もうだいぶ日差しが温かくなってきていて、桑名は額の汗を乱雑に拭いながら笑った。
「あれえ、二人で何してるの」
「村雲の犬も食わない話を聞いてる」
「違うってば、俺は本当に困ってるの!」
べそをかいて村雲が声を上げると、松井と桑名は顔を見合わせて肩を竦める。本当に、真剣に、話を聞いてほしい。
大変恥ずかしいことながら、村雲が審神者に恋心を抱いているのは江の間では周知の事実であった。無論村雲が自発的に言いふらしたわけではない。気がついたら皆知っていたのだ。それがわかった時点で村雲は一度心が折れそうになったものだが、開き直った村雲はとても図太かった。同じ江のものならば、どれだけ泣きついたっていいはずである。元来世話好きの篭手切をはじめとして、江のものは全員なんだかんだ面倒見がよかった。それもあり、村雲はここまでもかなり皆に助力してもらってきたのだ。
「とは言ってもね……昨日の今日とは言え、村雲と主はもう恋仲なわけだから。村雲がただ主に思いを寄せているならまだしも、二人のことは二人で話し合って解決するのがいいと僕は思うけど」
ちゃぶ台の上に頬杖を突きながら松井がそう言った。その至極真っ当なご意見に、村雲はウッと言葉を詰まらせる。厨から持って来たらしい冷えた水の容器の蓋を捻りつつ、桑名もそうだねえと相槌を打った。
「これから先は、村雲と主の問題だからね。蔑ろにされるのは、主も気持ちがいいものじゃないんじゃないかなあ」
「な、蔑ろにしてるわけじゃ、ないけど」
松井と桑名の主張はもっともなもので、村雲とてそれが非常に正しく、そうするのが一番であることもよくわかっていた。というよりも彼女と話す以外他に解決策はない。とは言えである。
「そ、それで主に嫌われたらどうすればいい?」
「嫌われたらって、ねえ……」
「だって、だって嫌われたくない!」
思えば本当に、村雲が彼女にアプローチを掛けている間考えていたことは、ただただそれだけだった。
なんとかして振り向いてほしかった。ずっとずっと、村雲は彼女の背中だけを見つめ続けていたから、少しでも長く自分だけを見つめてくれるように、ひたすらに嫌われないように立ち振る舞って来た。執務室に居られるいい口実になったので、彼女の事務仕事の手伝いは積極的にした。けれどそのときでさえ煩わしくないように細心の注意は払っていた。彼女に頼まれた任務だからと出陣も遠征もできる範囲で努めてきた。まあ、お腹が痛くなればちょっと甘えに執務室に行ったりもしたけれど、それでも彼女の邪魔にならないように細心の注意を払っていたのだ。
そのくらい、村雲はこれまで彼女の自分に対する好意がちょっとでも欠けたりしないようにしてきた。とにもかくにも村雲は彼女に少しも嫌われたくなかった。
やや痛み始めた腹を押え、青ざめた顔でかつ早口で村雲は言う。
「今の俺には主は雨さんと同じくらい大事だし、俺にとって全てと言っても過言じゃない」
するとそれを聞いていた松井は再び息を吐いた。隣の桑名もうーんと首を傾げる。
「村雲、重いよ、どう考えても」
「気持ちはちょっとわかるけど、主も困るかもしれないから過言であってほしいねえ」
「とっ、とにかく主に嫌われたくないんだよ! 余計なこと聞いて面倒くさいとか思われたくないし、やっぱり付き合うのやめとこうとか言われたら、う、うぅ、お腹痛い」
きゅうと情けなく鼻を鳴らし、村雲は膝を立てて蹲る。腹痛が過ぎてやや吐き気まで催していた。
ここには、国宝やその他の文化財だけではない、名だたる人物の持ち物であった刀もたくさんいる。美しく立派な経歴の名刀ばかり。そんな中で村雲は、数段見劣りする刀なのだ。元の主は悪人、金銭的には二束三文。村雲を表す言葉はそんなものばかりだ。勿論ここで誰かが村雲のことをそんな風に言ったことも呼んだこともない。だがそれだからと言って、村雲への下馬評がなくなるわけではない。
だったらせめて、行動だけでも彼女にとって悪いものになりたくない。つまり村雲は彼女にあまり面倒くさいことを言ったりしたりしたくないのである。
「あーあ、村雲、大丈夫?」
桑名の広く分厚い手のひらが村雲の背中を撫でた。村雲はそれに力無く首を振る。視界の端で、松井の青い瞳が困ったような視線をこちらに向けているのがわかった。
「……じゃあもう、これまで通り主に接して様子見をしたらどうだい」
唇を人差し指でなぞりながら松井が言った。村雲はやや頭をもたげてそちらを見る。表情こそ呆れているけれど、あれは松井がきちんと物を考えているときの仕草だった。
「これまで通りって?」
「今までと変わらずにってことだよ。とりあえず、恋仲になることを了承してくれたってことは、今までの村雲の行動なり言動なりは主にとって好ましいものだったってことだろう。だったらこれまで通りにしていたら、少なくとも嫌われることはない。主だって、村雲の引け目は重々承知してるんだから」
村雲はじっと自分の膝を見つめた。桑名は変わらずに優しく背中を擦ってくれている。
「いきなり何もかも解決するのは無理だ。だからいくらか時間が経って、村雲も自信を持てたら、改めて主になんで自分を選んでくれたのか聞けばいいだろう。今は主に別れを切り出されるようなことをしたくなくて、ひとまず関係を維持することを最優先にするなら、それがいいんじゃないかい」
松井の言っていることは、何も間違っていないように思えた。彼女に理由を聞くことと、苦心してこぎつけた恋仲という関係を続けることのどちらを優先するかと言えば後者に決まっている。村雲だって藪を突いて蛇を出したくはない。
眉を下げて村雲が押し黙っていると、桑名が体を傾けこちらを覗き込んだ。それから笑って大きな口を開く。
「主だって、考えもなしで適当に村雲に返事をしたんじゃないと思うよお。そういう子じゃないって、村雲も知ってるでしょ?」
「それは、もちろんわかってるよ」
「だったら別に、何も今すぐ全部明らかにすることないんじゃないの? 主は主の考えがあって、村雲に返事をしてくれた、今はそれでいいんじゃない?」
昨夜のことだ、まだはっきりと覚えている。いや、たぶんこれからもっと時間が経っても、忘れないだろう。彼女は村雲に「好きだよ」と言ってくれた。少し照れくさそうにはにかんで、それでもしっかりとそう口にした。あの彼女の表情や声を疑いたくない。
今は、それが全てなのではないだろうか。どうして自分なのかはわからなくても、自分に向けてそう言ってくれたということだけは確かなのだ。
鼻を啜って、村雲は抱えた膝の上に顎を乗せる。持ち直す……とまではいかないものの、気持ちは少しばかり落ち着いた。
「そうだね……わかった、聞いてくれてありがとう松井、桑名。取り乱してごめん」
村雲がそう答えれば、松井はホッとした表情で肩を竦め唇を弄っていた手を下ろした。
前向きにとらえるのであれば、今の村雲はこれまでと打って変わって「彼女の恋刀」なのである。後退はしていない、かなり大きな一歩を踏み出している。だったらひとまず、この立場を盤石にした方がよさそうだ。そうすれば、彼女だって村雲が傍にいた方がいいと思うようになってくれるかもしれない。いや、なってほしい。
「……もうちょっと頑張って恋人として認めてもらえたら、後になって負け犬が嫌になっても主、絆されてくれるかなあ」
「言いかたがまずいねぇ」
「だから重いよ、恐ろしく……」
松井の呆れ返った声と同時に、壁に掛けられていた時計が夕方五時を告げた。それに村雲はパッと立ち上がる。つい先ほどまで吐き気まで伴って痛んでいた腹はもうすっかり大人しくなっていた。
「主のお仕事終わったから会いに行ってくる!」
この本丸では、審神者が仕事をする時間は厳密に決められているのだ。朝九時から、夕方の五時まで。だから何事もなければ、彼女はもう自由時間のはず。
村雲のあまりの変わりに身に松井は呆気にとられたものの、すぐに息を吐いて再びノートパソコンの蓋を開く。桑名も話は終わったと判断したのか戸棚から帳面を引っ張り出し始めた。
「現金だなあ、行ってらっしゃい」
「よろしく伝えておいてねえ」
「うん!」
ととと、と軽やかに村雲は廊下を速足で進んだ。今朝は色々考えていたのもあって当たり障りなく挨拶をしたくらいで、今日はまともに彼女と話していない。
この本丸で近侍を務めているのは、彼女の始まりの一振である加州清光である。刀剣男士歴が当然最も長い加州はとっくに極の修行を終え、本丸内最高の練度を誇っており、彼女の手伝いも卒がない。それがわかっているので流石の村雲も彼女に自分を近侍にしてほしいとは言えなかった。否、本当は少しねだろうとしたこともあったが、執務室での加州を見ていて、それに代わる近侍としての重圧に耐えられそうになかったので渋々諦めたというのが正しい。そして現状、村雲を近侍にする利点が全く見当たらなかったというのも理由にある。いくら村雲が彼女の傍にいたくとも、そのために彼女の仕事の邪魔をするわけにはいかなかった。それにそんなことをして彼女に嫌われたくもなかった。結局はそれなのである。
執務室が近づき、村雲はちらりと部屋の襖の手前に固定された板に視線をやった。そこには「在室」と書かれた青い札が引っかかっていたので、村雲はホッと息を吐く。あの札はひっくり返すと「不在」と書かれた赤い札になり、彼女が見回りなどで留守にしているときに行き先が書かれた紙と一緒にぶら下げられることになっている。つまり今はひとまず中に彼女がいるということだ。
「おっと」
「うわっ、あっ、ごめん」
室内に顔を出そうとすると、丁度出てこようとした加州清光とぶつかりそうになった。同じ打刀とはいえ、村雲と加州とでは身長と体格が違う。急に立ち止まった加州がややよろめいたので、村雲は慌てて加州の腕を掴んだ。加州の反対の手には何やら書類が握られている。
「なんだ、村雲じゃん、ありがと」
「ご、ごめん、大丈夫?」
「へーきへーき」
体勢を立て直すと、加州は赤い瞳でこちらを一瞥した。それに村雲はややドキリとする。村雲はしょっちゅう執務室に顔を出していたため、加州から「またあ?」と言われることもたまにあった。今日は一応、仕事の時間外に来たのだから大丈夫だと思いたいけれど、加州に苦言を呈されてしまうと、村雲は帰らざるを得ない。
だが加州はすぐに視線を手に持っていた書類に戻した。それからサッと村雲とすれ違う。
「主、今日はあともう何にもないから平気だよー」
「え、あ、うん、ありがと……」
あれ、と村雲は拍子抜けした。何も言われなかった、こんな仕事が終わってすぐの時間にやってきたのに。
「加州、どこまで知ってるんだろ……」
思わずそうぼやいて、村雲ははたと気づいた。加州は、どこまで知っているんだ? 彼女が加州に昨夜のことを報告していたとして、全て知っていて今の反応だったのだろうか。彼女と加州とは無二の関係である。彼女が話してしまっていても何もおかしくはないが、それはそれで恥ずかしいやら気まずいやら。
そんなことを考えていたら、やや再び胃がキリキリとしてきたので村雲は鳩尾の当たりを押えた。そうして村雲が立ち尽くしていると、執務室の襖の向こうから彼女の顔が覗く。
「どうしたの?」
「ぅ、えっ、わっ!」
予想外に彼女の顔を見てしまったので、村雲は叫んで飛びのいた。そんな過剰な村雲の反応にももう慣れているのか、彼女はにこにこしたままもう一度尋ねる。
「全然入って来ないから、どうかした?」
「お、おれ、あの、お仕事、おわったとおもって」
いつもよりも言葉に詰まって、村雲はわたわたとしながらそう言った。彼女は村雲を急かすことも煩わしそうにすることもなく、一つ頷く。
「うん、終わったよ。入る?」
「う、うん、入る! あの、お疲れさま」
「ありがとう」
昨日までと全く変わらない調子で、彼女はそう言うと執務室に戻って文机の前の座布団に腰を下ろした。それから村雲にも一枚座布団を差し出す。いつも彼女が仕事に使っているノートパソコンは既に電源が切られて画面が暗くなっていた。
「お茶飲む? おやつはもうすぐ夕ご飯だし、やめておこっか」
「あ、お、俺が淹れるよ、お茶、主は座ってて」
「え? いいよ」
「いいから、いいから座ってて」
一度座ったものの、村雲は立ち上がって部屋にある湯呑やら何やらを取った。お湯を注ぐだけの煎茶が戸棚にあることを知っているので、扉を開けてそれも取る。部屋に来ただけなのになんだか落ち着きなくバタバタしていると思いつつも、村雲は二つの湯呑にお湯を注いで文机まで戻った。
「ありがとう」
「ううん、今日もお疲れさま」
彼女の「営業時間」は朝の九時から夕方の五時まで。曜日もちゃんと決まっている。月曜から金曜まで、現世でいう「平日」がそうらしい。現世で暮らしたことのない村雲にはあまりピンとこないのだが、現世の人間はそうして働いているのだ言う。それだと働く日が五日に対して休みは二日しかないがそれでもいいのだろうか。計算が合わない。
しかしとにもかくにも、彼女がこの執務室で刀剣男士の応対をしたり、事務仕事をしたりなんだりする時間はそうして決まっている。どうしてそうなったのか詳しい経緯を村雲は知らないのだが、本丸を立ち上げて暫くしたときに加州がそういう風にしたらしい。そうでないと交代で出陣する自分たちと違って主は際限なく働くことになるから、だそうだ。
村雲が差し出した湯呑を受け取って、彼女はもう一度ありがとうと繰り返す。
「雲さんは今日変わったことなかった? 出陣が一回と、食器洗い当番だっけ。宗三の部隊だったよね。負傷の報告とかはなかったと思うけど」
「うん、平気。賽子の出目がちょっと悪かったけど」
「あー、確かに、ぎりぎりで逸れちゃったね。残念だったけどしょうがない、無理しないのが一番だから」
敵の本拠地を目前にして賽子に振り回されたので村雲はやや不完全燃焼だったのだが、彼女はそう言って笑ってくれたのでどうでもよくなった。ついでにやはりそんなところも写真に撮りたかったけれど、流石に本人の前でおもむろに通信端末を取り出す勇気はなかった。
そうして何となくいつも通りの他愛もない話を彼女としつつ、村雲はまたやや悩んだ。
恋人同士というものは、どういう風に接して、一体全体二人で何をすればいいのだろう。しまった、さっぱりわからない。だがそれも当然である。村雲の顕現年数は片手で数えられる程度。恋人同士が何をどうするのかなど知識も前例は勿論知識もない。無論刀であった頃のぼんやりとした見聞はあるが、今と時代が全く異なる。あれを彼女に当てはめていいかは甚だ疑問だ……というか駄目だろう。
「雲さん? どうかした?」
「えっ、あっ、いや、何でもない、何でもなくて」
思わずぎゅっと湯呑を握り締めたまま硬直してしまっていたので、村雲は慌ててやや温くなった煎茶を喉に流し込んだ。しかしその勢いが良すぎたのか、変なところに入って噎せる。
「げほっ、げほ、んぐ」
「うわ、落ち着いて、ゆっくり飲んで」
カンと彼女も持っていた湯呑を机に置いて、村雲の背中を撫でてくれる。せめて執務室を汚さないように口を手で押さえながら、村雲は必死で呼吸を落ち着かせることに集中した。
「はぁ、うう、ごめん、変なとこ入った」
「大丈夫? ほら口拭いて」
彼女が小さい子どもにするように布巾で村雲の口元を押えた。恥ずかしい、情けない。でも構ってもらえてほんのちょっと嬉しい。色々ないまぜになり、村雲は肩を落として「ごめん」と繰り返す。
「いいよ、気にしないで。ごめんね、急かしちゃったね」
「ううん……お、おかわりいる? もう一杯淹れようか?」
せめて何か貢献したかったので村雲はそう提案したけれど、彼女は首を振った。
「ありがとう、でもそろそろ広間に行って夕飯の配膳手伝わないと」
「あ、そっか……」
無為に時間を過ごしてしまった……。村雲はやや肩を落としてしまった。いや、彼女とのお喋りが無為だというわけではないが、これでは昨日までと全く変わらない。せめて片付けだけでもちゃんと、と村雲がお盆に湯呑を戻していると、それをじっと眺めながら不意に彼女が言った。
「今週末のお休みどこか行く?」
「……え?」
どこかって、どこに、二人で?
様々に聞きたいことはあったのに、村雲はてんで別なことを言った。
「どっ、土曜? 日曜がいい?」
彼女の休日は、一週間にその二日だけ。だから「今週末のお休み」が指すのはそのどちらかである。すると彼女はやや考えて答える。
「えーっと、でも土曜は雲さん遠征部隊に入れちゃってたから……」
「でも、でも午前中だけだったから、午後はなにもないし」
その遠征は朝一の出発だったから昼過ぎには戻っているはずだ。だから出掛けようと思えば行けるはず。けれど彼女は首を振った。
「だめ。遠征って言っても疲れるんだから、土曜の午後は休んで。日曜にしよう、非番だったよね」
「うん!」
そうか、恋人同士なら二人で外出していいのか。いいことを聞いた。他でもない彼女が提案してくれたことなので、これなら間違いがない。
そして同時に村雲は今日一番安堵していた。こんな提案が彼女の方から出たのだから、彼女にも村雲と「恋人同士」であるという認識が存在しているということだ。よかった、彼女があまりにも普段通りで落ち着いているので、浮かれている自分だけがそう思い込んでいるだけの可能性も疑った。
「どこに行こっか。あんまり人ごみじゃ、雲さん疲れるかな」
「平気……ではないけど、落ち着いてるとこの方が嬉しいかも」
あまり人が多くて彼女とはぐれても嫌だ。そう思って村雲が言うと、彼女は微笑んで頷いた。
「わかった。私も混んでるところは苦手だから、考えておく」
「あっ、ありがと」
彼女はサッと村雲が茶器をまとめたお盆を手に取ると、そのまま村雲に促す。ここには流しがないので、片付けるなら厨に行くしかない。
「じゃあ広間に行こ。お腹空いてきたね」
「う、うん」
パチンと彼女が執務室の明かりを消した。晩御飯何かなあと歌うように話す彼女の半歩後ろを村雲はついて歩く。今日は水曜でまだ週を折り返したところなので、日曜まではあと四日もある。
その間上手く眠れるだろうか……。村雲は楽しみな出来事の前日は全く眠れないほうなのだ。それにすべてを彼女に任せっぱなしにしてしまっている。外出を言い出してくれたのも彼女なら、行き先もなのもかもが彼女というのは流石に……頼りなくないだろうか。もっとこう、男らしく彼女を引っ張るべきではないのだろうか。何もかも主導権を任せてしまっていては彼女も煩わしく思うのでは。とはいえ村雲のほうでどこか良い外出先が提案できるかと言えば、それは甚だ疑問であるが……。
「日曜天気がいいといいね」
「う、うんっ!」
しかし半歩前の彼女が笑顔で振り返りそう言ったので、村雲もそれに反射で大きく頷く。とにかく外出が楽しみなのは確かなのだし、それに対して躊躇していると思われたくはなかった。
とはいえ、どうしたらいい。何を一体、どうしたら。最早何から解決したらいいかすらわからない。
村雲は笑顔のままで固まった。ぐるぐると様々なことが頭を回る。今日からまともに眠れないだろうことだけは確かだ。さっき泣きついたばかりだが、もう一度江のものを頼ろう。そんなことを考えながら気もそぞろで夕食を咀嚼していたため、村雲は食べ終わる寸前まで、今日の献立が好物のジャガイモとひき肉のオムレツだということに気が付かなかった。