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    【6/30JBF2024サンプル】いとしのあるじ【通販予約開始】
    「えっ、ほ、ほんと?」
     村雲の年齢はおおよそ七〇〇歳かそこらである。南北朝だか鎌倉だか、打たれた時期に諸説あるがざっくりそのくらいなので大まかに計算するならば、七〇〇歳程度。だがこの肉体の外見年齢ならばおおよそ青年と言えて、もっと言及すると顕現してからはたかだか片手で足りるほどでしかない。だから耳は遠くないはずなのだけれど、一応確認した。聞こえてきた返事が到底信じられなかったからだ。
    「うん、私も雲さんのこと好きだよ」
     けれどもう一度そう繰り返してくれた彼女は、少し照れくさそうにはにかんでさえいた。その表情がとても可愛かったので村雲は上着に入れていた通信端末で写真を撮りたいと思った。勿論そんな余裕はなかった。
     本当はもう一度返事を確かめたかったところだけれど、あまり聞き直すのも良くない。しつこく聞いて気が変わったりしたら嫌だ。したがって村雲はひとまず自分の耳を信用することにして、おずおずと緊張して強張っていた腕を上げて彼女の手を握った。手を取るくらいなら仮に返事が聞き間違いだったとしても、これまでだってしていたことだから嫌がられないはずだ、たぶん。
     村雲が恐る恐るそうすると、彼女はそのまま村雲の手を握り返した。いつものことながら、その力が弱いことに村雲は慄いた。当然全力の握力をもってしてそうしているとは思えないけれど、それにしたって、人間、しかも女性、か弱い。
    「あの……えっと……ありがとう……」
     何か言葉を返さなければと思いつつ、何と言ったら良いかいまいちわからず、村雲は結局ただ彼女に礼を述べた。それが一番無難で的確な返答だと思った。すると彼女は笑ってくれたので、自分の判断は間違っていなかったらしいとホッとする。
    「ううん。じゃあ、これからよろしくね」
    「う、うんっ!」
     気の利いた一言も言えない代わりに、村雲は何度も首を縦に振る。恐らく顔も引き攣っているだろうから、せめて自分が今現在この上なく喜んでいるということを彼女に伝えたかった。そして幸いにもそれをちゃんと彼女はわかってくれたようで、彼女はくすくすとして「そんなに振らなくても」と言った。可愛かった。動画で撮りたかった。
     とにもかくにも、村雲はなんとかかんとか彼女の恋刀になった。そうして当然その晩はかなり幸せな気持ちで村雲は寝床に入った。
     しかし一晩経って目が覚めると、彼女がどうして自分を選んでくれたのかさっぱりわからないことに気づいたのだった。



     自分がかなり面倒臭く、かつ様々な意味で「重傷」であろうことは村雲も流石に自覚している。だがこれは仕方なく、その上どうしようもないことなのである。
    「だってしょうがないだろ、一目惚れだったんだから!」
    「うん、おめでとう」
     雑に返事をしてくれたのはたまたま江の共用部屋に在室していた松井である。江も今は増えに増えて八振。この間部屋替えがあった。とはいえ別にバラバラに離されたというわけではなく、それまで篭手切と豊前、そして松井と桑名に五月雨と村雲の六振でかなり無理矢理使っていた部屋を江の共用部屋として使えるようにし、近接した四部屋に稲葉と富田を含めた二振ずつの部屋割りに変えたのだ。
     本丸もかなり大所帯になって、部屋は広く使いたいが仲の良い者同士で離れるのはちょっと……という意見が様々なところで合致した結果である。村雲のような内向的な刀にとって、共用部屋の存在は大変ありがたかった。人恋しい、もとい刀恋しいが大広間に行くとあまり話したことがない刀ばっかりで緊張してしまうというときにちょうどいいのである。
     今日村雲に割り当てられた食器洗い当番も終わった昼下がり、共用部屋にはノートパソコンを触る松井の姿があった。それで村雲は今朝からちょっと胸の内でもやもやとしていたことを言ってみたのだが、これである。松井は村雲の話を聞いているやらいないやらわからない。
    「ちゃんと聞いてよぉ!」
    「聞いているよ。でも交際一日目じゃ惚気るには早いと思わないか」
    「惚気てない! やっぱりちゃんと聞いてない!」
     自分の話を聞いていてどこが惚気になるのか。そう思って村雲はワッと声を上げたのに、松井は片眉を上げてやはり面倒くさそうにした。
    「聞いていたよ。主と交際することになった、一目惚れだったから嬉しい、これのどこが惚気じゃないんだ。よかったね、毎日ここでウンウン唸っていたのが報われて」
    「違う、大事なのはそこじゃなくてその前! 主はなんで俺選んでくれたのかな、わざわざ負け犬の俺選ばなくてもよくない? 普通二束三文じゃない刀を選ばない?」
     どうして昨晩のうちにこんな重大な懸念点に気づかなかったのだろう。まあそれは村雲が浮かれ切っていたからなのであるが、今はいい。とにかくこれは早いうちに解決してしまいたい問題だった。だが同時に、村雲はそれを明らかにしてしまうのが非常に恐ろしかった。
     だって、それが理由で「やっぱり」と断られてしまう可能性だってあるではないか。
    「うぅ、それは嫌だ、お腹痛くなってきた」
    「一人で何唸ってるんだ。主がそんなこと気にしたことなんか一度もないだろう」
     呆れた風で松井が言い、遂にノートパソコンの蓋を閉じた。どうやら本腰を聞いてくれるようで、村雲はホッと息を吐く。
    「だって、だって、主がどうして俺のこと選んでくれたのかわからないし」
    「じゃあ聞いてきたら。はい解決」
    「聞けるわけ……ないだろ! もうちょっといい方法考えてよぉ松井」
    「なんで僕がそんなこと」
     村雲が肩にしがみついてグラグラと揺さぶっても、松井はややげんなりした様子でされるがままでいるばかりだった。村雲だって自分の主張や問いかけがかなり面倒なことはよくわかっている。わかっているが助けてほしい。これまでだって散々助けてもらっているのだけれど。
     そうして喧々諤々していると、畑から戻ってきた桑名が帽子を取りつつ部屋に入ってくる。もうだいぶ日差しが温かくなってきていて、桑名は額の汗を乱雑に拭いながら笑った。
    「あれえ、二人で何してるの」
    「村雲の犬も食わない話を聞いてる」
    「違うってば、俺は本当に困ってるの!」
     べそをかいて村雲が声を上げると、松井と桑名は顔を見合わせて肩を竦める。本当に、真剣に、話を聞いてほしい。
     大変恥ずかしいことながら、村雲が審神者に恋心を抱いているのは江の間では周知の事実であった。無論村雲が自発的に言いふらしたわけではない。気がついたら皆知っていたのだ。それがわかった時点で村雲は一度心が折れそうになったものだが、開き直った村雲はとても図太かった。同じ江のものならば、どれだけ泣きついたっていいはずである。元来世話好きの篭手切をはじめとして、江のものは全員なんだかんだ面倒見がよかった。それもあり、村雲はここまでもかなり皆に助力してもらってきたのだ。
    「とは言ってもね……昨日の今日とは言え、村雲と主はもう恋仲なわけだから。村雲がただ主に思いを寄せているならまだしも、二人のことは二人で話し合って解決するのがいいと僕は思うけど」
     ちゃぶ台の上に頬杖を突きながら松井がそう言った。その至極真っ当なご意見に、村雲はウッと言葉を詰まらせる。厨から持って来たらしい冷えた水の容器の蓋を捻りつつ、桑名もそうだねえと相槌を打った。
    「これから先は、村雲と主の問題だからね。蔑ろにされるのは、主も気持ちがいいものじゃないんじゃないかなあ」
    「な、蔑ろにしてるわけじゃ、ないけど」
     松井と桑名の主張はもっともなもので、村雲とてそれが非常に正しく、そうするのが一番であることもよくわかっていた。というよりも彼女と話す以外他に解決策はない。とは言えである。
    「そ、それで主に嫌われたらどうすればいい?」
    「嫌われたらって、ねえ……」
    「だって、だって嫌われたくない!」
     思えば本当に、村雲が彼女にアプローチを掛けている間考えていたことは、ただただそれだけだった。
     なんとかして振り向いてほしかった。ずっとずっと、村雲は彼女の背中だけを見つめ続けていたから、少しでも長く自分だけを見つめてくれるように、ひたすらに嫌われないように立ち振る舞って来た。執務室に居られるいい口実になったので、彼女の事務仕事の手伝いは積極的にした。けれどそのときでさえ煩わしくないように細心の注意は払っていた。彼女に頼まれた任務だからと出陣も遠征もできる範囲で努めてきた。まあ、お腹が痛くなればちょっと甘えに執務室に行ったりもしたけれど、それでも彼女の邪魔にならないように細心の注意を払っていたのだ。
     そのくらい、村雲はこれまで彼女の自分に対する好意がちょっとでも欠けたりしないようにしてきた。とにもかくにも村雲は彼女に少しも嫌われたくなかった。
     やや痛み始めた腹を押え、青ざめた顔でかつ早口で村雲は言う。
    「今の俺には主は雨さんと同じくらい大事だし、俺にとって全てと言っても過言じゃない」
     するとそれを聞いていた松井は再び息を吐いた。隣の桑名もうーんと首を傾げる。
    「村雲、重いよ、どう考えても」
    「気持ちはちょっとわかるけど、主も困るかもしれないから過言であってほしいねえ」
    「とっ、とにかく主に嫌われたくないんだよ! 余計なこと聞いて面倒くさいとか思われたくないし、やっぱり付き合うのやめとこうとか言われたら、う、うぅ、お腹痛い」
     きゅうと情けなく鼻を鳴らし、村雲は膝を立てて蹲る。腹痛が過ぎてやや吐き気まで催していた。
     ここには、国宝やその他の文化財だけではない、名だたる人物の持ち物であった刀もたくさんいる。美しく立派な経歴の名刀ばかり。そんな中で村雲は、数段見劣りする刀なのだ。元の主は悪人、金銭的には二束三文。村雲を表す言葉はそんなものばかりだ。勿論ここで誰かが村雲のことをそんな風に言ったことも呼んだこともない。だがそれだからと言って、村雲への下馬評がなくなるわけではない。
     だったらせめて、行動だけでも彼女にとって悪いものになりたくない。つまり村雲は彼女にあまり面倒くさいことを言ったりしたりしたくないのである。
    「あーあ、村雲、大丈夫?」
     桑名の広く分厚い手のひらが村雲の背中を撫でた。村雲はそれに力無く首を振る。視界の端で、松井の青い瞳が困ったような視線をこちらに向けているのがわかった。
    「……じゃあもう、これまで通り主に接して様子見をしたらどうだい」
     唇を人差し指でなぞりながら松井が言った。村雲はやや頭をもたげてそちらを見る。表情こそ呆れているけれど、あれは松井がきちんと物を考えているときの仕草だった。
    「これまで通りって?」
    「今までと変わらずにってことだよ。とりあえず、恋仲になることを了承してくれたってことは、今までの村雲の行動なり言動なりは主にとって好ましいものだったってことだろう。だったらこれまで通りにしていたら、少なくとも嫌われることはない。主だって、村雲の引け目は重々承知してるんだから」
     村雲はじっと自分の膝を見つめた。桑名は変わらずに優しく背中を擦ってくれている。
    「いきなり何もかも解決するのは無理だ。だからいくらか時間が経って、村雲も自信を持てたら、改めて主になんで自分を選んでくれたのか聞けばいいだろう。今は主に別れを切り出されるようなことをしたくなくて、ひとまず関係を維持することを最優先にするなら、それがいいんじゃないかい」
     松井の言っていることは、何も間違っていないように思えた。彼女に理由を聞くことと、苦心してこぎつけた恋仲という関係を続けることのどちらを優先するかと言えば後者に決まっている。村雲だって藪を突いて蛇を出したくはない。
     眉を下げて村雲が押し黙っていると、桑名が体を傾けこちらを覗き込んだ。それから笑って大きな口を開く。
    「主だって、考えもなしで適当に村雲に返事をしたんじゃないと思うよお。そういう子じゃないって、村雲も知ってるでしょ?」
    「それは、もちろんわかってるよ」
    「だったら別に、何も今すぐ全部明らかにすることないんじゃないの? 主は主の考えがあって、村雲に返事をしてくれた、今はそれでいいんじゃない?」
     昨夜のことだ、まだはっきりと覚えている。いや、たぶんこれからもっと時間が経っても、忘れないだろう。彼女は村雲に「好きだよ」と言ってくれた。少し照れくさそうにはにかんで、それでもしっかりとそう口にした。あの彼女の表情や声を疑いたくない。
     今は、それが全てなのではないだろうか。どうして自分なのかはわからなくても、自分に向けてそう言ってくれたということだけは確かなのだ。
     鼻を啜って、村雲は抱えた膝の上に顎を乗せる。持ち直す……とまではいかないものの、気持ちは少しばかり落ち着いた。
    「そうだね……わかった、聞いてくれてありがとう松井、桑名。取り乱してごめん」
     村雲がそう答えれば、松井はホッとした表情で肩を竦め唇を弄っていた手を下ろした。
     前向きにとらえるのであれば、今の村雲はこれまでと打って変わって「彼女の恋刀」なのである。後退はしていない、かなり大きな一歩を踏み出している。だったらひとまず、この立場を盤石にした方がよさそうだ。そうすれば、彼女だって村雲が傍にいた方がいいと思うようになってくれるかもしれない。いや、なってほしい。
    「……もうちょっと頑張って恋人として認めてもらえたら、後になって負け犬が嫌になっても主、絆されてくれるかなあ」
    「言いかたがまずいねぇ」
    「だから重いよ、恐ろしく……」
     松井の呆れ返った声と同時に、壁に掛けられていた時計が夕方五時を告げた。それに村雲はパッと立ち上がる。つい先ほどまで吐き気まで伴って痛んでいた腹はもうすっかり大人しくなっていた。
    「主のお仕事終わったから会いに行ってくる!」
     この本丸では、審神者が仕事をする時間は厳密に決められているのだ。朝九時から、夕方の五時まで。だから何事もなければ、彼女はもう自由時間のはず。
     村雲のあまりの変わりに身に松井は呆気にとられたものの、すぐに息を吐いて再びノートパソコンの蓋を開く。桑名も話は終わったと判断したのか戸棚から帳面を引っ張り出し始めた。
    「現金だなあ、行ってらっしゃい」
    「よろしく伝えておいてねえ」
    「うん!」
     ととと、と軽やかに村雲は廊下を速足で進んだ。今朝は色々考えていたのもあって当たり障りなく挨拶をしたくらいで、今日はまともに彼女と話していない。
     この本丸で近侍を務めているのは、彼女の始まりの一振である加州清光である。刀剣男士歴が当然最も長い加州はとっくに極の修行を終え、本丸内最高の練度を誇っており、彼女の手伝いも卒がない。それがわかっているので流石の村雲も彼女に自分を近侍にしてほしいとは言えなかった。否、本当は少しねだろうとしたこともあったが、執務室での加州を見ていて、それに代わる近侍としての重圧に耐えられそうになかったので渋々諦めたというのが正しい。そして現状、村雲を近侍にする利点が全く見当たらなかったというのも理由にある。いくら村雲が彼女の傍にいたくとも、そのために彼女の仕事の邪魔をするわけにはいかなかった。それにそんなことをして彼女に嫌われたくもなかった。結局はそれなのである。
     執務室が近づき、村雲はちらりと部屋の襖の手前に固定された板に視線をやった。そこには「在室」と書かれた青い札が引っかかっていたので、村雲はホッと息を吐く。あの札はひっくり返すと「不在」と書かれた赤い札になり、彼女が見回りなどで留守にしているときに行き先が書かれた紙と一緒にぶら下げられることになっている。つまり今はひとまず中に彼女がいるということだ。
    「おっと」
    「うわっ、あっ、ごめん」
     室内に顔を出そうとすると、丁度出てこようとした加州清光とぶつかりそうになった。同じ打刀とはいえ、村雲と加州とでは身長と体格が違う。急に立ち止まった加州がややよろめいたので、村雲は慌てて加州の腕を掴んだ。加州の反対の手には何やら書類が握られている。
    「なんだ、村雲じゃん、ありがと」
    「ご、ごめん、大丈夫?」
    「へーきへーき」
     体勢を立て直すと、加州は赤い瞳でこちらを一瞥した。それに村雲はややドキリとする。村雲はしょっちゅう執務室に顔を出していたため、加州から「またあ?」と言われることもたまにあった。今日は一応、仕事の時間外に来たのだから大丈夫だと思いたいけれど、加州に苦言を呈されてしまうと、村雲は帰らざるを得ない。
     だが加州はすぐに視線を手に持っていた書類に戻した。それからサッと村雲とすれ違う。
    「主、今日はあともう何にもないから平気だよー」
    「え、あ、うん、ありがと……」
     あれ、と村雲は拍子抜けした。何も言われなかった、こんな仕事が終わってすぐの時間にやってきたのに。
    「加州、どこまで知ってるんだろ……」
     思わずそうぼやいて、村雲ははたと気づいた。加州は、どこまで知っているんだ? 彼女が加州に昨夜のことを報告していたとして、全て知っていて今の反応だったのだろうか。彼女と加州とは無二の関係である。彼女が話してしまっていても何もおかしくはないが、それはそれで恥ずかしいやら気まずいやら。
     そんなことを考えていたら、やや再び胃がキリキリとしてきたので村雲は鳩尾の当たりを押えた。そうして村雲が立ち尽くしていると、執務室の襖の向こうから彼女の顔が覗く。
    「どうしたの?」
    「ぅ、えっ、わっ!」
     予想外に彼女の顔を見てしまったので、村雲は叫んで飛びのいた。そんな過剰な村雲の反応にももう慣れているのか、彼女はにこにこしたままもう一度尋ねる。
    「全然入って来ないから、どうかした?」
    「お、おれ、あの、お仕事、おわったとおもって」
     いつもよりも言葉に詰まって、村雲はわたわたとしながらそう言った。彼女は村雲を急かすことも煩わしそうにすることもなく、一つ頷く。
    「うん、終わったよ。入る?」
    「う、うん、入る! あの、お疲れさま」
    「ありがとう」
     昨日までと全く変わらない調子で、彼女はそう言うと執務室に戻って文机の前の座布団に腰を下ろした。それから村雲にも一枚座布団を差し出す。いつも彼女が仕事に使っているノートパソコンは既に電源が切られて画面が暗くなっていた。
    「お茶飲む? おやつはもうすぐ夕ご飯だし、やめておこっか」
    「あ、お、俺が淹れるよ、お茶、主は座ってて」
    「え? いいよ」
    「いいから、いいから座ってて」
     一度座ったものの、村雲は立ち上がって部屋にある湯呑やら何やらを取った。お湯を注ぐだけの煎茶が戸棚にあることを知っているので、扉を開けてそれも取る。部屋に来ただけなのになんだか落ち着きなくバタバタしていると思いつつも、村雲は二つの湯呑にお湯を注いで文机まで戻った。
    「ありがとう」
    「ううん、今日もお疲れさま」
     彼女の「営業時間」は朝の九時から夕方の五時まで。曜日もちゃんと決まっている。月曜から金曜まで、現世でいう「平日」がそうらしい。現世で暮らしたことのない村雲にはあまりピンとこないのだが、現世の人間はそうして働いているのだ言う。それだと働く日が五日に対して休みは二日しかないがそれでもいいのだろうか。計算が合わない。
     しかしとにもかくにも、彼女がこの執務室で刀剣男士の応対をしたり、事務仕事をしたりなんだりする時間はそうして決まっている。どうしてそうなったのか詳しい経緯を村雲は知らないのだが、本丸を立ち上げて暫くしたときに加州がそういう風にしたらしい。そうでないと交代で出陣する自分たちと違って主は際限なく働くことになるから、だそうだ。
     村雲が差し出した湯呑を受け取って、彼女はもう一度ありがとうと繰り返す。
    「雲さんは今日変わったことなかった? 出陣が一回と、食器洗い当番だっけ。宗三の部隊だったよね。負傷の報告とかはなかったと思うけど」
    「うん、平気。賽子の出目がちょっと悪かったけど」
    「あー、確かに、ぎりぎりで逸れちゃったね。残念だったけどしょうがない、無理しないのが一番だから」
     敵の本拠地を目前にして賽子に振り回されたので村雲はやや不完全燃焼だったのだが、彼女はそう言って笑ってくれたのでどうでもよくなった。ついでにやはりそんなところも写真に撮りたかったけれど、流石に本人の前でおもむろに通信端末を取り出す勇気はなかった。
     そうして何となくいつも通りの他愛もない話を彼女としつつ、村雲はまたやや悩んだ。
     恋人同士というものは、どういう風に接して、一体全体二人で何をすればいいのだろう。しまった、さっぱりわからない。だがそれも当然である。村雲の顕現年数は片手で数えられる程度。恋人同士が何をどうするのかなど知識も前例は勿論知識もない。無論刀であった頃のぼんやりとした見聞はあるが、今と時代が全く異なる。あれを彼女に当てはめていいかは甚だ疑問だ……というか駄目だろう。
    「雲さん? どうかした?」
    「えっ、あっ、いや、何でもない、何でもなくて」
     思わずぎゅっと湯呑を握り締めたまま硬直してしまっていたので、村雲は慌ててやや温くなった煎茶を喉に流し込んだ。しかしその勢いが良すぎたのか、変なところに入って噎せる。
    「げほっ、げほ、んぐ」
    「うわ、落ち着いて、ゆっくり飲んで」
     カンと彼女も持っていた湯呑を机に置いて、村雲の背中を撫でてくれる。せめて執務室を汚さないように口を手で押さえながら、村雲は必死で呼吸を落ち着かせることに集中した。
    「はぁ、うう、ごめん、変なとこ入った」
    「大丈夫? ほら口拭いて」
     彼女が小さい子どもにするように布巾で村雲の口元を押えた。恥ずかしい、情けない。でも構ってもらえてほんのちょっと嬉しい。色々ないまぜになり、村雲は肩を落として「ごめん」と繰り返す。
    「いいよ、気にしないで。ごめんね、急かしちゃったね」
    「ううん……お、おかわりいる? もう一杯淹れようか?」
     せめて何か貢献したかったので村雲はそう提案したけれど、彼女は首を振った。
    「ありがとう、でもそろそろ広間に行って夕飯の配膳手伝わないと」
    「あ、そっか……」
     無為に時間を過ごしてしまった……。村雲はやや肩を落としてしまった。いや、彼女とのお喋りが無為だというわけではないが、これでは昨日までと全く変わらない。せめて片付けだけでもちゃんと、と村雲がお盆に湯呑を戻していると、それをじっと眺めながら不意に彼女が言った。
    「今週末のお休みどこか行く?」
    「……え?」
     どこかって、どこに、二人で?
     様々に聞きたいことはあったのに、村雲はてんで別なことを言った。
    「どっ、土曜? 日曜がいい?」
     彼女の休日は、一週間にその二日だけ。だから「今週末のお休み」が指すのはそのどちらかである。すると彼女はやや考えて答える。
    「えーっと、でも土曜は雲さん遠征部隊に入れちゃってたから……」
    「でも、でも午前中だけだったから、午後はなにもないし」
     その遠征は朝一の出発だったから昼過ぎには戻っているはずだ。だから出掛けようと思えば行けるはず。けれど彼女は首を振った。
    「だめ。遠征って言っても疲れるんだから、土曜の午後は休んで。日曜にしよう、非番だったよね」
    「うん!」
     そうか、恋人同士なら二人で外出していいのか。いいことを聞いた。他でもない彼女が提案してくれたことなので、これなら間違いがない。
     そして同時に村雲は今日一番安堵していた。こんな提案が彼女の方から出たのだから、彼女にも村雲と「恋人同士」であるという認識が存在しているということだ。よかった、彼女があまりにも普段通りで落ち着いているので、浮かれている自分だけがそう思い込んでいるだけの可能性も疑った。
    「どこに行こっか。あんまり人ごみじゃ、雲さん疲れるかな」
    「平気……ではないけど、落ち着いてるとこの方が嬉しいかも」
     あまり人が多くて彼女とはぐれても嫌だ。そう思って村雲が言うと、彼女は微笑んで頷いた。
    「わかった。私も混んでるところは苦手だから、考えておく」
    「あっ、ありがと」
     彼女はサッと村雲が茶器をまとめたお盆を手に取ると、そのまま村雲に促す。ここには流しがないので、片付けるなら厨に行くしかない。
    「じゃあ広間に行こ。お腹空いてきたね」
    「う、うん」
     パチンと彼女が執務室の明かりを消した。晩御飯何かなあと歌うように話す彼女の半歩後ろを村雲はついて歩く。今日は水曜でまだ週を折り返したところなので、日曜まではあと四日もある。
     その間上手く眠れるだろうか……。村雲は楽しみな出来事の前日は全く眠れないほうなのだ。それにすべてを彼女に任せっぱなしにしてしまっている。外出を言い出してくれたのも彼女なら、行き先もなのもかもが彼女というのは流石に……頼りなくないだろうか。もっとこう、男らしく彼女を引っ張るべきではないのだろうか。何もかも主導権を任せてしまっていては彼女も煩わしく思うのでは。とはいえ村雲のほうでどこか良い外出先が提案できるかと言えば、それは甚だ疑問であるが……。
    「日曜天気がいいといいね」
    「う、うんっ!」
     しかし半歩前の彼女が笑顔で振り返りそう言ったので、村雲もそれに反射で大きく頷く。とにかく外出が楽しみなのは確かなのだし、それに対して躊躇していると思われたくはなかった。
     とはいえ、どうしたらいい。何を一体、どうしたら。最早何から解決したらいいかすらわからない。
     村雲は笑顔のままで固まった。ぐるぐると様々なことが頭を回る。今日からまともに眠れないだろうことだけは確かだ。さっき泣きついたばかりだが、もう一度江のものを頼ろう。そんなことを考えながら気もそぞろで夕食を咀嚼していたため、村雲は食べ終わる寸前まで、今日の献立が好物のジャガイモとひき肉のオムレツだということに気が付かなかった。



     昨晩は結局、寝坊が恐ろしくてうつらうつらとしかできなかった。村雲は靄のかかったような頭で、洗顔し濡れた顔を柔らかなタオルで拭う。目の下に有り得ないほどくっきりと隈が浮かんでいた。
    「うぅ、眠い……」
     しかし残念ながら今はそれしか考えられない。呻きながら村雲は頭を振った。隣で同じように洗顔していた五月雨が心配そうにこちらを覗き込む。
    「雲さん、大丈夫ですか。髪が少し濡れていますよ」
    「へ、平気、ありがとう雨さん」
     ここ数日眠れないと嘆く村雲に、五月雨は香を焚いたり歌を詠み聞かせたりしてくれていたのだが、それらはあまり功を奏していなかった。気を遣ってくれただけに、満足に寝付けなかったことは五月雨に対してもかなり申し訳ない。
    「やはり眠れませんでしたか。頭にはまた後日にしてもらったほうがいいのでは」
    「い、いや、元気! 元気ではあるから、平気」
     村雲はわたわたと手を動かしてみるも、やはり緊張で腹は痛い。恐らくそれを分かっているだろう五月雨は特別何か言うことはなかったけれど、やや心配そうにこちらを見ていた。
     洗顔して服を着替えると、村雲は朝一の遠征が控えている五月雨とはそこで別れた。それから江の共用部屋に向かう。すると鏡を机に置いて身だしなみを整えていた松井が眉を顰めた。櫛を手にして忙しなく動いていた篭手切も苦笑する。
    「酷い顔だ、やっぱり寝られなかったのかい。コンシーラー……、これで誤魔化せるかな」
    「さ、こちらに座ってください、村雲さん。髪を結いましょう」
    「うー、ごめん、よろしくお願いします……」
     言われた通りに村雲は座布団の上に座った。するとすぐに篭手切が手に何かを伸ばして村雲の髪に馴染ませ始める。松井も容器を絞って指先に肌色のクリームを出していた。
    「何それ……」
    「君のその酷い隈を消すんだよ。ほら、目を閉じて」
     日曜に彼女と外出することになったと報告すれば、皆律儀に共用部屋に集まってあれこれ一緒に考えてくれた。審神者と出掛ける刀剣男士が武装を解くわけにはいかない。だから特段めかし込むことはできなくても、髪くらいはと言い出してくれたのが篭手切。それなら顔も少しはと言ったのが松井。それ以外にも色々あるのだが、今はとりあえず時間通りに彼女と待ち合わせることに集中する。
     松井の細いがしっかりとした指先が目元にクリームを塗りこみ、いやすり込むようにして叩きこんでいく。それはやや痛いくらいだったのだが村雲が黙って大人しく座っていると、背後で村雲の髪を触っている篭手切が優しく言った。
    「変に緊張する必要はありませんよ。主の方から誘ってくれたんです。主だって村雲さんと二人で楽しい時間を過ごしたくてそう言ってるはずですから。身構えなくても平気です」
     彼女が、自分と二人で。一呼吸おいてから、村雲は篭手切に問い直す。
    「……本当にそう思う?」
    「本当も何も、それしかない。ちょっと口を閉じてて、噎せないように」
     何をするのか聞くよりも早く、何か柔らかいものがポフポフと軽く顔に押し当てられた。それから馴染ませるように何度かその謎のふわふわが肌を滑る。
    「もういいよ。篭手切も終わったかい」
    「はい! どうぞ!」
    「じゃあ目を開けて」
     恐る恐る、村雲は瞼を開けた。すると松井が机の上にあった鏡をこちらに向けてくれる。目の下にあった青黒い隈は確かになくなっていた。
    「えっ、え、すごい、何したの? 手入れ?」
    「化粧。手ぬぐいで思いきり顔を拭うと汚れるかもしれないから、気を付けて」
     何が起きたやらさっぱりわからず、村雲は鏡を手に取って近づけたり横に向けたりした。篭手切が整えてくれた髪も、見たことのない複雑な結い方になっている。
    「か、髪もなんか、いつものと違う」
    「はい。せっかくですから、はーふあっぷははーふあっぷでも、さいどを編み込んでみました。激しい戦闘をするわけではないと思いますし、崩れたりはしないかと」
    「ぅわー……すごい、ありがとう……」
     しっかり髪を結われたからか、幾分か村雲の頭はしゃっきりとし始めていた。鏡を机の上に置き直して、改めて村雲は再び自分の身支度に戻った松井と櫛なんかを片付ける篭手切に向き直る。
    「篭手切、松井、ありがとう……。俺、皆にはいつも泣きついてばっかりで、いやたぶんこれからも泣きつくんだけど」
    「そこは泣きつくんだね」
     すかさず松井が突っ込む。ふふと小さく篭手切が笑った。それに村雲も少し微笑んだけれど、やや視線を伏せる。
    「俺は自分に、いつも自信がなくて……皆にこうやって色々手伝ってもらって、なんとかやっと、主の前に行けるんだ」
     今日、篭手切と松井の力を借りて何とか少し笑えたように。彼女に思いを告げることも、きっと一振ではできなかった。とても情けないけれど……でもそれでも、ここで自分を受け入れてくれる誰かがいることが村雲は嬉しい。
    「だからありがとう。雨さんにも、夜戦帰りで寝てる桑名と豊前と、畑当番行ってる稲葉と富田にも、帰ってきたらちゃんと言うから。あと大変申し訳ありませんがこれからもよろしくお願いします」
     最後は早口で言って、深々と村雲は頭を下げる。するとフッと松井が噴き出して笑う声がした。顔を上げれば、松井は村雲から顔を背けて肩を揺らしている。村雲は口を尖らせて言った。
    「もう、俺は真剣なんだから笑わないで」
    「ふ、ふふ、ごめん、けどそのくらい主の前でも図太くいればいいのにって思っただけだよ」
     まだくすくすと上品に笑いながら、松井は耳に髪を掛けて鏡の方へ顔を戻した。図太い。そうか、まあ自分はそこそこそうなのだと村雲にも自覚はあった。あったけれど。
    「大丈夫です、村雲さん、りらっくすりらっくす! 楽しんできてくださいね」
    「待ち合わせ前に厨、寄るの忘れないようにね」
    「う、うん、ありがと。行ってきます」
     彼女とは玄関で待ち合わせ。村雲は小走りでまずは厨に向かい、冷蔵庫の扉を開け、目当てのものを取り出して閉めた。それから玄関先へと足を進める。すると彼女は既にそこにいて、上がり框に座っていた。
    「ごっ、ごめん、遅くなって」
    「あ、雲さんおはよう。私も今来たとこだから平気平気。あ、髪可愛いね」
     こちらを振り向いた彼女がにこっと笑って言った。褒められたことと、同時に笑いかけられたこととでどちらに答えたらよいかわからなくなり、村雲はどきりとして軽く自分の髪に手を当てる。
    「ぅえっ、あ、これは篭手切がやってくれて」
    「すごいね、篭手切は器用だなあ」
     村雲の緊張した返答にただそれだけ言うと、よいしょと彼女は立ち上がった。それは何気ない動作だったけれど、村雲の方はギクッとして硬直してしまう。
     いつもと服装が違う! どこを見るのが良いのかわからなくなって、村雲は視線を爪先に落とした。足元を見ていても仕方ないし、どちらかと言えば彼女の方をしっかり見たかったのだけれど、そこまではまだ心の準備ができていない。視界の端にやや薄くひらひらとした布が覗く。
     彼女は普段、村雲たちの内番着に近いような、とにかく動きやすい服を着ていることが多かった。それはあちこちに呼ばれることが多く、本丸内を歩き回って畑仕事なんかを手伝うことがあるからだ。政府施設での研修などの改まった機会になればまた違うけれど、そのときだって黒や白のあまり色がなく、装飾もない服が殆どである。
    「雲さん、忘れものとか大丈夫?」
    「うんっ、うん、平気、だと思う」
    「じゃあ転移装置動かすね」
     淡い色の、ふんわりとした履物。乱の戦闘装束と同じ形。主あんな服持っていたんだ、と村雲はぼんやりと思った。
     彼女が装置を操作するのに背を向けてくれたので、村雲はじっとその姿を見つめた。髪もいつもと違う整え方だ。彼女は自分で結ったのだろうか。
     褒めたい。なにか気の利いたことを言って褒めたい。褒めたいが何も出てこない。可愛い、可愛いけれどもっと他にあるはず。とはいえただ「可愛い」と言うのもかなり勇気を使うがそれでも、なにか。
    「設定できたよ」
     そうこうしている間に彼女がパッと振り返ってそう言った。それで村雲は再び視線を背けてしまい、結局何も言えずに唇を噛む。
    「行こっか」
    「う、うんっ、行く」
     最初から既にうまくいっていない。村雲はもうべそをかきたくなったけれど、堪えて彼女について行った。鳩尾の当たりが少しだけチクリと傷んだ。



     木曜の夕方に、彼女が「天気もよさそうだから、お散歩はどうかな」と声をかけてくれた。審神者と刀剣男士が自由に利用できる政府施設に、だだっ広い公園があることは村雲も知っている。審神者は普段座ってする仕事ばかりで運動不足になることが常々問題視されており、そういう公園は健康管理や気分転換も兼ねて軽い運動をしたりするのに使われるのが主だとか。「近頃は子どもの審神者もいるから、珍しく球技もできる公園なんだよ」と彼女は笑っていたけれど、それがどう珍しいのかまでは村雲にはわからなかった。現世の公園は球技ができないのだろうか。
     とにもかくにも村雲と彼女がその公園に転移すると、確かにのんびりと遊歩道を歩く審神者と刀剣男士が散見された。ちゃんと運動着で走っている審神者もいて、そこそこの利用率なのだなと村雲は思った。
    「私、ここは来たことなかったんだけど、広くて綺麗だね」
    「えっ、う、うん、そうだね」
     もうちょっと相槌として、あるだろう。村雲のこめかみを冷や汗が伝う。先程から自分が「はい」か「いいえ」の返事か「そうだね」などの同意しかしていないことには村雲も気づいていた。
     そしてそれよりももっと恐ろしいのは、これから彼女と一体何の話をしたらいいかわからないということである。村雲はこれまで、彼女の空き時間を見計らって執務室に顔を出していた。だから同じ部屋にいたのは長くて精々四半刻。こんなに長く二人きりでいるのは初めてなのである。普段通りの、今日出陣先でこんなことがあっただとか内番中こんなことがあっただとか、他愛ない話では全く間が持たない。
     そんなことを考えて村雲が青くなっている間に、彼女は公園の案内板を見つめて少し考えた後振り返る。
    「雲さん、どこ回りたい?」
    「えっ、な、なにが?」
     しまった、ちゃんと聞いていなかった。村雲は焦ったけれど、彼女は何でもない風で案内板を指さす。
    「散歩コース、三つくらい種類あるみたい。林道と、池の周りをぐるっと回るのと、走りやすい舗装されたコース。どこがいい?」
     えーっと……どこがいいだろう。池の周辺は今いる現在地から見ても日影になる場所が殆どない。それだと自分もしんどいが彼女も疲れるのでは。かといって走る用の道を歩くと他の利用者の邪魔になるかもしれない。となると消去法で林道なのだが、ここは他二つよりも距離が短い。あっという間に一周してはい終わり、となるのは悲しい。けれどやはり諸々考えると……。
    「り、林道で……」
     そうおずおずと村雲が答えると、彼女は再び案内板を見た。どうやら道順を確認しているらしい。
    「うん、木陰もあるし。気持ちよさそう。じゃあこっちかな」
    「う、うん」
     ああまた面白くもなんともない返事をしてしまった。村雲は一人で勝手に「うっ」となり、小さく息を吐いてしまう。彼女は村雲の半歩前を歩いていた。
    「お散歩だし、天気が良くてよかったね」
     ややこちらを振り返り、彼女が言った。村雲は慌ててそれに頷き返事をする。
    「う、うん! 歩きやすい、し」
    「ね。直前まで天気予報見てたんだけど、通り雨とかもなさそうでよかった」
     天気のことは村雲も気になっていたのでそれに関してはかなり安堵している。なにせ雨が降るとできることが限られるし、屋外に出る予定だったので最悪中止なんてことも避けたかったのだ。
    「雲さんは普段お休みの日何してるの?」
    「え、お、俺?」
     休みの日……村雲は必死で直前の休日を思い返した。この間の非番、丁度雨が降っていて確かずっと室内にいた。雨だと鬱憤がたまる刀が多いのか道場も間借りできず、れっすんも中止になることが多く、先日も例に漏れずなくなった。だから一日部屋でダラダラと昼寝をしたりして過ごし……いやこんなの彼女に言えない。その前の非番、は確か無難にれっすんをして、それから。
    「れっ、れっすん、れっすんを皆でしてることが多い、かも」
    「あ、そっか。江の皆はレッスンがあったね。じゃあ私みたいに丸一日のんびりしてるわけじゃないかあ」
    「そっ、れは」
     丸一日のんびりしているのならこれからは一緒にいたいのだが、れっすんをしていると言ってしまった手前それは厳しいだろうか。いや、だが非番の日が毎日忙しいと思われてしまうのもそれはそれで。
    「れっすんが終わったらっ、昼寝、したり……あとは雨さんが探してきた季語、みたり、とかで、のんびりする……」
    「五月雨よく出掛けるもんね。いつも外出届を出すときに事細かにどこ行くのか教えてくれるよ。フットワーク軽くて羨ましいな」
     やっとこさ「空き時間もあります」というそこはかとない主張を村雲は織り交ぜてみたのだが、彼女はああなるほどと何でもない風で答えた。伝わったのか伝わらなかったのかわからない。というかこの感じだと伝わっていない気がする。
    「もう雲さんも本丸に来てそれなりだから、きっと色々過ごすにもお気に入りの場所とかあるよね」
    「え、あ、うん、でもやっぱり一番は部屋が落ち着くかな。共用部屋にいることも多いけど」
     しまった話題が変わった。「空き時間も一緒に過ごしたい」が伝えられない。再び村雲は「うっ」っとなった。いや、いやでも公園に来たばかりであるし、ここから挽回……できるのだろうか、自分が。
    「共用部屋ね、なかなか思い至らなくてごめんね。でも江も気づいたらもう八振か。いや、今まで気づかなかったのは問題だね、ごめん」
    「あっ、いや、でも今はすごく、広々使えてるから」
     確かにその前は鮨詰めだったが、あれはあれで悪いことばかりではなかった。特に村雲のような人見知り気味の刀には。とはいえ彼女はやや肩を竦めて答える。
    「ならよかったけど……それでもごめんね。篭手切が一人でレッスンしてた印象がどうしても強くて……いつの間にかこんなに仲間が増えて、きっと篭手切は嬉しいよね」
    「ん……そうだね。俺は一人でずっとれっすんは、無理かも。寂しいし」
    「うん、よかった、雲さんたちが来てくれて。これからも江のもの増えるといいね。他には誰がいるんだろう。私全然知識がないから、いつも新鮮に驚いちゃうんだけど」
     楽しげに彼女が言うのに、村雲は少しだけ胸がちくりとした。江のものが増えるのは当然嬉しいが、他の刀が増えてしまうと自分が埋もれてしまいそうな気がする。勿論戦力としても、刀が増えるのは良いことに違いない。けれどこんな、取るに足らない二束三文の刀は、誰か目新しく立派な刀が増える度にきっと彼女の中で色褪せていってしまう。今でさえ本丸には百振強の刀がいて、意識して時間を作って自分から話しかけに行かなければ、挨拶以外で彼女と一度も話せない日があるくらいなのに。
     いや、良くない。鳩尾の辺りを押えて村雲は首を振った。自分が負け犬だからと言って他の刀に嫉妬するなんて烏滸がましい。それにこんなことを言ったりしたら間違いなく彼女に面倒臭がられる。
    「雲さん、お腹痛い?」
     だから彼女がこちらを向いて尋ねたのに、村雲は慌てて首を振った。この程度なら誤魔化せる。
    「う、ううん! 平気、今日は元気だから」
     そう答えれば、彼女は少々こちらを見つめた。村雲はやや緊張したもの、彼女はすぐににこりとする。
    「そっか、よかった。もし具合が悪くなったらすぐに教えてね」
    「うん、ありがと……」
     とりあえず突っ込まれなかったことに村雲はホッと息を吐いた。やはりまだ彼女の恋刀である実感も自信もないのに、面倒くさいと思われたくない。今日の村雲がすべきなのは、とにかく一日を問題なく過ごして、ある程度爪痕を残して、あわよくば彼女との距離を縮めることである。
     暫く彼女と村雲はそうしてなんとなく話をしながら林道を歩いた。自分から話題を提供することはできなかったけれど、先程の「はい」か「いいえ」よりはましなことを答えられた気はする。彼女は村雲にお気に入りのお菓子だとか、万屋なんかがある商店街でどこに行くのが好きかだとか、そういう他愛のないことを聞いた。そうして経路の半分くらいを進んだ頃、木陰にある木製の椅子を彼女が指さす。
    「ちょっと歩いたね、座ってもいい?」
    「う、うん。ごめん、疲れた?」
    「ううん! 天気よくて気持ちいいし、ちょっと座るのもいいかなって」
     こちらからそう切り出したほうがよかっただろうか。村雲が正解を考えている間に、彼女は椅子に近寄る。そこで村雲はまた問題にぶつかった。
     せっかく綺麗な、可愛い服を着ているのにそのまま座らせてもいいのだろうか。今日だけではなく昨日も雨は降っていなかったから、椅子の表面は濡れたりはしていないように見える。だが屋外にずっと置いてあるものであるし、何か、何か敷くもの。焦って村雲は上着を探る。村雲は基本的にいつも手拭いを持っているのだ、今日も入れていたはず。上着から薄桃のそれを引っ張り出して、村雲は慌てて彼女に近寄った。
    「主、主待って、これ敷いて」
    「え、あ、いいよ。このくらい、汚れてないと思うし」
    「でも、でもせっかく綺麗……な服着てるから」
     ついでに可愛いと言いたかった。だがそれは言えなかった。彼女に断られる前に、村雲はサッと手拭いを椅子に敷く。すると彼女はやや躊躇ったが、軽く会釈してそこに腰を下ろした。
    「ありがとう。じゃあ使わせてもらうね」
    「う、うん! 気にしないで」
     よかった、一つは役に立てたようだ。村雲がホッとして、拳二つ分くらい間を空けた隣に座った。これ以上近くに寄ることはまだできそうになかった。
     遠くで鳥が鳴いている声がする。今日は本当に天気が良かった。それに風もあって気持ちいい。実は気温が高くなることを村雲は少し心配していたのだ。どうしても、村雲は暑いと具合が悪くなる。夏も冬もそこまで得意ではない。
     小さく息をついて、村雲は手にしていた荷物を膝の上に置いた。時間的にも、そう悪くはないと思う。ちらりと横目で彼女の様子を見、それから緊張しつつも切り出した。
    「あのー、主、よかったらなんだけど」
    「ん? なに? どうかした?」
     彼女はなにやら持っていた鞄を探っていた。村雲は躊躇いつつも、同じようにずっと提げていた鞄を開く。中には先ほど冷蔵庫から取り出したもの、お弁当箱が入っていた。
    「お弁当、作ってきたんだけど……」
     行き先が公園だとわかったとき、何か軽食を持って行くのがいいんじゃないかと言い出したのは桑名だった。畑仕事をするとき、れっすんを少し長い時間するとき、村雲たちも外で食事をとったりおやつを食べたりすることがある。だから散歩で歩いたりするなら、と。
     だが当然、厨当番ですら皮むきくらいの戦力にしかなれない村雲に弁当の自作はかなりハードルが高い……ということでまた江のものの力を借りた。本当に頼りっぱなしで情けないが、主との外出も初回なので許してほしかった。この時代に顕現して初めて知ったことなのだが、現世ではどのお店も初回なら割引してくれることが多いらしい。これもそういう感じでお願いしたい。次回以降頼らないとは言えないけれど。
     とにかく、村雲は今日二人分の食事を詰めたお弁当を持って来ていた。爪痕を残したいのである。
    「よ、よかったら、食べて」
     おずおずと村雲は保冷された鞄に入っていたお弁当箱を差し出す。今日は湿度もそれほど高くないし、だめにはなっていないはず。
     しかし緊張しながら村雲が彼女を見ると、彼女の方はあろうことかやや青くなっていた。傍目で見てもわかるほどに、血の気が引いている。しまった、失敗した。村雲は慌ててお弁当箱を引っ込めた。
    「ご、ごめん、やっぱり迷惑だったよね、これは俺が帰ったら全部食べるから」
    「あっ、いや、ごめん、食べる、食べるから引っ込めないで、ありがとう」
     焦って彼女も手を伸ばし村雲のお弁当箱を掴んだ。けれどやはりさっきの顔は困っているものだった。自分が下手を打ったに違いない。
    「う、ううん、気にしないで、俺何も言わなかったし、こんなの迷惑」
    「違う! 違うそうじゃなくて、えーっと」
     片手で村雲のお弁当箱を掴んだまま、彼女はきまり悪そうに脇に置いた自分の鞄を引っ張った。それからこちらに中身が見えるように大きく口を開き、村雲の方に向ける。
    「私もお弁当作ってきちゃって……」
    「……え」
     カパッと開いたそこからは、硬い容器が覗いた。更に彼女がその蓋を開けると、村雲も何度か軽食として食べたことのある「さんどいっち」や洋風のおかずが中に詰められている。
    「本当にごめん……事前相談すればよかった。そりゃ、ピクニックと言えばお弁当だよね」
     青ざめた顔のままで彼女はそう続けた。ぴくにっく、は初めて聞く単語だったが彼女の言わんとしていることはわかる。天気もよく、外を歩くとなれば軽食を持参するのはごく自然なことだ。村雲も完全にその点を失念していた。
    「ごっ、ごめん、全然知らなくて」
    「う、ううん、ごめんね、私自分の部屋に簡単なキッチンがあるからそこで作ってて、誰も知らなかったと思うし」
     それにしても、これをどうする。村雲は自分の手元と彼女の鞄の中身を見た。二人で食べられるように大きめの容器におにぎりやらおかずを詰めた村雲のお弁当、恐らく同様の考えで量を作ってくれただろうさんどいっちや果物の詰まった彼女のお弁当。計四人前である。どう考えても食べきれる量ではない、量ではないが……。
    「それ……食べてもいい?」
     村雲は彼女のさんどいっちの一切れを指さして尋ねた。どう考えても食べきれない量なのだけれど、せっかく彼女が作ってくれたのだ。食べたくないはずがない。むしろ多少無理をしてでも完食したい。村雲は持って来ていたおしぼりで手を拭いた。すると彼女が慌てて言う。
    「いい、けど量多いし、無理しなくても」
    「ううん。いただきます」
     丁寧に耳まで落とされたパンを摘まんで、村雲はさんどいっちを口に運んだ。黄色いふわふわの卵が挟んである。適度に塩気が効いていて美味しい。
    「うん、美味しいよ、主。俺こういう卵好き」
     そう言うと、彼女は手にしていた器を見下ろして小さく答えた。
    「マヨネーズ……少し多めにしたからかも」
    「そうなんだね、美味しい。こっちもちょうだい」
     確かに村雲はお腹が弱く、そこまで量は食べないけれど食事自体が嫌いなわけではない。むしろ美味しいものを食べることは好きであるし、機会があれば酒とてしっかり飲む方だ。五月雨の方がよっぽど甘党なくらいなのである。
     ぱくぱくと一つ二つ卵や、肉としゃきしゃきのキュウリが挟んであるさんどいっちを摘まんでいると、彼女がそろりと村雲の持っていた保冷鞄を覗き中に入っていた箸に手を伸ばした。そのまま彼女は置いたままにしていた村雲のお弁当箱の蓋を開く。
    「え? すごい豪華、これ全部雲さんが作ったの?」
    「えっ、あっ、いや、あの、皆に手伝ってもらって」
    「いいね、いただきます」
     彼女は手前にあったキュウリの浅漬けを箸で摘まむ。ポリポリと小気味よい咀嚼音が響いた。
    「浅漬け、いつ作ったの?」
    「えっと、これはすぐにできるからって分量教えてもらって、昨日の昼漬けた」
    「漬け具合このくらいがちょうどいいかも。おにぎりもらうね」
     おしぼりで手を拭い、彼女は詰められていたおにぎりを一つ手に取った。大きめに一口食べると、中の具が見える。彼女はそれを見て嬉しそうに笑った。
    「おかかだ。雲さんおかか好きなの?」
    「う、うん、好き。おかかが一番好き」
    「私も。美味しいよね」
     パクパクと彼女が続けざまにどんどんおにぎりを食べるので、村雲はちょっと安堵し、そして同時におずおずと切り出した。
    「主はさんどいっち、好きなの?」
     すると口の中を空にしてから彼女は頷いた。
    「好きだよ。私パンが好きだから」
    「そうなんだ」
    「うん。家、現世にいた頃はいつも朝はパンだったんだ。その、赤いやつ、ジャムなんだけど」
     おにぎりを持っていない方の手で彼女がさんどいっちの一つを指さす。村雲はそれを手に取った。スンスンと鼻を鳴らせばどこか甘酸っぱい匂いがする。
    「木苺のジャムなの。向こうにいるときから好きで、今でも実家から送ってもらってて」
     現世から荷物を送ってもらうには、手続きが多く少々面倒くさいと聞いたことがある。しかしそれでもわざわざその手順を踏んでまで取り寄せたいものなのだということなのだろう。村雲は野菜や卵のものより薄いそれにかぶりついた。酸っぱい、けれど煮詰めた甘さと、種だろうか? どこかぷちぷちとした食感。
    「美味しいね」
    「でしょう?」
     どこか自慢げに彼女はそう笑った。それに嬉しくなって村雲もはにかむ。
     知らなかった。彼女が現世にいるとき、審神者になる前に朝食べていたもの。そして今好きなもの。
     彼女のことを好きだと思っていても、けれど村雲は彼女のことをちっとも知らない。勿論主としてならわかることもある。いつここに来て審神者になったのか。何年そうしているのか。一週間のうち月曜には出陣計画を立てていて、金曜には経費の領収証をまとめたりしている。でも、お休みの日、審神者でないときは何をしているのかよくわかっていない。彼女のことは村雲よりも他の刀のほうが知っていて、彼女のほうが村雲については知っていることが多い。
     ああ、だめだ。先程誤魔化したもやもやが再び胸のあたりにつかえている。
     村雲は今顕現して数年、もう新刃ではない。顕現したての頃は彼女に細目に世話を焼いてもらった。本丸の過ごし方を説明してもらい、不便はないか短い間隔で話も聞いてもらっていた。しかし今はそんなことはない。そうなると彼女との時間は当然ながら少なくなり、今は自分から彼女を尋ねなければ声をかけることもできない。村雲にとって彼女はたった一人の主でも、彼女にとって村雲は今本丸にいる百振と少しの刀剣男士の一振なのだ。考えれば考えるほどどうして彼女が自分を選んでくれたのかわからない。
     有名な逸話があるわけでもない、立派な人物が元の主だったわけでもない。それどころか二束三文の負け犬で、こうして刀剣男士の体になってもなお、何か取り柄があるわけでもない自分を。
    「ほ、かには何が好き?」
     焦って、村雲は彼女に尋ねた。せめて多く、彼女のことを知りたい。今彼女と二人きりで出かけているのは自分で、少なくとも恋刀なのも自分なのだ。だからせめて、今まで知らなかった彼女本人のことを何か。
     すると彼女は咀嚼していた動きを止めて、村雲の作った弁当を見下ろす。それから箸で卵焼きを一つ摘まんだ。
    「卵焼き、結構好きだよ」
    「そ、そっか、卵焼き」
    「うん、いただきます」
     柔らかいそれを彼女が口にする。覚えておこう、彼女は木苺のじゃむと卵焼きが好きで、それで。
    「この卵焼き、すっごく美味しい。これは雲さんが作ったの?」
    「え、あ……」
     卵焼きは、違う。作り方は教えてもらったものの、うまくできなくて篭手切が焼いたものを詰めた。流石に料理は一朝一夕でどうにかなるものではなかったから、仕方ないと皆にも言われた。自分でもそう思ったし、これから教えてもらって練習もするつもりだった。
     つもりだったけれど。
    「そ、うだよ」
     違う、違うのに。村雲の口は勝手にそう答えていた。
    「すごいね。私甘い卵焼き大好き」
    「そ、っか。覚えておくね」
     背中を嫌な汗が伝う。
     嘘を吐いてしまった。本当は違う、村雲の卵焼きはうまく包めなくて焦げてしまったのだ。だから食べれそうなところを切って五月雨と一緒に食べた。火が通り過ぎて少し苦いくらいだった。
     なんで、なんでこんな嘘を吐いてしまったのか。今から違うと訂正するしかないが、それではどうしてそんな間違いをしたのか言わなくてはならない。
     自分のどうしようもない見栄や嫉妬のために、嘘を吐いたと。
     それから何の話をしたか、村雲はあまり覚えていない。お弁当を分け合ってなんとか半分以上は食べて、林道を一周して本丸に戻り、睡眠不足が祟って帰城した後は泥のように眠った。



    「じゃあ私、頑張っていい主になるね」
    「え?」
     襖を閉めきって少し籠った部屋で、それでも明るく彼女は言った。
    「雲さんの元の主が悪人かどうかっていうのは見方によると思うけど……、それが原因なら、ひとまず私が頑張っていい主になれば少しはお腹痛いのもましにならないかな。どう?」
     何を言われているのかよくわからなかった。めちゃくちゃな理論だと思った。いかにその時点の村雲がいくらか彼女に好感を持っていても、流石に無理を言っているのではないかなと正気を疑った。大体、何をもってして「いい主」になるのだろう。
    「ずっとお腹痛いのは嫌だよね。だったら私、頑張ってみるよ。どうなるかはわからないけど、やってみないことには何とも言えないんだし」
     ね、と彼女が村雲の隣で笑う。それは初めましてのときから、何も変わらない表情だった。
     布団の中で村雲は何度か瞬きを繰り返す。うとうとしていて、寝ているのか起きているのかわからない時間がかなりすぎた。今のやや懐かしい記憶も、夢なのか頭の中で勝手に思い起こされたものなのかわからない。今日が非番で良かったと思いながら、村雲は蹲る。
    「雲さん、雲さんお昼の時間です。まだ疲れていますか」
     とんとんと五月雨に掛布団越しに背中を叩かれる。今朝も起こしてくれたのだが、疲れていると村雲が言えば、前日にろくに眠っていなかったことを知っている五月雨はそのまま寝かせておいてくれた。それで午前中は丸々部屋に引きこもっていたわけだが、体調も心持も何も良い方へ向かっていかない。
    「いらない……」
     ぼそりとした村雲の返答に、背中に触れていた五月雨の手が離れる。五月雨を困らせても仕方がない、それはわかっている、わかっているのだけれど。
    「ですが朝も食べていません。お腹が痛みますか?」
    「お腹は平気だから……ごめん」
     本当に、不思議なほどお腹は痛まなかった。代わりに最悪の気分で起き上がる気力もない。だからただじっと布団の中で蹲っていると、今度は襖が開く音がした。
    「村雲、村雲。黙ってちゃ僕らも何もできないだろう、村雲。どうせ昨日何かあったんだろう、言ってみて」
    「村雲さん、何も食べていませんよね。お腹は空きませんか。おむすび、持ってきましたよ」
     松井と篭手切の声がする。村雲はぼんやりとただそう思った。わかっていたけれど返事ができなかった。それどころか一層胸が詰まって膝を強く抱える。
     嘘を吐いた、嘘を吐いた。こんなに心配してくれる皆の気持ちを利用した。それだけで自分がどんどん嫌になる。しかもその上で彼女との仲が何か発展したわけでもない。
    「ねえ、村雲」
     しびれを切らしたのか、松井が村雲が被っていた布団をゆっくり引っ張った。ずるりと肩くらいまでが外に出る。ずっと籠った空気の中にいたので首や頬がひんやりした。
    「言ってみて。僕らに隠しごとしたり遠慮したってしょうがないだろう。今まであれだけ遠慮なく頼ってきたんだ、ね? どうしたの」
     低く、穏やかな松井の声にじんわりと視界が滲んだ。黙っているわけにはいかない。こうなると、村雲にできることは正しく何があったか報告するだけ。村雲はのろのろとした動きで布団から起き上がった。五月雨や松井たちがいる方を向かなければと思ったけれど、俯いたままなかなか切り出せない。
    「……すみません、後で、きちんとお呼びしますから。今は」
     背後で、とても静かな声の五月雨がそう言ってくれるのが聞こえた。この期に及んで意思表示もできないことが情けなかったけれど、村雲は膝を抱えて動けなかった。
     五月雨以外の刀が部屋から出て行く。五月雨が背を向けている村雲のほうを向いたのが畳の擦れる音で分かった。
    「雲さん、私も部屋にいない方がいいですか」
    「……」
    「とはいえ私はここに居るだけですから。本に集中していて、何か聞こえてきても気が付かないかもしれません」
     それきり、五月雨は何も言わなかった。鼻を啜って、頬を拭う。部屋にはただ、村雲がそうして動いたときの衣擦れの音と、鼻水の音だけが響いた。
    「……俺、昨日、嘘ついた」
    「……」
    「篭手切が作ってくれた卵焼き、俺が焼いたって主に言っちゃった」
     皆、好意で村雲に協力してくれていたのに。それを踏みにじるような真似をした。確かに村雲は皆を頼ったけれど、助けてほしかったけれど、こんな風にしたかったわけではない。
     それなのに、嘘をついてしまった。
    「……たぶん、ほんとに、一目惚れだったんだぁ」
     だって、びっくりするくらいきらきらした瞳でこちらを見上げていたのを、まるで昨日のことのように覚えている。
    「わあ……すごく、綺麗な子が来たね」
     綺麗、はあまり言われ慣れていない言葉だった。だから顕現したばかりの村雲はやや居たたまれない気持ちで、所在なく足元を見つめた。
     嫌だなあと思った。最初の評価が高いと、あとでより一層、二束三文の価値や負け犬であることにがっかりされるかもしれない。自分の身の程は弁えているつもりだが、誰かに失望されるというのは決して気持ちのいいことではなかった。
    「初めまして。今日からよろしくお願いします」
     だからそう言って彼女が手を差し出してきても、村雲はあまりそれを快く取るような気分にはなれなかった。最初に期待されると、後が怖い。けれど初対面で挨拶をしないというのは、これからこの本丸で刀剣男士として生きていくのによくない。それで結局、村雲は彼女の手を取った。処世としてそうするべきだと思ったからである。
    「……雨さんはどこ? 俺は雨さんと一緒にいられさえすればそれでいいんだ」
     そうだ、それだけでいい。だから自分にはあまり期待しないでほしい。
     何をしても、どれだけ頑張っても、ものごとの価値は容易く変わる。誰かが勝って正義になるとか、今度は負けて悪になるとか、そんなことで。だから大好きな仲間といられるだとか、そういう小さな幸せを抱えていたい。それ以上を手に持っては、お腹が痛くなる。
     そう思っていたのに。
    「そっか、五月雨の言ってた『雲さん』! こっちこっち、多分ちょうど遠征から帰ってきたと思う、きっと五月雨も喜ぶよ」
     彼女は村雲の手を握ったまま、引っ張って促した。結構な勢いだった。いや別に場所を教えてくれればそれでいいだとか、そういうことを言う暇さえなかった。手を引かれた村雲はついていけなくてたたらを踏んだ。それでも彼女はしっかりと村雲の手を握っていた。
     自分よりも小さい手。冬の透明な空気と薄曇りの空からきらきらと差し込んでいた日光。それと同じくらい眩しい笑顔で、彼女は村雲と手を繋いで縁側を進んだ。
    「いや、まあ、主、割といつも新しい刀が来るたびに喜んではしゃいでたから……俺だけそうしてくれたんじゃないってわかったときはちょっと、落ち込んだけど」
     苦笑しながら村雲はまた鼻を啜る。けれどそれでも、ちょっと落ち込んでもなお、あの日見た彼女の笑顔は薄れたりしなかった。彼女もまた、村雲にがっかりしたり他と比べて卑下することもなかった。村雲が卑屈になればその度に否定して叱ったし、他の名刀たちと同じように村雲を扱った。最初に出会ったときのままでいてくれた。
     それに、と村雲は言葉を続けようとして、結局やめて口を噤んだ。「あの約束」は、自分の心の中に取っておきたい。たとえ村雲と彼女の関係がだめになってしまっても、あの日の出来事だけは。
     そうして大切に、大切に彼女のくれた言葉を大事に抱えていた、ただそうしていたかった。でも何度も諦めようとして、諦めきれなくて、それで。
    「……嫌われたく、なかったんだ」
     彼女が言ってくれた「綺麗」を、一つも失いたくなかった。自分の引け目をわかっていてもなお、彼女にがっかりされたくなかった。やっぱり「負け犬」で「二束三文」なのだと、彼女にだけはそう思われたくなかった。
    「そんなの無理なのわかってるけど、だって俺は結局、『そう』なんだし。それは変えられないけど、でも、主にはそう思ってほしくなかった」
    「……」
    「……皆に謝らなきゃ」
     たくさん協力してもらって、それなりに頑張ったつもりだったけれど、嘘までついてしまった。それでも謝ったなら、きっと篭手切は許してくれるだろう。卵焼きの焼き方だって教えてくれる。けれどそうやって必死に自分をよく見せようと塗り固めたところで、結局村雲は負け犬で、二束三文なのである。
    「やっぱり、俺じゃ分不相応だったんだよね。嘘までついて、もし今回は許してくれても、きっとこれから一緒に居たらどんどんボロが出るし、そしたら主だって今度こそがっかりして」
    「そんなことないんだけどな」
     村雲の言葉を遮って、穏やかで、しかしどこか少し怒ったような声がした。無論聞きなれた五月雨のものではない。だが別な、いつも村雲が耳を澄ませていた声。
    「……え?」
     恐る恐る村雲は首を回してやっと振り返る。するとそこには、何故だか何とも言えない表情の彼女が立っていた。どうしてだか五月雨は居ない。何故居ない。
    「……えっ、なんで、どうし、雨さんっ? 雨さんはっ?」
     驚きで声をひっくり返らせながら村雲は尋ねた。だって今は昼下がりなのだ。彼女はまだ「営業時間」のはずで、昼休みでもない。今日の部隊に編成されておらず、内番でもなんでもない村雲のところになんて来るはずがない。けれど彼女は息を吐いて、後ろ手に部屋の襖を閉める。それからすたすたと村雲の傍まで歩み寄った。
    「五月雨なら私のこと部屋に入れてくれた後に出て行ったよ」
    「えっ、え、なんで、主なんでここに」
    「雲さんがここにいるからでしょ」
     ふう、と息を吐いて彼女は村雲の隣に腰を下ろす。当然村雲の心臓は喧しく鳴り始め緊張で体も強張ったけれど、こうなってしまうと逃げられない。それは彼女に対する拒絶であることくらい、村雲にもわかっていた。そしてそうしてしまえば、村雲と彼女の関係が今度こそ完全に終わってしまうことも。だから村雲は余計動くことができなかった。
     彼女は村雲と同じように膝を抱えて座ると、ぼそりと呟く。
    「どうしてそれ、私に直接言ってくれなかったの?」
     村雲はその問いに答えようとして……答えたいとも思っていたけれど、うまく言えずに結局ただ謝った。
    「……ごめん」
    「私、雲さんが持って来たお弁当が例えば万屋で注文したものだってたぶん嬉しかったし、ちょっと見栄張って嘘ついても、そのくらいなら言ってくれれば気にしないよ。あんまり大きい嘘は、嫌だけど……」
     彼女は諭すように村雲にそう言った。しかし村雲はやはりどう言ったらいいかわからなかった。
     嘘を吐いたのも事実であれば、何も良いところがなくそれをどうにもできない自分に引け目を感じて、見栄を張って、自分よりも格段に良く見える他の刀にもやもやとした嫉妬をしたのも本当である。それを彼女が慰めてくれているのもわかるが、結局根本的なことは何も変わらないのだ。
    「ごめんね……」
     村雲がぎゅっと膝を抱えて蹲れば彼女はどうしたらいいか迷ったようで、何度か口を開いたり、また閉じかけたりしていた。苦しい。大好きな彼女を困らせたいわけではなかった。
     暫くの間、彼女は黙って何か考え込んでいた。それからスッと立ち上がったのがわかる。
     ああ、と村雲は膝を抱えていた腕から力が抜けた。やっぱりだめだったのだ。こんなことなら辛くても諦めて、彼女に告白なんてするんじゃなかった。
     そうしてたった一週間にも満たない期間のことを村雲が後悔しかけたとき、彼女が移動して村雲の正面に座った。
    「……え」
    「雲さん、面倒くさいよ」
     息を吐いて、彼女はあっさりそう言った。ガンと村雲は頭を殴られたような気持ちになる。
    「め、めんどうくさって、えっ」
    「でも雲さん自分で面倒くさい自覚あるよね。あるから公園行ったときもなんか色々悩んだり言わなかったりしたんだよね。あー、今そうなんだろうなあっていうのすごくわかりやすかったよ。散歩ルートどこがいいか聞いたときとか、休日何してるか聞いたときとか。うわ、面倒くさいこと考えてるんだろうなーっていつも思ってたよ」
     驚いて村雲は何も言えなくなり、ついでに彼女の顔を凝視してしまった。今までこんなにまじまじと彼女の顔を見たことがないくらいに。すると当然なのだが彼女としっかり視線が合う。彼女はじっとこちらを見つめ、それから眉を下げて微笑んだ。
    「でも雲さん知らないでしょ。私がそういう躊躇しておろおろしてる雲さん見て、可愛いなあって思ってたりしたの」
    「えっ」
    「雲さんと出掛けるのに清光に服とかメイクの相談したことも、パンとサンドイッチが好きなのは嘘じゃないけど、お弁当それにしたのは日曜の朝早起きするのがしんどかったのが理由なのも、あとちょっと前の話だけど私と雲さんが付き合うことになった次の日の晩御飯が雲さんの好物だったのは、調理当番してた歌仙からのお祝いだったのも」
     全く知らない情報が立て続けに流れてきて、村雲は目を白黒させた。歌仙からのお祝い、ということは本丸の中で村雲と彼女の関係はそれなりに知れ渡っている? いや、それは江のものに早い段階で村雲の想いが筒抜けだったことを考えればそう不思議ではないが、その上でお祝いされている? 何故? 彼女の相手が自分でも他の刀たちはいいのか。
     そうして混乱しきっていると、彼女はゆっくり一呼吸してからひっそりと言った。
    「……私が雲さんが執務室に来るか来ないかで一喜一憂してたのも、知らなかったでしょ」
     突然、耳が熱くなった。ついでに激しく胸も鳴り始める。都合のいい幻聴を聞いたのではないだろうか、あの告白した日のように。
     村雲が黙りこくっていると、彼女は少し視線を伏せて囁く。
    「……ほら、私も今まで黙ってたこと言ったんだから。雲さんも教えてよ。」
     鼓動が早くて、浅くしか呼吸ができない。どうしたらいいか村雲は必死で考えた。助けも求めたかった。しかし今室内には彼女と村雲しかいない。松井も、桑名も言っていた。結局は彼女と二人で話すしかないのだと。
    「あ、の」
     発した声はかなり掠れていた。膝を抱えている指先は力がこもり白くなっている。けれど彼女は何も指摘しなかった。じっと村雲の正面に座っていた。村雲は唇をかみしめて湿らせ、もう一度開く。
     たぶん、彼女は村雲の言うことにがっかりしたとしても……きちんと聞いてくれるだろう。村雲が話したいことを伝え終えるまで、きっとそこにいてくれるはずである。
    「公園行ったときの服、可愛かったからもっと見たかった……髪も……」
    「うん」
     彼女はただ頷く。村雲はなんだかまた泣き出しそうになってしまって、ぎゅっと目元に力を入れた。
    「……本当は写真撮りたかった」
     そう呟けば、彼女は手を伸ばして村雲が膝を掴んでいる手を握る。村雲が強張っていた指をやや解くと、彼女はするりと膝と村雲の手の隙間に指を滑り込ませた。
    「じゃあまた今度同じ服着るね。髪……と顔は、清光にお願いしないといけないけど」
    「どうして加州に、服と髪頼んだの?」
    「……私だって見栄くらい張りますー」
     拗ねたような彼女の言い方に、村雲はふへと半べそをかきながら笑った。
    「あとお休みの日……、のんびりしてるなら一緒にいたい」
    「……それは空き時間あるならって誘おうかなと思ってた」
    「でもあんまり一緒にいたいって言うと面倒くさいって思われるかなって」
    「今更?」
     う、と村雲が言葉に詰まれば、彼女は小さく笑って肩を揺らす。村雲の手は彼女に上から包むように握られていて、村雲はその指先を握り返した。
    「……主がどうして俺のこと選んでくれたのかわかんなくて、今でもわかんなくて、ずっと考えてる」
     何度考えても、やはりわからない。
     村雲は、この本丸に数多くいる刀剣男士のうちの一振。目立った逸話があるわけでもなく、有名な主がいるわけでもなく、それどころか元の主は「悪人」と言われている。更に悪いことに金銭的な価値も高くなく、ヒトの器としては料理が得意だったり、手先が器用だったりするわけでもない。村雲よりも経験が豊富な刀は他にもいて、特別彼女の力になれるわけでもない。そんな刀の一振、どこにでもいる刀。
     彼女は視線を伏せて、やや考えた。少しの間そうしていて、それからやっと口を開く。
    「ねえ雲さん……雲さんはたぶん、今私が何を言ってもあんまり自分に自信、持てないよね」
     彼女に褒められれば、それは嬉しいだろう。今までも、恐らくこれからもそうだ。村雲が卑屈になったとき彼女が否定してくれるときはいつも嬉しかった。ちょっと明るい気持ちになった。
     けれど村雲のお腹の辺りにいつも淀んで溜まっている、重苦しい何かが完全に消えるわけではなかった。
    「そう、かも……ごめん」
    「ううん、それは謝ることじゃないと思う。誰だって自信持てないことはあるよ」
     ほんの僅かに繋いだ彼女の指先が震えたのがわかった。声ははっきりと、頼りなくはなかったがそれでもいくらか調子が落ちる。
    「雲さんがどう思ってるかわからないけど、私だって、ここにいたら本丸なんて立派な場所の主でも、現世ならどこにでもいる一般人なんだよ。特別美人じゃないし、誰かより得意なことがあるわけでもないし、たぶん生涯年収は雲さんの値段以下だよ」
    「しょ、生涯年収」
    「だから私は、本当なら何にもなれなかったんだと思う。きっと」
     そんなことないと言いかけて、村雲はそう口にできなかった。それは村雲が皆に抱いているほの暗い劣等感と同じ。本当ならここに並びたてるような刀じゃない、聞きたくなくても聞こえてくる周囲の評価、好き勝手に言う声。
     こちらがどう思っているかなんて、お構いなしに。
    「でもそれでも、皆は私のこと皆の主にしてくれたけど。私は皆の主なんだって、ちょっとは自信もって思えるようになるのに、時間がかかった。だから雲さんが、今私がなんて言ったって、きっと自分で納得するまでは、しんどいけどずっとそうなんだと思う。でも私は自分が大切だって思ってる誰かや何かをを卑下されたり、取るに足らないものなんだって思われたら……すごく悲しい。本当はそう思わないでほしい。思わないでほしいよ」
     それはとても、難しいことだ。村雲は悲しい気持ちで彼女に握られた自分の手を見つめた。彼女が村雲を思ってそう言ってくれていることはわかる。けれど結局村雲自身で決着をつけない限りこのままだという指摘も正しい。
     周囲が何と言ったとしても、自分を大切に思う人を何の疑いもなく信じられたらどれだけよかっただろう。そうできれば、村雲の腹も痛まなかった。村雲の知る元の主を、江のものの仲間を、こうして励ましてくれる彼女を、お祝いしてくれたという本丸の仲間たちだけを見つめていられたら。
     しかし今の村雲はそうできない。たまに聞こえる気がする悪い評判を、暗い声を、必死で聞かないように耳を塞いで、痛む腹を抱えて蹲ることしか。
     口を噤んでいる村雲を見て、彼女は息を吐いた。
    「私は雲さんが言いたいことがあるなら言ってほしい。困ってることがあるなら教えてほしいって思う。雲さんの主だから。でもそれと同じくらい、困ってたり、悩んでたり、面倒くさいこと考えてそうだなってワタワタしてる雲さん見ると可愛いなあって思う。雲さんのことが好きだから」
     ぎゅっと彼女はもう一度村雲の手を握った。
    「だから毎日そう言うよ」
    「えっ」
     毎日って、何をだろう。今言ったことをだろうか。彼女が、村雲を好きだということを? それを毎日? 村雲が鳩が豆鉄砲を食ったようになったのと対照的に、彼女の方は口に出したことで一定の理屈が通ったらしく、妙に晴れやかな顔で頷いていた。
    「だっていきなり信じろとか自信持ってって言われても難しいでしょ? だから言うよ、毎日」
    「ま、毎日?」
    「うん、毎日雲さんのこと好きだって言うよ。そしたらそのうち、自信になるかもしれないし」
     改めて村雲は何を言われているのかわからなかった。彼女相手にこう思うのは二度目である。いくら彼女に好意を持っていても、正直何を考えているのかわからない。そしてその提案には問題がある。村雲は逡巡し、言葉に詰まりながら尋ねた。
    「そ、れは恥ずかしいんじゃない?」
     すると彼女はやや三白眼になってじっとりと村雲を見つめる。
    「……恥ずかしいよ、毎日言う私が一番恥ずかしいんだからね。そのくらい我慢して」
    「う、うぅ」
    「というかそもそも、自分から付き合ってほしいって言って来たのに何でオッケーしてくれたのかわからないので一人で悩みます、は卑怯じゃない? だったらこれしかないじゃん、我慢してよ。一緒に出掛ける度に雲さんに部屋に引きこもられちゃ困るし」
     それを言われてしまうと村雲は閉口せざるを得ない。ぐ、とかうぅとか変な唸り声をあげて、村雲は縮こまった。提案自体は嬉しいか嬉しくないかで言えばかなり嬉しいのだけれど、その反面村雲の羞恥心だとか精神だとかの耐久が心配だ。毎日彼女にそんなこと言われていたらどうにかなってしまうかもしれない。
     しかし村雲が悶々と今後を危惧していると、彼女が空いていたもう片方の手を握っている村雲の手に添えた。温かい手だった。
    「でも、聞き飽きたって言われても言うよ」
     真っ直ぐに、彼女は村雲の目を見つめていた。
     一日や二日では、村雲の劣等感や嫌なもやもやはなくなってはいかないだろう。もしかしたら、彼女がここまでしてくれてもなお「村雲江」という刀剣男士に刻まれた在り方は変わって行かないのかもしれない。腹はずっと痛むままで、周囲の評価や、正義や悪に付き纏われていくのかも。
     けれどそれでも、この手を握っていたい。こちらを見ていてほしい。諦めきれなくて、村雲の方から握った手なのだから。
    「い、言わない……」
     村雲がそう絞り出すように言えば、彼女は和らかく笑ってもう一度しっかりと村雲の手を取り直す。
    「約束ね」
     彼女は静かにそう言うと、執務を抜けてきてしまったからと部屋を出て行った。それから少し時間を置いて五月雨が部屋に戻ってきて、他の江のものも顔を見に来てくれたので村雲は昨日のことを謝る。やはり誰も村雲が嘘を吐いたことは怒らなかったし、篭手切には「ふわふわの卵焼きが焼けるようになるまで頑張りましょう!」と励まされた。「料理番組のめいんえむしーを狙います」とも言われた。よくわからなかった。
     そうして起きたときはずっといい気持ちで夜を迎え、朝と昼の分もしっかり夕食を食べ、入浴なんかを済ませて村雲は布団に横になったのだけれど、今度は全く眠れなかった。眠気の「ね」の字も村雲には訪れなかった。
    「……毎日って、本当に、毎日なのかな」
     一体いつ、言ってくれるのだろう。これから村雲はそれにずっとどきどきしながら暮らさなくてはならないのだろうか。やはりおかしくなりそうである。
    「寝れない……」
    「たくさんお昼寝をしたからですね。星でも見に行きますか?」
     村雲がぼやけば、隣ですでに目を閉じていた五月雨が答える。てんで見当違いの五月雨の提案に、村雲は顔をくしゃりとした。
    「違うぅ……でも見に行くぅ……」
     胸がどきどきとして、でも不安で、気持ちはめちゃくちゃだけれど、間違いなく村雲には今日の星空は一番綺麗に見えるはずだった。
    micm1ckey Link Message Mute
    2024/06/16 19:03:03

    【6/30JBF2024サンプル】いとしのあるじ【通販予約開始】

    #雲さに #女審神者 #刀剣乱夢 #JUNEBRIDEFES2024 #花嫁ノ守刀JB2024
    審神者が大好きな村雲江と村雲江が大好きな審神者の話。

    ATTENTION!
    ・・オリジナルの女審神者がいます。
    ・独自の設定、解釈を含みます。

    ご注意ください。

    6/30(日)JUNE BRIDE FES内開催、花嫁ノ守刀JB2024に参加します。
    【東2ホール 東マ34a】からころりんにて頒布します。
    文庫判/150P/900円(イベント頒布価格)で決定しました。
    通販頒布も予定しています。
    部数の参考にするので、ブックマークにご協力いただけますと幸いです。

    よろしくお願いいたします。

    【6/20追記】
    通販予約が開始されました。
    よろしくお願いいたします。
    https://ecs.toranoana.jp/joshi/ec/item/040031162686

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