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    路傍の牡丹


    「気をつけて行ってくるんだよ。いいね、知らない人についていってはいけないからね。言葉のことはきっと青江が何とかしてくれる。いや、何とかしないと承知しないよ」
    「んっふふ、わかっているさ。心配性だねえ」
    「そうだよ、歌仙。青江さんこれで案外真面目だから大丈夫」
    「君も存外酷いねえ」
     あんなにも美しかった髪を顎の下で切りそろえて、歌仙の妹分だった少女はくすくすと笑う。歌仙の知っている彼女は友禅の着物の袖を振る幼い姿だったのに、今はどうだろう。紺色の洋装は確かに彼女によく似合っていたが、まるで知らない人のようだ。その変化を、ほんの少し寂しいと思う。
    「じゃあ、そろそろ行かないと。船が出てしまうよ」
    「はい、青江さん」
    「荷物は持っていってしまうから。僕は数珠丸に挨拶してくるよ。乗り遅れないようにね」
     青江はひらりと手を振って、行ってしまった。残された少女はふふふと笑う。
    「気を遣ってくれてるの。私と歌仙が寂しいだろうって」
    「……根は優しいからね」
    「うん、そうなの。少し不器用だけど」
     船の汽笛が鳴ったので、少女は顔を上げた。それからもう一度歌仙のことをまっすぐ見つめる。短くなった髪が、潮風に揺れていた。
    「幸せなんだね、君は」
    「……ええ、とても。幸せよ」
     歌仙の手を取って、少女は微笑んで見せた。それは思わず歌仙がハッとしてしまうような美しい笑みで、声を上げてしまわないよう、代わりにきゅっと彼女の手を握る。
    「さよなら、歌仙」
     たたたっとブーツを鳴らして駆け出し、少女は待っている青江の元へ行った。義兄に頭を下げて、二人は手を繋ぎ船に乗り込む。歌仙はただ、その姿を見送っていた。
     船が出て見えなくなってしまってから、青江の当主が「おや」と歌仙に気がつき微笑みかける。家の間柄上、一応初対面ではない。しかし人見知りが災いして、歌仙はただ会釈を返した。
    「あなたも見送りに来てくれていたのですね、歌仙殿。可愛い弟と義妹が遠くに行ってしまって、寂しいことです」
    「……そうだね、寂しいよ」
     遠い遠い日々の憧憬をこめた初恋が終わったのだなあと、歌仙は思った。



     本当は自分はこういう柄じゃあないと歌仙はよく知っていた。末の弟の和泉守に任せるよりずっとましなのだけれど、それでもあまり、よろしくない。というのも彼はひどい人見知りなのだ。
     華族の端くれ兼定一門。代々続くこの家は風雅を極めた歴史の長い家だった。時代の変わり目で廃れて行った華族は多くあれど、兼定には芸がある。だからそれなりの生活を保ってここまで家を繋いできた。だがそろそろ、当主名代の歌仙の精神のほうに限界が来そうである。
    「だーからよお、大人しくあの小娘を嫁にもらっとけばよかったのによ。二代目」
    「……そうはいかないよ、和泉守。青江と幸せになるってあの子は言ったんだから。それより僕が何とかするべきはこの縁談だね」
     ややげんなりとしながら歌仙は積み上げられた見合いの写真と睨めっこする。でもよおなんて言いながら、和泉守もそれに従ってぺらぺらとそれらを捲っては閉じを繰り返した。
     数年前に兼定の当主が倒れてからずっと、歌仙はその名代を務めている。元々跡目に決まっていたから、確かにどたばたはしたけれどそれは苦ではなかった。一応そのときにも縁談は持ち上がったのだ。当主たるもの、妻帯は半ば義務である。子どもを残す努めも、家を纏め上げる手段としても、奥方は必要不可欠だ。しかしドサクサ紛れに歌仙はそれをなかったことにした。半分は、本当に忙しかったせいもあるがもう半分は意図的に無視した。何せ歌仙は自分が選り好みが強く、かつ人見知りなのを理解している。それなのに突然初対面の女性と会って話をして、しかも妻に迎えるだなんて逆立ちしたって出来るはずもなかったのだ。なお逆立ちは実際には雅ではないのでしない。
    「そろそろ、僕も正式に家督を継がなくちゃならない。ともすれば見合いは避けられないから、仕方ないのはわかっているんだが……」
    「だからあいつにすりゃよかったんだ」
     ぶちぶちと言う和泉守をぽかりと一発殴ると、和泉守はぐっと呻いた後に何も言わなくなった。歌仙とて和泉守が言わんとしていることはわかっているけれど、それ以上言われてもただ傷になるだけなのでやめてほしい。
     どうしたものかと考えあぐねていると、「歌仙様」と女中の一声を置いて小さな人影が姿を現した。懇意にしている左文字の三男坊である。
    「お小夜……! よく来てくれたね」
    「宗三兄様が、様子を見てくるようにと」
    「宗三が?」
    「落ち込んでいないかと気にしていました」
     それを聞いて、歌仙は苦笑する。勘のいい宗三には、歌仙の現状などお見通しだったらしい。
    「大丈夫だって宗三に伝えてくれるかい。僕は平気だから」
    「……そうですか」
     小夜もまた気遣わしげに歌仙を見上げたけれど、何も言わなかった。しかし積み上げられたお見合い写真に気付いて、若干げんなりした表情を浮かべる。細い指でそれらを指差し、「なんですか、これは」と聞いた。
    「このところ毎日来るんだよ。僕もお手上げでね。この中から一人選んで会うだなんて、難しいよ」
    「全員に会ってみればいいのでは」
    「そんな無茶を言わないでおくれよ、お小夜」
     そんなの無理だ。たった一人と出会うのですらこんなに心が重たいと言うのに。歌仙がはあと溜息を吐いていると、小夜は手元の一冊を取って捲り、再び置いた。
    「僕の家も今江雪兄様が同じように悩んでいますが……江雪兄様の分は宗三兄様がある程度の人数まで絞っていますよ」
    「和泉守にそんなことができると思うのかい?」
    「おいおいひでえな二代目」
     小夜は肩を落とす歌仙の背をぐいぐいと押した。途中で上着を取って、それを投げかける。
    「少し散歩でもしてきたらどうですか。その間僕が目を通しておきます」
    「ええっ? お小夜、でも」
    「それに、心が塞いでいるときに何を見ても正常な判断なんてできません」
     そう押し切られ、歌仙は仕方なしに家から出た。車も使わずに歩けという指示だったので、とぽとぽと街へ出る。そう言えば最近古書店も覗いていなかったななんて考えながら、ただ思いつくままに歩くことにした。やれやれ、お小夜にも気を遣われてしまった。歌仙は苦笑しながら石畳を見つめる。
     ついこの間歌仙が見送った少女は、歌仙の親戚の娘であり、幼馴染であり、妹分でもあり……きっと初恋の相手だった。「きっと」というのも、最近になってやっとそう気がついたのである。彼女が遠くに行ってしまってから。だからもう、どうこうできるというわけではないのだが……、最近どうも調子が悪い。いつもどこかぼんやりとしてしまうし、彼女にはお嫁に行ってしまったとはいえ半月に一度は会えていたから、落ち着かない。そうやってもう本当に、手の届かないところに行ってしまってから、気がついたのだ。
     自分は本当に、あの少女を大切に想っていたのだと。
    「あはれとも……なんて言う権利すら、僕にはないんだろうね」
     自嘲気味に歌仙は呟く。だって自分は、それに気がつくのが遅すぎたのだ。いいや、正確には、目を背け続けていたのかもしれない。薄々そうではないかと思いながらも、本当に手に入らなくなる日が怖くて、拒絶が怖くて、恋を見て見ぬ振りをした。きっとそれが、悪かったのだ。
     ひらりと目の前を花が舞っていく。あの子は幸せだと言った。ならばせめてそれを喜びたい。遠い異国の地に行ったとしても、愛する人の傍で笑っているのだと。
     僅かに痛む胸を押さえて、歌仙は花弁を目で追いつつ物思いに耽った。ああ歌が詠みたい。こんなときこそ、詠まなくてはならない。そういえば近頃そんなこともできていなかった。お見合い写真に埋もれ、名代の仕事が忙しくて。今ならきっと、素晴らしいものが詠める。そう思った歌仙が、矢立を出そうと懐に手を突っ込んだときだった。
    「痛っ!」
     どんと前を歩いていた人にぶつかってしまった。若干上の空だった歌仙は慌てて声のしたほうを見る。女の人なのは声のトーンでわかった。早く助け起こさなくては。
     しかし倒れたらしい彼女のほうを見て、歌仙は凍りついた。項の辺りで揺れる髪、動きやすそうな洋装。似ている、最後に見た、あの子の後姿に似ている。
    「……っ君!」
     思わず手首を掴んでこちらを向かせてしまった。ひらりと切りそろえられた髪が揺れて、意志の強そうな目と視線がかち合う。そこでやっと、我に返った。
    「あ……」
    「痛いわ、何するの」
     キッとこちらを見た瞳は、強い光を宿している。あの子よりずっと、凛とした顔立ちだった。
     違う、あの子じゃない。間違えた。
    「ちょっと、人にぶつかっておいてただ突っ立ってるだけなの? 乱暴に起こしておいて?」
     歌仙が呆けていると、彼女は不機嫌そうに歌仙を見つめた。しまった、そうだった、自分は彼女にぶつかってしまったのだった。焦って謝罪しようとするも、これまた人見知りが災いし咄嗟に言葉が出ない。
     まさか初恋の女の子に似ていて、ついつい引っ張ってしまったとは言えないし。小夜あたりが傍にいれば、「ただ謝ればいいんですよ」とでも言ってくれただろうが、残念ながら今の歌仙は一人だ。
    「す、すまない、その」
     歌仙がおろおろとしていると、彼女は手元を見てもっと悲惨な声を上げた。
    「ああ……っ! 破れてしまったわっ! 私の本!」
    「えっ! なんだって!」
     本と聞いてやっとはっきり声が出る。どうやら倒れた拍子に、彼女の手にしていた本の頁が破けてしまったらしい。これには流石の歌仙も青ざめた。歌仙とて風雅を愛する兼定の一門、書籍の価値とそれを愛する人の心はわかっているつもりだ。
    「す、すまない、どこの本だい? 弁償しよう。ちょうどそこに懇意にしている書店があるから、取り寄せも頼めるはずだ」
    「結構です!」
     弁償すると聞いて、なぜかぎりと鋭い目つきで歌仙を睨み付けた彼女は、ぎゅっと胸に本を抱きしめて身を翻した。
    「すぐに本を弁償するだなんて言える人に、この本に触ってほしくなんてないわ! ましてやぶつかったのを謝りもできない無礼な殿方ですもの」
    「な、なんだって?」
    「身なりは立派だけれど、最低限の礼儀も果たせない方なのね。雅ではないわ。失礼します」
     歌仙はがあんと頭をトンカチか何かで殴られたような気がした。雅ではない? 自分が? 曲がりなりにも兼定一門の当主名代をしている、自分が?
     その女性は颯爽と短い髪を揺らして歩き去っていった。なんだったんだ、あの、嵐みたいな女性は。
    「ふふ、歌仙はいつも、とても綺麗な歌を教えてくれるのね」
     脳裏に幼馴染が過って、歌仙はぶんぶんと首を振った。
     ふんわりと笑って、歌仙の諳んじる和歌を褒めてくれたあの子とは大違いだ! 一瞬だって見間違えた自分の目が節穴だった!
     一気に歌を詠もうと思っていた気持ちや、古道具屋を見ようと思っていた気持ちが失せて歌仙は踵を返す。最近の女子は皆ああなのだろうか。あの子はあんなではなかった、もっとしとやかで、可愛らしくて、それで――
    「さよなら、歌仙」
     不意に悲しくなって、猛烈な勢いで動かしていた足を止める。
     ……背格好が、本当によく似ていたのだ。最後に見た姿に。紺の洋装の裾を翻し、青江に駆け寄っていく、あの背中。短くなってしまった髪が、快活に項で揺れていて。
    「……ただいま帰ったよ」
     当初の予定通り散歩とはいかなかったけれど、それなりに時間は潰して帰ったはずだった。それでも戻ってきた歌仙の表情を見て、小夜は心配そうにした。手にしていた歌仙への見合い写真を閉じ、傍に歩み寄ってきて尋ねる。
    「何かありましたか」
    「……聞いておくれよ、お小夜。とんでもない目に遭ったんだ」
     ぎゅっと小さなお小夜の両手を握って、歌仙はぽつぽつと話をした。
     ……ああ、あの子のことも洗いざらい話せてしまえば随分楽になるのに。そうは思ったけれど、歌仙はあの子のことは省いて話す。小夜は彼女のことを知っている。少しでも名を出せばきっとすべてわかってしまうだろう。
     しかしそんな風に思い悩みながら歌仙は話をしたというのに、ずっとそれを聞いていた小夜はといえば段々とげんなりした表情に変わった。
    「……それは歌仙が悪いです」
    「そ、そんな。だっ、だが、酷いと思わないかい? 確かに乱暴に起こしはしたかもしれないが、僕はちゃんと謝罪して弁償すると申し出たんだよ」
    「では聞きますが、例えば歌仙があそこに並んでいる詩集を読んでいたとして、不意に誰かにぶつかられて頁が破れてしまったら、弁償すると言われて許せますか?」
    「……」
     小夜が指差していたのは、幼いころに歌仙が小夜やあの子に読み聞かせていた詩集だった。頁の端々にたくさん歌が書きつけてある詩集。それは歌仙の筆跡だったり、小夜のものだったり……彼女のものだったり。
     確かに、それが破れてしまったら歌仙はとても悲しい気持ちになるだろう。弁償すると言われたって、書き付けていた歌は返ってこないし、擦り切れた頁も元通りにはならないのだ。
    「……お小夜」
    「別な日に同じところに立っていたら、また通りかかるかもしれませんよ、その人」
     小夜の言葉に、歌仙は小さく頷いた。それから小夜は机に積み重なった見合い写真のうち、右半分はもう仕分け終わったのだという。どれも小夜のお眼鏡には適わなかったらしい。全て断ってしまうといいと小夜は言った。
     それから残りの見合い写真すべてを家のものに持たせて、小夜は机の上を綺麗にしていった。
    「後はまた今度、仕分けて持ってきます。歌仙も、その間はお見合いのことは置いておいて、自分のすべきことをしてください」
     どこまでも正しくて、それでいて諭すような小夜の言葉に、歌仙は為す術もなくただ立ち尽くした。



     あっ来たっ! 石畳の橋の前に立っていた歌仙は慌てて手元の本に目を落とす。カツカツカツと威勢のいいブーツの音が段々と近づいてくる。顔を上げなくては、と思うのだがなかなか重たい首が持ち上がらない。ブーツの音は歌仙の前まで来て、それからじわじわと遠ざかり始めた。
     これではいけない。ここ数日、何のためにここに突っ立っていたと思う。歌仙は弾みをつけて勢いよく声をかける。後先はあまり考えなかった。
    「君っ!」
    「……私?」
     さらりと短い髪が揺れて、あの印象的な凛とした瞳が歌仙を射抜く。それだけで歌仙はかなり、怯んでしまった。だがお小夜の言葉を思い出し、何とか逃げ出しそうになる足をそこで踏ん張る。
    「き、君、だよ」
    「……あら、貴方」
     歌仙を認めるなり、彼女はものすごく嫌そうな表情を浮かべた。どうやら数日前のことをしっかり覚えているらしい。そのことに再度尻込みしつつ、それでも歌仙はなんとか一歩踏み出す。
    「そう、そうだよ、君も僕のことは覚えているだろう」
    「ええ、もちろんよ。私に何の用かしら」
    「それは……その、きっ、君に一言、言いたいことがあってね」
     しまった、かなりつっけんどんな言い方をしてしまった。内心で歌仙は青ざめる。案の定彼女のほうはきゅっとその眉を吊り上げた。
    「私のほうはありません。お帰りいただいて結構です」
    「あ、いや、僕があるんだ」
    「私はないの」
    「違、……っそうじゃない!」
     だめだ、だめだうまく言えない。謝りたいのだが、素直に言葉が出てこない。彼女はじっとこちらを見たが、言葉を喉に詰まらせた様子の歌仙に一瞥をくれると踵を返してしまった。
     ひらり、と切りそろえられた短い髪が翻る。そこで歌仙はハッとした。だめだ、あの時と同じだ。また行ってしまう、何も伝えられずに、あの子と同じように。
    「まっ、待ってくれ! 行かないでくれ!」
     やっと言えたのはそんな懇願だった。随分と悲痛な声音でそう叫んでしまい、歌仙は慌てて口元を押さえる。しかしそのおかげか、再び歩き始めていた彼女は怪訝そうな表情で振り返った。
    「……どうかしたの、そんな泣きそうな顔をなさって」
    「あ、違うんだ、これは……」
    「言いたいことがあるならはっきり仰って」
     ふうと息を吐いて再び歌仙の前に戻ってきた彼女は、どこかに行ってしまう風ではなかった。どうやら歌仙がきちんと言葉にするのを待っていてくれているらしい。
     何度か唇をはくはくとさせ、視線を惑わせながら、歌仙は手元の本に目をやる。今日こそ通りかかってくれないかと、もしそうなら必ず謝ろうと、手にしているのはあの詩集だ。擦り切れた装丁のその表紙をなぞって、視線を伏せたまま歌仙は口を開いた。
    「……すまなかった。先日の、僕の謝罪は間違っていた。それを、君に謝りたくて」
    「あら、なぜ急にそんな風にお思いになったの?」
    「そ、れは……僕にも、大切な本があるんだ。それを損なってしまったら、きっと弁償なんてされても相手を許せないだろう。だから」
    「じゃあ私を乱暴に立たせたのは何故?」
     ぽんぽんと相手のほうが歯切れよく会話を返してくるものだから、歌仙はぐっと黙りこくってしまった。彼女はそんな歌仙の様子をじいと見つめると、ふふと笑い出す。所作があまりにもはきはきとしているものだから、ハッと驚いてしまうくらい女性らしいたおやかな指で彼女は口元を押さえた。
    「ふふ、ごめんなさい。あなたがあまりに真摯に言葉をお選びになるものだからからかってしまって。いいわ、私のほうこそ、腹立たしかったとはいえ失礼な物言いを致しました。申し訳ありません」
    「い、いや! いいんだ、こちらこそすまなかった」
     ぺこりと彼女は頭を下げたので、歌仙は焦って両手を振る。彼女は微笑ましそうに唇を緩めると、鞄の中から懐中時計を出してきてパチンと蓋を開いた。女性が持つものにしては結構重そうで、重厚な作りである。古道具にも興味がある歌仙は、思わずその手元を見てしまった。
    「ごめんなさい、私これから帝大で講義があるの。わざわざ待っていてくださってありがとう」
    「あ、いや、その、それであの本は」
    「あれは……父の形見なの。だから、つい感情的になってしまって。ごめんなさい。じゃあ」
    「ま、待ってくれ、そんな大切なものをこれっきりにしてしまっては僕の顔が立たない、そうだ」
     歌仙は慌てて懐から矢立と懐紙を出すとそこに自分の連絡先を書きつけた。それをそのまま彼女の手に押し付ける。
    「金で全て解決すると思わないでくれ。ただ、君の大切な本をそんな風にしてしまったままでは僕の寝覚めが悪いんだ。だから僕のためだと思って、それは持っていてくれ、連絡先だから」
    「え……? でも私、連絡する手段が」
    「じゃあこうしよう。講義があるなら、君はこの時間帯ここを通るんだろう? だったら僕がここにこうして立っている。それで十分だろう。さあ行きたまえ、講義に遅れるのは雅じゃない」
     一方的にまくし立てて、歌仙は彼女の肩をつかみくるりと方向転換させる。彼女は混乱しているようだったが、やがてくすくすと肩を振るわせ、最後には声を上げて笑い始めた。
    「あは、あはは! わかったわ、じゃあまた。待っていらして、歌仙兼定様!」
     手を振ると、彼女は来たとき同様カツカツとブーツの音を立てて駆けていってしまった。服の裾が短い髪と同様に揺れている。それが雑踏の中に消えて言ったのを見つめ、歌仙はやっと息を吐いた。緊張していて、今まで呼吸ができていた気がしなかった。
     けれど、ちゃんと言えた。
     今度こそ伝えられた。不恰好で、彼女のほうにお膳立てをされてからだったけれど、それでも、自分の言葉を。
     やっとこさここ数日間無意味に立ち尽くしていた日々も報われたわけで、歌仙は肩の力を抜いた。だがそこではたと気づく。
    「しまった、彼女の名を聞き忘れてしまった」
     歌仙は振り返ったが、当然ながらもうそこには彼女の姿はなかった。



     最近増えてきた帝大の女学生で、この間父を亡くした。母も幼い頃に死んでしまったので、今は給仕として働きつつそれでも大学に通っている。彼女は所謂苦学生だった。
    「学費に困っているのかい」
    「いいえ、父も遺産は残してくれたもの。でもそれも無限にあるものではないわ。なら切り詰められるところはそうして、重要なところに一番遣うべきなのよ。私にはそれが大学というだけ」
     講義に行く前はその給仕の仕事をしていて余裕がないからと、彼女は学校が終わった後に歌仙の待つ石畳の橋へやってくる。週に二回のことだ。
     最初は会っても何の話をしたらいいやらわからなかった歌仙だったが、彼女のほうが歌仙の手にしている詩集に興味を持ってくれたのだ。石の欄干にもたれ掛かりながら、彼女はぱらぱらとそれをめくる。古びて色あせた頁を彼女は愛おしそうに見つめた。
    「とても大切に読まれてきた本なのね、素敵だわ。ここに書き付けられているのは、貴方の字?」
    「ああ、そうだよ。本に書き付けるというのは少し気が引けたのだけれど、僕がそのとき思った端々を、書きとめておくのも風流かなと思ってね」
     幸い、本の話なら歌仙は饒舌に語れる。それ以外のことはからきしとも言うのだが。頁をめくり、詩のそれぞれを彼女に語って聞かせた。彼女もまた大学で文学を学んでいるらしく、興味深そうにそれを聞く。たまに、自分が大学で読んだという研究書を引っ張ってきて歌仙の論に反論することさえあった。
    「それはおかしいわ、だってここの表現は著者の心情に即しているのよ。ちょうどこの時期の著者はそんなこといえる状態じゃなかったはず」
    「いや、それではあまりに即物的すぎる。現実の物事から想像の翼を広げて、より素晴らしい世界を読む。それが風流じゃあないのかい」
     とても、楽しかった。楽しくて、新鮮だった。今まで小夜や幼馴染の少女は、歌仙の言う話を目をきらきらとさせながら聞いていただけだったのだ。もちろん、それはそれで話のしがいがある。もっと教えて、と乞われるのは嬉しかった。けれどこうして、同じ目線で書の話をできる相手がいただろうか。
     たった一冊の歌仙の詩集を元に、彼女と歌仙は何日も話し続けた。繰り返し、繰り返し、言葉をやり取りした。そういう感覚さえ、歌仙には久しぶりのものだった。
    「……はあ、君は弁が立つねえ。女子としてはどうなんだい」
     ははは、と笑いながら歌仙が聞けば彼女はふふんと得意げな表情を浮かべ欄干に頬杖をついた。初めて会ったときから印象的な、凛とした視線が遠くにやられる。
    「あら、これからの女は学がなくては生きていけないわ。……私は強くなくては、これから生きていけないのよ」
     ふわりと風に吹かれて、彼女の短い髪がその横顔を隠した。歌仙は無言で、それを見つめる。
     両親がもう他界してしまった彼女は、これから学で身を立てていくしか生きる道がないのだという。働き、学び、そして自分一人で生きていく道を探す。それが彼女に出来る精一杯のことだと。
     ここで歌仙が彼女に学資を出そうだなどと言えば、きっと彼女は怒髪天を突いて怒るのだろう。だがそれを歌仙は彼女らしいと思うし、いっそ好ましいとさえ感じるのだ。
    「君は、春の嵐のような人だね」
     春疾風、春一番。颯爽と駆け抜けていく風のような人。暖かな春を連れてくる人。
     自然とそう呟いてしまって、一番驚いたのは歌仙だった。若干驚いたような表情で顔を上げ、歌仙を見上げている彼女に、慌てて手を振って言い訳をする。
    「ちが、違うんだ。あまりに率直過ぎたのはわかっているから言わないでくれ! ただ、
    今急にそう思って言ってしまっただけで」
    「……ふふ、私をじゃじゃ馬だとか、はしたないだとか言った人はいたけれど、そんな嬉しい喩をしてくださったのは歌仙様だけだわ」
     ありがとうと彼女はただ笑って……その瞬間、歌仙は手にしていたあの詩集を落っことしてしまった。
    「うわっ」
    「あっ! いけないっ!」
     石畳に落ちた瞬間、本の綴じが緩んでページがばらけてしまった。古い本だったため、衝撃に耐えられなかったらしい。バラバラと散らばりかけた頁を、焦って彼女と歌仙が押える。風に舞いかけたものも、やや紙が縒れたが飛ばさずに済んだ。
     二人して地面に屈みこんで、ふうと息を吐く。そんな様子がなんだかおかしくなってしまって、くつくつと笑い出した。
    「いやだわ、何をしているのかしら」
    「ふふ、君こそ、スカートの裾が地面についているよ」
    「あら、そもそも歌仙様が本を落とすのがいけないのよ」
     肩を震わせながらばらけた頁を拾い集める。大切な本が解れてしまったと言うのに、何故だかそこまで悲しいとは思わなかった。彼女が自分が手にしているものを軽く叩き、埃を落とす。
    「ごめんなさい、押えてしまったときに少し縒れてしまったみたい」
    「いいや、全ての頁が揃っていてよかったよ。帰ったら綴じ直すさ」
     トントンとそれらを揃えて本に挟もうとすると、彼女は一頁をじいっと見つめていた。印字された文字ではなく、傍に書きつけられたものを指でなぞっている。
    「……歌仙様の詩集には、文字が三種類あるわね」
     歌仙もそれを見て、ああと目を伏せた。彼女は上から下までその筆跡を辿ったのち、歌仙に頁を手渡す。
    「小さな男の子の字、それから、美しい、女の子の字だわ。当っていて?」
    「……ああ、よくわかったね」
     あの子の字。あの子がかつて、歌仙と一緒に詩を学んだとき書きつけた歌。とても懐かしい、懐かしい記憶だ。
     薄いその紙を分厚い表紙に挟みこんで、歌仙は詩集をしまった。ぱたんと音を立ててそれは閉じられる。二人は立ち上がり、先程と同じように川を眺めた。
     さらさらと音を立て渡っていく風。穏やかな風。青柳を揺らして、歌仙の羽織の袂をすり抜けて、遠くへと行ってしまう。
    「……幼馴染がね、いたんだ」
    「……幼馴染」
    「ああ、家の関係で、小さい頃からよく、面倒を見ていて。茶も歌も、全て僕が教えた。これはその子の手蹟なんだ」
     歌仙、と柔らかな声で名を呼んで。いつだって一緒にいたから気を抜きすぎていた。いつかはいなくなってしまうかもしれないことなんて、欠片も考えずに。おかげでこのざまだ。伝えそこなった言葉は、今も歌仙の心の奥で転がるばかりである。
    「歌仙様はその子のことがとても大事だったのね」
    「……」
    「ねえ歌仙様、その気持ちを、歌になさって」
    「歌に……?」
     歌仙が詩集を握りしめている手の上に、彼女が自分のものを添えた。温かい、感触だ。
    「ええ、歌仙様はせっかく歌が詠めるのだもの。その気持ちを言葉になさらないのは、勿体ないわ。だからどうか、歌になさって、ほら、歌仙様。筆を取って」
     言われるままに、歌仙は矢立を手に取った。しかしいざ筆先に墨を浸しても、何も書けないのだ。取れてしまった詩集の一頁を押えたまま、右手は筆を握って動けない。
     ああ、ただただ胸が痛い。苦しい。ずっとずっと、この苦しさを誰かに話したかったのだ。そうか、やはり、歌にすればよかったのか。歌でなら、いまさらこの気持ちを形にすることを許されるのだろうか。
    「う、うぅ、っく、ふ」
    「……」
     ぱたぱたと水滴が落ちては滲む。彼女は何も言わなかった。
     くしゃりと詩集を握りつぶしてしまうには惜しい。だがもう涙が止まらなくて、歌仙はただそこで押し殺した嗚咽を上げ続けた。頬を滑り落ちた涙粒が川にいくつも落ちて行っても、それをやめることはできなかった。
     彼女はただじっと、それを隣で聞き続けていてくれた。



     歌仙のライティングビューローにポンと冊子が一部置かれる。それを寄越したのは小夜左文字だった。本に集中していた歌仙は小夜の来訪に気がつかなかったらしい。
    「歌仙、一人に絞ってきました」
    「お小夜……! いつ来たんだい、すまないね、出迎えもせずに」
    「構いません。……なんだか前より顔が明るくなりましたね」
     小さな小夜は下から歌仙を見上げて、僅かに表情を緩めた。歌仙も微笑んで、小夜のために低い椅子を傍に持ってくる。
    「ふふ、そうかい?」
    「はい。それに、どうしたんですか? この机。あまり部屋に舶来ものを置くのは好きでなかったのでは」
     古い家なのもあって、兼定の屋敷は純和風だった。庭には離れも茶室もある。だが最近、歌仙は自室にライティングビューローを入れた。それに合わせて、洋風のランプまで。
     和室に似つかわしくないといえばそれまでなのだが、やはり趣味はいい歌仙のこと。違和感のないレベルまでにはそれが部屋に溶け込んでいる。だがどういう風の吹き回しかと小夜は首を傾げた。
    「いや、新しいものを毛嫌いするのは風流でないと思ってね。いいものはいいものとして受け入れるべきだ。違うかい?」
     どこか晴れやかな歌仙の表情を小夜はじっと見つめたが、それから安堵したように力を抜いた。憑き物が落ちたような様子から、少なからずいい変化があったことは感じ取れたからだ。
    「そうかもしれません。うちも宗三兄様がどんどん洋物を取り入れてるから……。ああ、それで、見てもらえますか、絞ってきたので」
    「え? 何をだい」
    「前に引き取った見合い写真ですよ」
     スコンと音を立てて歌仙が手にしていた万年筆を落っことした。うわ、と小夜は顔をしかめる。この反応は完全に忘れていた表情だ。
    「あ、ああ、見合い写真」
    「……確かに僕が来るまで見合いのことは置いておいていいと言いましたけど」
    「いやっ、違うんだお小夜。僕にも色々あって」
    「家柄、性格、容姿ともに左文字で少し調べました。特に問題はありません。歌仙ともうまくやれそうな相手を選びましたから」
     歌仙が何ともいえない表情のまま、じっと閉じられたままの見合い写真を眺める。小夜はただ黙っていた。うろ、うろと視線があちらこちらに動く。
     人見知りだけれど、歌仙は現実逃避をする質ではないと、小夜は知っていた。急に兼定の当主が倒れて、跡目として奔走してきたのだ。妻帯の必要性はわかっているはず。社交界に出たとき、接待の場、女性を伴っているかいないかの差は大きい。特に、兼定は旧家で規模もある。家を取りまとめていくために奥方は必要なのだ。その点は、小夜の兄の江雪も同様なのだが……。
    「歌仙」
    「……小夜、僕は」
    「必要なことは、言葉にしなければ伝わりません」
     小夜は彼の一番の友人でいるつもりだ。小夜は左文字の三男坊である。武家の左文字として家での役割はあるものの、跡目ではない。だが兄の苦悩を知っている。だから自分よりずっと年上の歌仙にとって、小夜は「兼定の二代目」ではなく一人の「歌仙兼定」の友人でいたい。歌仙や、自分の兄のような人には、家のことなど気にしないで話をする相手が、必要なのだ。
    「僕、は」
     歌仙がゆっくりと口を開きかけた瞬間だった。
     ドスドスという足音とともに勢いをつけて襖が開かれる。焦った表情の和泉守が部屋に飛び込んできた。
    「二代目! 大旦那が!」
     小夜の手を握っていた歌仙は、それを離して駆けていった。



     兼定の当主が死んだ。
     数年前に当主が倒れてから、家の仕事はほぼ歌仙が名代として行っていたし、葬儀も引き継ぎも特に滞りはなかった。だから表面上は何も変化はない。社交界でも「兼定の家は元々歌仙様が取り仕切っていたので心配はないわね」なんて言われていた。
     ただそれは、そう言われていたというだけだ。
    「……歌仙殿」
    「おや……江雪殿」
     江雪左文字がバルコニーで声を掛けてきたのは、歌仙が珍しく社交界に挨拶回りとして出ていたときのことだ。社交界での繋がりは後々の商談なんかに非常に役に立つのだが、歌仙は生憎と人見知りなのであまり顔を出さない。しかし当主となればこれからはそうもいかないだろう。
     長い氷柱色の髪を夜風に靡かせた江雪は、手に二人分のワインを持っていた。懇意にしている小夜の兄ということもあり、歌仙も江雪とは多少なりと話せる。だから歌仙も一瞬は身構えたものの肩の力を抜き、振り返る。
    「お小夜が、今夜会えそうなら歌仙の様子を見てきてほしいと、言っておりまして」
    「ああ、お小夜……最近兼定の方に顔を見せてくれなくて寂しいよ」
    「当主となって忙しいだろうというあの子なりの気遣いでしょう。伝えておきます」
     渡されたグラスを受けとり、江雪と歌仙は軽くそれを合わせて乾杯した。カツンと華奢な音が響く。あまりワインは嗜まないのだが、これから飲む機会も増えるだろうと歌仙はそれを口に含んだ。葡萄の香が鼻から抜けていく。
    「はは……当主というものは、忙しいね。これまでも名代を務めてきたけれど、やはり正式に当主となると話は違ってくるよ」
    「ええ、わかります。私も左文字の当主を務めるようになって長いですから……とはいえ、私には二人の弟がおりますから、歌仙殿とはまた違うのでしょうが」
    「羨ましいね、うちの和泉守にはまだ当主の仕事は任せられないな」
     この間試しにとちょっとした遣いを頼んだが、まだまだ気がかりが多い。歌仙は空笑いをしながらその様を思い出す。彼にお堅い用事は合わなかったようだ。付き添いくらいは頼めるかもしれないが、華族の名門兼定としての席に名代として立たせるのは厳しそうである。それでも和泉守自身は何かあれば歌仙と一緒に行くのだと、できるだけ傍にいてくれようとしてくれているのだが。
     ともあれ、暫くの間は会合やら何やらに出席するので忙しい。今までそこまで重要性がないと判断して断っていたものも、今度からはそうはいかないのだから。
     気鬱を吹き飛ばすように、歌仙はワインを煽る。そのついでにとふと思い出した話題を江雪に振った。
    「……聞けば江雪殿も毎日見合い写真に悩まされているとか」
    「ああ、お小夜から聞いたのですね……。その通りです。私も、当主としての義務があります。ですがこの性分ですから、なかなか」
    「わかるよ、僕もだ。……でももう、逃げられないんだろうね」
    「お互い、ままなりませんね」
     傍系含め親族一同に急かされている。もう今までのように忙しさや名代を理由にすることはできない。歌仙は正式に、兼定一門を継いだのだから。
    「歌仙殿、またお小夜が遊びに行っても」
    「……もちろんだよ、待っていると言ってくれ。江雪殿も、宗三を連れて一緒に気軽に来られるといい。同じ当主同士、出来る話もあるだろうから」
    「ええ」
     江雪左文字は微笑んでバルコニーから去って行った。揺れる長い髪やほっそりとしたシルエットは酷く華奢なものだったけれど、江雪にはその背を支える二人の弟がいるかと思うと羨ましくてたまらない。歌仙は僅かに残っていたワインを一息に飲んだ。やはり、まだ美味いとは思えなかった。
     正直、もう気が変になってしまいそうだった。毎日毎日、代わる代わるに挨拶をする。誰が誰だか覚えるので手いっぱいだ。当主ともなれば親戚一同の様子も見なければならない。手広い一族なだけに、それだけで数日潰れる。
     書を読む暇なんてない、歌なんて以ての外だ。風雅を楽しむ時間なんて、一瞬たりともなかった。
     だからつい、ある日屋敷から抜け出してしまったのだ。秘書の目を盗んで走って、走って、あの石畳の橋まで。
    「……歌仙様?」
     ぜいぜいと肩を揺らしていると、懐かしい声が聞こえてきて振り返る。驚いた表情の、久しぶりの彼女がいた。
     相変わらずの短い髪に、動きやすそうなワンピース。手にはやはり本と大学で使う学用品の入った鞄を持っている。何も変わらない彼女の様子に、歌仙は唇を噛んだ。
    「久しぶりね。どうなさったの、そんなに焦って」
    「あ、いや……少し、時間ができたからね。寄ってみたんだよ」
    「……そう」
     やや間をおいて、彼女はそう答えた。
     知らないはずがない、歌仙の家の当主が死んだこと、それを歌仙が継いだこと。それに忙しさに取り紛れてもうひと月近くここには来なかったのだ。歌仙の状況がわからない彼女ではないはず。
     だが歌仙は今は家の話をしたくなくて、彼女の持つ本に目を走らせた。今日は、海外の文学の本を持っている。
    「やあ、今日の講義はそれだったのかい」
    「え……、ええ、そうよ。先生がこれを読んでくるようにと仰って」
    「僕も、この間その作家の本を買ってね。けれどあまり合わなかったとでも言えばいいのかな、それほど読んでいないんだ。良ければ教えてくれないかい」
    「いいわ、じゃあ、ここだけど」
     彼女は持っていた本を開き、いくつか歌仙に今日の講義の内容を教えた。ひと月前のように、欄干に凭れながら。さらさらと川面を滑った風が同じように歌仙と彼女の間も吹き抜けていく。
     ようやっと息ができたような心地がして、歌仙は顔を上げた。何も変わらない。ここからの景色は、前のままだ。
    「……いいねえ、海外の作家だと思って毛嫌いしすぎたのかもしれないな」
    「歌仙様は洋物を嫌いすぎるところがあるわね、勿体ないわ」
    「ふふ、そうだね。今度からは読んでみるよ。とはいえ、知識がなくてどれがどれだかわからない。次は君のお薦めを教えてくれないかい」
     何気なしに、歌仙はそう言ったつもりだった。しかし彼女のほうは黙ってじっと川を眺め……ぱたんと本を閉じる。
    「いいえ、いけないわ。それは出来ない」
    「……どうしてだい」
     きっぱりとそう断って、彼女はカツカツとブーツを鳴らし、少し離れて正面から歌仙を見据える。石畳のその橋では、彼女のブーツはよく音を立てた。
    「歌仙様には、歌仙様のやるべきことがあるわ」
    「……」
    「今日だって、本当は時間ができたなんて嘘でしょう?」
     歌仙は何も言えなくなり、ただ黙る。初めて会ったときから全く変わらない真っ直ぐな瞳が、歌仙のほうをじっと射すくめていた。まるで心臓を掴まれているような強い視線だ。
    「自分のしなければならないことを放り出すなんて、雅ではないわ。そうでしょう、歌仙様」
    「……だが」
    「本を読む時間なんて、後で十分にできるわ。だから、今は」
    「どうして君までそんなことを言うんだ!」
     皆まで言う前に、歌仙は叫びだす。
     どうして、どうして、どうして! もう叫びださずにはいられなかったのだ。
     彼女の両腕を掴み、がくがくと揺さぶる。それでも彼女は本を落としたりはしなかった。
    「僕は当主なんて器じゃない! どうして皆それをわかってくれないんだ!」
    「歌仙様」
    「いや、違う、そうじゃない。僕は誉高き兼定の家を愛している。家の名を誇りに思う、けど違う、違うんだ。僕は」
     幼いころから、兼定の家が好きだった。風雅を愛してきた華族の名門。その家で、学を修め、芸を修めてきたことは歌仙の自慢だった。だから名代に選ばれたときも、元からそのことを察していたとはいえ、嬉しさはひとしおだったのだ。自分の代で、兼定の名をより一層高めるほどの働きをしてみせると、ずっと思っていた。
     けれどそこで難になったのは他でもない自分の性格だったのだ。人見知りで、なかなかうまく事は運べない。言葉をたくさん知っていても、どう使ったらいいのかわからない。今までどんな歌も、どんな物語も、商談の進め方や接待の仕方なんて教えてくれなかったじゃないか。
     そして泣言の言い方も、歌仙は今まで一度も教わってこなかった。
    「……歌仙様」
     口を噤んだまま顔を伏せてしまった歌仙の手を、彼女が叩いた。ゆるゆると頭を上げる。彼女は、一度だけ唇を引き絞ると、にこりと微笑んだ。
    「歌仙様は、立派な当主様よ。絶対にそう」
    「……」
    「誰が何と言ったって、一番歌を知っていて、一番物語を知っていて、一番風流がわかっている。そんな歌仙様以外に兼定の当主を務められる方なんていないわ。そうでしょう? 歌仙様以外に、兼定の一門をまとめられる方はいない。だから胸を張って、歌仙様」
     歌仙が黙っていると、彼女はもう一度念押しのように歌仙の顔を見つめた。
    「……家に戻って、自分のすべきことをなさって。歌仙様」
    「……」
    「私もそうするわ。言ったでしょう? 私はこれから、強くならなくては生きていけない。親がいない、女一人なのだもの。でも歌仙様もそうなんだわ」
     欄干に自分の本を置き、肩にやられた歌仙の手を取って彼女はぎゅっとそれを握った。温かく、たおやかな手だ。しかしその手の端々にあかぎれがある。給仕の仕事は水仕事なのだろう。歌仙は暗く、目を伏せる。
    「荷が重いと、投げ出したい日もあるかもしれない。でも、歌仙様はきっとできる。学は生かさなくては腐ってしまうのよ。そうでしょう? 今は、色んなことが嵩んで疲れてしまっているだけ」
    「……だが、歌や物語は僕を助けてはくれない」
    「そんなことないわ。歌仙様がそれに気づいていないだけよ。歌仙様が疲れているとき、悲しいとき、あなたにはそれを読む力があるわ。確かに商談や接待には使えなくても、歌仙様自身を助けてくれる。私はそう信じて、学んでいるの」
     彼女は鞄を探ると、いつかの懐中時計を取り出した。それを歌仙の手に握らせると、彼女は手を離す。
    「もうここへ来てはいけないわ。歌仙様は兼定の当主。私と遊んでいる暇なんてないはずよ。それに、奥方もいない殿方と一緒にいるのはよくないわね」
    「……待ってくれ」
    「そうね、会えなくなってしまうのは私も……とても寂しい。けれど、歌仙様も私にもするべきことがある。歌仙様が頑張っていると思えば、私も頑張れるのよ。だからそれはお持ちになって。それも元は父のものなの。殿方が手にしていてもおかしなものではないわ」
     カツ、と音を立てて彼女が一歩下がった。
     にこりと笑った顔が、あまり似ていないあの子に重なる。ああ、だめだ、その顔は駄目だ。どうかその顔で、あれだけは言わないでほしい。
     しかし歌仙が止める間もなく、彼女は微笑んで言った。
    「さよなら、歌仙様。私、歌仙様とここで話をするの、とても楽しかったわ。その日々があるから……私はこれからも頑張れる」
     歌仙にとっては、それは二度目のさよならだった。



     立派な絨毯の敷かれたホテルのロビーで、歌仙は座っている。上等な羽織が若干重い。付き添いとして連れてきた和泉守は、やはり落ち着かないのか時間まで外で一服すると出て行った。
    「歌仙」
    「……ああ、お小夜。久しぶりだね。今日はありがとう、礼を言うよ」
    「構いません」
     今日は小夜も正装だった。もう少ししたら長兄と次兄も来ると言うと、小夜は歌仙の隣に座る。フカフカのソファに、小さな体が沈み込んだ。
     あと一時間もすれば、約束の時間。今日は歌仙の見合いなのだ。
     当主として、すべきこと。やはり一番は妻帯だった。だから歌仙は、以前小夜が一人まで絞り込んだ相手と話を進めてほしいと頼んだ。そう言うわけで今日は左文字が仲人として同席してくれることになっている。流石に少年の小夜一人では無理なので、長兄と次兄も一緒なのだ。
    「歌仙」
    「なんだい?」
    「……いいんですか、本当に」
     小夜は前を向いたまま尋ねた。膝の上に置いた手が、ぴくりと震える。だがそれには気が付かないふりをして、歌仙は微笑んだ。
    「何がだい、お小夜」
    「この間、歌仙の言いたかったことを聞きそびれました」
    「はは、嫌だな。あのときと今とじゃ、状況が違うよ」
     そうだ、あのときは名代だった。今とは違う。だから、もういい。
     それに、彼女と約束したのだ。自分のすべきことをすると。だからこれが最善なのだ。今の歌仙にとって、一番優先するべきことは兼定の当主として家を守ること。妻帯は義務だ。
     しかし小夜はなおも続ける。
    「違います、僕は兼定の当主に聞いているんじゃありません。僕の友人の、歌仙兼定に聞いているんです」
    「……お小夜」
    「前にも言いました、大事なことは、言葉にしなければ伝わりません。歌仙は言葉だけは人一倍知っているはずです」
     小夜は立ち上がり、歌仙の正面に立つ。ズボンから覗く、細い膝小僧が見えた。だが歌仙は顔を上げることができない。
     二人が黙っている分、周囲の音がずっと大きく響いて聞こえる。カチ、コチと時計の針の音が歌仙の心臓近くで鳴っていた。懐に手をやって、歌仙はそれを取り出す。重い、懐中時計だ。そっと指の腹でその蓋を撫でる。傷が入っているものの、良く手入れされていて真鍮に曇りはない。
     蓋を押せば、それはゆっくりと開いた。もうすぐ、見合い相手が来るころだ。……彼女の講義も終わる頃だ。
     これでいい、これでいいはずなのに。
    「きゃあっ」
     入口の方で声がした。ついでに強い風が吹き込んできて、歌仙の癖っ毛を揺らす。ついそれに振り返ると、ひらりと花弁が舞っていった。
     思わず、それに手を伸ばした。指先で逃げて行きそうになる、花弁。だがしっかりと、歌仙はそれを掴みとった。
     ……春疾風、春の嵐。開いた手の中にある花弁を見て、ぎゅうと胸が痛くなる。
    「……お小夜」
     声を掛ければ、小夜は僅かに頬を緩めた。
    「下駄で、転ばないようにしてください」
     思わず視界が滲みそうになって、歌仙はそれを堪えるために小夜の手を一度だけ強く握った。それから踵を返して走り出す。
     意志の強い彼女が、兼定の家に入ってくれるかどうかなんてわからない。入っても、彼女はただの女学生だ。親族が何と言うか。けれど風雅を愛し続けた一門でもある、弁の立つ彼女はきっと居場所を見つけられると思う。嫌がられるかもしれない、呆れられるかもしれない。手順も踏まずに告白するのでは、雅じゃないと、初めてのときのようにばっさり切り捨てられるかも。だが頭を下げたっていい、何だっていい。追いすがって情にほだされる相手だとは思えないが、最悪土下座をする覚悟まで決めてやろう。
     言葉にしたいのだ。今度こそ伝えたいのだ。離れて行ってしまう前に、今度こそ。
     石畳の橋に、下駄の音が響く。あの凛とした横顔を探して、歌仙はただ走り続けた。



     ホテルに到着すると、先に到着していた小夜が一人きりでロビーにいた。江雪はおやと宗三と一緒に顔を見合わせる。二人の兄が来たことに気が付いた小夜は振り返った。心なしかどこか穏やかな表情だ。
    「お小夜、歌仙殿は」
    「……江雪兄様、宗三兄様。友達のためだから、僕と一緒に、土下座してくれる?」
     その一言で、何となく察した宗三ははあと息を吐く。けれど微笑んで小夜の頭を撫でた。江雪も唇を緩める。先日バルコニーで身を縮こめていたあの御仁に、誰かが寄り添ってくれることを祈って。
     さて、仲人を引き受けてしまったからには見合い相手に何と言うか。江雪が考え始めると宗三がくすくすと笑って江雪に言った。
    「歌仙が結婚してしまうと、次はどうあがいたって兄様ですよ。いい加減腹をくくってくださいね」
     弟の言葉に気持ちがどんよりと落ち込む。
     ああ、私の望むことはただ一つなのに。江雪左文字は、ただ弟たちの背に腕を回した。
    micm1ckey Link Message Mute
    2022/09/22 17:45:54

    路傍の牡丹

    #刀剣乱夢 #大正パロディ #歌さに

    失恋した歌仙兼定と女学生の話。

    以前pixivに掲載していたなんちゃって大正パロの再掲です。

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