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    しおり
    風の蹄鉄 昔から、決めていたことがある。
     もし、もしもだ。もしもその昔馴染みが自分に助けを求めてくるようなことがあったのなら。たった一つだけ、彼女はそれがどんなことでも必ず叶えると決めていた。
     そう、決めていたのだけれど。
    「なあ、悪ぃんだけど、俺と結婚してくれねえかな」
    「……は?」
     珍しく困った顔でそう言った昔馴染み、豊前江に対し、彼女は首を傾げたままでしばらくの間どうしたものかと考える羽目になった。



     長男、ではないらしい。あの家の兄弟関係はごちゃごちゃしていてわかりづらい。そもそも兄弟のはずなのに、毛色が違うのが多すぎる。もしかしたら母親が違うのかもしれない……というより兄弟のうちいくらか分家に養子に出されているのもいると聞いたから、十中八九そうだろう。それは豊前の家のように旧家では特に珍しいことでないのだけれど、触れづらい内容なので誰がどうだとか詳しいことは彼女も聞かないでいた。
     だが豊前が一応、そのめちゃくちゃな兄弟の中で上の方にいることは彼女もよく知っている。年齢的にも、立場の上でも。
    「悪かったな、疲れたろ」
     はあと自分も息を吐きつつ、首に巻いていたタイを解きながら豊前が言った。やっと楽な服装になった彼女も首を傾げ、部屋にあった一人掛けの椅子に座り肩の筋肉を伸ばしつつそれに答える。
    「そうね、結構大きい貸しよ、これ」
    「悪い悪い。埋め合わせはするちゃ」
     どさりと隣にあった同じ椅子に豊前も座り込んだ。ふかふかのかなり良い椅子だ、勢いをつけて腰かけても問題ない。流石帝都一の百貨店、総支配人の屋敷なだけある。
     豊前の家は、帝都で百貨店を営んでいる。厳密に言えば帝都だけではなく他にも支店のようなものはあり、小売以外の舶来との貿易なんかも手掛けている家だ。そんな江の家の跡目を継いだのが彼女の昔馴染みの豊前だった。自分はそんな器じゃないし、向いていないと豊前も当初は言っていたが、百貨店が大繁盛してこんな立派な屋敷を維持しているあたり、何とかやっているのだろうと思う。
     だがその豊前が困り切って彼女を頼ってやってくるほどの問題が、一応あったらしい。
     まあ簡潔に言うと、妻帯である。
    「で、私はこれからどうすればいいの」
     部屋にあらかじめ用意されていた紅茶に手を伸ばしつつ、彼女は静かに尋ねた。最初の衝撃が大きかったので、もう何があっても驚かない自信がある。隣で前髪をかき乱した豊前は、「うーん」なんて言いつつ、さらに刈り上げた後頭部を掻いた。
    「約束通り、好きに過ごしていいぜ。お前が好きな本、多分書庫にも、松井の部屋にも腐るほどあるし。好きなの持って来て読んでていい」
    「他は?」
    「まあたまに寄合に顔出すのに付き合ってもらうことはあるかもしれねーな。でもそのくらいだろ、俺の妻の役割なんてよ」
    「そう、わかった」
     彼女は今日、豊前と結婚した。江の家に籍を入れて、豊前江という男の妻になった。
     しかしそれは形だけでいいと、豊前と約束を取り交わしてだが。
    「どういうこと?」
     最初に「結婚してほしい」と豊前に頼まれたとき、彼女も流石におかしなことを言われているとわかっていたのでそう聞いた。豊前はよく整った眉を顰め、腕を組んでぼやく。
    「俺もいい年だって言われてよ、そろそろ縁談全部断り切れねえ。今まで何となく見逃してくれてた松井と篭手切に愈々いい加減にしろち叱られたちゃ」
    「まあそうね。家督を継がない私と比べて、貴方はそう自由にならないわね」
    「お前までそんなこと言うか」
     不服気に豊前は言ったが、彼の兄弟の意見はおおむね正しい。向かないとかなんとか言いつつ家を継いだ以上、後継者だとか色々、接待にも妻を伴っていったほうがいいときだってあるだろう。豊前が仕事で相手をするのは上流階級の人や、場合によっては海外の人のときもあると聞く。そういう世界では「夫人同士」があれこれ取り仕切ることで、陰日向に支える必要もあると、自分も曲りなりに貴族令嬢である彼女はよく知っていた。
    「観念してお見合いすればいい話じゃないの。むしろ兄弟もよくここまで待ってくれたわよ。諦めなさい」
    「わかってる。だからお前のところに頼みに来たんだよ」
    「だからどうして。私は何もわからないわ」
    「俺と結婚してくれねえかな、形だけでいい」
     頼むよ、と豊前は頭まで下げる。はあと彼女は今日何度目かのため息を吐いた。
    「あのねえ、いくら昔馴染みでもね、私だって一応話しくらいは聞いておきたいわよ」
     形だけなんて、豊前の家の格式と規模で許されるはずがないだろう。だったら今はその気はなくとも、割り切って縁談を引き受けた方が後々面倒なことにならないに決まっている。
     それに、豊前はそういう風に感情の始末がつけられる人間だと彼女は思っていた。家、ひいては兄弟の為なら、そう折り合いをつけることができると。だからちゃんと理由が聞きたい。
     しかしまだ腰を折った姿勢のまま、豊前は小さく呟いた。
    「……でも俺とお前、利害関係は一致してると思うんだよ」
     それは何となくわかっている。彼女は顔を顰めた。
     豊前が「いい年」ということは、彼女は輪をかけてそうだと言うことである。同じ年の頃合いでも、結婚しているかしていないかはこの時代男女でかなり見る目が変わってくる。近頃やっと職業婦人だのなんだの増えてきて少しはましにはなったかもしれないが、それでもだ。
    「なあ、考えてみてくれよ。江に嫁に来てくれたら、不自由はさせねえ」
    「……豊前」
    「俺もできうる限りお前の希望は叶える。だから俺と結婚してくれねえかな」
     眉間に皴を寄せたまま、彼女は暫く黙って考え込む。しかし結局、ため息を吐きながら答えた。
     どちらにせよ、それが豊前の「頼み」であるならば彼女は最初から聞くつもりだった。
    「……わかったわ。ただ形だけってこと、口頭じゃなくて文書にしてくれる?」
     そうして今夜、彼女は豊前の屋敷にいる。
    「それにしても、どうして言わなかったの?」
     紅茶のカップを豊前との間に置かれたテーブルに戻せば、足を組んで座って新聞に目を通していた豊前が顔を上げ、ついでに彼女に一口大のチョコレートを差し出す。
    「お? あ、これ食っていいぜ」
    「ありがとう。いやそうじゃなくて、結婚のことよ。私、ご兄弟はこのこと了承済みなんだと思ってたわ」
     せっかちな豊前が駆け足で準備をしたせいで、豊前の十人十色の兄弟と彼女が顔を合わせたのは今日、式になってからだった。普通そうはならないだろうと彼女は思ったが、そもそも形だけの結婚であるし、そう頓着もしなかったために豊前に任せきりにした責任は彼女にもある。だからせめて初対面くらいきちんとと思って、彼女はなるべく卒なく、怪しい人間ではないと伝えるつもりで挨拶したのだが、兄弟たちの方はそれぞれが何とも言えない表情をしていた。
    「……俺、正直、豊前が結婚するって、今の今まで冗談だと思ってた」
     ふわふわとした髪を一つにまとめた村雲という兄弟はそうぼやいていた。あの反応を鑑みるに、恐らく兄弟含め江の一族は彼女のことを正真正銘豊前の「妻」だと思っているのだ。いや、戸籍上それは何も間違っていないのだけど。
    「話した方がよかったか?」
     新聞を畳みながら豊前が言う。それに頷きかけ、彼女はうーんと首を捻った。
    「私は別にどちらでもいいけど。でも仲の良い兄弟なんでしょう?」
     だったら、本当のことを言ったほうがいいのでは。この結婚は、「偽装結婚」なのだと。しかし豊前は頬杖をついて、どこか遠くの方を見ながら言った。
    「……心配すっから、お前が何でもねーなら、俺はこのままでいいよ」
     ……よくわからないな。彼女は「そう」と返しながら、これ以上追及するのはやめておこうと思った。彼女には年の離れた弟しかいないので、男兄弟のあれこれはわからないが、そういうものなのかもしれない。
    「疲れて眠たいわ、先に休んでいいかしら?」
     椅子から立ち上がり、彼女は豊前に尋ねた。豊前はちらりとこちらを見上げたが、何でもないように一つ頷く。
    「お? おー、構わねーよ。俺も着替えたら寝るから」
    「そう。おやすみなさい」
    「おやすみ」
     部屋に置かれたやたらと大きい寝台に横になる。二人で眠るためのものなのだから当たり前と言えばそうなのだが、それにしたって広いなと彼女は思った。彼女が布団を整えたのを見たのか、豊前が明かりを落としてくれる。それにありがとうとだけ言って、彼女は目を閉じた。
     ああ疲れた。花嫁衣装は着物はやたらと重く、かつドレスは堅苦しかったのだ。知らない寝床ではあるけれど、その疲れもあって彼女はすぐにでも眠れそうだ。それに本来花嫁が覚えるだろう緊張を彼女は全く覚えていない。
     そもそもこの偽装結婚に夫婦関係も何もないのだから、緊張する理由もないのは勿論のこと、彼女は既に豊前に既に心を許し切っていた。



     新婚初日も何となく普段通りの時間に目を覚ますと、豊前は既に起きて着替え始め、ベストに袖を通している所だった。寝台がきしむ音で気づいたのか、彼女が身じろぎすれば豊前は振り返る。
    「お、起きたか。おはよう」
    「おはよう。……どこか行くの?」
    「ちょっと顔だけ出しにな。お前は別に寝てていーよ、昨日の今日で疲れてるだろ。着替えるなら手伝いの女中、呼ぶか?」
    「いらないわ、一人で着れるから。もう起きる」
     起き上がり、適当なガウンを羽織れば豊前は部屋の外に顔を出して朝食を頼んでいた。どうやら広間のような場所ではなく、ここで食事を摂って構わないらしい。だから彼女は何となく豊前と向き合って朝食を食べ、手早く仕度を整えると仕事に出る豊前を見送ることにした。玄関先に向かえば、そこには大きな屋敷らしく女中や執事も揃っている。豊前は執事からグローブを受け取りつつ声を掛けた。
    「今日の朝食もうまかったぜ、あんがとな。あれ美味かった、蜜柑が入った、なんかあの、甘いやつ。朝にちょうどいい」
     大雑把な豊前の感想に、年老いた執事頭は嬉しそうに目を細める。彼女もその男性が江の家に勤めて長いのだろうことはすぐに察して取れた。
    「ほほ、フルーツポンチでございますな。桑名様よりお預かりした果物を使わせていただきました。旦那さまに毎日そう言っていただけて、私どもも作り甲斐がございます。奥様もどうぞ、食べ物に好みがございましたら気兼ねなくお申し付けください」
    「ありがとう。私も今朝の果物、好きだったわ」
     柔らかな物腰でそう言ってくれた執事頭に、彼女も小さく会釈をしながら返した。その間にグローブのボタンを留め終えた豊前が彼女に向き直る。
    「じゃあちっと行ってくる」
    「ええ、行ってらっしゃい」
    「おう、じゃあまたな」
     手短なやり取り自体は豊前が彼女の屋敷に来たときと全く変わらず、場所だけが江の屋敷に代わっている。友人ならともかく、夫婦としてこれで大丈夫なのかと彼女は思ったが、使用人たちもそれは特に気にすることなく「行ってらっしゃいませ」と繰り返した。
    「奥様、旦那さまに申し付かっております。何かあればすぐに私どもにお申し付けください」
     見送りを終えてひとまず玄関から部屋に戻ろうとすれば、朗らかな調子で女中頭にそう声を掛けられ、なるほどそうか、自分は「奥様」なのかと彼女は他人事のように思う。とりあえず今はいいから、とだけ答えて再び足を進めれば、今度は別な人物と出くわした。さらさらの髪をした、陶器の人形のような顔をした男性。豊前の兄弟だ、松井江とか言った。彼女は先に松井に頭を下げた。
    「おはようございます」
    「おはよう。……えっと」
     松井は彼女の挨拶に普通に返事をしてくれたが、その後言葉に詰まった。何か困っている風だ。
    「どうかなさって?」
    「いや……貴方のことを、どう呼んだらいいかと思って」
     ああ、なるほど……。彼女もそれにはやや考えこんだ。続柄で言えば、彼女は一応彼の「義姉」、……いや、豊前はこの松井より上なのだろうか、その辺りどうなんだ? 外見年齢は豊前とそう変わらないように見える。だが結婚しておいて、「あなたは夫の兄ですか、弟ですか」とは聞きづらい。それに偽装結婚した相手の兄弟に義姉だの義兄だの言うのも、なんだか……。
    「……奥方、でいいだろうか」
     二人して廊下に立ち尽くし、悩んだ結果松井はそう言った。それが無難だろう。豊前が松井にとって兄だろうと弟だろうと、彼女が豊前の妻なのは変わりないし。
    「……構いません。改めてになってしまうけど、これからよろしくお願いします」
    「ああ、こちらこそよろしく。豊前はもう出たのか」
    「ええ、今。松井さんは行かなくていいの?」
     彼女の問いに、松井は首を振った。切り揃えられた髪がさらさらと揺れている。ゆるく癖のついた豊前のそれとはいくらか質が違った。
    「僕の仕事は、豊前の仕事とは分野が違うから。奥方、最初は慣れないことも多いだろうけど、この屋敷で何か不自由があればまた言ってくれるかな。僕の方でも善処しよう」
    「ありがとう。じゃあ早速で悪いけれど、もし時間があれば書庫がどこか教えてくださる?」
     することもない。豊前のすすめ通りに読書でもしておこう。そう思って彼女が聞けば、松井は案内すると先導してくれた。松井の羽織っている大きめの外套が、歩くたびにゆらりとする。江の屋敷は広い洋館だった。絨毯敷の廊下を歩きながら、松井が言う。
    「もし、差し支えなければ教えてほしいんだけれど」
    「なにかしら」
    「その、貴方と豊前とは、どこで」
     ああ、それも話していないのか。彼女はやれやれと首を振る。
    「乗馬倶楽部よ、もう長い付き合いになるわ」
    「乗馬、ああ。貴方も馬に乗るのか」
    「ええ、父がね。乗れて損はないからって」
     彼女の父は、元々は彼女に跡目を継がせるつもりだった。結婚してから両親の間には長らく子がなく、やっと生まれたのが女の彼女だったからである。それで父親は彼女に様々なことを学ばせ、習わせた。だが彼女が成長して様々な経験を積んだ頃に、今度は年の離れた弟が生まれた。
     そうして、彼女の立場はかなり宙ぶらりんになったのだ。
    「納得がいった。社交界にも出ない豊前の交友関係には女性が全くいないと思っていたから、結婚すると聞いたとき、豊前が名前を教えてくれるまで本当に誰が相手だか見当もつかなかったんだ」
     姿勢のいい松井はすたすたと彼女の前を歩いていく。ひとまず何も疑問は持たれなかったようだ。彼女は小さく息を吐く。
    「そうみたいね。でも豊前はよく私の家にも顔を出しに来ていたわ。私は兄弟の話も、たまに聞いていたけれど」
     だから仲の良い兄弟なのだと思っていたのだが、違うのだろうか。彼女の疑問をよそに、松井の方はさらりと言う。
    「僕たちは、仕事以外であまり嗜好が共通していないから。時間が空いたときは各々で過ごしていることが多いんだ。長期休暇に一緒に出掛けたりはするけれど……書庫はここだよ」
     廊下の突き当りにあった大きい木の扉を開けて、松井は言った。どこか甘い、古い紙の匂いがする。「腐るほどある」と豊前が言っていた通り、広いその部屋には棚が並べられ、所狭しと本が積まれていた。
    「ありがとう。本は借りて持って行ってもいいかしら」
    「構わないよ。じゃあ僕も少し出るから。今日は桑名……もいないか、篭手切が大学が終わり次第戻るはずだ。何かあれば、言って」
     あまりにも松井が気遣ってくれるので、彼女は笑いながら首を振る。そこまでしてもらわなくてもいい。
    「私のことはそんなに気にしないで。松井さんも気を付けて行っていらしてね」
     偽装には変わりないけれど、もう結婚した以上ここに暮らす人は彼女にとっても「家族」になった人たちである。豊前がどういう意図で彼女との取り決めを黙っているのかはわからないが、当たり障りなく、良好な関係を築く努力はするべきである。
     だから彼女は松井のことも見送り、そうしてから書庫からニ、三冊の本を借りて部屋に戻った。この部屋は、彼女が何度か尋ねたことのある豊前の部屋ではない。昨日聞いたのだが、ここは彼女を迎えるために二人で使えるように新たに屋敷に用意したものらしい。
    「とりあえず必要なもんだけ用意したつもりだけど、俺は部屋の飾りつけとかよくわかんねーから、家具も全部お前の好きにしていいよ。買い物するならうちの百貨店を使えばいい。請求は俺に来るから」
    「あら、じゃあ私がこの部屋を物で埋め尽くしてもいいのね」
     着替えながらそう言った豊前に彼女が冗談めかして言えば、振り返った豊前は笑って答える。
    「構わねーよ。お前がそうしたいなら」
     ティーテーブルを挟んで、二つ並べられた揃いの椅子。その一つに座りつつ、彼女はじっと豊前用の椅子を見つめる。
    「……本当に物だらけにしてやろうかしら」
     納得してここに来たものの、どうも豊前の考えていることが全くわからない。いや、元々豊前は思っていることをぺらぺらと喋る方ではなかったけれど。
     そうして手持無沙汰に本を読み、昼過ぎになった頃に部屋の扉が開いた。顔を上げれば、女中がカートを脇に置いて礼をしている。頼んだ覚えはなかった。
    「奥様、お茶をお持ちしました」
    「あら、ありがとう。わざわざ来てくれたの?」
     椅子から立ち上がり、彼女は女中が押してきたカートの上にあったポットやら菓子やらをティーテーブルに移動させる。すると女中は慌てて首を振った。
    「奥様は座っていらしてください、私が準備いたします」
    「気にしないで。私ね、家では自分のことは自分でするように教わったの。だから全部準備されるって言うのも落ち着かないのよ。もし手伝って豊前があなたを叱るようなら、私から言うわ」
     しかし恐縮した様子の女中に彼女がそう言えば、女中はかえって焦ってそれを否定する。
    「いえ、旦那様が私どもを叱ったことなんて、一度も」
    「あら、そうなの?」
    「はい。むしろお時間のあるとき旦那様は使用人の部屋にもよく顔をお出しくださって、細かに褒めてくださるので、皆喜んでいます。今日のこのお茶も、用意したものを昼過ぎに奥様へお持ちするよう旦那様が直接、私たちに仰って」
     ふうん、と彼女は内心で呟いた。ちらりと女中が運んできた紅茶と菓子を見る。茶葉は彼女が実家にいたときに飲んでいたものと同じ。菓子の好みを調べるのも、彼女と豊前の間柄ならさほど難しくない。
     それよりもだ。彼女はできるだけ相手を委縮させないように微笑んで、女中の顔を覗き込む。
    「この家の方は皆、豊前が好きなのね」
     するとまだ年若い女中はパッと顔を明るくして頷いた。
    「は、はいっ、もちろんです。私はこのお屋敷で奉公は二軒目ですが、他と比べてとても良くしていただいていると思っています。他の女中も、下男も、ここで働いている者は皆旦那様のことが大好きです。……あっ、申し訳ありません、奥様、お許しください」
    「あ、いいのよ、気にしないで。わかってる。家の主人が働く人たちに慕われるのは良いことだわ」
     彼女はひらひらと女中に向かって手を左右に振った。この女中のように若い女の子が豊前を好ましく思うのはあまり不思議なことではない。豊前は元々容姿が整っているだけではなく、人当たりも愛想も良かった。だが今朝の執事頭の態度を見るに、使用人は総じてこの女中の娘と同じくらい現当主である豊前を慕っていると思っていいだろう。豊前は乗馬倶楽部でも老若男女問わず人気があったことだし。
     これ以上手伝えば女中の娘はもっと焦りそうだったので、彼女はお茶を淹れるのは女中に任せることにした。それにしても、わざわざ彼女の実家で使っていた茶葉を用意して。変に気の回ることだ。
    「ねえ、この茶葉本当に豊前が用意したの?」
    「はい、奥様。奥様は屋敷に来て間もないですから、馴染みのあるものがいいでしょうと、旦那さまが。お口に合わないものでしたか?」
    「ううん、違う。私の知ってる豊前はそんな細やかな配慮ができる人間じゃなかったから、ちょっと驚いたの」
     豊前はどちらかと言えば大雑把だ。ただ気遣いができないというわけではないから、きっとこれもそうなのだろうけど。それがわざわざ実家で使っていたものを調べて用意するというかなり繊細な点でそれが発揮されたことに驚いたのだ。
     だが女中の方はいくらか微笑んで、くすくすとしながら首を振った。それから蒸らしていたポットからカップに紅茶を注いでくれる。
    「ですが旦那さまは奥様がお屋敷にいらっしゃるのに、かなりご準備をなさっておいででした」
    「豊前が?」
    「はい。篭手切様や松井様にいくらか質問はなさっていたようですが、壁紙や調度品は旦那さまがご自身でご用意なさっていました」
     豊前が、自分で。そう言われて、彼女は何となく改めて部屋の中を見渡した。しかし部屋の中のものは、彼女が知る豊前の趣味とは違う。どちらかと言えば、彼女の実家の部屋に近いような気がしなくもない。彼女の実家も西洋風であったから、越してきてもあまり違和感を覚えないのだと思っていたが……。
    「旦那さまが大切にお迎えになった奥様ですから、私どもも心を込めてお仕えするつもりです。何かあれば、いつでも仰ってください」
     そうして女中は丁寧に頭を下げ、部屋を出て行った。部屋にまた一人になった彼女は、ティーカップに手を伸ばし冷ましてから口を付ける。それは確かに、慣れ親しんだ香りと味だった。
     彼女がポットを空にして、持って来た本の三分の二を読み終えた頃に豊前は帰宅した。屋敷のどこにも寄らずにすぐに部屋に戻ったようで、豊前は「あー」とかなんとか言いながらタイを緩めつつ扉を開ける。
    「おかえりなさい」
    「ただいま。あー、話し合いばっかで疲れたちゃ。夕飯まだって聞いたぜ、部屋に持って来させてもいいか」
    「ええ、それからお茶も、ありがとう。昼過ぎに頂いたわ。わざわざ用意してくれたのね」
    「気にしなくていーよ。あれで合ってたか」
     豊前が上着を脱ごうとしているのがわかったので、彼女は近寄ってそれを受け取った。どうやら豊前も彼女同様に、身の回りのことは全て自分でしているようだ。昨日から着替えやら何やらで女中を呼ぶことはない。今朝顔を合わせた松井も自分で身支度を整えていたようなので、もしかしたらそれが江の家の方針なのかもしれない。
     上着を衣装棚に引っ掛ければ、豊前は「あんがとな」となんて言いつつ部屋の窓を開ける。それに「いいえ」と返しながら、彼女は豊前に冗談めかして言った。
    「豊前、あなた随分家の人に慕われてるのね」
     すると豊前はこちらを振り返って、不思議そうにやや首を傾げる。
    「そうか? まあ、ありがてえことだな」
     本人に好意を集めている自覚がないのが質が悪い。彼女は肩を竦め、衣装棚の扉を閉めた。



    「良かったじゃないですか、変に女子が家を継ぐより、ずっといいはずです」
     ああいやだ、夢を見ている。彼女はすぐにそう気づいた。この夢はもう何度目だろうか。
     かつて父にそう言ったとき、僅かながら肩の荷が下りたと思ったのは間違いではない。彼女は勉強も、乗馬も、その他の色んなことも嫌いではなかったけれど、やはり自分は女子なのだと理解していた。
     家に女の自分しか生まれなかったため、父は彼女が後継ぎになれるよう育ててきた。将来外から婿を取ったとしても、家のことをいいようにされないように。婿を迎えても家督を継ぐのはお前なのだと彼女は父に厳しく言い聞かされていた。けれどそれでも両親はやっとできた子どもである彼女をよく可愛がって愛してくれていたし、だからこそ自分は周囲の女の子たちよりもすることが多いのだと彼女は思っていた。
    「これで私も、普通の女の子ですね」
     だが普通の女の子というのは、一体どういうものなのだろう。両親にはそう言ったものの、彼女にはわからなかった。
     彼女はそれを知るにはもう、既に成長しきっていたのだ。
    「眉間に皴寄ってんぞー」
     ぎゅうと指の腹でそこを押され、彼女は目を覚ました。
     頭を手で支えて横になっている寝間着姿の豊前が、こちらを覗き込んでいる。一度二度瞬きを繰り返し、それから押された額を押さえて彼女は顔を顰める。
    「寝てるところを覗き込まないでちょうだい……」
    「悪い悪い、なんか難しい顔してたからよ。まだ寝るか? 寝ててもいいぜ」
    「……ううん、起きる」
     このやけに大きな寝台は、大変良い品らしく彼女が体を起こしても軋んだ音一つ立てない。彼女が寝巻の上にガウンを羽織っている間に、豊前が女中に頼んで顔を洗うためのぬるま湯なんかを用意させていた。それを見て彼女はやや呆れる。湯を持って来てくれた女中には「ありがとう」と言ったけれど、女中が出て行った後に釘を刺す。
    「あのね豊前、そこまでしてくれなくていいのよ。水くらい自分で汲めるわ」
    「おー、それは知ってんよ。でもこういうのあると、朝気持ちよくシャキッとできんだろ? うちは松井が朝弱えから。こういうのあると喜ぶんだ」
     脱力しつつ、やっぱり江の家は兄弟仲がいいのだなと彼女は思った。現在屋敷内で暮らしている豊前の兄弟は、先日書庫に案内してくれた松井、日中は外に出ていることの多い桑名、そしてまだ学生らしい篭手切の四人。その他にも式で紹介はされたが、皆自分の家で暮らしているそうだ。
    「俺は別に、ここが気にならねえなら皆一緒でもいいって言ったんだけどな。五月雨はそもそも旅で外に出がちだし、村雲は婚約して長えからそろそろ所帯持たせてやらねえとだし、稲葉は稲葉で帝大出て暫くしたらいなくなってたな。他もそんな感じだ」
     ……という曖昧な説明は豊前によるもの。やはり男兄弟の距離感というのはわからないなと彼女はそのとき思った。
     朝食を終えると、豊前は普段よりも楽な服装に着替えた。そういえば今日は休日だとか昨夜言っていた気がする。
    「お前今日、外出れっか?」
    「出られるけど、どうして?」
     休みの日なのに予定があるのだろうか。彼女が尋ねると、豊前はにかっと歯を見せて笑った。
    「ちっと付き合ってくれっかな。式の埋め合わせもするちゃ」
    「式の、いやいいわよあんなの。それよりどこに」
    「あんがとな。出かけられるように上着だけ用意しといてくれよ」
     言い終わるや否や、豊前は部屋から出て行った。相変わらずせっかちな。彼女は肩を竦めつつ上着を手に取る。それを着終えたときには、豊前はもう戻ってきていた。
    「出れっか?」
    「ええ、十分準備の時間をもらったから」
    「じゃ行くか。おっ、桑名、俺外出てくるから」
     彼女の厭味交じりの返答なんか気にもせず、豊前はそのまま閉まり切らなかった部屋の扉を再び開ける。廊下には手ぬぐいを持った桑名江が丁度出てきていた。行き先も戻りの時間も言わない豊前に対し、桑名はのんびりと手を振る。
    「そう、天気も良いからねえ。いってらっしゃい。奥方も、気を付けてねえ」
    「ええ、ありがとう。桑名さんも外に出るなら気を付けて行ってらして」
     速足で豊前は階段を下りる。女中も執事もそんな豊前の姿を見慣れているのか口々に「行ってらっしゃいませ」と言うばかりだ。そのまま豊前は玄関を開けると、正面に停めてあった車の助手席の扉を開ける。
    「ほら、乗れよ」
    「どこ行くの」
    「いーから。扉閉めっぞ」
     彼女が座ったのを確認してから軽く扉を押して閉めると、豊前はぐるっと車を回って運転席に座った。鍵を回し、エンジンをかける動作はかなり手馴れている。
    「あなたが運転するの?」
    「おう、馬より簡単に遠くに行けっぞ」
     アクセルを踏み込み、カコカコと音を立てて豊前は傍らのレバーを操作する。しかしそこで、大きな玄関の扉が開いた。ゆらりと緑の上着がその隙間から滑るように出てくる。彼女はそれを認めて、豊前に声を掛ける。
    「豊前、松井さんよ」
    「お? 悪い、窓開けてくれっか」
    「いいわよ」
     運転席は玄関の扉の反対側にあったので、豊前は彼女越しに松井の方を見やった。彼女に軽く会釈して、松井は窓からこちらを覗き込む。
    「豊前、出掛けるのか」
    「ちっと出てくるけど、なんか用だったか」
    「いや、車の音がしたから見に来ただけだよ。……奥方も一緒に?」
     ちらりと松井の海の青をした瞳が彼女を見る。彼女はその視線が何かを伺っているような気がして、僅かに身じろいだ。すると運転席から身を乗り出した豊前が、ごく自然に彼女の肩に腕を回す。微かに豊前の使っている整髪料の匂いがした。
    「せっかくの休みだからな。結婚してからどこも行けてねえし。あちこち回るけど、夕飯前には帰るよ」
     松井はやはりどこか注意深く自分と豊前を見ているように彼女には思えた。しかしそれ以上何も尋ねることなく、体を起こすと車から離れる。
    「……そうだね、わかった。豊前、奥方、道中気を付けて」
    「おう、じゃあな」
    「行ってきます」
     彼女も松井に軽く会釈する。豊前は彼女の座席に腕を回したままで車を出した。屋敷の敷地を出て暫くしたころ、ハンドルを切りながら豊前が言う。
    「やっぱりあれはなんか感づいてるな」
    「え? なんかって、何?」
    「たぶんあいつ疑ってんじゃねえかな、俺の結婚」
    「えっ」
     ぎくっとして彼女は豊前の方を見た。豊前はハンドルを握ったままで何でもないように続ける。
    「いや、そんな気はしてたんだよな。村雲は最初からなんか変だと思ってるみてえだし、松井も勘がいいからな。普通の結婚じゃなさそうだって、疑ってんじゃねえか?」
    「まずいじゃない。それで今日出掛けるとか言い出したの? だから先に話しておけばって言ったのに。私何かまずいことしたかしら」
    「いや、別にお前が特別どうこうって話じゃねえと思うけど。気にしなくていーよ」
     そうは言っても。彼女は釈然としない気持ちで豊前の相変わらず整った横顔を見つめたが、豊前は赤い瞳だけ一度彼女に向けて笑う。
    「でーじょーぶだよ。それにまあお前、俺に何か悪さしようってんじゃねえし。それがわかればあいつらも何も言わねえよ」
    「……そういう問題なの?」
     いや、絶対にそうではないはずだ。
     彼女と豊前の結婚は、偽装ではあるけれど後ろ暗い事情は一つもない。彼女は江の家の財産に興味はないし、豊前もまたそれなりに高い彼女の実家の身分を当てにはしてはいないだろう。それに彼女の実家も江と手を結んで何かを頼ろうなんて考えていないはず。ただ豊前個人が困っていたから、彼女は「妻」としてここに来た。それだけだ。
     だから彼女としては、豊前の兄弟に洗いざらいすべてをぶちまけたって別によかったのだ。むしろ変に偽装夫婦を装うより、そちらの方が気楽だし、仲の良い豊前の兄弟だって心配しないで済むはずなのに。
    「お前、今、日中何してんの?」
     だが彼女の考えを他所に、どこに向かっているのか知らないが、豊前は帝都の石畳の上を車で走らせながらそう尋ねた。もうこうなってくると仕方がないので、彼女は追及するのを諦め、豊前同様にフロントガラス越しに正面を見つめる。
    「特に何もしてないわ。家の人も良くしてくれるし、日がな一日本を読んでるだけ」
    「おお、楽しいか」
    「まあ、好きに過ごしてるから。そういう意味では気が楽よ」
    「違うって、楽しいか、聞いとるんちゃ」
     ぐるりと豊前がハンドルを回す。どうも豊前は郊外に向かっているらしかった。
    「楽しいかって聞かれてもね」
    「でもせっかく家から出て好きにできんだろ。お前もやりたいことやれよ」
    「お前も? 『も』って、なに?」
     気になったことを尋ねれば、豊前は運転しながら至極当たり前のように答える。
    「ん? うちにいるのと同じって意味だよ。あいつらもほら、好きなことしてんだろ」
     ふと、先日の松井の言葉を思い出す。仕事以外で嗜好が合わないから各々で過ごしていると言っていたあれだろうか。
    「俺は走んのが好きだからさ、そうするし。松井は血がどうとか」
    「血っ?」
    「まあわっかんねえけど。桑名は畑だろ? 篭手切はなんか歌って踊ってっていうのがどうとかいうから、俺も付き合うけど。五月雨は旅が好きだし、村雲もよくついて回ってるのは見る。稲葉はまあ、鍛錬に打ち込むのが一番性に合ってるみたいだけどよ。まあ何でもいいんだ、好きなことなら」
     軽く、豊前がアクセルを踏み込んだ。ぐんといくらか車が加速する。
    「お前もそうしてくれよ。だからほんと、別にうちのことは気にしなくていーよ」
     好きなこと、と言われて彼女は具体的な何かが特に思いつかなかった。だからふうと一つ息を吐き、車の背もたれに体を預ける。
    「……考えておくわ、今は思いつかないから」
    「そうか? あ、窓開けてくれっか。風が入らねえ」
    「いいわよ」
     そろそろ帝都の街を抜けて、窓の外は郊外の穏やかな景色に変わる。彼女が開けた窓からは爽やかな風が吹き込んだ。緩く癖のついた豊前の前髪が揺れる。
    「風がきもっちいー」
     相変わらず、豊前が何を考えているかはわからない。けれど楽しそうな横顔を見て彼女もいくらか微笑んだ。
    「そうね」
    「だろ?」
     どこへ向かっているのだか知らないが、豊前の車は軽快に前へと走っていく。それが彼女にはとても心地良かった。
     一時間ほどそうして走って、豊前が連れてきてくれたのはやや懐かしい場所だった。彼女と豊前が通っていた乗馬倶楽部である。豊前が開けてくれたドアから足を下ろしながら、彼女はいつぶりかの飼葉の匂いのする空気を吸い込んだ。
    「豊前、ここに来たかったの?」
    「来たかったってわけじゃねえけど。まあ久しぶりに行ってもいいかなと思ってさ。足元気を付けろよ。なんかお前、動きづらそうな靴履いてるし」
    「馬に乗るってわかってたら履かなかったわよ」
     靴どころか、乗馬服もないのに。しかしそれは豊前も同様で、仕事をするときよりは楽な服装であるけれどそれでも乗馬向きとは言い難いものだった。けれどそんなのは気にもせず、豊前は厩舎の脇にある事務所に顔を出す。
    「おう、久しぶり。元気してっか。なあ、ちょっと乗せてもらってもいいか」
     久しぶりなんて言いつつまるで昨日も来たような調子で、豊前は中にいた男性に声を掛けた。その顔には彼女も覚えがあった。彼女と豊前がここに通っていた頃から馬の世話をしていた男性だ。男性は振り返り、いくらか驚いたもののすぐに微笑む。
    「おやおや、坊ちゃん。まさかいらっしゃるとは」
    「時間があったからな。こいつも連れてきた」
     一歩後ろにいた彼女の背中に豊前の腕が回る。彼女は軽く男性に会釈した。彼は彼女まで来ていると思わなかったのか、先ほどよりもびっくりした顔で笑った。
    「これは、懐かしいですなお嬢様」
    「久しぶり。お元気そうね」
     彼女が男性に声をかけている間に、豊前はつかつかと事務所の中を進んでしまってある鞍やら何やらを取った。ついでに靴を一足取って彼女に渡す。
    「じゃあ鞍とか借りるぜ。準備は適当に俺がやるから、あんたは座ってろよ。腰悪くしたんだろ? あとでな」
     ひらっと手を振って、豊前は再び腕を回した彼女の背を押し事務所を出る。まったく本当に、忙しない。だが彼女がそれを咎める前に、豊前は厩舎に入って馬の頭を撫でていた。
    「靴、それでいいだろ。ちょっと向こうまで乗ろうぜ」
    「豊前、私の服、見て言ってるの?」
    「鞍は跨げるだろ?」
     何でもないように豊前は言ったが、残念ながら彼女はスカート姿である。確かに足は開けなくもないが、乗馬に適しているとは言い難い。
    「俺しか見てねえからいいだろ。汚れたら洗えばいいよ、それとも俺の前乗るか?」
    「それは遠慮するわ」
     豊前のその提案は即座に却下した。付き合いの長い彼女は、豊前がどれだけ馬を飛ばすのかわかっている。そんなのの前に乗るのはごめんだ。
    「ごめんね、あなたにちょっと不便をかけるかもしれないわ」
     馬に話しかければ、気性の穏やからしいその馬は大人しく鼻を撫でさせてくれた。それから仕方なしに彼女は靴だけ履き替え、スカートの裾を捌いて馬の背に跨った。それにしても、彼女もここは来なくなってからはそれなりに経つ。いくらかは体が覚えているだろうが、大丈夫だろうか。
    「豊前、ちょっと練習させて」
    「いーよ」
     ひとまず柵で囲まれた練習用の馬場に出て、かぽかぽと馬を歩かせる。あれから自分の背が伸びたからだろうか、馬の背から見える景色が広くなったような気がした。
    「お前あれ得意だったろ、まだできんのか?」
     後ろからついてきた豊前が言うのに、彼女は振り返る。昔もよくこうして一緒に輪乗りをしたなと思い出す。
    「あれって何?」
    「柵飛ぶやつ」
    「ああ。いきなりはできないかもしれないわね」
     当たり前なのだが、豊前と比べれば彼女は小柄で軽い。だから障害飛越だけは彼女のほうが上手かったのだ。だが久しぶりの乗馬でいきなりそれをやる度胸はなかった。
    「じゃあそれはまた今度だな。もう行けっか?」
    「ええ、そうね。いいわよ」
     ヤッとよく通る豊前の声が響く。柵を出て、彼女と豊前は厩舎の傍から伸びる木立へ続く道へと進んだ。乗馬のレッスンが終わった後、よく走った場所だ。先程の馬場よりも地面が荒く、また馬も駆け足だからか重い蹄の音が木々の間を響く。ただそれでも普段の豊前のスピードよりはずっと遅いので、多少なりと彼女に配慮してくれているのだろうなと思った。並足でも問題なくても、豊前は走る方が好きだったから。
    「久しぶりだよなあ! いつぶりだ?」
     前を走る豊前が正面を向いたままで言う。彼女はそれを追いながら返事をした。
    「舌を噛むわよ!」
    「ははっ、悪ぃ!」
     しかし最後にここを通ったのがいつだか、彼女ははっきりと覚えていた。
     あれ以来、彼女はここに来ていないからだ。
    「お前はお前になったじゃねえか」
     今よりいくらか若い、快活な豊前の声が耳に残っている。
    「お前はそこじゃなくても、生きていけるよ」
     ガコッと馬の蹄が何か大きな石を蹴る音で彼女はハッとした。改めて前を見れば、豊前の背中はだいぶ遠ざかっている。
    「豊前!」
     慌てて彼女は豊前を呼んだ。行き先はわかっているのに、何故だかそのままどこかに行ってしまいそうな気がしたのだ。
    「豊前!」
     一度だけ鞭を入れ、彼女は馬をやや急かした。少し速度を上げた馬は、風を切って先を進む。木立を抜けて開けた野原に出てやっと、豊前に追い付いて息を吐く。焦ってついてきた彼女を振り返り、豊前はおかしそうに笑った。
    「どうしたんだよ、慌てて」
     どうして、と問われて彼女は自分でも少し戸惑った。木立は一本道で、突き当りにこの野原があることは彼女もわかっていた。それなのに、何故。
    「……いいえ、ちょっとぼんやりして、離れかけたから」
    「そうか? まあ久しぶりでもちゃんと乗れるな。ちょっと歩くか」
     先に馬から降りた豊前が手を貸してくれたので、彼女も鞍から降りる。昼下がりで太陽の光はいくらか勢いを落とし、陰り始めていた。郊外で山も近いここは静かだ。
    「で、ここに来るのはいつぶりなんだよ」
     うーんと伸びをしながら豊前がいう。彼女は山の稜線を見ながら答えた。
    「あれから一度も、来てないわ」
     弟が生まれある程度無事に育ち、彼女が正式に家の跡取りではなくなった日。女学校には変わらずに通っていたが、他の習い事のいくつかは当然ながらやめることになった。乗馬もその一つである。いつか良家に嫁ぐなら、馬など乗れても意味がない。
     とはいえ女だてらに跡取りとしての養育をされた自分に、嫁ぎ先があるかどうかなんてわからなかったけれど。
     ともかくそうして彼女が「ただの貴族令嬢」になったある日、豊前は何故だか彼女の家までやってきたのだ。
    「行こうぜ」
     無論彼女と豊前はお互いがどの家の息子や娘なのかはわかっていたつもりだが、学舎は同じではなかった。本当にただ、乗馬倶楽部が同じだけの友人関係だったのだ。だから彼女の家に豊前が来たのはその日が初めてだったし、何故来たのかもわからなかった。
    「行くってどこに」
    「そんなの決まってんだろ」
     そう言って豊前は彼女を車に乗せて、今日のように乗馬倶楽部まで連れて行った。そうして、ここまで一緒に走った。豊前は特に何も聞かなかったけれど、そのとき言ったのだ。家で立場を失い、宙ぶらりんだった彼女に。
    「お前はそこじゃなくても、生きていけるよ」
     あの日のことを、彼女は今までの人生の他のどんな出来事よりもはっきりと覚えている。
    「あのあと豊前もやめたのね、乗馬」
     彼女がぽつりと言えば、豊前はうんと一つ頷く。
    「まあな。家のこともやんなきゃなんなかったし」
     乗馬倶楽部で会わなくなると、豊前は彼女の家に時折勉強を教わりに来た。彼女は英語が得意だったのだ。豊前は得手不得手がはっきりしていて、だめなものはてんでだめ。それで英語は彼女がいくらか教えた。そのときのことを思い出し、彼女はくすくすと小さく笑う。
    「ふふ、私、絶対あなたの代で江の百貨店は潰れると思った」
    「おい」
     片眉を上げて豊前がこちらを見る。彼女は軽く首を横に振った。
    「ごめんなさい。でもあなただって言ってたじゃない。向いてないって」
    「それはわかるだろ。向いてねえって」
    「そうね、ふふ、でもやってこれてるじゃないの」
     向いていないどころか、江の家が近頃色々なことに手を伸ばしているのを彼女は知っている。輸出入しかり、他に事業の幅を広げるという話も聞いているし。
     彼女よりよっぽど、豊前は色々な場所で生きていける人間なのだ。それが羨ましくなかったと言えば、嘘になるが。
    「ま、俺だけじゃねえからな」
     彼女の揶揄いに小さく笑いながら、豊前は足元の小石を蹴る。豊前の方に向き直り、彼女は尋ねた。
    「何が?」
    「ほら、一応、兄弟がいんだろ。あいつらが好きなことやってくためにも、家は必要だし。あいつらには帰って来られる場所、あった方がいい」
     清々しい表情をした豊前の横顔を見て、彼女は「そう」と答えた。
     やはり、豊前にとってあの「兄弟」たちはとても大切なものなのだろう。彼女にはわからないが、少なくとも、豊前にとっては。
    「あ、落鉄してんな」
    「えっ?」
     豊前が不意に、彼女の乗ってきた馬の足元を見て言った。どうやら走っていた拍子に蹄鉄が外れたらしい。慌てて彼女は馬に駆け寄る。突然急かしたからだろうか。
    「ごめんなさいね、痛くない? 豊前、蹄は? 割れていない?」
     彼女が聞けば、豊前は屈んで馬の足を念入りに見て答えた。
    「今のところ何ともねえな。まあ大丈夫だと思うけど、帰りは俺の馬の方に乗れよ。慎重に歩いて帰れば怪我もしねえだろ」
    「それはいいけど、じゃああなたはどうするの」
    「歩くって、大した距離じゃねえし」
     大した距離ではない、と言っても馬で移動してきた。歩けばそれなりである。だから彼女は首を振った。
    「それは悪いわ。帰るのも遅れるし」
    「じゃあお前俺の前乗れよ。俺がこいつの手綱引くから。それでいいだろ」
     何でもない風で豊前は言う。まあ、それしかないかと彼女は思った。流石に豊前もこの状況では飛ばさないだろう。
     行きと比べてかなりゆっくり、豊前は馬を進めた。手綱を豊前に任せた彼女は今度は鞍に横乗りになって体を揺られる。かぽ、かぽという蹄の音を聞きながら、彼女は言った。
    「……ねえ、私やっぱり、もう少し気を付けてやるわ、あなたの『妻』」
    「ん?」
     豊前は式の夜に「心配をかけるから兄弟に事情は言わなくていい」と言った。はっきりとした理由はわからないが、とにかく兄弟に心配は掛けたくないのだろう。だったら、彼女もそう心得て行動すべきだ。豊前がそうしたいと思うのなら。
    「そうか?」
    「そうよ。だからあなたの方がボロを出さないようにしてね、豊前。そっちの方が心配だわ」
     彼女よりよっぽど、豊前の方がうっかり口を滑らせそうなのは間違いない。だから冗談めかしてそう言ったのに、豊前は一拍置いたあと、静かに返した。
    「……あんがとな」
     かぽ、かぽと馬の蹄の音が響く。豊前の前に乗っていた彼女から、そのときの豊前の顔は見ることができなかった。



    「ぶぜ、あ、あなた!」
     普段通りに名前を呼びかけて、慌てて彼女はそれを直した。階下の豊前がこちらを振り返ってきょとんとした顔をする。見送りには行くと言ったのに、また勝手に出ようとして。彼女は急いで階段を降り、玄関先にいた豊前に名刺入れを渡す。
    「どうした?」
    「これ、昨日の上着に入ったままだったわよ」
    「お、悪ぃな。忘れてた」
     悪いなではない、出発の時間はきちんと自分にも伝えてくれ。彼女も色々言いたいことはあったが、ひとまずその場ではそれは目で訴えるのみにして首を振る。
    「行ってらっしゃい。気を付けて行ってらしてね、待ってるわ」
    「おう、まあいつも通りだけどな」
     この阿呆。彼女は思わず「ははは」と爽やかに笑う豊前の綺麗に刈り上げられた頭を引っ叩きそうになった。この男、偽装夫婦を装う気があるのか? だが彼女が引き攣った顔でいると、既に玄関から半分くらい体を出していた豊前が不意に振り返った。
    「あ、お前、次の休み空いてっかな」
    「ええ、空いてるけど。どうして?」
    「仕事で活動写真の券、もらったんだよな。二枚あるから一緒に行こうぜ。じゃ、行ってくる。夜、会食があるから悪いけどこっちに来てくれよな」
     そうして豊前は明るく言って出て行った。彼女は息を吐き、「行ってらっしゃい」ともう一度言う。
    「先日もご一緒にお食事に出られていましたのに、お休みごとにお二人でお出かけになるなんて、仲睦まじくてよろしいですね、奥様」
    「そ、そうね……」
     それは、彼女と豊前とが打ち合わせて「ひとまず夫婦として毎週末出掛けることにしよう」と取り決めたからである。どこか自分のことのように嬉しそうに言う女中に、彼女はほぼ他人事で返してしまった。
     にしても彼女はかなり頑張って「奥様」を演じているのだが、豊前の方はてんでそうではないのが腹立たしい。そのくせ結婚前から部屋を準備したりお茶を買っておいたり、今日だって活動写真に誘ったりして、自然体の豊前は既にかなりいい「夫」なのである。それが無意識なのだから、そりゃあ豊前は人に好かれるはずだと彼女は思った。やはり彼女の方がもう少し気を遣わねばならないらしい。
     コンコンと扉を叩く音がして、彼女は顔を上げる。どうぞと言えば、静かにそこが開いた。品のいい紫の髪が覗いて、彼女は椅子から立ち上がる。豊前の兄弟だ。
    「こんにちは」
    「あら、五月雨さん。こんにちは。どうかなさって?」
     兄弟の数の関係もあるのか、江の屋敷は人の出入りが多いというのは近頃彼女が気づいたことであった。同居している松井、桑名、篭手切がそれぞれ仕事や学業に出るのもそうだが、家を出ている兄弟も比較的頻繁に顔を出す。近隣に住んでいることもあるのだろうが、これなら一緒に暮らした方が早いだろうと思う程度には彼女も彼らに会っていた。だがそうべたべたとしないのが、男兄弟の距離感なのかもしれない。
     今やってきた穏やかな物腰の五月雨江は、そうしてこの屋敷から出て生活している兄弟の一人である。なんでも俳諧などの文学や旅を好んでいるらしく、家業にも最低限しか関わらないという。しかし豊前は五月雨が出た旅先の伝手が仕事の役に立つときもあると言っていて、疎遠なわけではないらしい。
     部屋に入ってきた五月雨は、手にしていた籠の蓋を開けて彼女に見せる。そこには筍が入っていた。
    「奥方に旅先の土産をお持ちしました。よろしければ豊前と二人で召し上がってください」
    「あら、立派な筍。ありがとう。よかったらお茶でもいかが?」
    「はい、よろしいのでしたら」
     彼女が客用の椅子を勧めれば、五月雨は素直にそこに腰かけた。部屋にいた女中に筍を預け、五月雨の分の菓子なんかもついでに頼む。それを待つ間、彼女が自分で五月雨にお茶を淹れた。ぺこりと五月雨が頭を下げる。五月雨の雰囲気やさらさらとした厚めの前髪はどこか松井に似ていて、やはり兄弟なのだなと思う。
    「わざわざありがとうございます」
    「え? ああ、いいのよ、気にしないで。家ではいつも自分で用意していたから」
    「ご実家で、ですか?」
    「ええ。はい、どうぞ。五月雨さんはあまりこちらにいらっしゃらないのね」
     いただきますと律儀に前置いてから五月雨はティーカップを手に取った。好みがわからなかったので念のため砂糖壺とミルク瓶を指で向こうに押せば、気づいた五月雨は角砂糖を二つ静かに入れる。どうやら甘い方が好きらしい。
    「旅に出ていることが多いものですから。ですがこちらにいるときは、なるべく顔を出すようにしています」
    「旅? どちらまで?」
    「どこにでも行きます。季語がある場所なら」
    「そう言えば五月雨さんは歌がお好きだって、豊前から聞いたわ。俳諧をやられるとか」
     そうして五月雨と彼女は暫くの間とりとめのない話をした。一応彼女はぼろが出ないように気を付けて話題を選んでいたつもりだが、五月雨の方は特に何も気にせず会話を楽しんでいるように見えた。もっとも、あまり表情の変わらない人なのだけれど。
     しかし茶菓子を食べ終えた頃、不意に五月雨は彼女の椅子の隣に置かれた同じものへと目をやった。
    「それは豊前の椅子ですか?」
    「ええ、そうだけど」
     何故だか五月雨はじっとその椅子を見つめていたので、彼女は首を傾げた。何の変哲もない……ただちょっと良い椅子だと思うのだが。けれど五月雨が気になったのは椅子自体ではなかったらしい。
    「二つ並んでいるということは、ご一緒には、座られないのですね」
    「え?」
     想定もしていなかったことを聞かれ、彼女は問い直した。
    「いえ、先ほど雲さんの家にも顔を出したのですが」
    「雲、村雲さんね」
    「はい。ただ、雲さんはいつも、婚約者の方がいらっしゃるときは椅子が同じでしたので。夫婦というものはそういうものだと思っていたのですが、違うのですね」
     ぎくりと肩が震えないようにするのに、彼女は気を遣わなくてはならなかった。
     椅子までは意識を払えなかった。というかそもそも、この椅子は豊前が用意したもので何気なく使っていたのである。
    「……私たちは元々、長い付き合いの友人だから。村雲さんのように、婚約者として過ごす時間が長ければ、違ったかもしれないわね」
     緊張しながら彼女がなんとかそう返事をすれば、五月雨は「なるほど」と納得した風で言う。それからいくらか瞳を和らげた。
    「良いものですね。ええ、そういった関係もまた季語だと思います」
     何がどう季語なのかわからないが、五月雨は彼女の返答に特に疑問を抱かなかったようなので、彼女は内心で安堵し息を吐いた。ごまかしがてら、お代わりをどうぞと彼女は五月雨のカップに紅茶を注ぐ。それにありがとうございますと言いながら、五月雨はぽつりと呟いた。
    「それに、豊前にはそういった……隣に並べるような関係性が必要だと思います。友人でも、恋人でも構いませんが」
    「そう? あの人、昔から一人で何でもできる人ようなだったけど」
     ちょっと大げさな言いかたな気がして彼女はやや笑った。必要、と言っても彼女はただの友人なのである。確かにそれなりの年月を重ねてきはしたが、それだけだ。しかし五月雨は一口紅茶を飲んだ後に言う。
    「野ざらしを、心に風のしむ身かな。しみる体がなければ、豊前は帰ってこないでしょうから」
     体がなければ、帰ってこない。
     自分もカップを口元に運びかけていた彼女は、ぴたりと動きを止めた。
    「……それって、どういう」
     そう問いかけたとき、再びコンコンとノックの音がした。女中だろうかと振り返り返事をすると、首のあたりを手ぬぐいで拭っている桑名が顔を出す。
    「奥方、こんにちは。あー、やっぱり。五月雨が来てた、帝都に戻ってたのお?」
     相変わらず人懐こい笑顔を浮かべて、桑名は部屋に入ってくる。
    「桑名、ただいま戻りました」
    「おかえり。奥方、お邪魔するねえ。さっき野菜を届けがてら厨に行ったらいい筍があったから、もしかしたら五月雨かなあって」
    「ええ、五月雨さんからいただいたの。桑名さんもお茶、いかがかしら」
     聞きたいことを尋ねそびれた、と思いはしたが彼女は桑名の分もティーカップを用意した。ちょうどポットも空になって、茶葉を新しいものに換えようと思っていた頃だ。
     彼女と五月雨と桑名は暫く部屋で談笑して過ごした。自然のものに親しみのある桑名と五月雨はそれなりに話が弾んだし、彼女も旅先や畑の話を聞いているのは新鮮だった。彼女は結婚するまでずっと、こんなに人の出入りの多い屋敷にいたことはないし、後継ぎとして養育されていた頃もこうした他愛のない会話とは縁遠かったのだ。
     昼下がりまで彼女たちはそうして過ごし、家に戻るという五月雨を桑名と二人で見送った。また旅に出るとは言っているが、暫くの間は五月雨も帝都にいるらしい。
    「来てくださってありがとう。また旅先の話を聞かせてくださいな」
     彼女がそう言えば、五月雨はいくらか嬉しそうに微笑む。本当に旅に出るのが好きらしい。
    「ええ、もちろんです。奥方もぜひ、旅に出てください」
    「ふふ、そうね。せっかくだから豊前に連れて行ってもらおうかしら」
     そう付け加えると、五月雨は瞳を和ませる。
    「とても、良いと思います。北がおすすめです。新婚旅行もまだだと伺いました」
     そう言えばそんなものもあった。指摘されて初めて気が付いて、彼女は手を振り五月雨を見送る。歩いてきたらしい五月雨は最後にもう一礼して帰って行った。
    「長い間話してたけど、疲れた? 大丈夫?」
     門扉から玄関に戻るまでの間、桑名が彼女に尋ねる。大柄な桑名は屈むようにして彼女に視線を合わせてくれた。
    「ありがとう。でも平気よ、人と話すの嫌いじゃないの」
    「そお? でも無理しないでいいからねえ」
     無理、という言葉に彼女はぎくりとする。桑名は太陽のような朗らかな笑みのまま、もう一つ彼女に言った。
    「心配しなくても大丈夫だよお。僕ら、君のことは『いい人』だって、思ってるからね」
     ……これはやはり、ばれているのでは。硬直した彼女に桑名は「筍は明日の晩御飯かな」なんて付け加えた。
    「ははは、誤魔化すなんて慣れねえことすっからだよ」
    「笑いことじゃないわ」
     会食後、運転しながら豊前は愉快気に笑った。車が好きな豊前は、移動に運転手を使わない。だから妻として会食に付き添った彼女も、行きは家の運転手をお願いしても帰りは助手席に座っていた。夜道も問題ない様子で豊前は車を進める。今日の会食は商工会のもので、彼女は豊前の隣でひたすらにこにこしていればよかったので楽だった。
    「結構頑張ったのに、あんまり効果はなかったってことかしら?」
    「いや? 家のやつらは何も言ってこねえし、変なところもねえし。桑名とか松井とか、身内しかきっと疑ってねえよ。篭手切なんかはだんまりを決め込んでくれてるしな。言ったろ? お前が変なやつじゃないってわかれば、あいつらは何も言わねえって」
    「そうかもしれないけど……」
     事実、豊前の言う通り、豊前の兄弟たちは彼女と豊前の本当の関係に感づいたような様子はあっても、直接彼女に尋ねたり何かを言ってきたりするようなことはなかった。むしろ彼女を「豊前江の妻」として遇しており、有難いことに彼女はいたってすんなりこの屋敷に馴染んでいる。入れ代わり立ち代わりやってくる豊前の兄弟たちは、最初こそ彼女の様子を伺っていたような気がしなくもないが、近頃は今日の五月雨のように彼女と友好的な関係を築くためにここを訪れているような気がしていた。
    「まー、あいつらが来るのお前が嫌とか、気になるっていうなら俺から言うけど」
    「そういうわけじゃないわ」
     それには彼女は躊躇いなく首を振る。なぜなら彼女もまた今はそんな豊前の兄弟や良くしてくれるこの家の人間に、不思議な居心地の良さを感じ始めていたからだ。だからこそ余計に、嘘を吐いていることへの絶妙な後ろめたさがあるとも言うのだが。
    「……いいのかしら、私。このままここにいても」
     自分は正しく、「豊前江の妻」ではないというのに。
     もうすっかり慣れた革張りの助手席に体を預ける。無論、彼女は豊前の妻になるためにここに来たのだから、豊前から何か言われない限り出て行ったりするつもりはない。だがこうしていていいのかという気持ちにはなる。
    「嫌か?」
    「いいえ」
     彼女はもう一度首を振る。嫌なんてことは、決してない。迷いはあるが、それだけは間違いなく言える。
     するとハンドルを切りながら、豊前はもう一度尋ねた。
    「じゃあ、楽しいか?」
     ……まただ、と彼女は思った。ここに来てから、もう何度かそう聞かれているし、そうしろとも言われた。彼女が黙っていると、豊前はそのまま続ける。
    「言ったろ? 嫁に来てくれたら不自由はさせねえし、お前も好きなことしろって。最初からそれでいーんだよ。我慢なんかすんなよ」
     すれ違った車のライトに、ほんのわずかな間だけ豊前の横顔が照らされる。だが夜道でガス灯もまばらなこともあり、すぐにそれは暗闇に取り紛れてぼんやりとしか見えなくなった。彼女は一度瞬きをすると、着ていた上着の首元を押さえた。
    「……でも私が我慢しなくなったら、きっと今日のあなた、すごく困ったわよ」
    「ん?」
    「会食で話しかけてきた感じの悪い男、私だったら厭味の一つでも言ってやったのに」
     ああ、と豊前は軽く笑った。今日の会食は、財閥や他の商家、所謂金持ちが多かった。頻度は高くないが彼女も社交界にはある程度顔を出していたし、結婚してから数回豊前の仕事の場に同行したため多少なりと相手の顔を覚え始めている。感じが悪いと彼女が思ったのは、江と同程度の規模の百貨店を営む家の主人。簡単に言えば豊前の競合相手だ。そりゃあ愛想よく接することができる相手ではないかもしれないが、あからさまだなと彼女は思った。
    「仕方ねえよ。ありがてえことにうちは近頃調子がいいけど、時代が変わるまでは息を潜めてた家だからな。商家としては新しい方ちゃ、向こうからしたら気に食わんこともある」
    「でも家としてはそうじゃないわ。でしょう? あんなに刺々しくされる謂われないわよ」
     彼女はその男性の態度に少し、いやかなりムッとしたが豊前は普段と全く変わらない様子で笑って彼の攻撃的な言葉を受け流した。それどころか、この様子だと気にも留めていなかったようである。江の家に対してだけではない、豊前個人に対する悪意もいくらかあったのに。
    「まあ、お前が怒りたかったなら次は怒ればいーんじゃねえか?」
     それなのに豊前はまるで他人事なのだから、呆れてしまう。彼女はため息を吐いてから言った。
    「あら、じゃあ今度は持ってたシャンペンを相手にぶちまけてもいいのね」
    「お前ならやりそうだなー」
    「揶揄ってると本当にやるわよ」
     そう言ってもくつくつと豊前は肩を揺らしているので、彼女もつられてふふと笑った。
     遠くに江の屋敷が見え始める。もうすぐ家だ。遠くからでも、二階の角の部屋の明かりがついているのが見える。あれは篭手切の部屋、学生だから勉強しているのかもしれない。家に戻ったら、紅茶を持って行こうと彼女は思った。前にそうしたら、篭手切はとても喜んでくれたのだ。
     それから広間の窓も、まだ明るいのが見えた。積極的に仲良くするわけではないのだが、桑名と松井は何故だか夜になると揃って広間で各々過ごしていることが多い。帳面を付けたり、明日の食事に使うのだと豆の筋を取ったり。自分の部屋でもできるだろうに、何故だか二人であれこれ言い合いながら一緒にいるのだ。彼女も近頃はそれを見ながら読書をしたりする。
    「でも、嬉しいよ」
     家の近くに来たからか、いくらか車のスピードを落としながら豊前が言った。
    「なにが?」
    「いや、柄じゃねえって、お前は言うんだろうけど。お前、江の家のことで怒ってくれるんだろ。それなら俺は嬉しいよ」
     本当は、彼女にも僅かながら実感がある。
     これは偽装結婚で、彼女と豊前とは正しく「夫婦」ではないのだけれど。けれど彼女にとってもうこの場所は、江の兄弟や使用人たちは、家であり家族に近い存在になっているのだ。この乗り慣れた豊前の車の助手席が、彼女にとって今は一番居心地のいい場所であるように。
    「……活動写真に行くときでも、そうでなくてもいいから、もう一度乗馬倶楽部に連れて行って」
    「おー、いいよ。また馬に乗るか?」
    「ええ。この間の子、落鉄して蹄がどうなったか気になるの」
     カコカコと豊前がギアを変える音がする。豊前は玄関の前に車を止めながら、こちらを向いて歯を見せて笑った。
    「おう、見に行こうな。帰んぞ」
    「ええ」
     豊前が開けてくれたドアから車外に出る。そのとき貸してくれた手を繋いだまま、彼女と豊前は屋敷の中に戻った。



     それは昼下がりのことだった。部屋で本を読んでいると、微かに悲鳴のような声が聞こえた気がしたのだ。時計を見る。まだ昼下がりだった。豊前は今日は松井と商談に出ており、帰宅は夕飯前だと聞いている。桑名は郊外にある畑を見に行くと言っていて、篭手切は大学。屋敷内にいるのは彼女と使用人だけのはず。
    「……気のせい?」
     しかし次いでバタバタと忙しない足音が響いたので、彼女も本を置いて立ち上がった。何かの空耳ではなかったらしい。部屋を出て廊下を進み、階段を下りる前に玄関の方を見下ろした。深緑の長い外套を羽織った誰かがちょうどこちらに昇ってこようとしている。
    「何ごと? っ松井さん、血が」
    「……奥方」
     手すりを掴む白い松井のブラウスの袖に、生々しく赤黒い染みがあった。ぎょっとして階段を駆け下りた彼女は松井の腕に触れたが、松井は特に痛そうな素振りを見せない。松井自身の出血ではないようだった。そのことに彼女は安堵したものの、他の誰かがこれだけの血を流したころは変わりない。彼女は思わず松井の汚れた袖を握り締めた。
     今朝松井は豊前と一緒に出て行って、松井だけがここにいる。何故豊前はここにいない。
     松井は一度唇を引き絞ったが、彼女に静かに告げた。
    「豊前が怪我をした。暴漢に腕を斬られて、今は病院にいる」
     ヒュッと喉を通る空気が音を立てた。女中が小さく悲鳴を上げたのも聞こえる。
     怪我は、どの程度。しかし松井の服がこれだけ汚れるくらいだ、もしかしたら。彼女が何も言えないでいると、松井に肩を支えられる。
    「落ち着いて、もう処置は済んでるから。命に別状もない。ただ入院することになるから、女中たちは衣服の仕度をして。奥方、説明するから、こっちへ」
    「え、ええ」
    「暫く人払いを。それからすぐに桑名達にも連絡して知らせて」
    「はいっ、松井様、ただいま」
     豊前よりも細く、どこかたおやかな手が彼女の背中に添えられた。そのまま松井は彼女を自分の部屋に連れて行く。初めて入ったその部屋は、落ち着いた色調の調度品が多かった。彼女を長椅子に座らせると、松井は手早く水差しから汲んだ水を渡してくれる。
    「すまない、僕もあまり時間がないから冷たいものしか用意できないけれど」
     ひんやりとした手のひらの感覚で、いくらか頭が冴える。とにかく落ち着かなくては。それは間違いない。彼女は渡されたそれを一度に飲み干した。
    「……いいえ、大丈夫よ。私のことは気にしないで、話して」
     怪我の程度はわからないが、少なくとも命に別状はないと先ほど聞いた。もし生死に問題のあることなら、松井は一番に教えてくれるはず。彼女が深く呼吸をしたのを、隣に座った松井はじっとその青い瞳で見ていた。静かに、しかししっかりと松井は彼女に言う。
    「……そう。なら単刀直入に聞くよ。どうか、本当のことを教えて」
     硝子の器を両手で持ったまま、彼女は松井の瞳を見つめ返す。松井はゆっくりと、彼女に尋ねた。
    「あなたは、何か僕たちに隠し事をしているね」
     沈黙は肯定であるとわかっていたが、彼女はただ黙って目を閉じた。豊前と約束している。だから彼女から直接、それを認めることは口にできない。
    「……豊前が何か言ったの?」
    「いや。ただ、処置される直前に僕に言ったんだ。自分に万が一のことがあっても、あなたのことは家に帰さないでほしいと」
    「……え?」
     できるだけ冷静でいようと彼女は思っていたが、それでも言われている意味が分からなかった。だから水が入っていた冷たい器を握り締めたまま、彼女はただぼんやりと松井の顔を眺める。
    「商談に行く途中、豊前は暴漢に腕を切りつけられた。近頃江の家は色んなことに手を伸ばしているから、恨みを買うこともあると思って警護は増やしていたつもりだったけど。でもすぐに暴漢は捕まって、豊前は傷が少し大きかったから、病院に運ばれた。その途中で、僕に言っていた」
     松井の部屋の扉の向こうで、女中や使用人たちがあれこれ言いながら豊前の衣服や何やらを整えている忙しない声や走る足音が聞こえていた。だがそんな中で不思議と、松井の声は酷くはっきりと彼女に届く。
    「子どもがいなくて結婚して日も浅いから、もし未亡人になればあなたは実家に戻されるかもしれない。けどそれだけはするなと。万が一のとき、あなただけは必ずこの江の屋敷に留め置くように言っていた」
     その場にいなかったのに、何故だかあの軽やかな豊前の声が彼女の耳にも届く。きっとどこか明るく、はきはきとしたそんな声。
    「家のことはさ、お前に任せておけば間違いねえだろうし。俺もそれにこの程度じゃ何ともねえと思うけど。でも万が一ってこともあんだろ。だからそれだけ、頼めねえかな。頼むな、松井」
     視線を少し下げると、どす黒く変色した松井の袖が目に入った。こんなに、血が出るような怪我をしていたくせに。
    「……馬鹿ね、あの人」
     なんだってそんなときに、偽物の妻のことなんか気に掛けたりするのだ。
    「これじゃ、助けるつもりでここに来たのに、逆になっちゃった」
     ふふと笑い声にも似たため息を吐き、彼女はもう一度松井の方を向く。潮時だと、流石の彼女ももうわかった。
    「松井さんは、私のこと、どの程度ご存じなの?」
     そう聞かれて、松井は迷ったような、申し訳なさそうな表情を浮かべる。さらさらの髪を揺らし、いくらか俯いた。
    「……ここに来る前のことは、ほとんど何も知らない。家柄は、申し訳ないけど調べた。でも貴族の方で、豊前の前からの知り合いで、それ以外は」
    「そう。豊前って、本当に何も言わないのね。松井さんも苦労するでしょう」
     けれど家のこと調べたのなら、松井は彼女が跡取りとして育てられていたことはもうきっと知っているはず。それを知るのはあまり難しいことではない。だがそれだけで恐らく、勘のいい松井は彼女の境遇を推し量れるはずだ。それがわかっていたので、彼女はただひとつだけ松井に告げた。
    「……私ね、昔、とはいってもそんなに前じゃないけれど。豊前が頼んでくることで、たった人生で一回だけ、何でも聞いてあげるって、元々決めていたの」
     そもそも、あの幼馴染は昔から彼女に頼みごとなんて滅多にしてこなかった。大抵のことは気づいたら自分で解決していて、彼女が手を出すまでもなかったのだ。
     だから、あるとすればそれはきっと人生でたった一度きりだろう。もしも豊前が頼みごとをしてきたら、それがどんな内容であろうと、必ず聞いてあげる。彼女はそう決めていた。
    「貴方と豊前、そんなに仲が良かったのかい」
     松井が尋ねるのに、彼女は首を振った。それは自分ではわかりかねる。
    「どうかしら、付き合いは長いけど、豊前がどう思っているかはわからないから。けど、それでもね。一度だけ、助けてもらったから。だから私も、一度だけ、必ず豊前を助けることにしていたの」
     もし、豊前が彼女の助けを必要としたのなら。それが一体どんなことであろうとも。
    「……それで、貴方はここに来たの」
    「……ええ。そう、決めていたから」
     まさかそれで、結婚することになるとは思っていなかったけれど。でも構わない。どんなことでも聞くと決めていたのだから。
     それだけのことを、彼女は豊前にしてもらった。
    「豊前がどう思っていても、家で居場所がなくなって、宙ぶらりんだった私を別な場所に連れて行ってくれたのは、豊前だから。だからもし豊前が私のことを必要としたら、そのときは絶対に力になるって。私、そう決めたの」
     この気持ちは、恋、ではないかもしれない。けれど彼女にとって、豊前江という人はそういうとても大切な人だった。同じ乗馬倶楽部に通った古い友人で、同じ跡取り同士だったこともあって。
     どんなことをしてでも、豊前から頼まれたのなら、助けを求められたなら、それに応えたいと思っていた。
    「でも松井さん達には嘘を吐く形になってしまって。騙していて、ごめんなさい」
     松井は一度口を開きかけ、やめた。迷うように視線を惑わせてもいた。柳眉を寄せて、唇を噤む。彼女は黙って、その様子を見つめた。
     そのうちコンコンと女中が外から扉をノックした。支度が出来たという報告に、松井はわかったと返事をする。それからやっと、何かを決心した表情で彼女に向き直った。
    「貴方に一つ、頼みたいことがある」
    「……私に?」
    「ああ。話を聞いてわかった、貴方でなくてはだめだ」
     一度だけ深く息を吸ってから、松井は言った。
    「……僕たちは、育った家がそれぞれ違うんだ」
    「え?」
     綺麗に整えられた爪と指先で、松井は顔の周りの髪を耳に掛ける。一杯だけ水を飲んだ。
    「父親は全員同じだから、本当の兄弟だけど。そういうしきたりだと聞いた。後継ぎが決まるまで、全員、違う家に育てられる。後継ぎにならなくて、実子がいるだとかそういう問題がなければ、そのままその家を継ぐこともある。今は村雲が、そうだけど」
    「そう、なの」
     まあ、本家の子どもが分家に養子に行き、その家を継ぐことはあまり不思議なことではない。その方が江のような大きな家業を持つ家だと何かと都合がいいこともわかる。特に豊前達は仲が良いようだから、そうすれば家同士はより強固に結びつくだろう。
     松井は足を直し、指を交互に組む。
    「僕たちも、そういう間は兄弟同士あまり顔を合わせることがない。一年に一度あるかどうかだった。だから今みたいに毎日顔を合わせたり、一緒に暮らすようになったのは豊前が後継者に決まってからだ。……でも、それが決まる直前まで、豊前はどこに行ったのか僕たちにはわからなかった」
    「え?」
     どういうことだ。彼女は慎重に言われたことを頭の中で整理した。後継者を決めるために、本家から出されて別な家で養育される。そこまではわかる。けれどそこで、いなくなった……?
    「僕たち、お互いにどこにいるか大まかな位置しか知らせてもらえなかったんだ。桑名は三河、五月雨と村雲は帝都の近く、稲葉は結城……って地名くらい。僕と篭手切と豊前は、更に離れて九州にいた。いるはずだった。でも養父母の話をそれとなく聞いているうちに、どうやら豊前は行方知れずになっているらしいことがわかった。すまない、僕も正確なことは、本当にわからないんだ。当時は子どもで、できることも少なくて」
     松井は到底嘘を言っている風ではなかった。そもそもこれが事実なら丸ごと隠しこそすれ、嘘を吐く意味がない。だがそれなら、今どうして豊前はここにいるのだろう。あまつさえ、当主として。
    「どうしてなのか、どうやって戻ってきたのか。豊前は今でも何も教えてくれない。けれどたぶん、これは僕の想像の域を出ないけれど、豊前はきっと、『後継者』としてでなければ戻って来られなかったんだと思う」
     行方知れずになった子ども。そうなると、いくら江の家とは言え……否、江のような財産と規模の家だからこそ、そう簡単には戻って来ることができない。一般家庭とは違うのだ。素性やらなにやらを明確にできないものを、もう一度家に入れることはできない。
     だから『江の家の後継者』として確かな立場に就くことだけが、豊前がこの家に戻ってくる方法だった。
     たとえその裏で、豊前がどんなことをしなければならなかったとしても。……その結果、今日のようなことがあったとしても。
    「けど、豊前はきっと、いつか自分がもう一度いなくなってもいいようにしていた」
     暗い声で松井は呟く。それは己の無力さを悔いているようでもあった。
    「江の家を大きくして、安定させて、僕たちが好きなことをしてもいいような環境を整えた」
    「……好きな、こと」
    「僕たちをできるだけ近くに集めて、もう誰もどこにも行かないように。そうやって生きて行けるようにした。そのためなら豊前は自分の手はいくらでも汚した、いつかいなくなるなら、それでも構わないから」
     ああ、そう、そうだったの。彼女は息を吐いて手で口元を覆った。
     あんなにしつこく、楽しいかと聞いていたのも。彼女に好きなことをしてほしいと言っていたのも。あれは嫁に入ってもらう偽装結婚の負い目などではない。きっと全部、丸ごと彼女の為だったのだ。
    「だから僕は、豊前は結婚なんてしないと思っていた。勧めても、するはずがないと思っていた。結婚なんてして、豊前が自分から、誰かを自分の人生に巻き込むはずがない。けれど豊前は、貴方をここに連れてきた。そうするのがいいと思ったから、貴方相手ならそうしてもいいと思ったから」
     長椅子を降り、松井は彼女の手首を掴む。彼女が体を起こすと、深い青に塗られた指先が彼女の手に縋った。
    「……お願いだ。豊前をここに引き留めてくれ。僕たちはもう、豊前を見失いたくない」
     代わる代わる彼女の部屋にやってきて、彼女を受け入れ、江の「家族」にしてくれた豊前の兄弟。豊前の手を離すまいとして、あの背中を見失うまいとして。
     だがそれは、彼女も同じだ。
    「……私を病院に連れて行って」
     彼女が言えば松井は一つ、頷いた。



     教えられた病室のドアノブを握る。いくらか緊張したが、彼女はそれを一息に引いた。すると何故だか強い風が吹き抜けて、思わず彼女は瞳を閉じた。彼女の髪や服の裾を乱したそれが止み、瞼を開くと白い寝台が目に入る。そこは何故かもぬけの殻だった。開け放たれた窓から夜風が吹きこんでいて、寝台同様に白いカーテンが揺れていた。病室は明かりもついていない。あるのは窓からの白い月の光だけだ。
    「……豊前?」
     カツと靴音を立てて一歩病室に踏み込む。すると物陰から低い声が答えた。
    「……誰だ、気安いぞ」
     驚いて振り返る。豊前は病室の壁沿いに置かれた長椅子に浅く腰掛けていた。暗がりの中で、赤い瞳だけが爛々と光って見えた。もうどこかに行ってしまったのだろうかと考えかけていた彼女は、ひとまずそれに安堵する。
    「……気安いに決まってるでしょう。私を何だと思ってるの。あなたの妻よ。一応ね」
     そう答えれば豊前はこちらを見て僅かに何か考えたようだったが、そのうち至って普段通りの表情で笑って答えた。
    「そーだったな」
     はあ、と息を吐いて彼女は豊前の正面に立った。半袖の病院着の袖から、包帯の巻かれた右腕が覗いている。何針か縫ったと松井から聞いた。だがそれには触れず、彼女は口を開く。
    「感じ悪いわよ、いきなり気安いって」
    「悪い悪い、お前だと思わなかったんだよ」
    「私以外でもだめよ。あなた、自分じゃ気づいてないかもしれないけど、顔立ちが整ってる分目元が鋭く見えるから。言葉がきついと怖いわよ。当主なんだから、人に嫌われないようにって、教わらなかった?」
     揶揄い交じりに言えば、豊前はそれを聞いて「はは」と小さく笑った。それは彼女が昔、父親から言われたことである。
    「……でもそういう割にお前も、昔俺に言ったよな。気楽でいいわねって。絶対覚えてねえだろうけど」
    「……え?」
    「ほらやっぱり、覚えてねえ」
     ずると豊前は体勢を崩して壁に背を付けた。そうして下から彼女のことを見上げる。緩く癖のついた前髪の隙間から、覗く赤い瞳を見つめ、彼女は豊前がいつのことを言っているのか思い出した。
     きまり悪くなって、彼女は豊前の隣に腰かける。病室の長椅子は彼女と豊前の部屋にある椅子よりも硬かった。
    「あのときは……私も、あまり余裕がなかったのよ」
    「ん……そうだろうなと思った。お前にしては珍しく泣き喚いたから」
     あれは、廃嫡が決まったとき。とはいっても彼女は公式に嫡子だとされていたわけではないから、その「廃嫡」という表現でさえも仮初のものだった。彼女はそれにも腹が立った。
    「勝手に、勝手に今まで、私のこと跡取りにしてきたくせに。冗談じゃないわ、だったら私、今まで何のために育てられたのよ」
     豊前に連れ出されたあの広場で、彼女はひとしきり溜まりに溜まった鬱憤をまき散らした。だって誰にも言えなかったのだ。家の中でそんなことを言えば、益々自分の立場が悪くなることを彼女は既に理解できる年齢だった。そしてそれ故にこれからの自分の人生があまり良くないものであることも理解していた。後継ぎにならないのであれば彼女にはもうどこぞに嫁に行くしかないのだろうが、後継ぎとして彼女は学問もそれ以外も修めてきた。そういう学のある女の嫁の貰い手など、早々あるわけがない。
     それで彼女がどうにもならない怒りをぶちまけていると、座り込んで頬杖を突いていた豊前は言った。
    「じゃあなんだ、家の家督、今からでも取りに行くか?」
    「どうやって? 私は女なのよ。そんなこと気楽に言えていいわね、豊前は男だもの!」
     苛立ち紛れに、そう言った気がする。あまり覚えていたい記憶ではないので、はっきりとは思い出せないが。
     だが隣に座った豊前は、ぽつりと呟いた。
    「……俺はあのとき、お前がもしそうしたいって言ったら、手伝うつもりだったよ」
     首を横に向ける。豊前は車を運転しているときのように、正面を見たままだった。
    「どうやって?」
    「どうとでもできんだろ。お前、あんなに高く跳べたんだからさ」
     そんな、懐かしいことを覚えているのはもう豊前だけだ。彼女はゆっくりと一度瞬きをして答える。
    「まだ覚えてるの」
    「おう。初めて負けたからな。……覚えてんよ」
     とても、それは綺麗だったから。豊前の中でも忘れられない出来事だった。
     昔、豊前の前で軽々と、馬で柵を飛び越えて行った少女がいた。
     同じ乗馬倶楽部の子で、併走すれば豊前の方が早い。けれど障害物を飛び越えるのだけは、その子の方が高く跳べる。豊前はその子に何度挑んでも勝てなかった。馬に慣れたはずの自分でもヒヤリとするような高さのそれを、彼女はいつも何でもないように軽々と越えて見せた。
    「なんでだろ、お前の方が軽いからかな」
     しかしあるとき豊前がそう言えば、彼女は少し嫌そうな顔をした。いつも朗らかに笑うことが多いその子にしては珍しく、眉間に皴まで寄せて。
    「そりゃあ、私は女だもの。あなたよりは、軽いから有利でしょうね」
     そのとき豊前は気づいた。恐らくこの子は、「女」であることで何か嫌な思いをしたのだろうと。
     そしてその答えがわかるのは、あまり遠いことではなかった。その子は女の子であるという理由で、家の跡継ぎになれなかったのだ。
    「……ねえ、豊前」
     病室の周りは驚くほど静かだった。たださらさらとカーテンが揺れる音だけが響いている。豊前と彼女はお互い前を向いて並んで腰かけていた。
    「あなたどこかに行ったりしないわよね」
     松井から何を聞いただとか、もうそんなことをいちいち説明する必要はなかった。そもそも豊前は何事も言葉で解説してくれることは殆どない。どんなことも、豊前にとって必要だったからそうしたこと。そこに小難しい理屈ははなから存在しないのだ。
     だからきっと、彼女との結婚もそう。豊前がそうするのがいいと思ったから。この話を持ち掛けたときに言っていたように、「利害関係が一致」していて、そして。江の家なら、彼女にとっての居場所になると思ったから。
    「……まあ、俺はお化けみたいなもんだから。いなくてももうなんとかなんだろ」
     それは恐らく、豊前がずっと思っていたこと。そうであってほしいと、そうでなくてはならないと、そう考えて豊前は皆に「好きなこと」をさせ続けてきた。もう二度と江のものたちが自分のように失われないように。
     だが彼女は、彼女だけはそれを許してはならない。
    「……ふざけるんじゃないわよ。そんな無責任なこと、二度と言わないで」
     体を起こし、彼女は豊前に向き直る。
    「あなた夫婦って、どういうものなのかわかってる? あなたがいなくなったら、私は未亡人になるの。独り身ならまだしも、気軽にいなくなられてごらんなさい。子どももいないし、今更実家に戻されても困るわ。豊前が一番知ってるでしょう、私が今更あの家に戻れないことくらい」
    「松井には頼んであるよ。俺がいなくても、お前はあの家にいればいい。あの家を気に入ってんなら、いくらでも」
     包帯の巻かれていない方の手を彼女は掴んだ。すると風が吹き込んでくる窓だけを見ていた豊前の瞳が、ちらりと彼女に向けられる。
    「嫌よ。私、あなたがいないなら江の屋敷には戻らない。だって他の誰も、私と一緒に遠乗りなんかできないでしょう。他の誰も私をあの場所へ、連れてはいけないでしょう?」
    「……おい」
    「あなたが言ったのよ、そこじゃなくても生きていけるって。だからあなた、私をここに連れてきてくれたんでしょう? だったら最後まで、責任を取ってくれなくちゃいけないわ。まだ約束した活動写真だって、乗馬倶楽部だって、行ってないんだから」
     その気になれば、豊前は風と一緒に遠く走っていける。その術を知っている。その方が楽なのかもしれない。幸せかもしれない。慣れない当主をやるより、気ままにどこまでも走っていく方が、きっと。
     けれど彼女は、豊前にここにいてほしい。何とかここに繋ぎとめておきたい。
     だからこの風には、蹄鉄を履かせなくてはならない。
     早く、けれど繊細な足がどこまでも走りやすいように。代わりに少しの重しとなるように。そのために、彼女は豊前の蹄鉄になろう。一緒に走って、今度は一緒に高く跳ぶことができるように。
     豊前は暫くの間、彼女を見つめて黙っていた。その間も彼女は豊前から視線を逸らさなかった。たぶんこれから一生、そうするだろう。何ならいっそ、彼女と結婚したことを後悔させてやる。
     後悔して、そしてもう一人でどこにも行けなくなればいい。
    「……腕が治るまで、運転は無理ちゃ」
     その呟きを聞いて彼女が息を吐いたのと、豊前が堪えきれなくなったようにこちらに体を倒したのはほぼ同時だった。いつも豊前が使っている整髪料の匂いがする。
    「……代わりにさ、この手、ぜってー離すなよ」
     病院着の薄い布地で覆われた背中に、彼女は空いている腕を回した。傷ついた豊前の手もまた、彼女の服を掴む。
    「……約束するわ」
     彼女だって、生半可な気持ちで豊前と結婚したのではない。
     人生でたった一度。豊前が助けを求めてきたら、必ず助けると決めていたのだから。
    「ねえ、椅子を買ってもいい?」
     豊前の肩に凭れて、彼女は尋ねた。今までこんな風に豊前の近くにいたことはなかったが、こうしていると不思議と心が落ち着いた。もっと早くこうすればよかったとさえ思った。豊前は「んー」と言いながら彼女の頭に頬を乗っける。
    「椅子? いーけど、どんな?」
    「五月雨さんが言ってたの。夫婦は同じ椅子に並んで座るものなんですって。だからそうできるくらい、大きな椅子を買ってあの部屋に置くの。いいでしょう?」
     彼女は一人で生きて行けるように、育てられてきた。そして豊前もまた、いつか一人になってもいいように生きてきた。けれどこれからは、こうして二人で座るのもきっと悪くない。
     硬い病室の椅子で寄り添いながら、彼女はそう思った。夜風が開け放たれた窓から優しく、吹き抜けては豊前の髪を揺らした。



     よいしょ、と彼女はそれに被せられていた白い布を一度に引く。見ていた豊前は「おー」と感心したように言う。その腕はまだ動かせないように三角巾で吊るされていた。
    「でっけーの買ったんだな」
    「便利でしょう? 二人で座っても足まで載せられるわよ」
     長椅子に腰かけると、彼女は本当に足を載せて見せる。豊前は笑って「おー」と言った。
     先日、彼女は初めてこの部屋のために家具を一つ買った。江の百貨店で、もちろん請求は豊前宛である。自分でそうしろと言ったのだから別に構わないだろう。
     コンコン、と部屋の扉がノックされる。返事をすれば、松井が顔を出した。
    「豊前、仕事の書類。置いておくから後で目だけ通してくれ。判さえもらえればあとは僕がやる。まだ腕が上手く動かないだろう」
    「そこまで気にしなくても、俺がやんよ。こんなのどうとでもなんだから」
     軽い調子で豊前が言えば、松井はじっとりした目で豊前を睨んだ。普段よりもさらに低い声で、松井は豊前に釘を刺す。
    「いや、だめだ。僕の服を血に塗れさせたんだから、責任持って休んでくれ。奥方」
    「何かしら?」
     長椅子に座ったまま彼女が聞けば、松井はしっかりと豊前を指さしながら言った。あとで聞いたのだが、松井は豊前のすぐ下の弟らしい。確かに、二番目や三番目の子といった「強さ」が松井にはあった。
    「豊前が悪さしないように見張ってくれ。豊前は基本的に誰の言うことも聞かない」
    「そうでしょうね」
    「よろしく」
     サッと引っ込んで言った松井に、彼女はくすくすと笑った。豊前の方はどこか拗ねたように口を尖らせる。
    「なんだよ、普段は仕事しろって言うのに」
    「ほら、あなたも座って、豊前」
    「わーった、わかったよ、引っ張るなって、いてて」
     彼女が促せば、豊前は隣に座った。それから彼女は横着をして長椅子から後ろに置かれたチェストに手を伸ばす。確か引き出しの一番上に入れてあったはずだ。目当てのものを取り出し、彼女は振り返った。
    「豊前、これ覚えてる?」
    「ん?」
     彼女は折りたたまれた書類を指に挟んでひらひらと振った。裏面だけで豊前はそれが何なのか思い出したらしい。ああと返した。
    「仕事以外で契約書書かされる羽目になると思ってなかったちゃ」
    「ふふ、そうでしょうね」
     結婚するとき、諸々の条件を豊前に書かせた書面。彼女がずっと持っていた。だが、彼女はそれの真ん中に指を添えると、一気に真っ二つに破く。それからそのまま屑籠に投げ込んだ。
    「いーのか?」
    「ええ、いいわよ。もういらないから。今日から仕切り直しよ」
    「……そうだな」
     豊前の左腕が彼女の肩に回る。長椅子は本当に大きかったので、彼女が両足を乗せて膝を崩していても、豊前が片膝を立ててもまだ余裕があった。そうして二人して何をするわけでもなく長椅子に座って黙っていると、なんだかおかしくなって彼女は肩を揺らした。
    「……ふふ」
    「……はは、なんだよ」
    「あはは、豊前こそ」
     理由もなくただ、二人で笑う。そのうち女中がカートにティーセットを載せてやってきて、彼女と豊前はそれぞれ返事をした。開いた窓を、風が穏やかに通り抜けていった。
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    2023/03/07 16:53:55

    風の蹄鉄

    人気作品アーカイブ入り (2023/03/13)

    #ぶぜさに #刀剣乱夢 #刀剣乱夢
    豊前江と偽装結婚した女の話。

    なんちゃって大正パロです。

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