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    しおり
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    人にはなれやしない

     相模国にある某本丸は戦績優秀、日常の任務だけでなく特命調査等でも遺憾なく実力を発揮し、政府の信頼厚くその勢いはとどまるところを知らなかった。本丸が開かれて三年、刀たちも増えに増え、毎日賑やかに暮らしていた。
     膝丸はそこに、兄である髭切から一年ほど遅れる形で顕現した。
    「源氏の重宝、膝丸だ。ここに兄者は来ていないか?」
     そう言って視線を上げた先、審神者の隣にその兄はいた。膝丸と同じ色の瞳、柔和な顔付き、穏やかな物腰。厳しい表情をしていた膝丸もその姿に子どものように華やいだ笑みを浮かべた。
    「兄者!」
    「うんうん、よく来たね。……えーっと」
     兄の許へ小走りで寄ってきた弟はぴしりと固まった。
    「兄者……もしや俺の名前を……」
    「うーん」
     首を捻った髭切は、少しもしないうちに無言で膝丸をにっこりと見つめるだけになった。その兄の笑顔が「とりあえず笑ってごまかしておこう」だとよく知っていた弟は膝から崩れ落ちると、そのまますんすんとすすり泣きを始めた。
     度肝を抜かれたのは主なのに放っておかれたままの審神者と、その横に最初からいたのに一瞥もされなかった近侍ではじまりの一振りたる山姥切国広である。後日、山姥切国広はこのときの様子を「また面倒そうな奴が来たと思った」と語り、和泉守兼定に「お前が言うなよ!」と叱られたという。
     布で顔を隠していた頃ならいざ知らず、この頃の山姥切国広は既に凛々しく朱色の鉢巻を締め、精悍な表情で本丸を取り仕切っていた。そのため、「兄者が……また俺の名前を……」とぶちぶち言いながら突っ伏している膝丸を床から引き起こし、そんな弟を「ありゃ〜」とか言いながら見つめていた髭切をさっさと遠征に行かせた。出立の時間は既に過ぎていたのに、ようやく弟が鍛刀されたからと、特別に顕現に立ち会うのを許していたのである。
     弟がぐすぐすしている間に兄はあっさり遠征に出発した。するとそれまで「そのための冷却水だったのか?」というくらい頬を水浸しにしていた膝丸もスンッ……と落ち着いた。その切替えの早さに山姥切国広は驚いたが、大して顔には出なかった。実をいうと、ぐすぐすしている姿に、布を被らずにいられなかった頃の自分をほんの少し重ねてしまっていたのだ。
     この立直りの早さはいいものだ。新入りに本丸を案内するという仕事を控えていた山姥切国広は、自分より背の高い膝丸の肩にそっと手を乗せた。
    「よく来た。俺は山姥切国広。この本丸のはじまりの一振りで、今日の近侍だ。今日かはあんたはこの本丸で暮らすことになる」
     膝丸ははっとしたように何か言おうとして、しかし言えず、わずかに自嘲を含んだ笑みを浮かべた。
    「すまない、顕現早々取り乱した。今日からよろしく頼む」
     顔立ちは兄によく似ていたが、浮かべる表情や出てくる言葉の様子はずいぶんと違う。これはもしかしたら髭切よりずっと話が通じるかもしれない。膝丸が顕現する以前、一年近く掴みどころのない髭切のふわふわした言動に悩まされることも少なくなかった山姥切国広は、それまで以上に膝丸を歓迎する気持ちが湧いてきた。年嵩の刀どもはからかったりすっとぼけたり、どうも御しがたい。髭切だけでもこの弟が請け負ってくれるなら、願ったり叶ったりである。
     その喜びに、普段は堅固な仏頂面もやや華やいだ。新緑を思わせる瞳は凛々しさを失わないまま緩く細められ、よく響く低い声がもう一度膝丸に対して歓迎の言葉を述べた。
    「ようこそ、呪われし相模国へ」
    「ああ……ん?」
     何だ今の枕詞は、と口を挟む隙はなかった。山姥切国広は三年で培った近侍としての手腕を大いに発揮し、テキパキと本丸の案内を始めたからである。
     呪われし相模。黎明期より本丸を営む審神者たちによって語られ始めたそのあだ名に含まれる数々の逸話は、実際のところ事実なのかどうか、時の政府は言及をしていない。当然といえば当然でしかないが、そうした噂に歯止めをかけられない状況で話は広がりに広がった。鍛刀で目当ての刀が出ない、戦場から目当ての刀を連れ帰ることができない……そういう愚痴じみた自嘲だったものが、いつの間にやら少し怖くて面白い話のように印象がすり替わってしまった。怖い話はいつの時代も人間を惹きつけるのだ。
     そんなわけで、ここの審神者が本丸を相模国に構えようと思ったのも、それが「呪われし相模」だったからなのである。
     さて、この審神者、成績優秀で本丸運営も申し分ないが、ただひとつ、大層な悪癖があった。
     今回の話はその「悪癖」によって始まる。
    「それが、例の」
    「ああ、例のやつだ」
     膝丸が感心したようにこぼすと山姥切国広が溜息混じりに応じた。整った顔は普段感情を大きく顕わすことはないが、今日は目がやや虚ろである。膝丸は少し同情した。自分よりは年若いが彼は本丸の最古参だ。つまり、主の悪癖に一番振り回されてきた刀のひとつである。
     膝丸も顕現して一ヶ月、自分をよく気にかけてくれる近侍の小さな表情を読み取れるようになっていた。
    「それで、物はこれだけか?」
    「ああ、その屏風だけだ」
     二振りの前には二曲一隻の屏風がある。草花図ではあるが、桜に菜の花、朝顔といった花と名前のすぐ出てこないような草が画面にぎっちり詰まっていた。古びてややくすんではいるが、本丸に住む刀たちに比べればまったく年若い物と言えそうだ。
    「それで、今回はどういう話を聞いてこれを買ってきたのだ?」
     膝丸はつい笑いをこぼしながら訊ねた。御神刀たち、そして膝丸の兄である髭切も遠征で不在だ。鬼丸国綱、大典太光世も確か兄と同じ部隊だった。審神者は周到に予定を組んでこの屏風を買い求めてきたらしい。
     山姥切国広は淡々と膝丸の質問に応えた。
    「その屏風に描かれた風景をさまよう夢を見るそうだ。そして持主だったうちの何人かは、そのまま行方不明になっているという」
     よくありそうな話だな、と膝丸は頷いた。しかし、よくある話というのは、それだけ人の心を惹きつけるからこそ語られるのだろう。その「謂く」に惹かれ、それを手にしたいと思う者もいるのだ。ここの審神者のように。
     まだ顕現して日の浅い膝丸は、主の「悪癖」に直面するのは初めてだ。本丸にやって来てからこれまで、内番や遠征を中心に日々を過ごしてきた。出陣自体は数えるほどしかこなしていないため、まだ特もついていない。膝丸自身もやや焦ったい思いをしているが、部隊を組む都合があるのだという。
     戦働きはほとんどできていないが、「悪癖」についてはいろいろな刀たちから聞いてきた。だからそのうち、自分も駆り出されることになるだろうとは思っていた。なぜって、「悪癖」の内容が内容だからだ。
     膝丸が思わず笑ってしまい、山姥切国広が呆れ顔になるその悪癖――ここの審神者は、巷に溢れる「謂くつき」の物に目がない、いわゆる「おばけ好き」なのである。

     審神者という職に就けるからにはそういうものに惹かれる者もいるのだろう。顕現初日、自らの歓迎会と称した酒の席で今剣と岩融から初めて主の「悪癖」について聞かされたとき、膝丸は素直にそう思った。怪異は人間がいるからこそ起こり、語られ、在り続けるのだ。あやかし斬りの刀である自分もまた、その証左のひとつではないか。遠征から帰ってきて、機嫌よさそうにしながら隣で酒をぐいぐい呑んでいた髭切が「まあ、何が出ても斬っちゃえばいいしねえ」とふわふわした口調で言ったのに膝丸も頷いた。怪異が出るからこそ、怪異斬りの刀も語られるのである。
     確かにそういう怪しいものを勧んでそばに寄せるのは、膝丸としても褒められた行動ではないと感じる。しかし、兄が言う通り、斬ればいいのである。自らをあやかし斬りと自負する膝丸は、自分と、そして兄がいるからには総じて問題はないと思えた――このときは。
     その認識が覆るのも早かった。新参の膝丸には食事や内番のとき、以前からいたものが積極的に話しかけてくれた。話す内容はそう多くない。膝丸のよく知る髭切、今剣、岩融、今まさにやっている内番のこと、本丸での生活で覚えておくべき細々としたこと……そして主の悪癖。
     その悪癖は刀たちにとって、新参との共通の話題として一番手っ取り早かったのかもしれない。確かに主なら、顕現したときに顔を合わせるし、話をする。それは今後も変わらないはずだ。錚々たる顔ぶれが「いや〜ほんとにうちの主にも困ったものですよね」といった感じで数々の遍歴を語る口調には親しみこそあれ、侮りや蔑みはなかった。だから膝丸もいくらか安らいだ心地でその思い出話を聞き、事の顛末に笑ったり呆れたりしたが、一週間しないうちに「これは思ったより酷いかもしれぬ」と考え直した。語られる悪癖遍歴があまりにも多かったからである。
    「……兄者」
    「うん? 何だい?」
     ある晩、膝丸は思い切って髭切に訊ねた。兄弟は同じ部屋を割り当てられていて、練度の差もあって同じ部隊になることのない兄と、夜や朝には共にいる時間が作れることに膝丸は喜んだ。髭切も喜んでいる膝丸を見てにこにこしていた。
     今日もそういう団欒のようなつもりで膝丸は話を切り出したのだった。
    「兄者は主の『悪癖』に当たったことはあるか」
     布団に入って天井を眺めながら、膝丸は隣に敷かれた布団で兄が身じろぎする気配を感じた。
    「あるよ〜」
    「そうか! どういうものだったのだ?」
     膝丸は天井に向けていた顔をばっと髭切の寝る方に倒した。兄は鬼を斬った刀である。さぞや大捕物だったに違いない。
    「僕のところに持ち込まれてきたのは、花に嫉妬する花瓶だったなあ」
    「花に嫉妬する花瓶」
    「うん」
     膝丸が思わず復唱してしまった言葉に、兄はあどけなく頷いた。
    「どうも、花が自分よりきれいだと嫉妬して枯らしちゃう子だったんだよねえ」
    「それは……花瓶の風上にも置けぬな」
    「そうだねえ。それで、嫉妬するから僕のところに持ってきたみたいなんだけど、鬼になるのかな〜、どうかな〜、鬼になったら斬っちゃおうって毎晩見てたら、ある日、割れてたんだよね」
    「おお……」
    「大人しく花瓶としての本分を受け入れてくれればよかったんだけどな」
    「そうか……」
     なんか聞きたかった話と違うな、と膝丸は思ったが、もうそれ以上は聞かなかった。兄の声がむにゃむにゃと不明瞭になってきていて、眠くて仕方がないのだろうことが分かったからである。
     余談だが、この花瓶については「髭切に鬼になりそうな心を諌められ恥入って死を選んだ」説と「髭切の顔も美しいが花と違い枯れさせることができなかったため無念の死」説が立ち、しばらく夕餉の席で論争が起こったという。この本丸は希望すれば夕餉に酒をつけてくれるので、こうした下らない話し合いはくだらないからこそよく起こり紛糾する。このときは結局結論は出ず、いつもと違って深酒した鶴丸国永が「髭切が『斬っちゃおう』って毎晩見つめてくるなんて、花瓶からすればかなりの恐怖体験だったろう、怖過ぎて割れたんじゃないか?」と大笑いし、同じく酔っ払った髭切と大乱闘になったことでこの論争は終結したらしい。主の悪癖遍歴もとい本丸内怪異現象報告という、本丸でのその類の異変を記録した報告書をまとめたデータにその旨がきっちりどころかやたら詳細に記されていて、膝丸は「自分がもう少し早く顕現できていれば……」と思いながらその報告書を表示していたディスプレイを消した。
     ともかく、一番信頼する兄から主の悪癖については詳細には聞けなかった。そのため、膝丸は他のものにも訊ねてみることにした。件の報告書を当たればいいというのはもっともだが、あまりにも数が膨大だったのである。
     そのため、また違う夜、髭切が遠征に出て不在の夕食の席で、すぐ近くに山姥切国広を見つけた膝丸はなんとなく彼の隣に座った。
    「ここの本丸は、三年目だったはずだな?」
    「ああ」
     酒が入っていたのだろう、普段と同じく澄ました表情ではあるが顔を赤くした山姥切国広は、やや目は据わっているようにも見えたが声色は常時と変わりなかった。以前は布を被って顔を隠していたとちょっと前に和泉守兼定から聞いたが、膝丸はその状態の彼は知らない。顕現した日、精悍な顔付きで背筋をすっと伸ばした彼に本丸を丁寧に案内してもらっていた気安さもあって、膝丸はそのまま話し込む体勢になった。近くにいた堀川国広が膝丸にも酒をくれた。
    「三年の間にしては、その、『悪癖』があまりにも多すぎやしないか」
     澄まし顔で酒の入ったコップを口に運んでいた山姥切国広の手がぴたりと止まった。膝丸に酒を注いでくれていた堀川国広が笑顔のまま席を外した。
    「……多い少ないじゃない」
     山姥切国広がコップを卓に叩きつけるようにして置いた。カン、と大きな音が響き、卓の周りで口々に騒いでいた刀たちも、水を打ったように静かになった。
    「そもそも初めの日から今日に至るまで、あの悪癖は治まったことがない」
     美しい緑の瞳がまるで濁った色にも見えるくらい、虚ろな目で山姥切国広は呻いた。うしろの卓に座っていたという大和守安定は後日、その声を「地獄を這ってるみたいな声だったよね」と語り、加州清光も「あれ俺久しぶりに聞いたわ〜」と笑った。
    「大体この本丸だって今はこんなに綺麗になったが元はほとんど荒屋だった。こんなところで大丈夫なのかとこんのすけに訊いても主たっての希望ですとしか応えない。俺は何かもっともらしい理由があってここを選んだんだろうと思った。大体本丸なんて寝て起きてができればいいんだ、見てくれにこだわるような奴よりずっといい、そう思っていた……その夜、俺の部屋の前を一晩中走り回る足音が聞こえるまでは」
     一晩中だぞ、一晩中!
     そう言いながら膝丸に向かって凄む山姥切国広は完全に酔っていた。膝丸はつい向かいに座っていた山伏国広に目配せをしてしまったが、彼は黙って首を小さく振った。まるで仏のような薄い微笑を浮かべて。
     君そんな静かな顔もできたのか、と思ったが口には出せなかった。山姥切国広の思い出話が続いていたからである。
    「翌朝、この広間にやって来てみると全員青褪めた顔をしている。それだけで俺は察した。それで、お前たちのところにも出たか、というと皆一様に頷く。同じ体験をした奴らがいると少しほっとするものだ。それで俺はつい『やかましい足音だったな』と言った……そしたら皆、表情を固くするんだ。どうした、と訊けば、不安げに顔を見合わせたあと、口々に言い出した。やれ戸を引っ掻く音だった、啜り泣きだった、よく意味の分からないことを喚いている声だった……俺たちの恐怖は三日後、にっかり青江が顕現するまで続いた」
     そこまで言ったとき、山伏国広のうしろを通りがかったにっかり青江が膝丸に向かって微笑みながら手を振った。手を振っただけで通りすぎていった。山姥切国広の長舌を止めてくれる気はないらしい。
    「さすがにこれはダメだ、俺と薬研藤四郎で主に進言しようと、話はすぐまとまった。そもそも主だってこの本丸で寝泊まりしていたんだ、昨日は大丈夫だったのか……そう心配して、そうだ、心配して、俺たちはあいつのところへ向かったんだ。なのにあいつ、やけにテカテカした顔で、嬉しそうに『本物だ〜!』なんて言うんだ!!」
     膝丸はもう口を挟むのは諦めてちまちまと酒を飲みながら聞いていた。いつの間にか戻ってきた堀川国広が山姥切国広の空になったコップに新しく飲み物を注いだ。酒ではなく茶のようだったが話に熱中している山姥切国広は気にならないらしい。その脇差の一連の働きに手慣れたものを感じた膝丸は、これはこの山姥切国広の「悪癖」なのだと思い至った。
    「分かるか!? あいつ、謂くつきだからこの本丸に決めたんだ! しかもだ! 俺を選んだ理由だって、俺が、霊剣・山姥切の写しだから……」
     そこまで言うと、うう、と呻いて山姥切国広は卓に突っ伏した。小さく啜り泣きのような声も聞こえる。膝丸は思わず慌てて周りの様子を伺ったが、誰も動じてはいなかった。これもよくあることらしい。
    「山姥退治なんて、俺の仕事じゃない……」
     肩から引っ掛けていた布を顔に寄せながら、消え入りそうな声で山姥切国広がそう言ったときだった。
    「だろうな」
     いつの間にか膝丸の隣にいた山姥切長義がせせら笑うように返事をした。こちらも山姥切国広と同じくらい顔が赤い。口調はしっかりしているが、したたかに酔っている。
    「俺の名前で顔を売っている偽物くんには荷が重すぎる仕事だ、そういう仕事は本歌である俺に任せて、精々そうやってじめじめしているといい」
    「……写しは偽物とは違うし、俺はじめじめなんてしていない」
    「どこがだ、さっきまで泣いていたじゃないか」
    「泣いていない」
    「泣いていた」
    「泣いていない」
    「泣いていた」
     膝丸を挟んで赤い顔が睨み合った。よく似た顔立ちに見えるが一方は仏頂面、もう一方は不敵に笑っている。膝丸が間でふたつの山姥切を交互に見やっていると、二振りはほとんど同じタイミングで卓を叩くようにして立ち上がった。
    「道場へ行くぞ」
    「望むところだ」
     そうしてすたすたと早足で広間から出ていった。
     よく似た背格好のふたつの後ろ姿が見えなくなるまで見送っていると、堀川国広が申し訳なさそうな顔をして膝丸に新しい酒を持ってきた。
    「すみません、兄弟、酔うとああなんです」
    「ああ、いや、こちらこそすまない」
     迂闊なことを言った、と謝ると、少年じみた姿の脇差は首を振った。
    「さっきの『山姥切の写しだから選ばれたんだ』っていう話だって、確かに昔は気にしていたんですけど、今はもう吹っ切れているんです。吹っ切れてるから、ああやって膝丸さんにも愚痴れるんですよ。三年の間に主さんともよく話して、それで修行にも行ったんだし……だから、本当に気にしないでくださいね」
    「あ、ああ」
    「それに、本科さんがああやって絡みに来るのだってもう慣れっこだし。兄弟いつも酔っ払うと、布を被ってたときみたいに名前とか写しであることとかを言い出すんですけど、やっぱり本科さんとしてもそこは譲れないところなんですよね。だから、いつもああやって最後には道場へ行っちゃうんです」
    「うむ、あれもまた修行よ」
     それまでずっと仏像のように黙り込んでいた山伏国広が突然口を開いた。そうしてそれまでの静かな微笑とは違い、まるで明かりの灯るような笑顔を浮かべた。
    「膝丸殿、もし先ほどの兄弟のことで責を感じているなら、後ほど拙僧に付き合うてくれぬか」
     膝丸が視線で言葉の意味を問うと、山伏国広は「心得ている」とでも言うようにひとつ大きく頷いた。
    「貴殿はまだ、肉の器の使い勝手も掴み損ねておられるだろう。であるから、教訓としてほしいのであるが、したたかに酔った肉体でいきなり激しい運動をすると、酔いが回って倒れるのである!」
     こうなったあとは道場に兄弟と本科殿を回収しにいかねばならぬのだ、と晴れやかに言うと、山伏国広は呵呵と笑い声をあげた。
     それがほんの二週間ほど前のことである。山伏国広とともにふたつの山姥切を堀川国広の調えてくれた床に転がした翌日、二振りはそれぞれ膝丸のところへ詫びにきた。哀れなことにどちらも記憶は残る質だったらしい。ふたりが謝罪とともに持ってきた菓子は髭切が嬉しそうにぱくぱくと食べたので、膝丸としても気にするところではなかった。
     ともかく、主の悪癖に振り回されることに慣れきってしまったはじまりの一振りは、今回の「謂くつき」を膝丸の元へ運んできた。霊剣霊刀の類のほとんどが遠征してしまっている中で、膝丸を頼ってくれたということだろう。それはまだ新参としての焦りも消えない膝丸にとって、誇らしいことである。
     それにしても、だ。
    「ずいぶんと周到に手配していたようだが、どこで漏れたのだ、この屏風のことは」
    「単純にここまで運ばれてきたのを松井江に見つかったんだ」
    「なるほど……」
     松井江は膝丸の顕現する少し前に本丸に来た刀だが、顕現してすぐ執務室での事務仕事を割り振られるようになったという。向いているから、と松井江自身も語っているからだが、彼が主の「悪癖」について顔をしかめたのは、「おばけ好きであること」よりも、その「謂くつき」の品をむやみやたらと買い求める節操のなさだったようだ。
    「無駄遣いを詰められているうちに執務室伝いに山姥切長義に伝わって事が露呈した、といった感じか」
    「ああ。本科は今日は非番で外出届を出していたんだが、報せを聞いてすぐ戻ってきた。一緒に出かけていたにっかり青江も戻ってきたからな、今三振りで主を詰めている」
    「にっかり青江も主を詰めることがあるのか」
     意外だな、と続けようとしたところで山姥切国広が首を振った。
    「いや、詰めるのは弁の立つ本科と松井江だ。徹底的に理詰めして口答えできないようにしている。にっかり青江はそこに同席しているだけだ」
    「同席?」
    「本丸ができたばかりの頃、ここの怪異現象はほぼあいつ一振りで対処していたからな。未だに主は頭が上がらないんだ」
     正直説教よりあいつが口をきかないのが一番効く、と山姥切国広はしみじみと語った。
    「……あわれだな……」
    「懲りない方が悪い」
     にべもなく言い捨てた山姥切国広は改めて膝丸に向き直った。
    「それで、頼んでいいか。『謂くつき』がただの噂でしかない可能性だってあるんだが、それでもにっかり青江と本科は主の近くに控えさせておきたい」
    「君は夜は遠征だったか」
    「ああ。そうでなくとも、俺もいい加減こういうのに慣れはしたが、やはり向いている奴の手が空いているならそいつに任せたい」
    「いいぞ、引き受けよう。しかし……」
     なんだか違和感があるな、と屏風を見つめながら首を傾げると、山姥切国広はその膝丸に対して首を傾げた。
    「何か、足りないような……」
    「草ならたくさん描かれているが」
    「うむ、それはそうなのだが」
     二振りで首を傾げていると、部屋の外から声をかけられた。
    「あんたもそれ、足りないと思うかい?」
     大般若長光だった。非番で暇を持て余していたのか、いそいそと室内に入ってくるとじっと屏風を見つめて頷いた。
    「俺はこいつは、もうひとつあったんじゃないかと思うんだがねぇ」
    「もうひとつ?」
     山姥切国広が怪訝な声をあげた横で、膝丸は大般若長光の言葉に得心した。
    「ああ、なるほど。対があるのか」
    「そういうことだ」
     我が意を得たりといった顔で膝丸を指差した大般若長光が、首を傾げたままの山姥切国広に向かって話し始めた。
    「そら、この草花図、春と夏の植物だろう。これだけでも確かに絵にはなるが、構図としてももうひとつ、秋と冬に繋がりそうじゃないか」
    「言われてみれば、確かに」
    「そうだろう? なんとなく構図も、この辺りの空き方が気になってなぁ、こっちにもうひとつないと、いまいち締まらんだろう」
    「これは、君から見て価値があるものなのか?」
     絵の話を始めそうなのをやんわりと遮って訊ねると、大般若長光は顎に手を当てて考える素振りをした。その素振りをするだけで、膝丸には分かった。
     大般若長光も言葉は選びはしたが、隠さなかった。
    「描かれてから百年経つかといったところだろうが、史料としてもそう価値は見出されないだろうな。画題もそうだが、こう、古風な手法を使っているからある意味で意欲作ではある。あるいは、研究のために描かれたものかもしれない」
    「研究?」
    「手法の研究さ。画というものが昔、どうやって描かれていたか、そういうのもいちいち調べて遺しておかないとすぐ忘れられてしまうものなんだよ。それがどのように朽ちるかの研究にもなる。朽ち方が分かれば、それを堰き止める方法も分かるかもしれないってわけさ。ま、ただの趣味で古風に描いただけかもしれないが」
     ふうん、と山姥切国広が気のない相づちを打つ横で、膝丸は春と夏の草花だけの屏風を見つめた。
    「百年経つなら、そろそろ付喪神もつく頃だろうか」
    「どうだろうなぁ」
     その膝丸は置いて、山姥切国広と大般若長光の会話は与太話の方に傾きかけている。
    「もし付喪神がついているなら、『謂く』も本物の可能性があるか……」
    「さあ。夢での絵の中にこに迷い込むんだろう? 夢なら、鬼丸が適任だったかもな」
    「なに、あやかしならば斬ればいいだけだ」
     膝丸が話をそう引き取ると、二振りの会話も止まった。
    「では、これは俺と兄者の部屋に運んでいっていいのだな?」
    「ああ、頼む」
    「俺も泊まろうか? あんたのお兄さん、夜中まで遠征だろう」
    「そうだ、夜に帰ってくる。だから気遣いは無用だ」
    「そりゃどうも」
     屏風をたたみ、持ち上げると、膝丸は自分と兄の部屋に向かった。山姥切国広は未だに説教が続いているという執務室へと戻るという。大般若長光は膝丸についてきた。
    「ここにいると忘れそうになるが、百年遺ることは稀だね。ましてや千年なんて」
    「そうだな」
    「鉄でできていてもそうなんだ、紙でできている物なんて余計にそうさ」
    「ああ。――気遣いは無用だと言ったであろう」
    「失礼」
     膝丸が溜息混じりに言うと、大般若長光はにっこりと笑って去っていった。
     やがて夕方からの遠征部隊も出立し、本丸にはいつもの夜が来た。夕餉の席では既に今回の「悪癖」が広まっていて、膝丸は口々に励まされることとなった。
    「主は、食事はどうしたのだ?」
     たまたま隣に来た山姥切長義に訊ねると、彼はどこか冷めた目で応えた。
    「にっかり青江と執務室で食べているよ」
     屏風の「謂く」は「夢に出る」だったが、寝る前から霊刀と一緒に部屋にカンヅメにされているあたり、今回はきつく灸を据えられているのだろう。
    「俺も今日は不寝番でね。遠征部隊が戻ったら俺から伝えておこう」
    「そうか、頼んだ」
    「現物をあなたひとりに任せて悪いね。いつもは何振りかで当たるんだが」
    「いや、気にするな。適任だしな」
    「それもそうか」
    「それにしても、対応が手慣れているな」
    「そりゃあね、結構な頻度で持ち込んでくるし……確実に駄目だなというやつは俺やにっかり青江がすぐ斬ってしまうんだが」
     どうにもあやふやなものが一番困る、と山姥切長義が溜息をついた。
     夜は布団をふたつ敷いた。兄が夜中に帰ってくるからである。
     屏風は部屋の隅で開いておいた。ふたり部屋を割り当てられていたのでさほど邪魔には思わなかったが、枕元に置けば兄が蹴っ飛ばすこともあるかもしれないと思ったからだった。
     寝る前、何気なしにしみじみと屏風を見た。大般若長光ははっきりとは言わなかったが、花や草の形は写実的で精細ではあるが、妙に固く縮こまって見える。それがびっしりと描かれているものだから息苦しくさえあった。もしかしたら「謂くつき」であることで遺ってきた物かもしれなかった。
     その「謂く」では、この景色をさまようという。そうして、帰ってこなかった者もいると。
     あまりにも詰まりすぎているきらいはあるものの、全体を見れば画面の草花は端からもう一方の端へ視線が流れるように配置されている。執着を感じさせるほど詳細に描かれた草花は画面の終わりで唐突に切られ、その向こうにも景色が広がっていると匂わせる余韻はなかった。大般若長光が構図として締まらないと言ったのはこのことだろう。流れるはずの季節の行き場がないのだ。
     二曲一双であるはずのものが、一隻のみ。
    「……確かに、寂しい絵だ」
     思わず呟いてしまったのは、兄がいないからだった。

     ぼんやりとした心地でいると次第に目の前が明るくなって、視界がはっきりとしてくる。何度かまばたきするうち、そこにあるのが天井ではないことを確かめて膝丸は自分の腰を探った。太刀は佩いている。
     格好も見慣れた戦装束である。これは都合がいいと感心するうち、自分のブーツが踏みしめているのが夏草であることに気付いた。
    「……兵どもが夢の跡、か」
     本丸で聞いた句を口遊むと、さあ、と風が吹いて緑が鳴った。ひらひらと落ちてきた花びらは桜だった。
     柄に手をかけながら、膝丸は歩き出した。突っ立っていても何もならないのは分かりきっていたからである。
     道はなかった。脚で草を掻き分けるようにして進んだ。その草も、間を埋めるように咲き続ける花も、春も夏も混ざっていて、現実味がなかった。
     現実味のないものは薄寒い。薄寒いが温度もなく、空気の匂いには生き物の、そしてそこにあるはずの草花の気配はなかった。そういうことに気付くほど、この景色が紛い物でしかなく、そこに広がっているのは春と夏ですらなかった。
     では、何なのか。
    「……正直、対がないことに気付いた時点で呼ばれるだろうとは思った」
     歩きながら話し始めれば、返事をするように風は吹いた。しかし、やはり匂いのない風だった。
    「君は、ここに誰かを呼んでどうしたいのだ?」
     風は相変わらず吹き抜けていったが、言葉はなかった。言葉や声、そういうものは持たないのかもしれない。
     ただ、膝丸をこうして招き入れたからには、おそらく意思を持っているのだ。意思、あるいは目的を。
     黄色い菜の花に蔓を絡めて咲く青い朝顔を横目に、膝丸は何とも居心地が悪いと思った。まるで吹き溜まりだ。紛い物の春と夏がぐちゃぐちゃに溶け合って、そのためにますます偽物じみていく。季節の流れていく先がないために。
    「……確かに、人間は勝手なものだ」
     膝丸は自分が思いつくことを口に出しているだけだったが、なんとなく、この屏風が持主を招き入れる事情にはあたりをつけていた。そしてそれを、あわれにも思っていた。
    「一具として作っておきながら、片割れと引き離す。対を失うのは自らを失うようなものだ。それは俺もよく知っている。しかしそれは、俺たち物の宿命だ。どうにもできない。人間と同じように運命を嘆くことくらいは赦されるかもしれないが、俺たちには、取り戻しにいくことはできない」
     言いながら、自分の脚が一歩一歩、前に進むのを見ていた。今は自らの脚があり、手があり、物言う口があり、それでも、どこまで行っても膝丸は物だ。道具だった。結局は人間に振り回される運命だ。
     それ自体に思うところは確かにある。永い永い時を生きた。人の身勝手も醜さも、嫌になるほど見た。それでいてあっさりと死んでしまうこともよく知っていた。その短いそれぞれの生のうちで、膝丸に名を、物語を、そして何より兄との時間を与えてくれたことも。
     髭切は名前などどうでもいいと言うが、膝丸にとってはそうはいかない。兄と共に語られるものであり、自分によって斬られたもののあった証であり、鮮烈に駆け抜けていった若武者のくれた美しい春の息吹だった。――自らに託されていったものを、なかったものとしてしまうことはできない。たとえいつかはすべて失われるのだとしても。
     膝丸は自分が何物か、自分に何を求められているかを知っている。自分があやかし斬りの刀であること、人に仇なす怪異を斬り伏せる刃であることを。人と共に生きていく物語として、自分が在ることを。
     柄頭を握り込むと、膝丸は足を止めた。
    「――余計な話をしたな。俺が君に訊きたいのは、本来ひとつだけだ」
     人を、喰ったか、否か。
     行方不明になった者もいるとの噂だった。ならば膝丸にとって、話の焦点はそこだ。人を害したかどうか。人を喰う、あやかしか、どうか。
     さわさわと鳴っていた風はいつの間にかやんでいた。膝丸は軽く腰を落とすと、右手で柄を握った。
     風景は相変わらず春の花も夏草も一緒くたになってそこにあったが、やがてそれらはざわざわと膝丸に絡み出した。太刀を抜いて斬り去った先から蔓も草も膝丸に手を伸ばすように生えてくる。膝丸は走り出した。走りながら草を払い、邪魔をするように持ち上がる桜の根を跳び越え、辺りを探った。
     草木はわらわらと膝丸に向かってくるばかりで、斬り払ってしまうことはできたが埒が明かず、景色はどんどん変わるためにどれだけ移動したのかも分からなかった。ずっと同じ場所を回っているようにも思えた。
     まだ走ることはできるが、それではどうにもならないのも分かっている。斬らねばならない。しかし、何を?
     あやふやなものが一番困る、という山姥切長義の言葉を思い出した。人を喰ったかを問われてこの対応ならば、事実、膝丸が斬ってしかるべきものなのだろう。ただ、ここはあまりにもあやふやだ。草花は払っても伸びてくる。景色には終わりがない。斬り伏せるべきものが見つからない。
     この事態の核となるもの、一体何が、この屏風に人を喰わせるに至ったか――走りながらそれを考えていると、視線の先に黒い影が見えた。
     最初は遠くにある木だと思った。しかしそれは空に向けて広がった枝を持たず、花もつけていなかった。代わりに、薄緑色の髪を持っていて、膝丸を見ていた。
    「――出来も悪ければ趣味も悪い!」
     自分の似姿に向けて膝丸はそう吠えると、そちらに足を向けた。より一層草花は激しくまとわりつき、木の枝が横面を打ったが、それまでのように避けるのではなく引きちぎり、殴り返して進んだ。
    「お前は俺の対ではない! 俺の兄者ではない!!」
     刀を振りかざしていた腕の肩を、枝が強く打った。衝撃に手の力が緩んだとき、もうひとつの枝が振り抜くように手首を打ち、弾かれた刀が飛んでいった。
     それでも膝丸は、怒りに目を光らせながら叫んだ。
    「俺の兄者は! 源氏の重宝、髭切! そして俺はその弟、源氏の重宝、膝丸だ!!」
     自分の似姿は、どういう顔をしていただろう……頭に血が上っていた膝丸は、その表情をよく覚えていなかった。
     というのも、膝丸が叫んだとき、その肩越しに一閃、飛んできた刃が自身の偽物の喉元を深く貫いたからである。
     柄は飴色、揃いの飾り紐を持ち、刀身はよく知っている。見間違えようがなかった。
     はっと息を飲むと頭が冴えた。膝丸は走り、飴色の柄の太刀を偽物から引き抜いた。そのとき、隣に並び立つものの気配があった。懐かしい匂い、色、そして手の内にはよく知った緑の柄の太刀がある。
    「やあやあ我こそは、源氏の重宝、髭切なり!」
    「同じく、膝丸なり!」
     朗々と響く声を聞けば胸が震えた。安堵と喜びが一緒くたになって、力として膝丸を満たしていった。
     示し合わさずとも分かる。兄が振りかぶったのに合わせ自身は低く腰を沈ませると、髭切と膝丸は目の前にある偽物を斬り払った。
     叫び声もなくそれは散り散りになったと思うと、草花も木も大人しくなった。景色はただ平坦になり、風も吹かなかった。
     少しのバツの悪さとともに、膝丸は兄を見た。
    「……投げるのはどうかと思うぞ、兄者」
    「手から弾かれるのもどうかと思うなあ」
    「うっ」
     もっともな台詞に言葉を詰まらせていると、兄が子どものように声を上げて笑った。
    「さあ、帰ろう」
     自分とよく似た形の目が、自分とは違うやり方で細められる。それを見たあと、景色が滲んだ。

     うまく動かない目蓋をどうにか持ち上げると、目の前に自分の顔があった。
     正確には自分の顔ではなく、自分と同じ顔だった。目蓋を閉じていたときにも見ていたその顔は、やはり膝丸にはない柔らかさで微笑むと、膝丸の頭を撫でた。
    「あ、兄者……」
    「うんうん、帰ってきたね」
     向かい合って横になっている状況に混乱したまま兄を呼べば、兄は満足そうに頷いたあと身を起こした。戦装束を着ている。遠征から戻ってそのままなのだろうか。
    「――おい、おれはもう戻るぞ」
     背後から聞こえた声に慌てて起き上がれば、鬼丸国綱が心底うんざりしたような顔であぐらをかいていた。
    「お、鬼丸殿……」
    「詳細は兄から聞け。おれはさっさと寝たい」
     鬼丸国綱も戦装束だ。その向こうの、外へと続く戸からも光は入ってきていない。まだ夜中のようだ。
     状況整理に気を取られている膝丸を放っておいて、鬼丸国綱はその向こうに話しかけている。
    「いいか髭切、約束は忘れるなよ。……おい!」
     声を荒げたことに振り返ると、髭切は部屋の隅で太刀を振りかぶっているところだった。
     膝丸が声を上げる間もなく、それは振り下ろされた。春夏草花図の屏風を、真っ二つにして。

     朝になると、髭切と膝丸は執務室で叱られた。髭切の刃が屏風だけでなくその下の畳を深く裂いていたからである。
    「本丸の経費には限りがあるということを、貴方たちも分かっていないのかな……」
    「すまない……」
    「ごめんねえ」
     対照的な兄弟の様子に松井江はひとつ溜息をつくと、普段そうしているように薄い笑みを浮かべた。
    「まあ、この修繕費は主に請求しておくよ。膝丸さんも今回は災難だったね」
    「ああ、いや……」
    「それでは、膝丸さんは山姥切長義のところへ行ってくれるかな。あの屏風のことでも報告書をあげてもらいたくて、それは彼に頼んであるから。髭切さんは、屏風を数珠丸さんのところへ。供養のお願いはもう入れてあるから、持っていってくれるだけで大丈夫だよ」
    「うん、分かった」
    「心得た」

    「……つかぬことを聞くが」
    「何だい?」
     膝丸が書いた報告書に目を通しながら、山姥切長義が相づちを打つ。文字の羅列を表示するディスプレイの青い光が、元々白い肌を一層白く見せていた。
     目を通すと言っても横で指示をしながら書いていたものだ、手直しをする部分はない。だから、ある意味形式的なものだ。
    「君はもしや、昨晩から働き詰めなのか……?」
    「そうだよ。俺と、あと青江もね。まぁ、主の部屋を見張っていただけだが」
     実際、すぐに見直しは終わり、山姥切長義は書面を表示していた画面を切った。普段きっちりと衣服を整えている彼が上着を脱ぎ、襟元もくつろげた姿でいる。なんとなく珍しいものを前にしている気分でいた膝丸は、小さく頭を下げた。
    「指導、感謝する」
    「そんなに改まって礼を言われるほどのことでもないよ。出陣や遠征の報告書もほとんど同じだから、部隊長になったときは頼む。分からないことがあればまた執務室に訊いてもらえばいいから」
    「ああ」
     返事をしてから、膝丸は苦笑した。
    「部隊長か。兄者を差し置いて……という以前に、遠い話だな」
     山姥切長義は青い目を見開いて、膝丸の顔をまじまじと見た。その視線に居心地の悪さを感じて、膝丸は続ける。
    「なに、部隊を組むにも都合があるとは聞いているが、俺も顕現して以来ほとんど出陣していないものだから……いや、君に聞かせる話ではないな」
     すまない、ともう一度頭を下げようとしたが、「まだ聞いていなかったか」という声に止められた。山姥切長義はまたディスプレイに向き合って、先ほどの書面とは別の画面を表示させていた。
    「ほら、来週の部隊の予定表だ。ここ」
     彼が指差した先を膝丸も覗き込んだ。四つの部隊、六振りずつ並んだ名前。第一部隊の一番目に、自分の名がある。すぐ下には、兄の名前も並んでいた。
    「誉をとると、賞与というほどではないけど褒美をもらえてね。物じゃなくて、要望を聞いてもらえることもある。これは、それだ」
    「誉?」
     そんなものはとった覚えがない。困惑とともに山姥切長義の顔を見ると、彼は知っているとでも言うように、少し意地の悪そうな、戯れるような笑いを浮かべていた。
    「あなたじゃない。髭切だ」
     膝丸は目を見開くと、そこから立ち上がった。
    「ありがとう。俺は、そろそろ兄者のところへ行かねば」
    「うん、俺も他に話すことはないかな……ああ、そうだ、また時間があるときに一緒に飲もう。青江も誘っておくから」
    「ああ、それは構わないが」
     なぜ? というのが顔に出てしまっていたのだろう。山姥切長義は伸びをすると、先ほどとは違い少し気の置けない笑い方をした。
    「俺も配属されてきたばかりのときに『悪癖』で大物に当たってね。青江と二刀開眼までした」
     悪癖被害者仲間が増えて嬉しいよ、と小首を傾げてみせる。膝丸もつい笑ってしまうと、もう一度礼を言ってから執務室を出た。

    「やぁ、供養って結構かかるんだな」
    「にっかりくん、絶対寝てたよね」
     大般若長光と髭切は並んで本丸を歩いていた。庭で屏風を焚き上げながら数珠丸恒次が経を読んでやるのを聞いた帰りだった。
    「にっかり青江も非番が潰れて不寝番になったからなあ。ちゃんと休みは振り返られるらしいがね」
    「それで、君はどうしてわざわざ供養に?」
     大般若長光は髭切が屏風の残骸を運んでいるときに行き合ってそのままついてきたのだ。髭切の質問に彼は艶やかな銀髪をひと撫でし、ほんの少しバツの悪そうな顔をした。
    「昨日、あんたの弟さんに余計な世話を焼いてしまったかと思ってな」
    「ありゃ、そうだったんだ」
    「今思えば本当に、言わなくていいことを言ったよ……謝った方がいいかね」
    「うーん……」
     髭切は首を傾げたが、そんなに長くは考えなかった。
    「君が謝りたいならそうしたらいいんじゃないかな。どちらにせよ、弟はあれでさっぱりした気性をしているから、そんなに怒ってるとか根に持ってるとかはないと思うよ」
    「お、そうかい?」
     それを聞いて安心したよ、と笑う顔に髭切も笑いかけてやった。ふたりの服からはまだ、さっき屏風を焼いてきたときの煙の匂いがしている。
    「……あの屏風」
    「うん?」
    「自分の片割れがほしくて人を取り込んでいたっていうのが膝丸さんの見立てなんだろう?」
    「そうだね」
    「人と屏風、そして刀と屏風なんて、どだいつり合いっこないのになぁ」
    「ま、そういうこちらの道理が通じないのがあやかしだからね」
    「なるほど」
     庭に面した縁側を歩いていくと、風で木の葉が鳴るのが聞こえた。初夏の清々しい中庭は、今まさに満ちんとする緑の精力で輝いて見える。
    「ああいうのを鎮めるのって、形だけでも片割れを作ってやるのが定番なのかね」
    「まさか」
     髭切は大きく一歩を踏み出し、大般若長光の前に出た。そうして振り返った顔はいつもと同じ、柔らかな笑みを浮かべていた。 
    「代わりなんて有り得ないよ。……有り得ないんだ」
     緑の葉影が落ちる庭のすぐそば、本丸のひさしの下で、髭切の目がじっと大般若長光を見ていた。しかし手のひらを見せながら「失礼」と言うと、すぐに視線を外して、また歩き出した。
     大般若長光もその隣にまた並ぶようにして歩き始めた。 
    「あんたはこのあとどうするんだい?」
     まだ朝である。「俺は午後から遠征でね」と付け加えながら訊くと、髭切はひとつ頷いた。
    「今日は弟も非番だし、部屋でゆっくりしていようかな」
    「そりゃあいいな」
    「うん」

     広間から出てきた背中に、遠征から戻ったばかりの山姥切国広は思わず声をかけた。
    「鬼丸国綱」
     呼ばれた方はゆったりと振り返った。「なんだ」と剣呑にも感じる声を出しながら、山姥切国広が近くに来るまで待っている。
    「さっき屏風の報告書を見てな。……まぁなんだ、いきなり巻き込まれて災難だったな」
    「……災難と言うほどでもない。が、確かに、髭切はすぐ突拍子もないことを言い出すから疲れる」
     夜中に遠征から戻り、不寝番だという山姥切長義が髭切に話をしていたことの内容は一緒に聞いていた。しかし膝丸もあやかしを斬った逸話の持ち主、自力でなんとかするだろうし大した問題ではないと思った。自室に戻り、あとは寝るだけとなったところに、同じように自室に引っ込んだはずの髭切がやってくるまでは。
    「ちょっと来て」
    「は?」
    「いいから。弟の夢に僕をつれてってよ」
    「何を言っているんだお前は」
     腕を引かれてやってきた兄弟の部屋では、弟の方が寝ていた。少しうなされているようで苦しげではあった。
    「いいから、さあ。礼もするよ。僕の置いてあるお酒。結構いいやつ」
     掴みどころがないくせに言い出したら聞かない。弟のすぐ横に寝転がろうとしている髭切を見て、鬼丸国綱は大きく溜息をついた。
    「あのな、夢に潜るといったって、目当ての夢にそう簡単に行き着けるかどうか……」
    「縁を辿ればいいんでしょ」
     だって僕たち兄弟だよ? と事もなげに言うのに呆れて言葉が出なかった。代わりにもう一度、溜息が出た。
    「縁を辿るなんて簡単に言うがな」
    「大丈夫だよ」
     髭切はやけに澄んだ表情でそう言い切った。
    「だって弟なら、絶対僕のことを呼ぶもの」
     ――思い返してもずいぶんな自信だ。その妙な押しの強さに負けて、鬼丸国綱は髭切と共に夢に潜った。潜った先で、本当に膝丸は髭切の名を呼んだらしい。気がつけば髭切は駆け出していて、事はすぐに終わった。
     鬼丸国綱は本当に髭切を膝丸の夢まで運んだだけだった。それはあとで膝丸の知るところにもなって、膝丸が肩を縮める横で髭切は「はい」と約束の酒を渡してきた。
     山姥切国広が自分に声をかけてくるということは、膝丸は今回の報告書にきっちりとそのことも書いたらしい。
    「膝丸の似姿をとって出てきたとあったが、あんたも見たか?」
    「遠目でな」
     黒い影に薄緑の髪、なんとなく見えたのはそんなものだったが、髭切が飛び出していったのには納得した。「弟の似姿」というのが、彼にとっては心底気に入らなかったのだろう。
     もし髭切の似姿だったら、髭切自身はあのようには突っ込んではいかなかったかもしれない。だがその場合は、きっと膝丸の方が激昂しただろう。いずれにせよ、対の代わりを求めるのにあの兄弟の片割れに目をつけたのがよくなかった。――対の片割れだからこそ、屏風の求めるものも分かってやれたのだろうが。
    「絵だから、写すのか……」
     一方で山姥切国広は違うことを気にしている。こいつもずいぶんと面倒だな、と思ったが口には出さなかった。
     しかし山姥切国広は一度息を吐くと、改めて鬼丸国綱の顔を見た。
    「あんたにも、今回の件の褒賞が出るといいんだがな」
    「いや、それはもう髭切からもらったからいい」
    「そうか」
     そんな話をしていたとき、「兄者」と呼ぶ声が聞こえた。声のした方へ目をやると、ちょうど膝丸が廊下の角を曲がってきたところだった。
    「おお、ふたりとも。兄者を見なかったか? 部屋にもいないし、さっきもう一度執務室にも行ったのだがそちらにもいないのだ」
    「俺たちは広間の方から来たが見かけていないぞ」
    「そうか……」
     一体どこへ行ったのだろう、と膝丸が俯いたとき、「髭切さんならさっき部屋に行ったよ」と声がかかった。大般若長光だった。
    「屏風のお焚き上げをして、途中まで俺と一緒だったんだ。部屋にいると言っていた」
    「そうか、ありがとう!」
     膝丸はぱっと明るい顔になって大般若長光に礼を言い、歩き出そうとして思い出したように足を止めた。
    「山姥切国広、先ほど山姥切長義が君を探していたぞ。何やら話があると言っていた」
    「げ」
     山姥切国広のひきつった頬はそのままに、今度こそ膝丸は去っていった。残された鬼丸国綱と大般若長光は、頭ひとつ小さい打刀に揃って視線をやった。
    「……何かやったのかい?」
    「いや、そういうわけでは……」
     山姥切国広は視線を横にずらしたと思うと、拗ねたような口振りで話し始めた。
    「……以前、主の『悪癖』を俺が放っておきすぎたんじゃないかという話になったから、おそらくその話だと思う……」
    「ああ〜、はじまりの一振りも大変だねぇ」
     大般若長光の言葉に山姥切国広はぐっと息を詰まらせると、睨むように鬼丸国綱を見つめた。
    「鬼丸、匿ってくれ」
    「なぜおれが」
    「なんとなくだ。大般若はダメだ、長船経由で足がつく」
    「足がつくって言い方はよしてくれよ」
     心外そうに言った大般若長光だったが、鬼丸国綱に少し含みのある笑い方をした。
    「でも俺も、鬼丸さんのところへお邪魔したいなぁ。あんた、今、結構いい酒持ってるだろ」
    「……なぜ知っている」
    「髭切さんが言ってた」
    「俺も飲みたい」
     ふたりに見つめられて、鬼丸国綱は昨日から何度目なのかも分からない大きな溜息をついた。

     兄弟で使っている部屋の前、縁側に腰掛けて、兄は庭を眺めていた。
     その姿を少し遠くから眺めていると、兄はふと振り返り、笑った。その笑みに促されて膝丸もそばに寄った。兄の笑みは不思議だ。それを見ると、膝丸は澄んだ気持ちになる。
    「お茶かい?」
    「ああ、部屋にいると聞いたから、持ってきた」
     大般若長光から兄の所在を聞いたあと、部屋に戻る前に茶を淹れていくことにした。話すなら、こういう手慰みになるものもあった方がいいだろう。
     そう、話すなら。
     兄の隣、同じように縁側に腰掛けていた膝丸は、自分の湯呑みを置くと兄の方に身体を向け、頭を下げた。
    「すまない」
     兄はどういう顔をしているだろう。びっくりして目を丸くしているか、それともお見通しだというように笑っているか……頭を下げたままの膝丸にはそれは分からなかった。代わりに、「何がだい?」という柔らかな声に、謝罪の理由を語り出した。
    「どれから話せばいいか……いろいろだ。屏風のことも、俺ひとりで対処できると思ったが、兄者の、そして鬼丸殿の手まで煩わせてしまった。それに、先ほど、山姥切長義から来週の部隊のことを聞いて……」
     思いつくまま喋れば話は方々に散らばり、まとまらなくなっていった。それに気付くと膝丸は一度口を噤んだ。兄はまだ黙っている。続きを待っているのだろう。
    「……俺はまだまだ未熟だ」
     情けなかったし、悔しかった。自分が何物かは知っている。自分が何を求められているかを――源氏の重宝、あやかし斬りの太刀、そして、髭切の弟。
     自負もあれば矜持もあるが、何より、この兄の前で恥じない自分でいたかった。兄と二振一具として並び立ち、遜色なく在れる自分。
     だというのに本丸に来るのも遅れ、実戦経験はまだ少なく、とても兄に追いつけていない。屏風の一件で、それを突きつけられた気分だった。
     顔を上げられずにいると、兄の笑う気配がした。
    「未熟で良しって言われてたじゃないか」
     膝丸は息を飲んだ。
     ――未熟で良し、それが心あるということ。
     以前手合せで岩融に言われた言葉だ。なぜそれを、兄が知っているのだろう。
     恐る恐る顔を上げると、兄は微笑んでいた。そうして、柔らかに、言い聞かせるように語り出した。
    「さあ、もうそうやって自分を恥じるのはやめなさい。そうする必要はないよ。未熟であることを知らない傲慢さに、足許を掬われるよりずっといい……それに、お前にはこの兄がいるのだから。ね、膝丸」
     寺院の鐘が清らかに鳴るように兄の言葉は膝丸の頭の芯に響き、それは胸中に暖かく澄んだ光として落ち着いた。そうしてひとつの感慨が膝丸の胸に湧いてきた。
     人にはなれやしない。このように自分を満たし、打ち震わせ、赦してくれる存在は、人なんかではなり得ない――自分の半身、唯一の片割れ、髭切という、この美しい太刀以外には。
     兄がいれば、恐れるものはなかった。どこまでも勇ましく、強くなれると思った。この兄と並び立てる存在であることこそが、自分の誇りなのだ。
     ただ、今は、兄の言葉に震えるままの胸で思わず「兄者」と呼べば、髭切はしようがないものを見るような、弟にしか見せない甘さで頬を緩めた。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2023/07/22 22:32:00

    人にはなれやしない

    相模国某本丸、膝丸が顕現した本丸の審神者は戦績優秀、政府の信頼も厚かったが、「おばけ好き」という悪癖があった。
    本丸には審神者がこれまで集めてきた「謂くつき」の品々と、それぞれ巻き込まれてきた刀たちの思い出話がある。
    さて、今回、兄が遠征で不在の膝丸の許にある屏風が持ち込まれ――

    2023/07/30閃華の刻44膝髭プチ「俺の兄者」にて頒布予定の本に収録される話です。
    審神者など本丸について独自設定あり、ビジネス不仲のような山姥切たち、小競り合いする安達組など刀たちにも独自の関係性があります。
    とある本丸の話として読んでいただければ嬉しいです。
    入稿済みでミスを直せないので誤字脱字等見つけた場合はそっと胸にしまっておいていただけると私の心が助かります、よろしくお願いします。

    書店委託しています▷ https://www.melonbooks.co.jp/fromagee/detail/detail.php?product_id=2027881

    ##膝髭 #膝髭

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