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    神には向いていない
     駅から歩いて三十分、大して不便でもないがすこぶる便利とも言い難い立地。そんな住宅地にその家はあった。
     駅前の大通りを折れると細い路地が続いた。白壁か木、そういう違いはあったが、あたり一辺に塀と瓦屋根のある古風な家屋が建ち並んでいる。繁華街の喧騒とは無縁のようなその区域では、どの家もお屋敷というほど大きいものではないが小さいわけでもなく、それぞれが小綺麗に整っている。「なるほど、昔からある住宅地なのだな」と粟田口一期はひとり頷いた。
     平日の真っ昼間から、どうしてこんな閑静な住宅街のお手本のような場所を歩いているかといえば、今日の仕事先がここにあるからだ。
     時々スマホで地図を確認しながら進むから、自然と足は遅くなる。思えば、入社してすぐの社員を初めての仕事場にひとりで行かせるというのもずいぶんと酷い話だ。「原稿の受け取りだけお願いするよ、先方には連絡してあるから!」と青い顔で叫ぶように言った先輩に押し切られてのことだが、それにしたって他にやりようはなかったのだろうか。もっとも、本来ここに来る予定だった先輩は「ああ、まだ原稿チェックの途中なんだけどな!」と言いながら別の仕事に向かい、他に手が空いている者は一期以外いなかった。同じ部署に勤めているのだから理由は分かりきっている――〆切前だからだ。
     一期の仕事はいわゆる編集者である。所属している部署は文芸作品を扱うところで、今は作家の家へと原稿を受け取りに向かっている。
     それにしても、まさかこんなに早くひとりで作家に会うことになるとは……新卒で入社して以来、これまでの一期の仕事といえば細々とした雑務、そうして先輩編集者の補佐だった。仕事を覚えること自体が仕事の段階なのだ。先輩について作家との打ち合わせに同席させてもらったことはあっても、自分ひとりで作家とのやりとりを任されるなんてもちろん初めてである。
     六月に入ったというのに一向に雨の降る気配のない暑さの中、汗を拭いながら目的地へ向かう。緊張で歩みが遅くなってしまっても、進んでいさえすれば辿り着く。古びた木製の塀から若い緑の枝葉がこぼれるその家の前で一期は足を止め、もう一度地図を確かめ、また顔を上げた。目当ての家はここである。
    「源」とだけ書かれた表札の掛かった慎ましい門を潜れば玄関まで五歩、インターホンは格子戸の脇にあった。固いボタンを押し込めれば、また古風なブザーの音が家の内側で鳴るのが聞こえる。
     住宅街に来てからはゆったりと足を進めてきたが、約束の時間で間違いない。いくら緊張しているからとはいえ、いや、緊張してしまうような相手だからこそ、遅刻なんてもってのほかだ。そもそも自分の性格的に許せない。
     それにしたって、新人に初めてひとりで会わせる作家が彼なのはいかがなものだろう。数年前に彗星のごとく現れ、その年の文学賞を掻っ攫っていった俊才。文章のあまりの切れ味ゆえに鬼才とも呼ばれる、純文学界の若き逸物。熱狂的なファンの中には、その筆を「神のごとき」と讃える者までいる。
     入ったばかりの出版社で先輩に仕事を教えてもらっている一期にとっては、現れた途端に次々と華々しい栄冠を手にしていった彼の存在はまさしく神か、はたまた天上人のごときであった。そして彼の書くものは、賞賛を受けるに値する出来なのだ。その賞賛の中にいささか狂気的な言葉が並ぶのはさておくとしても、評価されること自体は間違いない。
     改めて意識するととぐっと喉の締まる心地がする。先輩がやりとりしているのを遠目に見ただけで、一期はほとんど話したことがない。
     しかし彼も一期と歳はそこまで大きく変わらないはずだ。気難しいという話も聞かないし、やたらと身構えてしまうのもよくない……そんなことを考えながら繰り返していた深呼吸の数が八回目になったのに気付いたとき、一期はようやく疑問を覚えた。――出てくるのが遅すぎやしないか?
     ほんの少し逡巡したが、古めかしい引戸の向こうに耳をすませてみる。何の音も聞こえない。気付かなかったのだろうか?
     気難しいとは聞かなかった。しかし、やはり、一筋縄ではいかない人物なのだろうか……また呼吸がつっかえそうになるのを腹に力を入れて押し留めると、一期はもう一度、先ほどより長く玄関のブザーを鳴らした。ビーッともブーッともつかぬ耳障りな音が、扉の向こうで長く響く。
     ……出てくれなかったらどうしよう。居留守か、それとも出奔か……〆切前の作家の恐慌は先輩たちから聞いたことがあった。しかし大抵は最後に「まぁそんなに酷いのはそういないけど」と結ばれていたはずだ。まさか、この作家が「そういない酷いの」だったのだろうか。一期が知らなかっただけで。
     顔を傾けて引戸に耳を寄せる。パタパタと足音らしきものは聞こえる。在宅ではあるようだ。
     ほっとした一期の目にも、格子戸の磨りガラス越しに人影が見えるようになった。姿勢を正し、口許に微笑を意識したとき、その引戸はガラガラとなかなかの音を立てて開いた。
    「やあやあ、すまないね。弟がいないのを忘れていたよ」
     今日の一期の仕事相手である作家・源髭切は、そう言いながら頬を掻いた。すまないとは言っていたが、あまり申し訳ないとも思っていなさそうな笑顔である。無論、一期も怒っているわけではないのでいいのだが。
     身長は一期と同じくらい、柔和な顔付きがどこかおっとりした雰囲気を漂わせる髭切はすっと脇に避けると一期を招き入れた。またガラガラと音を立て戸を閉めると、大の男ふたりが並ぶには手狭にも感じる上り框につっかけサンダルを脱ぎ捨て、奥へと歩いていく。着心地のよさそうなオフホワイトのチノパンに白いシャツ、その上にある淡い色の髪は、後頭部の一房があらぬ方向にはねている。
     ……寝ていたな。
     一期の心の声に呼応したのか、髭切はくあ、と後ろ姿からでも分かるような大きなあくびをした。
     茶色い木がつやつやと光る階段を上がり、髭切は振り向きもせずに進んでいく。一期も一言も発せずにそのうしろについていった。
     豪邸というほどではないが品のいい日本家屋の二階、その突き当たりが彼の仕事部屋らしい。髭切は書斎の主らしくスッと部屋に入っていったが、一期はなんとなくそこへ足を踏み入れるのは躊躇われて入口の敷居を跨ぐ前に、腰を折って部屋の中を覗き込んだ。
     覗き込んで、開いた口が塞がらなくなった。
     六畳ほどの部屋は壁一面が本棚でそのほとんどすべてが背表紙で埋まっており、床は所狭しと本、本、本、積み上げられたそれらの上に封筒や書類が重なっている。すぐそばにある本の塔を見ると、頂上に打ち捨てられた書類は別の本のコピーのようで、乱雑にメモ書きが走っていた。小説の資料らしい。
    「えーっとぉ……」
     髭切はその隅に埋もれるようにして置かれている机の前で頭を掻いていた。アンティークのような趣のある深い色をしたライティングビューロー、その上にも色とりどりの封筒に紙、本が乱雑に積まれている。きっと天板は蓋としての役目は長いこと果たしていないに違いない。
    「……まるで、D坂の明智小五郎のようですな」
     ぽろりと口をついて出てしまったのは、この書斎を目にしたときにわずかに感じた既視感だった。日本三大探偵のひとりの、代表作のひとつに出てくる下宿の部屋。大量の本が所狭しと積まれていると描写されていたあれは、まさにこの部屋のようではないか。
     一期の言葉に髭切は、ビューローよりはいくらか明るい飴色の目を丸くした。その子どものような表情を目にして一期も思わず口を押さえた。軽口を叩いてしまった。なんてことだ。
     さっと顔を白くした一期に対して、髭切はこれまた子どものようにけらけらと笑った。
    「ああ、言われてみるとそうだ。怪人二十面相や黒蜥蜴に出てくる完璧な紳士みたいなイメージが強かったけれど、確かに初期の頃はもっと垢抜けない感じだったよね。そうだそうだ、確かにこんな部屋って書かれていた……」
     言いながら髭切はビューローの棚部分から白い封筒を取り出した。結構な厚みがある。
    「はい。君が取りにきた原稿は、多分これだ」
    「あ、ありがとうございます!」
     思わず大きな声で礼を言った一期に髭切は首を傾げた。封筒入りの原稿を抱えて出版社へ向かう編集者……かつてにはあったという光景だ。しかし、手書きにこだわる大家ならいざ知らず、パソコンとインターネットのある現代において紙の原稿でやりとりする作家はそういない。少なくとも、一期は先輩からそんな話は聞いたことがなかった。
     しかし彼は神の如きとも謳われる俊才である。そういうこだわりを持っていてもおかしくはあるまい。ここにやって来るまでの道中に先輩の「原稿だけお願い」との言葉の意味をやっと理解して、一期の足は重くなった。そしてこれから、この原稿を持って帰らなければならないのだ。しかもこんなに厚みのあるものを……いや、量の問題ではないのだが。
     源髭切は手書き原稿の作家である……なぜ先輩はこんな大事なことを教えてくれなかったのだろう、いや、原稿を受け取ってきてくれと言われたときに、どうして自分は確認しておかなかったのか……〆切前の、台風が常駐しているかのような部署の様子が頭の中を巡っていく。人間は忙しさにかまけるとき、言葉が足りなくなりがちである。
     封筒を受け取りはしたものの固まってしまった一期を髭切はじっと見つめていたが、思い出したように「ああ」と手を打った。
    「いや、ね、原稿自体はいつもデータで出しているんだよ。けど今回は、直前にパソコンが壊れちゃってねえ」
    「ええっ!?」
     髭切の話は、駆け出し編集者の一期にとっても寒気がするものだった。
     〆切は間近、原稿は佳境、そこで突然沈黙した愛機。もちろんデータは御陀仏、髭切はしばし天井を仰ぎ、様子を見にきた弟は事情を聞くと青い顔で自分のパソコンを使うことを提案してくれたという。しかし髭切の手はそれまで長く付き合ってきた愛機のキーボードに慣れきっている。キーの配置やストローク、打鍵感の違いは些細なことではあるだろうが、その些細なことが集中力を削ぎ判断を迷わせ、言葉を鈍らせるのだ。この〆切の直前に。
     放心していた髭切は弟の困り顔を見て腹を決めた。
     ――書くしかない。文字通り、自分の手で。
    「あのときはそうするしかないって思ったんだけど、実際は手で書くより弟のパソコンを借りた方が速かったのかもしれないねえ……」
     少し遠い目をして、髭切は右手をぶらぶらと揺らした。それを見て、一期は髭切の後ろ髪がはねていた理由に納得した。
     弟から編集部に連絡が入ったのは、髭切が右手を酷使し始めたときだったのだろう。一期もここに原稿を受け取りにいくことを命じられたとき、その連絡の内容だけは先輩から聞いた。曰く、ものすごい勢いで書き始めたからできあがるとは思う、しかし、〆切を少し伸ばしてくれないか、と。
     〆切は伸ばされた。ただし、本来の担当編集である先輩はこの時間に顔を出すことができず、そのため一期に突然仕事が回ってきたのである。
     封筒の厚みに納得のいく説明を受けて、一期はそっと重い封筒を抱え直した。すると髭切は思い直したようににっこり笑う。
    「そうだねえ、大体は居間でお茶でも飲みながら原稿の確認や話し合いをするんだけど、今日は弟もいないし……よし、外へ行こう」
    「え?」
     声をあげた一期の脇を髭切はすり抜けていく。小さな一軒家の廊下、進む先は分かりきっている。階段だ。
     その階段を下り始める前に、髭切は振り返った。
    「行きつけの喫茶店があるんだ。そこへ行こう。奢るよ」
     君は新人さんだし、と言いながら、とたとた階段を下りていく作家の後頭部にはねた髪が揺れている。それが見えなくなってから、慌てて一期はその後を追った。

     駅へ向かう途中のどこか懐かしい感じのする商店街にその店、喫茶杜ノ都はあった。
    「いらっしゃい」
     店内もチェーン店とは違う、どこかレトロな佇まいだ。入口すぐのカウンターから、美丈夫としか形容しようのない男が髭切と一期の来店を迎えてくれた。パリッとした白いシャツに黒いエプロンがよく似合っている。片方の目を隠すように整えられた黒髪の下で、一期に向けて金色に光るもう片方の目が優しく細められた。
    「なんだ、膝丸はどうした」
     その向かいには全身白い男が座っていた。リラックスした様子でカウンターテーブルに肘を置き、頬杖をついている。見覚えのある男だった。
    「鶴丸殿」
    「お、一期じゃないか。なんだ、髭切のところへはきみが来たのか?」
     鶴丸国永。この男もまた小説家である。重厚な筆致と練りに練られた展開、その厳かな作風からは想像できない優美で繊細そうな容姿、またその外見に似つかわしくない豪快な発言でデビュー作以来ファンを増やし続けている作家だ。そういえば、一期の先輩は髭切と鶴丸、両方を担当していたのだった。
    「おや、じゃあ君のところには石切丸が?」
    「ああ、予定通りな。きみ、大変だったらしいな」
     にやっと笑ってからかうように言う鶴丸を髭切は「まあね」と軽く受け流し、その隣に座った。そうして突っ立ったままの一期を振り返り、席につくよう手で促す。その柔和な笑みの向こうから鶴丸の小さな顔が覗いた。
    「きみ、知ってるか。こいつも鬼丸の知り合いだぞ」
    「えっ」
    「ありゃ、一期くんも彼の知り合いなのかい?」
    「知り合いも何も、一期はあいつの従弟だ」
     幼い頃からずっと世話になっている、一見近寄りがたい雰囲気の従兄の姿が脳裏に浮かぶ。一期が鶴丸と顔見知りなのもその従兄を介して知り合ったからだ。従兄と鶴丸は大学が同じだったのだ。
    「そうなんだ。あまり似てないね」
    「そりゃ従兄弟ならそっくりとはいかんだろう。きみのとこみたいに兄弟じゃないんだし」
    「それもそうか」
    「あの……」
     髭切に促された通り、彼の隣に座りながら一期は恐る恐る声をあげた。鶴丸と髭切がそろって首を傾げる。
    「おふたりは、お知り合いで……?」
     一期の質問にふたりは顔を見合わせ、また一期を見ると微笑んで互いを指差した。
    「高校からの腐れ縁」
    「は、はあ……」
    「きみの従兄とは大学からだな」
    「まさか大学まで一緒になるとは思わなかったよねえ」
    「しかも同業者になるなんてな」
     ふたりはわははと声をあげて笑った。ぽかんとしていた一期の前に、お冷とおしぼりが差し出される。整いすぎているくらいの美丈夫が、人間味のある苦笑いを浮かべていた。
    「ふたりとも常連なんだけど、揃うといつもこんな感じなんだ」
    「時々鶯丸もいるんだけどなぁ」
    「彼、今日はいないの?」
    「うん、もっと早くにお昼ごはんを食べに来たんだけどね、原稿を進めるってすぐ帰っちゃったんだ」
     さらっと出てきた鶯丸も一期にとっては知っている名だった。鶯丸友成、近年のミステリ雑誌で見かけない日はない勢いの推理作家。浮世離れした雰囲気に端正な顔立ちの持ち主……そして彼の作品への書評には、褒め言葉として「頭おかしい」が並ぶ。その彼も、一度だけ鶴丸と連れ立って従兄の許を訪ねてきたことがある。何やら大学の授業に関してだと、当時聞いた。
    「鶯丸も高校から同じだってのは言ってたか?」
     鶴丸が髭切の向こうから訊ねてくる。一期が曖昧に頷くと、マスターが話の続きを引き取った。
    「そしてその鶯丸さんは僕の親戚でね。いつもお店を贔屓してくれているうちに、こうして常連客が作家だらけになっちゃったんだ」
    「それも高校の同級生だからすごい確率だよな」
    「まあでも趣味や好きなものが似てると友人になりやすいんだろうし、あり得ない話でもないんじゃない?」
     お冷のコップを空にして髭切が笑う。後頭部の寝癖はいつの間にか落ち着いて分からなくなっていた。
    「あ、そうだ、三人ともお昼はまだかな? どうする? 今日の隠しメニューことまかないはカレーうどんなんだけど」
    「お、もしや伽羅坊のかい?」
     鶴丸の言葉にカウンターの奥のキッチンから「そうだ」と低い声が返ってきた。もうひとり従業員がいたらしい。
    「光坊のももちろんうまいんだが、伽羅坊のは滅多にお目にかかれないからな……俺はカレーうどんにしてくれ」
    「僕ナポリタンがいいな」
     おふたりともそんな白い服で……なんて思っていたところ、一期も声をかけられた。
    「君はどうする?」
     マスターにメニューを差し出されていたが、一期はそこに書かれている文字をうまく読み取れなかった。ここに来てから情報量が多すぎる。
    「……では私もナポリタンで」
    「オーケー」
     固い表情の一期にもマスターはにっこり笑った。まるで安心させるためにそうしているようにも見えた。
     そんなに時間を置かず、昔懐かしいといった風情のナポリタンが出てきて一期は目を丸くした。具沢山で、見た瞬間食欲が湧くのが分かった。緊張していて自分の空腹に気付かなかったようだ。
     隣では同じくナポリタンを前に笑顔の髭切と、カレーうどんを口に含む鶴丸がいる。カウンターを挟んでマスターはそれをにこにこと見ていた。奥から出てきた従業員は黙々と作業をしている。
    「そういえば君、鬼丸の従弟って言ってたけど、今いくつなんだい?」
     一期の皿に比べて随分早いペースで髭切の皿の上は減っていた。特別急いでいるようでもなければ食い散らかすなんて様子もない。一期が心配していたように、白い服のどこにもケチャップは飛んでいなかった。
    「春に大学を卒業したんだろ?」
     一期が返答する前に鶴丸が答えたため、一期は「そうです」と頷くだけでよかった。鶴丸の額にはうっすら汗が浮いている。まかないメニューのカレーうどんは結構辛いらしい。
    「あれ、じゃあ弟と同い年だね」
    「おや、そうなのですか」
    「うん。ま、弟はまだ学生だけどね」
     頷いていると今度はマスターが水のおかわりを注ぎながら一期に微笑んだ。
    「髭切さんの弟くん、陸上競技をやっていてね。すごいんだよ。将来有望な選手なんだ」
     おお、と声をあげてしまったのは別に調子を合わせたわけではない。一期も身体を動かすことは嫌いではないし、体力にも自信がある方だ。だからこそ、何であれ競技の場に立っていることのすごさはよく分かる。
    「確かに弟はいい選手だけど、まあそういうのは人それぞれだよね。君だってすごいじゃない、ほら、のど自慢で出禁になったっていう」
    「通称殿堂入りな」
    「通称じゃなくてそっちが正式名称だよ」
     汗を拭いながら鶴丸が一期にカウンターの向こうの壁を指差してみせた。額に入った一枚の賞状があり、「本丸商店街主催カラオケ大会最優秀賞 燭台切光忠」と書かれている。
    「その場にいた客を全員号泣させたって伝説になってるんだ」
    「鶴さん、その話はもういいから」
    「ここの商店街、すぐ何か開催するよねえ」
     のほほんと続けた髭切の前の皿はいつの間にか空になっていた。
    「そうだなぁ、祭好きというかなんというか……そういえば未だに商店街のマラソン大会の記録、年代別に全部膝丸だろ?」
    「一般の部以外はね」
     膝丸、というのは前にも出てきた名前だ。髭切の弟だろう。一般の部は、おそらくまだ学生だからエントリーできないのだ。
     髭切に遅れて皿を空け、口許をナプキンで拭っているとコーヒーが差し出された。「初めましてだし、サービス」と燭台切は囁き、礼を言う一期に微笑むと空の皿を引き上げていった。
    「膝丸もきみと知り合いになって以来の付き合いだが、ずっと変わらないなぁ。走るのがべらぼうに速くて、いつもきみのことを兄者兄者と追いかけて」
    「いやあ、もう追いかけてはこないよ。すぐに追いつかれるし」
    「そういう意味じゃないんだがな〜」
    「それに、僕は置いていかれる方だと思うけどなあ」
    「どこがだ、今帰ってきてるじゃないか」
     そこで鶴丸は聞くに徹している一期を見た。
    「きみ、初めて酒を飲んだときの記憶はあるか?」
    「はい?」
     突然の質問に声が裏返った。話の追えない一期をよそに、鶴丸はすらすらと続ける。
    「こいつの弟の膝丸という奴はとにかくこの髭切のことが大好きでな、高校生のときの俺がこいつの家に遊びにいったときなんてぴったり髭切にくっついて離れないんだ。でも俺たちが高校生のときなんてあっちはまだ小学生だから、まぁそういうこともあるか、くらいの気持ちだったんだが、そのうち向こうも高校生になって陸上競技の雑誌に取り上げられたりするようになってな」
    「今は少しましになったけど、雑誌によっては選手に好き勝手あだ名つけたりしてたなあ」
    「ああいうのは大体うまいこと言ってるつもりなのが透けてて見てられんよな……それでだ、期待の新星やら蛇みたいに粘り強い走りやら書かれていた膝丸もやがて大学に入った」
    「蛇のやつ、言ったら弟怒るよ」
    「おっと気をつけるぜ。そうこうするうちに、いつの間にかあいつも二十歳になったっていうじゃないか。だから盆休みに帰ってきたときに、歳上としては酒の怖さをよくよく教えておきたかったから、俺は酒をたんまり持ってこいつの家に遊びにいったんだ」
    「自分が飲みたかっただけだよね、あれ」
    「お前もかなり飲んでただろ。それで、さすがに昔みたいにはぴったり張りついてはいないし、いやぁ弟の兄離れかねぇなんてしんみりしてたら、あいつ、ちょっと目を離した隙に何本も空けてたんだ。酒を飲ませたのは俺だが、いや飲ませたからこそさすがにその辺にしとけって言おうとしたら、いきなり俺の襟首を掴んで、憎々しげに俺をぐっとにらみつけてくる。なんだなんだやっぱり愛しの兄と俺が仲よくしているのが気に入らないのか、しかしこれどういう状況だ、と思っていると、酒くさい息を吐きながら低い声でこう言ったんだ――口を開く前と後に兄者万歳と付けろ!」
    「全然似てない」
    「似てないね」
     一緒に聞いていた燭台切も髭切に同意した。鶴丸は「そんなことないよなぁ伽羅坊!」と従業員に助けを求めたが、返ってきたのは「似ていない」というにべもない応えだった。
     ちぇ、と唇を尖らせた鶴丸は思い出したように一期に向き直った。
    「どだい口を開く前と後になんて無理だろ。俺が何か言おうと思えば酒で座った目がどんどん険しくなるし、こいつはそれ見てケラケラ笑っているし、散々だったぜ」
    「ひとの弟にちょっかいかけようとするからだよ」
    「ま、兄が絡むと面倒だが、あれだけ兄を慕っているってのは、考えようによってはかなりかわいい奴でもある」
    「ちょっと、僕の弟をそんな目で見ないで」
    「バカ言うな、きみじゃあるまいし」
     一期は既に話を真剣に聞くのは諦めていた。おそらくこのふたりは放っておいてもずっとこの調子なのだろう。少なくとも、一期の知る鶴丸はそうだ。
    「とてもおいしいコーヒーですな」とマスターに声をかけると、彼も「それはよかった」と微笑んだ。鶴丸と髭切の気の置けない会話はまだ続いていく。
    「高校のときだって強豪校から声かかってたんだろ? なのに髭切と離れたくなくて家から通えるとこに行ったんだし、大したもんだな、ほんと」
    「大学はさすがに寮に入ることになって入学式のときすごかったけどね」
    「あーあったな、あのときの写真、まだロック画面にしてるのか?」
    「君が勝手に設定したんじゃないか」
     鶴丸は「そういやそうだった」と笑うと、燭台切に水のおかわりを頼んだ。
    「寮入ってもうずっとそのままかと思ったが、まさか帰ってくるとはなぁ。まぁちょっとぐらい、いいだろ」
    「好き勝手言うね、弟が出ていくときはあれだけからかい倒したのに」
    「いや〜きみと違って反応が素直だからな、からかいがいがあってつい……しかし、実業団にでも入ったらやっぱり寮だろ。またすぐ出てっちまうかな」
    「ま、弟は弟だから」
     何でもないことのように髭切が応じた、この一言がどういうわけか一期の胸にすとんと落ち着いた。いや、どういうわけかというのは分かっている。
    「分かります」
     うっかり同意の言葉を漏らしてしまった。髭切はそれまで黙っていた一期が口を開いたことに目を丸くしているようだったが、その向こうで鶴丸は我が意を得たりという顔で笑っていた。
    「きみも弟いるもんなぁ、たくさん」
    「ありゃ、そうなんだ」
    「ええ。弟は弟……よく分かります」
     話しながらつい笑みが浮かんできたのは、会話のためというよりは弟たちを思い出してしまったからだった。いろんな気持ちの入り混じった笑いは同じ兄にはよく伝わったのか、髭切もそれまでとはどこか違う色を浮かべて目を細めた。
    「そう、そうなんだよね」
    「はい。まぁ自分も、もう兄でない自分など考えられませんから」
    「うん。……僕も弟がいないと小説は書けないだろうし」
     髭切が低い声で付け加えた言葉に一期が「おや」と思う間に、鶴丸が「だろうな」と当然のように受け流してしまった。そして髭切の発言をそれ以上広げるようなことはなく、厨房に向かって「伽羅坊、ウインナーコーヒーくれ」と声をかけた。厨房からは「光忠に言え」と少し強い語調で返事があった。
    「そういえば今日、膝丸くんはいないの? 最近ここに来るときはいつも一緒だったじゃないか」
     そのマスターはコーヒー豆を新しく挽きながら髭切に訊ねた。髭切は「僕も一杯ほしいな」と笑ってから続ける。
    「ちょっと離れた公園に走りにいったんだ。アスファルトじゃなくて土だから」
    「へえ、確かに土の方が負担が少ないって聞いたことあるよ」
    「うん、そういうこと」
    「いつ頃帰ってくるんだ? 帰ってきてきみがいなかったらパニック起こすんじゃないのか、あいつ」
    「いやいや、まさか……何か困るならすぐ連絡くるだろうし」
     言いながら髭切はポケットからスマホを取り出した。親指で軽く触れると、画面がパッと明るくなる。楽しそうに笑う髭切と、彼によく似た青年がにらみつけるような顔で並んでいる。あの家の玄関だ、と隣の席からロック画面が目に入った一期にも分かった。
     そして、画面の下部には大量のポップアップが連なっている。着信履歴だった。
    「……パニック起こしてるんじゃないか?」
    「あっるぇ?」
     髭切は画面を二、三度タップし、画面が切替わらないことに「むむ」と唸った。
    「これ弟のだ」
    「は?」
     鶴丸が素っ頓狂な声をあげる。一期も声は出さなかったが、気持ちは鶴丸と同じだった。いくら一緒に暮らす兄弟とはいえ、スマホを間違えるだろうか。
    「居間に置いてあったのを適当に掴んできちゃったんだけど、確かに僕のは寝室に置きっぱなしだったような……」
     髭切は少し顎を上げて思い出す素振りをした。だからって間違えるものだろうか。
    「待て、膝丸はちょっと遠い公園に行ったんだろ」
     鶴丸が呆れた様子で訊ねる。髭切は「うん」と素直に頷いた。
    「なんであいつ自分のスマホを家に置いていくんだ」
    「だって走りにいくんだよ。邪魔じゃないか」
    「いや邪魔って、携帯電話を携帯しないでどうする」
    「邪魔だよ。こういう重さでも煩わしいんだ」
     時計はさすがに慣れたみたいだけど、と髭切は自分の何もつけていない左手首をつついた。鶴丸は口を開いて、すぐ何も言えないと悟ったのか、椅子の背もたれに身体を預け天井を仰いだ。
    「あいつ、きっと焦ってるぞ〜」
    「そうだねえ、電話しよっか」
    「いや電話ったってそれ膝丸の……」
     自分のスマホを貸してやるつもりだったのだろう、自分の上着のポケットを探りながらそう言いかけた鶴丸は、髭切が改まったようにスマホを少し離して持つのを見てぴたりと動きを止めた。
     髭切はスマホを顔の前に構え、ぐっと眉根を寄せた険しい表情で顎を引いて画面をにらみつけた。ちょうど、その手の中のロック画面で彼の弟がそうしていたように。
    「――あ、開いた」
    「嘘だろ……」
     そんなんでいいのか顔認証、と慄きながら鶴丸は髭切の肩に腕を乗せて、一緒に画面を覗き込んだ。そして通話アイコンの隅に表示された数字に「うわ」と顔をしかめた。一期はといえば、「なぜ弟は兄のスマホから電話をかけられたのか」に疑問を覚え、その解を既に眼前にしている気がして「皆まで言うな」という気持ちになり、何か言う代わりに残りのコーヒーを煽った。自分の弟たちにもできそうなのがいる。
    「うーん、こんなにかけてくるなら一大事かもしれないね」
    「きみが絡むといつも膝丸には一大事じゃないか?」
    「いやいや、あれで結構兄の扱いが雑なところもあるんだよ」
    「そうかぁ? って、あれ、十分くらい前からぱったりやめてるんだな」
     通話履歴を目に鶴丸がそう呟いたときだった。
     喫茶店の重い扉が勢いよく開かれた。可憐なドアベルがカラカラと忙しない鳴り方をした。
    「兄者! 兄者はおらんか!!」
     よく響く声でそう言いながら店内に飛び込んできたのは、髭切そっくりの青年だった。
    「いるよ〜」
     髭切が手を振る。それを目にした膝丸は一瞬泣きそうな顔をしたと思うと、大股で兄の許へ歩み寄った。手に大きな茶封筒を持っている。
    「兄者、朝あんなに言ったではないか! 今日の原稿は茶色い封筒! 白い方は明日の綱鬼切の方だ!」
     綱鬼切――洒落のような名前は、最近はやりの児童小説の作者のはずだ。ちょっと怖くて時々切ない、概ね痛快な化け物退治譚……その作者の名が、今聞こえた。
    「ありゃ、間違えてしまったかい?」
    「そうだ、ほら」
     溜息混じりに茶封筒から紙の束が出される。一番上は表紙代わりなのだろう、大きく書かれたタイトルの横に、源髭切と書かれていた。
     弾かれたように一期はカバンにしまってあった白い封筒を取り出し、その中身を改めた。同じ字で大きく「蜘蛛退治のこと」と書かれたタイトル、そしてその横にこれもまた同じように綱鬼切と書かれている。
     さあ、と血の気が引いた。なぜ自分は受け取ったときに確認しなかったのだろう。
    「ギリギリセーフってやつだ、よかったな」
     いつの間にかそばに来ていた鶴丸が労うように一期の肩を叩き、そのまま隣に座った。髭切が弟に「彼が今日の編集さん」と説明すると、その弟は大きく息を吐いた。安堵の溜息らしかった。
    「俺は石切丸殿の許まで走らねばならんかと思ったぞ……」
    「やあやあ、すまなかったね。一期くんも」
     髭切は一期の手から白い封筒を抜き取ると、代わりに茶色い方を持たせた。心なしか先ほどまで持っていたものより重い。
    「さっき弟がいないと小説が書けないって言ってただろ」
     マスターからウインナーコーヒーを受け取りながら鶴丸が一期に語りかける。その顔にはどこか苦い笑いが浮かんでいる。
    「いわゆる純文学は源髭切、妖怪退治は綱鬼切、そういう痛快さのないタイプの幻想小説には獅子乃子太郎だったか? ドロドロの人間関係を書いてたやつもあったよな……」
    「友切なかご、だな」
     髭切の向こう、最初に鶴丸が座っていた席には膝丸がついていた。その弟に頷きながら、髭切は微笑んでいる。
    「そう、それだ。あとは俺も知らないような単発で終わったのとか、小さなコラムとか……とにかく、こいつはやたらとたくさんの筆名を持っているんだ。そのくせ自分でもすぐ忘れる。こいつの名前を全部把握しているのは、ここまで原稿を持って走ってきてくれた兄思いの弟だけなのさ」
    「当然だ」
     膝丸はふふんと得意げな顔をした。同い年だという青年の、どこか幼さも思わせるその表情を見てから、一期は改めて立ち上がると頭を下げた。
    「本当に申し訳ありません、私が確認しなかったばかりに」
    「ああ、いや……」
     とても顔を上げられる気分ではなかったがしばらくそのままでいると、鶴丸に背中を軽く叩かれた。「そのあたりにしておけ」ということだろう。一期はそろそろと折り曲げていた腰を戻すと、なぜか膝丸も立ち上がっていて、髭切は猫のように目を丸くしながら編集者と弟の顔を交互に見ていた。
    「間に合ってよかった。そちらも、そんなに気にしないでくれ」
    「そうそう、間違えたのは僕だしね」
    「兄者、分かっているならもっと気をつけてくれ」
    「はいはい。まあふたりとも、座りなよ」
     促されて膝丸も一期も再び席についた。一期がカウンターに肘をつき溜息をつくと、隣で鶴丸の笑う気配がした。
    「俺もさっきのはセーフだったから今回は不問でいいと思うが、それはそれとして、きみは多分そろそろ会社に戻った方がいいぞ」
    「え? ああ、そうですな、つい長居してしまって……」
    「いや、別に時間の都合がつくならどれだけでもいてくれていいんだ。今日は髭切の奢りだろう、今度来るときは俺が奢ろう。そうじゃなくて、その原稿……手書きなんだろ?」
     鶴丸の骨張った長い指が一期の抱えている茶封筒を指差す。受け取ったとき「心なしか重い」なんて思ったが、おそらく気のせいではない。白封筒より厚く、重い。
    「髭切は悪筆ってわけじゃないが、雑誌に載せるには当然、活字にしないといけないだろう。〆切前で阿鼻叫喚、先輩たちも自分の仕事で手いっぱいの中で、そういう作業をやらなきゃいけないのは、一体誰だろうな?」
     いたずらっぽい声はからかうような調子を含んでいたが、微笑にはどこか憐れむような色もあった。まっすぐ一期を捉える金色の目は動かない。問いの形ではあるが、答えなんて分かりきっている。
    「――失礼します!」
    「おお、頑張れよ」
     勢いよく立ち上がった一期の後ろから椅子を避けながら、鶴丸が笑う。「頑張ってね」と軽く拳を握ってみせたマスターや、手を振る髭切、その奥で控えめに一礼した膝丸にもう一度頭を下げて、一期はほぼ走るようにして杜ノ都をあとにした。

    「彼、お前と同い年なんだって」
    「そうなのか?」
     カラカラとドアベルが鳴り、やがてその音も止まった。髭切の言葉に、膝丸は一期が出ていったばかりの扉を見た。
    「膝丸くん、お昼はもう食べた?」
     それもすぐ燭台切に声をかけられてカウンターに向き直る。いつ見ても整った美丈夫が人の好い笑みを浮かべていた。
    「今日のまかないメニューは伽羅ちゃんのカレーうどんなんだけど、どうかな? もちろん他のがよかったら用意するよ」
    「ああ、この匂いはうどんだったのか」
     膝丸は少し思案するように口許に指を当てたが、すぐに「ではそのカレーうどんを」と頷いた。
    「麺の量に要望はあるかい?」
    「いや、普通で大丈夫だ。夜で調節できる」
    「オーケー」と燭台切が頷いたとき、大倶利伽羅が先に鉢を運んできた。サラダだった。
    「伽羅坊、俺のときはなかったよな? それ」
    「さあな」
    「おい、そういうのはよくないぞ!」
    「鶴さん、ウインナーコーヒーおかわりする?」
    「する!」
     カウンターを挟んだやりとりに髭切はにこにこと笑い、膝丸もサラダを食べながらしようがないものを目にしたような顔をした。そのうちに、湯気の立つ丼が運ばれてきた。
    「ありがとう」
     膝丸の礼に目だけで応じ、大倶利伽羅はまた厨房へと引き上げていった。
    「僕もデザートお願いしようかな」
     何にしようかなあとメニューを物色する髭切を、うどんを口に含んだ膝丸が横目で窺う。何か言いたげな顔をしているが、うどんのコシの強さでまだ口を開けないようだ。
     やがて麺を飲み込んだ膝丸が低い声を出した。
    「兄者、徹夜していたときにずっと菓子を摘んでいなかったか?」
    「仕事をしてると糖分がほしくなるよねえ」
    「それにしても食べすぎではないか」
    「まあまあ、もう過ぎたことだし。ほら、お前もうどんを食べなよ。僕もプリン食べるし、ゆっくりでいいよ」
     言いながら燭台切にメニューを指差す。燭台切は少し困ったように笑って頷いた。膝丸は呆れた顔をしたが、溜息をつくと箸を持ち直した。
    「ゆっくり食べろとは言うがな、兄者、パソコンを買いにいかねばならんだろう」
    「おお、そうだった」
     すぐに出てきたプリンをスプーンで掬って、髭切は今思い出したような顔をする。
    「さっき一期が走ってったのにな……」
     鶴丸の呟きに膝丸がポケットからスマホを取り出した。髭切のものだ。そのまま兄に渡すと代わりに自分のスマホを受け取る。髭切は自分のスマホのロック画面を見た。弟のものと同じく、自宅の玄関先で撮った写真が映っている。
    「――おお、一期くん、会社着いたって。原稿受取報告が来てた」
     メール画面は普段世話になっている担当編集からのものだった。それを確認して、膝丸はしみじみ言った。
    「万が一次があったら、今度は付箋を貼るなどしよう……」
    「ないようにしないとねえ」
    「前から言っていたが今後はパソコンのそばに飲み物を置くのを改めてくれ」
    「あ、それ黙ってたのに」
    「キーボードにこぼしたのか。やりそうだな」
     鶴丸が笑う。髭切は「肘が当たっちゃったんだよねえ」と言い、膝丸はそれに「言い訳になっていないぞ、兄者」と呆れた声を出した。ちょうど丼からうどんがなくなった。
    「先にこれを置いてから家電店に行こう」
    「そうだね」
     膝丸が白い封筒を示したのに髭切が頷く。プリンもきれいに片付けられていた。
    「ごちそうさま。今日もおいしかった」
    「ありがとう。そう言ってもらえると作ったかいがあるよ」
     会計を済ませる兄の後ろから膝丸は厨房を覗き込んだ。
    「大倶利伽羅、また大学でな」
     厨房からは短く「ああ」とだけ返事があった。兄弟が店を去ってしまうと、ドアベルの可憐な音だけが短く店内に残った。
    「……膝丸くん、元気そうでよかった」
    「髭切もな」
     燭台切の呟きに鶴丸もスプーンでコーヒーカップの中身をかき混ぜながら応じた。おかわりしたウインナーコーヒーはとっくにクリームが溶けて混ざっている。
     ふと、鶴丸が短い笑い声をあげた。グラスを磨いていた燭台切は手を止め、視線で理由を訊ねる。
    「前に久しぶりに鬼丸と会ってな。あいつ、学会に行った先で髭切の小説をべた褒めする奴にあったんだと」
    「へえ、すごいね」
     大学に残って研究に勤しむ知人の強面が渋面となった絵面を思い出して鶴丸は喉を鳴らすように笑った。専攻が髭切と同じだった鬼丸は学生時代、あのマイペースさによく振り回されていたのだ。
    「神なんて言われて讃えられていたが俺の知っているあいつとの落差で頭が痛くなる、と言っていた」
    「はは、落差だなんて、鬼丸さんも言うね」
     〆切前にパソコンに飲み物をこぼして原稿をダメにする。どうにか書き上げた原稿は渡し間違える。今日のエピソードだけでもどれだけの人間が振り回されたか……そう思うと、確かに神にはほど遠い姿かもしれない。もし、優れたもの、あるいはそれを創り出す存在をそう呼ぶのなら。それとも、優れた技能の一方にある拙さも、かえって名声を盛り立てる逸話となるか。
     文章によって世界を作り上げ、物語を推し進め、その中では破滅も栄光も思いのまま、端麗で歪な小説という営み。その渦中にある、筆そのもの。
     確かに髭切は破格の筆なのだろう。さらにいえば、彼にはいくつも名のある筆が揃っている。
     なんとなく、筆をたくさん並べて机に向かう髭切の姿を思い浮かべながら、鶴丸は冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
    「神ねぇ……」
     好き勝手言うよなぁ、とひとりごとのような呟きには燭台切は返事をせず、ただ微笑むだけだった。厨房から出てきた大倶利伽羅も無言のまま、テーブルの片付けを始めた。



     朝食後の茶を飲んで立ち上がった兄が、ふと足を止めたと思うと、導かれるように天井の隅を見上げた。
    「むむっ」という何度も聞いた声まで聞こえて、膝丸は茶碗を片付けながら「ああ、お告げか」と思った。きっとしばらくすると書斎に戻り、キーボードを叩く軽い音を響かせるようになるだろう。
     膝丸が洗い物を終えても、自室から荷物を取ってきても、兄はまだ突っ立ってやや上方を向いている。今は膝丸には見えないものを見ている。とっくにそれを分かっている膝丸は、話半分にしか伝わらないのを承知で一応声をかけた。
    「兄者、では俺は市民体育館に行ってくる。スマホは書斎だぞ」
    「ああ」
     相づちというよりはほとんど嘆息のような返事を聞くと膝丸は玄関に向かった。上り框に腰かけ、靴箱から靴紐の解かれているランニングシューズを取り出す。足を入れて、踵を軽く土間に叩きつける。踵の方から詰めて穿いたら、もう無意識でもできる指の動きで靴紐を結んでいく。どれくらいの締付けが足に合うのかは心得ている。
     ルーティンのひとつにもなっている一連の行動を終えるとその場で膝の屈伸を二度繰り返す。軽くとはいえ走るためには必要な準備だ。
     ガラガラと戸を開けるとまだ朝だというのにむわっとした空気がまとわりついてきた。今年は空梅雨で、雨の日は数えるほどしかないまま七月になってしまった。そろそろ外を走るときの時間に気をつけないと脱水を起こすかもしれない。
     ボディバックを肩にかけるとぺたりと張りつく感触がした。わずらわしいが、今日は辺りを走るだけではないから仕方ない。
     狭い庭で足首を回し、肩を回し、首を回して、軽く関節をほぐす。肩の力を抜きながらひとつ長く息を吐くと、膝丸は慣れた道を走り出した。

     ふと壁の時計を見上げると正午を回っていた。
     ――兄者は昼を食べただろうか。
     ふと考えたが結果は分かっている。今朝の様子からすると食べていない。
     足を動かしながら今朝からこなしてきた筋トレのメニュー、回数、セットを確認する。これも分かっているが、予定通りすべてこなせている。
     トレッドミルの稼働音を聞きながらそれを確かめると、膝丸は手許のボタンを押した。ベルトの動きが遅くなり、やがて止まる。自分もお腹が空いてきたし、何より兄に食事を摂ってもらわねばならない。
     着替えを終えて外に出ると、すっかり夏らしくなった日差しが高い位置から照りつけていた。せっかく拭った汗がまた首筋にじわりと湧くのが感じたが仕方がない。できるだけ速く、家へと帰ればいい。
     昼は商店街の方へと人が流れる。そのためこの時間は人の少ない川沿いの遊歩道を行く。ランニングコースとしても紹介されているだけあって歩道の幅が広いのだ。あそこなら、膝丸が走っていても誰の邪魔にもならないはずだ。
     今日の昼ご飯はどうするか。確か、昨日商店街の肉屋で買ってきた惣菜があるはずだ。冷蔵庫に入れたままだが、あれは冷えていてもおいしいと店のおばさんが言っていた。
     髭切と膝丸は子どもの頃からこの土地に住んでいる。昔からある商店街の人たちもほとんど顔見知りだ。その気安さもあってか、この春帰ってきた膝丸が買い物にいくとあれやこれやとおすすめを教えてくれる。おかげで食事のメニューには困ったことがなかった。もっともそれは、よく食べはするがメニューに大してこだわりのない兄と、毎日同じものを食べていても平気な質の自分だからなのかもしれない。
     米は今朝炊き上がったのがある。ちゃんと一食分ずつ分けて冷蔵庫に入れてきた、あれを温めればいい。走りながらそんなことを考えていると遊歩道に差し掛かった。ほとんどまっすぐに続く道は思った通り人がいない。
     あとはこの道を走っていって、兄の待つ家に帰ればいい。
     もうずっと見慣れている景色が足を進めるのに合わせて流れていく。その速さもよく知ったもので、膝丸は自分の走るリズムと呼吸に没入しようとしていた。
     そのとき、背後から聞き慣れない「膝丸殿」という声が聞こえた。脚の動きを緩めて振り返ると、明るい色の瞳と目が合った。以前ほんの少しだけ顔を合わせた兄の編集者だった。
    「すみません、呼びとめてしまって」
    「いや」
     昼過ぎの静かな遊歩道を、膝丸は一期と並んで歩くことになった。街中からは人の暮らす気配がするが、やはりほとんど誰とも出会さなかった。以前会ったときと違い、一期は今日はスーツ姿ではない。兄への用事はなさそうだと考えていると、視線に気がついたのか一期が笑った。
    「今日は個人的に杜ノ都にお邪魔してきたんです。先日はろくにお礼も言わず出てきてしまったので」
    「そうだったのか」
     応えてからぱっと口を抑えると、一期は少し驚いた顔を見せたあとすぐ表情を緩めた。
    「話し方は気にせんでください。同い年だそうですし」
    「ああ、すまない……君は兄者の仕事相手なのだし、気をつけた方がいいのは分かっているのだが……」
    「いえ。私の話し方は、弟の前で気をつけるようにしていたら敬語が癖になってしまっただけですから、お気になさらず」
    「弟がいるのか?」
    「ええ、十五人ほど」
    「じゅっ……!?」
    「ふふ、大家族でしょう。私にとっては皆かわいい弟です」
    「そ、そうか……」
     あまりの数に事実か疑いそうになったが、一期の表情を見るととても嘘には思えず、膝丸は言葉を飲み込んだ。自分にとっての兄弟は髭切ひとりだ。大家族、それも十五人の弟がどういうものなのか、想像しようとすることはできても、まったく実感がわかない。
    「仲のいい兄弟はいいものだからな……」
     とりあえず思いついたことをそのまま口に出すと、一期も「ええ」と頷いた。
    「これから帰るだけですから、あとは弟たちに土産に菓子でも、と考えていたら膝丸殿が通りかかったもので、つい声を……そういえば、髭切殿は鬼丸殿とも知り合いと聞いたのですが、膝丸殿も?」
    「ん? ああ、何度か会ったことはある」
     なぜ鬼丸を、という顔をしてしまったのだろう。一期はまた柔らかに笑った。
    「鬼丸殿は私の従兄でして」
    「そうなのか?」
    「はい、その繋がりで鶴丸殿や鶯丸殿も時々うちに遊びに来ていました。私たち、共通の知り合いが多かったようですな」
    「そうだったのか……」
     道なりに植えられた街路樹が風にさわさわと鳴った。木漏れ日がふたりの髪を滑るように撫でていく。同じ年齢と共通の知人とで、膝丸も一期に対して随分と気安い心持ちになり始めていた。
    「今朝も鶴丸殿がうちに来たんです。しばらく留守にするからと、家にあったという菓子を持って」
    「ああ、また出ていったのか。今回は結構間が空いたな」
    「やはりご存知でしたか」
     出ていった、というのは鶴丸国永に関しては引越したとか出奔したとかいうことではない。鶴丸はいつも書くものを考えるときには旅に出てしまうのだ。行先は気の向くまま、期間もそのときによってまちまち……「鶴は渡り鳥だからな」と言って去っていくのは気障にも思えるが、音信不通にはならないし、現在地を訊かれればすんなり教えてくれるらしい。
     旅をしながら話を組み立て、固まったと感じたら帰ってくる。あとは学生の頃からそのまま住んでいる安普請で一心に執筆する。荒い第一稿を書き上げた後、編集者と話を始め、調えていくのだという。
     膝丸はそうした鶴丸の執筆風景は兄から聞いただけだが、心底彼らしいと感じる。髭切や鶯丸と一緒にいるときは奔放なふたりの会話の舵取りをしていることが多いが、それでいて本人も食えない物言いをする。概ね話の通じる相手ではあるが、その実、人となりは掴みきれない。こちらに寄り添うようでいて、気がつけばいなくなっているという距離を漂っているのが鶴丸国永という男だった。どこかアンバランスなのにそれで安定してしまっている。音信不通にはならない放浪も、そういう在り方を思うと違和感がない。
     兄との繋がりで鶴丸との付き合いがそれなりに長い膝丸は、鶴丸の放浪癖に危うさを見ないわけでもなかったが、彼の生活に口を挟むほどの親しさがないのもよく分かっていた。うっかり小言を垂れようものなら、昔のように自分をからかい倒して倍返ししてくるに違いない。
    「まあ、帰ってきたら大倶利伽羅が燭台切に伝えるだろう。そうしたら兄者や鶯丸にも伝わる」
    「え?」
    「ん? ああ、大倶利伽羅は杜ノ都のバイトだ。今日もいなかったか? 前に君と会ったときもいたのだが」
     ほら厨房に、と付け足すと、一期は「ああ」と得心したような声を出した。誰のことを言っているのかは伝わったらしい。
    「彼は鶴丸の部屋の隣に住んでいるのだ。俺とは大学が同じでな……俺にとっては歳下の同級生になってしまったが」
     なんとなく一期が返事に迷う気配を感じて、膝丸は自分から話し始めた。
    「俺は陸上競技部にいたのだが、去年故障をしてな。リハビリに通うのに家の方が便利だから休学して、単位の都合で卒業し損ねた」
    「そうでしたか……実は以前、寮にいたことも聞いたのですが、やはり強豪校で?」
    「ああ。大学自体はここから通えるのだが、練習に使っているトラックが遠いのだ。寮もそちらにあって、原則部員は皆入寮する。食事の管理もしてもらえるからな」
    「なるほど」
    「そうでなければ、こちらに住んでいる方が何かと便利だ。ほら、大倶利伽羅も同じ大学と言っただろう」
     大倶利伽羅、そして鶴丸の住むアパートはこちらにある。買物にも娯楽にも困らない、ここはそういう、暮らすのにちょうどいい土地だった。
    「専門、というのでしょうか、それは……?」
    「ああ、俺は中距離だな。長距離を走ることもあったが」
    「中距離……」
     一期が小さな声で繰り返したのに膝丸は笑った。
    「ピンと来ないだろう」
    「ああ、いえ……すみません」
    「いや、気にしないでくれ。短距離やマラソンはテレビでも取り上げられることが多いが、トラックでやる中距離や長距離走はそんなに話題にされないからな。大体皆そういう反応だ」
    「確かにあまりイメージがわかず……」
    「そうだろう。あとよく話題になるのは学生駅伝くらいか……もし興味があるなら、大学でやっている記録会なんかを調べてみてくれ。観戦は自由にできるところもあるはずだ。俺も競技のファンが増えるのは嬉しい」
    「ならば、ぜひ膝丸殿の出るときに」
     一期の返事に膝丸はきゅっと目を細めた。
    「それも嬉しい」
     ふたりは顔を見合わせて笑い合った。
    「髭切殿もよく応援に来られるのですか?」
    「いや、時間があるときだけだな。ほら、抱えている原稿が多いから……」
     そう話を振ると一期も納得したように「ああ〜」としみじみ声を伸ばした。ふたりが顔を合わせたきっかけがそもそもそれなのだ。
    「まるで神の如き、ですからな」
    「神?」
     訊き返すと一期は頷いた。
    「小説家の髭切殿を、そう評すファンの方もいると」
     ぱちぱちとまばたきしながらそれを聞いた膝丸は、やや苦い笑いを浮かべて首を傾げた。
    「兄者が評価されるのは当然だと思うが、神と言われると不思議だ……」
     俺にとっては兄者は兄者でしかない、と言うと一期も頷いた。
    「兄弟ですからな」
    「ああ」
    「ところで膝丸殿も髭切殿の本を読まれるのですか?」
    「ああ、読むぞ。最近は編集に出す前に読まされる」
    「それは羨ましい」
    「いや、そういうのではなくてな。その原稿がどの編集部に渡すやつか確認する作業みたいなものだ。大量に書いているからな、自分でも把握しきれなくなってきているらしい」
    「それはまた……」
    「うむ、どうかとは思うが、まあ兄者には俺がいるのだから問題ない。それに、君が訊いた通りの意味で読んでいるときもある」
     付け加えた言葉に一期は柔らかな声で訊ねた。
    「感想というわけではないのですが、弟からしても一読者として楽しめるものですか」
    「ああ、そうだな……いや、どうだろう」
     言葉を探す膝丸を一期は急かさなかった。遊歩道はまだ続き、ふたりは自然と足を運ぶ速度を落としていた。
    「……兄者の書いた話を読むと、自分を見つけてもらえた気がするのだ」
     おかしなことを言っているかもしれない。それでも、久しぶりに同じ年の人間と話した気安さか、単純に一期の穏やかな雰囲気につられたのか、膝丸は探り当てた言葉を素直に口に出した。
    「そう言ってほしかったような、自分でも気付いていなかったような、兄者の本を読んでいるとそういうものを見つける。自分が、自分になるような……他の小説であってもそういうことはあるのだろうが、これは、兄者の本だから余計そう思うだけなのか、自分でも分からないのだ。ただ、不思議と兄者の書いたものは分かる。どれだけ別の名前で、文章の書き方が違っていても、兄者が書いたということだけは……やはりおかしなことを言っているな」
    「いえ」
     一期は最後の言葉だけに首を振ると、膝丸の話したこと自体には微笑んで頷くだけだった。はっきりとそうは言われなかったが、その微笑には肯定の色が浮かんでいる気がした。膝丸の言葉への同意というよりは、それを話すこと自体への受容だった。
     遊歩道をそよ風がすり抜けていった。ふたりもなんとなく話題を変えた。
    「私はしばらく髭切殿のお仕事に関わる予定はないので、次に会えるのは膝丸殿が走る大会かもしれませんな」
    「そうなのか?」
    「ええ、そもそも私、新入社員ですし」
     前回はイレギュラー中のイレギュラーです、と付け加えた顔に影が差していて、膝丸は「編集者は大変だな……」とぞっとした。
     一期自身はその影をさっと取り払うと膝丸の方を向いて、また明るい日差しのような瞳を見せた。
    「大会の予定は髭切殿から教えていただけるのでしょうか」
     以前連絡先を交換しているのです、という言葉に膝丸も今日は自分が荷物を持っていることを思い出した。
    「……俺も連絡先を教えてもらっていいだろうか」
    「ぜひ」
     一度足を止め連絡先を交換した。新しく「粟田口一期」という名前が登録された画面に膝丸は少し見入ってしまった。こうやって誰かと新しく知合いになるのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
    「どうしました?」
     その膝丸の顔を覗き込んできた一期に、膝丸は慌てて首を振った。
    「参加する記録会が決まったらまた連絡する。予定が合いそうならぜひ来てくれ。あと、兄者が来てくれるときは大抵鶴丸もついてくるから、細かいことはそっちに確認した方が確実かもしれん」
    「鶴丸殿ですか」
    「ああ。意外か?」
    「意外に感じたような気がしたのですが、そうでもない気もします」
    「そうだな、俺もそう思う。付き合いが長くなったが、なんだかんだ言ってずっと兄者の世話を焼いてくれているし、俺の出ている大会にも気がつけば来ているんだ。……奴は結構寂しがりだからな」
    「ああ、分かります」
     他愛のない話をしながらゆったりと歩いているうち、一期はふと、「すごいですね」と息を漏らした。膝丸が首を傾げると、穏やかな笑い方で続きを話し始めた。
    「いえ、私も身体を動かすのは苦手な方ではないのですが、やはり競技でやるとなると違うでしょう。大学まで続けているならなおさら」
     膝丸はふと視線を上げた。夏の始めの日差しは街路樹の葉の隙間から砕かれたようにきらきらと光っていた。
    「そうだろうか……俺としては走れるから走っていたというのが一番近い感覚だが」
    「それを続けるのが難しいかと」
    「そうか? そういうものか」
     遊歩道はまだまっすぐ続いていた。元々得意だった走ることに本腰を入れ始めた中学生の頃からのランニングコースでもあった。見慣れた景色を新しい友人と歩く新鮮さで、膝丸はひとりごとのように話し出した。
    「実を言うと、同い年だと聞いたとき、君のことが少し羨ましかった」
    「え?」
     一期の明るい色の瞳は見開かれていた。陽光のような色味のそれを一度見て、膝丸は視線を外した。笑みがこぼれたのはこういう話を始めてしまった気恥ずかしさからだった。
    「故障をして、リハビリに通うにも兄者の世話になって、その上一年長く学生をさせてもらって……自分が情けなくなる。同い年の君はちゃんと働いているのに」
     横目で窺うと一期は困惑を滲ませた顔をしていて、膝丸はすぐに「すまない」と明るく言った。いきなりこんなことを言われても戸惑うだけだろう。困らせたいわけではなかった。
     視線を落とすと自分のシューズが左右交互に出てくるのが見えた。そろそろこれも交換しないといけない。リハビリを終えたあと、少しずつ、少しずつ距離と練習量を増やしてきた。そしてようやくかつてのように、練習用のシューズを一ヶ月で穿き潰すまでになった。やっと、戻ってきたのだ。
    「分かっているのだ。こうなってしまったからには、これからをどうするかだけを考えるべきだ。俺は猶予をもらったし、周りにも恵まれている。それを忘れているつもりはない」
     怪我をして帰ってきた自分を、故郷の街は以前と変わらず受け入れてくれた。それに、優しかったのはよく知る街の人だけではなかった。同級生のほとんどが卒業してしまった大学でも、顔見知りだった大倶利伽羅がそれまでの距離感を保ったままさりげなく気を回してくれた。――気にしていないように振舞うには、よく気をつけていないといけない。大倶利伽羅がそれをやってくれているのが膝丸にはよく分かって、一見とっつきにくい彼のその気遣い自体がありがたかった。
    「あの、部の方は……」
     一期がどこか言いにくそうに訊ねてきた。膝丸はそれにも笑って、軽い口調で説明した。
    「寮の方は休学したときに退寮扱いになってな。部活には籍は一応残っていたのだが、それも春からは正式に退部になっている。部に残るなら裏方に回らなければいけないが、休学してしまってそれもできなかったからな」
    「そうでしたか……」
    「……それでも」
     ひとりごとのように呟いて、足許に落としていた視線を上げると、じわじわと太陽の熱に当てられて道の先が滲むように揺れていた。今年も暑くなるだろう。
     それでも、とこぼした続きは出てこなかった。陽炎で滲む道がまだ続いているのを見て、膝丸は代わりのように笑い混じりの溜息をついた。
    「兄者のようには勝てんな」
    「勝つ、とは?」
     気ままな言葉にも一期は律儀に反応してくれた。明るい瞳は日差しの中で一層澄んで見えた。
    「何と言えばいいか……兄者はいつも、勝者なのだ」
     一期が目をぱちぱちさせている。自分の言葉が抽象的で伝わりにくいのは膝丸にだって分かっていたが、これが一番しっくりくるのだ。
     髭切は、いつだって勝者だ。
    「小さな頃から成績優秀で、運動だってできる。おっとりしていて不思議なことを言うときもあるが、自然にしているだけでどこか人を惹きつける。俺にとってはずっと手本で、道標のような存在だった。それに、文才にまで恵まれているだろう。……先ほど、走れるから走っていただけだと言ったが、正確に言うと俺が兄者より優れていたのはこれだけなのだ」
     いや、兄者よりしっかりしているつもりではあるがな、と笑うと、一期も曖昧に微笑んで受け流してくれた。
    「兄者のようになれたらと思ったこともあったが、俺は兄者ではない。それだけの話だ」
    「……お兄様のことが、お好きなんですね」
    「ああ。俺の一番の自慢だ」
     子どものときからずっと感じていることだった。自然と漏れ出たそれに、一期は「仲がよいのですね」とにっこりと笑った。
    「俺は君も相当いい兄なのだろうと踏んでいるのだが」
    「おや、それはまたどうしてです?」
    「さっき弟たちに菓子をと言っていただろう。俺の兄者は俺に菓子は買ってこない。自分で食べる分は買ってくるがな」
     その言葉に一期は穏やかな顔立ちに似合わないような大きな笑い声を立てた。笑ってくれてよかった。髭切が膝丸に菓子を買ってこないのはそもそも膝丸が食べないからだが、兄はこういう軽口くらいは許してくれるだろう。
    「俺たち兄弟は何かあれば、寿司か焼肉に行くというのはあるのだがな……兄者が賞をとったり、ここ数年は俺が寮から帰ってきたりしたときにも連れていってもらった」
    「それはうちでは頻繁にはできませんな」
     なんせ十五人の弟たちである。それはそうだろうと膝丸も頷いた。
    「まだ小さい弟も多いので、甘いものを喜ぶんですよ。ケーキだとどれがいいかで喧嘩になることもあったので、シュークリームなどが多いですかな」
    「ああ、ならば駅裏におすすめがある。燭台切の親類がやっている店でな、兄者も気に入っているから味は保証する。焼菓子がうまいのだ」
     簡単に店の場所と外観を説明すると、一期は礼を言いながら改めて微笑んだ。それまでよりもどこか幼なげにも見える笑い方だった。それを見ると、やはりいい兄なのだろうと感じた。
    「しかしこのあたりは本当に何でもありますね」
    「ああ、生活するには十分だな。大学病院もある。俺もリハビリで通ったが、あれは少し遠いから車がいるな……そういうところも兄者に世話になってばかりだ」
    「髭切殿は車を運転されるので?」
    「ああ、するぞ」
     なぜそんなことを訊く? という疑問が声色に出てしまった。一期は少し意外そうに「なんとなくご自分でというより人に運転してもらうイメージだったので」と応えた。
     膝丸にとっては他人から見た兄のイメージが意外で、思わず噴き出した。
    「いや、そんなことはない。結構好きなのだ。それに運転もうまい」
    「そうでしたか」
     一期の声に驚きを隠せていないことが膝丸には少し愉快だった。「人に運転してもらう」というのは意外だが、兄の普段の様子からして運転技術に難がありそうというのは、まあ分からないでもない。
    「言っただろう、大概のことは器用にこなせてしまう人なのだ。できないことなんて、そうだな……絵くらいだろうか」
    「絵、ですか?」
     ああ、と応じながら膝丸は幼少期から度々目にしてきた兄の絵を思い出してつい顔を伏せた。
    「あれは夢に出てくる」
    「夢に」
     言い出したら脳裏に数々の絵が浮かんできてしまい、一期が繰り返した言葉にも頷くことしかできなかった。
     遊歩道が終わると駅へ向かう道と家への道で別れた。いつもと違う出来事が起こってなんとなく浮つく足で、膝丸はそのまま歩いて帰った。
    「おお、おかえり」
     靴を脱いでいると髭切が居間から顔を出した。
    「ただいま。兄者は、ご飯はもう食べたか?」
    「いや、今からだよ。もうすぐお米が炊ける」
    「えっ」
     米は朝炊いたものがまだある。兄には伝えていなかったが。
     言っておけばよかった……と思ったが、不思議そうに目を丸くしている兄の顔を見るとどうでもよくなってきた。どうせ夜にも食べるのだ。
    「ありがとう、兄者」
    「いやいや、どういたしまして」
     膝丸が着替えてから台所に戻って来ると、兄は炊飯器の前で機嫌よさそうに身体を揺らしていた。米が炊き上がるのを待っているらしい。
     そしてテーブルの上に紙が数枚置いてあるのに膝丸が気付いたとき、髭切も思い出したように喋り出した。
    「それ、さっき書いたんだ。お前にも読んでもらおうと思って」
    「おお、そうか」
     ではさっそく、と椅子に座って紙を手に取る。小説ではなくコラムのようだ。髭切は小説の他に、いくつかの雑誌に短いコラムを連載していた。朝の「お告げ」はこれだったのだろう。
     膝丸は手早く、しかし丁寧に目を通した。ちょうど読み終えたとき、炊飯器が炊き上がりを告げた。
    「――兄者、この結びの一文だが、これは『天神さまのお導き⭐︎』が正しいのではないか? これはプリュネ北野のコラムだろう。『八幡大菩薩のお告げだよ♡』は鎌倉の兄の方だ」
    「ありゃ、間違ってたかい?」
     お前に確認してもらってよかったよ〜と言いながら髭切は茶碗に炊き立ての白米をもりもりと盛っている。今日もよく食べるな……と思いながら膝丸も自分の茶碗と計量器を出し、兄からしゃもじを受け取った。
    「いつもありがとう」
    「なに、問題ない」
     ざっくりよそい、計量器で重さを確かめる。既に慣れているからそう大きく数値を外すことはないのだが、膝丸は毎回量ることにしている。確かめておいた方が安心できるからだ。
    「いただきます」
     冷蔵庫にあったおかずを並べて兄弟の食事が始まった。ふたりともしばらく無言で箸を進めていたが、膝丸がふと小さく音を立てて笑った。
     髭切が目を丸くして見つめると、口の中のものを飲み込んで話し始めた。
    「帰りに一期殿にあったのだ」
    「おお、あの編集の」
    「ああ。連絡先を交換して、いろいろ話してきた。弟が十五人いるらしい」
    「へえ、十五人……十五人?」
     大抵のことには感情を大きく波打たせることのない兄の驚いた様子に膝丸は嬉しくなった。驚くとは思った。だが実際思った通りになると楽しい。
    「おお、弟が十五人……それは大変だ……」
    「鶴丸は家に遊びにいったことがあるらしい。――ああそうだ、今朝旅に出ていったらしいぞ」
    「ありゃ、そうなんだ」
    「帰ってくるのはいつだろうな……」
    「どうだろうねえ、暑いから涼しい方へ行ったのかなあ」
    「ありそうだ。……あと、一期殿が機会が合えば記録会にも来てくれると言っていた。もしそうなったら、いろいろと頼む」
    「そう。うん、分かったよ」
     しばらく沈黙が下りた。その後髭切が和やかに話を振った。
    「他にどんなことを話したんだい?」
    「他にか……大体兄者のことだったな」
    「おや、僕か」
    「うむ。……今思えば俺が話してばかりだった。次は気をつける」
    「そうかい? ……僕のことで話すことなんて、そんなにあるかな」
    「あるだろう」
    「そう?」
    「ああ。一期殿からは、兄者が愛読者に『神』と呼ばれていることを聞いた」
    「かみ」
     髭切は初めて口にする単語のようにその音を繰り返すと、首を捻った。
    「神、ねえ……好きに言うなあ」
    「そうだな」
     膝丸は兄がどうでもよさそうに言い捨てるのに頷いた。これも思った通りの反応だった。
    「小説家も、文章で世界を作っていると考えれば神業か」
    「いや〜、そんな大層なものでもないでしょ」
    「そうか? しかしまぁ、俺もにとっても兄者は兄者なので、神と呼ばれていても正直しっくりこない」
    「だよねえ」
    「しかし一期殿からすれば、要注目の作家としてのイメージがやはり強いようだ。俺からすればそれも少し不思議に思えるものだから、つい兄者の絵のことを話してしまった」
    「あはは、絵についてはお前も似たようなものだよ」
    「えっ」
    「え?」
     兄弟はしばし見つめ合った。同じ色の瞳が同じようにまばたきしながら相手を映していたが、やがてどちらからともなく笑い出した。
    「兄者は冗談もうまいな」
    「いやいや、お前ほどじゃないよ」
     笑い声が台所に満ちた。夏はこれからで、日が傾き始めるまでにはまだ時間があった。



     高校に入ったら同じクラスにひとつ歳上の人間がいた。ふたつ隣の席だった。
     あいうえお順に座らされているはずの春の教室で、鶯丸という男はその名前に関わらず窓際の最後列、出席番号で並べば最後になる席にいた。不思議には感じたが異論なんてなかった鶴丸は「ふうん」と思っただけだ。理由を知ったのは最初の体育の授業だった。鶯丸は見学していて、それについて近くにいた同級生が「病気で去年休学していたらしい」と噂話をしていた。
     まあそういうこともあるか、と思えばそれで終わりで、鶴丸はひとり挟んで隣のその歳上の同級生のことをすぐにただのクラスメイトとして以外には何も感じなくなるはずだった。結果的にそうならなかったのは、鶴丸と鶯丸の間にいた奴のせいだった。
    「ねえ、君ってひとつ歳上なのかい?」
     窓から桜の花が見えなくなったある日の休憩時間、柔らかい声が何の遠慮もなく鶯丸へと投げかけられた。鶴丸は少し驚いて、突然にこやかに直裁な質問をした隣席に顔を向けてしまった。鶯丸もちょうど歳下の同級生に振り向いたところだった。
    「ああ。去年入学してすぐ入院することになってな。そのまま一年休学していた」
    「そうなんだ。身体はもういいの?」
    「学校に戻れる程度には。運動はできないがな」
    「そっかあ。いやあ、皆、君のことを噂しているのに話しにいかないものだから、実は君って怖い人なのかなあと思って」
     直裁なのは鶯丸に対してだけではなかった。顔を向けてしまった鶴丸だけでなく、近くにいた同級生皆が聞き耳を立てていたはずだ。なんとなく気まずさに固まった空気を察知して、鶴丸はそれまでほとんど話したことのなかった隣席の丸い頭につい「きみなぁ」と声をかけた。
    「怖い人なのかって本人に言う奴があるかよ。それに声をかけにいけなかったのは単に皆きっかけが掴めなかっただけだ」
     鶴丸の訴えに彼は振り返ると、「ありゃ」と目を丸くして教室を見渡した。まるで悪気の感じられない仕草に鶴丸が呆れているうちに、鶯丸が口許に手を当てて囀るように笑い出した。間にいる当人だけがきょとんとした顔をしている。
     鶯丸の笑いは鶴丸にも移り、やがて教室全体に広まっていった。クラスメイトのとぼけた様子を嘲笑うのではなく、単に緊張が緩んで出てきた笑いだった。
     笑いを引き起こした本人、源髭切は周囲の反応に首を傾げたが、すぐに微笑を浮かべた。そしてこれが、皆が歳上の同級生と馴染むきっかけになった。
     同時に鶴丸にとっても、ひとり故郷を飛び出して進学してきた土地で腐れ縁と呼び合うことになる友人を得たきっかけでもあった。高校からの同級生が三人、作家となる。もしそんな設定で話を書こうものなら、編集に渋い顔をされるに違いない。実際、当時の鶴丸も読書は嫌いではなかったが、自分が小説を書いて生活しようなんて発想は持ったことがなかった。おそらく髭切も同じようなものだ。
     鶯丸だけが違った。当時から暇さえあれば本を読んでいるような奴だとは思っていたが、その将来の展望を隠すようなこともなければ、ましてや口にするのを恥じる様子もなかった。
    「どうして小説家なんだい?」
     訊ねたのは当然髭切だった。鶴丸はそんなことは不思議に思っても訊こうとは思わなかった。核心を突いてしまいそうな、誰かの心に深入りしてしまうようなことは。
     鶯丸は態度こそ普段と同じ落ち着いたものだったが、改まったように髭切へと向き直った。三人で自然とつるむようになっていたから鶴丸もその場にいて、鶯丸のどこか清々しい自信に溢れた顔を見た。
    「なぜって、見れば分かるだろう。俺は勤め人には向いていない」
     自信満々に言い切ることではないとは思ったが、恐ろしく説得力に溢れた発言だった。鶴丸と髭切は一拍置いた後、揃って「確かに」と感嘆の声を漏らした。
    「小説家なら家で仕事ができるだろう。俺は仕事は休み休みやりたい」
    「ああ、そうか……なるほどねえ」
     髭切は考え込むような素振りを見せた。それが単なるポーズではなく、いつになく真剣な様子に見えたものだから、鶴丸は少し意外に思った。しかし、やはり理由を訊ねることはなかった。
     鶯丸はその髭切に少し目を細めたあと、鶴丸に視線を移した。
    「お前たちも何か書くか?」
    「へ?」
    「書いたら読ませてくれ。俺も読んでくれる奴はひとりいるんだが、書くのは知り合いにいなくてな。こういうのは何人かでやった方が上達すると言うだろう」
    「そうかぁ?」
    「じゃあやろうかな」
     鶴丸が疑問を口にする横で髭切が快諾する。今の流れで? とその顔を見ると、髭切は首を傾げた。肩の力が抜ける反応に、鶴丸がつい笑ってしまう。いつもそうだった。
    「よしよし、じゃあ三題噺でもしようじゃないか」
    「俺もやるのかい?」
     話を進めようとする鶯丸に苦笑いで突っ込むと、彼はまったく驚いた様子も見せず、また鶴丸に向き直った。いつも周囲を俯瞰しているような少し距離を感じさせる瞳で、まっすぐ鶴丸の目を捉えて。
    「俺はお前も向いていると思うぞ」
     息が詰まってしまって返事はできなかった。その間にふたりは話を進めて、結局この日から鶴丸も鶯丸と髭切とともに執筆修養を始めることとなった。
     流されるように始めたことだったが本当に向いていたのか、退屈はしなかった。ふたりの文を読んで、自分の書いたものを読んでもらって、ああでもないこうでもないと言い合う日々が過ぎるうちに、鶯丸が推理小説の雑誌で賞を獲った。まだ高校生での受賞は話題にもなり、三人はコンビニで買ったケーキでお祝いした。鶯丸が珍しくくすぐったそうに笑っていたので、鶴丸は彼が本当に本気だったのだと、分かっていたはずのことを思い直した。
     大学に進学しても腐れ縁は続いた。相変わらず遊ぶように小説談義を重ね、次は髭切が、続くように鶴丸がそれぞれ違う雑誌で賞を獲った。こうして三人とも在学中に「小説家」という身分を得るという、まるで不自然な設定のような状態になった。
     三人とも、小説を書くだけで生活していく厳しさは分かっていた。それでも就職せずにそのまま卒業してしまった。鶯丸と髭切は実家の太さもあってそういう道を選んだのだろう。はっきり訊ねたことはなかったが、一緒に過ごしているうちにそれを伺えるものがあった。
     鶴丸が作家一本での生活に入ったのは単純になりゆきだった。「勤め人に向いていない」と力強く言い切ったのは鶯丸だったが、自分も向いているとは思わなかった。ピンと来ないのだ。
     生きていれば大多数に想定される生活は、鶴丸にはずっと据わりの悪さがあった。それをこなしていくことはできるが、いつも腑に落ちる感覚はなかった。だから、物を書いて暮らしていけるなら、それがよかった。もっと精確にいうなら、その方がましだった。
     そういう自分が作家に向いているとも思ったことはない。書いている間は昼も夜もない暮らしをし、泥のように重い身体を引きずり、書き切ればもう死んだようなものなのに、まだ生きている――数日、死んだように生きながら過ごしていると不思議なことにまた物を考えられるようになった。そうして書き上げた原稿に手を加え、編集者と話し合い、さらに仕上げていく。それも終わって手を放れればしばらくは世間と変わらない「人間らしい」暮らしをした。それもそのうちピントのズレた写真を眺めるようにしっくりこなくなって、そうなるとじっとしていられない。どこかへ行ってしまいたくなる。そのどこかに、自分の腑に落ちるものがあるのか、あるいはないのか、分からないまま旅に出る。
     いつの間にか始まった放浪を鶯丸と髭切は微笑んで見送るだけだった。鶴丸をそれ以外を求めたことはない。その距離感が、友人でいられた理由だった。
     そう、友人だ。十年以上、頻繁に顔を合わせる仲なのだ。
     それでいて鶴丸は、未だにあのとき鶯丸が「お前も向いている」と言ったわけを訊けずにいる。あの不意打ちのような一言がなぜ、思いがけず自分の胸を貫いていったのかが分からないために。
     ……あのときの鶯丸の言葉は折に触れて鶴丸の脳裏に浮かんでくる。そしてそれは、いつも小説を書き上げたときだった。
     今回もそのときの、言葉が自分の胸を貫いていった衝撃と、そのことへの困惑を抱えながら鶴丸は目を覚ました。薄暗くて狭い室内、敷きっぱなしの布団に横たわっている視界には、脇に積まれた本がかなりの威圧感を持っているように映る。
     しばらくそのまま泥のように重い身体を横たえていた。カーテンの隙間から漏れる光からすると、まだ朝のようだ。
     安普請は音が響く。隣室の足音が遠ざかり、ドアを開け、鍵を閉め、やたらと音のなる通路を歩いていくのが分かった。大倶利伽羅は出かけたらしい。
     階段を下りる音が聞こえなくなると、鶴丸はのろのろと身体を起こした。小説を書き上げたときに特有の倦怠感は、書き切ったことによるものなのか、書き切るために身体に鞭打ったためなのか、何度も繰り返しているのに未だに判断がつかない。もしかしたら、どちらも理由なのかもしれない。
     布団の上であぐらをかいて、そこに投げ出された自分の白い腕を見ていると、部屋の隅に小さな明かりか灯った。何日か前に投げ捨てるように置いたスマホだった。
     身体を引きずるようにして近付いて確かめたそれは、鶯丸からの連絡だった。
    「……で、呼び出されてみれば、こんな天気の中を猫探しとはねぇ」
    「そう言うな、来たからには手伝ってくれ。名前はみたらしだ」
    「みたらし団子、いいよねえ」
     公園の東屋に鶯丸と鶴丸、そして髭切の三人が集まっている。こんな天気、というのは天気が悪いのではない。よすぎるのだ。
     今は八月、連日の猛暑で今日も例に漏れず、熱中症アラートはずっと濃い色をしている。普段なら子どもたちが遊ぶ公園も、鶴丸たち以外誰ひとりとしていなかった。
    「猫もこんな天気の中出歩くか?」
    「出歩かないだろうな」
    「涼しいところで寝るよね」
    「だよなぁ」
     東屋は公園の中で唯一のオアシスのように黒い日陰を確保している。男三人がそこに集まってスマホを確認していた。そこにはみたらしという名の猫の画像が表示されている。
    「ああ、白い毛と茶色い毛があるからみたらしかあ……」
     猫の画像は猫探しを頼まれた大包平より共有された。大包平とは、鶴丸と髭切のひとつ歳下の高校の後輩で、鶯丸にとってはふたつ歳下の幼馴染である。彼もまた腐れ縁のうちのひとりだ。そして、なぜ大包平がそんな依頼を受けているかといえば、彼の仕事が探偵だからである。
     いや探偵というより何でも屋じゃないか? と鶴丸は思ったが、鶯丸は大包平を探偵と呼ぶし、大包平が経営している事務所も「古備前探偵事務所」である。駅前の立地抜群のビルの四階に事務所を置き、依頼を待っている。
     鶴丸は依頼がどれくらい来るものなのか疑問に思ったが、結構来るらしい。定番の素行調査に加えて猫探し、さらには犬の散歩のような用事も頼まれるという。
    「きみ、探偵としてそういう依頼はいいのかい?」
     以前大包平の受けた依頼で、老夫婦の家の片付けを手伝ったときに、鶴丸はそう訊いてみたことがある。大包平は鶴丸の方を向くこともなく、
    「いい悪いではない。俺は引き受けた仕事をこなすだけだ」
     と語った。あと、「地味な作業は得意だ」とも。
     訊ねておいた身で鶴丸はこの大包平の応えに感心した。大包平は声と図体も大きければ態度もそこそこの男だが、彼の自負と矜持は「何を任されるか」ではなく「任されたものをどうやり遂げるか」という方を向いている。これは、素直に好ましい。
     思えば高校生の頃から騒がしくはあるが言動に筋が通っていて気持ちのいい男だった。それを思い出してみれば、雑事としか思えない仕事を依頼に来る周辺住民たちも、謝礼という形で大包平の仕事を支えたいのだろう。何度か手伝いにいったときの依頼人たちの態度を思うと、それがしっくりくる。
     さて、鶴丸が大包平の仕事を手伝ったことがあるというのは、大包平の探偵事務所がひとりで経営されているためである。大包平は仕事の見積もりという地味な作業も得意だったので、自分の技能の及ぶ範囲というのもきちんと把握していた。そのため、人手がいるときは鶯丸を経由する形で時々鶴丸にも声がかかるのである。
     今回の猫探しでは鶯丸に鶴丸、そして髭切と膝丸が集まった。なんとなく明るい時間は膝丸はトレーニングしているものだと思っていた鶴丸は「きみ、いいのか?」と訊ねてみた。
     膝丸は「この時期は早朝か夜しか外を走れん」と首を振った、言われてみれば確かに、としか言いようがなかった。
     何せこの暑さである。鶴丸は襟足の髪が首に張りつくのでまとめて上げているし、髭切も弟に持たされたという麦わら帽子をかぶっている。
    「きみはこんな日も涼しげに見えるなぁ……」
    「何を言う、暑いに決まっている」
    「そりゃそうだが」
     意を決して東屋の屋根の下から出て、日陰を中心に迷い猫ことみたらしを探したが、猫どころか動物の影ひとつ見つからなかった。今回の捜索は二手に分かれてそれぞれ街の反対から中心部に向かって探そうというものだ。三人は集合場所である本丸商店街のアーケードに向けて移動していた。もちろん道中、日陰となった路地や生垣の下にみたらしがいないか探しながら。
    「弟、大丈夫かなあ」
    「まあ大包平がいるんだ、大丈夫だろう」
     鶴丸越しに髭切にそう語りかけた鶯丸が、ふとふたりを見て厳しい顔をした。薄く品よく微笑んでいることの多い鶯丸が、そのような目の細め方をするのは珍しい。
     何だどうしたとふたりで鶯丸を見ていると、鶯丸は顔の前に手をかざしながら言った。
    「お前たち、日の光の下に出るとまぶしいな……」
     鶴丸も髭切も手持ちの服が白いものばかりである。それは今日もそうだった。
     鶴丸は鶯丸の言葉に髭切と顔を見合わせると、揃って両手を広げて鶯丸の前で小刻みに揺れてみた。腕を広げたのはもちろん日の当たる面積を増やすためである。
    「や、やめろ、ふふっ」
     普段アルカイックな微笑をたたえている鶯丸が、ツボに入ると笑いが長引くタイプなのを、付き合いの長い鶴丸と髭切は知っていた。今回の動きもつい揃って閃いてしまったのである。
     狙い通り、笑いが止まらなくなった鶯丸はしゃがみ込んで小刻みに震えるだけになったので、鶴丸と髭切はハイタッチして。こういうしょうもないことをしているときが一番楽しい。
     するとハイタッチした髭切がやや目を見開いて固まった。何だよ、と表情だけで訊ねると、ハイタッチのために上げた手を顔の前にかざした。ちょうど、さっきの鶯丸と同じように。
    「君、ほんとに夏場は目に痛いね」
    「きみも似たようなもんだろ」
    「いや〜君よりはもうちょっと目に優しい色だよ、僕は」
    「日の下に出れば変わらんだろう」
    「そういえば君、雪の日に全身白い服でいて怒られたことあったよね」
    「今それ関係あるか?」
     雪の日に全身白装束で怒られたのは本当である。二年前の大寒波のとき、ほぼ吹雪のようになった街で、鶴丸は視認性が大いに下がった状態で杜ノ都へやって来た。そのドア付近に、荒天で早めに店じまいを始めていた燭台切を見つけ近寄ってみたが気付かれる気配がない。鶴丸はどこまで近付けるか興味を持った。そしてギリギリまでくっつき、「光坊」と囁いた。瞬間、燭台切は絹を裂いたような悲鳴をあげた。鶴丸は大音量の美声を聞き耳を痛めた。窓の外にいる鶴丸が雪景色に溶け込んでいたせいで燭台切の悲鳴までその存在に気付けなかった大倶利伽羅は「雪中迷彩はやめてやれ」と叱りながら鶴丸を赤いマフラーでぐるぐる巻きにし、鶴らしくしてやったという。余談だが、燭台切は現在もこのときの話をすると「何たる無様な……」と落ち込むそうだ。
     ただそんな雪の日ではなく、今日は猛暑日なのである。
    「大体夏場に黒い服着てる方がきついだろう、熱がこもって大変だぞ」
    「むむ、それ弟の悪口?」
    「なんでそうなる」
    「大包平も黒い服が多いな」
    「きみも話をややこしくしないでくれ」
     うずくまっていた鶯丸が突然立ち上がったので、鶴丸は身体をのけぞらせた。そのとき、髭切にもたれかかる形になった。突然もたれかかられた髭切は体勢を崩しタタラを踏んだ。
     狭い路地、家は密集するように立っている。その一見の前にバケツが置かれていた。打ち水でもする予定だったのだろうか、水が入っている。
     タタラを踏んだ髭切の片足がそのバケツに引っかかり、それはばしゃんと音を立てて倒れた。髭切の足を水浸しにして。
     がらんがらんとバケツの転がる音がする。鶴丸と鶯丸は足だけずぶ濡れになった髭切に固まった。咄嗟のことで硬直していた髭切も、すぅーっと深く息を吸うと、一度吐いて、めったに出さないような低い声で言った。
    「僕は兄だから我慢できたけど弟なら我慢できなかったよ」
    「何を言っているんだきみは」
     思わず真っ当に突っ込んでしまった鶴丸だったが、無表情の髭切がすっと指差した方向に視線を移した。鶴丸の背後、そこに伸びた別の路地にふたつの人影が見えた。ひとつは赤毛の大男、もうひとつは薄緑の髪を後ろにたなびかせ、ものすごい勢いで走ってくる――鬼のような形相で。
     ひゅっと息を飲んだ鶴丸も走り出した。しかし軽やかな足音で駆け抜けてきた膝丸に、二十メートルも行かないうちに捕まった。
    「足の速い奴は本当に足音が軽いな」
    「そうだねえ」
     ふたりがバケツを直し、突然の轟音に驚いて出てきたご近所の人たちに謝っていると大包平も合流した。
    「本当に見事な走りだな」
    「そうでしょう」
     弟を褒められて髭切がご機嫌になる。そこに膝丸と襟首を掴まれた鶴丸が戻ってきた。
    「不可抗力だ……」
    「不可抗力でも兄者への狼藉、許さん」
    「あいつも結構俺に狼藉働いているぜ? おあいこじゃないか?」
    「嘘だよ〜」
    「きみなぁ〜」
     膝丸の手を首許から外させると、鶴丸は溜息をついた。
    「まったくきみは、兄をまるで神のように」
    「は?」
     不本意と言いたげな顔をしている。その膝丸に鶴丸は衣服を整えながら言った。
    「まるできみの信条、行動指針、すべてに髭切があるじゃないか。髭切の言うことなら全部聞く気か? きみ」
    「ええっ、そんなことないよ。だって弟、僕からよくお菓子取り上げるし」
    「兄者は食べすぎなのだ!」
     眉を下げてそんなことを言った膝丸は、また厳しい顔をして鶴丸の方に向き直った。
    「信条や行動指針ではある。だが、神ではない。兄者は俺の兄者だ」
     だからそれが神の名前でも呼ぶように聞こえるんだ、と思ったが、鶴丸はもう何も言わなかった。言っても無駄なことは分かりきっていたからである。

     大包平たちも猫を見つけることはできなかったらしい。
    「こういう場合はどう報告するのだ?」
    「そのままだ。できなかった仕事をごまかしても仕方がない」
     喫茶・杜ノ都のドアを開けると、ドアベルが可憐な音を立てた。
    「いらっしゃい。おや、今日は団体様だね」
     燭台切がカウンターで微笑む。ただ今日はカウンターの内側ではなく外の椅子に腰かけていた。
     皆を迎えるために立ち上がった美丈夫の、その向こうに見えた影に大包平が目を丸くした。
    「みたらしっ」
    「えっ、そういうメニューはないかな」
     突然のよく通る声に驚いた様子の燭台切の背後で、先ほどまで探していた猫が大包平の声に驚くようすもなく、にゃあん、と鳴いた。
     事の顛末としては、みたらしを見つけたのは大倶利伽羅だった。出かける途中にみたらしを見かけ、首輪もしているし人慣れしているから家猫だろうと察したらしい。放っておいてはどんどん外は暑くなる。そこで杜ノ都に連れてきたのだという。
     飲食店に動物がいることについて、嫌がる人も多いだろう。店を預かる燭台切も迷ったが、今日一日限定で預かることにしたらしい。さいわいなことにみたらしは大人しい猫で、問題を起こすこともなかったそうだ。お客さんも好意的に接してくれたという。
     大包平はみたらしを連れて依頼主の元へ、残りの面子は杜ノ都で軽食をとってから家路についた。
     鶴丸の前を、髭切と膝丸が並んで歩いている。麦わら帽子をかぶらず手に持ったまま、髭切と膝丸は何やら真剣な面持ちで話していた。話している内容までは聞き取れないが、髭切が真顔なんて珍しい。
     そう思っていると、隣で鶯丸がやや抑えた声で話しかけてきた。
    「膝丸は大丈夫そうだな」
    「ああ。なんせあの走りっぷりだしな」
     鶯丸は指を組んで伸びをすると、肩の力を抜いた。
    「落ち込んでいるようだったら留年の先達として助言でもしようと思っていたんだが、必要なさそうだ」
    「何だ留年の先達って」
     思わず鶴丸が笑うと、鶯丸もその様子を見て笑う。そうしてまた視線を前に戻し、並んで歩く兄弟を見た、兄はいつの間にか普段通りの笑顔に戻り、弟に麦わら帽子をかぶせようとしている。今度は弟が、昨今めったに見せなくなったあどけない笑い方をしていた。
    「人間は生きられるようにしか生きれないというだけの話だ」
     少年の頃のまだ慣れない教室、ひとり座っていた歳上の同級生……話しかけにくかったのは年齢のことよりも、その横顔に同年代には見たことのない達観が浮かんでいたからだ。その少年の頃に見た触れがたい空気は今の鶯丸にもあり、付き合いの長くなった今でもふとした拍子にそれを覗かせることがあった。
     しかし今日は、鶯丸のいつもの調子でそんなことを言われて、鶴丸は導かれるように訊ねた。
    「なあ、きみはどうして小説家を志したんだい?」
     ずっと、十年以上、訊くことはないと思っていたのに、言葉はするりとこぼれ落ちた。しかし意外でもなかった。落ちるべきときに落ちる実のように、訊くべきときが来たのだと感じていた。
    「そうだな、勤め人に向いていないから、というのは前にも言ったが、それがひとつ」
     鶯丸もまるで自然に受け止めて応えようとしてくれている。
    「もうひとつは、大包平が俺に『お前は小説家になれる』と言ったからだ」
    「そりゃまた、すごい理由だな……」
    「そうか? でもまぁ、そうか」
     鶯丸は喉を震わせるように笑うと、ゆったりと息を吐きながら言った、
    「小説は、俺に残された武器だった」
     そうして目を丸くした鶴丸に、少し長い話を始めた。
    「高校に入ってすぐ、身体がおかしくなって、怒涛の勢いで入院、休学となってな。高校にも慣れないうちに高校から離れることになってしまった。……当時の同級生も、中学のときの友人も、見舞いには来てくれた。そしてそういうとき、いつも俺は『かわいそう』と言われたんだ」
     鶴丸はなんとなく、病室に佇む鶯丸少年を想像した。細い肩、投げ出された手、窓の外を見ている小さな顔は、こちらを見てくれない。
    「確かに不運ではある。そのうち、友人だと思っていたのが俺に申し訳なさそうな顔を見せるようになった。俺ができないことを自分ができていることに、罪悪感を覚えているようだった。そのうち、そういう奴らは見舞いに来なくなった。まぁ、高校生活が忙しくなったのかもしれないが。……親だって時々苦しそうな顔で俺を見た。実際苦しかったんだろう、自分の子どもが苦しんでいるのが。……俺にはそれも苦しかった。だから諦めようと思った。もう俺という人間は失敗作なんだ、皆のできていることを俺はできなくて、かわいそうと思われる存在で、ずっと横になっているだけだ」
     傷つけたいわけじゃないのにうまく噛み合わない、結果互いを傷めつけたようになる。生きていればよくあることだった。それが記憶の中の、まだ少年らしさを残した鶯丸にあったのを知ることは、大きな傷痕にずっと気付かずにいたような気分にさせた。
    「……唯一、ほぼ毎日のように病室に来る奴がいた。歳下の生意気な幼馴染だった。学校帰りに来て十分もせず帰っていくこともあれば、俺の病室でテスト勉強していくこともあった。『教えてもらえてちょうどいい』なんて嘯いて……おれはあいつに勉強を教えたことなんて、ほとんどなかったがね。俺の調子がいい日には本を貸してくれたりする。読めれば次来たときその話をする。読めなかった日はしない。そんな感じで過ごしていて、夏になったとき、俺の体調は最悪だった。薬の副作用がキツくてな。そういうときにも来て、何も言わずにずっとそこにいることもあった」
     先ほどまで浮かべていて鶯丸少年の病室に、もうひとりの少年の姿が加わる。赤毛の彼は、こちらを見ない鶯丸に何も言わず、ただ一緒にそこにいた。
    「それで、そういう一番しんどい時期に母の親戚が見舞いに来てくれたんだ。俺にとっては遠縁のおばさんでしかないが、気を遣ってくれたんだろう。その日は大包平もたまたま病室にいた。うちの母親も大包平のことなんて赤ん坊のときから知っているから、追い出したりなんてしなかった。俺はそのまま挨拶して、見舞いの言葉を受け取って、また何回目かも分からない『かわいそう』を聞いたんだ」
     鶯丸はもう一度指を組んで伸びをした。今も定期的に病院で検査は受けているらしいが、隣で歩く彼は自分と何ら変わらないひとりの青年だった。
    「もう慣れきっていた。だから俺は聞き流そうとしていた。でもそのときは、大包平がいたから、ああこいつにかわいそうと言われているのを聞かれるのは嫌だな、と思って、つい大包平の顔を見た。……普段生意気そうに笑っているのに、唇を白くなるまで噛み締めていて、でも顔は真っ赤だった……怒っていたんだ。俺が『かわいそう』と言われていることに」
     話しながら鶯丸は泣き出しそうな顔で笑った。鶴丸も初めて見る笑い方だった。
    「俺が諦めようとしていた俺という人間について、怒ってくれる奴がいる。あのとき、生きようと思った。戦おうと」
     ――小説は、俺に残された最後の武器だった。
     どういう気持ちで小説家になろうとしているのを公言していたのだろう。鶴丸には想像することしかできないから何も言えないが、あのとき、自分の目の届く範囲だけでも、彼の言葉を笑う人間がいなくてよかった、と今、心底思った。
     鶯丸は改めて鶴丸に笑いかけた。
    「さすがに大包平も中学生だったからおばさんに突っかかったりはしなかった。だが、おばさんがいなくなったあともムスッとしていて、目が潤んでいるものだから、俺はつい『泣いているのか』とからかい、あいつは『泣いてない!』と大声を出した。おかげで俺まで看護師さんに叱られた」
     思わず声をあげて笑うと、前を歩いていた兄弟が同じように目を丸くして振り返った、しかしすぐお互いの顔を見やって首を傾げると、また前を向く。
    「その頃、苦しかった薬の効果が出てきた。よく効いてな、体調のいい日も増えたし、大包平の持ってくる本もたくさん読めるようになった。あいつの趣味で推理小説ばかり、読んでいるうちに『こういう話はどうだ』『こういうトリックは』と考えるようになった。それを大包平に話してみれば、俺よりずっと推理小説を読んでいて、目も肥えていたあいつが『お前は小説家になれるぞ!』と言うんだ……なるしかないだろう」
    「それはそうだな!」
     鶴丸が同意すると鶯丸も嬉しそうにした。
    「そうだ、だからお前にも向いていると言った」
    「へ?」
     突然自分の話になって固まる。鶯丸はどこか得意そうな笑みを浮かべた。
    「お前はいい加減、自分が思っているより寂しがりなのを認めた方がいい。寂しがりでなければ、あんなふうに言葉を尽くさない。お前の書く小説のように、遠いものを求めるようには。……俺も髭切もお前を友人と思っている、何か聞いてほしいことがあるなら聞こう。ああ、しかし、聞くだけでなく片をつけたいなら、大包平のところへ行け。解決は探偵の権能だ」
     俺はお前の新作をもっと読みたいんだ、辞めてくれるなよ。
     そう言うと鶯丸は大股で歩いて、先を行っていた髭切と膝丸に追いついた。ふたりと何やら話したあと、揃って鶴丸の方を向く。
     鶴丸も三人に追いつこうと足を早めた。そうしながら、鶯丸のデビュー作以来の人気シリーズの探偵役を思い出していた。
     高校生デビュー以来、奇抜なトリック、それを支える堅固な世界観、そしてはじめから終わりまでそれ以外の道筋はあり得なかったと思わせる卓越した筆力――鶯丸友成の小説には褒め言葉としてファンからの「頭おかしい」が並ぶ。そしてそのファンから深く愛されているのが、正しいことを正しく為し、善いことを善く成す、そういう美しく高潔な精神を持った、赤毛の名探偵なのである。

     やたらと音のなる階段を上り、通路を抜け、鶴丸は大倶利伽羅の部屋の前に立った。
     インターホンを押す。耳障りな音がする。
     ゆったりやって来た大倶利伽羅はチェーンは取らず、ドアを開けた。
    「よっ伽羅坊、メシ行こうぜ」
    「帰れ」
    「待て! 閉めるな! 奢るから!」
    「いらん」
     拒否されるだろうとは読んでいた。だから鶴丸はドアの隙間に足を捩じ込んだ。結構痛い。痛いから長引かせたくはない。
    「ほら、今日お前が拾ってきた猫の話!」
     そう言うと、ドアを内側に引っ張ろうとしていた力が弱まった。
    「……一分待ってろ」
     大倶利伽羅は律儀に一分で身支度を終え、出てきた。
     ふたりは鶴丸が大倶利伽羅を巻き込んで食事にいくとき定番になっているファミレスへと向かった。
    「伽羅坊、春になったらあそこ、出ていくだろう?」
    「ああ」
    「就職してもたまには杜ノ都に顔出してやれよ」
    「知らん」
    「そんなこと言うな、皆喜ぶ。特に光坊と俺が」
    「……あんたは、あそこから引っ越さないのか」
    「俺? 俺は、そうだな……」
     街は夕闇に沈もうとしていた。カラスが空を飛んでいった。
     それを見送ると鶴丸は振り返った。
    「俺も出ていくか!」
     予想外の応えだったのか、大倶利伽羅が目を見開く。この男の驚く顔はレアだ。それを目にできたのは、単純に嬉しい。
     鶴丸はくしゃっと笑うと、すっと両手を広げた。
    「鶴は渡鳥だ。どこへでも行けるさ」



     その日は秋晴れと呼ぶにふさわしい快晴だった。上着のいらない気温だったが、風は涼しかった。
     地区が主催する中長距離記録会は、大学のトラックを借りて行われた。学生選手権や駅伝でよく名のあがる強豪校も参加していたためか、メディアの取材も入っているようだ。
     第一コーナーの脇、ゴール地点がよく見えるところに座って、髭切は賑わうトラックを眺めていた。弟の応援で何回も来たことがあったが、やはり独特の空気がある。芝と土、日光で温まったトラックのゴム、スプレー式消炎剤のスッとする匂い。それぞれが参加者のざわめきとともに、風に運ばれてくる。
    「――おっ、いたな」
     聞き慣れた声に振り返れば鶴丸が手を上げていて、そのすぐ後ろで一期が会釈した。髭切も小さく手を振る。
    「ありがとうございます、私も混ぜていただいて」
    「お礼を言われるようなことじゃないよ。弟も君が来てくれるの嬉しいって言ってたし……弟と仲よくしてくれてありがとうね」
    「いえ、そんな」
     一期と髭切がやりとりする間に鶴丸は小さなシートを敷き、そこに座ると一期を手招きした。持参した折り畳みの椅子に腰かけている髭切は、一期が座ってきょろきょろと周りを見渡すのを見て微笑ましくなる。知っている人間には当たり前の光景だけど、初めての人間には未知の世界だ。
    「今日は膝丸、一五〇〇メートル走だけなのか?」
    「うん。もうすぐ出てくるよ――ああ、来たね」
     選手がゾロゾロと第一コーナーのもうひとつの端に集まっていた。その中に、よく知った人影がある。見間違うはずのない、弟の姿が。
     所属はしていないことになっているが、大学の陸上競技部のジャージを着ている。隣で話しているのは後輩らしい。同じジャージが並んでいるのを見ると、膝丸が無所属なんて気付かない人ばかりだろう。
     今回この記録会に参加するのを監督に話にいったのは聞いていた。後輩もああやって話していてくれるのだから、無下にはされなかったのだろう。……それに気付けて、ほっとしている自分がいる。
    「今回は出番、早いのかい?」
    「うん。ブランクがあるからね」
     一期がきょとんとしている。それに気付いて鶴丸が説明した。
    「第一組、第二組って感じで走る組が分けられてるだろ。こういう記録会になると、近いタイムのを固めるんだとさ。速い奴ほど後ろの方の組になる……今回は膝丸は早い組らしいが」
     鶴丸が視線を寄越してくるのに頷く。一期は感心したように頷いていた。
    「しかし、報道陣も多いがスカウトもいるんじゃないか?」
    「スカウト?」
    「実業団さ」
    「ああ、なるほど」
     鶴丸は持参していたペットボトルを開けながら、髭切の方を向いた。
    「きみもようやく安心なんじゃないか? 復帰戦だし、高校生のときからの有力選手だ、スカウトだって膝丸を気にしてるだろう」
     髭切は返事をしなかった。ただ笑って鶴丸を見ている。
     ペットボトルの茶を飲み、蓋を閉め、それでも髭切が何も言わないのを見ると、鶴丸は長年の付き合いと生来の聡さで笑いを引っ込めた。
    「……おい、もしかして」
    「うん」
     髭切は頷いた。一五〇〇メートル走のためのスタートラインには一組目が出ている。――位置について、用意。
     スターターピストルの音が響いた。
    「弟はね、この記録会で選手は引退するんだ」
     わっと周囲から声が上がる。参加しているのは大体が大学生だ。同じ大学の、同じ競技部で練習をともにしてきた若者が選手に声援を送る。今、競技場は応援の声に満ちていた。
     ――ずっと迷っていたのだろう。それは知っていた。
     だから、報告を受けたとき、とうとう、という気持ちだった。同時に、どうして、とも思った。
     しかし髭切にそれを告げる膝丸は穏やかで、緊張しているようでもなくて、もう決心してしまったのが分かった。だから、髭切も「そう」とだけ応えた。
     弟の潔さは、時々髭切を置いていく。
    「怪我は、治ったんじゃないのか」
     鶴丸はどこか不安げにも見える顔で髭切を見ている。それに髭切は頷いた。
    「治ったよ。手術も成功して、リハビリも頑張って、お医者さんにも確認して、練習で身体も戻して……でも」
     怪我が治るというのは、怪我をする前に戻れるということではなかった。
     故障の報せは電話越しに弟の口から聞いた。そのときは気丈に振る舞っていた。空元気だなというのは電話越しでも分かった。「泣いてはないぞ」とごまかしていた小さな頃からの癖だった。
     ……故障をしない選手なんていないのだ。どんなに強靭で、速く、高く、遠くへ行ける肉体を持っていても、健康な選手なんていない。
     それは何かの、ほんの少しのきっかけで、壊れてしまう。
     弟が脚に固定具を付けて帰ってきた日、髭切は、玄関で無言で靴を脱いでいる弟に何と声をかけるか少し迷った。迷って普段通りにしようとしたのだろう。
    「今日はご飯どうする? 寿司でも焼肉でもいいけど」
     今思えば、帰ってきた弟が自分に声もかけずにいるのは初めてのことで、それくらい向こうはいっぱいいっぱいだったのだ。普段通りじゃない状況で普段通りに声をかけても、以前と同じようになるわけじゃない。それを分かっていなかった。
     髭切の言葉にぴたりと動きを止め、振り返った弟は、削ぎ落としたように表情がなかった。そんな顔を見るのは初めてで、髭切も固まった。
     やがて膝丸はぎこちなく肩を揺らして笑い出した。
    「兄者は変わらんな」
     笑い声はやがて啜り泣きになった。小さな頃から弟を泣かせたことは何度もあったが、こういう泣き方は見たことがなかった。
     ……あのとき、自分がどう言ってやれたらあんなふうに泣かせずに済んだだろう。一年間ずっと考えてきたことだったが、考えるほど分からなくなった。
     それでも生活は続いた。リハビリのために病院まで弟を送るのに、時間の融通のいく仕事を選んでよかったと、かつての自分の選択に感謝した。以前よりずっと口数が少なくなって、車の中でもほとんと口をきかなかったけれど、そばを離れたくなかった。
     弟の脚についた器具が外れ、それでもまだぎこちない歩き方をしていた頃、冬のすっかり暗くなった帰り道で対向車のライトに照らされてちらちらと光るものが見えた。
    「……雪だな」
    「雪だねえ。今日はお鍋にしようか」
    「ああ」
     こんな簡単な会話が戻ってきたことに心底安堵していたことを、弟は気付いていただろうか。
     知らない弟の顔、姿、態度を見ることは、知らなかった自分のそれを見ることでもあった。この冬が、髭切にとっても経験した中で一番暗く、重かった。
     日の出ている時間が少しずつ長くなって、弟もゆっくりともう一度走り始めて、でも練習しようとすればするほど、違う恐怖が積み重なっていった。戻るのか、戻せるのか。――また、壊れないか。
     知るほど怖いものは増えた。周りは加速するように変わっていくのに自分の脚はぎこちないままで、苛立ち、焦り、悔しさは募った。
     もう前のように走れないのであれば、今まで走ってきたのは何だったのだろう――ずっとついて回る不安との付き合いが始まった。
     目の前のトラックでは第一組の先頭がラスト一周に差し掛かるところだった。激しく鐘が打ち鳴らされる。
     大学生男子の競技会での一五〇〇メートル走は、大抵の選手が四分足らずで走り切る。単純に計算すれば、一〇〇メートルを十六秒切るペースで、その十五倍を走るということだ。
     あそこにいるのは皆走る生き物だ。そしてその誰もが、やがては走るのをやめる。
    「……選手をやめることって、別に恥ずかしいことでも劣っていることでもないはずだよね」
     行先を変えるだけの話なのだ。誰もが同じ場所を目指さなければならないわけではない。だからこの一周四〇〇メートルのトラックを出て、走るのをやめて、食べたいものを食べて、そうやって好きに暮らしていいはずなのだ。
    「やめ時を自分で選べるのも、どちらかといえば幸運だって言われるみたいだし……」
    「でもきみ、」
     きみは大丈夫なのか。
     まるで自分が傷付いたかのような顔で、鶴丸が訊ねてきた。訊いたあとでまばたきを繰り返すと、「すまん」と小さな声で謝罪した。
     髭切は返事をする代わりに、すぐ近くに座っている鶴丸の肩を叩いた。
    「悪い、膝丸のことなんだから俺がこんなのになるのおかしいな」
    「ううん、ありがとう。短距離走以外のトラック競技ってあんまり注目してもらえないからね、鶴丸がわざわざ応援に来てくれるの結構喜んでたんだよ、あの子」
    「それを聞くと余計つらい……」
    「うーん、ごめんねえ」
     顔を覆ってしまった鶴丸の肩をさすると「ううう」と呻き声が聞こえた。
     走り終えた選手たちが出てきた。ほとんどが走ってきたレーンに一礼して、荒い呼吸を調えながらトラックを出ていく。
     次のスタート地点に、第二組が並び始めた。ずらりとゆるい弧を描くように並んだ選手たちの、真ん中あたりにいる。
    「弟、僕のことばかり言ってるようでいて、自分で考えて自分で決めて、そのあたりも判断が早いからねえ。僕いつも置いてかれている気がするよ」
    「――でも、弟ですから」
     それまで黙って聞いていた一期が口を開いた。
    「どうあっても、弟は弟ですから」
     穏やかな微笑みはどこか寂しげにも見えた。髭切はその表情だけで彼が何を伝えたいのか分かった気がして、頷いた。
    「そう、そうなんだ。僕の弟なんだよ」
     言いながらスタート地点を見る。位置について、用意。
     膝丸のラストレースが始まった。
    「……あれだけ走れてもか」
    「弟も頑固だし潔癖なところもあるからねえ」
     膝丸はひとり抜け出していた。重心はほとんど上下することなく、身体全体が推進力を生むためだけにあるような無駄のない動き。まるで流れるように軽やかに走っていく。
     ――お前が走るのを見ていると時が経つのを忘れる。
     何度も覚えた感慨を、髭切はもう一度思い出していた。
     小さなときから自分の後ろばかりついてきていたけど、いつの間にか走ってずっと遠くへ行けるようになってしまった。それなのに、ずっと相変わらず兄者兄者と慕ってくれるのは、かわいくて仕方がなかった。僕の弟。
     走ることを生活の中心に据えるようになってから、走るために生きているように暮らした。食事制限も、練習も、すべてそれをするのが当然というようにお前はこなした。――磨くというのは削ることだと、それを見ているとよく思った。鋭く、軽く、速くなるために、あらゆるものが削ぎ落とされていく。
     その努力がある意味裏切られるような形でお前の選手生命が終わろうとしているのは確かに悲しいけれど、お前はお前の決断を恥じる必要はない。お前もそれをよく分かっている。
     そうしてあの重苦しい冬にも、お前を遠くへ運んだ脚がただ重い枷になっていた時間にも、そして今走るのをやめようとすることにも、お前はやがて意味を与えるだろう。まるで名前でもつけるように。そうして、その選択を後悔しないと、もうとっくに決めてしまっているだろう。
     でも、お前はきっと傷付く。
     お前がどれだけ潔くあっても、周りはお前のその選択に好き勝手いう。敗者だとか、脱落だとか、ひとつの側面を見てお前のすべてを決めつけるような名前をつける。割り切れるはずのないお前の心を、むりやり切り分けるように。
     きっとお前はそれも涼しい顔をしてみせるだろう。かつて培って、失って、また取り戻したものを今日ここで終わりにしようと決めたときのように。これからも強く、しなやかに、進んでみせようとするだろう。
     だけど僕はお前が傷付かなければならなかったとは思わない。あのようにお前が苦しんで、泣いたことが、お前にとって必要で、しようがなくて、起こるべくして起こったことのように受け取るなんてできない。原因は問えても理由は問えないものばかりだと、十分、とっくに分かっていても。
     あの日、お前が走るのをやめるつもりだと僕に教えた日。
    「お前は、それでいいのかい?」
     未練がましく訊ねた僕に、お前は訊き返した。
    「兄者、俺は何者だと思う?」
     突然の問いかけだったけれど、分かりきったことだった。
    「僕の弟」
     精確に言うなら、僕の弟で、将来有望なランナーで、まだ二十三歳の若者で……いくらでも出てくる。でもお前は、僕の答えに満足そうに笑った。
    「そうであろう。だから、十分なのだ」
     ……自分が何者であるかを知るのは難しい。何者でありたいか、選んで、決めるのは。
     それをお前は選んだ。だったら僕はもう何も言わない。
     トラックでは膝丸が独走状態だった。鶴丸はいつの間にか立ち上がってひたすら膝丸の名前を叫んでいる。一期も倣っているようだ。
     遠くには膝丸の大学のジャージが固まって声援を送っているのも見えた。それを見ると、決して、今走りやめるとしても、走ってきたことはなくならないと思えた。
     あの一群れの美しい走り、あの中の誰もがやがて走るのをやめる。それでも、走るのをやめるために走ってきたわけじゃない。いずれは何もかもが死へと収束しても、死それのみではあらゆる物語は生まれず、語れないように。
     今、お前は勝つために走っている。勝つために走っている。祈りも憤りも置き去りに、純粋に、これから生きていくために走っている。順位や記録なんかじゃない、もっと恐ろしい底知れないものに追い立てられて、それでも、神の加護なんてないこの苦しい生を、勝てると証明してみせるために走っている。
     だから、お前が走るのを見ると時が経つのを忘れる。そこには僕がいくら書こうとしても追いつけないものがある。追いつけないと分かっていても、それでも、筆を走らせるのをやめられないもの。すべてを書き切ることはできないと何度打ちのめされても、書こうとすることをやめることはできない――名前もつかないまま消えていくすべての物語のために。
     神には向いていない。たとえ勝てないとしても負けないように、何度でも「それでも」と歌い上げ、祈りも憤りも綯い交ぜに、筆を執ろうとする愚行は、人間にしかできない。
     それに、僕は、神なんてものよりお前の兄でいたい。
     あらゆる名前にはとりこぼすものがあるけれど、ひとつ、僕は自分が、お前をただの「弟」にする唯一の存在であるということを、自分でもとても気に入っている。多分、お前が思うより、ずっと。
     
     最終周を報せる鐘が鳴らされた。このとき、髭切には、膝丸の目が勝利を捉えて光ったのが分かった。



    「ありゃ、どこへ行くんだい」
    「ん、起こしたか」
     下巻の格子戸から漏れる光は明るいけれど、まだ早朝だ。外から鳥たちの鳴く声が聞こえる。
     弟は座って靴を穿いていただけだ。髭切が目を覚ましたのはたまたまだった。
    「……走るのかい?」
    「うむ」
     これを見てくれ、と膝丸は靴箱の上に置いてあったチラシを取り出した。どれどれと髭切が覗き込む。
    「……商店街の企画の年間スケジュールだねえ」
    「ああ。俺が言いたいのは、ここだ」
     膝丸が指差した先にはマラソン大会とあった。小学生の部、中学生の部、高校生の部、大学生の部、そして一般の部。
    「……グランドスラムを達成するつもりかい?」
    「うむ! 満を持して出禁になってこよう」
     自信満々に言う単語ではないが、髭切は頷くだけにした。細かいことはいいのだ。大雑把にいこう。
     膝丸はまたチラシを靴箱に置き直すと、まじまじと兄を見つめた。
    「何だい? 顔に何か付いてる?」
    「いや、こうして兄者を見上げるのは久しぶりだなあと思ってな」
     そう言ってにっこり笑う。髭切もつられて笑った。
    「いやあ、僕の弟は身体も態度も物言いもずいんぶんと大きくなって……」
     そんなことを言いながら頭をわしわし撫でるついでにぐいぐい押してやると、膝丸は子どものように笑い声をあげた。
     やがて髭切が手を緩めると、膝丸はその手を取り、改めて兄の顔を覗き込んだ。
    「いつか言わねばと思っていたことがある」
    「おや、何かな」
     髭切と同じ色の目が澄んだ光をたたえていた。それに見入っていると、膝丸は目を逸らすことなく話し始めた。
    「兄者、ありがとう。俺を走らせてくれて」
     何の衒いも、照れもない、純粋な謝意だった。
     髭切は息を飲むと、言葉で応える代わりにもう一度膝丸の頭を撫で回した。膝丸はやはり笑うばかりで、抵抗しなかった。やがて小さな頃によくしたように、膝丸の額に自分の額をつけ、囁いた。
    「今日も好きなだけ走っておいで」
    「ああ。一時間ほどで戻る」
     そうしてまだ肌寒い春の朝の光の中を、走りにいってしまった。
     弟を見送った髭切は居間に来た。座卓には、スマホが置かれていた。起きて身支度をしてここまで持ってきたが、走りにいくだけなので置いていったのだろう。
     髭切は何気なく、その画面に触れた。時間を確かめたかったのだ。
     ディスプレイが明るくなる。そこには、髭切のスマホと同じ写真が設定されていて、髭切は時刻のことを忘れて微笑んだ。
     ほんの三日前、膝丸の大学の卒業式の日。かつて入学式でそうしたように、鶴丸が兄弟の写真を撮ってくれた。
     ふたりの家の玄関、いつも通りの顔で映る自分の隣、いつの間にか自分より少し背の高くなった弟が、新しい春の清々しさで、笑っている。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2023/07/23 15:55:09

    神には向いていない

    新人編集、粟田口一期は作家の許に原稿を受取りにきている。その作家・源髭切は熱狂的なファンには「神のごとき」とまで讃えられる天才作家だが――

    7/30閃華の刻44「俺の兄者」にて頒布予定の現パロ再録集『神には向いていない』に収録される現パロの膝髭です。
    小説家の兄と学生ランナーの弟、他にもキャラが諸々出ますが好き勝手書いています。
    「口を開く前と後に兄者バンザイと付けろ」と宣う膝丸と「僕は兄だから我慢できたけど弟なら我慢できなかったよ」と宣う髭切がいるので大丈夫そうな方はよろしくお願いします。

    入稿済みでミスを直せないので誤字脱字を見つけたらそっと胸にしまっておいてくださると私の心が助かります。
    よろしくお願いします。

    書店委託しています▷ https://www.melonbooks.co.jp/fromagee/detail/detail.php?product_id=2027880

    ##膝髭 #膝髭

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