神には向いていない
駅から歩いて三十分、大して不便でもないがすこぶる便利とも言い難い立地。そんな住宅地にその家はあった。
駅前の大通りを折れると細い路地が続いた。白壁か木、そういう違いはあったが、あたり一辺に塀と瓦屋根のある古風な家屋が建ち並んでいる。繁華街の喧騒とは無縁のようなその区域では、どの家もお屋敷というほど大きいものではないが小さいわけでもなく、それぞれが小綺麗に整っている。「なるほど、昔からある住宅地なのだな」と粟田口一期はひとり頷いた。
平日の真っ昼間から、どうしてこんな閑静な住宅街のお手本のような場所を歩いているかといえば、今日の仕事先がここにあるからだ。
時々スマホで地図を確認しながら進むから、自然と足は遅くなる。思えば、入社してすぐの社員を初めての仕事場にひとりで行かせるというのもずいぶんと酷い話だ。「原稿の受け取りだけお願いするよ、先方には連絡してあるから!」と青い顔で叫ぶように言った先輩に押し切られてのことだが、それにしたって他にやりようはなかったのだろうか。もっとも、本来ここに来る予定だった先輩は「ああ、まだ原稿チェックの途中なんだけどな!」と言いながら別の仕事に向かい、他に手が空いている者は一期以外いなかった。同じ部署に勤めているのだから理由は分かりきっている――〆切前だからだ。
一期の仕事はいわゆる編集者である。所属している部署は文芸作品を扱うところで、今は作家の家へと原稿を受け取りに向かっている。
それにしても、まさかこんなに早くひとりで作家に会うことになるとは……新卒で入社して以来、これまでの一期の仕事といえば細々とした雑務、そうして先輩編集者の補佐だった。仕事を覚えること自体が仕事の段階なのだ。先輩について作家との打ち合わせに同席させてもらったことはあっても、自分ひとりで作家とのやりとりを任されるなんてもちろん初めてである。
六月に入ったというのに一向に雨の降る気配のない暑さの中、汗を拭いながら目的地へ向かう。緊張で歩みが遅くなってしまっても、進んでいさえすれば辿り着く。古びた木製の塀から若い緑の枝葉がこぼれるその家の前で一期は足を止め、もう一度地図を確かめ、また顔を上げた。目当ての家はここである。
「源」とだけ書かれた表札の掛かった慎ましい門を潜れば玄関まで五歩、インターホンは格子戸の脇にあった。固いボタンを押し込めれば、また古風なブザーの音が家の内側で鳴るのが聞こえる。
住宅街に来てからはゆったりと足を進めてきたが、約束の時間で間違いない。いくら緊張しているからとはいえ、いや、緊張してしまうような相手だからこそ、遅刻なんてもってのほかだ。そもそも自分の性格的に許せない。
それにしたって、新人に初めてひとりで会わせる作家が彼なのはいかがなものだろう。数年前に彗星のごとく現れ、その年の文学賞を掻っ攫っていった俊才。文章のあまりの切れ味ゆえに鬼才とも呼ばれる、純文学界の若き逸物。熱狂的なファンの中には、その筆を「神のごとき」と讃える者までいる。
入ったばかりの出版社で先輩に仕事を教えてもらっている一期にとっては、現れた途端に次々と華々しい栄冠を手にしていった彼の存在はまさしく神か、はたまた天上人のごときであった。そして彼の書くものは、賞賛を受けるに値する出来なのだ。その賞賛の中にいささか狂気的な言葉が並ぶのはさておくとしても、評価されること自体は間違いない。
改めて意識するととぐっと喉の締まる心地がする。先輩がやりとりしているのを遠目に見ただけで、一期はほとんど話したことがない。
しかし彼も一期と歳はそこまで大きく変わらないはずだ。気難しいという話も聞かないし、やたらと身構えてしまうのもよくない……そんなことを考えながら繰り返していた深呼吸の数が八回目になったのに気付いたとき、一期はようやく疑問を覚えた。――出てくるのが遅すぎやしないか?
ほんの少し逡巡したが、古めかしい引戸の向こうに耳をすませてみる。何の音も聞こえない。気付かなかったのだろうか?
気難しいとは聞かなかった。しかし、やはり、一筋縄ではいかない人物なのだろうか……また呼吸がつっかえそうになるのを腹に力を入れて押し留めると、一期はもう一度、先ほどより長く玄関のブザーを鳴らした。ビーッともブーッともつかぬ耳障りな音が、扉の向こうで長く響く。
……出てくれなかったらどうしよう。居留守か、それとも出奔か……〆切前の作家の恐慌は先輩たちから聞いたことがあった。しかし大抵は最後に「まぁそんなに酷いのはそういないけど」と結ばれていたはずだ。まさか、この作家が「そういない酷いの」だったのだろうか。一期が知らなかっただけで。
顔を傾けて引戸に耳を寄せる。パタパタと足音らしきものは聞こえる。在宅ではあるようだ。
ほっとした一期の目にも、格子戸の磨りガラス越しに人影が見えるようになった。姿勢を正し、口許に微笑を意識したとき、その引戸はガラガラとなかなかの音を立てて開いた。
「やあやあ、すまないね。弟がいないのを忘れていたよ」
今日の一期の仕事相手である作家・源髭切は、そう言いながら頬を掻いた。すまないとは言っていたが、あまり申し訳ないとも思っていなさそうな笑顔である。無論、一期も怒っているわけではないのでいいのだが。
身長は一期と同じくらい、柔和な顔付きがどこかおっとりした雰囲気を漂わせる髭切はすっと脇に避けると一期を招き入れた。またガラガラと音を立て戸を閉めると、大の男ふたりが並ぶには手狭にも感じる上り框につっかけサンダルを脱ぎ捨て、奥へと歩いていく。着心地のよさそうなオフホワイトのチノパンに白いシャツ、その上にある淡い色の髪は、後頭部の一房があらぬ方向にはねている。
……寝ていたな。
一期の心の声に呼応したのか、髭切はくあ、と後ろ姿からでも分かるような大きなあくびをした。
茶色い木がつやつやと光る階段を上がり、髭切は振り向きもせずに進んでいく。一期も一言も発せずにそのうしろについていった。
豪邸というほどではないが品のいい日本家屋の二階、その突き当たりが彼の仕事部屋らしい。髭切は書斎の主らしくスッと部屋に入っていったが、一期はなんとなくそこへ足を踏み入れるのは躊躇われて入口の敷居を跨ぐ前に、腰を折って部屋の中を覗き込んだ。
覗き込んで、開いた口が塞がらなくなった。
六畳ほどの部屋は壁一面が本棚でそのほとんどすべてが背表紙で埋まっており、床は所狭しと本、本、本、積み上げられたそれらの上に封筒や書類が重なっている。すぐそばにある本の塔を見ると、頂上に打ち捨てられた書類は別の本のコピーのようで、乱雑にメモ書きが走っていた。小説の資料らしい。
「えーっとぉ……」
髭切はその隅に埋もれるようにして置かれている机の前で頭を掻いていた。アンティークのような趣のある深い色をしたライティングビューロー、その上にも色とりどりの封筒に紙、本が乱雑に積まれている。きっと天板は蓋としての役目は長いこと果たしていないに違いない。
「……まるで、D坂の明智小五郎のようですな」
ぽろりと口をついて出てしまったのは、この書斎を目にしたときにわずかに感じた既視感だった。日本三大探偵のひとりの、代表作のひとつに出てくる下宿の部屋。大量の本が所狭しと積まれていると描写されていたあれは、まさにこの部屋のようではないか。
一期の言葉に髭切は、ビューローよりはいくらか明るい飴色の目を丸くした。その子どものような表情を目にして一期も思わず口を押さえた。軽口を叩いてしまった。なんてことだ。
さっと顔を白くした一期に対して、髭切はこれまた子どものようにけらけらと笑った。
「ああ、言われてみるとそうだ。怪人二十面相や黒蜥蜴に出てくる完璧な紳士みたいなイメージが強かったけれど、確かに初期の頃はもっと垢抜けない感じだったよね。そうだそうだ、確かにこんな部屋って書かれていた……」
言いながら髭切はビューローの棚部分から白い封筒を取り出した。結構な厚みがある。
「はい。君が取りにきた原稿は、多分これだ」
「あ、ありがとうございます!」
思わず大きな声で礼を言った一期に髭切は首を傾げた。封筒入りの原稿を抱えて出版社へ向かう編集者……かつてにはあったという光景だ。しかし、手書きにこだわる大家ならいざ知らず、パソコンとインターネットのある現代において紙の原稿でやりとりする作家はそういない。少なくとも、一期は先輩からそんな話は聞いたことがなかった。
しかし彼は神の如きとも謳われる俊才である。そういうこだわりを持っていてもおかしくはあるまい。ここにやって来るまでの道中に先輩の「原稿だけお願い」との言葉の意味をやっと理解して、一期の足は重くなった。そしてこれから、この原稿を持って帰らなければならないのだ。しかもこんなに厚みのあるものを……いや、量の問題ではないのだが。
源髭切は手書き原稿の作家である……なぜ先輩はこんな大事なことを教えてくれなかったのだろう、いや、原稿を受け取ってきてくれと言われたときに、どうして自分は確認しておかなかったのか……〆切前の、台風が常駐しているかのような部署の様子が頭の中を巡っていく。人間は忙しさにかまけるとき、言葉が足りなくなりがちである。
封筒を受け取りはしたものの固まってしまった一期を髭切はじっと見つめていたが、思い出したように「ああ」と手を打った。
「いや、ね、原稿自体はいつもデータで出しているんだよ。けど今回は、直前にパソコンが壊れちゃってねえ」
「ええっ!?」
髭切の話は、駆け出し編集者の一期にとっても寒気がするものだった。
〆切は間近、原稿は佳境、そこで突然沈黙した愛機。もちろんデータは御陀仏、髭切はしばし天井を仰ぎ、様子を見にきた弟は事情を聞くと青い顔で自分のパソコンを使うことを提案してくれたという。しかし髭切の手はそれまで長く付き合ってきた愛機のキーボードに慣れきっている。キーの配置やストローク、打鍵感の違いは些細なことではあるだろうが、その些細なことが集中力を削ぎ判断を迷わせ、言葉を鈍らせるのだ。この〆切の直前に。
放心していた髭切は弟の困り顔を見て腹を決めた。
――書くしかない。文字通り、自分の手で。
「あのときはそうするしかないって思ったんだけど、実際は手で書くより弟のパソコンを借りた方が速かったのかもしれないねえ……」
少し遠い目をして、髭切は右手をぶらぶらと揺らした。それを見て、一期は髭切の後ろ髪がはねていた理由に納得した。
弟から編集部に連絡が入ったのは、髭切が右手を酷使し始めたときだったのだろう。一期もここに原稿を受け取りにいくことを命じられたとき、その連絡の内容だけは先輩から聞いた。曰く、ものすごい勢いで書き始めたからできあがるとは思う、しかし、〆切を少し伸ばしてくれないか、と。
〆切は伸ばされた。ただし、本来の担当編集である先輩はこの時間に顔を出すことができず、そのため一期に突然仕事が回ってきたのである。
封筒の厚みに納得のいく説明を受けて、一期はそっと重い封筒を抱え直した。すると髭切は思い直したようににっこり笑う。
「そうだねえ、大体は居間でお茶でも飲みながら原稿の確認や話し合いをするんだけど、今日は弟もいないし……よし、外へ行こう」
「え?」
声をあげた一期の脇を髭切はすり抜けていく。小さな一軒家の廊下、進む先は分かりきっている。階段だ。
その階段を下り始める前に、髭切は振り返った。
「行きつけの喫茶店があるんだ。そこへ行こう。奢るよ」
君は新人さんだし、と言いながら、とたとた階段を下りていく作家の後頭部にはねた髪が揺れている。それが見えなくなってから、慌てて一期はその後を追った。
駅へ向かう途中のどこか懐かしい感じのする商店街にその店、喫茶杜ノ都はあった。
「いらっしゃい」
店内もチェーン店とは違う、どこかレトロな佇まいだ。入口すぐのカウンターから、美丈夫としか形容しようのない男が髭切と一期の来店を迎えてくれた。パリッとした白いシャツに黒いエプロンがよく似合っている。片方の目を隠すように整えられた黒髪の下で、一期に向けて金色に光るもう片方の目が優しく細められた。
「なんだ、膝丸はどうした」
その向かいには全身白い男が座っていた。リラックスした様子でカウンターテーブルに肘を置き、頬杖をついている。見覚えのある男だった。
「鶴丸殿」
「お、一期じゃないか。なんだ、髭切のところへはきみが来たのか?」
鶴丸国永。この男もまた小説家である。重厚な筆致と練りに練られた展開、その厳かな作風からは想像できない優美で繊細そうな容姿、またその外見に似つかわしくない豪快な発言でデビュー作以来ファンを増やし続けている作家だ。そういえば、一期の先輩は髭切と鶴丸、両方を担当していたのだった。
「おや、じゃあ君のところには石切丸が?」
「ああ、予定通りな。きみ、大変だったらしいな」
にやっと笑ってからかうように言う鶴丸を髭切は「まあね」と軽く受け流し、その隣に座った。そうして突っ立ったままの一期を振り返り、席につくよう手で促す。その柔和な笑みの向こうから鶴丸の小さな顔が覗いた。
「きみ、知ってるか。こいつも鬼丸の知り合いだぞ」
「えっ」
「ありゃ、一期くんも彼の知り合いなのかい?」
「知り合いも何も、一期はあいつの従弟だ」
幼い頃からずっと世話になっている、一見近寄りがたい雰囲気の従兄の姿が脳裏に浮かぶ。一期が鶴丸と顔見知りなのもその従兄を介して知り合ったからだ。従兄と鶴丸は大学が同じだったのだ。
「そうなんだ。あまり似てないね」
「そりゃ従兄弟ならそっくりとはいかんだろう。きみのとこみたいに兄弟じゃないんだし」
「それもそうか」
「あの……」
髭切に促された通り、彼の隣に座りながら一期は恐る恐る声をあげた。鶴丸と髭切がそろって首を傾げる。
「おふたりは、お知り合いで……?」
一期の質問にふたりは顔を見合わせ、また一期を見ると微笑んで互いを指差した。
「高校からの腐れ縁」
「は、はあ……」
「きみの従兄とは大学からだな」
「まさか大学まで一緒になるとは思わなかったよねえ」
「しかも同業者になるなんてな」
ふたりはわははと声をあげて笑った。ぽかんとしていた一期の前に、お冷とおしぼりが差し出される。整いすぎているくらいの美丈夫が、人間味のある苦笑いを浮かべていた。
「ふたりとも常連なんだけど、揃うといつもこんな感じなんだ」
「時々鶯丸もいるんだけどなぁ」
「彼、今日はいないの?」
「うん、もっと早くにお昼ごはんを食べに来たんだけどね、原稿を進めるってすぐ帰っちゃったんだ」
さらっと出てきた鶯丸も一期にとっては知っている名だった。鶯丸友成、近年のミステリ雑誌で見かけない日はない勢いの推理作家。浮世離れした雰囲気に端正な顔立ちの持ち主……そして彼の作品への書評には、褒め言葉として「頭おかしい」が並ぶ。その彼も、一度だけ鶴丸と連れ立って従兄の許を訪ねてきたことがある。何やら大学の授業に関してだと、当時聞いた。
「鶯丸も高校から同じだってのは言ってたか?」
鶴丸が髭切の向こうから訊ねてくる。一期が曖昧に頷くと、マスターが話の続きを引き取った。
「そしてその鶯丸さんは僕の親戚でね。いつもお店を贔屓してくれているうちに、こうして常連客が作家だらけになっちゃったんだ」
「それも高校の同級生だからすごい確率だよな」
「まあでも趣味や好きなものが似てると友人になりやすいんだろうし、あり得ない話でもないんじゃない?」
お冷のコップを空にして髭切が笑う。後頭部の寝癖はいつの間にか落ち着いて分からなくなっていた。
「あ、そうだ、三人ともお昼はまだかな? どうする? 今日の隠しメニューことまかないはカレーうどんなんだけど」
「お、もしや伽羅坊のかい?」
鶴丸の言葉にカウンターの奥のキッチンから「そうだ」と低い声が返ってきた。もうひとり従業員がいたらしい。
「光坊のももちろんうまいんだが、伽羅坊のは滅多にお目にかかれないからな……俺はカレーうどんにしてくれ」
「僕ナポリタンがいいな」
おふたりともそんな白い服で……なんて思っていたところ、一期も声をかけられた。
「君はどうする?」
マスターにメニューを差し出されていたが、一期はそこに書かれている文字をうまく読み取れなかった。ここに来てから情報量が多すぎる。
「……では私もナポリタンで」
「オーケー」
固い表情の一期にもマスターはにっこり笑った。まるで安心させるためにそうしているようにも見えた。
そんなに時間を置かず、昔懐かしいといった風情のナポリタンが出てきて一期は目を丸くした。具沢山で、見た瞬間食欲が湧くのが分かった。緊張していて自分の空腹に気付かなかったようだ。
隣では同じくナポリタンを前に笑顔の髭切と、カレーうどんを口に含む鶴丸がいる。カウンターを挟んでマスターはそれをにこにこと見ていた。奥から出てきた従業員は黙々と作業をしている。
「そういえば君、鬼丸の従弟って言ってたけど、今いくつなんだい?」
一期の皿に比べて随分早いペースで髭切の皿の上は減っていた。特別急いでいるようでもなければ食い散らかすなんて様子もない。一期が心配していたように、白い服のどこにもケチャップは飛んでいなかった。
「春に大学を卒業したんだろ?」
一期が返答する前に鶴丸が答えたため、一期は「そうです」と頷くだけでよかった。鶴丸の額にはうっすら汗が浮いている。まかないメニューのカレーうどんは結構辛いらしい。
「あれ、じゃあ弟と同い年だね」
「おや、そうなのですか」
「うん。ま、弟はまだ学生だけどね」
頷いていると今度はマスターが水のおかわりを注ぎながら一期に微笑んだ。
「髭切さんの弟くん、陸上競技をやっていてね。すごいんだよ。将来有望な選手なんだ」
おお、と声をあげてしまったのは別に調子を合わせたわけではない。一期も身体を動かすことは嫌いではないし、体力にも自信がある方だ。だからこそ、何であれ競技の場に立っていることのすごさはよく分かる。
「確かに弟はいい選手だけど、まあそういうのは人それぞれだよね。君だってすごいじゃない、ほら、のど自慢で出禁になったっていう」
「通称殿堂入りな」
「通称じゃなくてそっちが正式名称だよ」
汗を拭いながら鶴丸が一期にカウンターの向こうの壁を指差してみせた。額に入った一枚の賞状があり、「本丸商店街主催カラオケ大会最優秀賞 燭台切光忠」と書かれている。
「その場にいた客を全員号泣させたって伝説になってるんだ」
「鶴さん、その話はもういいから」
「ここの商店街、すぐ何か開催するよねえ」
のほほんと続けた髭切の前の皿はいつの間にか空になっていた。
「そうだなぁ、祭好きというかなんというか……そういえば未だに商店街のマラソン大会の記録、年代別に全部膝丸だろ?」
「一般の部以外はね」
膝丸、というのは前にも出てきた名前だ。髭切の弟だろう。一般の部は、おそらくまだ学生だからエントリーできないのだ。
髭切に遅れて皿を空け、口許をナプキンで拭っているとコーヒーが差し出された。「初めましてだし、サービス」と燭台切は囁き、礼を言う一期に微笑むと空の皿を引き上げていった。
「膝丸もきみと知り合いになって以来の付き合いだが、ずっと変わらないなぁ。走るのがべらぼうに速くて、いつもきみのことを兄者兄者と追いかけて」
「いやあ、もう追いかけてはこないよ。すぐに追いつかれるし」
「そういう意味じゃないんだがな〜」
「それに、僕は置いていかれる方だと思うけどなあ」
「どこがだ、今帰ってきてるじゃないか」
そこで鶴丸は聞くに徹している一期を見た。
「きみ、初めて酒を飲んだときの記憶はあるか?」
「はい?」
突然の質問に声が裏返った。話の追えない一期をよそに、鶴丸はすらすらと続ける。
「こいつの弟の膝丸という奴はとにかくこの髭切のことが大好きでな、高校生のときの俺がこいつの家に遊びにいったときなんてぴったり髭切にくっついて離れないんだ。でも俺たちが高校生のときなんてあっちはまだ小学生だから、まぁそういうこともあるか、くらいの気持ちだったんだが、そのうち向こうも高校生になって陸上競技の雑誌に取り上げられたりするようになってな」
「今は少しましになったけど、雑誌によっては選手に好き勝手あだ名つけたりしてたなあ」
「ああいうのは大体うまいこと言ってるつもりなのが透けてて見てられんよな……それでだ、期待の新星やら蛇みたいに粘り強い走りやら書かれていた膝丸もやがて大学に入った」
「蛇のやつ、言ったら弟怒るよ」
「おっと気をつけるぜ。そうこうするうちに、いつの間にかあいつも二十歳になったっていうじゃないか。だから盆休みに帰ってきたときに、歳上としては酒の怖さをよくよく教えておきたかったから、俺は酒をたんまり持ってこいつの家に遊びにいったんだ」
「自分が飲みたかっただけだよね、あれ」
「お前もかなり飲んでただろ。それで、さすがに昔みたいにはぴったり張りついてはいないし、いやぁ弟の兄離れかねぇなんてしんみりしてたら、あいつ、ちょっと目を離した隙に何本も空けてたんだ。酒を飲ませたのは俺だが、いや飲ませたからこそさすがにその辺にしとけって言おうとしたら、いきなり俺の襟首を掴んで、憎々しげに俺をぐっとにらみつけてくる。なんだなんだやっぱり愛しの兄と俺が仲よくしているのが気に入らないのか、しかしこれどういう状況だ、と思っていると、酒くさい息を吐きながら低い声でこう言ったんだ――口を開く前と後に兄者万歳と付けろ!」
「全然似てない」
「似てないね」
一緒に聞いていた燭台切も髭切に同意した。鶴丸は「そんなことないよなぁ伽羅坊!」と従業員に助けを求めたが、返ってきたのは「似ていない」というにべもない応えだった。
ちぇ、と唇を尖らせた鶴丸は思い出したように一期に向き直った。
「どだい口を開く前と後になんて無理だろ。俺が何か言おうと思えば酒で座った目がどんどん険しくなるし、こいつはそれ見てケラケラ笑っているし、散々だったぜ」
「ひとの弟にちょっかいかけようとするからだよ」
「ま、兄が絡むと面倒だが、あれだけ兄を慕っているってのは、考えようによってはかなりかわいい奴でもある」
「ちょっと、僕の弟をそんな目で見ないで」
「バカ言うな、きみじゃあるまいし」
一期は既に話を真剣に聞くのは諦めていた。おそらくこのふたりは放っておいてもずっとこの調子なのだろう。少なくとも、一期の知る鶴丸はそうだ。
「とてもおいしいコーヒーですな」とマスターに声をかけると、彼も「それはよかった」と微笑んだ。鶴丸と髭切の気の置けない会話はまだ続いていく。
「高校のときだって強豪校から声かかってたんだろ? なのに髭切と離れたくなくて家から通えるとこに行ったんだし、大したもんだな、ほんと」
「大学はさすがに寮に入ることになって入学式のときすごかったけどね」
「あーあったな、あのときの写真、まだロック画面にしてるのか?」
「君が勝手に設定したんじゃないか」
鶴丸は「そういやそうだった」と笑うと、燭台切に水のおかわりを頼んだ。
「寮入ってもうずっとそのままかと思ったが、まさか帰ってくるとはなぁ。まぁちょっとぐらい、いいだろ」
「好き勝手言うね、弟が出ていくときはあれだけからかい倒したのに」
「いや〜きみと違って反応が素直だからな、からかいがいがあってつい……しかし、実業団にでも入ったらやっぱり寮だろ。またすぐ出てっちまうかな」
「ま、弟は弟だから」
何でもないことのように髭切が応じた、この一言がどういうわけか一期の胸にすとんと落ち着いた。いや、どういうわけかというのは分かっている。
「分かります」
うっかり同意の言葉を漏らしてしまった。髭切はそれまで黙っていた一期が口を開いたことに目を丸くしているようだったが、その向こうで鶴丸は我が意を得たりという顔で笑っていた。
「きみも弟いるもんなぁ、たくさん」
「ありゃ、そうなんだ」
「ええ。弟は弟……よく分かります」
話しながらつい笑みが浮かんできたのは、会話のためというよりは弟たちを思い出してしまったからだった。いろんな気持ちの入り混じった笑いは同じ兄にはよく伝わったのか、髭切もそれまでとはどこか違う色を浮かべて目を細めた。
「そう、そうなんだよね」
「はい。まぁ自分も、もう兄でない自分など考えられませんから」
「うん。……僕も弟がいないと小説は書けないだろうし」
髭切が低い声で付け加えた言葉に一期が「おや」と思う間に、鶴丸が「だろうな」と当然のように受け流してしまった。そして髭切の発言をそれ以上広げるようなことはなく、厨房に向かって「伽羅坊、ウインナーコーヒーくれ」と声をかけた。厨房からは「光忠に言え」と少し強い語調で返事があった。
「そういえば今日、膝丸くんはいないの? 最近ここに来るときはいつも一緒だったじゃないか」
そのマスターはコーヒー豆を新しく挽きながら髭切に訊ねた。髭切は「僕も一杯ほしいな」と笑ってから続ける。
「ちょっと離れた公園に走りにいったんだ。アスファルトじゃなくて土だから」
「へえ、確かに土の方が負担が少ないって聞いたことあるよ」
「うん、そういうこと」
「いつ頃帰ってくるんだ? 帰ってきてきみがいなかったらパニック起こすんじゃないのか、あいつ」
「いやいや、まさか……何か困るならすぐ連絡くるだろうし」
言いながら髭切はポケットからスマホを取り出した。親指で軽く触れると、画面がパッと明るくなる。楽しそうに笑う髭切と、彼によく似た青年がにらみつけるような顔で並んでいる。あの家の玄関だ、と隣の席からロック画面が目に入った一期にも分かった。
そして、画面の下部には大量のポップアップが連なっている。着信履歴だった。
「……パニック起こしてるんじゃないか?」
「あっるぇ?」
髭切は画面を二、三度タップし、画面が切替わらないことに「むむ」と唸った。
「これ弟のだ」
「は?」
鶴丸が素っ頓狂な声をあげる。一期も声は出さなかったが、気持ちは鶴丸と同じだった。いくら一緒に暮らす兄弟とはいえ、スマホを間違えるだろうか。
「居間に置いてあったのを適当に掴んできちゃったんだけど、確かに僕のは寝室に置きっぱなしだったような……」
髭切は少し顎を上げて思い出す素振りをした。だからって間違えるものだろうか。
「待て、膝丸はちょっと遠い公園に行ったんだろ」
鶴丸が呆れた様子で訊ねる。髭切は「うん」と素直に頷いた。
「なんであいつ自分のスマホを家に置いていくんだ」
「だって走りにいくんだよ。邪魔じゃないか」
「いや邪魔って、携帯電話を携帯しないでどうする」
「邪魔だよ。こういう重さでも煩わしいんだ」
時計はさすがに慣れたみたいだけど、と髭切は自分の何もつけていない左手首をつついた。鶴丸は口を開いて、すぐ何も言えないと悟ったのか、椅子の背もたれに身体を預け天井を仰いだ。
「あいつ、きっと焦ってるぞ〜」
「そうだねえ、電話しよっか」
「いや電話ったってそれ膝丸の……」
自分のスマホを貸してやるつもりだったのだろう、自分の上着のポケットを探りながらそう言いかけた鶴丸は、髭切が改まったようにスマホを少し離して持つのを見てぴたりと動きを止めた。
髭切はスマホを顔の前に構え、ぐっと眉根を寄せた険しい表情で顎を引いて画面をにらみつけた。ちょうど、その手の中のロック画面で彼の弟がそうしていたように。
「――あ、開いた」
「嘘だろ……」
そんなんでいいのか顔認証、と慄きながら鶴丸は髭切の肩に腕を乗せて、一緒に画面を覗き込んだ。そして通話アイコンの隅に表示された数字に「うわ」と顔をしかめた。一期はといえば、「なぜ弟は兄のスマホから電話をかけられたのか」に疑問を覚え、その解を既に眼前にしている気がして「皆まで言うな」という気持ちになり、何か言う代わりに残りのコーヒーを煽った。自分の弟たちにもできそうなのがいる。
「うーん、こんなにかけてくるなら一大事かもしれないね」
「きみが絡むといつも膝丸には一大事じゃないか?」
「いやいや、あれで結構兄の扱いが雑なところもあるんだよ」
「そうかぁ? って、あれ、十分くらい前からぱったりやめてるんだな」
通話履歴を目に鶴丸がそう呟いたときだった。
喫茶店の重い扉が勢いよく開かれた。可憐なドアベルがカラカラと忙しない鳴り方をした。
「兄者! 兄者はおらんか!!」
よく響く声でそう言いながら店内に飛び込んできたのは、髭切そっくりの青年だった。
「いるよ〜」
髭切が手を振る。それを目にした膝丸は一瞬泣きそうな顔をしたと思うと、大股で兄の許へ歩み寄った。手に大きな茶封筒を持っている。
「兄者、朝あんなに言ったではないか! 今日の原稿は茶色い封筒! 白い方は明日の綱鬼切の方だ!」
綱鬼切――洒落のような名前は、最近はやりの児童小説の作者のはずだ。ちょっと怖くて時々切ない、概ね痛快な化け物退治譚……その作者の名が、今聞こえた。
「ありゃ、間違えてしまったかい?」
「そうだ、ほら」
溜息混じりに茶封筒から紙の束が出される。一番上は表紙代わりなのだろう、大きく書かれたタイトルの横に、源髭切と書かれていた。
弾かれたように一期はカバンにしまってあった白い封筒を取り出し、その中身を改めた。同じ字で大きく「蜘蛛退治のこと」と書かれたタイトル、そしてその横にこれもまた同じように綱鬼切と書かれている。
さあ、と血の気が引いた。なぜ自分は受け取ったときに確認しなかったのだろう。
「ギリギリセーフってやつだ、よかったな」
いつの間にかそばに来ていた鶴丸が労うように一期の肩を叩き、そのまま隣に座った。髭切が弟に「彼が今日の編集さん」と説明すると、その弟は大きく息を吐いた。安堵の溜息らしかった。
「俺は石切丸殿の許まで走らねばならんかと思ったぞ……」
「やあやあ、すまなかったね。一期くんも」
髭切は一期の手から白い封筒を抜き取ると、代わりに茶色い方を持たせた。心なしか先ほどまで持っていたものより重い。
「さっき弟がいないと小説が書けないって言ってただろ」
マスターからウインナーコーヒーを受け取りながら鶴丸が一期に語りかける。その顔にはどこか苦い笑いが浮かんでいる。
「いわゆる純文学は源髭切、妖怪退治は綱鬼切、そういう痛快さのないタイプの幻想小説には獅子乃子太郎だったか? ドロドロの人間関係を書いてたやつもあったよな……」
「友切なかご、だな」
髭切の向こう、最初に鶴丸が座っていた席には膝丸がついていた。その弟に頷きながら、髭切は微笑んでいる。
「そう、それだ。あとは俺も知らないような単発で終わったのとか、小さなコラムとか……とにかく、こいつはやたらとたくさんの筆名を持っているんだ。そのくせ自分でもすぐ忘れる。こいつの名前を全部把握しているのは、ここまで原稿を持って走ってきてくれた兄思いの弟だけなのさ」
「当然だ」
膝丸はふふんと得意げな顔をした。同い年だという青年の、どこか幼さも思わせるその表情を見てから、一期は改めて立ち上がると頭を下げた。
「本当に申し訳ありません、私が確認しなかったばかりに」
「ああ、いや……」
とても顔を上げられる気分ではなかったがしばらくそのままでいると、鶴丸に背中を軽く叩かれた。「そのあたりにしておけ」ということだろう。一期はそろそろと折り曲げていた腰を戻すと、なぜか膝丸も立ち上がっていて、髭切は猫のように目を丸くしながら編集者と弟の顔を交互に見ていた。
「間に合ってよかった。そちらも、そんなに気にしないでくれ」
「そうそう、間違えたのは僕だしね」
「兄者、分かっているならもっと気をつけてくれ」
「はいはい。まあふたりとも、座りなよ」
促されて膝丸も一期も再び席についた。一期がカウンターに肘をつき溜息をつくと、隣で鶴丸の笑う気配がした。
「俺もさっきのはセーフだったから今回は不問でいいと思うが、それはそれとして、きみは多分そろそろ会社に戻った方がいいぞ」
「え? ああ、そうですな、つい長居してしまって……」
「いや、別に時間の都合がつくならどれだけでもいてくれていいんだ。今日は髭切の奢りだろう、今度来るときは俺が奢ろう。そうじゃなくて、その原稿……手書きなんだろ?」
鶴丸の骨張った長い指が一期の抱えている茶封筒を指差す。受け取ったとき「心なしか重い」なんて思ったが、おそらく気のせいではない。白封筒より厚く、重い。
「髭切は悪筆ってわけじゃないが、雑誌に載せるには当然、活字にしないといけないだろう。〆切前で阿鼻叫喚、先輩たちも自分の仕事で手いっぱいの中で、そういう作業をやらなきゃいけないのは、一体誰だろうな?」
いたずらっぽい声はからかうような調子を含んでいたが、微笑にはどこか憐れむような色もあった。まっすぐ一期を捉える金色の目は動かない。問いの形ではあるが、答えなんて分かりきっている。
「――失礼します!」
「おお、頑張れよ」
勢いよく立ち上がった一期の後ろから椅子を避けながら、鶴丸が笑う。「頑張ってね」と軽く拳を握ってみせたマスターや、手を振る髭切、その奥で控えめに一礼した膝丸にもう一度頭を下げて、一期はほぼ走るようにして杜ノ都をあとにした。
「彼、お前と同い年なんだって」
「そうなのか?」
カラカラとドアベルが鳴り、やがてその音も止まった。髭切の言葉に、膝丸は一期が出ていったばかりの扉を見た。
「膝丸くん、お昼はもう食べた?」
それもすぐ燭台切に声をかけられてカウンターに向き直る。いつ見ても整った美丈夫が人の好い笑みを浮かべていた。
「今日のまかないメニューは伽羅ちゃんのカレーうどんなんだけど、どうかな? もちろん他のがよかったら用意するよ」
「ああ、この匂いはうどんだったのか」
膝丸は少し思案するように口許に指を当てたが、すぐに「ではそのカレーうどんを」と頷いた。
「麺の量に要望はあるかい?」
「いや、普通で大丈夫だ。夜で調節できる」
「オーケー」と燭台切が頷いたとき、大倶利伽羅が先に鉢を運んできた。サラダだった。
「伽羅坊、俺のときはなかったよな? それ」
「さあな」
「おい、そういうのはよくないぞ!」
「鶴さん、ウインナーコーヒーおかわりする?」
「する!」
カウンターを挟んだやりとりに髭切はにこにこと笑い、膝丸もサラダを食べながらしようがないものを目にしたような顔をした。そのうちに、湯気の立つ丼が運ばれてきた。
「ありがとう」
膝丸の礼に目だけで応じ、大倶利伽羅はまた厨房へと引き上げていった。
「僕もデザートお願いしようかな」
何にしようかなあとメニューを物色する髭切を、うどんを口に含んだ膝丸が横目で窺う。何か言いたげな顔をしているが、うどんのコシの強さでまだ口を開けないようだ。
やがて麺を飲み込んだ膝丸が低い声を出した。
「兄者、徹夜していたときにずっと菓子を摘んでいなかったか?」
「仕事をしてると糖分がほしくなるよねえ」
「それにしても食べすぎではないか」
「まあまあ、もう過ぎたことだし。ほら、お前もうどんを食べなよ。僕もプリン食べるし、ゆっくりでいいよ」
言いながら燭台切にメニューを指差す。燭台切は少し困ったように笑って頷いた。膝丸は呆れた顔をしたが、溜息をつくと箸を持ち直した。
「ゆっくり食べろとは言うがな、兄者、パソコンを買いにいかねばならんだろう」
「おお、そうだった」
すぐに出てきたプリンをスプーンで掬って、髭切は今思い出したような顔をする。
「さっき一期が走ってったのにな……」
鶴丸の呟きに膝丸がポケットからスマホを取り出した。髭切のものだ。そのまま兄に渡すと代わりに自分のスマホを受け取る。髭切は自分のスマホのロック画面を見た。弟のものと同じく、自宅の玄関先で撮った写真が映っている。
「――おお、一期くん、会社着いたって。原稿受取報告が来てた」
メール画面は普段世話になっている担当編集からのものだった。それを確認して、膝丸はしみじみ言った。
「万が一次があったら、今度は付箋を貼るなどしよう……」
「ないようにしないとねえ」
「前から言っていたが今後はパソコンのそばに飲み物を置くのを改めてくれ」
「あ、それ黙ってたのに」
「キーボードにこぼしたのか。やりそうだな」
鶴丸が笑う。髭切は「肘が当たっちゃったんだよねえ」と言い、膝丸はそれに「言い訳になっていないぞ、兄者」と呆れた声を出した。ちょうど丼からうどんがなくなった。
「先にこれを置いてから家電店に行こう」
「そうだね」
膝丸が白い封筒を示したのに髭切が頷く。プリンもきれいに片付けられていた。
「ごちそうさま。今日もおいしかった」
「ありがとう。そう言ってもらえると作ったかいがあるよ」
会計を済ませる兄の後ろから膝丸は厨房を覗き込んだ。
「大倶利伽羅、また大学でな」
厨房からは短く「ああ」とだけ返事があった。兄弟が店を去ってしまうと、ドアベルの可憐な音だけが短く店内に残った。
「……膝丸くん、元気そうでよかった」
「髭切もな」
燭台切の呟きに鶴丸もスプーンでコーヒーカップの中身をかき混ぜながら応じた。おかわりしたウインナーコーヒーはとっくにクリームが溶けて混ざっている。
ふと、鶴丸が短い笑い声をあげた。グラスを磨いていた燭台切は手を止め、視線で理由を訊ねる。
「前に久しぶりに鬼丸と会ってな。あいつ、学会に行った先で髭切の小説をべた褒めする奴にあったんだと」
「へえ、すごいね」
大学に残って研究に勤しむ知人の強面が渋面となった絵面を思い出して鶴丸は喉を鳴らすように笑った。専攻が髭切と同じだった鬼丸は学生時代、あのマイペースさによく振り回されていたのだ。
「神なんて言われて讃えられていたが俺の知っているあいつとの落差で頭が痛くなる、と言っていた」
「はは、落差だなんて、鬼丸さんも言うね」
〆切前にパソコンに飲み物をこぼして原稿をダメにする。どうにか書き上げた原稿は渡し間違える。今日のエピソードだけでもどれだけの人間が振り回されたか……そう思うと、確かに神にはほど遠い姿かもしれない。もし、優れたもの、あるいはそれを創り出す存在をそう呼ぶのなら。それとも、優れた技能の一方にある拙さも、かえって名声を盛り立てる逸話となるか。
文章によって世界を作り上げ、物語を推し進め、その中では破滅も栄光も思いのまま、端麗で歪な小説という営み。その渦中にある、筆そのもの。
確かに髭切は破格の筆なのだろう。さらにいえば、彼にはいくつも名のある筆が揃っている。
なんとなく、筆をたくさん並べて机に向かう髭切の姿を思い浮かべながら、鶴丸は冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
「神ねぇ……」
好き勝手言うよなぁ、とひとりごとのような呟きには燭台切は返事をせず、ただ微笑むだけだった。厨房から出てきた大倶利伽羅も無言のまま、テーブルの片付けを始めた。