たゆたう午后は琥珀色◆
ああ、ちょうどよかった、少しついていてやってくれないか。椅子から転げ落ちるといけないから。
彼の幼馴染がそんな言葉を残してせわしげに事務所を去っていったのは、かれこれ十数分ほど前になる。
壁掛け時計の秒針が音もなく淡々と回るさまを、たっぷり一周半ほど手持ち無沙汰に眺めてから、藤村伊織は隣の席で眠る男に目を戻した。
男はこのところ主宰としての外回りが続いており、今日もまた夕刻から外出の予定だったはずだ――と、団員の予定が各々書きこまれたホワイトボードを思い出す。
束の間の休息を、仮眠に充てるよう蒼星に勧められたといったところだろうか。いささか過保護と取れなくもないが、この男はそうとでも言わなければあれやこれやと仕事に手を付けてまったく休憩を取らないだろうから、さすがに扱いを心得ていると評するほかにない。実際こうして眠っているということは、少なからず休息が必要だったということだ。
男の寝顔を横目に映しつつ、伊織はぬるみはじめた緑茶をひとくち啜る。会議机に突っ伏して、相も変わらず男はいたく静かな寝息を立てていた。
なめらかだが男性のそれとわかる輪郭に、金色の髪がやわらかく掛かっている。体勢は授業中に居眠りをしている学生そのものだというのに、それすら存外さまになっているように見えるのだから不思議なものだ。この男のような人間を、舞台に立つために生まれてきた、と呼ぶに違いない。
――舞台に立つために生まれてきた、か。
ふと辿った思考を、声に出さず繰り返す。
ものは違えど演劇の世界で成功した男を父に持ち、物心つく前から舞台の空気にふれてきた。この男と自分とを取り巻いていた環境に、一体どれほどの違いがあっただろう。そしてどうして、これほど真逆の結果に至ったのだろう。
父を、父の作った舞台を語るこの男の表情を見るたびに胸裡の底を揺らすほんの少しのさざなみがどんな意味を含んでいるのか、伊織にはまだわからない。ただひとつ確信めいて感じるのは、きっとこの男は父から出来損ないと叱咤されたことなど一度もなかったということだ。
「…………ん……」
「ッ……」
とりとめなく流れる思考を遮るような小さな声に、どきりとする。反射的に居住まいを正してしまったが、男は喉を鳴らしてわずかに身じろいだだけで目を覚ます気配は見せなかった。自分に許されたものではない寝顔を眺めながら思索に耽ってしまったことが突然に後ろめたく感じられ、伊織は手元の緑茶をひといきに飲み干して思考回路に蓋をする。
「…………、まったく……」
身じろぎの拍子に流れ落ちてきた横髪が煩わしいのか、男は子どものように顔を顰めている。このまま目を覚まされては困ると髪を払ってやろうとしたところで、長い睫がふるりとふるえた。
午後の日差しを吸い込んだ、はしばみの双眸が淡い琥珀色に透きとおる。緩慢な目瞬きに合わせてちらちらと翳る瞳のいろのあざやかさに、迂闊にも目を奪われていた。
「…………ッ」
まどろみにけぶる両目が伊織を捉え、それから、なにも言わず伏せられる。なんだ、いおりか、などという声が聞こえたような気もしたが、寝言めいた呟きは伊織にはあまり届いていなかった。
断じて見惚れてなどいない。――見惚れてなど!
改めて許されてしまった空間で、こののち伊織は十分間近くをそんな煩悶とともに過ごすことになる。
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20160529Sun.