秘密の夏庭 図書館に行きたいな。
ある夏の休日の朝、そんな言葉に誘われて、藤村伊織は朝日奈響也の自宅をあとにした。行きつけの図書館は、男の自宅から少々車を走らせたところにあるらしい。いったい図書館になんの用がある。男の私車の助手席に乗り込みながらそう尋ねれば、「演目の資料になりそうな本が増えていないか見に行きたい」とこの男らしい明快な答えが返された。劇場の資料室や、男の自宅の書斎にも相当量の蔵書があるはずだが、ときおりこうして図書館へ足を向けるのだという。
「初めて行ったのは小学生のときだったかな。蒼星と一緒に、夏休みの調べ学習でさ。あちこち見て回ったのが面白くて、ひとりでもときどき行くようになったんだ。たぶんあいつもそうじゃないかな」
最近は忙しくてなかなか行けてないかもしれないけど、あいつは俺よりもっと本が好きだから。
道に慣れた様子でゆるくハンドルを切りながら、男はそう言って笑った。男の横顔を照らす、フロントガラス越しの陽光に目を細める。
出がけの男の言葉どおり、しばらくすると街路樹の緑や街並みの向こうにそれと思しき建物が見えてくる。夏空を切り抜くように佇むそれは、伊織が想像していたよりもいくらか大きな建物だった。
「暑いな」
「……ああ」
そばにある有料駐車場へ車を停めて一歩外へ踏み出した瞬間に、無遠慮な日差しと熱気を含んだ風に全身を包まれる。途端にじわりと額に汗が浮くのを感じ、思わずそんな詮のないやり取りを交わしてから歩き出した。
まだ遅い朝程度の時分だというのに、足元に落ちる影はすでに墨を落としたように深く濃い。入道雲のけぶる空に、青く茂った木々からの蝉時雨が鳴り渡っている。
勝手知ったる、といった様子で歩いていく男に続いて自動ドアをくぐると、空調のきいたホールに足音が響く。独特の静けさが漂うそこに、ふたりぶんのそれはいやに大きく響いた。
「俺、とりあえずこのあたりを見てくるけど。伊織はどうする?」
掲示されている案内板を眺め、人文書や美術書が並ぶ最上階を指さして男が問うてくる。
「和歌とか俳句とか、そういうのだったら同じ階か……ああ、たしか一階にもあるな」
「……それなら、一番上の階から行く」
「うん」
椅子もあるから、気になる本があれば座って読んでて。
普段よりもいくらかひそめられた男の声が、ひんやりと冷えた空気のなかでやわらかく耳朶を打つ。エレベータが降りてくるのを待つあいだの、穏やかな静謐はひどく心地が好かった。
「昼を過ぎたら、ご飯食べに行こうか」
「そうだな」
「これだけ暑いし、なにか冷たいものがいいよなぁ」
「蕎麦かうどん……は、昨日食べたな」
無人だったエレベータに乗り込み、重力を感じながら他愛のない会話を交わす。気なしに口にした答えに、男が小さく笑った。
「冷たいパスタにしないか?パスタなら和風のも洋風のもあるし」
「べつに、構わんが」
「じゃ、決まりだ」
この男とは食の好みがまるきり正反対なものだから、出先での食事選びひとつ取ってもこういったやり取りを挟むことが多い。収まりの良い落としどころを見つけるための調子の取り方にもすっかり慣れつつある事実にふと気がつくたびに、いまもどことなく面映ゆい。
そのうちにまるい電子音がして、最上階へ着いたエレベータが停止する。かすかな振動。がこん、と開いた扉の向こうから滑り込んできた紙の匂いが嗅覚をくすぐる。
エレベータを降りてすぐのホールは大きな硝子窓に面していて、温度だけを置き去りにされた夏のひかりがステージライトのように差し込んでいた。目を眇めてしまいそうなつよいひかりの波際は、奥に並ぶ書架へと近づくにつれ淡くほどけて、落ち着いた明度の室内灯の明かりと曖昧に溶け合っている。舞台の上から見渡す客席とどこか似通った光彩に、知らず足を止めていた。
「伊織?」
先に歩き出した男が、立ち止まった伊織に気が付いて振り返る。羽織った淡い色の上着の袖から覗く腕がひどくしろい。
「……いや、なんでもない」
「そう?」
「そうだ」
首を傾げた拍子にさらと揺れた金糸のはしが、陽光を透かしたままで男の頬を掠める。置き去りにされていたはずの夏に硝子越しにじわりと背を押されて、目の奥に焼きついた一瞬を胸裡へとしまいこんだ。
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20180715Sun.