月のひかりはとけおちて ざわざわと、空港のロビーの喧騒が体をつつむ。思えばこの場所に来るのも久しぶりだ。数年前に乗ったロンドン行きの飛行機のことを思い出して懐かしい気持ちを抱えながら、私はロビーの片隅にある小さなカフェのカウンター席のひとつに腰掛けていた。
つるりとした陶器のカップの中で、ほんの少し残ったカフェモカが静かにまどろんでいる。腕時計の針は十七時にさしかかろうかというところ。窓から見える茜色の空がゆっくりと夜に染まりきる前の、黄昏時だった。
「まどかさん」
どこかへ引き込まれてしまいそうな色の夕空をぼんやりと見つめていると、ふいに背後から私を呼ぶ声がする。
待っていた人の声だ。ぱっと振り向けば、小ぶりなクラッチバッグを片手に持った染谷さんが、私にも覚えのある穏やかな表情でそこに立っていた。
「こんばんは」
「こんばんは。すみません、お待たせしてしまったようで」
「いえ、大丈夫です。手続きのほうは終わられましたか?」
「はい。すっかり身軽になりました」
空いている指先をふわりと僅かに泳がせて彼が笑む。お腹はすいていませんか、という私の質問に、彼は小さく首を横に振った。「いえ、特に」
「代わりに、というわけではありませんが……もしよかったら、少し外を歩きませんか」
そう言いながら彼が視線を向けた先には、フェンス越しに滑走路を臨む見学デッキがある。人影がまばらに見えるデッキには日没に合わせて点々と屋外灯がともり始めていて、ついさっきまで私がぼんやりと眺めていたときとは少しだけ表情を変えていた。
染谷さんの言葉に頷いて、カップの中身を飲み干したあと椅子の背に掛けていた上着と鞄を手に取る。スプリングコートの袖に腕を通してから、彼の隣に並んで歩き出した。
ふたりぶんの足音が、ざわめきに溶けていく。かすかに聞こえるのは、私のブーツの踵の音ばかりだ。――ジェネシスの三度目の来日公演を終えて、彼はまた海の向こう、ニューヨークへと帰っていく。
――空港に、お見送りに行ってもいいですか。
久しぶりに顔を合わせたジェネシスと夢色カンパニーのみんなが揃っての食事会の帰り道。にぎやかな話し声があちこちから聞こえるなかで、それでも彼にだけ届くように、その言葉を口にした。千秋楽を迎えた数日後には彼がひとり気ままに帰路につくことを、……私はもう、数年前から知っている。
染谷さんの指先がセンサーの前をかすめて、自動ドアが開いた。
ひんやりした春の夜の空気が頬を撫でる。ひらけた場所だからもちろん少しの風は吹いていたけど、それは劇場近くの海沿いの道でも変わらない。違うのは潮の香りがしないことくらいで、でも、それが彼と私のあいだにある距離そのものなのだということもわかっていた。
「染谷さん」
フェンスの傍まで辿り着いたところで、彼を呼ぶ。相変わらずゆったりとしたしぐさで足を止めた彼が、はい、と応えた。
滑走路に、どこかから戻ってきた飛行機が降りてくる。遠い着陸音。
私が見送りに来た理由を話し出すのを、彼は何も言わず静かに待っている。横合いに吹きつけてくる風に負けないように、口を開いた。
「……今回の公演のホン、とても素敵でした」
「……はい。ありがとうございます」
「でも、――それは、今回だけのことじゃ、なくて」
はい。
また彼が応える。風の音にまぎれてしまいそうなひそやかな声。深い色をした彼の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
どうして、私はいま、ここで彼と向き合っているんだろう。
どうして、ニューヨークへ帰る彼の背をひとりで見送りたいと思ってしまったんだろう。
そんなこと、自分でももうわかりきっていた。かすかにふるえそうになる声と指先を握り締めて、言う。
「私は、あなたのことを好きになるのが怖かったんだと思います」
「……、」
「あなたを知って、好きになることで、自分のどこかが変わってしまうんじゃないかって。それが、少しだけ、怖かった」
でも。
来日公演。オンライン配信の公演映像。プログラムやオフィシャルサイト上に綴られた染谷さんの言葉はどちらかといえば手短なものばかりだったけれど、公演内容を見ればそれで充分だった。
どれだけたくさんの言葉より、ステージの上にいる黒木さんたちが、染谷さんが海の向こうで過ごした時間がどんなものだったかを教えてくれた。
「いまもまだ、怖いですか?」
「…………」
ぽつりと、彼が問う。遠浅の海に似た彼の目は、おだやかなのに底が見えない。暖かい浅瀬に足をひたして歩いているうちに、深い海ぞこのふちに立ってしまいそうな気がする。「……もしかしたら、少し。……でも、」
「それでもあなたに自分の気持ちを伝えたいと思うくらい、あなたを知って、好きになれたことが嬉しかったんです」
「――……」
「私は、あなたのことをもっと知りたい。……できるなら、いまよりもう少しだけ近くにいたいと、思っています」
ゆるく握り締めていた指先を開く。
あの日授賞式の会場で彼が私へそうしたように、片手を前に差し出した。
染谷さんの色素の薄い髪が、風に煽られて揺れている。まっすぐに返した視線が噛み合って、一瞬。
差し出した手に、熱い指先がふれた。
「……近く、というのは?」
「……、」
私はこの手のひらの温度を知っている。
あの日から変わらないままの熱。
「私とあなたは、違う劇団の……夢色カンパニーとジェネシスの、座付き作家です」
「はい」
「きっとお互い忙しくてなかなか会うこともできないし、話せないことも、たくさんあると思います」
「……はい」
「それでも、」
いまよりもう少しだけ。――心だけは、誰より、近く。
「あなたの隣を、私にください」
彼の両目がゆるくまばたく。
掴んだ手は離さないまま、彼は穏やかに笑んだ。
「不思議なことを言いますね」
「え?」
「あの日から、とうにあなたのものですよ」
あなたがそこを選ばなければ、きっとただ空けたままになっていただけのところです。
なんでもないことのように続いた言葉に、きゅっと唇を噛み締める。胸がくるしい。手が熱い。
「まどかさん」
「はい」
「もう少しだけ近くに、来てくれますか?」
「……はい、」
黄昏時の終わり。ニューヨーク行きの飛行機が発つまで、あと二時間。頭上からやわらかく降る月明かりが、彼の腕のぬくもりに溶けた。
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20210407Wed.