【緑高】教会 俺達が卒業旅行に来たのは、三月も半ばの事だった。海の側の古い町で、旅行と言うには近すぎる距離だったけど緑間がゆっくりと過ごしたいのだと言い、俺もその意見に納得したのでこの場所に決まった。
二泊三日、きっちりと予定を決めて回りたい緑間と適当に興味を惹かれた物を見て回りたい俺と。折衷案として一日目、二日目は緑間の厳選した観光施設などを巡り、三日目は二日間で気になった場所などを予定を決めずにぶらぶらする、と言う事になった。
水族館や寺、神社、カップルに大人気のデートスポット、観光地だけあって見所は沢山あって、しかもしっかりと下調べした緑間の薀蓄付きで観光出来るので中々に面白い旅だった。宿泊は二日とも同じ旅館で、古いながらも温泉付きだし料理は美味いし、何より財布に優しいリーズナブルな宿泊価格が魅力だった。緑間が選ぶと言い出したので、とんでもなく高級なところを希望してきたらどうしようと内心ビクビクしていたけれど、さすがに三年も一緒に居ればこちらの懐事情にも気を使えるようになるらしい。
そうしてついに最終日の三日目、予定に入れてなかったけれど気になった観光施設を覗いてみたり、ちょっとした路地に入り込んでみたり、露店を冷やかしたりと行く当ても無く気ままにそぞろ歩く。こう言ったイレギュラーな事は余り好きではないだろう緑間の方が積極的に雑貨屋やら骨董品屋に入りたがる物だから、あっと言う間に時間が過ぎていく。
「お、ここ行ってみる?」
観光客向けの土産物屋やシルバーアクセの露店なんかが並ぶ通りの脇に、地元民が通るような細い路地が建物の間を縫うように小高い丘の上の方に向かって伸びている。
時間的にもこれが最後の寄り道だろう。土産物屋の提灯を手に取って眺めている緑間にお伺いを立てると「ああ」と軽い返事が返って来た。ほんの少しだけ口元が上がっていて眼差しも柔らかい。
初めて会った時には無表情のロボットのような男だったのに、たった三年で随分と甘い表情をするようになった。本人に笑顔になっている自覚があるかは分からないけれど。
二人連れ立って細い坂道を登っていくと、少しずつ緑が増え始め、代わりに建物が減っていく。
「これ、もしかして行き止まりのパターン?」
「そうだったとしても戻れば良いだけの話なのだよ。……枝葉の音しかないのも悪くない」
「そーだな」
俺達二人が口を閉ざしてしまえば、サワサワと風に揺れる葉ずれの音しか聞こえない。気づけば両脇には木々しかなくなり、森の中の一本道を歩いているような気分になってきた。けれどまあ道があるって事は人が通る事があるって事だもんな、とほんの少し不安になってきた心に言い聞かせているとふいに視界が開けた。
「うっ……わ」
「……ほう」
開けた先、眼下には落ち始めた陽に煌く海が見え、右側にひっそりと小さな建物があった。
「……家?」
「チャペル……いや、教会、か?上に十字架があるのだよ」
言われて目を向けると確かにつんと尖った屋根の上に真っ白な十字架が立っている。それに控えめではあるけれど普通の家なら二階部分にあたる場所にある丸窓にはステンドグラスが嵌り、よく見れば木造りの扉にも十字架が飾られていた。
「中、見れたりすんのかな?」
「どうだろうな……行ってみるか」
言うが早いか緑間がズカズカと扉に向かって進んでいく。
「え、マジ?怒られねぇ?」
「取り敢えず声をかけてみれば良いだろう。ああ、ノッカーがあるのだよ」
緑間の後を追う形であっと言う間に扉の前まで辿り着き、綺麗な所作で扉についている金具でノックする姿を見守る。ほんの少しの間があって「はい」と言う声と共に扉が中から開いた。
中から出てきたのは白いシャツに黒いチノパンと言うラフなスタイルの若い男で、教会と言えば神父!と思っていた所為で予想外の事態にドギマギしてしまう。
「突然すみません。観光でやってきた者ですが、こちらの教会は見学可能ですか?」
けれど緑間は特に動揺もしていないようで、特別焦った様子もなく淡々と声をかけている。やっぱりこいつ肝が座ってんなぁと感心しつつ出てきた男の方を見ると、にこにこと笑顔で対応してくれた。
「勿論!ただまあ、見ての通り小さな教会ですから、観光の方が楽しめる要素は余りないんですが」
そんな事を言いつつも扉を大きく開けて「どうぞ」と迎え入れてくれる。
緑間と共に小さくお辞儀をして中に入ると、真ん中に通路があって両側には三列ずつ木製の長椅子が並び、通路の先には祭壇とその奥に大きな十字架、十字架の両脇にはステンドグラスの嵌った細い窓があった。綺麗に磨き上げられた床や真っ白な壁が窓から入る明かりでキラキラと輝いている。確かにこじんまりとしてはいるけれど、とても綺麗だと思った。
「はー……」
「美しいな」
中に数歩入ったところで立ち尽くしている俺達に、神父であろう人は「お好きに見て頂いて構いませんよ」と優しく声をかけてきた。
「あ、ありがとうございます!!凄い綺麗ですね!」
「そう言って頂けると嬉しいです。滅多に人も来ませんので」
「え、マジっすか?こんなに綺麗なのになー。なあ、真ちゃん」
俺が神父さんと話している間に祭壇の方へと歩み寄っていた緑間に声をかけると「ああ」と短く返事が返って来た。
「地元の人とかも来ないんすか?」
「そうですねえ、坂道を登って来るのが大変なのかもしれないです」
はははと軽く笑いながら語っているけれど、誰も来なくても教会と言うのはやって行けるもんなんだろうか。海の見える教会、とかで売り出したら結婚式とかで人気出そうなのになと思わなくもないけれど、こんなに綺麗な場所がそんな下世話な扱い方をされるのも何だか嫌だなと思ったりもする。神父さんももしかするとそう思って敢えて宣伝なんかをしてないのかもしれない。
そんな事を考えながら辺りを眺めていると、祭壇の辺りを眺めていた緑間がくるりと踵を返して足早に近寄って来た。
「どったの真ちゃん?」
「少し買い忘れを思い出した。すぐ戻ってくるからここで待っていろ」
「へ?」
俺の前でも足を止める事無く緑間はそう言い捨てると扉を開けて出て行ってしまった。
「何だあいつ」
「まあまあ、良かったら腰掛けてお待ち下さい」
呆れた声を上げる俺に、神父さんは側の長椅子を勧めてきた。お言葉に甘えて腰を下ろすとひんやりとした木の椅子の感触が心地良い。
「私は少し用事を済ませてきますので。ごゆっくり」
神父さんはそう言うと、祭壇側にある扉から出て行った。多分そっちの方に何かしらの部屋があるのだろう。
暫くは物珍しさもあって室内を眺め回していたけれど、一通り見てしまえば気持ちも落ち着いてくる。目の前にある十字架とステンドグラスから入ってくる光がキラキラと視界の中で輝いている。
卒業旅行も今日で終わり。夜の電車で家に帰って―――四月の頭には、緑間はアメリカへと渡る。こんな家から電車で数時間なんて距離じゃない、遠い、遠い所に行ってしまう。
二年まで都内の医大を進路希望に書いていた緑間が、三年になって別の道を記入していた事は知っている。本人から、アメリカを、プロを目指すと聞かされたから。
緑間だったら海外のプロでだって十分に活躍出来ると信じているし、例えどれほど大変だったとしてもやり遂げる事だろう。そんな緑間を凄い奴だと思っているし、そんな奴と三年間一緒にバスケをして相棒でいられた事を何よりも誇りに思っている。日本で普通に大学に行く俺とは大きく道は分かれてしまうけれど、そんな緑間を応援したいと思っている。
それなのに、心のどこかで行かないで欲しいと願い、俺を置いていくのかと泣きたいような気持ちになる。そんな自分が反吐が出るほど憎らしい。
教会では、自分の罪を告白して許しを得る儀式があると何かで聞いたような気がする。なら俺のこの気持ちも今ここで全て吐き出してしまえば、綺麗な気持ちで緑間を送り出す事が出来るのだろうか。
そう思って口を開きかけたけれど、結局何も言えないまま唇を引き結ぶ。例え心の中の寂しさや恨み辛みを吐き出せたとしても、決して口に出せない想いがある。羨みや憧れや、他の全ての気持ちをひっくるめて、ただ緑間を好きだと言うその気持ちだけが、口に出す事も許されない。今この場で曝け出して一時の許しを得たとしても、後から後から湧き出してくる。緑間本人にすら伝えられないこの気持ちはきっと許される事は無いのだ。
そんなどうしようも無い事を考えながらぼんやりしていると、バタンと大きな音がした。音の方を振り返ると肩で息をしている緑間が立っていて、随分急いで戻ってきたんだなと人事のように思う。
「……何故泣いているのだよ」
「え」
言われて頬を触ると、確かに濡れている。瞬きをするとほろりと目尻から涙がこぼれた。
「あー、何かここ綺麗過ぎて瞬きすんの忘れてた」
実際そうなのだと思う。だって他に涙がこぼれるような事など無いから。あってはいけないから。
へらりと笑って雑に目元を拳で拭う俺に、緑間は「馬鹿め」と言ってハンカチを差し出した。
「良いって良いって。それより真ちゃん、買い忘れ、ちゃんと買えた?」
差し出されたハンカチを受け取らずに手で制して聞くと、緑間はやけに真面目な顔で頷いた。
「ああ。……高尾、こっちへ来るのだよ」
そう言って緑間は俺の手を引いて椅子から立たせると、祭壇の前へと引っ張っていく。近くで見る祭壇は年季が入った感じだけれど、古ぼけたと言うよりは歴史を感じさせる柔らかさを持っていた。色々な罪や幸せを受け止め続けてきたからなのかもしれない。
緑間はぼんやりと祭壇を眺めている俺の肩を掴んで自分の方に向かせると、真剣な顔で「高尾」と呼んだ。
「なぁに、真ちゃん」
そんな緑間の顔を見上げ、笑顔で応える。どうして緑間が、そんな顔をするんだろう。いつでも人事を尽くしているお前にはこんな場所で打ち明けなくちゃならないような罪なんかないだろうに。
「俺は、来月にはアメリカへ行く」
「うん」
あーこれは神様の前で決意表明、みたいな奴だろうかと納得して相槌を打つ。
「お前とは道は離れてしまうが」
「うん。でもまー真ちゃんなら絶対大丈夫だって」
掴まれたままだった左手の手首が痛い。ふと視線を下げると緑間が結構な力で掴んでいるようで少し赤くなっている。決意表明力みすぎだろ。ポンポンと俺の腕を掴んでいる緑間の手の甲を叩くと気がついたのか手を離し、その代わりと言わんばかりにそっと手を下から掬い上げて軽く持たれた。
「物理的な距離は離れてしまっても、これからもお前と共にありたいと思っている」
「へ?あ、あー、別に遠くに引っ越すからって縁が切れる訳じゃ無いしな。だーいじょうぶだって、高尾ちゃんは真ちゃんのズッ友だから」
宥めるように掴まれていない方の手で緑間の手を軽く叩くと「茶化すな」と文句を言われた。茶化してなんかいないと反論しようとして、俺を見つめる緑間の目がまるで試合中のように真剣な事に気がついて言葉が出なくなる。
「……これを」
小さな言葉と共に、緑間がコートのポケットから何かを取り出した。ステンドグラスから入る光に照らされて、きらりと光る小さな輪っか。綺麗だな、とぼんやり思っている間に緑間は取ったままだった俺の手にそれをグイグイと押し込んだ。
「……え」
銀色の輪っかが、俺の左手、薬指の上でキラキラと光る。
「はぁぁぁあああ!?」
一拍置いてじわじわと事態が飲み込めてきた。飲み込めてはきたが頭が理解する事を拒否している所為でろくな言葉が出てこない。
「は?ちょ、おまっ!?なっ!?」
緑間の顔と自分の左手薬指と。視線を泳がせながら意味のない奇声を上げる俺を見ながら、緑間は言葉を続ける。
「お前が好きだ。お前以外とこれからの人生を共にする気はさらさら無い。……お前はどうなのだよ」
試合中にゴールを見る時と同じ、射るようなまっすぐな視線で俺を見る。けれど、その瞳の中で不安が揺れている事に気づいてしまった。どれだけ難しいスリーポイントシュートでも、絶対に揺ぎ無い視線で前だけ見つめていたお前が、俺ごときにそんな目をしてどうすんだ。
そう思ったけれど、そんな緑間の様子に絆されてしまった。多分そんなに簡単でもないし、もしかしたらこんな事言ってたってアメリカで巨乳美人に恋しちゃうかもしれないし、お互いの気持ちは変わらなくても周りに疎まれ引き離される時や心折れる時が来るかもしれない。それでもせめて今くらいは、今までみたいに隣に並んで共に戦う事は出来ないけど、これから一人見知らぬ土地で戦う緑間の背中を守る位は俺にだって出来るだろう。
そう思ったら、自分でもびっくりするくらいするりと口から言葉が出てきた。
「俺も好きだよ」
空いている方の手で緑間の左手を取るとテーピングのざらりとした感触がして、何だか泣きそうな気分になった。
数年後、緑間が一時帰国した折に訪れてみたけれど、まるで最初から無かったかのように教会へ続く道はどこにも見つからなかった。