【緑高】餅 普段通りに居残り練を終えて帰宅して、普段通りに風呂に入って出てくると居間でテレビを見ていた妹ちゃんがソファの上に放り出していた俺のスマホを指差した。
「お兄ちゃん、さっきから三回位電話鳴ってたよ」
「えー、誰から?」
「分かんない。カノジョとかだったら悪いから見てないもーん」
俺に彼女なんかいないと知っているくせにそんな事を言って視線をテレビに戻してしまう。可愛いかわいい妹ちゃんなのに可愛くない。
頭に被ったタオルでガシガシと髪を拭きつつ、たかが風呂入ってる二十分程度で三回も電話って誰だよと思いながらスマホに手を伸ばす。と、まさにその瞬間にスマホが鳴り出した。
「あれ?真ちゃんからじゃん」
用が無い限り電話はおろかメールもラインも自ら送っては来ない緑間が何の用だと首を傾げる。だってほんの四十分かそこら前に緑間の家の前で別れたばかりで、その時には特に変わった素振りもなかった。一時間も経たない間に用が出来るって何なんだ。
不審に思いつつも電話に出ると、こちらが「もしもし」と言う暇もなく電話の向こうから「高尾か?」と聞こえてきた。
「はいはい高尾ちゃんですよ~。どったの真ちゃ……」
「助けてくれ」
「はい!?」
あの緑間が思いがけない言葉を吐いた所為で、素っ頓狂な声が出てしまった。
「助けてくれ高尾。俺にはもうどうしようもないのだよ……」
「え、ちょっと待って真ちゃん?何があったんだよ」
今日のかに座は三位と中々の順位だったし、ラッキーアイテムの新品のパジャマだって朝からずっと緑間が持ち歩いていた。何とか言うブランドの紺色で縁に白いパイピングが施された物でシルク製のお高いヤツだったはずだ。少なくともおは朝的な死角は今日の緑間には無い。
「それが……爆発して」
「爆発ぅ!?」
普通に生活していれば中々耳にするはずの無い単語が出てきて鸚鵡返しに聞き返してしまう。けれどそんな俺の驚きの声に返事は無く、それどころか更に不安を増長させる言葉が聞こえてきた。
「何だか焦げ臭く……む、いかん!煙が……っ!!」
「え!?」
そこまで言うと電話の向こうはバタバタと遠ざかっていく足音の後に、遠くから「あっ」と言う緑間の悲鳴とほぼ同時にガンガラゴンと何か重そうな物が落ちた音。
「真ちゃん!?真ちゃんっ!!」
スマホに向かって必死に呼びかける俺の様子がおかしい事に気がついてテレビを見ていた妹ちゃんと台所で晩飯を用意してくれていた母さんが近寄って来た。
「どうしたのカズ」
「電話、緑間さんだったの?お兄ちゃん」
「俺、真ちゃんち行って来る!!」
どうしたと聞きたいのはこっちの方だ。電話の向こうでは今でもガタゴトと遠くから音がしているけれど、緑間の声はもう聞こえない。人事を尽くすあの緑間だから最悪の事態にはなっていないと思いたい。でもおは朝占いに運の全てを握られているようなあの緑間だから最悪の事態になっているかもと思わずにはいられない。
「こんな時間から行ったらご迷惑でしょ」
「真ちゃんち今日から暫く真ちゃん一人だって言ってたから大丈……ぶ……」
そうだ、今日から数日家族が海外に行っているから一人だと言う話を朝したのだ。すっかり忘れていたけれど、つまり緑間は今自宅に一人きりで爆発だの煙だの……。そこまで考えてさっと血の気が引いていく。緑間一人と言う事はほかの奴らの運勢に左右される事も無くおは朝の神様やりたい放題なんじゃ!?
「シルクより綿派だったのかもしんない!!」
後から振り返ると相当電波な言葉を残して、俺は家を飛び出した。
この季節に長袖Tシャツとジャージのズボンと言う薄着だったけれど、緑間の家まで全力疾走した所為で汗だくだ。ぱっと外から見た限りでは、どこか爆発して吹っ飛んだとか火事で煙が上がってるなんて言う事もなく辺りは静まり返っているし、普通に緑間の家にも明かりが灯っている。
他の奴が相手ならこの時点で『何だ悪戯かよ』と思うところだけれど、相手はそんな悪戯など絶対にする訳のない緑間である。
インターフォンを押しても返答は無く、どうしたものかと試しに門を押してみると軽く開いた。門から玄関まで数メートル、辺りに気を配りながら歩いたけれど特に問題は無い。玄関のチャイムを押しても返事が無く、明かりのついている部屋の方に回るべきかと考えていると玄関のドアが唐突に開いた。
「うわ!?」
「高尾……来てくれたのか」
開いた扉の向こうに立っていたのは見慣れた緑間だったけれど、試合後にだって見た事が無いようなぐったりとしたくたびれた様子で立っている。いつもパリッとアイロンまで当てられている制服の白いシャツはよれよれな上にところどころ黒っぽい染みで汚れ、右手はタオルで包み込まれている。
「手!怪我したのか!?」
左手はテーピングで保護して特に大切にしているけれど、右手だって同じ位大切な物だ。緑間にとっても俺達秀徳バスケ部にとっても。焦って駆け寄ると緑間は「少し火傷しただけなのだよ」と叱られた子供のような気弱な声で返事を返してきた。
「火傷って……ちゃんと冷やしてんの!?見せて!!」
タオルの上から鷲掴むと緑間は大人しくタオルで覆ってある部分を開いた。中にはハンカチに包まれた保冷剤が入っていて、赤くなった緑間の右手の人差し指に当てられていた。
「火傷ここだけ?他は?」
「中指も少しびりびりするが、一緒に冷やせているから問題ない筈なのだよ」
もう一度きちんと保冷剤を指に押し当ててタオルで包み直す。この程度の火傷だったらちゃんと冷やせば跡も残らないし部活や日常生活にも何ら問題はないだろう。大した怪我ではないと知って安心したからか、ほっと息をついた瞬間に、緑間やタオルからふんわりと甘い香りがする事に気がついた。それと同時にほんのりと焦げ臭い臭いが混じっている事も。
「……何この甘い匂い」
口には出してみた物の、多分俺は答えを知っている。緑間と毎日一緒にいるお陰で部活の前後や休憩時間、昼飯時に帰宅途中と毎日毎日嗅いでいるしたまに飲んだりもしているアレだ。
「おしるこだ」
さも当然と言う顔をして答えを明かす緑間に『ですよねー』と内心で相槌を打つ。だがしかし幾ら毎日摂取し続けているとは言え、緑間からおしるこの匂いがするとはこれ如何に。
そう思ってまじまじと緑間を見返せば、シャツの染みはどうやらおしるこであるらしい事と、制服のズボンの裾にも色の所為でパッと見目立ちはしないけれどべったりとおしるこがついているらしい事が窺い知れた。
「おしるこパックとかおしるこ風呂とか思い立ったの?真ちゃん……」
そんな馬鹿な理由で火傷したんだったとしたら、俺はこいつとの相棒関係をちょっと考え直した方が良いかもしんない。
「そんな訳が無いだろう。おしるこは飲んでこそ素晴らしい物なのだよ」
俺の事を哀れむような目で見ながらそう答える緑間だけど、今哀れまれるべきなのは間違いなく俺じゃなくてお前だからな!?上目遣いに睨み付ける俺を無視して、緑間が中に入れと促してくる。確かに冷静になってきたら汗が冷えて寒いしいそいそと中に入らせて貰う事にした。
「で、何がどーなってんの?」
俺の問いかけに緑間は「……こっちだ」と先に立って歩き出した。ダイニングキッチンに続く扉を開けられると、途端に甘いおしるこの香りと焦げ臭いにおいがぶわっと襲って来る。
緑間の後について中に入れば、いつも綺麗に片付けられているダイニングの床に転々とおしるこが飛び散り、おしるこまみれの緑間のスリッパがキッチンに行く途中に転がっている。
「あー……」
何となく状況を理解した気がして天を仰げば、目に入るのは綺麗な白い天井ばかり。
「おしるこ、焦がして落としたんだな?」
おそらくは暖めようとしたんだろう。寒い季節はあたたか~いのが飲みたい気持ちは分かるよ、ああ分かる。
「……母が鍋に作っていってくれたのだよ」
重い足取りで前を歩く緑間は、気落ちした声でそう言った。鍋で、真ちゃんママが。と言う事は。身体を傾けて緑間の背中で見えていなかった台所に視線をやれば、床に転がったホーロー鍋とその周りの床に放射状に広がるおしるこの海。缶一個温めようとしたなんて言う俺の想像を遥かに超えていた。
「マジか……」
そりゃあこんな物、火傷している緑間一人でどうにか出来る物ではないだろう。しかしそうすると最初に言っていた爆発と言うのは鍋を沸騰させすぎて蓋が飛んだとかなんだろうか。てっきり缶のまま温めて缶を爆発させたんだと思っていたのに。
「おしるこの鍋が爆発した?」
俺の疑問に緑間はぷるぷると首を横に振る。別に怒った態度など微塵も取っていないし、呆れを通り越して笑えて来ているのだが、緑間は相変わらず叱られた子供みたいな様子でちょっと可愛いと思ってしまう。
「爆発したのは……これだ」
飛び散った床のおしるこを避けつつ奥に進んで、いっそ恭しいほどに丁寧に開けられた扉。電子レンジの中には飛び散って焦げた餅と割れた皿が鎮座していた。
「……おしるこを温めて、餅を入れようと思ったのだよ」
「餅って……電子レンジだと爆発するんだ」
オーブントースターで焼いた事しかなかったから知らなかった。それともこれは料理音痴の緑間が引き起こしたミラクルで普通の人ならば爆発させたりしないんだろうか。もしそうだとしたら金輪際緑間を台所に立たせてはいけないと思う。
「……真ちゃんママ、いつ帰ってくるんだっけ」
「四日後なのだよ……その、食事は温めるだけで良いように準備してくれているのだが」
そう言いつつ緑間自身も自らの壊滅的なまでの料理音痴振りに不安を抱いているようで、語尾が小さくなっていく。
「あーもう!四日間泊まるから!飯あっためてやるしレンジも掃除すっから!」
これを放置して帰って何かあったら部の先輩達にも怒られる。俺の言葉を聞いて緑間はあからさまに嬉しそうだ。
「足とかおしるこまみれだけど火傷してねぇの?」
「大丈夫だ。掃除しようと足をついた時に濡れてしまっただけなのだよ」
「んじゃ平気か。取り敢えずそのままウロウロされっと汚れが広がるばっかりだから、真ちゃんはまず風呂いってきな。その間に多少は片付けとくし」
おしるこの海の片隅にタオルが数枚おしるこまみれの状態で置いてあるから、拭き掃除位は出来るだろう。レンジの餅の掃除方法は今はまだ想像もつかないけれど。
「高尾、その……すまない」
「別にいーよ。餅の爆発したレンジとか滅多に見られなさそうなモンも見れたし」
珍しく気弱な緑間に笑ってそう言うと小さく頷いてラッキーアイテムのシルクのパジャマを差し出してきた。
「何?風呂入ってる間預かっとけば良いの?」
「そうではなく……お前、その格好では寝られないだろう。随分汗もかいたようだし。寝る時に使うと良いのだよ」
今から掃除をしたら又汗をかくかもしれないし、せっかくの好意はありがたいけれど、緑間のラッキーアイテムでブランド物のシルクのパジャマとか金額が恐ろしくて着たら悪夢にうなされそうだ。
「いや、俺シルクより綿派だから」
取り敢えず体の言い断り文句を口にすると、何故だか緑間は「ちっ」と舌打ちを寄越した。
翌日一度家に戻って着替えやなんやかんやを準備してきた俺を無視して、緑間が有名ブランドの綿のパジャマを押し付けてきた理由が、当時付き合ってもいないどころか告白も何もしていない状態だったにも拘らず所謂彼シャツならぬ彼パジャマ状態の俺が見たかったからだと言う非常にムッツリな事だと言うのが判明したのは随分後の事だった。