S06【黒聖母侵襲事変】ルヴェール編◆察知
ゆらゆらと黒衣の裾が揺れている。女、のように見えるが明らかに人ではない。かといって天使にも見えない。悪魔には見えなくもないが、その唇は愛と救いを説いている。
「黒聖母」と呼称されることとなったそれが、王国をさ迷っている。救いを求める人々に「救い」を与えて回っている。優しい口付けが魂を削り取ってゆく。それを救いと呼ぶのはひどく、愚かで寂しい。
……また人間が一人救われた。黒聖母の口付けを受けた女性は教会の床に崩れ落ち、意識を失っている。それを見届け、黒聖母は床へ沈み込むようにして消えた。
アイスブルーの目がその一部始終を目撃していた。一柱の天使がその目に強い光を湛え、梢に腰掛けている。その片手首を砂で出来た輪のようなものが取り囲んでおり、天使はそれを口元に寄せた。
「ルヴェール様、ご覧になりましたか」
『ふむ……あれが人間たちが“黒聖母”と呼んでいるものか』
砂が波紋を浮かべ、落ち着いた男の声が天使の耳朶を擽る。声の主はどこにも見えないが、確かに今の光景を視認していた。
その声はルヴェール……そらの観測者、星見の天使であり、この若い天使ラスイルの主のものだった。彼はラスイルの「目」を通して今の光景を観測していたのだ。
「どうします、もう少し監視しましょうか」
『うん……そうだね、どういう法則で動くのか見ておきたい。今の感じだと人間の近くに現れそうだから、療養所や教会へ行ってみておくれ』
「はい!」
梢から降り、すい、と滑るように飛んだラスイルは指示に従いまずは近くの教会へと向かう。あまり大きくないラスイルの翼がたてる風切り音は高い。
見下ろした地上で、地面に黒い染みが広がり、黒聖母が現れる。ラスイルはこれ幸いとばかりに距離を詰めようとしたが、黒聖母がラスイルに気付いたらしくぶるりと体を震わせた。
次の瞬間、黒聖母の周囲になにかの群れが出現した。……虫だ。てんとう虫の群れだ。だがそれがただのてんとう虫ではないことは明白で、奇妙な気配を漂わせながらラスイルに向かって勢い良く飛んでくる。瞬く間にラスイルを包囲し、ぶんぶんと不愉快な唸り声のような音をたてて飛び回る。
「……ッ!」
一匹一匹は小さな虫にすぎないが、数が多い。視界を奪われ空中でぐらりとバランスを崩したラスイルへとそれらが襲いかかる。身を強張らせたラスイルに、しかし、虫たちが傷をつけることはなかった。
砂だ。ラスイルの手首できらめいていた砂が、突如彼の全身を包むように渦巻いて虫たちを弾き飛ばしたのだ。戸惑うラスイルに、ルヴェールの声が届く。
『ラスイル、戻っておいで。お前にはあれの相手は無理だ』
「えっ、ですが」
『お前にはこれからも私の補佐をしてもらわないといけないからね、聞き分けておくれ』
「は、はいっ」
優しく言い聞かせるような声に強制の気配は一切ないが、ラスイルは表情を引き締め了解の返事をすると、砂が虫の目眩ましをしている間に空高く舞い上がり帰路へとついた。