S06【黒聖母侵襲事変】クェイルーヴァ編◆発見
「ああ、もう、きりがない……!」
大きな翼をひと打ちして地上から飛び立ったその天使は、足先を見下ろしその「群れ」を確認すると更に飛行速度を上げた。
……てんとう虫の群れである。明確な意思をもって天使を――クェイルーヴァを――追うそれは、当然その辺の茂みにいるようなそれではなく、ある存在によってけしかけられたものであった。
地表近くをゆらゆらと漂うように移動している、女のような造形をした「なにか」。漆黒の衣装を身にまとっているそれは、クェイルーヴァには「よいもの」か「わるいもの」かもわからなかった。ただ異質で、肌の一部がひりつくような違和感があった。
――黒聖母。人間たちがそう呼称するものである。
愛を語り、救済の口付けを落とす装置。クェイルーヴァはそれにどう対応するべきか当初は判断しかねていたが――人間が救済を望むなら、それは必ずしも我々によるものでなくても良いのである――、人間たちの一部が母に反旗を翻すのを見て、それに加担するべきだと決めた。
クェイルーヴァは人間の営みより生まれた天使である。人間をなにより愛しているのである。加えて、人間を救うのは人間であるべきだと信じている。であるから、人間に対して圧倒的な優位性を持った存在が――あるいは天使、あるいは悪魔、そして今回は黒聖母が――いたずらに干渉することはクェイルーヴァの望む状況ではない。
虫の群れの一部がクェイルーヴァの翼に食らいつきかけ、大きな翼を振り回すように動かしてそれを弾き飛ばす。白い手が宙を握り、そして、そこからずるりと何かの長い柄が現れた。
巨大な弩である。白く大きな翼のようなそれは、雷を帯びている。
「『主よ、その雷をお借りします。羊の群れを導き、狼を追うがため』」
弩の柄を握り、聖なることばを唱えながらクェイルーヴァはぐんぐんと高度を上げる。虫の群れがちょうど己の真下に位置どった瞬間、翼が風を切る音が高く響く。
「『散れ』!」
くるりと宙で一回転して群れへと向き直り弓を引けば、小さな雷の矢が群れへ向かって雨のように降り注いだ。が、その雷はごく一部の虫を叩き落としただけでほとんど効果はなく、クェイルーヴァはまた翼を伸ばし群れを撒こうと滑空した。
クェイルーヴァの呼び出す雷は天の武器から借り受けている力であり、自然界に存在する稲妻よりももっと概念に近く、聖性の塊のようなものである。それが相手に効力を発揮しきれないでいるという状況にクェイルーヴァの困惑は深く、眼下で彷徨う黒い聖母がいったい「何」なのかと考えるほど胸のざわつきが増した。あれによる救済を拒む人間もいる一方受け入れる人間もいるのだ、あれらはまったき悪ではないのかもしれない。
「……いや、だが」
あれを認めるのは違うとクェイルーヴァの魂が囁いている。とても小さな、消え入りそうな声で囁いている。
――私はひとを愛している。自由に生きられるその魂を愛している。彼らが戦うことを望むなら、その手助けをすることこそ私の本懐である。
だが現状クェイルーヴァに出来ることは限られていた。クェイルーヴァの力ではあの黒い聖母どころか虫をどうにかすることすら出来ないし、なにか起死回生の案が天啓のごとく閃くこともない。きゅ、と軽く下唇を噛んでから、クェイルーヴァは一気に飛行速度を上げ雲を抜けた。虫も聖母も置き去りに、大きな翼を動かし滑るように空を飛ぶその速度は目を見張るほど速い。
……知恵を、あるいは力を借りなければならない。クェイルーヴァは若く未熟であったが、愚かではなかった。目的――この場合黒聖母の対処、ひいては人間を支援すること――を達成するため他者に助けを求めることに、自らの未熟さを認めることに抵抗はない。
頼みを探し飛ぶ天使は、すぐにまた雲へと隠れた。