ロマンス 出会いは完璧だっただろう。天国のような陽が降り注ぐ午後、整った美しい横顔、一万分の一の掛けに乗った瞬間。
一瞬で恋に落ちた。もう他の何も目に入らない。彼を逃すつもりは無いし、手放すなんてもっての外だ。蜘蛛に囚われた蝶のように、どうやっても逃れられない。
だから、将棋のように、少しずつ詰めていった。
名前を教え合い、挨拶をするようになり、並んで歩いて、偶然を装って手を繋いで……。
最初に躓いたのは大学三年のときだ。思いのほか繊細だった彼の中に土足で踏み込んでしまった。その反発は驚くほどで、リセットするのにとても苦労したものだ。
あれから何度、この関係が壊れていっただろうか。
その度に自分の愚かさにため息をつき、彼の臆病さに涙しながらも、その度にまた初めからやり直していった。
損じた部位を破り、またまっ更な原稿用紙に記していきながら。
私の職業は小説家、言葉で世界を生み出すもの。
「……終りにしよう」
いつまでも俯いて黙ったままだった男が最初に発した言葉がこれだった。
「納得出来へん」
有栖は即答した。考えるまでもない。自分はこの男が好きだし、いつまでもそばにいたいと思う。別れるのはごめんだし、ましてやいつか他の場所へこの男がいくことすら許せないとまで思う。それは目の前の男も同じ筈だ。愛想が尽きたどころか、つい先日も熱を分け合ったばかりではないか。
有栖の顔に浮かんだその決意を見て取ったのか、やっと顔を上げた火村が少し困った風に笑った。そして、つ、と目が有栖の左腕へと向く。
――宝物を壊した方が、よほど傷つくんだよね、人って。
子供が持つには早すぎる、いや、まだ世界が狭いと思い込めるからこその残忍な目で笑った少年の顔を思い出す。そうだ、正に君の言う通りだ、火村によって平安が壊された、と言いがかりをつけながら有栖に襲い掛かったその行為のせいで、二人の関係は急速に結末へと向かって行きつつある。有栖が望まない方向へと。
「これは俺の不注意、君が気にすることやあらへん」
そう強く抗弁すると、火村は「いや、俺が巻き込んだんだ」と自嘲を含んだ声で言った。
「俺は……、アリス、これから先のことが保証出来ない」
「してもらう義理はない」
「聞けよ。お前はそうやっていつまでも俺を甘やかすんだ。俺は……、これ以上お前の幸せを奪う権利はない、違うか?」
「違うな。まったく聞いて呆れるわ。大体権利ってなんや、偉そうに。ええか、俺は自分の意志でお前の傍にいることを選んだ。今の君の台詞は俺を丸ごと否定することと同じや。……寧ろ、謝りたいのは俺のほうや。君を、傷つけた」
「違うだろ」
有栖が話すごとに、火村の目に浮かぶ光はどんどん温かく、そして悲しげになっていった。
眩暈がする。
この光は、火村の中で結論が出ている証拠だ。もう何回も見てきた瞳。
「……俺のせいでお前が傷つくのはこれで何度目だ? しかも今回はいつもの怪我とは違う。お前から小説を奪うことは……」
「やから、左手はリハビリすれば元に戻る可能性がある、ってお医者様が言うたやろ? 万が一不自由が残ったとしても、まだ右手もあるし、なによりも世間が放っておいてくれへんから俺は書きつづけなあかん。有栖川先生の史上最高傑作はまだかしら、って」
「だめだ、アリス」。火村は悲しげに首を振った。「俺はとんだ疫病神だよ。お前の貴重な読者から推理小説界屈指の傑作をそのうち奪ってしまうんだ。そうなる前に……。それにお前にはもっと相応しい相手がいる」
「さっきから一方的にべらべらと、人が黙って聞いとれば調子にのりおって。火村、聞け。俺はお前の願いは何でも叶えたいし、逆に俺のことをいつでも気にかけていて欲しい。俺はこんな結末望んどらんし、記すつもりも無い。……なあ、君がおらんと俺が辛い。君も……そうやろ?」
火村にそう問い掛けながら、有栖は心の中で叫んでいた。こんな結末が用意されているなんて聞いていない、と。
「だったらアリス、俺の願いを聞いてくれるか? ……幸せになってくれ。お袋さんや親父さんが望んでいるとおりに」
ハッとして有栖は火村の顔を見た。病室に何度も足を運んだ両親。そういえば昔から時折、自分と火村が仲が良すぎると笑いながらからかわれたことがあった。毎日病室に顔を出した火村とも当然会った筈だ。だとしたら。
火村は有栖の方を見て静かに頷いた。それは有栖の想像を肯定するものだ。
そして、火村がテーブルにそっと置いた鍵。それこそが全ての合図。
「……今度、いつか会う時は、お前が笑ってることを祈るよ」
「待て」
「ごめん」
「待て、火村」
「アリス、だか……」
席を立ったところを強引に振り向かされた火村は、有栖に目を覗き込まれた途端全ての動作が止まってしまう。理由も判らないまま緩慢になる思考の中、それでも辛うじて「何……」とだけ問うた。
「なあ、なかなかこう、上手くいかへんもんやな、火村」
そういってそっと手で目を覆うと、火村は促されるままに目を瞑りその場に崩れ落ちる。
そしてぴくりとも動かなくなった。
呼吸を止めた彼の髪を、有栖は何度も愛しげに撫でつけた。
「しかし、これで何度目のリセットやろ」
そう独りごちながら、有栖は書斎へ向かう。引出しの奥を探れば、そこには古ぼけた原稿用紙の厚い束が入っていた。
「どのへんから直せばええかな」
上のほうから何枚か捲っていったあと、有栖は徐に何枚かをゴミ箱に入れた。覗けば、何枚もの原稿用紙が無造作に入っている。それらは全て火村の姿をしていて、居間にいる彼のようにそっと眠っているように見えた。
有栖はそのあと新しい原稿用紙を上に乗せて、使い慣れた万年筆で一行、『火村は自分を呼ぶ声で、転寝から目が醒めた』と書き込む。その文字を何度もなぞったあと、また原稿用紙を引出しへと戻した。
居間に戻ると、火村は静かに寝入っていた。先ほどの悲愴感が抜け落ちた顔は無邪気でしかしどこか寂しげで、有栖はそんな彼を心から愛しいと思う。そっと耳元で「火村」と名を呼べば、彼はそっと目を開けてしばらく焦点が合ってないとばかりに目を彷徨わせたあと、自分を覗き込む有栖の顔を見た。
「……誰?」
「寝ぼけてるな、先生。俺は有栖川有栖で君は火村英生。学生時代からの付き合いやろ?」
「ああ……そうだったな」
火村はようやっと全てを思い出したとばかりに微笑むと、
「なあ、……手、大丈夫か」
「平気や」
「そうか」
火村はそう言って、愛しげに有栖の顔をそっと撫でる。その感触に有栖はうっとりとなった。
私の職業はRomanticist、言の葉で世界を創るもの。
さて、今の君は、どんな結末へと二人を誘っていくのだろう?