シミュレーション 大阪の空は京都のそれと比べて狭い。
だからどうした、と言われても困る。ただ、すっかり通いなれた地下鉄の駅からふと空を見たとき、そう感じただけなのだ。
この場所はまだ四天王寺なんて大きな寺があるから空の面積も広いが、梅田にいくとごちゃごちゃとしていて、作りかけのパズルのようになっている。普段から大学と天皇家の敷地に挟まれた、空を見るにはもってこいの場所にいる火村にとって、たまに上を見て圧迫感を感じるのが新鮮だっただけだ。
こんなことをうだうだと考えているのはつまり現実逃避だと、火村はやや自棄な笑いをこぼした。嫌なことから逃げたいわけではない。嫌かといわれたら、多分考え込むだろう。あまりにもややこしいことになっているから頭を抱えているというのが、多分正しい分析だ。
そんなこんなを考えているうちに、体は覚えた道を行き、もう目的地は目の前である。最近出来る限り週に一度は夕陽丘に足を運んでいるから、前のように久しぶりだな、とかそんな感慨は全く沸いてこない。こんな渡り鳥みたいな生活がいつまで続くのかは判らないが、少なくとも文句はない。火村も納得済みの上、京都から大阪まで、学校帰りに出て来ているのだから。
でも疲労の蓄積は止められない。
見慣れたドアの前で深く息を吐いて、火村は玄関のベルを押した。
途端に向こうからどたどたどた……、とやかましく廊下を走る音がして、間もなくがちゃりとドアが開かれる。この家の主たる有栖は火村の顔を見た途端、にっこりと笑みを浮かべて、
「先生お疲れやな。ま、入りや」
と彼を招いた。
その笑顔に同じく笑顔で答えながら、火村は内心溜息をつく。
最近のすべての疲れの原因は長距離移動でも毎週の遠征でもなく。
「火村、いらっしゃい」
こう労ってくれる目の前のこの男なのだ。
有栖が事故に巻き込まれ、しかも入院することになった。
長閑で平和な昼下がり、たまの本当に何もない休日を猫の爪きりに費やしていた火村は、朝井からのその電話に文字通り凍りついた。
そんなことがあってたまるか。
言葉を失った火村に朝井は、すべては来てから説明するから、まずはこちらにきて欲しい。大阪にあるこの病院にいるからと告げてきた。勿論そんな伝言を聞くまでもなく火村はてきぱきと用意を済ませ、三分後には婆ちゃんに出かけてくると告げながら玄関で靴を履いていた。今は運転すると危ないだろうから電車で向った方がいいだろう、と判断を下す程度には落ち着いていたが、靴下が別々、なんて古典的ボケをしていることも気付かないぐらい、火村は混乱していた。大通りに出てすぐにタクシーを広い、JRの京都駅まで急ぐ。
大学で出会ってから今日までの思い出が何度も脳裏に蘇り、窓の外を流れる風景と同じ速度で再生されていくようだ。彼は朗らかに笑い、陰のある目で火村を見て、どこか捻くれたところから世界を覗き込んでいた。好奇心旺盛で知りたがり。おせっかいなのか冷たいのか判らない八方美人なところ。有栖を形作るピースならいくらでも思い出せる。
その彼が事故だなんて。しかも呼び出されるからには、なにかがあったということだ。
今日はなんらかの理由で朝井と会っていたのだろう。その途中でということはひき逃げか。それとも別の要因か。考えれば考えるほどに真っ白になっていき、自分の全てが止まってしまうかのようだ。
無事でいろ、無事で。
それ以外はなにも望まないから。
焦る気持ちほどは電車は早くない。焦燥に刈られた時間は長く間延びしたように感じられ、火村は何度も腕時計を覗き込んだ。
大阪駅に着くや否や周りの非難も無視して構内を走り、またタクシーに飛び乗り、文字通り風のように病院へと急ぐ。間に合ってくれ、なんて嫌な言葉を思いそうになってはやっきにそれを否定して、タクシーの運転手に「きっとそのご相手も大丈夫ですから」と気を遣われる始末だ。そんな人のいい運転手が法定速度を無視してくれたおかげで、朝井の電話から一時間と十分後、火村はロビーで目を丸くしている彼女と対面したのである。
「……センセ、加速装置かかなにかお持ちで?」
「そんな冗談は結構です。それよりもアリスは。病棟はあちらの建物ですよね」
「あー、えっと、火村さんとりあえずこっち」
肩で息をしながら矢継ぎ早に質問をする火村を、朝井はまずは、まずはとエレベーターに乗せる。
「なんでこっちに……」
「まずは先生の話を聞いてから。それからでも遅くないから」
「ということは、命に別状はないと?」
「命は大丈夫やから、まあただ会うときに覚悟がいるっちゅうか」
「覚悟……」
果たしてどんな怪我を負ったのか。顔や身体に著しい損傷があるのかもしれない。或いは神経系統に異常が見つかったのだろうか。それとも火傷。火傷は辛いという。ただ死ぬを待つことしか出来ない場合すらあるのだ、あの怪我は。
混乱し、絶望的な考えしか廻らない火村に、朝井はなにか言葉を掛けてくれているらしい。が、その言葉は右から左へと流れていく。
階を移動し、脳外科と書かれた案内板を横目にある診療室に連れ込まれる。脳、の言葉に火村はまた悲しい事態を覚悟した。
「先生、こちらが火村さんです」
カーテンを捲った先に居たドクターに、朝井がそう紹介する。童顔らしい丸顔のその男は、火村の顔を見ると、顔と同じくらい目を一瞬丸くして朝井の方を見た。
「こちらが、火村さん?」
「ええ。火村先生、アリスの主治医の小金井先生」
「小金井です。それにしてもあなたが火村さんですか、そうですか。いはやはそうなんですか。……しかし、あなたの方が死にそうな顔をしてらっしゃる。朝井さん、有栖川さんの病状を、どのように説明されました?」
「え、さっきエレベーターのなかで粗方……。火村さん、さきほどの話覚えてます?」
「先ほど?」火村は唇に手を当てて、記憶を辿った。「……いえ、すいません、耳に残っていないようで」
「ああ、先生、アリスのことになるとほんまからきしですね。はじめの私の説明も悪かったと思いますが」
ほんまに紙みたいな顔色になって……、と朝井は火村の顔を覗き込むと眉を寄せる。小金井はそこで二人が立ちっぱなしであることにようやく気付いたようで、目の前の丸椅子をすすめた。
「改めて、火村先生はじめまして。先生、ということは学校の教職員で?」
「大学に勤めております。そんなことは置いておいて、アリス、有栖川は」
火村の言葉に促されるように、小金井は目の前のカルテを手に持ち、火村の目を真っ直ぐ見て言った。
「今日の午前十一時半ごろ、意識がない状態で、こちらの病院に搬送されてまいりました。なんでも道を歩いているとき、出会い頭に自転車とぶつかったとか」
「自転車、ですか」
最近では自転車による死亡事故も増えてきている。有栖もまた、無謀運転の巻き添えを食らったのだろうか。
「なんでも頭を打ったということで、至急CTなどを取らせて頂きましたが、結果」
「結果」
「すこぶる健康です」
「……はい?」
医者はしかしですね、と深刻な声で告げてくる。
「念のために有栖川さんからもお話を聞きました。脳のダメージというのは決して侮ってはいけないものです。聞き取りの結果、記憶、認知、その他だいたいのところに於いて齟齬などは見られず、ここでも問題はないと思われます」
「……はあ」
傍から見たらあっぱれなほど気が抜けて見えるのではないか。勢いも気持ちもすっかりそがれた火村は、また違う混乱の渦に巻き込まれながらも質問をした。
「あの、そうしたらなんで」
「それがですね、火村先生」
小金井はその丸顔をず、と突き出した。そうすると圧迫感が増して、中国の女性か女子を模しているらしい、あの丸い被り物にも似ている。
「有栖川さんの話によりますと。火村先生とは大学からの仲だそうで」
「……確かに、その記憶に間違いはありませんが」
「卒業旅行にはお二人でマレーシア鉄道に乗り、それからも付かず離れずの付き合いを続け、ご自分が作家になられたときに思い切って告白、その後今日に至るまで、お二人で仲睦まじく過ごされていると。なんでも週に一度はお会いになられるとか。年単位になりますと、万年新婚と突っ込みたくなるほどですな」
「……へ?」
「マレーシアでもなにかあったそうですが、それは話していただけませんで」
「いや、そもそもなにもないですし、って、え?」
「そんなわけで、恋人の姿がないと非常に不安がられてましてねえ」
「えっと、ちょっと待って下さい」
火村は隣にいる朝井の顔を見た。
「冗談、ですよね」
「それがねぇ、センセ」
朝井ははぁ、と息を吐いた後、しおらしい態度を作って、
「昨夜アリスの部屋で飲んでな、今朝買出しついでに送ってもらってるときにそんなことになってなあ。でも昨日までそんな話しとらんし、ひょっとして隠してるんちゃうかな、って」
「それはないです、あいつが三ヶ月前に出版関係の吉野さんか吉原さんに振られたばかりだって、朝井さんもご存知でしょう?」
「あら、涼ちゃんとそうだったん? それはスキャンダル」
「……話したことはここだけの秘密に」
「ともかくですね」
小金井が話を仕切り直すべく、火村の顔を見ていった。
「大学で出会い、その後告白し、今日まで恋愛関係にある。有栖川さんのあなたに対する認識はすべてこのように書き換えられています。有栖川さんにとって、それが今の事実です」
事実です、と言われても。
「しかし、アリスは現に女好き、と言ったら大袈裟ですが、少なくとも私に恋愛関係を抱くなんて、そんな」
「今の有栖川さんはそうなんですよ、火村さん。彼の世界はそれで構成され、なんら矛盾を抱えてません。検査の結果待ちにはなりますが、これまでのところなんら異常が見つからない以上、心理的な作用による一種の混乱でしょう。恐らくは、短期間で元に戻る、と思いますが」
「が?」
「いや、記憶の書き換えなんて滅多にない症例なもので……」
小金井は丸顔をなぞるように、指で顔を掻きながら言った。
「まあ、とりあえずは様子見、ですな」
「様子見」
「まず、患者さんと会ってあげてください。有栖川さんも会いたがっていますから」
「ええ、会いますが」
「ただ、いまの有栖川さんにとってあなたは恋人ですので、その辺は留意してください。いたずらに混乱を招かないように」
「はあ」
我ながら間抜け以外の何者でもないな、と火村は脳のどこかでそう思った。朝井に案内されるままに病棟へと移動し、見慣れた名前がかかれた四人部屋の前に立つ。
「私はお邪魔やから、ここで待っとるわ」
「……お邪魔、ってなんですか」
「まあまあ、アリスにはよ会ってあげて」
楽しんでやがる。
内心でそう思いながらも、火村はそれを押し殺して病室の中へと入っていった。名札によるとあと一人部屋に入院しているらしいが、その何某の姿は見えない。
窓際のカーテンがしまった場所へと移動し、
「……アリス?」
とそっと声をかける。そのままカーテンを除けると、ぼんやりと上を見ていた有栖が火村の顔を捉えた。
「火村!」
どんな鈍感な人でも判るであろう、その目から溢れ出る感情を察知した火村は、その瞬間回れ右をしたくなった。
「……よう、相変わらず間抜けなやつだな」
「相変わらずとは言ってくれるな。こんなん滅多にないに決まってるやろ」
「どうだか、ったく目が離せないやつだよ、お前は」
「……心配、したか」
有栖が上目遣いでそう聞いてくる。火村は何と言おうかと口を開きかけて閉じて、そしてまた開いた。
「……当たり前だろ、バカアリス」
「どうしたん、早く入り」
玄関でぼおっとしてしまったところを、請われるままに大人しく玄関に入り、後ろ手でドアを閉めた瞬間に、有栖は火村に勢い良く抱きついてきた。
ぎゅう~、という擬音が似合う抱擁をしながら、明るく、そして少しだけ切なげに有栖は火村に告げる。
「会いたかったわ」
「そうか」
引き離すことも、しかし抱きしめることもせず、火村はそっけなく告げた。
「相変わらず冷たいな」
「……そんなことないだろ」
「だったら、もうちょっと甲斐性見せんか、甲斐性を」
これだ。
「はいはい」
請われるままにぽんぽん、と背中を叩くと、「舐めとるやろ、俺のこと」と抗議の声があがった。
「舐めてなんかないさ」
「やったら、子ども扱い」
「それは否定しない」
「なんやと」
「それよりも、いい匂いだな」
鼻を引くつかせながらそう言うと、途端に有栖の顔がぱっと変わった。
「今日な、美味そうながんもが売っとったから、それと銀杏とで煮物作ってみた。あと茸ご飯」
「……ちゃんと食えるのか」
「当たり前やろ、失礼やな君」
ただ安酒しかないんやなあ、と上機嫌で告げながら、有栖は改めて火村を家へと招き、自身は台所へと去っていく、その後に続きながら火村は深く溜息をついた。
「……一時的じゃなかったのかよ」
長い人生から考えたら、半年だって数年だって一時的には変わらないのだろうが。
火村は、居間に座ってそっと手を見た。
そして有栖の感触を思い出し、ちょっと太ったかもな、いや早くも着膨れか、とつらつらと考える。さっき間近に見たとき、肌にちょっと吹き出物が出て来ていた。今週頭が締め切りだったから、恐らく無理をしたのだろう。
――って、いきなりなに考えてるんだ。
なんとももやもやした気持ちになってまた息を吐くと、ふとコーヒーのいい香りが鼻腔を刺激した。
「あんまり溜息ついとると、幸せが駆け足で逃げるで」
火村の前にマグカップを置いて、有栖自身は立ったままコーヒーを口にしながらそう火村に言う。
「迷信は信じねえから逃げないだろうさ」
「また屁理屈言いおって。……疲れてるな、大丈夫か?」
有栖は優しく微笑んで、火村の顔にそっと触れる。その手の平の感触に、火村は少し、息を詰めた。
「なんか痩せたんちゃう? 無理難題でもあるのか?」
そりゃお前のことだ。
そんなこと勿論言えない火村は、笑い返して逆に、
「そりゃお前だろ。顔、疲れてるぜ」
「締め切り明けや、しょうがない。ありがとな、だから君も無理すんな」
「大丈夫だ、してねえよ」
「ほんま?」
「ああ」
「そっか。……って、なんかむかつくわ」
ぽす、と人差し指で火村のおでこを軽く小突きながら、俺には遠慮せずに甘えればいいんや、そう言って有栖はまた台所へと戻っていく。どうも火村の態度につむじが曲がったらしい。それが彼の優しさからくるものだと思っていても、さすがにこればかりはどうにも出来ないことだ。
そのまま向こう側に消えるかと思ったら、またくるりと振り返って、
「まあ、いざとなったらどーんと支えたるから、頑張ってつっぱとき」
「ふん、それはこっちの台詞だ」
「その意気、その意気。火村」
「なんだ」
「でも無理すんな」
ぴし、と言い切って有栖は今度こそ台所へと入っていく。
そのときの顔の凛々しさが瞼に焼きついて、火村はまた頭を抱えてしまった。
「本当に……」
思わず小声で呟いてしまう。
なにって、お前、力いっぱい岩戸を開けちまったんだぞ。
全くやってられないとばかりに煙草の封を切りながら、火村はそう自嘲した。
有栖と出会ってもう十年以上。居心地がいいとか傍にいるとなんとも安らぐ、とかそんな友情からやや超えた気持ちは昔から持ちえていた。
しかし、だ。
最近のこの騒動のおかげで、火村のその端数に立派に名前がついてしまったのだ。
「……ったく」
おいどうすんだよ、お前。俺はお前に惚れてたらしいんだぞ。今までも、今も、そして多分これからも。
強引に火村の気持ちを引き出した本人は、今日も明日も『恋人』に愛嬌と思いやりと幸せを振り撒いてくれる。しかし、それは医者の言葉を借りるなら「一時的な混乱」で、正常な有栖の本心ではないのだ。
これで誘われるままにキスした途端、おとぎ話よろしく勝手に夢から覚められて、「なに俺のこと抱きしめてるん? 酔ってるにしても気色悪いわ」なんていわれた日には多分一生立ち直れない。
好きだと自覚したそのときから気持ちは勝手に育ち始め、いまやあんなことをしたい、とかこんなことをしてやりたい、とか妄想に近い願望にどっぷり首から遣ってる状態だ。
いっそのこと勢いに任せて既成事実だけでも、と魔が差すこともないわけではないが、やっぱり本心から愛し愛され、晴れて互いの立場がクラスチェンジしたところで、初めていろいろ致したい。
青春期以来のそんな青くて笑ってしまう悩みにどっぷり遣っていることを、とうの有栖は全く知らず、無頓着に無防備に、いつも『恋人』に甘えてくるのだ。
ああ、いったいどうしてくれようこの状態。
「なにをどうしてやりたいんや?」
「……いつからいたんだ」
「素直に驚いた、って認められんのか。さっきからぶつぶつと一人でなにぐるぐるしとるんだか。傍から見たらちょっと怖いで、それ。だから俺に言えばええやん」
「……まあ、いつかそのうちに」
曖昧に誤魔化す火村に、有栖は器用に眉を顰めて大袈裟に溜息をついた。が頭を軽く振ってまたにっこりと笑う。
「とにかく、飯」
「ん、じゃ頂くか。ありがとうな」
「どういたしまして」
気付けばダイニングには、がんもの煮物と茸の炊き込み御飯、漬物に秋茄子の和え物そして味噌汁がバランスよく並べられている。だしの上品な香りが、ぷん、と鼻に匂ってきた。
「こりゃ確かに美味そうだな」
「やろ? そろそろ君に追いつけるかな」
「案外追い越してるかもしれないぜ」
「それはない。君の煮付けなんか絶品や」
「……それは今度な」
「ほんま? 楽しみにしとるわ。あと砂肝の炒めもな」
頂きます、と手を合わせ、まずは白雪を一口、としたところで、有栖が自分と向こうのソファをじっと見詰めていることに火村は気付いた。
「……どうした?」
そういうと、有栖はちょっと照れた笑顔で、
「なあ、火村」
「なんだ?」
「あんな」
「だからなんだよ」
「頭の怪我も完治したようだし」
「ああ、良かったよ。本当」
「やから、そろそろ、一緒に寝えへん?」
勘弁してくれ。