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    夏を見渡す部屋 嫉妬されることには慣れていない。独占欲を向けられることも、焦がれる対象として見られることも。
     昔、ごく普通に幸せだったころは、偶然に出会い、平穏な恋をして、そして和やかに結ばれたから、嫉妬や焦燥感といった激しい感情とは無縁の生活だったのだ。
     しかし過酷な世界へと身を投じ、苛烈な日々に自分の総てを捧げ、そして最後に平凡な生活と家族が失われたあとは、すべてに対して無関心を装うことにして、他人の感情から遠ざかることにした。人ひとり、正確には二人守ることも出来ない男だ、どぶねずみにはどぶこそがふさわしい。もともと人をコマとして観察し、そしてゲームに勝つためだけに算段をするような人間だったことを思い出したときには、社交的でなぜか人好きのすると評判の男はどこにでも入り込む油断ならない奴だと見られるようになり、やがてただの冷たく容赦がない厭世家と評されるようになっていた。
     しかし、長いものに巻かれることだけはどうしてもできない。どんなに非道にふるまおうとも、生まれついての性分だけはどうしても変えられない。
     ――あなたのそのまっすぐなところ、だいすきよ
     耳に残る声まで捨てたら、ついに人間ですらなくなるだろう。たった一つの拠り所に忠実に行動した結果がこれだ。

    「辞令:後藤喜一警部補 警備部特科車両二課への異動を命ず」

     行く先で待っているのは、警備部で持て余され、ついには厄介払いをされた女が一人。いつでも出せるよう辞表を胸に、韜晦している装いで、ひとり、埋立地へと去っていく。

     まさかその地の果てですべてが変わるなんて、その時は思ってもいなかったのだ。

     夕暮れも近い街の影を眺めながら無遠慮にあくびをすると、目の端でしのぶが眉をしかめるのがわかった。
    「ごめん、行儀悪かった?」
    「行儀が悪いのは昨日今日の話じゃないでしょ、それより、職務への心配の方が先立つわね」
    「心配してくれるんだ」
    「職務上の心配ってきちんと断ったでしょ。まったく最近ずっとあくびばかりで……大丈夫?」
     職務上、と何度も断りながら、それでも最後には後藤本人への憂慮がにじみ出ていいる。そのことが、後藤の心を少しだけ浮上させてくれた。
    「いやさ、最近寝不足気味なだけ。休みにちゃんと寝れば、治るよ」
     本当は人生何度目かの不眠症状態なのだが、それを伝えるつもりはない。嘘にならない程度に、いつも通り大したことではないことのように答えると、しのぶは安心したとばかりに体のこわばりを解く。こと二課棟にいるときや制服を着ているときは、しのぶは強い理性でもって感情を制御しているのだが、後藤から見ればそれでもなお、しのぶの身体は雄弁に内心を伝えてくるものだ。
    「寝不足で参ってるだなんて珍しいわね。タフぐらいしか売りがないのに」
    「ひどいなあ」
     わざとらしくむっとした顔を作ると、しのぶは書類に目を落としたまま優しい笑みを浮かべて、
    「まあ、明日は思う存分寝ることね。いつの話かわからないけど、第三小隊が正式発足するまでは、あなたが元気でいないと困るのよ。私も」
     最後は小声で、しのぶ自身のために付け足された言葉のようだった。そのささやきは、だいぶ痛んできたお気に入りの毛布をなお抱きしめるような、そんな切ない色がついているように感じられて、後藤の心に小さなさざ波が立つ。
    「だったらさ。お見舞い、来てくれる?」
    「え?」
     しのぶは、視線だけ後藤の方へと向けた。瞳にかすかな迷いの色が浮かび、乱れるように揺れる。そのことをあえて流して、後藤はさらに畳みかけた。
    「だってさ、疲れてるときって好きな人と過ごす時間が一番の薬っていうじゃない。……それに、そろそろ来てくれると、嬉しいんだけどな」
     後藤のさらなる懇願にしのぶはついに顔を上げた。表情なく後藤の方をじっと見てくる様子から、後藤の言葉に乗ったなんらかの感情をくみ取ったのだろう。そして小さくため息をついたあと、
    「――まったく仕方ないわね。でも早く行けるわけじゃないんだから、癒しとかそういうことは過剰に期待しないでちょうだいね」
    「ほんと? 夕飯用意しておこうか? それともいつもの蕎麦屋で親子丼取っておく?」
    「明日だと出るのが……そうね、九時を過ぎるだろうから、途中で食べていくわ、結構よ。だいたい、思う存分休むんでしょ」
     最後、さも駄々っ子に対して気を使っている風な暖かみを付けたして、しのぶは不器用に微笑んで見せた。後藤もしのぶの笑みに乗ることにして、「いやあ言ってみるもんだねえ」と冗談めかして部屋の空気を和ませる。
     後藤が二課に赴任してきてからこの秋で四年になる。つまりしのぶと出会ってから四年ということだ。その間に様々なことがあり、様々な出来事に伴って二人の関係も変化していった。いつしか惹かれ合い、想い合い、そして付き合い始めてからは一年と半分ほど。二人で積み重ねてきた年月の厚みが、いつしか後藤を真綿に埋もれていくように悩みへと引きずり込んでいく。
     あるいは、日が翳り夜が広がっていくかのように。

     睡眠不足特有の頭痛をうまく抑えてくれよ、と祈るような気持ちで薬を飲みこみ、後藤は畳に横になった。
     今日の天気は梅雨らしく曇り時々にわか雨、テレビからは天気担当の若い女子アナウンサーが、さわやかな声で明日は雨の中休み、朝からさわやかな青空が広がります、と伝えてくる。明日じゃ遅いんだよなあ、と後藤はごろりとテレビに背を向けながら、山積みになった洗濯物を思い出して低い声でぼやいた。
     昨日もろくに眠れず、曇天の日特有の弱弱しい光の中、ただひたすらに寝がえりを打って、夜が明け切るのを待った。溜まっている家事に追われれている間は、余計なことを考えなくて済むからだ。
     自分のことで深く悩んでいるときは体を動かして、少しの間でも頭を空っぽにするといいですよ。
     昔もらったアドバイスは、後藤にとっては小さいながらも確実に効く魔法の呪文で、実際八時を過ぎて、どこかぼやけた意識の中でも起きて身なりを整えて、丁寧に掃除をし、台所と風呂を磨き、買い物に行き、ささやかな食事と常備菜を仕込んでいるあいだは、いつも通りに鼻歌を歌って、気楽に一日を過ごすことが出来た。しかし、やることが途切れ、あとは居間に座ってテレビを見ながら呆けるだけになるとやはりだめだ。
     周りからは人間離れしているとか頑丈にもほどがあるなどと好き放題評されているが、それは気を抜くときと張るときのメリハリのつけ方と体力の割り振り方を、駆け出しの刑事だったころに散々叩き込まれた賜物ゆえで、後藤にも中年に相応しく限界はある。ただ、その限界や弱さを、決して誰にも悟られてははいけないと、やはり昔、公安で散々叩き込まれただけだ。
     しかしどれほどの超人であろうが、抱え込んでいると無理が出てくる。男らしく、刑事らしく、さらには公安らしく。そんな規範を無自覚のうちに受け入れたまま、いまもそれを突き放し、切り離すことがどうしてもできない。思春期の頃から考えすぎると眠れない傾向はあったが、他の人よりは妙な方向に充実させてしまった大学時代を経て、警察学校を出て交番に配属されたころには、内側に抱え込む沈痛や苦悩が不眠症という形で明確に後藤を蝕むようになった。
     今は曲がりなりにも中間管理職であるし、まだ若い部下たちを率いる人間なりのけじめとして、昔取った杵柄を活用し、他人には自身の不調を悟らせないようにはしてきた。ただ、しのぶにだけははったりが通じないらしい。しのぶが後藤についてある程度正確に推し量れるようになってきただけでなく、後藤自身が、彼女の前では気を張らないようになってきている。その慣れが、後藤にはどこか恐ろしい。
     さらにもう一度転がり、すすけ始めた天井を見つめる。ニュースはスポーツコーナーになり、担当アナウンサーが、広島がこの時期ながら中日と並び同率首位になったとテンション高く伝えている。ということは、そろそろしのぶが来る時間だろう。
     もしニュースの首都圏版で、アナウンサーが一言でもどこどこでレイバーが、と言おうものなら、後藤は自分で来てほしいと懇願しておきながら、相手のことを思いやる振りをして、また今度でいいいよ、と連絡しようと思っていた。そんなことは二年弱の交際の中で初めてのことだった。
     一年と半分。声に出さずそうひとりごちる。
     同僚として出会い、付き合い始めてもう一年半。それほどの時間を分け合いながら、彼女が自分をどこまで好きか、いや、自分のどこが好きなのか、後藤にはいまだ皆目わからない。
     ただ、一度はすべてをあきらめたというのに、また人に恋焦がれ、誰かを心から欲するようになること自体、自分でも予想も理解もできなかったことなのだから、ましてや他人であるしのぶの内面なんて推測しようとしても無理な話なのだろうが。
     手を繋ぐことすら緊張する微笑ましいデートから始め、キスをして、抱きしめて、体温を分かち合い、沈黙を共にして。そうして二人とも季節と年齢を重ねてきた。出来ればいつまでも長い春にまどろんでいたいが、それは後藤の勝手というものだ。若い二人ならともかく、四十を過ぎたやもめの自分が、三十半ば過ぎまで独身を貫いてきたしのぶとこのまま付き合い続けるのなら、いい加減二人の将来について考えなければならない。
     事実婚という選択肢もあるが、現職、それも職場が同じ管理職が同棲というのは、しのぶがあまり歓迎しないであろうし、今の状態をずるずると続けることと大して変わらないように思える。するとやはり、結婚ということになるだろう。
     再婚となる自分のことはいい。しかし、しのぶはどうだろうか。
     さすがに出世は諦めたとしても、キャリア志向なのは変わらない。そんな彼女が自分と結婚なんて平凡なことを望むだろうか。ましてや、警視庁一の厄介者と一緒になることは彼女の足かせになるのではないか。
     さらには。後藤は一人黙々と考え続ける。
     そもそもしのぶと後藤を閉じ込めておくための箱ともいえる我が部署だ。泉や篠原といった若く前途がある隊員たちならともかく、自分たちがプライベートでどうなろうが異動はないだろう、と後藤は踏んでいる。そう考えてるくせに、これが自分にとって都合の良い甘い観測でしかないことも後藤は承知している。本庁の誰かが自分たちを閉じ込めておく、という消極的な策を捨て、どちらか一人、あるいは二人とも、ここよりさらに力を発揮できない場所へと追いやる口実に使うことも考えられるし、さらにはしのぶに対しては、女性職員への慣例を盾に退職を迫る可能性も十分ある。
     こうして女性にとってデメリットになりそうなことばかり数えているのも、所詮はごまかしだ。後藤はそのことも、よく承知している。好きな人と手と手を取り合い、二人で歩く幸せを手放したくはないくせに、まだ、最後の最後で、また誰かと人生を共にすることを恐れているのだ。しのぶのためと言いながら、一皮むけば自分のことしか考えていない。
     彼女を失ったあと、また一人になるのが怖いのか、それとも、しのぶを傷付け、損なうかもしれないのが怖いのか。――さらに奥底にあるどろどろとした欲望を隠し通したいのか。しのぶからも、自分からも。
     全く吐き気がするほどの保身だ。
     こんなんだから、向こうも足が重くなるんだろうなあ。後藤は深いため息をつきながら、まるで他人事のように思う。
     しのぶが後藤の家を訪れる頻度が少しずつ減ってきていることに気付いたのは、つい先日のことだった。そしてこのひと月は一度も。
     もともとどちらかの非番や遅番を擦り合わせてしかろくに逢瀬も出来ないのだから、頻繁にデートを重ねているわけでもない。そしてしのぶが家に来るときは、二人そろってどこかで舌鼓を打って互いにほろ酔い気分になったときがだいたいで、まれに彼女から訪ねてくるときは、とっくに鍵を渡してあるというのに、いまだに律儀にベルを鳴らすほどだ。そのような常日頃だから後藤も気付くのが遅れたし、逆に、彼だからこそ気付けたともいえた。
     煩いに耽るのは一人のときだけにしていたつもりだが、いつの間にか外へと漏れていたのだろうか。否、それでなくても職場で、私生活で時間を共有し合う仲だ。いつの間にかしのぶは後藤の機敏に敏くなっていた、それが通じ合うことだと、長らく独りで閉じていた後藤はすっかり忘れていた。
     相手のことを考えているのか自虐趣味に浸っているのか。それでなくても魑魅魍魎とまで例えられる普段の佇まいだというのに、そこに曖昧模糊とした悩みを抱えていると悟ったら、さすがに得体が知れないと敬遠もしたくなるだろうし、言ってこないほどの悩みなのだからとあえて放っておこうとも思うかもしれない。ただ、どちらにしても、しのぶの目に浮かんだ光からは、彼女もなんらかの不安を抱えているように見受けられた。それも、昨日今日からではなく以前から。それが一層後藤を焦心させる。
     もしくは、――時間切れなのかもしれない。
     昔のように、生温く曖昧で、なにも得られない代わりになにも失わない関係に戻ることが出来ない以上、選択肢は二つしかないように思われた。
     一緒に暮らさない?
     それとも、もう、しのぶさんを縛るのも心苦しくなってきたよ。
     彼女を得るのか、自由にするのか。どちらも後藤の本心からの願いだ。だが、どちらも後藤にとっての未来図でしかないことも、後藤はやはり自覚している。
     後藤は二課に来ることで救われた。素直で若く職務に燃え、後藤に信頼を返してくれる部下たち、そしてなにより、後藤に嫌味をいい、叱咤をし、部下のことで張り合い、誰よりも厚い信頼を寄せてくれるしのぶによって。
     しかし彼女はどうだろうか。自分はしのぶになにかを与えたか。彼女になにを差し出せるのか。――自分は、人を幸せに出来るのか。
     そのとき不意に、玄関のベルが鳴らされる。幕間の終わりを告げる合図だ。どのような幕切れになるのか見えないまま、後藤は身を起こし、テレビを消してからのろのろと玄関の鍵を開けた。
     蛍光灯がすす汚れた薄暗い廊下に立つしのぶは、いつもより顔色がないように見受けられる。グレーのテーラードジャケットの下、薄い水色のVネックTシャツにキャメル色の美しいラインのスカートはいつもならしのぶの美しさを際立たせるのに、今日は日に焼けて消えかけたポスターのような、弱い印象を与えるばかりだ。
    「……いらっしゃい、お疲れさま」
     招き入れながら静かに一日を労うと、しのぶはありがとうと微笑み、靴を脱いだ後そっと後藤を仰ぎ見た。この顔はごくごくたまに見る。彼女が状況を受け入れて、さばさばとした心境になっているらしい時のそれだ。と、表情を少しだけ崩して、まるで困っているかのような雰囲気で、口元を少し上げた。
    「酷い顔、してるわね」
    「え」
     後藤が戸惑い気味な反応をしたのを見て、しのぶはもう少しだけ笑みを深める。そうすると、今度はどこか寂しそうな色が乗った。
    「とりあえず座ってよ、コーヒーでも入れるからさ」
    「……今日はお茶をいただけるかしら」
     ジャケットを抜ぎ、鞄を定位置に置き、勧められるままダイニングの椅子を引きながらしのぶが言う。「お茶ね」、後藤は電気ポットの湯量を確認し、すし屋で貰った色気のない湯呑と口が少し欠けた急須を取り出した。急須にお湯を注ぎながら、どこか緊張しているのは二人とも同じだと思う。彼女が仕事上がりに好んで飲むコーヒーではなく、わずかとはいえ手間のかかる煎茶を所望したのは、少しでも時間がほしいからだろう。しかし、どんなに丁寧に茶を入れても、かかる時間はせいぜい三分ほどだ。静けさと緊張感がないまぜになった沈黙の中、いつも通りに向かい合った椅子に腰を下ろして、淡々とお茶を入れ、そしてしのぶに差し出した。時間をかけて丁寧に入れたつもりだったというのに、手に伝わる温度は適温より熱く、水色はいつもより薄い。
     喉が渇いていた。せめて言葉だけは誠実であろうとしても、声が上あごの奥の方にひっついて取れないぐらいには。どちらも無言のままお茶をすすったあと、先に口火を切ったのはしのぶのほうだった。
    「いいのよ、別に」
     応答するのに、少しだけ間が開いた。
    「……いいの、ってなにが」
    「なにが、って一切合切よ」
     湯呑を置きながら、しのぶは同じトーンで続ける。
    「最近なにやら悩んでるようだけど、無理に答えを出さなくても、いいんじゃないかしら」
    「悩んでるように見えた?」
    「悩んでなかったつもりなの?」
     そうまっすぐ返されてしまうと、普段通り上手くはぐらかすことは出来ない。後藤は一呼吸置きたくなり、もう一度湯呑を煽った。
    「いや、悩んでないかと言われれば、違うとは言えないけどさ……。答えを出したいというか、なんと言いますか」
     適温よりやや熱いお茶をすすっても、この喉の渇きは収まりそうにない。語尾をごまかす後藤の態度からなにを読み取ったのか、しのぶは後藤の顔を見て、ことさら言い切る調子で、
    「最初に言っておくけど、もう三十路も半ばだし早く結婚したいとか、そんなこと別に思ってないわよ。ましてやあなたとは」
    「え、そうなの?」
    「それに、女の幸せなんて二十世紀的な価値は私には関係ないし、なにより私の幸せは私が決めますから、お気遣いなく」
     結婚を申し込むべきかそれとも。そんな風に悩んでいたくせに、向こうから自分との結婚を考えていないと言われると、彼女らしいと納得してしまいながらも、やはり勝手に傷ついてしまう。
     それにしても。
     しのぶが自分の勝手でどうしようもない悩みを見抜いていたことへの驚き以上に、後藤はしのぶの口調が気になった。普段と同じくさばさばと白黒をつけていく然としているが、まるで感情がないのだ。後藤と真逆でどちらかといえば今の気持ちを隠そうとしないし隠せないしのぶには珍しく、言葉に色がない。
     後藤はさりげなく、テーブルに置かれたしのぶの左手へと視線をむけた。やや乾燥気味で女性らしく小さいが、現場で荒く使い込まれた堅牢な手が、今日は心なしか強く結ばれてるように後藤の目には映る。
    「俺は……結婚したいって、思ってるよ。ずっと」
     試しに本音の片方を口にしてみる。後藤の口から結婚、という単語が出た瞬間、しのぶの左手に一層力が入った。
    「あらそうなの?」
     意外を装うように目を丸くし、「ここは意見の相違ね」と小さなため息をつく。少しだけ早口になったその様子を見て、後藤は一つの確信を得た。しのぶは平穏を装おうとしているのだ。しのぶが後藤のことの大体を推測できるようになっていたように、後藤もまた、彼女の事ならだいたいのことは推測できる。それだけの時間を、二人は共有してきた。
    「ねえ、しのぶさん」
     やや強めに名前を呼ぶと、今度はかすかながら全身に一瞬力が入るのが見てとれる。だが、それでも何事もない振りをして、しのぶは返事をした。
    「なに」
    「あのさ……、本当のこと言ってよ。他に言いたいこと、あるでしょ」
     そんな緊張しないで。無理しないでいいから。
     後藤のそんな願いはしかし口から発せられず、見つめる目から伝わるなんて都合のいいこともなく、したがってしのぶは態度を崩さず、職場でよく見せる、しっかりと区切り線を入れるような態度で答えてきた。
    「もちろん本音よ。遠慮するわけないじゃない」
    「ウソは別にいいよ」
    「だから言ってるわよ、あなたが本音で話しているようにね」
     しのぶの一言に後藤は絶句した。
     彼が本音を晒せないのはもはや性分でもあるし、ましてや今は、自分勝手でみっともない弱さを、相手に対して平然と見せるなんてことを出来るわけがない。
     互いに本音を披露できないというならば、大人同士に相応しく、そのまま本意を隠し合ってこのまま二人でいることが、一番愚鈍なようで平穏な解決方法であると言える。人はすべてを相手に明け渡すなんてことはできないと、大人なら誰もが知っている。しのぶが言外ににじませてきた提案は、ひどく蠱惑的なものに思えた。
     後藤はしばらく沈黙したのち、息を吐いて、ひとつ覚悟を決めた。
     そろそろと顔を上げて、しのぶの目をしっかりと見つめて、こう問いかけたのだ。
    「あのさ、……しのぶさん、幸せ?」
    「え?」
    「幸せを俺が決めるんじゃない、誰も決められない。それは分かってる。もちろんわかってるよ。……でも」
     後藤の言っていることを上手く受け止めきれないとばかりに、しのぶは目を見開いた。ただ、その瞳には純粋な戸惑いばかりではなく、もう少し薄暗く澱んだものも孕んでいるように感じられ、後藤は内心で当惑する。それは長くしのぶを見つめてきた後藤であっても、初めて目にするような色だったからだ。
     しのぶは自身のそんな複雑な感情を隠すこともできないまま、しばらく後藤を見つめてくる。
     なお取り繕ろうとするのか、それとも。
     後藤は黙って、しのぶの言葉を待った。
    「……初めてこの部屋に招かれたのは、もう一年も前になるかしら、それとも、もう少し後だったかも」
     しのぶがまるで告解をするようにひそやかに口を開いたのは、静寂が霧雨のように部屋を満たしたころだ。
     呼吸をするほどに息が詰まりそうになる緊張の中で、しのぶは遠い目をして、続きを話そうとしては、やはり口を閉じることを繰り返す。そして、普段そうであるように親指を軽くかみしめながら、出来る限りの慎重さで言葉を探っているようだ。そしてとうとう心を固め、手を口元から離し、深く一呼吸した。
    「初めて招かれた、その日に思ったのよ、この人とは結婚は出来ないんだろうって。だから、今のままでももう十分よ。……どうかしら、これで答えになった?」
    「いや……全く」
     後藤は戸惑いを隠すこともせずに正直に答えた。彼女はいったいなにを言っているんだ?
     そんな男の態度を見て、でしょうね、としのぶは知ってたとばかりに頷く。「無意識のうちのことなんて、自分ではわからないものだもの。たとえ抜け目がないあなたであっても」
     そう言って薄く笑う。その脆い表情はあまり彼女が見せる類のものではなかった。
     途端、後藤の胸にちりちりとした後悔が沸き起こる。そんな顔をさせたくはない。させたくないからこそ、これからも彼女の傍にいていいのかと、ずっとぐずぐずとしていたというのに。
    「じゃあ、教えてくれない? 俺さ、自分のことが一番わからないたちなもんで」
     彼女が発する言葉が自分にとって酷なものでも構わなかった。しのぶにそんな笑みを浮かべさせるような感情なら、すべてここに吐き出していって欲しかった。
     飄々としている風を装ってもどこか必死な気持ちが声からにじんだのだろうか。しのぶは後藤を見て、先ほどと同じ笑みを浮かべた。自嘲に一番似ているが、それ以外のものも多分に混ざっていて、まるで迷彩をまとったかのようだ。
    「どうしても聞きたい?」
    「そりゃあね」
    「相変わらず強引ね」
    「そうかな」
    「そうよ、それに」
     それに、と勢いのまま続けようとして、そこで我に返ったようにはっと口をつぐみ、目を伏せる。だがそれも刹那、ついに観念したかのように顔を上げ、後藤の目をしっかりと見据えて、しのぶははっきりと言い切った。
    「端的に言うわ。……この家にはないのよ、私の場所が」
    「そりゃ四十も過ぎた独身男の部屋なんて居心地が悪いものとは思うけどさ、でも何言っ」
    「そういう事じゃない」なんだ、と言わんばかりの後藤の言葉を、しのぶは鋭く否定した。「そういう事じゃないの。あなただって本当は分かってるくせに。――だからでしょ、初めは外で会うことしか、頭になかったのも」
    「そうじゃなくてさ、俺だってそりゃ気合入れたいし、見栄ぐらいは張りたいよ。初めからこんな色気のないところに呼ぶぐらいなら、心底惚れてやっとのことで口説き落とした女にはさ、少しでも格好つけたいじゃない。男だもんそれくらいは許してよ」
     そう、初めは似合わないとわかってても恰好をつけて、彼女に相応しく、そして彼女の居心地が良いようにと、大人に相応しい良い食事と、サービスの良いホテルで。
     何度も逢瀬を繰り返して、いよいよしのぶを自宅へと誘ったときには、培った年の功でうまく態度を繕いながらも、内心は年甲斐もなく緊張でどうにかなりそうだった。話し合いの場所として居間を提供するのとはわけが違う。私生活の一番奥の、日常という繊細な領域へとあなたを招き入れてもいいかと、彼女に許可を請うことと同じだからだ。
    「でも後藤さん、最初に家に呼ぶとき、相当の覚悟だったんでしょ」
     そんな後藤の気持ちを見通しているように、しのぶはさらりと指摘する。
    「わかってたの?」
     しのぶはかぶりを振った。「来て、はじめて分かったのよ」。そして喉が渇いたのだろう、お茶を勢いよく煽ると、静々と家を見渡した。広くはない上にふすまを開けているから、そうするとすべてが彼女の視界に収まることになる。
    「……ここはあなたたちの場所であって、わたしたちの場所じゃない。私もそれに気が付いただけ」
     しのぶがささやくように口にした言葉は、不意すぎて後藤を動揺させるには十分だった。
     突然世界が真空になったかのように、すべての音が消える。空気の動きでさえも。
    「しのぶさんちょっと待って。……あなたたち、っていうけど」
     誰のことなの、と聞こうとして、しかしなぜか言葉は続かなかった。その先を聞くべきか、その先を彼女に言わせるべきか、いやたぶん、その先は聞きたくないのだ、そして彼女にだけは言わせてはいけないのではないか――。
     果たしてしのぶは、一呼吸おいて、シンプルにただ一言だけ述べた。
    「あなたの、奥さん」
    「俺の、奥さん…?」
     茫然として繰り返すと、しのぶはついに後藤から目をそらした。顔は色をなくして、すべての感情をそげ落としたマネキンのように蒼白になった。
    「ゆうこさんって方なんでしょ。……だから、ここはあなたとゆうこさんの場所で、私の場所ではないってだけの話よ」
     しのぶの言葉のひとつひとつが、はじめ後藤には全く理解できなかった。
     しかし、しのぶの強張り、触れば割れてしまいそうな気配は、決して聞き間違いではないことを後藤に伝えてくる。
     急に口の中がカラカラになった。干からびたように、喉がとげとげとしてくる。
    「……なんで、佑子のことを」
     あなたが知っているの。そう問いかけようとして、やっとしのぶの言ったことが脳に染み込み、ついに声にならないほどの激しい混乱に襲われる。
     温かさと幸せしかなかった日々の情景は、ただ夏の日の逃げ水のように揺れながら、後藤一人の胸に閉まってあることだった。このダイニングで、向こうの居間で、その奥の寝室で。すべての部屋に彼女の姿があり、しかしそれは後藤一人だけが知っていればいいことだ。
     なのに、遠い昔に世間話の延長上でただ一度だけ明かした、妻子が亡くなったという簡素な概要以外何も知らないはずのしのぶまでもが、まさかこの場所に亡き人の影を見ているとは。
     突然、部屋が深い海の底に沈んでいくような幻想に後藤は襲われる。早く二人とも水面へと上がらないと、周りからの重みに潰されてしまう、だから、早く――。
    「ねえ知ってる?」、しのぶは混乱したままの後藤を他所に、ついに堰を切ったように話し始めた。名前を出したことで、砂防が決壊してしまったかのようだった。
    「あなた、奥さんの名前を呼ぶのよ。ゆうこ、って、小さな声でとても幸せそうに。……夜中、寝ているときにね、何度も、何度も。
     でも……だからこそ、邪魔はしないし、したくもないし、するつもりもないのよ。だってそうでしょ、これまで最大限の気持ちを示してくれて、十分に尊重してくれてるし。――それに、二人の人間を同時に愛せるほど器用な人なら、きっともっと違ったはずだもの。……だから。ああ、もう、だからさっきから言っているでしょ、わたしは別にいいって」
     言葉を重ねるにつれて、しのぶの顔に強い羞恥の色が、わずかに遅れて後悔が現れ始めた。感情のまま走らないよう、努めて冷静に話そうとするほどに、また先ほどのように左手が強く握られていくのがわかる。小刻みに震え、最後は血が一筋、にじむのではないかというほど。
    「しのぶさん……」
     後藤はいたたまれず、しかしどうしていいかわからないまま、とっさに彼女の名を呼んだ。
     そして立ち上がり、しのぶのそばへと寄る。隣に座ろうかそれとも抱きしめようかと一瞬迷い、しかし結局、その間をとるような形で傍に膝立ちになって、やや覗き込むような視線で彼女の顔を仰ぎ見た。しのぶは傍に来た後藤に一瞬だけ視線を合わせ、無理に口元でだけ笑って見せる。そして羞恥にまみれたままの顔で小さくため息をつくと、肘をついて顎をのせ、遥か向こう側を見るように視線を送った。
    「……こんなはずじゃなかったのよ」
     心の底から大きな石がようやく出てきたような、そんな声だった。
     後藤はなにが、とは聞けなかった。今のことなのかもしれないし、あるいはすべてなのかもしれなかった。
    「そもそも、本当に恋愛願望も結婚願望が強いわけじゃないのよ、出会いを求めてたんなら、それこそ都市防災のころの同僚にでも連絡すれば、本庁なりどこかの誰かでも紹介してくれたのだろうし。……もちろん知らなかっただろうけど、前の同僚にはけっこう心配されてたのよ、よりにもよってあの後藤喜一と、あんな地の果てに閉じ込められて、って。
     ……まあ、ともかく、その後藤喜一と恋に落ちるなんてことは、初めて会った時には想像することすらなかったのよ」。そこで一旦口を閉じて、今度はまるで途方にくれているかのようにつぶやいた。「だいたい、いまだに、私のどこがいいんだか、まったくわからないの」
    「どこが、って。……本当にわからないの?」
     未熟者とはみ出し者ばかりが集まった第二小隊が発足してすぐ、過激派が乗っ取ったレイバーを浅草から上野へと追い込み二隊総がかりで抑え込んだあのとき、しのぶが桜の下を歩く姿に見惚れた瞬間を、後藤は今も鮮烈に覚えている。
     その後ろ姿から目が離せないまま、視線だけで歩く姿を追っていく。見つめられているなどとは知る由もない彼女が髪をまとめていたゴムをほどき、夜桜の下、艶やかな黒髪を端然と広げたそのとき、後藤はついにはっきりと自覚したのだ。届かない憧れと同様に去らない思い出の中は、どこまでも優しいだけだった。しかし、また時間の流れの中、感情が怒濤のようになだれ込む、人間関係の只中へと、再び自分は足を踏み入れていたのだと。
     二課へと赴任してから初出動まで、たった半年強だ。生真面目な頑固者、上司だろうが誰だろうが筋を通すためなら空気を読まず真正面から切り込んでいく無鉄砲。そんな評判に違わず、しのぶはそれまで誰もが優しさをカモフラージュにして敬遠し、あるいは事務的な態度で嫌悪感を隠し、そうして忌避されてきた男に平気で近づき、さらには平然と切り込んできて、そのわずかな期間で後藤を彼方から現世へと連れ戻してみせたのだ。もっとも、自分がどれほど大胆なコミュニケーションを取って見せたか、しのぶは気付いていないようだったが。
     気が強く、頑固で、互いに遠慮をすることなく丁々発止にやりあえる、ようやく得ることが出来た、ただ一人の相棒。
     ――そうだ。後藤は唐突に気が付いた。
     特にここ数ヶ月自分のことばかり考えていたせいで、すっかり見落としていたことがあるじゃないか。
     一人前の大人のつもりでいたくせに、目の前の人のことすら全く本当に、なにも見えちゃいなかったのだ。
    「どこがとかじゃなくてさ。俺、他の誰でもなくて、しのぶさんじゃなきゃだめなんだよ」
     照れてる場合ではないと、誤魔化さずにてらいなく伝えると、まるで声につられたかのように、しのぶは後藤を見やった。滅多にないまっすぐな物言いに、寝耳に水とばかり目を丸くしている。先ほどの磨き上げられた能面のように美しい顔より、よほど魅力的だ。
    「だからさ」、後藤は続けた。
    「だから?」
    「だからさ、言ってよ。そうじゃないと、始まらないから」
     別にいいの、なんて言う女じゃない。
     相手を気遣うと思い込んで、目の前の相手のために従順を装うような女だったら、そもそも後藤はしのぶに興味すら示さず、いまもここに独りでいるはずだ。
     自分を見失わず、時に感情をむき出しにして突っかかっていき、いかなるときも地位や性別を言い訳にさせず、人間として、屹然と相手と、なにより自分と向き合い、強く厳しく。それこそが後藤を惹きつけてやまない、南雲しのぶじゃないか。
     なのにいま、しのぶの内側から発せられる眩しいほどの闊達さや苛烈なまでの勇ましさはなりを潜めている。後藤には互いがどういう迷路に陥ったのか、ようやく朧気ながら見えてきたのだが、二人がそれぞれ生み出してしまった濃い霧を払うためには、自分をさらけ出す必要があるようだった。後藤には苦手なことだし、いまのしのぶにはきついかもしれない。だが今は、のらりくらりと逃げたら、すべてが終わる。
    「じゃあ、俺から話しても、いいかな」
     困り果てたようなしのぶに向って不器用に笑ってみせて、後藤はおもむろに切り出した。
    「しのぶさんの言う事、確かに間違ってはいないよ。……ここにはいい思い出がたくさんあってさ、二人でずっと暮らしてた。大して長い時間じゃなかったけど、ただ、毎日が普通でね」
     言いながら、そっとしのぶの手に自分の手を重ねる。どこかで一文字でも間違うことがないよう、なにより彼女の捉えたいように、解釈されないよう。
     そして改めて、住み慣れた部屋を見渡した。昔二人で買ったまま、古びてきた家具、仕事に没入して生きてきた独身男性に相応しい、殺風景な部屋。がらんどうの食器棚に並べられているのは、客用にと一式揃えられた茶器と皿、夫婦茶碗の片割れと、あれば便利だからという名目で手元に残した、ペアのぐんずりとしたマグカップ。一方、意識して減らしていった食器のなかでただ一つだけ増えたのは、しのぶの好みのほっそりとしたどこか品の良いマグカップ。毎度客用のカップを出してきて朝のコーヒーを飲むのも効率が悪いでしょ。二度目に玄関をくぐった時、そう言ってひとつ置いていったものだ。
     どだい無理な話だとしても、後藤はそのときに気付くべきだった。
     相変わらず部屋の中には静寂が積もっていて、外の世界はとっくにどこかに去って、この部屋だけ残されているような風情だ。耳を澄ませばしのぶの心音すら聞こえてきそうだったが、それがどんな鼓動を打っているのか、後藤には見当がつかない。だた、重ねた手の下から伝わってくる手の温度はひんやりとしていて、しのぶの心の張りを伝えてきている。彼女の手の甲を手のひらで温めるように広く包んで、
    「たださ、一つしのぶさんが勘違いをしているとしたら。そんなことはずっと忘れてたんだよ。ここにあったものが温かいものだったなんてさ。……しのぶさんが来るまで、思い出すこともなかった」
     しのぶは思いがけない言葉を聞いた、と言わんばかりに目を見開いた。後藤は無意識のうちに唾を飲んで、重ねた手に一層力を込める。いま、一言でも言葉を間違えたら、すべてはたちまちに崩れ落ちて、そして終わってしまうだろう。
    「二課に行くまでの間、ここに閉じこもって生きていたときはさ、なんもなかったんだよね。本当、何もなかった」
     ほんのひと時だけ、後藤は遠く、もう見えないものへと目をやった。
     昔、ごく一般的な家庭を築いていた夫婦の営みの幻影がここにあるように、独り痩せて、朽ち果てた男の影も、ここには色濃く残っている。ただ壁にもたれかかり、朝が来るまでただ息をしているだけの男。不眠症で、酒臭く、そのくせ酔うこともできず、重い頭痛だけが朝日と共に心身を蝕んでいく。
     二課へと飛ばされたのは、法治国家の要であるべき警察権力が犯した、許されざる捜査方針に対しての激しい抗議が理由だが、遅かれ早かれ後藤はどこかへと厄介払いされていたことだろう。人間として精神と肉体のバランスを欠いていた後藤が崩れるのは、もはや時間の問題だったのだから。
     異動初日、場末の部署であったとしても、押し付けられたがらくたなりに最低限の礼儀は果たそうと、清潔なYシャツに袖を通しおざなりに髭を剃り、せいぜいまともな人間の振りをしてあの地の果ての門をくぐったとき、彼を迎えたしのぶがなんと言ったか、果たして彼女は覚えているだろうか。
     後藤はそっと目を閉じて回想を断ち切ってから、改めてただ自分を見下ろしてるしのぶに。
    「つまりさ、いま、ここで色々を思い出して、息を出来てるのはね、独りじゃないからだよ。ここにしのぶさんが、あんたがいるから」
     しのぶの眉間に、微かにしわが寄った。
    「ねえ」
    「しのぶさん、ごめん、もうちょっとだけ、聞いててくれる?」
     彼女が自分の中で出していた答えを口にする前に、後藤はあと少し時間をちょうだい、と先に請う。
    「人と暮らすのが温かいこととか、時間を分け合うのが楽しいこととか……、全部、思い出せたのはしのぶさんが俺の手を取ってくれたからだよ。それこそ、警視庁でも指折りの高嶺の花と言われた人が、なんで俺なんかにって、俺こそ今でも思っちゃってるけどさ。……ま、それはともかくとして」、後藤はそっと微笑んだ。果たして自分が思い描いた通りの笑みを上手く作れただろうか。実際、それはささやかで優しいものだった。
    「つまりね、全部なにもかも、しのぶさんがくれたんだよ」
     しのぶさん、ねえ、ちゃんと伝わったかな。
     そう続ける代わりに、後藤は頑なに握られたままだったしのぶの手を、ほどくようにそっとなぞった。しのぶと同じくらいかさついた指で、少しだけゆるんだ中指の節をそっと撫でると、しのぶの顔に一瞬朱が差す。
    「ただ、まだ慣れてないんだろうね。その、この部屋にしのぶさんが当たり前のようにいて、朝起きたら隣に寝てるなんて。……まだ嘘みたいで、夢でも見てるようで」
     確かめるように関節の一つ一つに触れたあとは、控えめに顔を出した爪を一本ずつ優しく撫でていく。任務中に割れないようにと、保護目的で透明のマニキュアを塗っただけの指先は、自らを飾らない彼女の魅力がむき出しになっていて、特に好ましい部位だと後藤は思う。
    「どうにか生きてりゃ、今日が怖くなきゃいいと、ずっとそう思ってたんだけどね。いまは明日を大事にしたくて。だって、独りじゃないから」
     後藤はそこで手を離して立ち上がり、ようやくしのぶの隣の椅子に腰を下ろした。床に当たっていた膝がじんじんと痛んでいる。痛い、という感覚を再びシグナルとして捉えられるようになったのも、そうだ、二課に通うようになってからだ。
    「とりあえず質問とかあったら、後でいくらでも受け付けるからさ。じゃ、次はしのぶさんの番」
     不意に渡されたバトンにしのぶはぽかんと口を開けた、が、しかしすぐに、
    「私の番、って言われても……」
    「うん」
     もう一度催促すると、しのぶは一層困ったように眉を下げて、目を下へ下へと逸らせてしまう。
     また先程のように辛抱強く待ってもよかったが、今度は後藤の方から水を向けることにした。自省と自制はしのぶの美徳の一つだが、成長するにしたがい丁寧になめされていった、そのそのしなやかな強さが明後日の方向へと作用してしまっては、なにより彼女自身を苦しめるだけだ。
     もう冷め切ったお茶で喉を潤してから、後藤は出来る限り重く取られないよう、いつもの調子でさらりと言った。
    「ほらさ、なんたって俺こんなでしょ。だから、嫉妬とかされるの、慣れてないもんで」
     嫉妬、と言った瞬間、しのぶが勢いよく顔を上げた。
    「はあぁ?」
    「どうしたの」
    「どうしたのってちょっと何よ、その、嫉妬って」
    「違う?」
    「違うっていうか、後藤さん、そんな」
    「だって、一途だって、思ってくれたんでしょ」
     わざとかわいらしい口調を作ると、しのぶは絶句した。羞恥をあからさまに顔に浮かべ、口をぱくぱくとさせて、どう否定すべきかわからないという様子だ。
    「ま、俺って思ってる通り純情だし一途だけどさ。でも、目の前にいる人を差し置いてまでなんて、そんな勘違いはしないよ」
     いつも通りの口調を保ちつつ、でも最後だけは真摯に伝えると、しのぶは眉を寄せて、後藤を見つめてきた。その無防備な様子が愛おしく、後藤は何気なくしのぶの髪をそっと撫でる。
     それを催促と受け取ったのだろう、とうとうしのぶが口を切った。
    「違うのよ、そうじゃなくて、なんといえばいいか。――いいえ、ええそうよ、あなたの言う通りに嫉妬してたのよ……。本当にひどい女と思ったでしょ、でも仕方ないじゃない、あなたったらいつだってなにを考えてるかわからないし時々ひどく酷薄なくせに、そんな妖怪みたいな人が今でも奥さんのことをそんなに大事に思ってるんだ、それほと素敵な奥さんだったんだ、って考えるたびに」、渓流が勢いよく流れていくがごとく言い連ね、いったん言葉を切る。そして今度は先ほどよりも小さな声で、「でも、今でもなお、そこまで奥さんのことを大事に思っている、そんな風に人への思いを大切に抱いていられると見せつけられて、……そんな後藤さんに惚れ直しちゃったんだから……。だから、ね、分かったでしょ、だから仕方ないし、だから別にいい、って言ったのよそうよさあこれで満足?」
     だからだからと繰り返して、最後は早口で勢いのままなにかを押し切るように、ついにしのぶは心の内をさらけ出した。しかし話したからといって開き直れたわけではないようで、顔は自分への羞恥で真っ赤になっているし、さらに許されがたい罪を自白したかのような気配すら漂わせている。そして実際、ささやくようにこう続けた。
    「ごめんなさい、分かってるのよ……厭な女だし、ひどくみっともないって。それどころか」
     しのぶの目が滲んだそのとき、後藤は右手でそっと、彼女の頬に触れた。
    「もっと言ってよ」
     やわらかく頬を包むと、手の感触を確かめるように、しのぶが一度目を閉じる。そして、困惑したように、
    「……言って、って、これ以上いったい何を」
    「なんでも。何が腹立つとか、いまどうしたいとか、寂しいとか、いつもみたいにさ。だって、お客さんじゃないんだもの、俺もあんたも、もう、互いのお客さんじゃないんだ。俺もうっかり忘れてたんだけどね。
     それに、自分を罰するために我慢していい子になるなんて、一番馬鹿らしいと、そう思うでしょ?」
     ね、と優しく微笑んで、親指で静かに目頭をぬぐうと、しのぶは遠慮がちに体を傾け、ほんの少しだけ、彼との距離を詰めた。
     彼女の美しいところは山ほどある。
     やや短気だがなあなあで機を逃すことをせずそして恐れを知らない。物言いが厳しいのは相手と自分に対して実直な証でもある。時々感情が理性を上回るが、その怒りや共感や同情は彼女が善人であるゆえのものだ。左遷された地の果てで理想高く高潔な相棒と巡り会えたことは、間違いなく警察官人生の中で最大の誇りの一つだろう。
     そして、時に冷たく感じるほどの厳しさ誰よりも自分へ向けてのものだ。
     例えば、こんな風に。
     自分の中に生まれた感情を、恋愛をしている以上しょうがないものだと許容することも出来ず、逆に嫉妬を抱いたことを恥じ、醜いと苦悩するような彼女の厳格さを、後藤はとても好ましく思う。そして、もう居ない人を尊んでくれる慈悲と寛容にも。
     最初しのぶの眼の中に見えた光にあった澱んで見えたものが、嫉妬とそれを抱く自分への嫌悪感だったのだと思い至った時、後藤の胸に沸き上がった感情が何であるか、しのぶには想像することもできないだろう。こんなどうしようもない自分に対して、諦めを抱きながら、それでも躊躇しつつも手を繋いでいようとしてくれたことに対し、言葉に尽くせぬ幸福感と共に、ずっと抱いていた昏い欲望までもがふつふつと沸き上がってきたことなど、自分にも相手にも潔癖であろうとするしのぶはきっと理解できまい。
     しのぶは後藤に促されるまま、さらに胸の内をさらけ出していいのかを迷っているようで、口をわずかに開けては閉じてを繰り返している。
     躊躇う彼女にもう片方の手も伸ばして、両手でそっと顔を包むと、しのぶがそっと目を合わせてきた。いつもの気丈さが消えた顔は、あどけなさが際立っていて、そのくせ唇だけは艶めかしい。引き込まれるようにそっと唇を寄せると、しのぶは微かに身震いをした。
    「じゃあさ、まず、尋ねたいことは?」
     ひとつ聞いてみると、しのぶは迷子が道を見つけたような笑みを浮かべた。
    「それは、さっき答えてもらったわ」
    「それじゃあ、してほしいこととかは?」
     もう一つ聞くと、しのぶの目がわずかに揺れ動く。ほんの少しの間の沈黙のあと、まるで慎重にカードを選んだような顔つきになって、
    「……大したことじゃないのだけど」
     と、おずおずと尋ねてくる。
    「いいよ、なんでも」
    「もしよければ……あの、いつものトーストがいやとかじゃないのよ。もちろん炊飯器にご飯が残っているときだけでいいのだけど。家だと、朝大抵卵かけご飯なの」
    「そうなの?」
    「なに、クロワッサンとコーヒーを毎朝食べてるようにみえる?」
    「そこまでは言わないけど、毎朝シャケやアジの開きを焼いているようには」
    「たまに母が用意してくれるから否定はしないけど、基本朝なんて手が掛からずさっさと食べられて腹が満たされるもので充分でしょ」
     しのぶらしい合理的な物言いに、後藤はまあ確かにね、と同意した。
    「なんなら納豆も買っておくよ」
    「岩海苔派なの」
    「あ、そうなの。なんなら岩海苔納豆卵かけご飯も美味しいと思うけど」
    「ちょっと盛りすぎ気がするけど、ま、豪華な分美味しいかもしれないわね」
     そんなささやかなことを言ってはにかむしのぶに、後藤はさりげない調子でさらに、
    「それから?」
    「それから? 」
     そ、とあごで促すと、しのぶは目をさりげなく逸らせて、他には別に、と言葉を濁した。
    「いいから、言って。今日はもう、我慢とか遠慮なんてしないでよ」。後藤はしのぶの目を優しく見つめて、繰り返した。「大丈夫だから」。
     そっと形のいい頭を抱いて、今度は額に唇を寄せる。微かに立ち上る香りはこの家には置かれていないものだ。ということは彼女が自宅で愛用しているコンディショナーのものだろう。この香り一つをとっても、私生活を分かち合いたいなどと言いながら、些細なことすらなあなあにして互いの鈍感にもたれかかっていたのだと、後藤に突き付けてくるようだ。
     ほんの十秒ほど柔らかく抱きしめてから、静かに顔を離して、両手をしのぶの手に重ねて、穏やかな心持でしのぶの言葉を待つ。
     外から、バイクのエンジン音が近づき、そして遠ざかっていくのが聞こえた。
     躊躇いはひととき、また街から音が消えたときに、しのぶは口を開いた。しかし意を決したというにはあまりにも小さく、無遠慮を恥じるような声で、奥にそっと隠していたことをひっそりと後藤に告げた。
    「一回でいいから、帰るな、って言ってほしい。……あと」。最後息を深く吐いて、しのぶは後藤の目をはっきりと見据える。「行くときは、必ず言ってちょうだい。……付いていくから」
     どこへ、とは言わなかった。
     しのぶの言葉に、後藤は胸を衝かれたかのように言葉を失った。その様子にしのぶもまた声を失う。やはり踏込みすぎたのだ。恥ずべき無遠慮さをしのぶは詫びようとしたが、それは果たされなかった。
     後藤がしのぶさん……、と小さな声で名を呼んで、そろそろと手を伸ばしてくる、と、次の瞬間、しのぶはたちまちに激しく抱きしめられ、唇を奪われたからだ。
     後藤さん、と名を呼ぶ暇もなかった。求められるままに舌を招き入れ、互いに息も出来ないほど激しく求め合い、そして二人とも荒い呼吸のままでわずかの間見つめ合う。
     やがて後藤はしのぶの耳元に囁きかけた。
    「帰るな、なんて緩い言葉でいいの?」
    「いいのって……」
     後藤は一度しのぶから身を剥がすと、勢いのままにしのぶの手を取り、足早に寝室まで誘うと、そのまま畳に彼女を押し倒した。突然のことに目を白黒させるしのぶに後藤は感情を一切隠さずに笑いかける。
    「いま、俺がなんて願ってるか知りたい?」
     奥底の欲望を隠さない声で問うと、しのぶがあからさまに震えるのがわかった。恐れなのか、――それとも興奮か。
    「ずっとここにいてほしい。縛り付けて、閉じ込めるのもいい。そしてどこにだって引きずっていきたい」
     あからさまな言葉にしのぶが目を剥いた。いまの自分がどれほどの劣情と独占欲で目をぎらつかせているのかを、しのぶの瞳に映った自分の姿で知る。喉の奥で笑った後、途端に今度は声のトーンをいくらか和らげて、
    「なんて出来たら楽なんだけどね。ほら、俺、ロマンチストだからさ、しのぶさんの意思とか尊重しちゃうわけ」
     自分を仰ぎ見るしのぶの目から、口元から、身体から伝わるのは緊張と、かすかな恐怖と。――そして彼女の皮膚から発せられる恍惚と歓喜は、後藤に昏い喜びをもたらす。
     恋愛なんて所詮エゴだ。互いに侵入し合い、絡み合い、そして侵食し合い。単純なことが一番恐ろしく感じられ、目を逸らしているうちに、関係を疲弊させる。二人とも同じように相手のためと言い訳しながら、自分の薄暗い願いを見ないふりをして、そして迷っていたと、彼女もまた理解しているだろうか。
     後藤はしのぶの柔らかな髪をそっと撫でた。一房手に取り、そっと口づける。
    「でもとりあえず今は、一つだけ教えて」
    「何を……」
     後藤はしのぶの足を割り、耳元に再び口を寄せ、一度息を吹きかけてから出来る限り小さく低い声で、こう尋ねた。
    「ねえ……、どんな風に感じたい?」
     音を立てるようにして耳をねっとりとなめるとしのぶの身体がびくっと動いた。身体の線を大きな手のひらで撫でると、あぁ……、とささやかな吐息がこぼれる。興奮を隠さずにさらに撫でまわすと、しのぶは興奮のまま頭を振りながら、眉を下げて後藤さん、と小さな声で呼んでくる。
    「なに」、顔を寄せて、鼻と鼻をすり合わせたら、荒い息のままでしのぶは口を開いた。「まずお布団、引いてくれる?」
    「あ」
     しのぶの髪に畳のかすが付いているのが目に入ったとたん、え、はい、そうだよね、とつぶやきながら、がばりと起き上がり、オートマターのようなぎこちない動きで押し入れを開ける。そうだ、このお嬢様は勢いのまま床でことに及ぶのが苦手で仕方がないのだ。我ながらまったくのロマンチストだと感心しながらまず枕を畳に投げる。しのぶがそろそろと起き上がり、上気したままで、乱れた髪や服を直すこともないままに、いつも通りに正座を崩して座っているのが横目に見えた。早く首筋に、背中に、腿に頬を寄せたい。梅雨時ですっかり重くなった布団を雑に敷いて、シーツをと思ったところで、しのぶがそっともたれかかってきた。
     しのぶにゆっくりと押されるまま、彼女を横に抱きながら後藤は布団へと横たわる。しのぶは肩に頬を寄せるように後藤を見上げてきた。翳りを湛えたまま、しかし曇りはもう消え去り、替わりに艶やかさをまとった美しい強い瞳をしている。その底が知れない湖のような目を、乱したくて仕方がない。
    「シャワーも浴びたい?」
    「端から浴びさせるつもりなんてないんでしょ」
    「よくお分かりで」
    「バカ」
     Tシャツの下へと手を滑らせると、やや汗ばみしっとりとした感触が伝わってくる。手のひらからしのぶの匂いが伝わってくるようで、それだけで劣情が刺激された。
    「で、布団敷いたから、答えてくれるよね……」
     言いながら、しのぶの髪をかき上げ、鼻に、まぶたに、そっとキスをする。犬のように匂いを嗅ぐと、そばで息を吸われる感触がこそばゆいのか、しのぶはくすぐられてるように小さく笑った。
    「もう一回聞いてみたら?」
     まるで挑発するようにも聞こえる口調だった。後藤はしのぶの精一杯の強気を悠然と受け止めるふりをして、その生意気な唇をキスでふさぐ。
    「どんな風に、感じたい?」
     もう一度耳元でささやいて、ついでに首筋から舐め上げると、しのぶは鼻から抜けるような声で甘く喘いだ。と、シャム猫のようなしなやかさで後藤の上へと身を乗り上げてくる。両手で上体を支えるようにして、覗き込んでくる彼女の顔は火照っていて、息も浅い。そして目の奥には、ない交ぜになった欲情と懇願。
    「何も考えられなくなるぐらい、全部寄越して。そして全部奪っていって」
     後藤の喉が鳴った。
    「そういうこと言うと、止まらないよ」
    「いつも止める気もないくせに」
    「言ってくれるね」
     しのぶの頭を引き寄せ、深く口づけた。舌を絡ませ合い、口の隅々まで舐め上げてから最後に上唇を唇で噛み、形のいい頬をそっと撫でる。
    「……めちゃくちゃにしても、いいの?」
     しのぶは後藤の言った意味を余すことなくくみ取ったようだった。ようやく聞けたとばかりに満足げな顔になり、強い瞳で後藤を見つめる。
    「出来るものならしてみなさい。どこまでも一緒に堕ちてあげるから」、しのぶはもたれ掛かるようにして、後藤の耳に口を寄せた。
    「救おうとなんて思わないで。それに、救ってなんかあげない」


     夜明け前、街のすべてが沈黙をしているなか、後藤は畳に座り混んだままゆっくりとたばこをくゆらせていた。
     外はどこまでも静かで、たまにカラスの調子外れな声と早刷りの朝刊を運ぶスクーターの音が、水面にさざ波を立てるように響くだけだ。
     すぐ傍には、おざなりに敷かれた布団の上、しのぶが小さく寝息を立てている。煙が出来るだけ行かないように気を使ってはいるが、吸い込んだところで当分は起きないだろう。二人そろって体中のあらゆるところに手のひらを、指を、そして唇を寄せ、舐め、互いの名前を呼んで愛してると言い合いながら何度も求めて。最後、しぼりだすような声と共に意識を失う寸前、しのぶが微かに浮かべた艶やかな笑みが脳裏にちらつくたび、後藤の中でまた暗い劣情がちりちりと焼けるようだった。
     しのぶは本来男女の駆け引きや女性という性の在り方に疎く、そして普段は本能的な欲を持て余し、むしろ禁忌と感じている節すらある。男性社会の中でなお己を通して仕事に対して真摯なあまり禁欲的ですらある彼女と後藤は、一見正反対のように見える。しかし、もう居ない相手に対して嫉妬を抱き、そして後藤に対し昏く強い欲望を抱いた自分を恥じた彼女は、自分を殺してまで後藤の奥底にある繊細なものを大切にしようとした。その結果違う方向へと自身を律しようとしたしのぶと、いまだ心にいばらを抱えたまま、しのぶとこのまま奥底まで関わり合い絡み合ったとしたら、ついに自分と相手を同時に損なうであろうことを酷く恐れた自分は、自分を厭うあまり臆病で自分勝手で、実によく似ていると思う。
     穏やかな生活を相手に与えたくて、きれいに整えられた関係を築いていきたいと望んだのも確かだが、そのために常になにかから目を背けていくなら歪みがすべてを壊すだけだ。ましてや自分たちのような人間にとっては。
     狡猾さは大人が傷つかないための手段だが、しのぶはそんなものとは無縁で生きているし、後藤の方は、気が付いたら、二課の人間と、特にしのぶ相手に得意な態度をとれなくなっていた。
     もし本音を社会的通念で包み込み、挫折から逃げるだけの知恵があり、世間が求める大人として適度に鈍感なまま他人と向き合える同士なら、二人ともそもそも出会いもしなかったろう。逃げる知恵も鈍感さも人が生きていくためには必要な資質だ。身に着けてないことは純粋な証ではなく、どちらかといえば適者生存としての能力が欠けているということであろう。
     もう一度深く煙を肺に吸い込んでから、後藤は煙草を消し、あどけなく眠る女の顔を茫洋と眺めた。
     しのぶには一つだけ、理解が出来ないであろうことがある。
     彼女がその影に嫉妬し、尊重しようとし、そして怯えた女は、まっすぐで純粋で、どこまでも普通の女性だった。どこかネジが飛んだままの後藤にネジを与え、後藤が夢描いた人間、なりたい男へと彼を歩ませる歯車となろうとした。
     しかし、だ。後藤は声に出さぬよう、心の中で低く嗤う。
     やがて公安という非現実の世界へと積極的に身を投じ、凄惨な日常の中、酸鼻の極みを何度も味わいながら、後藤喜一という人間そのものへと還っていくことを、仕方がないと受容するほどには、彼女は壊れてはいなかった。
     たとえあれほどの悲劇が彼女と子供の身に降り注がずとも、遠かれ早かれ後藤と佑子は別れることになったであろう。後藤がどれほど普通の男として生きることを熱望し、それに焦がれたとしても、公安にいる限り、彼はなろうとしたものから引き剥がされ、どんどんともともとそうであったものへと戻されていく。素の後藤と向き合い、受け止められる人間はそうもいない。家族と疎遠気味なのも、彼女らが息子、あるいは弟の人としての気質にどこか畏怖を感じているからかもしれない。血の色が赤なのが不思議だよね、と冗談交じりに姉に言われたのは果たしていつのことだったか。
     妻は真っ当だった。恐らく生まれるはずだった子供も。そんな妻に倣い、平凡な人間として同じく真っ当に生きようと、そして凡庸になろうとした後藤を愛してくれた人だ。もし、仮に無事出産を終え、夫婦から家族へと関係が変わり、その後生活が続いていたとしても、後藤は公安にいる限りいずれ二人を徹底的にゆがめ、損ない、傷つけて、そして最後には赤の他人として距離を置かれ、二度と関わることもなかったはずだ。
     公安は嫌いだ。
     あまりにも自分の力を遺憾なく発揮出来、そして本来の後藤喜一という人間のすべてをさらけ出すことを、組織として良しとしてくれたから。外事に所属した数年間は大学で過ごしたあのころ以来、自分が自分であるという実感を持てたときでもあった。
     恐らく公安への異動を断り、所轄の刑事として本庁の人間にこき使われながらなあなあと過ごしていれば、きっと今も憧れ、なりたかった男として、普通の人生をそれなりに幸せに生きていたのではないかと、後藤はまれに夢想する。
     しかし、それは無理な話だ。
     公安への転属の打診が来た時、後藤は躊躇うどころか、自らそれに飛びついたのだ。その職務に就くことが後藤の目的であり、それだけが自分から去っていったあの男を追い、この手で捕まえることが出来る手段だったのだから。
     どうやったならそれを断れたというのか。大学まで遡り、あの男と出会わなければ、たとえわずかな時間であっても自身の総てを捧げた、あの夏のような季節さえなければ。
     しかし、あの男と出会わなければ、そもそも警察官となることはなく、つまり佑子と出会うこともなかった。
     どうやっても詰んでいるのだ。
     まだ深い眠りの中にいるしのぶの頬を、人差し指でそっとなぞってから、後藤は静かに目を細めた。
    「本当に馬鹿だと思うよ、俺は。こんな男に捕まっちゃってさ……」
     人はこうであるということから逃れられないと、完膚なきまでに打ちのめされて理解させられたのち、こうなりたいと描いた男の影を部屋の窓から棄てた後藤を、その在り方ごと受け止め、そしてなお対等でいようする。それが出来る人間なんて本来いないはずだった。
     しかし、だ。
     例えば榊の親父さんだ。自分とは違う底知れなさを経験から得ている分、他の誰よりも余裕と許容がある大人物であり、ともすれば父親と並び尊敬に値する男だ。彼ならどんな人間でも最後は許容出来るに違いない。
     そして一人は、いま目の前で安心しきって横たわっている。
     しのぶは後藤の勤務態度に嫌味を言い、血気盛んな隊員たちの起こした問題についての対処をせっつき、最新鋭の機種が配置されなかった事や自分の部下の働きが正当に評価されないと嘆いてくるが、後藤本人について揶揄はすれど否定したりましてや裁き、拒絶することは全くなかった。
     互いに敬礼をし、階級を言い合った初日から、彼女は後藤をそのまま認め、受け止め、対等なものであろうとして、救おうとする代わりにいつでも隣に立ち、挙句の果てに自分の求愛に応え、自分も愛していると言ったのだ。
     しのぶは後藤にネジは与えてくれない。もうネジを求めようとしない後藤を咎めることもない。
     それどころか後藤の根のほうの、欠けた部分まで見つめてきて、その在り様のすべてが大事なのだという。そして今日、ついには自分を壊せるならやってみろと、耳元でささやいてすら見せたのだ。それは疵を負わないという自信ではなく、疵を負ってもかまわず、自分もまた相手を同じように相手を疵付けるであろうという宣言であった。ずっと我慢していた言葉は互いに同じで、しかし先にそれを口にしてみせた彼女の言葉は、後藤の中にあった最後の戸惑いすら打ち砕いてみせたのだ。
    「目が覚めたら、食器、買いに行こうか」
     聞こえないのを承知で、無理なことを言う。あと二時間もしないうちに、しのぶをそっと起こして、二人ともあわただしく出勤しなくてはいけないのだから。
     二人分の食器、服と下着と寝間着、彼女好みのドレッシング、性能がよいドライヤー、手入れのしやすいブラシ、柔かなバスタオル、柔軟剤、彼女好みのシャンプーとコンディショナー、ボディシャンプー、コンパクトなドレッサー、岩海苔、納豆、ついでになめこ、ビタミン剤、ハンドクリーム、透明のマニキュア。
     それらが揃う頃には、家具には物があふれ、そしてもう、ここに住んではいないだろう。そのときはいま想像してみるよりもはるかに早い時期になるはずだ。
     部屋の向こう側、ちゃぶ台の前の、見えてもいないものに向かって後藤はそっと目をやった。もうなにも答えても返してもくれない、かつてここにいた影に。
     ねえ、彼女素敵でしょ、俺の、奥さんになってくれるかもしれないんだ。
     影は果たしてやはりなにも答えず、夜明け前の薄い青に溶けて、消えた。
     消えた面影は胸の底に沈み、深く、後藤の中にだけ住み続ける。が。後藤は静かに微笑んだ。少なくとも、もう寝言で振り返ることはないだろう。
     しのぶが小さく声を上げて静かに寝がえりを打つ。カーテンの隙間から見える空は深い紫からハレーションを起こし始めている柔らかい紺だ。
     朝はもうそこまで来ていた。


    いずみのかな Link Message Mute
    2022/06/26 18:12:37

    夏を見渡す部屋

    #パトレイバー #ごとしの
    小説「ブラックジャック」の設定を使ってます。自分であるということと他人といることについて。

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