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    覗く目 太平洋上で台風が発生したらしい。
     しかし大阪上空は相変わらずの快晴で、気温は今日もうなぎ上りだ。私はだらしないと思いながらも首周りが伸びたTシャツを着て、昼前からソファの上でごろごろ寝そべっていた。日が高いうちに飲むビールは、ほんの少しの後ろめたさもスパイスとなって、また格別の味がする。何たる堕落、と咎めるなかれ。私はつい先程短編を脱稿したばかりなのだ。締め切り明けの作家のささやかな道楽としてここは見逃して欲しい。
     ビールを一本空けたらシャワーを浴びて、約三十時間ぶりにベッドに入るのが今日の予定である。明日のうんと遅くまで惰眠を貪り、それから週末で家にいるであろう京都の友人の所にでも出向くのもいいかもしれない。この二週間、会話を交わした相手は担当一人だけ、更に言うなら二度の電話の合計時間は十分に満たない。私は人に飢えている。
     少し温くなったビールの残りを流し込んだあたりで、急に眠気が襲ってきた。執筆明けの興奮した状態から、脳が正常な状態に戻りつつあるのだ。電池切れ間際の出来の悪いおもちゃのようにギクシャクとした動きで、のろのろと洗面所へと向かう。あと少し、シャワーは諦めてるとしても、せめて歯を磨くまでは、持ってくれ、私の体。
     と、その時に場違いな程呑気に、玄関のチャイムが鳴り響いた。
     時計を見ればまだ朝の十時過ぎ。出版社からの荷物は全て夕方頃に着くようになっている。だとしたら書留か。どっちにしても小説家の家へ朝から配達とは何たること、と勝手なことを思いながら受話器を取ると、相手は聞いたこともない宅配会社を名乗った。
    「有栖川様に小包です」
     そういう声も弱小ゆえの気弱さだろうか、どことなく覇気が無い。
     これが今日最後の仕事だ、となけなしの気力をかき集め、玄関を開けると、これがまたどことなく暗い感じの兄さんが淡々と私に荷を渡して去っていった。
     手渡された物ははクラフト紙に包まれた雑誌ほどの大きさで、荷の厚みの割には心なしか重く感じる。伝票にはえらく達筆な字でこの家の住所が書かれていた。差出人に見覚えはなく、一体どこで私の住所を知ったのだろうと疑問に思う。
     しかし私の体はそこでついに限界を向かえた。急激な眠気に抗いながらもその箱をテーブルの上に置き、よろよろと寝室へ向かい、ぱたりとベッドに倒れこむ。そういえばまだ歯を磨いてなかった、と薄ぼんやりと思いながら、正に気絶するように私は眠りについた。

     さあさあと窓が雨を叩く音で、うっすらと覚醒した。雨雲に覆われている筈の外はまだ仄かに明るく、夕方過ぎの時間であることが察せられる。頭はぼんやりと重く、体も粘土のようにだるい。ならば寝直そう、と目を瞑って見たが、眠気は中々戻ってきてくれない。こうなったら意地でも寝直して、と思ったとき、急に喉の渇きを覚えた。寝直すにしても起きるにしてもまずは水分が必要らしい。
     居間の時計は七時過ぎを指している。とりあえず九時間は寝たことになる。あとせめて四時間は寝ていたかった、と頭を掻きながら水道を捻る。まだうつらうつらしてる部分があるせいかコップの水は溢れてしまい、手に冷たい感触が伝った。生温い空気の中ではそれも仄かに心地よい。
     その水を一気に呷ったところで、電話が鳴った。
    「……はい」
    「ひでぇ声だな。締め切り明けか?」
     友人は笑いながらそう聞いてきた。
    「防犯対策のため、名乗らん奴の電話は全て切ることにしとるんやけど」
    「お前だって滅多なことでは名乗らないだろうが」
    「切るぞ」
    「まあまて、英都で教鞭をとっております社会学者の火村というものです。これでいいか」
    「なんやそのいい分は。まあ、許してやるわ」
     私はソファに座りながら、思わず笑みを浮かべた。久しぶりの人の声、それも気が置けないこの偏屈との会話は、なんだかんだいっても楽しいものだ。
    「で、締め切り明けなのか?」
    「まあな、今朝終わったところや」
    「そりゃよかったな。だったら来週辺り暇か?」
    「来週?」
     壁にかけてあるカレンダーを見て日付を確認する。そのときに朝に来た小包が目に入った。そうだ、あれも開けなくては。
    「今月はもう目立った締め切りもないけど」
    「そうか、だったら水曜から二泊三日で温泉でもどうだ?」
    「なんや豪勢やな、先生。そっちこそ今頃は前期末やろうに、そんな暇あるのか?」
    「二、三日なら空けられる。レポートの採点をやっつけちまえば余裕が出来るんだ。今月末までの宿泊割引券を同僚に押し付けられてな、せっかくだから無駄にもしたくないし」
    「それは運がええな」
    「日頃の行いだろ。……で、何してるんだ?」
     どうやら包みを解く音が聞こえているらしい。
    「寝惚けるには早いやろ、君。で、今は風変わりな宅配を開封しとる」
    「風変わり?」
    「ああ、一体どこで俺の住所知ったんやろ」
    「……アリス、ストップだ。不用意に開けるな」
    「遅い」
     包み紙の下には和紙で飾られた雅な箱がある。手作りのように見受けられた。
    「おい、もし」
    「お、鏡や。あと……手紙か」
     それは黒漆で上品に塗られた、丸い手鏡だった。淵を飾るように小さく描かれた兎がなんとも愛らしい。
     私のその声に、火村はあからさまにため息をついた。
    「どうした?」
    「お前ね……、もしなにか厄介ごとが起こったらどうするつもりなんだ、アリスのことが全く漏れてないとは限らないんだぞ」
     ああ、この男は安堵のため息を漏らしたのか。彼が何を心配しているかを察した私は、単純に嬉しくなりながら、
    「心配してくれたんか」
    「悪いか」
    「ありがとうな、今度からちゃんと気をつけるわ。それにこれはそんなもんやないみたいだし、まあ今回は見逃しておいてくれ」
    「いや、別にいいんだけどな」
     その声に照れがにじんでいることは故意に無視してやることにして、私は来た手紙にざっと目を通した。
    「確かに怪しいものへの警戒心が薄いんのは直さんといかんな……、なんやこれ、まだ女と勘違いされとるし、……貰ってええんかなあ」
    「送り主がか? ああ、鏡とか言ってたもんな。それともナルシスト趣味があることを見抜かれたのかもしれないぜ」
    「あほか、見るならもっと麗しいもんを眺めるわ。甲子園のジェット風船の波とか」
     鏡を裏返してみる。姿を映すはずのそこは煤けていて、まるで人がぼんやりと映りこんでいるような、ひどい汚れ方をしていた。これは後で磨かなければなるまい。にしても、贈り物なのだからちゃんと磨こうとは思わなかったのだろうか。
    「つくづくお前の美的感覚には同意しかねるね。で?」
    「あ、えっとな……、手紙、拝啓の下に時候の挨拶があって…
     先日娘が先立ちました。私は魂の一部がえぐられたような、そんな日々を送っております。生前娘は貴方様を心から慕っておりまして、娘への餞として……」
    「全部読み上げるつもりか? 要約しろよ、要約」
    「それもそうやな。えっと、亡くなった娘さんがありがたいことに俺のファンで、その娘の形見の一つをお分けしたい、名前から察するに清楚な女性とお見受けするから、日々の身だしなみに役立ててくだされば幸い、って」
    「ふん、……それ、どうするんだ」
    「それや」
     私はソファに深々と背を預けながら、深いため息をついた。私には鏡を見る趣味はないし、身だしなみも大して気にしないから、この鏡が仕事をこなすことは殆どないだろう。娘が慕っていた――これもまた大袈裟な表現だ――人間へ形見を送りたい、という親心は判るのだが、しかし、そこに込められた想いは、どうしても第三者でしかありえない私には、少々重過ぎる。邪険に扱えるはずがなく、だが珍重するのも違うと思う。私の作品を愛してくれていた一人の人間の死を、私は心から悼むが、それだけしか出来ない。それ以上の現実感はどうしても得られないのだ。それは人間として持ちうる、一種の限界の話であろう。
     火村は私のそんな困惑を推し量ったのか、しばらくたって最も柄ではないことを言ってのけた。
    「お前の家の周りは神社仏閣の宝庫だろうが、そのうちの一軒でも行って供養して貰え」
    「……君、本当に火村英生か?」
    「アリス、俺はお前が思っているほど堅物じゃねえんだ。世の中形式や儀式が残っているのは、結局それらが必要とされているからだろ。そういうことをやって人の気持ちが収まるなら、それ自体を否定するいわれは全くないだろうが。話がずれたな。ともかく、そうすることでお前の気持ちが多少でも安定するなら、それも一つの手だってことだ」
    「まあ、確かにな」
     無宗教で無神論者でも、だからといって葬式や盆を全て否定する理由にならないのと同じだろう。
    「そうやな、考えとくわ。ま、しばらくは箱に仕舞って大事にしとく。俺の貴重な読者さんや、毎日鏡で化粧しながら感想なんかを考えてくれたかもしれんし。だとしたら貴重な証人やな」
    「そうだな、ま、せいぜい大切にしてやれよ」
    「そうする。……それにしてもどこで住所知ったんやろ」
    「お前、最初の頃ばか丁寧に自分の住所書いて手紙の返信してただろうが。そのことからも全く漏れてないとは思えないね。ましてやずっとそこに住んでるんだから」
    「ばかっていうな、って言っとるやろ。まあそう考えると住所も調べられんことはないってことか」
    「なあ、繰り返すが……」
    「ああ、わかっとるって。ちゃんと身辺には気をつけるから、君は大船に乗った気分でいてくれ」
    「なんだそりゃ」
     作家なんだからもうちょっとましな日本語を話せ、と言われてなんやと、と反論する。そのいつものリズムの心地よさに、そのあと会話はだらだらと続き、気付けばまた長時間話し込んでしまった。
    「今週末、ひょっとしたら行くかもしれん」
     電話を切るとき、一応そう断っておくと、火村は「歓待出来ないが勝手にくつろいでいられるなら」と歓迎の意志を示してくれた。
    「じゃあ、雨も上がったようだし切るわ」
    「よくわからねえ理由だな、しかし大阪は雨なのか」
    「京都は降ってないんか」
    「寧ろ俄か雨は大歓迎だね。もう少しマシな気温になるだろうさ」
     窓の外を覗くと、ベランダも外の世界も、一切の水気を纏っていなかった。雨が上がって蒸発するほどの時間話し込んでいたらしい。我ながらよく話したものだ、女学生じゃあるまいし。
    「こっちも止んだみたいや。しかし本当に本格的なのが欲しいな」
    「そうだな。でも来週の水曜は晴れるよう祈っておけよ」
    「全くや」
     今朝のニュースで台風が発生した、と言っていたことを思い出しながら私は頷く。せっかくの温泉だ、天候に恵まれることをせいぜい祈っておこう。

     その後すっかり覚醒した私は、まずありあわせのもので名前も付けられない料理を作りそれを夕飯として、それから何日ぶりかの風呂を心行くまで堪能した。ついクーラーに頼ってしまうからか、思った以上に冷えていたらしい。風呂から上がったときには体が信じられないくらい軽くなっていた。伸び放題だった髭も剃り、正に生き返った心地がする。
     その後、曇った鏡の表面を適当に磨きながらニュースを梯子した。もういい時間になったと思うのだが、なかなか眠気はやってきてくれない。ベッドに入って眠くなるまでごろごろしていることも考えたが、結局書斎の扉を開いた。当面の締め切りはないが、ありがたいことに依頼はまだいくつかあるし、そろそろ次の長編のプロットを片桐に見せてもいい頃だ。眠れない夜には、想像の翼をのんびりと広げていくのもまた贅沢な楽しみであろう。
     座りなれた椅子に落ち着き、まずはパソコンを立ち上げる。メールチェックをしてみると、片桐からメールが入っていた。

    『通話中でしたので、メールで失礼致します。新作、確かに社に届いたとのことです。すぐに拝読しました、と言いたいところですが、只今別件でこの週末は群馬の方に詰めています。ですので、詳しくは原稿を見た上で、また月曜日にお電話させていただきます。
    お疲れ様でした。次の作品もこの調子でお願い致します 片桐』

     火村と話しているときにどうやら電話をしてきたようだ。悪いことをした。
     果たして社外でもこのアドレス宛のメールは読めるのだろうか、と思いながらも返信を記し送信する。月曜に改めて電話をしようと思う。
     その調子で他のメールを読んだり削除したりした後、私はパソコンの電源を落とし、代わりにレポート用紙とシャープペン、そして消しゴムを机に置いた。今でこそ執筆はすべてパソコンだが、アイデアを練るときの風習だけは学生時代から変わらない。頭の中にある漠然とした言葉を書いたり消したりしながら、少しずつ思いつきを作品へのとっかかりへと変えていく。
     今回の舞台は大体見えている。赤字ローカル線によって外部と繋がっている、黄昏を迎えた小さな町だ。どこにでもあるありふれた、本当に小さな町。頭の中で風景が場面へと変化していく。町外れの地蔵堂の前に座り込んだ死体、ロジックは前に考えた天候のものをベースにするのがいいだろう。
     しばらくは鉛筆が滑る音だけが、部屋を埋めていく。小説と私、その他にはなにもない、なにも……。
     そのとき、ふと背中の方に違和感を得た。ぞっとした悪寒が一瞬で全身を通り抜ける。
     咄嗟に振り返ったが、そこには何もない。四畳半の空間には本と私がいるだけだ。
     しかし。
     私は頭を振って、再び机へと向かった。気のせいだ、気のせいだと二度自分に言い聞かせて。
     しかし、小説と私と、もう一つの気配を感じたのだ。それも色濃く。
     まだ、疲れているのかもしれない。無理にでも布団に入る方がいいのだろう。
     そう思っていても、物語を紡ぎ始めた頭は、しばらく止まってくれそうもない。きりがいいところまで。私はそう決めて、改めてペンを持つ。

     その手元をぐっと覗き込まれた。

     瞬時に振り向くと間違いなく目が合う。

     そこには、壁があるだけだった。
     蛍光灯に照らされた部屋には、本と私しかいない。
     どうやら相当に疲れているらしい。ため息をつくと、アイデアの断片を手早く書き留めて、私は書斎を後にした。あのアイデアのうちのいくつかは間違いなく使い物にならないだろう。ネタというのは生物だ、時を置いてしまったあとでは、もう同じようには動いてくれない。
     電気を消すと、書斎はまたしんとした空間となる。自分に呆れながら私は居間の電気を消した。

    *               *               *

     黒目がちのくりくりとした、可愛らしい目だった。

     目が醒めてしばらくは、ぼおっとしていた。
     女性の夢を見ていた気がする。誰だろう、と考えると、掴んでいたはずの輪郭は忽ちに淡く消えていった。
     夢というものの曖昧な手触りに付いて改めて不思議に思いながら、布団から出る。昨夜は結果として早く寝たのに、今の時刻は昼前だ。今度こそしっかりと寝て、心身ともに調子は万全である。カーテンを勢いよく明けると、そこには他の比喩が思いつかないほど綿菓子に酷似した雲が、ペンキで塗ったような青空に浮かんでいた。クーラーが切れた寝室はむしむしと暑い。起き抜けにシャワーでも浴びて、今日は少し部屋を片付けようか。それとも当初の予定通り京都に出向くのもいい考えだ。
     小さく唸りながら伸びをして、居間に出る。とりあえずとテレビの電源を入れたところで、私は白い光がちらちらと天井を染めていることに気が付いた。
     鏡をテーブルの上に置いたまま、どうやら仕舞い忘れていたらしい。
     そういえば、この鏡をどうするかまだ決めかねている。ここは火村の言う通りに寺にでも持ち込もうか、と思いながら何気なくそれを手に取った私は、ふとあることに気が付いた。
    「……拭き忘れかなあ」
     見た瞬間、思わずそうひとりごちてしまう。
     鏡の表面、右端の辺りに、べっとりと指紋がついていた。これだから火村に不器用と言われるのだろう。
     真剣に、とは言えないが、曇っている個所はちゃんと拭いたはずだ。その証拠に指紋以外に鏡に汚れはなく、水面のように輝いている。自分の迂闊さにため息をつきながら、ふと右人差し指を、その指紋の横に置いてみた。意味もない思いつきである。
     すぐにやらなければ良かったと後悔した。
     指紋云々の前に、指の形がまず違う。やや太目の、形が良いとはいえない私のそれと違って、残った指紋は細い、形の良いものだった。それこそ白魚のような、という表現が当てはまりそうな感じだ。
     その二つを凝視していたのは多分五、六秒といったところだろう。すぐにティッシュを取り出してその二個の指紋をふき取った後、私は和紙の箱にそれを仕舞い、念のために、と書斎に仕舞ってあった葬式用の数珠を上に乗せた。少なくとも火村のそれに比べれば、効力はあるだろう。そうやって気休めをしたあと、私はとりあえず腹に食物を収めてから今日の予定を考えることにした。霊だのあの世だのを信じる性質ではないし、さっきの指紋も気にしすぎの類に決まっている。しかし、全く火村の言う通りで、このざわついた気持ちが収まるならどんな儀式でも利用する価値はある。
     やっぱりメジャーどころで交差点の向こうにある四天王寺さんかなあ、と思いながら私は台所へと立った。
     とりあえずコーヒーを入れて、朝飯はハムサンドにしよう。
     そう考えると、簡単に私の気持ちは高揚した。

     NHKの天気予報によると、台風は勢力を強めながら北北西に進み、予想円の真ん中を通ると九州から近畿の辺りに上陸する可能性もあるという。
     頼むから水曜だけは避けてくれ。
     そんな祈る気持ちで天気図を見ながら、私はテレビを消した。
     シャワーを浴びたおかげで心身ともにさっぱりとし、朝のなんともいえない気分は完全に払拭されていた。そうなるとたかが指紋に怯えてしまった自分が滑稽に思えて、三十代らしく理性的にいかなくては、と自分を叱咤したくなる。
     頭をタオルで拭きながら、改めて今日の予定に思いを馳せる。こんな天気の良い日は日干しも兼ねてやはり外に行くべきか。
     そう思いながら、私のために入れておいてくれたらしい、テーブルに置いてあったコーヒーを口に含む。入れたてのコーヒーは、それがインスタントであっても芳醇な味がしてよろしい。湯気とともに上がる香りを肺一杯に吸い込むと、とてつもない贅沢な気分になる。
     次の瞬間、私はコーヒーを乱暴に机に戻していた。その扱いに抗議するように、陶器はガチャリと音を立てる。多少周りに零れたがそんなことは気にしていられない。
     そっと触ったコーヒーカップは、温度が感じられない程度に冷めていた。当たり前だ、このコーヒーはシャワーを浴びる前に自分で入れたのだから。
     私はしがない一人暮らしで、悲しいかな、しばらくは同居人が増える予定もない。
     しっかりしろ、有栖川有栖、締め切り明けだからといってボケすぎるにも程がある。
     気合を入れるべく、ぱしっ、と自分の顔を叩く。そうして改めて気分を入れ替えたところで、私は服を着替えるために寝室へと向かった。気心知れた友人と話したら、この気分も晴れるに決まっている。
     この時間なら、新快速への乗り換えもスムーズに行くはずだ。そんな計算をしながらズボンを履く。途中で土産でも買っていって、昨日の彼の言葉通り、勝手にのんびりとさせてもらおう。手早く準備をして外に出る。数日振りの外出だと思うと、それだけで胸が弾んだ。人間変化が必要だ。あとは鍵をかけるだけ、と鞄をまさぐったところで、私は首を傾げた。
     トラッキーのキーホルダーを付けていた家の鍵が、鞄に入っていないのだ。ものぐさな私はいつも持ち歩く鞄にそれを入れている。
     おかしい、と大して物も入っていない鞄を何度もかき回したが、鍵もキーホルダーも、まったくもって見当たらない。
     ひょっとしたら違う鞄に入れたか、珍しくも鞄から出したかもしれない。たまには私も鞄を変える。その際に鍵を入れ替え忘れたことは大いにありえることだ。
     そうするとどの辺りにあるのか、居間か、寝室か、それとも書斎かもしれない。
     そう思った途端、締め切り明けの惨状から少しだけ片付けたままの書斎を思い出し、私はそれだけでげんなりとしてしまった。仮に書斎にあったとして、探し出すのと日が暮れるのとではどちらが早いのか、全く見当もつかない。
     自分に愛想がつきかけたとき、私は置き鍵の存在を思い出した。本来必要ないはずのその存在は、私の身内、更に言うならひとえに火村のためといっても過言ではない。私が缶詰で東京にいるときでも、大阪でフィールドワークをこなすことになったら、遠慮なくホテル代わりに使えといって場所を教えてあるのだ。その他急に訪ねてくる母も使うことがあるのだが、使用頻度は比べ物にならない。
     そもそもスペアの鍵なのだから今使わずにいつ使う、と私は置き鍵をしている場所を見た。
     ない。
     探そうにもその場所は狭すぎて、一見してないことが判ってしまう。さては火村がうっかりと持ち帰っているに違いない。次会ったら聞いてみなくてはなるまい。
     しかしだ。私は思わず嘆息した。鍵が掛けられないなら、京都に行くのは諦めなくてはなるまい。出掛けられたとして、近所で買出しするのがせいぜいだ。しばし考えた末、私は家の中に取って返し、買出し用の袋に財布を入れ替えて出掛けることにした。
     鍵は今日の夜にでも探すことにしよう。
     そうと決めたら手早く片付けるに限る、と私は足早にマンションを後にした。

     黄昏から宵の口の間、部屋の隅から翳っていくその時間帯が好きだ。徐々に夜に蝕まれていく、その過程になにか魅力を感じる。
     しかし、今日は早々に灯りをつけた。積もる闇が濃すぎる気がする。あの淡い色合いではなく、もっと、クレヨンで塗りつぶしたような、そんな風に見えたからだ。
     一人暮らしが堪える年ではないはずなのだが。常々周りから言われているように、さっさと生涯の伴侶を見つけるべきかもしれない。
     そうしたら、毎日私が作るよりかは、はるかに食いでがあるであろう食事も出るしなあ、と男の身勝手な想像を働かせながら台所でたまねぎを切る。先日テレビで見たカレー味のビーフンを、と今日は思っているのだ。
     たまに凝った物を作っては失敗しているが、今日こそは、と思いながら手を動かしていると、居間から聞きなれた電子音が聞こえてくる気がした。
     手を拭いながら電話の前に行くと、かすかな音で着信を告げている。調子が悪いのかな、と思いながら受話器を取った。
    「はい」
    「こんにちは」
    「えっと……」
    「私です。お元気そうでなによりです」
    「あ、ああ」
     名乗られた途端、そういえば知っている人だったと記憶が告げる。確かこの声は……。
    「サイン会で一度お会いして、もう縁がないかと思ってましたが先日ひょんなことからまたお会いしたじゃないですか」
    「そうや、そうだった」
     私の考えを読んでいるかのように彼女が告げる。
    「ちょっとお話させて頂きましたが、やっぱり先生ってお茶目で素敵な方ですね」
    「そうか? お茶目、なんていったら、悪友に笑われるわ」
    「友人……、私、あの方嫌いです」
    「え、あの方、って知っとるん? いつ会ったんや」
    「いえ、お話を伺っただけですが。先生に相応しくありません」
     きっぱりと言い切られ、私は思わず苦笑する。それにしてもいつ……?
    「相応しいって言ってもなあ、友情に相応しい相応しくないもないやろう」
    「正直にいいますと、先生には私だけを見ていて欲しいんです」
    「そ、そりゃ熱烈な告白やなあ」
    「さっき先生が考えたお嫁さん、立候補したいぐらい」
    「え?」
     くす、と笑うその声に、私は一瞬凍りついた。
    「ちょっと待て、君……」
    「今度ヒムラさんにも紹介してくださいね。そのときには私のものだけど」

     味気ない電話の着信音で我に返った。
     私は包丁を持ったまま、居間に立ち尽くしている。
     呆然としたままに受話器を取ると、向こう側からは雨の音が聞こえた。
     ざあざああ、ざあざああ、と絶え間なく続く水音。
    「……誰や」
    「もしもし、片桐です。なに固い声出してるんですか」
    「なんや……。あ、すいませんでした、ほんまご免。いやな、ヘンな夢見たみたいで」
     思わず力が抜けてしまう。台所に包丁を戻しに行くと、切る前の玉ねぎがごろりと転がっていた。
    「本当にどうなさったんです」
    「いや、それが、脱稿してからなんとも腑抜けてて」
    「それだけ全力で書かれた、ということですね。本当にお疲れ様です」
    「ありがとう。で、いま北関東やったよね。そっち雨なん?」
    「山沿いだから天気が変わり易いんですよ。まあ東京よりも涼しいから天国に感じますね」
    「ええなあ。ちょっとした避暑やな」
     この酷暑は全国規模だ。来週には私も避暑へと向かうが、それでも羨ましいことに変わりはない。
    「避暑って言ったって仕事ですから。それでですね、先程なんですが、新作、社からファックスで原稿を送ってもらったんです。いや、今回もさすが有栖川さん、会心の一作じゃないですか」
    「言われて悪い気はせえへんけど、なんかむず痒いなあ」
    「やだなあ、本心ですよ」
     そう言っている彼の笑顔も見えてくるようで、私は胸がほっと温かくなるのを感じた。全く、私には過ぎた担当だ。
    「でも細かいチェックはまだ入れていないので、改めて月曜にご連絡差し上げることになると。それでですね、こちら今時携帯が通じないすごい場所なんです」
    「ほんま? まだそんな秘境があったんか」
    「なんか声が輝いてますよ、まあここならクローズドサークルもできるかもしれませんね……。それでですね、仮にですよ、仮に急用が出来ましたら事務所の電話をお借りできるので、今から伝えます番号にお願い致します」
     なんでも、この電話もそこから掛けてきているのだという。
    「いいですか、言いますよ」
    「あ、ちょっと待って」
     私はボールペンを片手にメモを取り上げた。
     あいしています

    「先生? 有栖川さん?」
    「あ、ごめん。ちょっと呆けてもうた」
     見たこともない字で書きとめられたその一枚を乱暴に破る。

     あいしています

    「あ、ええよ、お待たせ」
     私はそのメモごとゴミ箱に突っ込んで、左手に番号を書きとめていった。後で適当な紙に写しておこう。
    「先生、本当にお疲れなんですね。ゆっくり休んでくださいね」
    「うん、そうするわ。ありがとうな」
     片桐の労いに心から礼を言って、私は電話を切った。
    「……とりあえず、お題目でも唱えておくかなあ」
     そうは言っても言えるのは南無阿弥陀仏とか般若波羅蜜多とか南無妙法蓮華経といったよく知られる冒頭部分のみで、しかも信心とは程遠い自分が唱えたところで効き目があるかは疑わしい。しかも他宗教に至っては皆目見当もつかない。せっかく神学部がある大学に行ったのだから、火村を見習って他学部にも積極的に顔を出し、キリスト教なりイスラム教なりの授業の一つでも受けておけばよかった、と思っても文字通り今更だ。
     それでもまあいいか、と知ってる限りのお経の冒頭を立て続けに唱えたら、妙に重かった空気が軽く感じられた。私もつくづく判りやすい男である。
     なにかをするにしても明日の話だ、今は作りかけのビーフンを完成させ、腹に収めることにしよう。空腹はなによりもの敵であるのだから。
     そうしてせっせと手を動かして、食事を済ませた頃には、気分も落ち着いて、無事日常を取り戻した気にすらなっていた。これはひとえにビーフンが上手くいったことも関係しているだろう。
     時計を見るとまだ日も跨いでいない時刻だ。先程力をくれた我が相棒のためにも、昨日途中まで作ったプロットを詰めておくことにしよう。
     そう思って書斎のドアを開けたとき、テレビから聞こえた時報が、やけに大きく響いた。

     さあさあ、と窓を叩く音がする。
     思い出したような夕立が、大阪の町を包んでいるらしい。
     紙の上には私以外が判別できないような走り書きが、曼荼羅のようにあちこちに散らばっている。
     曼荼羅とは言いえて妙かもしれない。このB5の紙には今、私が生み出そうとしている世界の全てが収められている。
     江神ならそういうであろう台詞を下のほうに書き記すと、私は一息いれるべくペンを置いた。
     肩が少し強張っている。約二時間ほど集中していたらしい。
     椅子の上でぐー、と伸びて首を回すと、ぼきぼきと小気味良い音がした。
     もう一頑張りするか、それとももう寝るか。丑三刻の都会は既に寝静まっているように、しんとしている。
     どうしようか、と思案したとき、じっとりとした気配が急に部屋に満ちた。いや、違う。集中していたから気にしなかったが、恐らくはずっとこの気配は合ったのではないか。
     気配がより濃い方に目を向ける。即ち、壁の方へと。
     見詰められている。
     壁越しに、何かがじっとこちらを凝視している。
     ひそひそ
     ひそひそ
     壁の向こうでなにかが、なにかを話しながら、私を見ている。
     ツ、と背中を汗が走った。
     念のため狭い部屋を見渡して見るが、他の場所からはなにも感じない。白々しい灯りが部屋の闇を追い払っているからかもしれない。
     見られている、という感覚は本物だと、そう感じているのに、私はそれを勘違いだと片付けることにした。正しく言えば勘違い以外の何者でもないはずだ。
     とりあえずは資料を仕舞って、この部屋を出るべきだろう。
     そっと席を立って、本棚の元の場所に本を仕舞っていく。簡単な分類をしている本棚だが、買い足したものを適当に入れていったからか今は本棚自体が混乱しているようだ。そのうち本棚の整理も必要だろう。
     それでも鉄道関係の本の中に『幽霊の死』が混ざっているのに気付いたときには、思わずため息をついてしまった。しかも棚と本の隙間に横にして置いてあるとは。我ながら失礼なことをしたと、アリンガムの傑作をミステリの棚に戻すべく本を取り出すと。
     そこにいた女がぐるりと首を回し、まともに目が合った。
    「!」
     どん、と音を立てて落とした本を慌てて拾う。無意味に本を撫で付けながら本棚を見るが、当然それはただの本棚である。
    『幽霊の死』をポケットミステリの棚に戻した私は、そそくさと書斎を後にした。
     居間には誰もいない。
     それでも見られているという感覚はいつまでも消えない。
     私に出来ることといったら、今晩は寝室の電気を消さずに寝るとか、それくらいのことだろう。

    *             *             *

     くりくりとした目にショートカットの髪がよく似合っている。
     あなた、ねえ起きて、あなた、と優しく揺すられて、意識がふっと浮かんできた。

     目覚めてまず始めに、寝室をぐるりと見渡した。
     誰かに起された感覚がある。それが誰なのか思い出せない。ならば多分夢なのだろう。
     重い体を無理に引きずり出して、頭を掻きながら居間へと出て行く。
     大阪の空は重い雲が垂れ込め始めていた。台風の端の雲が掛かり始めているのかもしれない。
     先日まで打ち水として雨を望んでいたのに、いざ雨雲がやってくるとなんとも憂鬱な気持ちになる。勝手なものだ。
     それでも顔を洗い服を着替えると、身勝手な憂鬱は多少なりとも晴れた。
     今日の予定はどうしようか、とソファに座ってつらつらと考える。なにか大事な用があったと思うのだが、一体なにだったろうか。記憶が衰える年でもないだろうに、とため息をついたとき、玄関のチャイムが鳴った。
    「はい」
    「どうも、鍵屋です」
     鍵屋?
     首を捻りながらドアを開けると、確かに鍵屋らしき鞄を下げた作業着の青年がにこやかに立っていて、
    「ご依頼を受けた鍵を取り付けに来ました」
     という。
    「依頼?」
    「ええ、先日依頼を受けまして。……聞いてません?」
     勿論聞いていない。そう告げようとして、そういえば最近回覧版を碌に読みもせずに隣に回していたことに思い当たった。最近は悪質な空き巣も多いというし、防犯対策としてマンション側が用意したことなのかもしれない。
     しかも、このドアの鍵は今現在、ない。
    「いや、すっかり忘れとりました。じゃあ頼みますわ」
     にこやかにそう告げると、鍵屋はサービス業に相応しい声で「では、取り掛かりますので。終わったらお伝えします」と言うや否や、すぐにしゃがみこんだ。
     しかし大家も気が利くことだ、と思いながら私は居間のソファに舞い戻った。これでまたやることがなくなったわけだ。
     ならば、と私はテレビをつける。台風情報でも、と思ったのだ。
     いくつかチャンネルを回すうちに、求めているものが出てきた。天気図の端のほうに渦を巻く雲がある。思った以上に大きいものが来ているようだ。画面に向かって指を出し、その雲を筋通り左に辿りながら、そういえば渦の向きが事件の鍵となる推理小説はなんだっただろう、と考えに耽る。
    台風は真っ直ぐ日本を目指している。頼むから逸れてくれ、と思い、どうせずっと家にいるのだから関係ないか、と思い直す。
     いや、私は台風が逸れてくれることを祈っていたはずだ。
     確か用があったからである。しかし、それは何だったろうか。うーん、と唸りながらこめかみを押さえ、そういえば、と思い出しかけたとき、玄関から終了を告げる声がした。
    「早いなあ」
    「そうですか? 普通ですよ」
     取り付けたばかりの鍵はそっとなぞったら高い音を出しそうなほどに光っていた。
    「で、こちらが鍵です」
     同じように光る鍵を二本、渡される。
    「どうもお疲れさまでした」
    「いえ。ではお会計ですが、言われましたとおり引き落としになりますので。こちらが領収書です」
    「あ、はい、ありがとうございました」
     頭を下げると、鍵屋は照れたように笑った。感じの良い青年だな、となんとも微笑ましくなる。
    「いやお客さん、そんな丁寧に。なんか見かけと違いますね」
    「見かけ?」
    「あ、いや、ワイルドな感じなんですよ。……ああ、最近なんですね、それ。だからさっき熱心に見入っていたんですか。そうですよね、見慣れないってありますものね、自分のことでも」
    「あ、いや、はあ」
     思わず相槌を打ちながら、なんのことだと内心で突っ込んだ。居間へ続くドアを閉めていなかったから、玄関から居間は丸見えなのだが、そんなにへんなことをしていただろうか。
     そもそも私とワイルドとは、何マイルもかけ離れた単語である。カミソリ負けをしている顎をなぞりながら、どの辺りに野性味を感じたのか、と疑問に思った。
     私の困惑など知らない鍵屋は、「いや、お似合いですよ」と更に混乱に拍車を掛けるような言葉を告げてくる。闇雲に相槌を打ってしまう私も私だが。
     ちぐはぐな世間話は間もなく終わり、彼は帽子を脱いで、深々と頭を下げた。
    「では、失礼します。お声がかわいい奥様にも宜しくお願いしますね」
     そしてドアはパタンと閉まった。

     間を置かずまたドアを開けると、鍵屋の後姿がエレベーターに消えていくのが見えた。忘れないうちに、と新しい鍵のうち一本を置き鍵をしている場所に入れる。
     あとはトラッキーのキーホルダーを探すだけだ。それにしても鍵屋は面白いことを言っていたような。私は彼の台詞を反芻した。
     ――かわいい奥様に宜しくお願いします。
    「……なんなんや」
     その場にへたり込みながら、思わず手で顔を覆い呟いた。
    「奥さん?」
     誰のことを話しているのか。
     玄関に思わず座り込みながら、私は必死に現状を整理し、把握しようと努めた。鍵屋は声がかわいい奥様に宜しく言っていた。それはつまり鍵屋に依頼をしたのは女性ということになる。女性、この部屋に女性などいない。
     玄関で混乱していると、まずは居間で落ち着いたら、とそっと声を掛けられる。
     それもそうだ、と私は居間へとよたよたと戻った。
     そして音が無いリビングを、熊よろしくぐるぐると歩き回る。座った途端になにかに押しつぶされそうな気がするのだ。
     一体誰が私の家の鍵を取り替えるよう手配したのだろう。
     手に持っていたそれからじわりとなにかが染み出すようで、私は慌てて鍵をテーブルに放った。
     分を刻むごとに頭が混乱していく。
     こういう時は、とさらに二分ほどぐるぐる回ってから、私は徐に電話の前に立った。こういう時は誰か客観的な第三者に、状況を整理してもらうのが有効であることに気付いたのだ。
     そのような役目に、正に打ってつけの男がいるではないか。
     受話器を持ち、指が覚えている番号を押しながら耳に当てる。
     プッシュ信号が押した数だけ聞こえた後、しかし呼び出し音は耳に届かなかった。
     不思議に思ってがちゃがちゃと電話を切り、また番号を押してみる。しかし何度やり直しても電話は繋がらなかった。
     電話が壊れたのだろうか。
     試しに時報に掛けてみる。と受話器はすぐに時刻を小さな声で呟き始めた。どうやらうちではなく火村家の電話が壊れたらしい。
    「タイミングが悪い男やな」
     それならば他の人に、と思ったが、その案は結局却下した。この話をちゃかしながらであっても額面通り受け取ってくれる、そんな確信を持てるのは火村だけなのだ。なんとも泣けてくる話だが。
     しかしその火村には連絡が取れない。私は大きく息を吐いた。逆に覚悟が決まったのだ。
     なにかは判らないが、相手になろうではないか。全て受け入れてやる。
     私は日常を送るべく、書斎のドアを開けると、その意気よ、と後ろから明るく声を掛けられた。

     午後は極めて順調だった。
     午前中からの混乱は、やはりただの混乱でしかなかったらしい。それとも錯乱というべきか。
     どちらにしても嫌な響きだ。
     物語はその姿を徐々に現しつつある。彼らはあの小さな村で惑い、時に遣り切れない感情に晒されながらも真実を掴んでいく。
     見た者からも面白い、という評価も貰い、私は悦に入っていた。
     途中息抜きと実用を兼ねて、一度だけネットに接続すると、片桐からメールが入っていた。

    『片桐です。電話が通じないようなので再びメールで失礼します。頂いた原稿ですが、四十二枚目から七枚ほどが何故か不鮮明とのことです。申し訳ありませんが、この部分だけデータを頂けませんでしょうか。メールに添付で構いません。その際はこのアドレスではなく社宛のものにお願いします。お手数おかけします。』

     アドレスは見たことのないものだった。携帯か、北関東の先生の所から送ったものなのだろう。
     それにしても不鮮明とはどうしたことなのだろう。こちらが送ったときはなんともなかったというのに。不思議に思いながらも、該当する個所のワードデータをメールに添付し、早速送付しておいた。
     片桐も大変である。
     次のプロットも順調ですよ、と知らせたら、彼に多少でも報いることになるだろうか。
     そう考えると俄然やる気も湧いてくるというものだ。
     さあさあ、と降り始めたらしい雨が窓を撫でる中、私は空腹で腹が鳴るまで、夢中でああだこうだ、と唸り続けた。

     食事は結局カップ麺で済ませてしまった。なにか、作るのが面倒になったのである。食べ終わったあと、テーブルの上にそのカップを置きっぱなしにして、私はソファにごろりと横になった。
     午後いっぱい、日が暮れてからもただただ集中していたからだろうか、脳の辺りがぼうっとする。テレビの向こうでキャスターが読んでいるニュースの内容も右から左だ。もっとも興味を引くような事件も起こっていないからだろうが。大阪も全国も、実に平和だ。
     今日一日で凝った肩を解すために風呂に湯を張りながら、明日はさてどうしようかと思案する。午前中見たとおりに台風が進むなら、明日は残念ながらいよいよ本格的な雨になるだろう。買い物は先日済ませたからしばらく大丈夫だし、またプロットつくりに費やすのがいいかもしれない。明日といわず、来週は新しい物語にどっぷりと浸かっていることになりそうだ。
     新しい話を考えることは、恍惚感を伴う興奮を生む。苦しいことも多いのに、私はそれを手放せない。私の中心は小説で、全てはそこに繋がっている、常々そう思っている。
     適当なところで湯を止めて、私は心行くまで温まった。夏の風呂は夏なりに格別だ。そういえば最近温泉に行っていない。またふらりと気ままに行こうか。締め切り明けで、この先何の予定も入ってないのだ、身軽なものである。
     頭から爪先まできれいに洗い上げて、タオルで水を拭いながら居間へと戻ると、クーラーの冷気がひんやりと熱を払った。
     これからもう一頑張りするのもいいが、今日はもう休んでもいいだろう。時刻は夜半過ぎ、いつもならこれからという時間だが、なにかぼおっとしているからだろうか、いつでも布団に入れる気がした。
    「もう寝ます?」
    「そうやね、まあたまには早く寝るのもええかな」
    「いつも遅いんですね、吃驚しました」
    「でも、最後に一本だけ飲もうかな」
    「もう、体に良くはないですよ、それでは、私先にお休みしてますね」
     そういって寝室へ入るのを見送りながら、私は冷蔵庫に向かう。小さめの発泡酒を呷ると、喉が喜んでいるのがわかった。言われた通り体には悪いが、正にささやかな贅沢だ。一人の晩餐はあっという間に終り、私は手早く歯を磨いてから、寝室のドアを開けた。
     がらんとした部屋の端、一人には少し広いセミダブルのの真ん中に倒れこみながら、セミといってもやはりダブルだなあ、と意味のないことを考えた。一人この広さを味わうのもいいのだが、時々隣に誰かが欲しくなる。最近ご無沙汰やなあ、と思いながらそっと目を閉じると、速やかに眠りの予感が体を満たした。
     思った以上に疲れていたのだな、と思いながら私はその予感に身を委ねた。
    *             *             *
    「そろそろ起きる時間じゃないの、もうお昼よ」
     耳元で、そう囁かれた。
     さあさあさあ……という音が体中を包み込んでいる気がする。ああ、これは雨音だ。
     そっと目を開けて時計を見ると、昨日早く寝たはずなのにもう正午過ぎを指していた。いくらなんでも寝過ぎだろう。どうりで頭の芯がぼうっとしているはずだ。
     自分に呆れながら居間に行くと、部屋はきちんと片付けられていた。掃除機が掛けられた床を清々しく思いながらも、私は習慣でテレビを点ける。特別テレビ好きでもないはずなのだが、これは一人暮らしが長かったゆえ、人の声が恋しくなるからではないか、と自分で分析してみた。昼のはずなのに随分と薄暗い。電気がついた部屋は闇を払いきれていないようだ。
     NHKのアナウンサーは和歌山の潮岬に立って、真剣な面持ちでなにかを伝えていた。傘は差していないが合羽を着ている。いわゆる台風情報だろう。なぜ彼らはいつも率先して危険なところへ行くのだろう、とこの手のニュースが流れるたびに私は思う。
    「……台風は現在、こちら和歌山の方に向かって来ています。気象台の予報によりますと、関西はそろそろ雨が降り始めるとのことです。大気が安定していた大阪、神戸でも実に二週間ぶりの纏まった雨となります……」
     「入りましたよ」とことり、と置かれたコーヒーに手を伸ばしながら、ふとこのアナウンサーは何を言っているのだろうと可笑しくなる。大阪はここのところ通り雨が降っているではないか。現に今も。
     今頃苦情が殺到しているのではないか、だとしたら大変だろうな、と思いながら、私はコーヒーをテーブルに戻し、カーテンを開けるため窓の方に歩いていった。雨の具合によっては、雨戸も閉めなければなるまい。
     シャ、とカーテンを開けると、そこには無数の手があった。
     細い、白い手が窓のいたるところにあり、一心にガラスを掻いている。
     右を見ても、左を見ても。
     白魚のような美しい白い手、手、手。
     それらが好き勝手に蠢き、爪を立て、何度も何度も。

    さあ

    さあさあ

    さあさあさあ……
     
     手が掻くたび、不規則にガラスが鳴った。
    「……ひっ」
     情けないと思いながらも、その場にへたり込む。
     手は窓をなおも叩く。
     イソギンチャクのように、ゆらゆらと、ゆらゆらと。
     どうしたらいいのか、と思いながらよろよろと後ずさり、その場にあったソファに倒れこむように座り込んだ。それと前後して、玄関の方ががちゃがちゃと鳴りはじめる。時折、どんどん、と何かを叩く音。
     何かが、この部屋に入ってこようとしている。
     私はただ慄くことしか出来ない。外は間違いなく危険だ、しかし、中も安全かどうか。
     そんな私の二の腕を、そっと彼女が掴んだ。
     感触につられて顔を見ると、黒目がちの目が一心に私を見ている。ショートカットの髪、白い顔。
    「怖い?」
     彼女はそう聞いてきた。
     そうだ、私の傍には女性がいるではないか。男たるもの、ここでヘタってどうする。私は咄嗟に笑顔を作り、
    「大丈夫だよ」
    と言って見せた。
    「本当?」
    「ああ、ほんま」
    「……ねえ、どこにも行かない? 私、あなたの真ん中にいたい」
    「当たり前やろ、どこにもいかん。君がいるから」
     そう言ってやると、彼女は漸く落ち着いたようだった。もう外の音はなにも聞こえない。そっと私の頬に沿えた手は、氷のように冷たかった。恐怖で血が通ってないのだ。
     ずっと傍にいて。そう目を閉じる彼女の顔に、そっと私は顔を寄せ。

     思い切り頬を張られた。

    「……夫か? おい、聞こえてるか?」
    「……ひ、むら?」
     灯りも付いていない部屋の中、火村は必死の形相で私を見下ろしていた。口調も心なしか焦りがにじみ出ているようだ。雨の中を歩いてきたのだろうか、髪は濡れ、ジャケットは上のほうが黒ずんでいた。よく見れば、息が弾んでいるのか肩が小刻みに上下していた。一体何にそれ程慌てているのだろうか。
     私はそっと部屋を見渡す。カップ麺の容器が散らばった部屋は埃がうっすらと積もっている。何日か前に入れたっきりのコーヒーカップには、蚊の屍骸がひとつ、浮いていた。
     それらを見ながらも、まだ夢見心地のような私を心配したのだろう、今度は私の頬をそっと撫でて、「アリス」と一言名を呼んだ。無精ひげが頬を撫でられる、ざらざらとした感触を伝えてくる。私が頷くと、火村は鏡を握り締めていた私の手の強張りを溶かすようにそっと何度か撫でる。素直なもので、私はごとりと鏡を落とした。
    「火村、どうして……」
    「お前がマメな奴じゃなくて助かったよ」
     火村は言いながら、新品の鍵をこれみよがしに振ってみせる。そして、鞄から一枚の紙を私に見せた。


      えがみせんぱ???そう????と、かつかつとおおまたであ肁诣膤诣膤、よっと????おいを苣膣ꛣ膄鿣膮ꯣ肂???ぬの???っとはらっ????ほ肁鯣芓にあらわれたもの跣膨蓣膆믣膏をうばわれ????なんてことな????の??とおもって????のに????これ??……」と????ほくに、せ??????に????とわらって肁諣节迣膚臣芒これが????こまたさま?????


    「……なんやこれ」
    「それは俺の台詞だ、いや、正確には片桐さんのものだな」
     私の返答を聞いて、火村はほっとしたと全身で告げてきた。「今日の朝、突然ファックスで来たんだ。そのあと間一髪明けず電話が来て、お前からメールで来たものだが、見たら判るように明らかにおかしい。連絡を取ろうにも、一昨日辺りからなぜか電話が繋がらない。急で大変申し訳ないが火村先生しか頼れる人がいないんです、ってそれこそ発狂しそうな勢いで言われたんだよ。なんだと思って電話しても、本当に通じないし」
     火村はそう言いながらちらりと電話の方を見る。つられてそちらを見ると、電話線がぷっつりと切られているのが目にとまった。
     いつの間に。
     目を見張る私を、火村はそっと慈しむように軽く抱きしめてくれた。なに子ども扱いを、と思いながらも体の強張りはそっと抜けていく。
    「なあ、俺……」
    「とりあえず、休め。――もう大丈夫だから」
     そのときだ。
     にゅっと白い手が出てきて、私の襟首を急に力いっぱい掴まれた。
     そしてそのままソファから引き摺り下ろされそうになる。
     黒目がちの目が私を見ている。
     見ている。
     ただ、私を。
     突然のことに驚く私に構わず、火村はすごい形相で、私の下へと手を伸ばし、そして、鏡を拾い上げると、ものすごい勢いでその場で叩き割った。
     ぱりん……、と固い音が響く。
     そのとき聞こえたのは、間違いなく狂ったような女の笑い声だった。
     甲高い、耳障りな声。そして鼓膜の奥に響く求愛の言葉。
     私達がただ立ち尽くす中、割れた鏡の破片に映った無数の目は、私たちを睨みながら閉じられ、そしてそっと消えていった。


    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/01 0:41:24

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    #有栖川有栖 #作家編 #ホラー
    健全。『文が淵』と同じく、2004年、有栖川サイトの納涼企画ウェブアンソロに寄稿しましたものです。
    終盤のある箇所について、ウェブアンソロに掲載したときはタグで仕掛けを作ったのですが、pixivでは無理だったためそこのみ変更しております。
    ジャパニーズホラー、の王道目指して頑張りました。

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