恋人たちのダンス その日の夜は、なぜだかミスラの機嫌がよかった。
いつも通りの魔法舎での騒がしい日々。眠れないのもいつも通りだが、ふと気が向いて、シャイロックのバーに顔を出した。
珍しく、バーにはシャイロック以外の人影はない。そして、シャイロックも機嫌が良さそうに、ミスラを迎え入れた。
客はその後もなく、機嫌のよい二人。なぜだか特に会話もないが、それが苦痛というわけでもない。そんな中、唐突にシャイロックが口を開いた。
「ミスラ、私には、どうしても『一度だけ』みたいものがあるんですよ。あなたなら、それを実現できると言ったら、叶えてくれますか?」
ミスラは、なぜかご機嫌だった。だから、面倒くさい気も起こらず、後から思えば非常に不可解なことだが、「お安いご用ですよ」と答えていた。
そうして、いつの間にか魔法舎のバーは、シャイロックによって閉じられた空間になり、玉突台のかわりに黒いグランドピアノが存在を主張していた。
「一曲だけで構いません。明日、あるいはしばらく経った夜に、あなたの恋人をそこに座らせてこの曲を弾いてください」
そう言って、曲を弾き始めたシャイロックの姿を、ぼんやりと首に手を当てて眺めるミスラ。
一曲弾き終えたシャイロックの代わりにピアノの前に座し、鍵盤を端から端まで触れた後、先程シャイロックが奏でた曲の終盤の方の動きをまねてみる。それは正確に曲を成していた。
「もう一度、見せてください」
「はい。喜んで」
なぜだか、その夜はミスラの機嫌がよかった。ただ、それだけのことだったのだ。
***
ねぇ、ファウスト。覚えておいてね。これは、私の旦那様を落としたとっておき。誰のものでもないあのひとのためのもの。わたしたちには子供がいなかったから、あなたにこれを覚えておいてほしいの。
ふと、またたくような懐かしい声が、心に降ってくる。
詰め襟から斜めに合わさる胸元に飾り結びを施した足のほぼ付け根から下の両脇に大きくスリットのはいった紅色のベルベット地の衣装。肩先に少しかかるだけの短い袖に、二の腕の半ばまで覆う同色のグローブ。太股の半ばまでを覆う黒いストッキングにクロスストラップの赤いハイヒール。真白の羽を寄り合わせたようなターキーショールを引っ掛けて、頭には黒い羽根と深紅の大輪の花が咲いている。その上、この衣装の制作者に化粧を施され、爪にも色を入れている。大の男がそんな格好をしているというのに、この衣装を用意したクロエも、バーの主人であるシャイロックもご満悦だ。そのように飾りたてられているファウスト自身には到底理解できない。
けれども、シャイロックに謝礼代わりに求められては断ることもできず、また、この演目をこなすには必要な装いではあった。
そう。最初は、シャイロックに借りを返すために応じた。それが段々駆け引きの果てのおねだりになっていって、クロエまでそれに加わるようになった。見学者は二人だけ。だから、仕方なく応じている。
といっても、ファウストが2人の前で踊れるのは3曲だけだ。それしかかつての師から伝授されていない。残りの1曲は、人前で踊るようなものでもない。どこで聞いたのか、その存在を知っていたシャイロックがいかにねだろうとこれだけは踊れない。シャイロックとは情を交わす仲ではないのだから。
ミスラなら、あるいは・・・・・・と考えかけて、ファウストは目を伏せた。
ファウストの恋人を名乗るミスラが、ピアノを弾くなんてあり得ない。考えるだけ無駄だろう。そもそも、こんなことをしているなんてミスラが知ったらどうなるだろう。考えるだけでぞっとする。
「はい。できた。すっごくきれい」
「あぁ、ありがとう」
淡いピンクの口紅をさし終わったクロエが、仕上がりに満足したのか、にっこりとファウストに笑いかけた。つられてファウストがほほえみ返すと急に顔を真っ赤にして照れる。
「?」
そんなクロエを不思議そうに眺めて、ピアノの前にいるであろうシャイロックの方を見たファウストは、そのまま固まった。
そこには居るはずのない者がいた。
「ミスラ・・・・・・」
「はぁ。どうも。じゃあ、そこに座ってください」
ファウストの恋人を自認するミスラが、グランドピアノをぽんぽんと軽く叩く。
視線をずらすと、グランドピアノの正面にソファを用意してシャイロックが優雅にパイプをくゆらせていた。
「ミスラが弾くのか?」
「そうですけど、なにか問題でも?」
埒が明かないと思ったのか、つかつかとファウストに歩み寄ったミスラが、ファウストを抱え上げてピアノの上に載せる。そして椅子に座り、鍵盤に指を置いた。
「早くみせてくださいよ。その、ピアノ奏者を口説き落とすやつ?を」
シャイロックを見やると、ひらひらと手を振られた。
ファウストはがっくりと肩を落として顔を伏せ、それからゆっくりと顔を上げてミスラを見た。
ミスラは、その強い視線に満足げに笑う。
舞姫がつま先を奏者の方に置いて始まった演目は、戦っているみたいだったと後にクロエは言った。
舞姫が奏者の周りをくるくる回る。しなだれかかり、脚をからませ、奏者の頬をなで、ささやくように愛を歌う。奏者も演奏を止めることなく、舞姫を振り払うでもなく、淡々と演奏を続ける。視線は舞姫から外さずに。
「《アルシム》」
そして、曲が終わった途端、舞姫を両手に抱え込んだ奏者が、呪文を唱えて、二人が消えた。
「うわー。うわ〜・・・・・・。すごかった。どきどきした! あれ、キスしてたよね?」
「ふふ。そうですね」
シャイロックは終始ご機嫌だった。