アイオライト⑤菫青石に花が乱れ舞う 東の国の嵐が生まれる谷と呼ばれる秘境を見下ろす上空に、その女はいた。その谷にひそめく精霊たちが、その女の気配に反応し、あちらこちらでちいさな嵐を形作り始める。
大魔女チレッタと呼ばれるその女は、ただその谷を無表情に見下ろしているだけである。
だが、不穏であった。女の視線は殺気すらはらんでいるようであった。
しかし・・・・・・、
「僕に何か用か?」
静かな男の声が隣の空間から聞こえると、その不穏な気配はぱっと霧散した。嵐の谷に静穏が舞い戻る。
「ファーちゃん!」
そして打って変わって花開くようなご機嫌な笑顔である。
一方の話しかけた魔法使いは、黒い帽子にサングラス、黒いケープに暗い色のマフラーを巻いたその下は、黒い衣装黒いブーツとまったく本人の姿形がわからない。なのに女は、その魔法使いを視界の中に収めると、にこにこして言った。
「ファーちゃんは今日もかわいいね」
「は? 僕はちゃんと呪い屋然としているだろ。かわいくなんかない」
「えー、かわいいよぅ」
へらへらと言ってもよいほどに、笑顔のままの女である。
自らを呪い屋と称するその黒ずくめの人物は、じっと静かにその魔女の顔をのぞき込んだ。
「チレッタ。依頼があるなら受けるけど」
急に女は困ったようにうつむいて、宙に浮いた箒の上で足をぷらぷらさせた。
その女の背には生後半年ぐらいだろうか、ふっくらとした赤子がおんぶ紐の中で笑っていた。
「そういうのじゃないんだぁ。ごめんね、ファーちゃん」
「・・・・・・・・・・・・そう。まぁ、なんだ。お茶でも飲んでいったらどう?」
「うん」
二人の魔法使いの箒は、緩やかに嵐の谷に降下して行った。
***
「なにこれ。この椅子、すごいゆらゆらするよ?!」
「あぁ。それはロッキングチェアだからな」
「おもしろ〜い」
チレッタは床が抉れるのではないかというくらい、がっくんがっくんと脚の下に2枚のカーブした板の付いた椅子に腰掛けご満悦である。
一方の黒ずくめの呪い屋は、帽子やケープを外し身軽になって、なんとはなしにゆらゆら動きながら、赤子を腕に抱いて茶を淹れていた。
聞けば、南の国から箒でこの親子はやってきたというから、疲れたのだろう。腕の中の赤子は眠っていた。揺れていないと起きそうな気配を見せるから、なんとなく男は動いている。
「ねぇ。ファーちゃん、痩せた?」
「は? 別に痩せてなんかない」
「そっかぁ。・・・・・・そうかも。それ以上痩せたら、キュートじゃないもんね。骨々になっちゃう。ミスラに食べられちゃうよ」
「そんなわけあるか」
身軽になった男は黒い立襟のローブを着て腰をベルトで留めていたが、その緩く留めたベルトがその男の華奢さを際立たせていた。
胡桃色の短めに切った巻き髪、サングラスからのぞく青紫の瞳、黒い装束からのぞく肌の色は白い。どんな体勢でも背筋はぴんと伸びていて、ケープと帽子を取り除いたその姿は、本人は否定するだろうが清らかで聖職者に近い。
「ね。ファーちゃんて、赤ちゃんのお世話したことあるでしょ」
「まぁ・・・・・・。4、5歳以上離れていれば、世話はできるよ。割と体は覚えているものだと再確認しているところだけど」
「あ。ラブなはなしじゃないんだ」
赤子がすっかり寝入っているのを確認して、男は客人のテーブルを挟んで向かいにあった椅子に腰掛けた。
「残念だったな。チレッタにはあるんだろう? 証拠がここにあるしな」
「なぁに? ファーちゃんもルチルのはなし?」
「あなたの話だよ」
チレッタは揺り椅子を大きく揺らしてしばらく身を任せたまま無言だった。
「・・・・・・そのまま眠ってしまいなさい。チレッタ」
「はっ! 寝てた!!!」
「おはよう。チレッタ」
チレッタは揺り椅子に腰掛けたまま眠ってしまったようだった。まだ外は明るく、揺り椅子の上を覆うようにハーフケットが掛けられていた。結構、やわらかくてあたたかい。
恐る恐る横を見ると、家主がチレッタが眠る前と同じ椅子に座って、本を読んでいた。
「あれ? ルチルは?」
「気に入ったようで遊んでる」
示されるまま見やると、壁沿いの梁から垂れたロープと布でつくられた物体が勢いよく揺れていて、そのあたりから赤ん坊の笑い声が響いていた。よく見ると、布部分が最も壁に近寄ったときに小さな足が壁に貼られた薄いクッションを蹴っている。
「この家にゆりかごなんてないからな」
「何? ゆりかごって」
驚いたように男が女を見た。
「・・・・・・乳児用の、きみが座っている椅子のようなものだよ」
「ふうん。そんなのがあるんだ。面白いもんね、この椅子」
ゆらゆらとチレッタは椅子を揺り動かした。
「・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・。やっぱり、人間となんか結婚するんじゃなかったかなぁ」
「どうしてそう思うの」
一方は揺り椅子に大きくもたれ掛かって揺らしながら、一方は本から視線を外さず、ゆっくりと会話は続いていく。
「さっきね。夢見てた」
チレッタはぽつりぽつりと語る。
ティコ湖での出会い。絵物語のような熱愛っぷり。それは新婚状態でも続き、愛する人の日課のような詩の朗読にうっとりし・・・・・・。
「なんで? 最近聴いてない。ルチルルチルルチルばっかり」
「きみもね」
「まぁ、そうなんだけど〜」
ぷうと頬を膨らまして椅子の肘置きに頬杖をつくチレッタに、家主はたまらず吹き出した。
「やだぁ。ファーちゃんかわいい」
「かわいくない。・・・・・・ねぇ、チレッタ。前に中央の国で観劇したことがあっただろう」
「うん」
突然の話題にとりあえず、チレッタは頷いた。
「あれと同じじゃないか?」
「うん?」
珍しく、女の方が男の話に付いていけない。
「客が観劇する姿勢じゃないと演じる方も始めることもできないよ。しがいもない」
女は小首を傾げてしばし考えた。
「あたしが悪いって言うの?」
家主はその反応を見て、顎に手を添えるようにして少し黙考した。
その様をみて魔女は『あ。なんかかわいい』と思ったが、口には出さなかった。
「たとえばの話だけど、あの子を寝かしつけた後、あなたたち二人が居間で顔を合わせる。あなたは鷹揚にその椅子に腰掛け、あなたの夫はおもむろに詩集を手に定位置に立つと、情感たっぷりに詩を朗読する。あなたはそれをうっとりと聴き入る」
「・・・・・・いい。いいね、それ!」
「おそらく相手も」
チレッタはいきなり勢いよく立ち上がった。
「帰る」
「そう」
「ファーちゃん、これ頂戴」
指し示したのは今まで座っていた揺り椅子だった。
「は? きみ、この前も洗い桶を無理矢理持って帰っただろう」
「うん。今、大活躍! これは彼に朗読してもらう時に使うの。ルチルのももらってくね」
「梁はだめだ。家が倒れるだろう!」
「わかった〜」
魔女とその息子は、嵐のように去っていった。
「まったく。・・・・・・どうか幸せに」
嵐の谷の呪い屋は、自宅の扉に寄りかかり、夕暮れの迫ってきた空を仰いだ。