氷解 ドラルクは雪が好きらしい。
久々に、新横に雪が積もった。どんよりと曇った空と反比例するように、地に落ちた白はキラキラと存在を主張する。ロナルドはカーテンを閉めながらため息をついた。雪は嫌いじゃない。ただこう寒いと、何もやる気が起こらない。せっかくの非番だと言うのに。足の爪は昨日切ったし、今日はなにをして過ごそうか。そんなことを考えながら、ふと床に置かれた棺桶に視線を落とす。まだ日は高い為、ドラルクは当然起きてこない。夜の喧騒とは打って変わって、昼間のこの部屋はひどく静かだ。静寂と寒さがじわじわとにじり寄ってきて、かつて一人で暮らしていた時の事を思い出す。そうか、あの時俺は寂しかったのか、と今頃になって思い知る。結局、日中はダラダラと何もせず過ごした。
夜。雪が積もっているぞと教えてやると、ドラルクは喜々としてカーテンを開けた。
「みて! ジョン! 雪だよ!」
子供のようにはしゃぎながら、ドラルクが窓を開ける。冷たい空気がつ、と身体に触れ、ロナルドは思わず顔をしかめた。200何歳だろ、お前。今更雪なんて珍しくないだろう。そう喉まで出かかったが、珍しい珍しくないと好き嫌いはまた別の物だと思い直し、言葉を飲み込んだ。それに何より、キラキラと笑うドラルクの顔は、何ものにも代えがたい。
「寒いだろ、閉めとけよ」
「だって雪だよ! 雪遊びをしよルドくん!」
「嫌だよ。寒いし」
「じゃあいいよ。誰か別の人を誘うから。行こ、ジョン!」
「待てよ、待てって」
誰か別の人、と言う言葉でひゅうと体温が下がるのを感じた。思わずか細い腕を掴み、引き止める。すべすべとした青白い腕は、いつもより冷たく感じる。
「冷えてんじゃん。やめとけよ」
「もとからですー吸血鬼は体温が低いんですーそんな事も知らないんですかー?」
そう煽ってくるドラルクを、とりあえず一回殴って塵にする。縋りついて泣くジョンを横目に見ながら、クローゼットに向かう。そこから二着コートを取り出し、うち一着を再生したドラルクに投げつけた。
「着とけ」
「えー、私平気だよ」
「いいから」
渋るドラルクに、無理やりコートを着せる。視覚化される体格差。自分の服にすっぽりと包まれる恋人の姿に、ロナルドは征服欲のようなものが満たされるのを感じた。
仕上げとばかりに、普段自分が使っているマフラーをぐるぐると細い首に巻き付けると、ドラルクの手を取って立ち上がらせる。
「ほら」
「いいの?」
「おー」
ジョンがドラルクの胸元に潜り込むのを待って、二人と一匹で外に出る。冷え切った空気が身体に染みこむのを感じ、思わず身を縮めた。ぎゅ、ぎゅ、と足元の白を踏みしめながら歩くロナルドとは対照的に、ドラルクは軽い足取りで進んで行く。一面の銀世界に目を輝かせながら、「寒いねえ」「綺麗だねえ」などと胸元のジョンに話しかけ、一歩二歩と前に進んで行く。
ふとこのまま置いて行かれそうな気がして、ロナルドはドラルクの手を掴んだ。不思議そうに振り向くドラルクに何も言わせたくなくて、転ぶなよ、とか寒いだろ、とか適当に口の中で呟き、指先を絡ませポケットに入れた。いつもより冷たい指先。体温を分け与えてやろうと、ロナルドは指先に力を込めた。
人気のない公園の一角で、ずっと握っていたドラルクの手を放してやる。するとドラルクはするりと抜けて、雪に向かって駆け出して行った。あ、と思った瞬間、ドラルクがこちらを振り向いて笑った。
「雪だるま作ろう!」
「ヌー!」
「私とジョンで頭を作るから、ロナルド君は胴体を作ってね!」
「……なんで俺がめんどい方なんだよ」
「いいからいいから!」
けらけらと笑いながら雪と戯れる200歳児。ガキはどっちだよ。手元で雪を寄せ集めながら、少し離れてその姿を目で追う。ああ、本当に、お前は綺麗な顔で笑う。何にも汚されていない顔で、楽しそうにけらけらと笑う。
雪玉を作り、それを少しずつ転がす。それはどんどん大きくなる。ああ、嫌だな。雪玉を見つめながら、ついさっきのドラルクの言葉を反芻する。「誰か別の人」。なんでそんな言葉が出てくるのだろう。なんでそんな簡単に言えるのだろう。代わりなんていない。いつだって俺はお前しか見ていないのに。
いつだったか、ドラルクが自分から離れて行くのではと不安で不安で、泣きついてしまった事がある。ドラルクは、そんな情けない自分を笑うでもなく、「じゃあ私の物になるか」と問いかけてくれた。靴下にすら執着するのが吸血鬼だから、自分がドラルクのものになれば、安心だろうという理屈だ。事実、一時は安心した。ドラルクの優しさにぐずぐずと泣いた。しかしやはり、それは「優しさ」でしかないのではとまた不安になる。「愛」ではあるかもしれない。だが「恋」ではない。執着も未だ感じない。独占欲も感じない。求められているとも思わない。
自分ばかり、自分ばかりだ。自分ばかりが一方的な愛をドラルクに押し付けていると思う。ドラルクはそれを突き返すことはしないし、一応は受け取ってくれている。しかし、それだけでは足りない。求められたい。縋られたい。自分だけを見て欲しい。自分の内側から湧き出る、どろりとした黒い感情に吐き気がする。ああ、お前はあんなにも白く綺麗なのに、俺は。
いつの間にか、雪玉はかなりの大きさになっていた。指先の感覚がない。手袋を持ってきたらよかったなと今更思いながら視線を上げると、少し離れた場所でしゃがんでいるドラルクの姿が目に入った。何かを探しているのか、夢中で雪をかき分けている。
「どらこー」
後ろから近付いて、そのまま包み込むように抱きすくめると、ドラルクは驚いて「わ」と声を上げた。ぴんと尖った耳が、寒さで少し赤くなっている。そのまま暖めてやるように、ロナルドは呼気を含ませて耳元で囁いた。
「なにしてんの」
「あ、やめ、耳元で喋るな!」
「いいじゃん、別に」
「やだ、やーめーろー!」
顔を赤くしてじたばたと抵抗する可愛い恋人を、死なない程度にぎゅっと抱きしめて拘束する。するとドラルクは諦めたように大人しくなった。
「ジョンは?」
「……木の枝を探しに行ったよ。雪だるまの腕にするんだって」
「……お前は何してんの?」
「雪だるまの顔に、何かいいのないかなって」
「ふーん」
返事をしながら、ドラルクの冷え切った頬に自分の頬を擦り寄せる。人ではないとは言え、あまりにも冷たすぎる体温が不安を煽る。
「冷え切ってんじゃん。もう帰ろうぜ」
「……あれだったら、別に先に帰ってても、」
なんだ、それ。ロナルドは、また自分の体温が下がるのを感じた。それ以上言わせないとばかりに、ドラルクの下唇を指でなぞる。そのまま口を開かせて、人差し指と中指をぐっと押し込んだ。冷え切った指先に、ドラルクの温かな体温が染み込む。よかった、ちゃんと生きていると当たり前の事を確認してほっとする。
「や、ろなるどく、つめた、」
ドラルクが苦しそうに息をする。あ、死なないんだ。そう思うとなんだか急に気が良くなって、ロナルドはドラルクのマフラーを持ち上げ、隙間から首筋に唇を落とした。
「や、や、」
ひやりとした感触が気持ちいい。そのままちゅ、ちゅ、と音を立てて吸い上げ、所有印を付けて行く。ドラルクのだらりと開いた口から唾液が垂れ、ロナルドの手を伝う。
「やら、や、ろな、」
と、唾液とはまた別の、何か生温かいものがロナルドの手に触れた。ハッとして指を引き抜くと、ドラルクははあはあと荒い息をしながら、涙目でこちらを睨んだ。
「ご、ごめ……!」
「……ッ急に盛るな、馬鹿アホボケカス!」
「ごめん、ごめんって」
「 冷たくて、死ぬかと思った」
「……死ななかったじゃん」
「外だぞ、誰かに見られたら、」
「それは、いいだろ、別に」
「よくな」
「……見られて何が悪いんだよ」
自分でも想像し得ないような低い声が出て、ドラルクが小さく息を呑むのが分かった。きっと自分は今、酷い顔をしている。そう気づいた途端、猛烈な自己嫌悪に襲われて、ロナルドはドラルクの細い身体をかき抱いた。
「ごめ、ごめん、ごめん、ごめん」
「……」
「ごめん、おれ、」
今度は自分の頬を、生温かいものが伝った。
「違うんだ、俺、」
「いいよ。大丈夫。大丈夫だから」
「おれ、おまえのこと、」
「知ってる。わかってる。大丈夫」
そう宥めるように言われ、ロナルドは少しだけ腕を緩めた。ドラルクは手を伸ばして、ロナルドの涙を拭いながら、諭すように言う。
「好きだよ」
「ほんとに?」
「ほんとに。ちゃんと好きだよ」
「う、あ、」
「どうしたら信じてくれる?」
「わ、かんない。違うんだ、俺、おれが信じられないのは、どらこうじゃなくて」
「わかってる。わかってるよ。ほら、いつまでも泣いてないで」
「だって、だってさあ」
「……ジョンが帰ってきた。後でいっぱい甘やかしてあげるから、今はお兄ちゃんできるかな?」
「うっせ、ばか、ガキ扱いすんな」
「どの口が言うんだか。……ジョン! おかえり! いい枝だね」
両手に枝やら葉っぱやらを抱えて帰ってきたジョンを、ドラルクが抱き上げる。ジョンは自慢気にヌン! と胸をそらした。
「ほら5歳児、雪だるま仕上げるから手伝って」
左手にジョンを抱きかかえ、空いた右手がロナルドに差し伸べられる。その手を取りながら、ロナルドは自分の心に暖かいものが差し込むのを感じた。しかしきっと、雪解けはまだまだ先だ。