辺獄 どうすれば君を安心させてあげられるのだろう。
月の見えない寒夜。しんと静まり返った部屋の中、コントローラーを握り一人画面と向き合う。今日は、久々の一人きり。ジョンは町内会の集まりのため出かけていて、ロナルド君も数時間前に退治に出てそれっきりだ。依頼なら私も連れていってよ、とダメ元で言ってみたのだが、邪魔だから来るなとつれない返事だった。むっと噤んだ口に唇を落とすと、ロナルド君は名残惜しそうに頬を撫で、「すぐに帰ってくるから」と呟いた。たった数時間離れるだけなのに、何故そんなにも辛そうな目をするのだろう。折角の綺麗な瞳を、何故そんな風に歪ませるのだろう。どうしたって、今の私には理解ができなかった。
さて、それでは何をしよう。せっかく一人なのだから、どこかに出かけても良かったのだけれど、何故かそんな気になれなかった。ここ最近、日常生活に必要な買い物以外、ほとんど出かけていない。別に行くなと言われている訳ではないのだけれど、どこかに行こうとする度に、ロナルド君の青い瞳が濁るような気がして。なんとなく、行かないで欲しいと言われているような気がして。おかげで、すっかり出不精になっていた。
そうだ、久々に配信をしよう。そう思い立つと、私は早速パソコンの電源を入れた。ここ最近、すっかりご無沙汰になっていた動画配信。これも別に、誰かに禁止されたと言う訳でもないのだが、配信中背中を這うじっとりとした視線が、どうにも嫌で避けがちになっていた。
「みんなーお久しぶりー」
今日は気兼ねなく配信ができる。だいぶ久しぶりだと言うのに、コメント欄は大勢の視聴者で賑わっていた。次々と流れるコメントを、一つ一つ目で追いながら返事をする。ああ、この感じ。大勢の人々と交流するこの感じ。久しく覚えていなかった感覚に、私は思わず口元を緩めた。
『ドラドラちゃん久しぶり!』
『ヌーを出せ』
『ゴリラはいないの?』
『今日は何やる?』
『俺のドラドラちゃん!』
『なんでずっと休んでたの?』
「みんなありがとねー。うん、最近ちょっと忙しくてね。そうそう、ジョンもロナルド君もお出かけ中。だから今日はいっぱい遊ぼうねー」
そんなことを言いながら、ずっと途中になっていたゲームを起動する。
『前の続き?』
「そうそう。辺獄を冒険するやつ。あれ主人公すぐ死ぬんだよねー」
舞台は辺獄。モノトーンの世界の中、主人公が妹を探しに行くと言う横スクロールアクションゲームだ。至る所に罠が仕掛けられていて、それを搔い潜りながら進む。ミスをすると嫌にリアルな音がして、主人公は即死する。
『ところで、辺獄って何?』
「うーん。私もよく知らないんだけど、洗礼を受けないまま死んだ人が行く地獄っぽい所……? みたいな」
『じゃあドラドラちゃんも死んだらそこに行くんだ?』
「ふふ、そうかもしれないね。私たちは神を信じないから」
『じゃあ何を信じるの?』
「何を……」
そう言われて、ふと宙を仰ぎ見る。何を信じるって、そりゃあ、自分自身に決まっている。しかし、咄嗟に脳裏に浮かんだのは、あの青色で。――なんで、おかしい、それは違う。
頭をぶんぶん振って、浮かんだイメージを慌てて打ち消す。
『ドラドラちゃん、元気ない?』
「え?」
思わず手を止めてコメント欄をじっと見る。元気がない? 私が?
「元気、元気だよ? なんで?」
そう聞くと、コメント欄には次々に私を心配する声が流れてきた。
『なんか顔が元気ない』
『なにかあった?』
『ヌーと喧嘩したんじゃね?』
『まさかぁ。あ、もしかしてゴリラになんかされた?』
「ロ、ナルドくんは別に、何も、してないよ」
『ほんとに?』
「ホントだよ、これは全部、私が好きでやってることで……」
『これって何?』
「これって言うのは、だから、ロナルド君と、ずっと、」
ずっと、一日中ロナルド君と一緒にいて、どこにも行かないで、ずっと。
『ドラドラちゃん?』
ついさっき貰ったコメントが、脳裏をよぎる。神を信じない吸血鬼は、私は、何を信じる? 信じるって、信仰って、何? わからない。違う、ついさっき脳裏に浮かんだあの濁った青色は、違う、そういうのとは、違う、ただ、私は、彼にはずっと綺麗でいて欲しいって、彼の瞳は、本当はもっと透き通っていて綺麗だって知っているから、そう、青空みたいで憧れなんだ、だから、それで、私は、
『ドラドラちゃんってば!』
「ドラ公」
ヒュ、と、細い息が肺を冷やした。あ、あ、あ、嫌だ、嫌だ振り向きたくない。手袋をつけたままの大きな手が、私の頬をそっと撫ぜる。嫌だ、怖い、でも振り向かないと、それは君を拒絶するという事になってしまうから。
ゆっくりと振り向くと、そこには濁った青を湛えた恋人の姿があった。思わず引きずり込まれそうになる、濁った青。ああ、どうして、君はこんなにも――
「お、かえり、ロナルド君」
「どうした? 体調でも悪い?」
ロナルド君は画面を一瞥したが、まるで気にせず私の頬を愛おし気に撫でた。
「あ、いや……ロナルド君、配信中」
「続けろよ、気にせず」
「いや、でも」
「なあ、このコメント欄って、リアルタイムのやつ?」
「え、ああ、うん、そうだけど」
はっとして画面に視線を戻す。さっきまでとは打って変わって、コメント欄は完全に沈黙していた。
「なんも来てないじゃん」
「いや、さっきまでは、」
と、一件コメントが流れた。
『ドラドラちゃん、やめといた方がいいよ、そいつ』
空気の温度が、一瞬にして下がるのを感じた。ああ、ダメだ、ダメだ、ダメだ。ロナルド君がパソコンに手を伸ばす、私はそれを反射的に遮ると、作り笑いを浮かべて無理に高い声を出した。
「みんな、ごめん、配信はまた今度ね!」
早口でそう言って、画面を閉じる。ダメだ、これは、良くない奴だ。ぐっと息を吸い込んで、後ろに佇む恋人に向き直る。相変わらず目はじっとりと濁っていて、感情が読めない。
「ロナルド君」
ロナルド君は答えない。だめだ、やっぱり、彼は、本当に――
「ロナルド君!」
「え、ああ、ごめん……何?」
腕を掴んで強く呼びかけると、ロナルド君はようやっと返事をした。
「ねえ、抱きしめてくれる?」
「何、だよ突然」
「いいから」
そう言って両手を伸ばすと、ロナルド君は屈みこんで私をそっと抱きしめた。汗と硝煙の匂いがする。まだ、大丈夫。そう、今日はきっと疲れているから。
「……退治、大変だった?」
「……いや、別に」
「そう。……キスしてくれる?」
「ん」
ねだると、ロナルド君は素直に右の頬に唇を落としてくれた。
「反対も」
左の頬に唇が落とされる。
「額も」
額に唇が落とされる。
「唇も」
唇に唇が落とされる。
「……なんだよ、やけに甘えただな」
「ふふ、なんでだろうね。君が好きだからかな?」
そう言うと、ロナルド君はちょっと顔を赤らめて、「ばーか」と呟いた。
「ねえ、こっち見て」
ロナルド君の青い瞳を覗き込む。いつの間にか光を取り戻していたそれは、私の憧れる青空そのものだった。ああ、よかった、まだ、大丈夫。
「ね、ロナルド君、好き」
「俺も」
まだ、大丈夫だ。