同じ速度で生きている まあ、よく考えたなあそんなこと、という感想しかない。
あるものを何でも使うその姿勢には感心するし共感もできるけれど、それはそれとして何でも使い過ぎである。とはいえ髭切は現状その制度と理論に恩恵を受けているので、それ以上は言えない。変に規制されても面倒だからだ。
部屋で寝転んで煎餅を咥えていると、しっかりとした足音が聞こえてきたので髭切は襖の方に目をやった。するとスッとそこが開いて審神者が髭切を見下ろす。
「またそんな風にダラダラして。近侍の自覚ありますか」
眉間に皴を寄せてこちらをやや睨んでいる彼女に、髭切はにこっとした。これは厭味やごまかしではなく本心から嬉しかったためである。
「おや、今日も元気そうでよかったね」
「……あなたのせいでしょう、あなたの」
呆れた顔で彼女は言った。現在、彼女の胸の左寄りの位置には髭切の心臓が移植されている。
切欠は、審神者から比較的よく送られてきていた問い合わせだったという。
「手入れの際に不要になった刀剣男士の手足をどうすればいいですか」
これはかなり切実な問題だった。というのも、刀剣男士が戦闘で手や足を欠損してくることは多々あることだったからだ。
もちろん、刀剣男士は本体である刀身さえ破壊されなければ人間の形をしている器は手入れ次第でいくらでも復元される。だが資材は有限だ。したがって欠損部分が大きく、手入れに流用できると判断できた場合、そのまま切断された体の部位を手入れ資材として使用することがある。
しかし、指先の一本だとか目玉だとか、そういう小さなパーツはそうはいかない。資材にするにもたかが知れているし、大抵かなり汚れたり損傷が酷かったりするので、廃棄する他ない。とはいえ、人間の体の形をしているものをどうすればいい。捨てるのはなんだか、躊躇われる。けれどこれまた不思議なことに、これらの部位は放っておいても腐ったりなんだりしないのだ。ある政府所属の刀剣男士に聴取を行ったところ、彼はこともなげにそう言った。
「そりゃあ、そうだよ。これは、僕たちの一部。僕たちから離れたとしても、これは僕の形をしているもの、僕の名前でここにあるもの。僕が朽ちない間は、このままだろうね。どんなモノだって、たとえ壊れてしまっても破片はその壊れたままの姿でそこにあるじゃないか。君たちが捨ててしまうまで」
所詮は鉄、ということなのだろうか。ちなみにとある本丸のもげた刀の指は一年経ってもそのままだったと報告事例もある。
けれどある日、そういった報告書を見ていた時の政府の一人の職員が言った。彼は政府管轄の病院の医師だった。
「刀剣男士の体を、医療に役立てることはできないだろうか」
彼はその日、襲撃で搬送されてきた審神者を看取ったばかりだった。移植できる臓器があれば助けられたかもしれない患者だった。
「髭切さん、申し訳ないんですが買い物に行ってきてください」
ジャージを着て、カタカタとキーボードを打ちながら彼女が言った。その隣でお菓子を摘まみつつ雑誌を読んでいた髭切は顔を上げる。
「買い物かい? どこに行く? 君そういえば、薬局に用があるとか言っていなかった? 顔を洗うのがなくなったとかで」
「私の話聞いてましたか。行ってきてくださいって言ったんです。私は一緒に行きません。これ買って来てください」
サッと紙切れを渡されて、髭切はしげしげとそれを見つめる。どうやら食料品の他に細々とした日用品が必要なようだ。
「つうはん、だっけ。あれで買えばいいのではない?」
「今晩の夕飯でいるそうです。うちは今急に刀が増えて、それに伴って資材やらなにやらの必要数が増えてしまったので、買い出しに人員が裂けませんでした。手の空いている髭切さんが行ってください」
なるほど、それもそうか。髭切はもとより、理屈が通っていて納得できれば特に疑問もなく指示を受け入れる方である。だから雑誌を閉じるとよいしょと横に手を伸ばし彼女の腹のあたりを抱え、そのまま立ち上がった。彼女の体はまるで俵のように持ち上げられる。
「何するんですか!」
「いやいや、君もたまには歩いたりなんだりして気分転換するべきだよ。せっかくそうできるようになったんだから」
「ちょっと!」
結構な力で彼女の手が髭切の頭を押しやろうとする。しかしそれでも髭切はまだ笑みを崩さなかった。嬉しいのである。
「僕が担いでも全力で抵抗できるようになってよかったねえ」
数か月前まで、彼女の体は木偶であった。以前彼女をそう表現して髭切は初期刀である加州清光に殴られたことがある。けれど本当に、出来の悪い人形の方がましだというくらい動けなかった。
心の臓が弱いらしい。顕現してすぐにそう教えられた。働きが悪いとかで、血の巡りがよろしくなく、運動ができない。だが「できない」と言い切るのさえ謙遜になってしまうほど、髭切が顕現したときの彼女は具合が悪かった。ほんの少し、例えば廊下の端から端でもすぐに息切れしてしまって走ることができない。当然長時間立っていることも不可能であったため厨の手伝いさえ不可能で、一日の殆どを座っているか寝ているかで過ごす。そうなると勿論、審神者の業務にも制限がかかり、出陣も遠征も最低限。彼女の本丸の刀たちは数が少なく、そして当然のことながら練度が上がるのも遅かった。けれど幸いなことに髭切は気が長い方だったし、体が木偶でも彼女の審神者としての素質は一級品だったからその辺りは気にしないことにしたのだ。彼女が髭切の主たろうとするのならば、その覚悟があるのなら、何も言うことはない。その期間が長かろうが短かろうが、それは関係がない。
だが実際にその瞬間が目の前に差し迫ると、髭切は何故だか胸を裂いてまで彼女に自分の心の臓を提供していた。そういうわけで、髭切の心臓は今、彼女の心臓なのである。
「ちょ、っと、おろしてください! 俵みたいに担がないでくださいって前にもお願いしましたよね!」
「そうそう、あのときの君はろくな抵抗もできずにだらんとして僕の肩に乗っかってるだけだったけどね」
「あのときだってお腹に体重がかかってかなり辛かったんですよ!」
声を張って彼女が騒いだからだろうか。廊下の曲がり角からふっと加州が顔を出す。戦装束の加州はこれから遠征に行くはずだった。
「廊下の向こうまで聞こえてっけど、何してんの」
「やあ加州君、主がね、日用品がいるらしいから。これから買いに行こうと思って」
「行ってきてくださいって頼んだんですよ、私は」
体重がかかって痛いというのだから、髭切は彼女の足に腕をぐるりと回して持ち上げてやった。これなら髭切の腕に座っているのと同じなのだから、腹部は痛くないはずだ。彼女は髭切の肩に頬杖を突いてげんなりしている。
加州はくるっと髭切の背後に回り、彼女の様子を見ているようだった。基本的に加州は彼女の味方である。だがもう一度髭切の方に戻ってくると、加州は履物から財布を出し、いくらか金銭を抜くと髭切の履物に突っ込んだ。
「あげる。今日は菓子屋が安くなるって知らせが出てたから、なんか買ってくれば」
「おや、ありがとう」
「お前にじゃねえよ。主好きなの選んでね」
再び彼女の方に回ると、加州はいくらか弾んだ声でそう言った。彼女は加州に弱い。こうなってしまっては、加州に言われた菓子を選ぶために一緒に買い出しに行くだろう。
「……わかった、じゃあ選んでくるから帰ってきたら一緒に食べよう」
「ん、楽しみにしてんね」
じゃあ、と加州が言ったので髭切は再び玄関まで足を進める。その頃には彼女も大人しくなっており、玄関の三和土に下ろしてやると不本意そうな顔をしていたものの、仕方がないといった様子で靴を履いた。
「まあまあ、加州君を怒らないでやっておくれよ。彼も君が元気に声を上げたり動いているのが嬉しいってだけなんだから」
彼女の足元に座り込み、しっかりと靴紐を結び直してやりながら髭切が言えば、彼女は深く溜息をつき肩を落として言った。
「清光には怒りませんよ、髭切さんには怒っても」
「おや、僕だって同じような理由で君を連れ出しているのにね」
「じゃあもっと私の都合だとか気分だとか気にしてください」
てくてくと彼女は玄関を歩いて転移装置を操作する。その後姿を髭切はやはり瞳を細めながら見つめた。以前はあんなにしっかりした足取りではなかったのを覚えているからだ。
外出時は渋々といった風ではあったけれど、彼女は本丸の外に出るといくらか興味深そうに万屋や他の雑貨店を見回していた。それもそのはず、ほんの数か月前の彼女は本丸から殆ど外に出られなかったし、ここ最近も治療後の検査やら何やらで病院通いが主だった。この頃になってやっと普通の「生活」を送れるようになったのだから、こんな商店街は珍しいだろう。
「楽しいかい」
後ろから髭切が声を掛ければ、彼女は振り返って僅かに決まり悪そうにした。
「いいえ、買い出し、早く済ませて戻りましょう」
「おや、いいんだよ。好きなお店を覗いたらいいじゃないか。ほら、あっちの雑貨屋とか。女の子の好きそうな髪留めを売っているよ」
「結構ですって」
「じゃあお菓子屋さんに行こうよ、加州君も選んでおいでって言ってただろう? こっちだよ」
そう言えばやっと、彼女は仕方ないですねと呟いたけれどそれでも足を動かして菓子屋に向かう。昼下がりの商店街は刀剣男士といくらかの審神者とで賑わっていた。はぐれても嫌だったので、髭切は彼女の手首を掴む。手ではすり抜けるかもしれないので手首にした。彼女はそれにやや眉を顰めたが、それ以上文句は言わなかった。
安くなると知らせが出ていただけに、菓子屋の店先は普段よりも混雑している。上背のある髭切はともかく、彼女はこれでは何も見えないだろう。そう思って髭切が彼女の脇の下に手を突っ込むと、彼女はぎょっとして暴れた。
「ちょっと! 何するんですか!」
「え? でもそこじゃ何も見えないだろう? だから持ち上げてあげようかなって」
「平気ですよ、順番待ち位しますから」
「そう? 僕はね、このお店のもなかが好きなんだ。あんこがいっぱいで美味しいよ。君はあんこ好き?」
そう尋ねれば、彼女はやや視線を伏せて考えた。
「わかりません。あまり食べたことがないので」
「……ああ、そっか。君、前は食べちゃいけないものもあったんだっけ」
そういえば、近侍になったときそんなことを加州から言われたような気がする。他にも運動させるなだとか、びっくりさせるなだとか、細々したことをたくさん。それらすべてを髭切が遵守していたかと言えば、そうではないのだが。
「髭切さん、清光の言うこと殆ど聞かなかったですもんね。その度にいつも清光がキリキリしていて、可哀想でしたよ」
「ふふ、まあまあ。今はもうそんなの気にしなくていいんだから。彼もきっと、それがとっても嬉しいんだよ」
履物から加州に突っ込まれた金子を取り出し、髭切は彼女の手のひらに載せた。菓子を買ってくるだけにしてはかなり多くの額を加州は渡してきた。人がはけたので、髭切は彼女の両肩を掴んで少し前の方に押しやる。色とりどりのお菓子が並ぶ店先に、彼女は何度か瞬きを繰り返した。
「……嬉しいんだろうなって、わかってます。もう食事制限しなくていいって、先週先生に言われて、清光は私より喜んでて、以前の私は、甘いもの、あまり食べられなかったから」
硝子の売り場の向こうに並べられている団子や饅頭を見つめ、彼女は小さく笑った。
「清光、本当は甘いもの好きなんです。でも私の手前食べるの、いつも我慢してた。食べると私の心臓に良くないって、清光は知ってましたから。そんなの、私は生まれてからずっとそうだったから気にしなかったし、気にしなくていいって言ったけど、清光は私の前では絶対、口にしなかった」
金子をぎゅっと握って、彼女は振り返る。それから普段よりもずっと柔らかい表情で微笑んだ。
「だから今日はたくさんお団子もお饅頭も買いたいです。お腹いっぱいケーキも食べてみたかったから、それも」
それなら、自分がついてきたのは正解だった。髭切ならば荷物を持つにも困らない。
「よーし、じゃあ僕も真ん丸のけえき一つ丸ごと食べちゃうよ」
「それは構いませんけど、これで買えますか?」
「僕だってお財布ぐらい持って来たから大丈夫だよ」
食べきれなくても自分が平らげるからと髭切は彼女が呆れるのを他所に団子も饅頭も洋菓子も買い込んで店を離れた。案の定結構な荷物になったので、それは全て髭切が抱える。とはいえ菓子の重さなんてたかが知れているので、髭切には大して腕が疲れないくらいだった。
「お団子くらいなら私も持てますよ」
「平気だよ。それより早く他のものも買って帰らないとね。洋菓子は溶けてしまうんだろう」
「あ、そうでした。えっと」
細々した日用品がどうとか言っていたはずだ。傾けるなと言われた洋菓子の箱やら団子の包みなんかが入った袋やらを両手に持った髭切が、体を倒して紙片を取り出した彼女の手元を覗き込んだときだった。
視界の右側、下の方から何かふわっと飛んだのが見えたのだ。
「あ」
風船だ、と気づいたのは髭切の方が早かった。檸檬色の、丸い風船。けれど髭切は今両手に彼女の菓子を抱えている。優先するべきなのはこちらの方だと髭切は判断した。だから視線でだけそれを追ったのだが、髭切より一拍遅れて顔を上げた彼女の方はそうではなかった。
手にしていた紙片を離す。それからすぐに、体を捻って一歩足を踏み出した。ひとつふたつ、小さく軽やかな、しかししっかりとした足音が聞こえた。
「う、わっ、届いた」
間一髪、彼女の指先が風船にくくってあった紐を掴んで手繰り寄せる。それを離してしまったのが彼女の膝下くらいまでしかない背丈の子どもだったことも幸いした。
風船を捕まえた彼女の元に、子どもの傍にいた加州が駆け寄る。
「わ、すいません、ありがとうございます。ほら主、ありがとうして」
「ありがとございます」
「いいえ。捕まえられてよかった。はいどうぞ」
屈んで、彼女は風船を子どもに手渡す。子どもを抱き上げ何度も頭を下げて去っていく加州に、彼女は小さく手を振っていた。
こんな風では、なかった。髭切はじっと、ほっそりとしてまだまだ頼りないがそれでも芯の通った彼女の背中を見つめる。あれはまだ、ほんの数か月ほど前の話なのに。
「大将! 大将しっかりしろ! 秋田! 気道が確保できねえ、これ代わってくれ!」
「で、でも、薬研兄さん、僕が押して、骨が折れたら」
「骨なんか折れたって死なねえ! でも心の臓は止まったら死ぬんだぞ! 小夜、玄関から除細動器取って来い! 赤いやつだ!」
ハ、ハと戦場から戻ったばかりの髭切はまだ大きく呼吸をしていた。肩を揺らしながら、その光景を見つめる。仰向けに寝かされた彼女の胸の中央を薬研藤四郎が押していた。
「薬研さん! 言ってたの、これっ?」
自分も土埃に汚れた小夜左文字が赤く四角い箱を持って走ってきた。それを一瞥し、薬研は動作を続けながら叫んだ。
「それだ! 大将悪いな、我慢してくれや」
ビッと音を立てて薬研が彼女の服だけを引き裂く。貧弱な彼女の体は薄っぺらく、一応ながら女性としての体はしていたけれど、そんなこと言っている場合ではなかった。薬研は赤い箱から取り出した何かを、薬研は彼女の胸元に貼り付ける。それから自分の上着を被せた。
「秋田一旦離れろ!」
薬研がそう言って秋田を引きはがすと、彼女の細い体が酷く跳ねる。それでも彼女の顔は青白いままだった。
「大将、頑張れ、大将!」
「主君!」
「主、頑張れ、主!」
何の反応も示さない彼女を見て、再び薬研が彼女の胸を押し始めた。誰も何も言えない。だって、誰も人体の救い方なんて知らない。殺し方は知っているのに。
「薬研、もういいよ……」
必死に彼女に処置を続ける薬研の腕を掴んだのは加州だった。涙も拭わないで、ただぼたぼたと床にそれを溢しながら加州が薬研を引き留める。
「もう、楽にしてやって……」
「加州、何言って」
「もうずっと、主はずっと、俺たちのために動けないの我慢して、辛いのに無理して生きててくれてたんだ。だから、もう」
もどかしいでしょうと、以前彼女は髭切に言ったことがあった。戦うために生まれてきたのに、ここに来たのに、自由にそうできないのはもどかしいだろうと。けれどそう言ってくるということは、きっとそう思っているのは彼女なのだろうと髭切は思っていた。思うように動けないことを、誰よりもどかしかったのはきっと彼女なのだ。
だから彼女が本当は、死にたがっていたことを髭切は知っていた。とうに自分の体に嫌気がさしていたことを。苦しいから、体が思うように動かないのが悔しくて腹立たしいから、もう疲れたと彼女は前に言っていた。もう疲れてしまったから、終わりにしたいのだと。
「……そんな身勝手に、死なせるわけないだろう」
疲れたから死ぬだなんて、髭切の主をやめるだなんて、そんなこと許すはずがない。だから髭切は、仕方なく服の襟元を緩めた。元来髭切は、理屈さえ通っていればどんなこともこなせる合理主義者である。
「ねえ、僕の心臓、使っちゃってよ」
手を挙げて髭切が言えば、蘇生活動を続けていた薬研は目を見開いてこちらを見る。加州もぎょっとしていた。
「な、なに言ってんだよ、お前」
「だって、見たよ、新聞だっけ。そういう方法、あるんだろう」
刀剣男士の臓器を、審神者に移し替える。刀剣男士はそもそも、審神者の霊力で顕現している。だからあまり難しい処置をしなくてもうまいこと適合するのだという。その上、体を提供したほうの刀剣男士は本体が折れなければ肉の器は手入れで回復する。提供先が、自分を顕現させた審神者のみに限られるが、それでもその方法でなら救える命はある。
「旦那、そりゃ、方法としてあることはあるが、そこは前例がねえ」
「方法があるならいいじゃないか。でも僕の心臓じゃ、この子にはちょっと大きいかな。まあ頑丈なのは保証するよ、今のやつより。だから僕の心臓使っちゃってよ、働きとしては変わらないんだから、入れれば同じだろう」
服の留め具をぷちぷちと外す。幸い、今日は大きな負傷はしていない。手入れなしでも、髭切の肉体はこのまま使えるはずだ。しかし加州が慌てふためいて髭切の手首を掴んだ。
「いや、そういうわけには、って言うかお前死ぬじゃんそれ!」
「死ぬわけない、こんなの少しの間なくても、僕は折れない」
言い切ったものの、確かな証拠があるわけではなかった。しかし、刀剣男士は首が落ちても死なないのだ。だから、おそらくは。髭切にとってこの体は器でしかない。一番大きな問題は、その仮初の臓器が本当に彼女に適用されるかどうかとそもそもそれが間に合うかである。かなり危ない博打だが、当たれば生き返るのだからめっけものだろう。試さない手はない。
「ほら、本当に死ぬよ、主」
「っでも」
「旦那の言うとおりだ、蘇生はし続けてるが限界がある。もう唇が青い、やるなら今しかないぞ、加州!」
赤い瞳が揺れているのがわかった。加州がどう思おうと髭切は彼女を生かすつもりでいたので、今答えを出せないのなら昏倒でも何でもさせる。だから髭切が右手を上げかけたとき、加州が震える声で呟いた。
「間違って、ないかな。そんな風に、主のこと、生かすのは。だって、だって主」
こんなこと望んでいないかもしれない。加州は髭切の倍くらい、彼女が本当は死にたがっていたことを知っていたはず。
「さあ……間違っているかもしれないね。僕の都合でこの子を生かすのは」
今、彼女に死ぬのを許さないのは髭切の都合。疲れたから自分の主をやめるだなんてそんなのは承知できない。彼女だって好きで審神者になったのではないだろうが、それでも髭切をここに呼んだのは彼女である。その責任は取ってもらう。
「でもいいじゃないか。人間の都合で、僕らこんな体になったんだもの。だったらこの体をどう使っても、僕の自由だよね」
「でもお前、本当に死ぬかもしれないよ」
困惑しつつも、それしかないと察しつつある加州が視線を惑わせながら呟く。けれど髭切は首を振った。
「僕は死んだりしないよ。でもそうなりそうだったら、次は加州君が試してみてね」
髭切は死なない。ただ折れるだけ。けれどこの子は違う。
ここで一人ぼっちで、死なせるわけにはいかなかった。この子だけは今一人でこんな風に死なせるわけにはいかなかった。だったら万に一つの望みを自分の心臓に賭けるしかない。
だから髭切はその場で胸を裂いたのだ。
「人間、案外高くまで跳べるものなんですね。間に合わないかと思いました」
風船を飛ばした小さな子どもが、今度はその紐をしっかりと握って行ってしまうのを見送って彼女が小走りでこちらへ戻ってくる。足取りに狂いはない。政府で何度も検査を受けて、元髭切の心臓は彼女の中でしっかりと機能しているらしいと分かった。髭切は髭切で息もできないし血は流れ放題だしであのときうっかり折れるかと思ったが、手入れ部屋に担ぎ込まれると元通りになった。
けれどあの心臓は髭切の心臓なので、髭切が折れれば彼女も死ぬだろうと言われた。
「長生きしてね、できるだけ。君はもう、嫌かもしれないけど」
洋菓子の箱を持ち直しながら彼女に言う。すると彼女は眉間に皴を寄せ首を傾げたが、すぐに目を細めて笑った。
「長生きさせるんでしょう、あなたが」
地面に落ちたままになっていた紙片を拾い上げ、彼女は髭切の腕にぶら提がっていた団子の袋を取る。それから日用品なんかを売っている商店へ歩き始めた。
「あはは、それもそうだね」
はぐれてしまわないように髭切は再び彼女の手首を掴む。すると当然なのだが自分と全く同じ速さで、彼女の血管が脈打つのがわかった。