餃子、春巻き、シェパーズパイ
帰宅したら何者かがカウチで睡眠をとっていた。
おそらく、シャーロックの部屋から引きずってきたであろう毛布にくるまった彼は、ゆっくり呼吸する青い塊と化していた。塊の手前側からブルネットがはみ出しているので、多分こっちが頭だ。塊はシャーロックよりひとまわりちいさい、でもシャーロックではない。シャーロックもよくカウチで本格的に寝ようとするやつだけど、でも彼は今日は夜までバーツにいるって言ってたから、この塊は彼じゃない。
いつからいるんだろう。ハドソンさんは何も言ってなかったから、勝手に入ってきて寝ちゃったのかな。腕時計の針は19時を指していた。夕飯はまた面倒くささに負けて中華のデリを買ってきたんだけど、でも1人分だしな。冷蔵庫に何かあったっけ? 来るって分かってたら甘いものぐらい買っといたのにな。あ、床に眼鏡置いてる。危ないじゃないか、もし踏んじゃったら……………なんだ、僕は、保護者か? いや、実際そういうもんだけど。
いろいろと考えていたら、足元にいるブルネットがもぞもぞと動いて、青い塊の中から青白い額が現れた。このあとの展開を、僕は寸分の狂いもなく言い当てることができる。眉を寄せて不機嫌そうに唸ったあと、もう一度毛布の中に戻ろうとして、でも目は覚めてしまったから全身を猫のように伸ばすけれど、その拍子に足が毛布から飛び出して寒さにまたいらつくんだ。シャーロックとフラットシェアを始めてから、僕は何千回とカウチで眠り続けるシャーロックを叩き起こしてきたが、まさか弟も全く同じ手順で覚醒するとは知らなかった。あまり考えたくはないけど、長兄もそうなんだろうか。そうだったらどうしよう。
このいらつき方までそっくりなのだ。いつものあざやかで明察な頭脳はどうしたのだというぐらい、なんというか、5歳児って感じで、これはもう一回足が外に出たら寒さにぐずって泣き出すんじゃないのかなって思ってしまう。彼ならともかく、シャーロックのサイズでぐずって暴れられたら僕は終わりだ。友達なので殴ったりはしないけど、ほおをつねったり耳を引っ張ってやるぐらいはしたくなってしまうだろう。思いっきり。
一回足が外に出た時点で諦めたのか、彼は毛布から手を出して床を探り始めた。僕は中華のデリをローテーブルの上に置くと、ウェリントンフレームの眼鏡を手にとって彼に持たせてやった。チェック柄の青いシャツに包まれた腕がぴたりと止まる。
「………春巻きの匂いがする」
「うん、チャーハンと餃子もあるよ。でも一人分しか買ってきてないんだよね。ハドソンさんから何か貰ってこようか?」
「………」
夕飯を一緒に食べるつもりで来たけど、そこまで僕にさせるのは申し訳ないと思ったのか、彼はようやく顔を全部出した。おはよう、と僕が言うと、眠たげなグリーンの目がまるで頷くようにぱちぱちと瞬いた。
***
この兄弟は、愛称で呼ばれることをひどく嫌がる。マイキー、シャーリー、クィン。一度ふざけてシャーリーと呼んだらシャーロックの機嫌がものすごく悪くなったことがあって、それ以来僕は彼の愛称を口にしていない。マイクロフトがマイキーと呼ばれるのを嫌がるだろうということは流石に僕でもわかるし、マイキーと呼びたいと思ったことはない。ということは、順当に行けば彼もそうなのだ。だから僕は、彼のことをクィントンと呼んでいる。彼の兄さんたちと同じように。
「おいしい?」
「おいしい。こんなにちゃんとしたもの食べるの久しぶり」
「またドーナツばっかり食べてるんでしょ。今は若いからいいけど後で泣きを見るぞ」
「そんなこと言うのジョンぐらいだよ」
「本当に? シャーロックは?」
「シャーロックは僕にドーナツをくれるタイプの兄だったから」
シェパーズパイと春巻きを同時に食べて頰を膨らませている姿がなんとなく栗鼠に似ている。彼が来るとつい食べ物や健康の心配をしてしまうのは、僕が医者だからというだけではなくて、多分彼のことを自分の弟か親戚の子のように思っているからなんだろう。
ハドソンさんは久しぶりに現れた三男坊をこれでもかと可愛がり、僕たちに作り置きのシェパーズパイとクッキーを山ほどくれた。「シャーロックに用があって。今日は二階に泊まっていきます」と彼が言うと、ハドソンさんはさらに目を輝かせて「じゃあ朝は朝食を食べにいらっしゃいな」と嬉しそうに言った。僕もいちおう末っ子だったから、この対応はよくわかる。
221Bの女神にきつくハグをされ、両手で顔をギュッと挟まれた彼はなんとなく頰が赤いままシェパーズパイを咀嚼していた。そりゃ、あの兄二人にはこんなことはされないだろう。
ホームズ家の三男坊とは、確かシャーロックと一緒に住み始めて半年ほど経った頃に初めて会ったのだった。ある日仕事から帰ったら、いつものソファに座ったシャーロックが、その足元にクッションを敷いて胡座をかいた弟が一心不乱にカチカチやっているPSPの画面を覗き込んでいる現場に遭遇したのだ。マイクロフト以外に兄弟がいるなんて知りもしなかった僕は驚いたが、PSPを兄に押し付けて立ち上がった彼と握手して至極納得したのだった。自由奔放なブルネットに青白い肌、神経質そうな緑色の眼。見れば見るほど彼はシャーロックの弟だった。君たちそっくりだね、と僕が言うと、「聞き飽きた」というニュアンスを含んだ宝石のような4つの眼がこちらに向いて笑ってしまった。あれからもう一年以上経つ。
マイクロフトは、上の弟と同じように下の弟に対してもやや歪んだ愛情を過剰に注いでいるようだが、シャーロックの弟へのそれは随分とストレートだ。それはもう、驚くほどに。彼には兄たちのような一目で他人の生活を言い当てる能力はないが、それでもあの二人の弟だ。シャーロックにとって、自分と同じような知力を持った彼は小さい頃から格好の遊び相手であり、数少ない守るべき対象であったようだ。なんでも、シャーロックが僕とフラットシェアを始める前は彼と二人で住んでいた時期があったらしい。彼はその延長のように221Bに遊びに来て、自身の才能であり商売道具でもあるラップトップを開いてきまぐれに捜査を手伝ってくれた。ついこの前、僕のブログの壊れたカウンターも直してもらって、お礼にアールグレイの茶葉をあげたらすごく喜んだっけ。
彼はこういった意味で兄弟の中では異質なのだ。喜怒哀楽があり、それを発露させる術を知っている。僕もシャーロックが実は非常に表情豊かであることを知っているけど、末っ子は兄弟の中でも最もいわゆる「普通」に近い情緒があった。シャーロックはその貴重さを知っているから、上の子と比べられがちな弟を彼なりに必死に守ってきたのだろう。会うたびに兄が弟の生活を事細かに並べ立て、頭の回転が速いもの同士の小競り合いになるというお馴染みの展開は確かにある。でも、ふと目を向けると、シャーロックが弟のゲーム画面を後ろから見て口を出し、仲良さげに会話して時に笑い合うような光景があったりする。彼の言う通り、シャーロックは両親や長兄の目を盗んで弟にこっそりドーナツをあげるタイプの兄だ。彼らには確かに足りない情緒があるが、彼らなりに仲のいい兄弟なのだ。
***
最近解決した事件の話や、僕が聞いていい範囲での彼の仕事の話、マイクロフトの噂話などなど、たわいもないお喋りをしながらシェパーズパイと中華のちぐはぐな夕食をとった。ちょうど最近あった「例の女(ひと)」の話をすると、彼は緑色の目を丸くして、半ば不可解という顔で驚いていた。やっぱり本人からは一言も聞いていなかったらしい。
「シャーロックが仕事以外で女性とメールしてるなんて、世にも珍しい……」
「僕だって驚いたよ。君は知らない? シャーロックは過去にそういう人いなかった?」
「さあ……知りたいと思ったこともないし、あなた以外には知らない」
僕は目を瞬かせた。
「僕?」
「うん。ああ、勘違いしないで。そういう意味じゃなくてーーーすくなくともそういう意味である確証は僕にないからーーー同じ家に住めるほど仲の良い友達って意味で」
彼は咀嚼していた餃子をジャスミン茶で流し込むと、数式の説明をするように淡々と続けた。
「わかると思うけど、兄の場合は、距離の近い人っていう意味で、あなたの言う“そういう人”と“友達”をまず同列に捉えるべきだと思う。彼と距離を詰められる人がまずいないから。シャーロックが個人的に気にかけてテキストを見るような人は、僕が知ってる限りではあなたぐらいだったよ」
「………そうか」
なんというか、改めてこうして明確に言葉にされると、なぜかこそばゆいような気持ちになる。フラットシェアを初めて2年ほどになるけど、どうやらシャーロックは少しは僕に心を開いているらしい。やや感慨に浸っている僕を見て、冷静な意見をくれた弟は小さく笑い声を漏らすと続けた。
「きっとその人は、シャーロックと同じレベルでものが考えられる珍しい人だったんだろうね。同等の思考レベルだからノータイムで距離が縮まったんだよ。でも、そのせいでコミュニケーションがあっという間に終わって、やることがなくなっちゃうんだ」
確かに、あの2人はあまりにも波長が合っていた。僕のミドルネームを子供につけろよと思わず言ってしまうぐらいには。でも、じゃあ、そしたら。
なんとなくパンドラを開くような気持ちになり掛けていたら、階下でドアが開いて慌ただしく階段を登る音がした。噂をすればだ。やっぱり、朝言ったよりも早い時間に帰ってきた。
シャーロックはバーツから持ち帰ってきたらしい資料を暖炉の上に置くと、大股で自室に行きコートを脱ぎ捨てガウンを引っ掛けて居間に戻ってきて、その間ずっといつもの調子で喋り続けた。
「ジョン、明日は早いぞ。ジャーナリストの靴はカーディフのセレクトショップの限定品だ。ゴミ収集車が来る前に川辺で親指が見つかれば僕が勝つ。付き合え。君の出勤時間までに解決する。レストレードに明日の朝7時にフェスティバル桟橋に来るようテキストしてくれ
。アンダーソンを来させるな、絶対に、奴に親指を触れさせるな。また中華のデリか? 翌日がデートなら控えるべきだと思うが、丸みを帯びた無害な男を演出するならぴったりだろう。とはいえハドソンさんのパイまでーーーーーー来てたのか」
シャーロックが嵐のように喋り続け、僕が慌ててモバイルを取り出している間に、末の弟はマイペースに春巻を丸々もう一つ食べ終えていた。来てたのか、なんて白々しい。彼がいるから早く帰って来たんだろうに。
しかし、聡明な弟はその「来てたのか」を待っていたかのようだった。
「ちょっといい?」
その声色にただならぬものを感じた僕は、モバイルと空の食器をを持ってさりげなくキッチンに引っ込むことにした。空の食器と言っても、いまや紙かプラスチックのゴミなので、洗い物はない。つまり居間の話し声は聞こえる。彼らも僕に聞こえていることはわかっているだろうけど、いちおうプライバシーを尊重したつもりだった。
「シャーロック、あのね、昇進した」
「思ったより早かったな。そろそろだとは思ってたが」
「うん。手続きはマイクロフトがやるけど、一応言っとこうと思って」
「……買うのはマグカップだけにしとけよ」
「…………わかってるよ」
「Q以外には?」
「ジェフリー・ブースロイド、ニュートン・ウェインストック、ボブ・キーツ。……どう考えてもボブって顔じゃないって言ったんだけど。せめてロバート……そんな変な顔しないでよ。でもQでいいよ、そんなに変わらないじゃない」
「ふん、確かにQ以外パッとしないな。まあいいだろう、どうせ実家に戻ったらクィントンだ」
「シャーロック」
「なぜコードネームなんて馬鹿げたものをやりたがる? 機密は凡人にしか機能しないぞ。MI6は機密を破れないような凡人を相手にしてるのか?」
「シャーロック」
「………まあいい」
「…………」
「……猫二匹」
「猫二匹」
「僕の名前で領収書でも切っておけ」
「うん」
「ジョン、盗み聞きするぐらいならついでに僕のコーヒーを淹れてここで堂々とやれ」
僕はコーヒーの入ったマグカップ二つとアールグレイの入ったティーカップと、ハドソンさんのクッキーが乗った皿をちょうどトレーに準備したところだった。だから、プライバシーを尊重したんだってば。
***
僕は彼ーーー今度からQと呼ばなければいけないらしいーーーが何の仕事をしているのか、はっきりと聞いたことはない。でも、彼がコンピュータに関して物凄い才能があることや、それで長兄の手をかなり煩わせていたこと、そして今その才能を生かした仕事をしていることは知っている。これでどこで働いているのか言葉を濁すときたら、僕だって大体の察しはつくし、シャーロックはさっき堂々とMI6と言っていた。彼の悪いところだ。
要するに、めでたく昇進はしたが、仕事や地位の重要度と一緒に機密度が上がり、これ以降はコードネームもしくは偽名を名乗って生活しなければいけないということらしい。本名で借りていた今のフラットも引き払って、別の名前でもう少し広い場所に引っ越すのだそうだ。ちなみに猫二匹とは、Qが入庁した当時に昇進祝いのプレゼントとして兄弟間で取り付けられた約束だったそうだ。
「これから忙しくなるから、しばらく会いに来れないと思うんだ。その挨拶も兼ねて」
“Q”はなんでもないことのように言うとクッキーをかじった。
「まだデスクもないし、引き継ぎも終わってないし。新しいフラットにも帰れないかも」
「ハドソンさんにも言わなきゃね。めでたいけど寂しくなるな。な、シャーロック?」
「フラットの場所はどうせマイクロフト伝いに知らされるしMI6がどこにあるかなんて猿でも知ってる。何も変わらない」
「寂しいってさ」
「ジョン!」
僕は寂しいなんて言ってない、顔にそう書いてあるじゃないか、僕の顔にはなにも書かれていない、君はいつもそうやって揚げ足をとるよな、足はとれない、わざとやってるだろ?……“Q”は僕とシャーロックが年中繰り返しているようなやりとりを面白そうに見ていた。このときばかりは、僕は彼が何を考えているのかなんとなくわかった。僕とシャーロックは、コミュニケーションの齟齬によってこうして距離を縮めて来た。僕はシャーロックの言っていることがわからないから説明を求める。彼がそれに何か答える。僕はまだわからないところがある。彼は呆れながら何か答える、僕にもわかるように……この繰り返しだ。例えば「揚げ足をとる」という慣用句について、時折わざと齟齬を起こして噛み合わない会話をする節が、それがちょっとおもしろいと思っている節が、確かに、僕とシャーロックにはあるのだ。“Q”は、この聡明でやさしい末の弟は、さっき餃子を食べながら、シャーロック相手にそれができるのは僕だけだと言っていたのだ。
***
次の日、僕らは221Bの前でQと別れた。11月の寒い朝だった。タクシーを捕まえるために一瞬外に出て戻ってくると、玄関で兄弟が小声で何か話しているところだった。シャーロックがQの頬をうに、とつねっている。おいおい、なにしてるんだ。弟は一瞬驚いたような顔をしたものの、つねられた頰を赤くしながらやめてよ、と笑っていた。
シャーロックがタクシーに乗り込んだ後、僕はQに昨夜から気になっていたことを聞いた。昨日の話なんだけどさ、シャーロックの“そういう人”の話。不躾かもしれないんだけど、なんだか君の話であるようにも聞こえたんだ、と。つまりQに“そういう人”はいないのかと、それはもう迷惑な親戚のおじさんそのものの質問をしてしまって、言ってからちょっと後悔さえしたのだが、Qは少し考えて言った。さあ、いたことないし、あまり考えたことないけど。でも。彼は僕の額のあたりを眺めていた。金髪には少し憧れてるかも。僕たち、みんな子供の頃からブルネットだから。
この時の彼の言葉が一体なんだったのかを僕はかなり考えたのだが、随分長い間答えは出なかった。金髪が好みだとかいう、そんな単純な話じゃないはずだ。たぶん、自分に欠けているものの象徴というような意味だったんじゃないかと僕は思っている。なぜなら、この線でいけば、僕に欠けているものの象徴は天然パーマのブルネットになるからだ。僕は子供の頃から金髪だった。
そのあとMI6の本部が爆破される大きな事件があって、Qはほんとうに半年ほどぱったりと姿を現さなかった。僕はシャーロックやマイクロフトを通じて彼の無事や近況をなんとなく知らされるだけで、出世してから疎遠になっちゃったな、なんて月並みなことを考えていたが、Qは夏も近くなったつい昨日、221Bにふらりと戻って来た。なんと、金髪を従えて。僕はようやく半年前の金髪とブルネットに関する会話の答え合わせができたわけだが、それはまた別の話だ。