かみさまどうか
「車でだぜ? 普通なんであれ車輪があるもので降りちゃいけないだろ? そりゃバリアフリーじゃないのがいけないとか言えるかもしれないけど、あの道がバリアフリーだったとしても車で通るところじゃないじゃん、車で通れるようになったらそれはもう車道じゃん? しかもそのあとめちゃくちゃ派手に事故ってさ、俺が気絶してやっと起きてる間にそこらへんにあるバイクかっぱらって猛スピードでどっか行っちゃったんだぜ! なんで! 気絶! しないの! あの事故で!」
目の前にいる青年は俺の語尾に「!」がつくたびに、それはもう完璧なタイミングで「うん」と相槌を挟んでくれた。おまえリズムゲーとかやってたっけ? 最近ちょっと忙しくてゲームする暇ないんだけど、おもしろいのあったら後で教えてもらお。
「まあ最終的になんとかなったからいいんだけどさ。職場もなくならずに済んだし、イーサンも死ななかったし……俺ちょっと怖いよ、何したら死ぬんだろイーサンて、いやわかってるけどさ、毎回生きて帰ってくるのが奇跡だしあいつの実力なんだけど、ほんと、いつだって生きてるんだよイーサンは、ちょっと意味わかんないぐらいに」
そう、ほんとうに、ちょっと意味わかんないくらい、俺の友達のエージェントは、いつでも生きているのだ。そりゃ人間はだいたいいつだって生きてるもんだけど、仕事上それがどんなに凄いことか、わかってくれる友達は数少ない。会うたびに俺が話す「最近イーサンがやったやばいこと」シリーズにQが毎回素晴らしいリズム感覚で相槌をくれるのは、彼がそんな貴重な友達のうちの1人だからだ。
ちょっと意味わかんない、という俺の言葉に、ギネスを口に運ぼうとしたQは笑い声を漏らした。
「ベンジー、ミンサーって知ってる?」
「なに?」
「ミンサー。ひき肉を作る機械のことをね、ミンサーって言うんだって」
「うん」
「僕のところのが、前に鞄空っぽで帰ってきたから言い訳ぐらい聞きましょうって言ったら、ミンサーで粉々にされたって。答えだったの」
エールを飲みながら相槌を打とうとした俺はあわや吹くところだった。Qは怒りとおかしさが入り混じったような複雑な声でくつくつと笑った。
「ミンサーってなんですか? って、聞いちゃった。また壊したんですかとか、何回やったら気がすむんですかとかじゃなくて、ミンサーってなんですか? だよ。もう、意味わかんなくて、ほんと」
俺はほとんど呼吸困難になるほど笑っていた。ほんと、意味わかんないよな!
***
俺とQの名誉のために言っておくと、話してはいけないようなことは公共の場でもチャットでも話さない。暗黙の了解だ。そういう話はだいたい飲みや遊びには退屈な話だし、酔いだって吹っ飛んでしまうからだ。もう一つ、これはちょっと不名誉というか、互いの職場には内緒にしていることだけど、MI6とIMFを通じて会った時よりも遙か昔から俺たちは友達だった。どれぐらい昔かって、Qが、今はQと呼んでるけど、この緑色の目をした青年が今よりもっと小さくて、垢抜けなくて、学校をサボりがちなバリバリのハッカーだった頃からだ。そのころ俺はIMFで内勤をやっていて、最近その界隈でいよいよ大物になってきたらしいハッカーがどんなやつなのか仕事の片手間にちょっと調べたら、どうやら出身が同じ国で、かなり若くて、神経質で、なにかに八つ当たりするようにハッキングをやっているらしいということを知ったのだった。その直後に突然上海にいるイーサンから電話がかかってきて、ちょっとしたトラブルに巻き込まれてバタバタしていたが、間も無くして俺は当時ハタチを過ぎたばかりだったQとネット上で友達になった。彼のことをそこまで調べ上げられたのは俺が最初だったらしくて、彼の方から興味を持ってくれたし、なにより俺たちは2人ともスター・ウォーズの熱烈なファンで、しかもフーヴィアンだったからだ。
いや、しかし俺だって驚いた。毎日つまらなさそうにしていたから、いっそIMFに引き入れようかと思っていたのだが、ある日就職先が決まったと連絡が来て以来1年ほどパッタリとコンタクトが取れなくなった。ちゃんと仕事に就けたのならまあそれはそれでいいかと思っていた矢先に、ある任務でMI6の協力を仰ぐことになり、当時新米エージェントだった俺を含むチームが向こうの解析課のトップと顔を合わせることになったのだ。あとはもうお分かりだろう。MI6のどこか地下にある小部屋に案内されやたら重いドアを開くと、スカイプで散々オタク話をしたあの耳障りのいい声が、新生“Q”だと紹介されたブルネットの青年の口から飛び出したのだ。
「エージェント・ダン。Qと呼んでください」。まったく、開いた口が塞がらなかったね。
***
Qの「ミンサーの人」の話はまだまだ続いた。そして、そのどれもがイーサンに負けず劣らずぶっ飛んだものばかりだった。正直、俺は彼ほど装備品を大事にするタイプじゃない。モニターの調子が悪かったらぶっ叩いたりするし、そりゃ愛着がないって言ったら嘘になるけど、ぶっ壊して飛んだ分のデータは俺がイーサンと現場に出ることによって補われる部分が大きい。よって、Qがこれだけ文句を言える理由は三つある。(a)「ミンサーの人」はかなり生還率の高いエージェントで、(b)じゃれついていけるほど安心できる相手で、(c)自分が現場に出られない分心配だから、だろう。それぐらい俺にもわかる。
「おまけに、あの人やたらQ課に入り浸るんだよ、最近。この前なんて自分のマグカップまで置いてってさ、しかもあんな、あんなマグ……お茶飲んでく気満々じゃんっていう……コーヒー、コーヒーなんだけど、あの人が飲むのは」
Qはあんな苦いもの、と呟くとチップスにビネガーをかけた。俺は含み笑いをしてエールをまた一口飲む。「苦いもの」を飲みながら本部で二徹も三徹もしている分析官の友達を知っているからだ。
シンジケートの一件が終わったあと、俺はそのままロンドンに残ってちょっとだけ有給を消費することにした。明日の夕方にはイーサンにお土産でも買って飛行機に乗る予定だけど、帰る前になんとかQを捕まえて、パブに引っ張り込むことに成功したのだった。
「よっぽど気に入られちまったんだな。いや実際、おまえ年上に可愛がられるタイプだと思うよ。言われない?」
「……そうかなあ。職場の人ほとんど年上だから、ピンとこない」
「それで上手くやれてるってことはそうなんだよ。忘れてたらいちおう言っとくけど、俺めちゃくちゃ年上だからね」
「だって、ベンジーは年を知る前に知り合ったから」
Qはギネスでちょっと酔っ払ったのか、ぷうと拗ねたように両腕で頬杖をついた。そんなかわいい顔したって無駄だぞ。でもお前みたいなのが解析課の後輩にいたら、俺めちゃくちゃ可愛がっちゃうよ、今も可愛がってるけど。死ぬほど仕事できておまけに趣味も合ってさ。この年の離れた友達を、俺はなんかもう弟か甥っ子か、近所の子供とかそういう風に感じていた。もちろん、絶対に敵に回してはいけない相手だということを理解した上で。
そう、だからこそ、さっきから話題に上る「ミンサーの人」、お前のこと、俺ちょっと気になっちゃうな。聞いたところだと、どうやらMI6のエージェントで、それもかなりのやり手らしい。死んだと思ったら生きてた話とか、話だけ聞くとイーサンみたいだけど、でもイーサンとは違うタイプのやばそうな奴で、すごい伊達男みたいだ。Qが恋愛するタイプの人間かどうかは俺の知るところじゃないけど、もしそうだったとしたら、やっぱり出来るだけ変なやつには引っかかって欲しくないというのがおじさんの願いだ。だって、Qは、さっきも言ったけどこんなにかわいいやつなんだぜ。贔屓目が入ってることは認めるけど。そして今、俺はちょっと本格的にそれを願い始めていた。なぜなら、ミンサーで銃を粉々にされた話も、マグカップを勝手に置いていった話も、さっきからQはいままでで見たこともないような優しい顔で、もともと宝石のように綺麗な緑色の眼をさらにきらきら輝かせて話しているのだ。まるで、いつかのイーサンがジュリアの話をするときみたいな。
「ベンジー」
「なに?」
「……現場に出るのって大変だった?」
そらきた。思いつめちゃって。Qは頬杖をついたまま言った。
「あのな、それ俺の答えがわかって言ってんだろ」
「……ごめん」
俺はちょっとカマをかけてみることにした。
「……自分が現場に出られたらなとか、思ってる? 」
「……なんのために?」
「なんのためって、そりゃ、活躍したいとか、自分のためとか、……誰かのためとかさ」
「だ、誰って」
おっ、明らかな動揺。
「誰って、誰かだよ。誰か。ずっと現場に出てていつも帰ってくるけど、でもなんか心配になっちゃうみたいな、心配するほど弱いやつでもないのに、いや弱いところもあるんだけど、いっそ自分があっちに行ければいいのになって思っちゃうみたいな、実際にやるかどうかは別として…………俺の考えてること合ってるかな? 」
Qは頬杖をついた手で顔を覆ってしまった。耳がピンク色になっている。図星だ。
「ワオ、ほんとにそうなの? ミンサーの人?」
「……」
「イエス、イエスだなそれは、肯定の沈黙だな? わかるぞ、俺結構な年数おまえの友達やってるもん。なに、ほんとにフィールド行こうと思ってるの?」
Qは即座に首を振った。
「ううん、違う。だって」
「だって?」
「僕が、僕まで外に行ったら……」
「うん」
「……待つ人がいなくなっちゃうから」
顔を覆った手の隙間から漏れたか細い声に、俺はいよいよ大して信じてもいない神様に祈り始めた。かみさま、どうか、「ミンサーの人」がめちゃくちゃいい人で、優しくて、Qのことを大切にしてくれる人でありますように。そんでできれば結ばれてくれますように。
「Q。ヘイ、なあ、ちょっとこっち見て、おまえ」
手をべりべりと引き剥がしたら真っ赤な顔が現れた。見かけによらずQは酒に強い方だから、この赤さが酔いじゃないのは明らかだ。
「……なんか」
「うん」
Qは顔を赤くしたまま自分の頰を両手で覆っていた。
「もう、ちょっと、どうしたらいいかわかんなくて。こんなに……こう、はっきり影響されるなんて思ってなくて」
「影響?」
「頭が回らなくなるし、ど、動悸とか……なんか、すごくて、言葉も出てこないし、か、体の調子が悪くなるっていうか、もう、すごくて」
俺は思わず出そうになった笑いを口の中で噛み殺した。体調不良か、そうか、そうだよな、きっと彼には不可解極まりない現象として映っているんだろう。誰か1人の人間の存在、人間という観点で見れば他の誰とも変わらないただの人間なのに、そいつによって、フィジカルに具体的な影響がこんなに出るなんて、びっくりだよな。
「でも、ぶ、無事に帰ってきたら、嬉しいし、こんなの、もう……」
Qは元々なんとなくハの字を描いている眉をさらに角度をつけて、困り果てた顔で俺のことを見て、それはもう小さな声で呟いた。きっと俺も今つられて同じような顔をしているに違いない。いい大人が2人して、なにやってるんだろ。でも俺にとっちゃそんなことはちょっとどうでもよかった。彼はいまものすごい感情と情緒のステップアップの瞬間を迎えているのだ。
かみさまどうか、こいつをしあわせにしてやってください、抱えきれない感情ではちきれそうになっているこの青年を、どうかしあわせにしてください。きっとこの調子じゃ、「ミンサーの人」のためならなんでもやってあげちゃうぞ。俺はイーサンのためにほんとになんでもやったからわかる。いろんなものの隠滅とか、ないものをあることにするとか、そりゃもうなんだって。ひょっとしたら、大っ嫌いな飛行機にだって乗っちゃう日が来るかもな。もしそんなことがあったら、かみさまどうか……俺は今日何回都合よく天に祈ってるんだろ?
ま、構うもんか。かみさまどうか、出来るだけ快適なフライトにしてやってください。