あの夜よ永遠にあの夜よ永遠に
「そっちの服はどうするんだ」
まだ寝巻きのスウェットのままのボンドが言った。僕はトーストを咀嚼しながら彼の目線を辿る。部屋の隅に押しやられたスペンサーハートの箱があった。光沢のある高級そうな箱で、ひと月半ほど前に送られてきたその中にはスーツが一揃い入っている。僕はその箱を眺めたまま無言でトーストを飲み込むとボンドの方に顔を戻した。
「送り返します。今までもそうしてた」
「……今まで?」
「MI6に入庁した時とか、大学の卒業式とかに毎回やるんですよ。僕が着ないのわかって送ってくるんです。儀式みたいなもので」
「誂えたようにぴったりだったのに」
「でしょう。その時々の僕の『型』を取ってるんだと思うんですよね。成長の記録に写真とかビデオを撮る代わりに」
ボンドは顔を険しくしたままゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
マイクロフトが僕に送ってくるスーツのことだ。実家を出る前の最後の機会だと思って、高校の卒業式に着たのが最初で最後だった。前回送られてきたのは確かMI6に入庁した時だったと思うが、その時も丁寧に送り返した。これで最後だろうと思ったのだが、どうやらマイクロフトの認識では兄の友達の結婚式は僕の「晴れ舞台」に勘定されているらしかった。
この2年でちょっと色々なことがあった。ボンドを紹介した途端に次兄がバーツの屋上から飛び降り、死んだと思ったらつい最近戻ってきて、ジョンとの友情ももはやこれまでかと思われた。中身のないシャーロックの墓を建ててから少しの間僕とジョンも疎遠になりーーーというのも僕はシャーロックが生きていることを知っていたものだから、彼に合わせる顔がなかったのだーーー生きていることをジョンに黙っていることが原因で久しぶりに大きめの兄弟喧嘩をしたりした。ジョンが結婚することになり、メアリーを紹介され、あと、僕とボンドは同じフラットに住み始めた。
「僕も髪の毛短くしようかな」
トラウザーズとシャツだけ身につけて洗面所に行くと、すでにタイまで結んだボンドがドライヤーを構えて待っていて笑ってしまった。温風の音がする中で呟いたらボンドの耳に届いたらしく、彼は笑ってドライヤーを止めるとピンク色のワックスの瓶を手に取った。
「どれくらい?」
「あなたくらい」
「僕だって何もしてないわけじゃないぞ」
「そうなの?」
「この瓶がどこから出てきたと思ってるんだ」
ワックスを伸ばした掌で僕の頭をかき混ぜながらボンドが言った。マッサージされているみたいで気持ち良くて、僕は目を閉じて声を出さずに笑った。
「さあ。湧いて出てるかと」
「君は甘やかされて育ったタイプか?」
「上にふたり兄がいるもので」
「ぜひ話を聞いてみたいね」
「僕もです」
ボンドが手を洗う水の音がしたので目を開けた。本当にこの人は器用だ。
***
「ポール・スミス? マイクロフトのスーツは送り返したか?」
「まだだけど。なんで?」
「さあ。今日まで戻ってこなかったら着てるんじゃないかって期待しそうだから」
「まさか」
シャーロックは歩きながら左手に抱えたトップハットをぽんと宙に放ってキャッチした。披露宴の会場の準備が完全に整うまで少しかかるとかで、新郎新婦を含めた参加客は外で談笑していた。僕はメアリーにアイコンタクトで促され、ボンドに「弟の役目を果たしてきます」と言って兄に話しかけに行った。
メアリーほど頭の良い人はなかなかいない。僕の家庭環境からすると冗談に聞こえるかもしれないが、でも本当に、彼女が何者なのか真面目に考えたりましてや本人に探りを入れるのは絶対にやめようと、彼女に会って早々僕は心に決めていた。ともかく、1週間ほど前にメアリーから電話があり、「当日彼のそばにいてあげてね」と言われたのだ。なぜって、介添人がシャーロックになることはみんな知っていたし、大役を任された彼が力みすぎて少々様子がおかしくなっていることもみんな知っていたし、何より、ジョンを除いて、みんなシャーロックのことを心配していたからだ(ナプキンの折り方を聞かれて動画のURLを彼に送ったのは僕だ。流石にこれはまずいと思った)。スピーチの内容を聞いてーーーそれがどんな内容でもーーー褒めてあげるだけでいいからと。つまり次兄のお守りを任されたわけだ。
「あのスパイは恋人にもトムフォードを着せるタイプかと思ってた」
「だから、恋人じゃないって」
「同じベッドで寝てスーツを仕立てて朝食を作ってヘアセットまでやる男が?」
「自分だってジョンと2年も住んでたくせに。恋人……かもしれないけど、まだ知らない。自分たちで決めようとしてるだけ」
シャーロックは一瞬黙ると「センスは悪くないらしい」と言って僕の花柄のタイをつついた。そっとしておいてくれるようだ。
遠目に金色の頭がふたつ見える。どちらも軍に関係していたせいか、あのふたりは存外気が合っている。ジョンの人の良さにずいぶん助けられてはいるだろうけど。あ、ボンドが笑った。ジョンが何かおもしろいことを言ったのかな。隣でシャーロックも僕の視線の先を追っているのがわかった。
ボンドがこういう場にいるところを初めて肉眼で見た。いつもはモニター越しか、もしくはインカム越しに音を聞いているだけだから。いつものグレーのトムフォードに、白いシャツ、少しだけ光沢のあるペールブルーのタイ。彼は淡い色が似合う。
たぶんだけど、隣でシャーロックもジョンを見ながら同じようなことを考えていると思う。
「マイクロフトは来ないんでしょ?」
金髪が日差しに光るのをふたりでなおも見つめながら言った。
「たぶんな」
「来て欲しかった?」
「なんで僕が」
「さあ。変なこと聞いた。スピーチは何を話すの?」
「ありきたりなこと」
「ヤードの応援を全部呼んで作ったスピーチが『ありきたり』?」
「ギャビンが悪い」
「グレッグ。マイクロフトに電話したほうがいいんじゃない」
「僕がか? 絶対に嫌だ」
「僕だって嫌だ」
「クィントン」
「なに」
「ボンドと暮らすのは楽しいか?」
僕はシャーロックを見た。シャーロックの目も日差しできらきら光っているように見えた。
「あいつと『普通に』暮らすのは」
「……楽しいよ。ねえ、シャーロック」
「うん」
「僕たち自分が思ってるより普通の人だと思うよ」
ジョンがこちらを向いて手を振った。ふたりで振り返したら、ボンドがホールの方を指した。準備ができたらしい。
金髪に向かって歩き出しながらシャーロックが言った。「お前に言われても説得力ない」。僕は肩を竦めた。そうだね。でもそう思うんだ。
***
「まさかふたりとも来てくれるとは思わなかった。ありがとうございます」
「運が良かったんだ、特に僕は。Qは昨日まで仕事を調整してた」
ジョン・ワトソンは僕を見上げて、人の良さそうな笑顔で言った。背筋を伸ばして立つ様子が隙のない軍人そのものだ。Qは彼のことを「まあまああなたと同じタイプの人」とボンヤリした言葉で形容していて、写真を見ただけではとてもそうとは思えなかったが、実際に会って2分でその意味がよくわかった。確かに、相違点はあれど彼はまあまあ僕と同じタイプの人間だ。
「起きる時おもしろいでしょう」
突然ワトソンが言った。遠目に見える並んで歩く兄弟を目で合図しながら。
「彼。起きる時ブランケットから頭と足が交互に出て、諦めて起きません?」
「……兄弟揃ってそうなのか?」
「ええ。マイクロフトは知らないけど……シャーロックもカウチで寝てるところを起こすとそうして起きてた」
想像したらおかしくなって小さく笑い声を漏らしたら、ワトソンも笑みを深くした。
「シャーロックが文句を言ってて。あなたと彼が一緒に住んでること。知ってました?」
「本当に? なんて?」
「『スパイとハッカーが揃ってるのになんの事件(ケース)もないなんておかしい』」
今度ははっきり声を上げて笑った。
「僕らは『事件』が仕事だ」
「知ってます。……事件の起こらない日々を送るコツは?」
ワトソンは至極穏やかな顔をしている。
「参考までに聞いておこうと思って」
僕は少し考えて、以前Qが言っていたことを思い出してこう言った。
「……事件なんていつだって起こるものさ」
遠目に見える兄弟は2本の黒っぽい棒のようだった。Qはタイこそ花柄だがジャケットもトラウザーズも濃紺なので、遠くから見ると黒と見分けがつかなくなる。数ヶ月前に一緒に仕立てに行って作ったものだった。
ワトソンは「言えてる」と呟いてしばらく黙り、また突然言った。
「ふたりともこっち見てる」
「ああ。ずいぶん見てる」
「あの子のスーツを選んだのはあなた?」
「いいだろ」
「よく似合ってる」
「シャーロックもいいモーニングを着てるな」
「彼はああいうの着るの上手いんです。着慣れてるから。あなたもそうでしょ?」
「……ああ。タキシードばかり着てるよ」
***
会場に入る列に合流すると、ボンドが横にやってきた。
「弟の役目は果たせたか?」
「ううん、まだもう少し。電話をかけないと」
「そういえば一番上の兄さんは来ないのか?」
「だから電話するんです」
ため息をついたらボンドはおかしそうに笑った。
「なんですか」
「いや。弟をやっている君がおもしろくて」
「上がふたりともあんなのだと大変なんですよ。ジョンとなに話してたんですか?」
「君のスーツのこと」
「僕のスーツ?」
「ああ。褒められてたよ」
ボンドは僕に向かい合うとこちらに手を伸ばして、僕のネクタイを直した。紺地に細かい花柄がプリントされた華やかなネクタイ。お店に行って「好きなタイを選んで」とまず彼に言われて手に取ったものだった。
「ほんと?」
「ほんと。君は? 何を話してたんだ」
「……ボンドと暮らして楽しいかって聞かれました」
「なんて答えた?」
「………楽しいよって」
ボンドは笑みを深くした。
会場に入ってモバイルを取り出したら、ボンドは気を遣ったのか「外そうか?」と言ったが、僕は画面をタップしながら首を振った。
「兄弟の会話だろ」
「別に。ちょっと諭すだけですから。シャーロックの前に……聞きます?」
モバイルを当てた方の耳を彼の方に寄せると、ボンドは苦笑いした。
「やめとくよ」
「おもしろいのに」
コール音が切れてマイクロフトの柔らかい声がした。
『電話してくるなんて珍しいじゃないか。嬉しいね』
「スーツありがとう。着てないけど。明日送り返すから」
少々わざとらしい声で『それは残念』と返ってきた。
「シャーロックから電話きた?」
『いいや。お前からもう電話しておいたとは言ってくれないのかね?』
「いやだね。ジョンの結婚式だよ。来ないならシャーロックから直接文句を聞くべきだ」
『お前はどう思う?』
「……遠慮しないで来れば」
マイクロフトが一瞬黙った。
「なに」
『別に』
「いやな沈黙」
『お前は優しい子だね。私たちの弟だとは思えないほど。シャーロックが誰かが選んだ服を着てパーティでダンスできると思うか? お前のように』
僕は思わず横にいるボンドを見た。シャンパンを片手に窓の外を眺めていた彼は僕の視線に気づくと首を傾げた。
つまりマイクロフトは「普通の人のような人付き合いなんて僕らのような人間にはできない」と言っているのだ。
「シャーロックはダンス上手いよ。知らない? 誰がジョンにダンスを教えたと思ってるの。問題は誰かが選んだ服を着てパーティで踊ることじゃない。それを自分で選択することだ。マイクロフト」
『何だね、弟よ』
穏やかな声だった。僕も優しく言おうと思った。
「あなただって僕の兄だ。僕が電話したってシャーロックに言わないでよ」
『………言わないよ』
電話を切ったら、横でボンドが「僕と君がダンスすると思われてるんだな」と呟いて、僕は吹き出してしまった。
***
今回ばかりはQも終始残念そうな顔をしていた。デザートが終わったところで今朝「鳴りませんように」とふたりで願をかけた業務用の端末が鳴ってしまったのだ。電話を終えて会場に戻ってきたQは小走りで僕のところにやってくると、僕に「本部でセキュリティ侵入。009のターゲットが向かってるそうです」と囁いた。そこそこの大事だ。新郎新婦と次兄に駆け足で挨拶をして、乗ってきたアストンマーチンからラップトップとワルサーを引っ掴み、外に出たらなんとタナーがヘリで迎えに来ていて、僕とQは少々派手な格好のまま本部に飛んで行ったのだった。
Qが部下とシステムを修復し僕と009で実際の侵入者の相手をし、すっかり日も落ちた頃になんとか事態が収束した。せっかく休みを取っていた上司に申し訳ないと思ったのか後始末は部下たちが一任するそうで、平謝りする009をなだめて、車を会場に放って来てしまったので地下鉄に乗って帰った。電車の中で「『事件なんていつだって起こるものだ』とジョンに言ったらこれだ」と呟いたら、隣で私物のモバイルを見ていたQが乾いた笑い声を出した。あちらも一筋縄ではいかなかったらしい。
ようやく家に戻って来て、猫たちの餌と水が減っていることを確認してふたりでソファに倒れ込んだ。朝も早かっただけに特にQは疲れただろう。しばらくそのままぼうっとしていたら、僕の上に重なって肩に顔を預けていたQが「ビール飲みません?」と呟いた。
ビールの瓶を2本持ってリビングに戻るとQがラップトップを開いていたので、「よせよ、せっかく帰って来たのに」と言ったら、彼は僕に手招きして画面を見るよう促した。彼にビールを渡して並んで座ってみれば、画面には昼まで僕らがいた披露宴の会場が映っている。
「『録っとかない手はないよ』って言ってモリーに端末ひとつ渡しておいたんです」
「モリー? 黄色いドレスの?」
「はい。バーツの法医学者。トラブる直前まで録れてるって」
これでマイクロフトに頼みごとしやすくなりました。Qはやや物騒なことを言いながら再生マークをクリックした。
長い長いスピーチを肴にビールを飲んだ。最も僕はスピーチを見るQのリアクションを見ていた。「『シャーロックが電報を読めるかどうか』ってモリーから僕のところにも電話がきた」「珍しく緊張してる」「この事件は手伝ったな」「レストレードさんかわいそう」などなど。普段は口にしないが、次兄に親友ができたことを彼が喜んでいるのは僕も知っていた。
スピーチは途中から雲行きが怪しくなり、見ているうちに会場の中の誰かが殺されるのだということが僕にも分かった。かなりおざなりな「新郎新婦に乾杯」の音頭があったあと、渦中にいる3人が会場を飛び出したところで映像が切れていた。
「うちの兄弟はトラブルばかりだな」
ラップトップを閉じたQが呟いた。僕は今朝ワトソンとした会話を思い出して言った。
「トラブルなしの方がいいと思う?」
Qはこちらを向いて、面白がるように目を細めた。
「あなたがそんなこと言うなんて」
「僕らが一緒に住んでるのに何事もないのが君の兄さんは気に食わないって聞いたから」
「そりゃシャーロックはトラブルと結婚してるもの。本部のセキュリティが破られたぐらいじゃ満足しませんよ。でも僕らはそれが普通でしょ。トラブルありの『普通』」
Qはそう言ってビールを飲み干して、疲れた、と呟いて僕に寄り掛かった。トラブルありの『普通』、と言う言葉がやけにしっくり来て、僕はQの髪を撫でた。帰りに小雨が降っていたせいか少し湿っている。
「ダンスの動画がないのが残念だな」
「ダンス?」
「兄が今日のためにワルツを作曲してて。ジョンとメアリーが踊ったはずなんです。あとパーティでかける曲は僕が選んだのに」
「へえ」
「みんなが知ってて踊れる曲何かないかってメアリーに相談されて」
Qがローテーブルの上に投げ出していたモバイルを取り上げて数回タップすると、軽快なイントロが流れ始めて驚いた僕は彼の方を見た。
「フォーシーズンズ? 君が?」
「いいチョイスでしょ? 僕じゃないんですよ。最近の曲にしても仕方ないと思って009に聞いたんです。そういうの詳しいから」
「……009に」
「あなたこの前までブラジル行ってたじゃないですか。拗ねないで」
思わず眉を潜めたらQはけらけらと笑ってそう言って、「よいしょ」と勢いをつけてソファから立ち上がった。
仕事をしているうちに緩めたらしい花柄のタイは所々金色がプリントされている。立ち上がったQがこちらを向いて、僕に手を差し伸べると金色が照明に反射してきらきらと光った。
僕は笑って言った。
「本当に?」
「僕が酔っ払ってるうちに、早く」
結露したビール瓶を持っていたQの手は濡れていた。
Qが僕の腰に手を回したので、僕は彼の背中に手を回した。酔っ払ったQはニコニコ笑いながら僕のことをグルグル回して、あの綺麗な声で歌詞を口ずさんでみせさえしてくれた。『ああなんて夜だろう、63年の12月のあの夜。特別だったと今も覚えてるあの夜』。Qはアルコールが入るとよく記憶が曖昧になるから、ひょっとしたら明日になったらダンスしたことは忘れているかもしれない。僕は記憶を飛ばしたことはないので、今日のことはいつまでも覚えているだろう。彼の耳元に顔を寄せて「交換したい?」と言ったら、この家には僕ら以外には猫しかいないというのに、その猫たちももう寝ているというのに、Qは内緒話をするように僕にささやき返してくれた。「あとでね」。