【BSR】竜と小虎と竜と小虎と
1
幾重にも頭上を覆う枝枝の間から差し込む僅かな陽光に目元を照らされ、政宗は喉奥で低く唸ると緩慢に持ち上げた掌でそれを遮る。
彼が身を横たえている枝は大木に相応しい太さだが、さすがに寝返りを打てるほどの幅はない。
黙って屋敷を出てきたがそのことに対しての罪悪感はない。誰にも縛られることなく自由奔放。それが政宗の有り様であり、それを咎めることが出来る者などこの地には居るべくもなく。
──否。唯一人居るには居るが、その者も余程のことがない限り主の意志を尊重し、我を通すことは滅多にない。そんな彼に敢えて不満を言うなれば、苦言を呈することは忘れないところであろうか。
未だ睡魔の誘惑を振り切れず、うっすら、と持ち上がった瞼が再び閉ざされようとしたその時、遙か上空から「あーッ!」と逼迫した声が上がったかと思いきや、ガサガサ、バキバキ、とけたたましい音と共に紅い塊が、政宗に向かって一直線に落下してきた。
それを目に留めたのが早いか、腹に凄まじい衝撃を感じたのが早いか、どちらにせよ一瞬のことで身構える余裕もなく、政宗は、がっふぅっ! と悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げる羽目と相成った。
落下してきたソレはバランス感覚に富んでおり、しっかりと両の足裏で無防備な腹に着地したのだから、政宗にとっては不運としか言いようがない。一点集中の攻撃にさすがの政宗も涙目だ。
「なんとッ! このようなところに人がおったとは!? 大変失礼致した。怪我はござらんか?」
「……ッンの前にどきやがれッ!」
大きな目を更に真ん丸に見開いて顔を覗き込んできた子供に、ガーッ! と大人げなく怒鳴ってから、政宗は相手の後ろ襟を、むんず、と掴むと腕を伸ばして足場の外に、ぶらーん、とぶら下げる。
「うおっ!? 離してくだされ!」
もだもだ、と身を捩る子供に一瞥くれるも政宗はそれには応えず、迫ってくる羽音に僅かに目線を上げた。
「あー、居た居た。旦那ぁ~怪我ない~?」
「うむ。大事ないでござる」
「こっちは大アリだがなぁ。おいこら、一体どういうことか説明しやがれ。そもそも猿飛、てめぇがなんでここに居るんだ」
子供をぶら下げているのとは逆の手で、足跡の付いた着物の腹をさする政宗の行動で全てを把握したか、ゆっくり、と降下してきた鴉天狗は顔の前で両の掌を合わせると「やーゴメンゴメン」と軽くはあったが詫びの言葉を口にした。
「うっかり、手ぇ離しちゃってさぁ。まぁ旦那ならこれくらいの高さ、どうってことないとは思ってたけど、まさか下にアンタが居たとはねぇ。ほんとゴメンね」
政宗の手から子供を受け取りつつ困ったように眉尻を下げる鴉天狗に、政宗はなにか言いたげではあるが目だけで続きを促す。
「やだなぁ、そんなコワイ顔しないでよ。喧嘩する気はこれっぽっちもないんだから。今回の用向きは至って平和な社会科見学ってトコかな」
「Why ?」
「この子、真田源次郎幸村っていうんだけど、お館様の元で修行中なのね」
「甲斐の、あの大虎の弟子かよ」
一瞬にして表情が険しくなった政宗に鴉天狗は少々慌てたか、早口に次の言葉を繰り出す。
「だーかーら、喧嘩しに来たわけじゃないっての。さっきも言ったでしょ、社会科見学だって。あちこち見て歩いて経験値上げたいだけなのよ」
「佐助、佐助、この方と知り合いでござったか」
不意に上がった話の腰を折る声に、政宗も佐助も同時に子供へと目を向ける。長話に飽きたわけではないであろうが、幸村は目の前の政宗に興味津々であるらしい。
「そうだよ旦那。今日からしばらくお世話になる竜の旦那……っと、あ、いや土地神様の伊達政宗公だよ」
はいご挨拶してね、と佐助が子供の両脇を支えれば、宙に浮いた状態のまま幸村は、ぺこり、と政宗に向かって頭を下げた。
「然様でござったか。先程は誠に失礼致した。しばらくご厄介になります故、改めてよろしくお頼み申す」
「はいよく出来ました」
「ちょっと待てぇ! そんな話、俺は聞いてねぇぞ!?」
目の前の和やかな空気をぶち壊すのも厭わず、政宗は佐助に掴み掛かろうとするも、おっと、などと軽い声と共に、するり、と難なく避けられてしまい、ぎり、と音がしそうな程に眉間にしわを寄せる。
「おっかしいなぁ、片倉の旦那にはちゃんと話通してあるんだけどなぁ」
その言葉で、ぴたり、と政宗の動きが止まる。
「……小十郎のやろう」
低く漏らし政宗は勢いよく枝から飛び降りると、脇目もふらずに屋敷へと駈け出したのだった。
「Hey ! 小十郎!! 一体どういうこった説明しろ!?」
スパーンッ! と勢いよく襖を左右に滑らせるやそれを閉めることなく、ずかずか、と室内に大股で乗り込んできた政宗を見上げ、小十郎は文机に書物を置くと平素と変わらぬ静かな面持ちで、ゆうるり、と首を傾げる。
「いきなりどうされました、政宗様。いつも申し上げているように、襖の開閉は丁寧になさってください」
「小言は後回しだ! 甲斐から鴉天狗と小虎が来やがったぞ」
「あぁ、もうお着きになられましたか。さすが猿飛、早いな」
「おい、俺はなんも聞かされてねぇんだが、どういうことだ」
心持ち低くなった声音にも動じることなく、小十郎は、はて、と言わんばかりに主の顔を真っ直ぐに見つめた後、あぁ、と軽く手を打った。
「この小十郎としたことが、うっかり、失念しておりました。申し訳ございません、政宗様」
さらり、と淀みなく詫びの言葉まで口にした小十郎に、政宗は僅かに口許を引きつらせる。うっかり、などと言ったが間違いなくわざとであると確信する。この男と顔を突き合わせている年月は伊達ではないのだ。だが、確かに事前に聞かされていれば、政宗はにべもなく断りを入れたであろう。
「ここで甲斐に貸しを作っておくのも、悪くはございませんでしょう」
更に涼しい顔で続ける小十郎に、もういい、と力無く返し、政宗は思い出したように疼き出した腹を無意識のうちに掌で撫でさする。
「どうされました? 腹痛ですか。それでしたら良い煎じ薬が……」
「Ah……そうじゃねぇ」
音もなく立ち上がり薬箱を取りに行こうとした小十郎を、政宗の歯切れの悪い声が引き留める。
「それではお怪我を……?」
反対方向へ向けていた足を政宗へと修正し、小十郎は立ったままである主の前で膝を折ると、僅かに土に汚れた着物に片眉を上げつつ、失礼致します、と断りを入れてから着物の袷を大きく開いた。
引き締まった腹の一部が変色しており小十郎は僅かに眉根を寄せるも、その痕がなにの形をしているのか気づいたか、目に怪訝な色が乗る。
「足跡、でございますか?」
「例の小虎だ。なかなかいい身のこなししてやがったぜ」
嫌味たっぷりに吐き捨てた政宗だがその声音に憎悪や殺意はなく、小十郎は主が攻撃されたわけではないと判断し安堵の息を漏らした。
「湿布を当てておきましょう。まぁ、政宗様なら半日もせぬうちに回復なさるでしょうが」
「それよりも、小十郎がKissしてくれた方が早く治ると思うんだがなぁ」
「戯れ言を聞く耳は生憎と持っておりません」
はいはい、と言わんばかりの口調で返され、政宗は黙ってその場に腰を下ろすと袖から両腕を抜いた。
「客人の世話は小十郎が致しますので、政宗様はいつも通りお過ごしください」
清潔なサラシと薬液を手に戻ってきた小十郎に政宗は曖昧な返事を投げると、見るとはなしに天井の木目を見上げたのだった。
「して、政宗様。お二方は?」
「知るか」
するする、と手際よく巻かれていくサラシに目を落としつつ政宗が投げやりに答えれば、小十郎は一瞬、ぴくり、と手を止めるも「然様でございますか」と何事もなかったように返し、袖を通すよう政宗を促すと無駄のない動きで袷を整え終え、すっ、と立ち上がった。
「畑へ行って参ります」
「おう」
恐らく、客人をもてなすための食材を取りに行くのであろう。小十郎一人で世話をしている決して狭くはない畑には、四季折々の作物が潤沢に実っている。
静かに畳を踏み出て行く小十郎の背を見送り、政宗は文机の書物を手にその場に、ごろり、と横になったのだった。
草鞋を引っかけた小十郎が門の傍で待つこと暫し。てっきり空から来るものとばかり思っていた鴉天狗は予想に反して正面から現れ、彼に気づくと「どうも」と片手を上げつつ笑みを見せた。
「無理言って申し訳ないね。暫く厄介になるよ」
「なに、構わねぇよ」
軽く返してから小十郎は、物珍しげに辺りを見回している小虎に顔を向けた。
「こいつがそうか」
「そ。ほら旦那。こちらが片倉の旦那。強面だけど取って食ったりはしないから」
「てめぇは一言余計なんだよ」
幸村の肩を、ぽん、と促すように叩き、冗談交じりに小十郎を紹介した佐助に対して、間髪入れず小十郎のツッコミが入る。そのやり取りを大きな目で見ていた幸村は真っ直ぐに小十郎を見つめ、やや緊張した面持ちで口を開いた。
「某、真田源次郎幸村と申す。滞在中は片倉殿にいろいろ御指南頂きたく……」
「そんな畏まらなくていいんだぜ?」
膝を折り幸村と目の高さを合わせた小十郎は、ぽん、と小さな頭に掌を乗せ、ゆうるり、と目元を和らげる。途端に柔らかくなった面差しに固くなっていた身体から力が抜けたか、幸村の面にも笑みが浮かぶ。
「よろしくお頼み申す」
ぺこん、と頭を下げた幸村の頭を、くしゃり、と一撫でしてから小十郎は立ち上がると「いつもの部屋に布団も用意してあるから、適当にくつろいでてくれ」と、これまでも何度か屋敷を訪れている佐助に告げ、畑へと向かって行った。
「懐の広そうな御仁でござるな」
「そうね。面倒見はいいよ、あの人。あぁ見えて笛も舞もなかなかの腕前だからね。それに博識だし。いろいろ教わって帰るんだよ、旦那」
「うむ。楽しみでござるなぁ」
瞳を、キラキラ、させ弾んだ声を上げる幸村に佐助は眦を下げるも、なにか思い出したか、あ、と小さく声を上げ表情を引き締める。
「畑荒らしたり好き嫌いしたり瞑想の邪魔したりしたら、容赦なく雷が落ちるからね。それだけは覚えておきな」
重要なことだから、と常にない真剣な面持ちで念を押してくる佐助に気圧されたか、幸村は心持ち強張った顔で何度も頷いたのだった。
2
ぱたぱた、と軽いが、どこか落ち着きのない小走りな足音が近づいてくるな、と温かな褥で、ウトウト、と微睡みつつ頭の片隅で、ぼんやり、と思っていた政宗は、不意に開かれた障子よりも、たしっ、と畳を踏む小さな足に軽く目を見張った。
「政宗殿! 片倉殿が団子を作ってくれたでござる!!」
臆することなく枕元へと歩み寄り、ちょん、と正座をした幸村の膝上には、皿に乗せられたみたらし団子が三串。それを枕に突っ伏した状態で、ちろり、と見やり、政宗は深々と息を吐いた。
「で? なんで俺のところに来る」
彼がここに来てから三日が経っているが、何かと理由を付けてはやってくる幸村が不思議でならないのだ。
「大層美味であったので某、是非に政宗殿と食したいと思い参った次第」
余程うまかったのか目を、キラキラ、させ、ついでに口端にみたらしのタレを付けたまま、大真面目に語りかけてくるその姿が滑稽であり、また心和むものでもあり、政宗は僅かに口角を上げると押し当てていた枕から顔を離す。
途端、小虎は目を見張り、ひゅっ、と喉を鳴らした。
僅かに強張ったその表情から政宗は醜い傷痕の残る己の右目が原因かと察し、自嘲気味な笑みを漏らす。
「Sorry 驚かせたな。子供には刺激が強すぎたか」
枕元に投げてあった眼帯に手を伸ばした政宗を制するかのように、幸村は勢い込んで口を開いた。
「そっ、そんなことはござらん! それよりも某の方が非礼を詫びねばなりませぬ!!」
申し訳ござらん! と膝上の皿を脇に寄せ、深々と頭を垂れる幸村に政宗は面倒臭そうに目を細めると、ガシガシ、と後ろ頭を掻いた。
「Ah……それじゃ、あいこってことで手打ちだ。顔上げな」
布団の上に胡座をかき、小さな頭が元の位置に戻るのを待つ。恐る恐るといった体で顔を上げた幸村は、どこか痛々しい眼差しで政宗の右目を真っ直ぐに見据える。
「ひとつお聞きしてもよろしいでござるか? 政宗殿は土地神様であらせられるというに、何故その目は盲いたままであるのか、某、不思議でたまりませぬ」
純粋に問いを投げてくる幸村の視線のあまりの強さに、政宗は不覚にも一瞬、言葉を失った。小童同然の相手の気に一瞬とはいえ、呑まれたのだ。
こいつは化けるかもしれねぇ、と政宗は胸中で歪んだ笑みを漏らすも、面には一切出さない。
「真田幸村、てめぇはこの世でなにが一番恐ろしいと思う?」
「はて、突然そのようなことを聞かれましても、とんと見当が付きませぬ」
先の質問の答えになっていないにも関わらず、やはり大真面目に返してくる幸村に口端を吊り上げ、政宗は今度は隠すことなく歪んだ笑みを唇に貼り付ける。
「念だよ。人の念だ。それも悪意に類する物は呪いとなんら変わらねぇ。全てを蝕む消えることのない毒だ」
とんっ、と右手人差し指で己の右瞼を軽く叩き、政宗は静かに言葉を吐いた。その動作ひとつで彼の言わんとすることが伝わったか、幸村の顔が僅かに強張る。
「それは……かように強い念でござったのか」
ごくり、と幸村の喉が上下するのを感情の乗らぬ隻眼が追い、それに気づいているにも関わらず小虎は逃げることなく竜と対峙し続ける。
「……まぁ、正確には俺に向けられたモンじゃなかったんだけどな」
ゆるり、と息を吐き張り詰めていた空気を霧散させると、政宗は傍らに置かれた皿から団子を一串取り上げた。
「そん時は俺もまだまだひ弱なガキでよ、親父……あぁ、先代の土地神な。ソイツに向けられたモンだったんだがあっちにゃ届かず、全部こっちにきちまったってワケだ」
「なんと……」
囓り取った団子を、もぐもぐ、と咀嚼する政宗の声音は軽いが、幸村は更に眉根を寄せると小さな拳を膝上で、きゅっ、と握り締めた。
「それでも小十郎のおかげで右目だけで済んだ。こればっかりは感謝してもし足りねぇな」
本人には言わないけどな、と悪戯っぽく笑う政宗につられたか、幸村の顔も僅かに綻ぶ。どこまでも純粋な幸村に政宗は微かな苛立ちと羨望を覚え、だが即座に、はっ、と鼻で笑いその感情を掻き消してしまった。
「そういえば片倉殿は不思議な匂いがする方でござる。人のようで人でなく、妖のようで妖でない。その正体、某には皆目見当が付かないでござる」
むむ、と難しい顔で首を傾げる幸村を眺めつつ、政宗は串に刺さった最後の団子を殊更ゆっくりと噛み締め、飲み下す。
「イイ鼻持ってるじゃねぇか。あれは元は人だからな。それに今も半分は人のままだ。惑わされてもしようがないってことだ」
ぽい、と串を皿へと放り、こともなげに言い放った政宗を、幸村は、ぽかん、と見上げる。
「人、でござるか? では何故、我らの側へ?」
疑問は全て解決しないと気が済まない質なのだろう。齢を重ねた者達が口にしにくいこともこの小虎は臆することなく問いに変え、それにより得た全てを素直に吸収し血肉へと変えていくのだ。
「おっと、これ以上は子供にゃ聞かせられないTop secretだ」
諦めな、と人の悪い笑みを浮かべた政宗に幸村は何事か反論しようと口を開くも、それを見越していた政宗に、がぽん、と団子を突っ込まれてしまい、目を白黒させるしかなかった。
その様に政宗は、くつくつ、と喉を鳴らし、はっ、と我に返った幸村が口から団子を抜き去り、顔を赤くして抗議の声を上げれば、ふにゅり、と頬をつつかれる。
「これくらいで怒るなよ」
余裕綽々に口角を吊り上げる竜に、つい、ぷぅっ、と頬を膨らませれば、それすらも愉快であると更に頬をつつかれた。
「アンタが団子みたいだぜ?」
からかいの言葉と共に幸村の口端についたままのみたらしのタレを、べろり、と舐め取れば、びしり、と音が聞こえたかと錯覚させるほどに幸村はあからさまに固まったかと思えば、瞬時に、ぼしゅっ、と音がしそうな勢いで茹で蛸のように更に真っ赤になり、
「はっ破廉恥でござるぅぅぅぅぅーッ!」
と絶叫を上げつつ、脱兎の如く逃げ出したのだった。
団子を握り締め半泣きで戻ってきた幸村に、ぎょっ、となった佐助であったが、顔を真っ赤にして、あうあう、と狼狽えている主の様子から、いじめられたのではなくからかわれたのだな、と深々と息を吐き、「まぁ、お茶でも飲みなよ」と軽く手招いた。
ここで理由を問えば、思い出して更に挙動不審になるのは目に見えている為、両手で湯呑みを包み、ふーふー、と息を吹きかけている幸村を黙って見やる。
『ほんと旦那はコワイモノ知らずだよねぇ』
一体なにが幸村の琴線に触れたのか、政宗殿政宗殿、と何かにつけて彼の所へ行きたがる主に、佐助は軽く額を押さえる。悪気も下心もないだけに、政宗も扱いに困っているだろうと容易に想像がついた。
ややあって落ち着いた幸村は文机に向かい、日課となっている書き取りを始めた。暫くは黙々とミミズののたくったような字を連ねていたが、なにか思い出したか顔を上げる。
「佐助、政宗殿は時々よくわからない言葉を口にされるのだが、とっぷしーくれっととやらは破廉恥なことでござるか?」
小十郎に書いて貰った文字をお手本に筆を動かしていた幸村が不意に発した問いに、隣で同様に文机に向かっていた佐助は擦っていた墨を、びしゃり、と豪快に跳ねさせてしまった。
「ちょっ、旦那!? いきなりナニ!?」
慌てて文机の上を拭きながら逆に聞き返してくる佐助に、なにかおかしな事を言っただろうか、と幸村は、こてん、と首を傾げた。
「とっぷしーくれっととは子供に聞かせられないことだと、政宗殿が言っておられたのだ。だからてっきり……」
「一体なんの話をしてたのかは知らないけど、全然違うからね」
頬を赤らめ恥ずかしそうに俯いてしまった幸村の頭を、ぽんぽん、と軽く叩き、佐助は「カンベンしてよ、竜の旦那~」と胸中で泣き言を漏らしたのだった。
3
くぁ、と欠伸と共に滲み出た眦の涙を指で拭いつつ、ぺたぺた、と縁側を進む政宗の耳に「真田源次郎幸村、いざ参るッ!」と、一言で言うなれば暑苦しい雄叫びが届いた。
「Ah~? 朝っぱらからやかましいこって」
小指で、カリカリ、と耳の穴を掻き、懐手で、ぼりぼり、と腹を掻く。陽の高さからして朝と言うには少々遅い時間ではあるが、昼前には変わり無く。
腹が減ったからと台所に向かっていた足を外へと向け、裸足のまま、ぺたり、と踏み石に降り立つ。小十郎は畑だな、と彼の日課と現在時刻とを照らし合わせた結果だ。
屋敷からも見える畑に目をこらせば、見慣れた小十郎の背中とその隣で共に鍬を振るう小虎が見え、先程の雄叫びはアレか、と小さな体に不釣り合いな鍬を力強く振り上げる幸村の姿に、政宗の口から知らず笑みが零れる。
手伝う気はさらさらないがとにかく腹を満たしたいと、政宗は声を掛けようとするもふと違和感を覚えその口を噤んだ。
小十郎と小虎の背丈の比率が記憶と違っているような気がして、むむ、と二人の背中を凝視する。しかし、幸村が来てから二週間と経っていない。いくら子供は成長が早いとはいえまさかそんなわきゃねぇか、と政宗は疑念を、はっ、と鼻で笑い飛ばすと、大股に畑へと踏み込んだ。
「Hey 小十郎。腹が減った」
「おはようございます政宗様」
首に掛けた手ぬぐいで、ぐい、と顔を一拭いしてから振り返った小十郎は、政宗の姿を目に留めた途端、眉間に、きゅっ、としわを寄せた。
「政宗殿、だらしのうござる」
小十郎が表情にしか出さなかったことを隣の幸村は、あっさり、と口にし、ちょい、と己の髪に触れてみせる。
「御髪が豪快に踊っておられるぞ」
「わぁってるって。あとで直す」
歯に衣を着せぬ分、小十郎よりも質が悪い、などと口にすることはさすがに堪えたが、政宗はまだなにか言いたげな幸村の正面に立つと、うん? と首を傾げた。
「やっぱデカくなってねぇか……?」
ここに着いた当初は政宗の腹辺りで、ひょこひょこ、揺れていた茶色の髪が、今は胸の辺りにある。どういうこった、と更に首を傾げる政宗の頭上から「そんな不思議がることじゃないでしょ」と緩い声が降ってきた。
見上げれば張り出した枝に俯せになり下を覗き込んでいる佐助の姿がそこにはあり、政宗は投げられた言葉よりも彼の気配を察せられなかったことに、ちっ、と舌打ちを漏らす。
ひらり、と音もなく降り立った佐助は、ぽん、と政宗の肩を軽く叩くと、屋敷へ戻るよう促しつつ、幸村と肩を並べたままである小十郎に向かって、ぱちん、とウィンクを一つ飛ばして見せた。
「竜の旦那の朝餉は俺様が用意するから、真田の旦那のことよろしくね」
「いや、しかし客人にそのような……」
「いいって、いいって。遠慮しないの。あ、もしかして竜の旦那はよそ者が作ったご飯は食べない主義とか?」
戯けてはいるがかなりきわどい問いに小十郎は息を飲み、政宗はしばし無言で佐助の顔を見据えていたが「不味かったらGo to hellだ。覚悟しとけ」と言い捨て、さっさと歩き出す。その背を見送る小十郎は知らず詰めていた息を静かに吐き、ゆるり、と肩から力を抜いた。
「安心召されよ片倉殿! 佐助の作る飯は絶品でござる!!」
小十郎の危惧を取り違えた言葉ではあったが、幸村の揺るぎない力強い声音と眼差しに、竜の右目は微笑を浮かべて小虎の癖っ毛に指を埋めるように、くしゃくしゃ、と撫で回す。
「そうか。政宗様も喜んでくれるといいな」
さ、続きだ、と小十郎が促せば幸村は素直に鍬を振り上げた。
平素より早足で屋敷へと向かう政宗に難なく歩調を合わせ、佐助は竜の横顔に、ちら、と目をやってから「言ったでしょ、経験値上げに来たって」と口火を切った。
「旦那はね、見目はアレで言動もナニだけど、この世に現出してからそれなりの年月経てんのよ。お館様のところでの修行はまぁ有意義だけど、変化のない日常ってのはダメだね。中身がてんで成長しない」
再度、ちら、と政宗の横顔を窺えば相手も目だけで佐助を窺っており、その目に促されて佐助は言葉を続ける。
「肉体が精神に引っ張られて均衡が崩れてるんだよ、旦那は。純粋で、真っ直ぐすぎて、いつまでも子供のままだ。あぁ、この状態、竜の旦那も覚えがあるんじゃない?」
ゆるり、と付け足された内容に政宗は、ちっ、とひとつ舌を打ち、「だったらどうした」と吐き捨てた。
「無力な自分に歯噛みした経験があるからこそ、ウチの旦那を任せてもいいかなって。人生の先輩として期待してるよ、竜の旦那」
一瞬にして脳裏を過ぎった苦い過去に政宗は、ギリッ、と奥歯を噛み締める。薄暗い部屋の隅で膝を抱え、泣くことしか知らなかった弱い自分の姿に、堅く握った拳が小刻みに震える。
ケタケタ、と笑い出しかねない佐助を、ギッ、と隻眼で睨め付け、政宗は「黙れやこのクソ鴉が」と言うが早いか、鋭い蹴りを佐助の尻に叩き込む。これにはさすがの佐助も本気で回避行動に移るしかなく、黒い羽根を撒き散らしながら上空へと逃れた。
「うっわ、やめてよねぇ旦那。そんな蹴り喰らったら俺様の愛らしい尻が割れちゃうじゃない」
「むしろ粉々に爆砕してやるつもりだったって言ったらどうするよ」
「いやほんとやめて。正面からまともにやり合って、俺様がアンタに勝てるわけないんだからさ」
そこに含まれた別の意味に気づかないふりをして、政宗はお調子者を演じる鴉天狗に軽く肩を竦めて見せる。
「OK、飯が不味くなるような話はここまでだ」
一方的な宣言であったが、それに佐助が乗らない理由はない。
「それじゃ俺様、一足先に戻るから」
翼を出したついでにそのまま飛んで行こうというのだろう。それを止める理由のない政宗は軽く頷いて見せ、軽やかに飛び去る佐助の姿を隻眼で追うも途中で興味が失せたか、ふと肩越しに背後を見やった。
「小十郎……」
──政宗様にはこの小十郎がついております。
己の膝を引き寄せ頑なに顔を上げようとしない小竜に愛想を尽かすことなく、彼は常に傍にいた。政宗の閉ざされた世界を開いたのは、確かに小十郎であった。
「外の世界は素晴らしいものですよ、政宗様」
己の身を蝕み続ける嘆きや怨嗟の声を打ち払い消し去ったのは、それ以上の強い思いで政宗の名を呼び続けた小十郎であった。
「おまえは捨てられたくせに、あっちでいらないからと父上の供物にされたのに、どうして平気な顔で居られるんだ」
幼さ故の残酷な問いにも、小十郎は真剣に誤魔化しのない返答を寄越す。
「あちらでは確かに小十郎は必要とされておりませなんだが、こちらではそうではありませんでしょう? 一度は捨てた命を繋いでくださった恩に報いるため、小十郎はこの身に変えましても輝宗様と政宗様をお守り致します」
その為に彼は人であることをやめたのだ。
姿形は人と寸分違わぬが、その身の裡には激しくも静かな蒼白い雷が秘められている。
天を割り地を裂こうかと言うほどに彼の稲妻が荒れ狂ったのを目にしたのは、後にも先にも一度きりだ。
彼の命を繋ぎ居場所を与えた政宗の父、輝宗の星が落ちたその時、一度きりだ。
ゆるり、と回想を打ち払うように政宗は頭を振る。
「らしくねぇや」
はっ、と短く笑い、政宗は屋敷へと顔を戻すと、一度も振り返ることなく歩みを進めた。
それ故、彼は知らない。
主の背を、その姿が屋敷の中に消えるまで、右目が見守っていたことを。
「片倉殿?」
不意に名を呼ばれ小十郎は、はっ、と弾かれたように己の名を呼んだ者を振り返る。その勢いに驚いたか、小虎は目を真ん丸に見開いて動きを止めてしまった。
「あ、あぁ、悪いな。ちょっとぼんやりしてた」
「お加減がよろしくないのであればあとは某がやります故、休んでいてくだされ」
ぽん、と傍らの小さな頭に掌を乗せ、ばつの悪い顔で詫びる小十郎に気遣いの言葉を寄越す幸村の目はどこまでも真っ直ぐで、それを向けられた本人はますます申し訳ない気持ちになる。
大きな声では言えないが小十郎は正直、己の主と鴉天狗を二人きりにすることが気が気でないのだ。特にこれといった確執があるわけではないが、政宗が佐助を快く思っていないことをなんとなくではあるが感じているが故だ。
かくいう小十郎も佐助の奥底に潜む冷酷さを警戒しており、実力面を鑑みても敵には回したくないと思っているのが本音だ。
常にない弱り切った様子の小十郎が心配であるのか、幸村は更に真摯な眼差しで見上げてくる。さすがにそのままそっくり告げるわけにもいかず、さてどうしたものか、と小十郎が頭を悩ませているところに、天の助けか畑の向こうから「片倉様」と声を掛けられた。
見れば近くに住む若い衆の一人で、なにかあったのかと小十郎の纏う空気が一瞬にして鋭くなった。
「すまねぇな」
短くそう口にして小十郎は幸村を残し足早に畑を抜け、自分を呼んだ者と言葉を交わす。二人して背を向けてしまった為その表情を窺い知ることは出来ないが、幸村は先の小十郎の切り替えの早さに背筋が粟立った。
この者は本当に強いのだと、理屈ではなく本能がそう告げるのだ。それは己の従者とは別種の強さであり、それを熟知しているからこそ佐助はここへ来ることを強く進言したのだろう。
知らず鍬を握る手に、ぎゅっ、と力が籠もる。そんな幸村を知ってか知らずか、小十郎は大股に畑に戻ると無造作に大根を一本引き抜き、それを相手に持たせると話は済んだのかそのまま別れたのだった。
こちらへと戻ってくる小十郎には、先の研ぎ澄まされた刃のような鋭さは微塵もなく、平素と変わらぬ落ち着いた様子だ。その手にはなにやら包みがあり、幸村の興味は自然とそちらへと移る。
「お話はもうよいのでござるか?」
「あぁ、なに。大した話じゃねぇよ」
近隣の者の話は、他愛のないことからなにから全て小十郎が聞いている。耳に入る話は当然、良いことばかりではなく真偽の見極めも難しいが、不穏な空気を察すれば政宗の手を煩わせることなく、小十郎が率先して手を打つ。
だが、それを幸村に説明する必要はないのだ。
大きな目がなにを見ているのか気づいたか、小十郎は手中の包みを軽く振って見せ、ゆうるり、と眦を下げた。
「おはぎのお裾分けだそうだ。戻って茶にするか」
それを聞いた途端、幸村は一も二もなく顔を、ぱぁっ、と輝かせ、小十郎もつられたように柔らかく笑む。
「あぁ、だがその前に風呂だな」
土に汚れた幸村の顔を軽く拭ってから小十郎がそう言えば、幸村はますます顔を輝かせ「お背中お流しいたす!」と弾んだ声を上げた。
源泉から湯を引いている為、わざわざ風呂炊きをしなくて良い上、室内風呂とは別に小さいながらも庭に設えられた露天風呂が幸村は大層お気に召したらしい。ちなみに初日に大はしゃぎをして佐助に叱られたのは、ここだけの話である。
一緒に入ると信じて疑っていない幸村に軽く笑い返し、小十郎は、まぁいいか、と小虎の背をひとつ促すように叩いた。
「政宗殿ともできればご一緒したいでござる」
まるでご飯のおかわりを所望するかのような気負いのない口調に、一瞬、目を丸くした小十郎であったが裏表のないそれが気に入ったか、はは、と小さく笑い声を漏らし、わしゃわしゃ、と幸村の頭を撫で回した。
「真田は政宗様が恐ろしくはねぇのか?」
奥州の独眼竜と言えば、一睨みされようものなら寿命が百年は縮むとまことしやかに囁かれ、近隣のみならず遙か西の海を越えた地までその名は知れ渡っている程だ。
だが、幸村はその問いかけに不思議そうな顔で首を傾げると、その表情に見合った声を発した。
「政宗殿はいい匂いがするでござる」
「あ?」
問いの答えになっていないと小十郎が怪訝な声を上げれば、幸村は大真面目に同じ言葉を口にした。
「政宗殿はいい匂いがするから大丈夫でござる。佐助も、片倉殿も少し不思議な匂いが混じっておられるがいい匂いでござる」
先よりも力を込め、これ以上の説明はないと胸を張る幸村を、ぽかん、と見下ろしていた小十郎だが、小虎がふざけているわけでも冗談を言っているわけでもないと、向けられる真剣な眼差しで理解した。その感覚頼りにはある意味、頭が下がる。
「まったく。てめぇにゃ恐れ入る」
「なっなにがでござるか?」
頭を撫で回す小十郎の手に勢いがつきすぎ、ぐらんぐらん、と揺れる視界に目を回しつつ幸村が問いの言葉を発するも、小十郎は喉奥で、くつくつ、と笑うだけで答える気はないようだ。
「某はもっと政宗殿とお話がしとうござる。あ、いや、決して片倉殿との語らいが不満というわけでは……ッ」
特になにを言われたわけでもないというのに、ひとりで勝手に焦っている幸村の頭を小十郎は更に撫で回し、わかったわかった、と宥めるような声を出す。
「風呂は駄目だろうが、食後の茶くらいはご一緒してくださるだろうよ」
それで我慢しな、と主の気性を心得ている従者の言葉に、幸村は素直に頷いたのだった。
4
ドタドタ、と廊下を往復する主の邪魔にならぬよう、佐助は欄干に足裏を乗せ膝を折った恰好で雑巾掛けに勤しむ幸村と言葉を交わす。
「今日はなにを教えていただけるのか、楽しみだなぁ、佐助」
「あー、昨日は太鼓習ったんだっけ?」
テンツクテンツク、とたまに調子の外れた音が響いていたな、と思い返している佐助の前を横切る幸村はよほど楽しかったのかその面からは笑みが絶えない。
「佐助の言う通り片倉殿の笛は見事であった」
「でしょ。先代様はそれ目当てに片倉の旦那を召し抱えたって聞くし」
ま、あくまでも噂だけどね、と言い置いて佐助は軽やかに廊下に降り立つと、ピッ、と人差し指を立てて見せた。
「俺様が見てないからって手ぇ抜いちゃ駄目だからね」
「なっ、そのようなことは断じてせぬ!」
用があるから昼過ぎまで戻れない、と朝餉の席で告げてきた小十郎に、幸村自ら、ならば屋敷の掃除をしている、と声高に宣言したのだ。責任感が強く真面目な幸村のことを重々理解している佐助の先の言葉は、当然の事ながら軽い冗談である。
「片倉の旦那、帰ってるみたいだから、ちょっと見てくるよ」
うー、と未だに唸っている幸村に、ひらり、と手を振って、佐助は音も立てずに小十郎の私室目指して廊下を進んでいく。
小十郎の性格からして、戻ってきたのであれば仕事を押しつけたままというのは、まず考えられない。なにかあったか、と渋い顔で歩みを進めていた佐助はなにかに気づいたか、今し方通り過ぎた部屋へと後ろ向きのまま戻ると息を詰め、すっ、と障子を僅かに滑らせた。
垣間見えたのは、ひょこん、と跳ねた襟足で。
ここに居たのかと声を掛けようとするも、この部屋がなんであるか思い出したか寸での所で口を閉ざした。彼が座しているのはなにも書かれていない掛け軸の掛かった床の間の前で、それは即ち瞑想中であることを示している。
「お邪魔しました~」と胸中で囁くに留め、障子を元の通り閉ざそうとした佐助であったが、中から上がった誰何の声によってそれは叶わなかった。
「あー、ごめんね旦那。邪魔しちゃった?」
「いや、大丈夫だ」
なにか用か? と穏やかな口調で問うてくる小十郎に、佐助は、思い過ごしだったかな? と内心で首を傾げる。
「うん、ウチの旦那が今日はなにを教えて貰えるのかソワソワしてるから、俺様が先に聞いておこうと思ってさ」
思い過ごしならそれでいいか、と思考を切り替えた佐助がそう口にすれば、小十郎は思案するかのように顎に手をやった。
「そうだな、喧嘩の仕方でも教えてやるか?」
「いやいや、それ系はウチの大将だけで事足りてるから」
今更なにをと言いたげな佐助に、小十郎は僅かに目を伏せ「そういやそうだな」と喉奥で低く笑う。その様子に常とは異なった物を感じ、佐助は訝るように目を細めた。
「気乗りしないなら無理しなくていいよ? 旦那には俺様から言っておくから」
軽い調子ではあるが僅かに抉り込むような響きに小十郎は片眉を上げると、直ぐさま眉間に深いしわを寄せ、すまねぇ、と小さく詫びる。だが、理由を言う気はないのか唇は、ぴたり、と閉ざされたままだ。
前々から今日は里で市が立つのだとは聞いていたが、そこでなにかあったのだろうと見当をつけ、佐助は軽く肩を竦めてみせる。
「ま、片倉の旦那も虫の居所が悪い日もあるよね」
自ら説明する気のない相手に探りを入れたところで、得られる物はない。不義理をしない男が頑なにその口を開かぬと言うことは、よそ者に聞かせてもどうにもならぬ話か、或いは、よそ者には聞かせたくない話かのどちらかだ。
無理に聞き出して不興を買うこともあるまいと、佐助は深入りせず流すことに決めたのだ。その気になれば調べることなど容易いとの思いもあるのだが。
あっさりと身を引いた佐助に再度、すまねぇ、と返し、小十郎は掌で首の後ろを撫でさすりながら、少々首を傾けた。
「先の話だが、次の市に連れて行くから今日の所は勘弁してくれ、と真田に伝えてくれ」
「了解。旦那も喜ぶと思うよ。あぁ、そうだ。余計なお世話かも知れないけど、その顔、竜の旦那には見せない方がいいんじゃないかな」
ものすごくおっかない顔してるよ、と薄笑いを浮かべた佐助の指摘に、小十郎は、はっ、と目を見張り、決まり悪そうに口許を掌で覆った。だが、実際には佐助が言うほど表情には平素との差違はさほど無く、小十郎はカマ掛けに見事引っ掛かった形になる。
その指摘で意識的に感情の波を即座に抑え込んだ小十郎に、佐助は内心で胸を撫で下ろす。従者の不安定な感情を拾い上げた主がこれ以上、不機嫌になってはたまったものではないからだ。最近、全く顔を合わせていない竜の心境を思いつつ、佐助は「夕飯までには機嫌直してよね~」との軽口を残し退室したのだった。
ヒタヒタ、と廊下を進んでいた政宗の足が、ぴたり、と止まる。珍しく気を乱している小十郎が気になり彼の元へと足を運んでいたのだが、廊下のど真ん中に思わぬ障害物があったのだ。
つい、と視線を横へ向ければ水の入った桶と雑巾があり、この小虎がなにをしていたのかは理解できた。
見上げれば太陽は輝き、温かな日差しが惜しみなくさんさんと降り注いでいる。
大の字で穏やかな寝息を立てている小虎は、一仕事終えた充実感からか弛んだ寝顔を晒している。その傍らに屈み込み政宗は、すん、と鼻を鳴らした。
この屋敷で自分と小十郎以外の匂いがするなど、一体いつ以来であるかと遠い記憶を手繰り寄せるも、詮無いことであると、ゆるり、と頭を振る。
小十郎は土の匂いがする。
この小虎は陽の匂いがする。
どちらも柔らかく優しい匂いだ。
すっ、と伸ばされた手が幸村の頬に触れるかと思われた刹那、政宗は剣呑な目付きで、ゆうるり、と顔を上げた。だが、視線の先にいた男は政宗以上に剣呑な眼差しをしており、互いに無言のまま暫し睨み合う。
「旦那になにかしようってんなら、いくらアンタでも容赦しないよ」
「Ha! そりゃこっちの台詞だ。てめぇこそ小十郎になにしやがった」
瞳の奥に、ギラリ、と凶暴な光を宿す政宗に怯んだ様子もなく、佐助は唇をへの字に曲げると、心外だ、と言わんばかりに片眉を跳ね上げた。
「それは俺様のせいじゃないっての。むしろ礼を言って欲しいくらいなんだけど?」
今は落ち着いてるでしょ、と呆れたように口にする鴉天狗を睨め付けたまま、政宗は小十郎の様子を探る。
「……嘘じゃねぇみてぇだな」
すぅ、と僅かに目を細めた政宗の微細な変化を見落とさず、佐助は軽く肩を竦めた。
いつまでも見下ろされているのは癪に障るのか、政宗は静かに立ち上がるや、くるり、と踵を返した。それを引き留めることはせず、佐助は竜の背が遠離っていくのを黙って見据える。
「一言くらい、詫びてってほしいモンだねぇ」
そう漏らすも即座に、お互い様か、と自嘲気味な笑みと共に呟いた。
極間近で不穏な空気が流れたというのに、呑気にも未だ夢の世界から戻って来ない主を見下ろし、佐助は唇を引き結ぶ。
政宗が幸村に危害を加える気がないことなど、百も承知だ。
だが、先の言葉に嘘偽りはない。
相手が誰であろうと主に仇なす者は排除するのみだ。
ただし、佐助は取り立てて忠義に厚いわけではない。どちらかと言えば常に第三者として状況を見ている節がある為、幸村に対して必要以上に世話を焼いてしまうのは、これが情からくるものであるのか、矜持からくるものであるのか、佐助本人も掴みかねているのだった。