【刀剣】二度目の片思い【典鬼】 今日も暑くなりそうだ……、と抜けるような青空を見上げ、大典太は手中の桶に張られた水を揺らさぬよう慎重に廊下を行く。
目的の部屋は空き室が多く、他者の気配が薄い一角にある。
本丸を構える際、仲間が増える事を見越していくつかの棟に分けて設計したという。
審神者曰く「秘境の温泉宿っぽい趣のある一角にした」との事だが、なんて事はない。
ただ単に審神者自身が現実逃避をし、引きこもる場所が欲しかっただけの話だ。
季節毎に遷ろう景観を眺め、三条派や鶯丸が茶を嗜む姿を何度か目にした事があるが、生憎と大典太には無縁の場所であった。
「鬼丸、入るぞ」
襖の前で一声掛けてから、大典太は引き手に指をかけた。まだ眠っているかと思えば寝間着のままとはいえ既に起きており、壁に凭れて窓の外を眺めている。
「調子はどうだ」
「そこそこ、だな……」
ちら、と目だけを向け、どこかぼんやりとした口調で応じる鬼丸の頭部と顔の左半分は包帯で覆われており、未だ見慣れぬそれに大典太の眉根が僅かに寄った。
──三日前の出陣で鬼丸が重傷を負った。
根元付近から折れた角からの夥しい出血で顔面を赤く染めたまま、白刃を閃かせ敵を薙ぎ払い戦場を駆ける姿は、気迫と相まって正に鬼神であった。
帰城後、手入れに当たった審神者に呼び出され、大典太はひとり執務室へと赴いた。部隊長が鬼丸であったため代わりに副隊長の自分に状況報告を求めているのだと思い、それなりに話す内容を脳内で整理してから審神者と向き合ったのだが、本題は別だと重苦しい声音で告げられたのだ。
「鬼丸なんだが……角からの出血は止まったが、修復は出来なかった」と今にも頭を抱えそうな審神者を前に、どういう事だ? と疑問符ばかりが、ぐるぐる、と脳内を駆け回り、大典太は咄嗟に言葉が出ない。
「そ、れは……ずっとそのままと、いうことなのか?」
ようよう押し出した声は掠れと震えで聞き苦しいものであったが、審神者にはきちんと届いており、いいや、と緩く首が横に振られた。
「時間は掛かるが、鬼丸自身の霊力で治していくしかないらしい」
その言葉に安堵の息をついた大典太だが、治る見込みがあるのならば審神者が何故ここまで沈鬱な表情をしているのかがわからない。
「角が折れた際の衝撃が強かったのか、霊力をほぼ修復に充てているからなのか、どうも記憶に混濁や欠落があるようでね……見当違いな事や辻褄が合わない事を言うかもしれないが、大目に見てやってほしい」
「どうしてそれを俺に……?」
血まみれで本丸に戻ってきた鬼丸の事は、既に皆が知っている。彼の状態を説明するだけならば、全員を集めて話せば一度で済む事だ。それにも関わらず、審神者はわざわざ大典太だけを呼び出したのだ。
疑問をそのまま口にすれば、審神者は逆に問うように首を傾げた。
「ふたりはそういう関係なんだろう? だから鬼丸の世話を任せようかと思って」
狭い本丸内、知られていないとは思っていなかったが、こうも正面から直球で言われてしまってはどういう顔をした物かと、大典太は居心地の悪さから唇を引き結ぶ。
「誰と誰がそういう関係になろうとも、やる事さえやってくれれば咎めはしないよ」
出陣や内番、遠征等、任務に支障がなければあとは自由にやってくれていいと、あくまで協力して貰ってる側だからねこちらは、と審神者は常々言っていたのだ。
「私室じゃ落ち着かないだろうから、別棟で療養させようと思ってる。悪いけど大典太もそっちに移動してくれ」
部屋の用意と風呂掃除は、現在進行形で粟田口の短刀たちが率先してやってくれていると聞き、彼らの勤勉さに大典太は頭が下がる思いだ。
「手入れ部屋からの移動は槍連中に頼んだから、巧いこと運んでくれるだろ」
頼まれたのが御手杵だけならば悪気なく俵のように肩に担いで運びそうだが、蜻蛉切と日本号が一緒なら大丈夫だろうと大典太はひとまず安心する。
「四六時中一緒にいる必要はないと思うけど、その辺りの塩梅は大典太に任せるし、三日月や一期一振にも協力するよう言ってあるから、なにかあったら声を掛けるといい」
おそらく大包平もなんだかんだで協力してくれるだろう、と付け加えた審神者に大典太は、裏表のない熱く真っ直ぐな太刀の姿を思い返し、そうだな、と小さく頷いたのだった。
「――大典太?」
名を呼ばれ、はっ、と意識を目の前の男に戻せば、視界に飛び込んできたのは鬼丸の白い背であった。寝ている間に汗を掻いた身体を拭っていたのだが、回想に耽りながらも動かしていた手がとうとう止まり、怪訝に思った鬼丸が声を掛けてきたのだろう。
なんでもない、と大典太が口にするよりも早く、鬼丸の頭が僅かに下がった。身体を起こしているのが辛くなったのかと思い横になるよう促そうとするも、手だけを後ろに伸ばしてきた鬼丸に制される形となった。
「後は自分でやる」
手拭いを寄越すよう催促してくる手は微かに震えており、とてもではないが任せられる状態にないのは一目瞭然である。
「……いいから。あんたはおとなしくしていろ」
前に回り右腕を取れば、ふい、と顔を逸らされ、機嫌を損ねてしまったかと大典太は困ったように眉を寄せるも、胸中とは裏腹に唇は柔らかな弧を描いている。
それを横目に盗み見た鬼丸は大典太以上に困ったように眉根を寄せ、唇をへの字に引き結んだ。
鬼丸の腕を拭きつつ、ふと思い立って掴んだ手首から緩やかに霊力を流し込んでやる。
これで少しは機嫌が直ればいいが……、と思っての行動であったが、びくり、と鬼丸の肩が大きく跳ねた。
予想外の反応に大典太が驚いたように顔を上げれば、そこにあったのは更に思いもしなかった鬼丸の姿であった。
目は大きく見開かれ、白磁の肌はうっすらと桃色に色づいている。よくよく見れば目元どころか耳までもが色濃く染まっており、薄く開いた唇はなにか言葉を紡ごうとしているようだが、音はひとつとして出てこない。
なんらおかしな事をしたつもりはない大典太からすれば、鬼丸がどうしてここまで過剰な反応を示したかがわからず、潤んだ柘榴色を見つめるしかできない。
「い、きなり……そんなことをするな」
ゆるり、と大典太の手を振り払い、そのまま倒れ込むように布団に横になってしまった鬼丸は、顔の右半分を隠すように枕に押しつけている。
断り無く霊力を流し込んだのは消耗した身体には負担であったかと、大典太は常にない相手の様子に戸惑いながらも、すまない、と詫びの言葉を口にしてから鬼丸の左腕に、そっ、と触れた。
「寝たままで構わないから、続きをさせてくれ」
「……あぁ」
なにを迷う事があるのか、僅かに逡巡した後に了承した鬼丸は様子がおかしいままだ。
怪訝に思いながらも黙々と左腕を拭き仰向けになるよう促せば、やはり不自然な間を置いてから、ごろり、と体勢を変える。
「……なぁ」
「あぁいう事は……」
同時に口を開き、互いに相手の言葉を聞こうと口を噤む。伏し目がちな様子から察するに、鬼丸は意を決して大典太に話しかけたのだろう。出鼻を挫いてしまったか、と内心でごち大典太が促すように、なんだ、と問えば、鬼丸は緩く息を吐いてから、つい、と視線を上げた。
「あぁいう事は誰彼構わずやらないほうがいいぞ」
落ち着きを取り戻したか静かな声音で告げてきた鬼丸に、大典太は片眉を上げる。彼の言う「あぁいう事」は霊力の供給を指しているのだろう。
だが、ふたりの間でそれは今更という奴だ。
更に聞き捨てならないのは「誰彼構わず」の部分だ。
数ヶ月もの間、互いに胸に抱き更には一方的な物だと思っていたそれが、友愛ではない事は双方納得し受け入れたはずだ。
それならばどうして今更そのような言葉が出てきたのか。
どうにも認識のズレがあるようで、ここで大典太ははたと審神者の言葉を思い出した。
──記憶に混濁や欠落があるようでね……見当違いなことや辻褄が合わない事を言うかもしれないが大目に見てやってほしい。
これか……、と脱力したくなるのを懸命に堪え、大典太は手にしていた手拭いを桶へ投げ入れた。その動きを怪訝に目で追っていた鬼丸の右頬を、するり、と掌で覆い、そのまま顔を寄せていく。
常ならばゆっくりと下ろされていく瞼は微動だにせず、それどころか近づいてくる大典太の口を鬼丸は掌で塞ぎ、更には押し止めようというのか、ぐっ、と力が込められた。
「……なんのつもりだ。冗談でもそういう事をするのはやめろ」
目を逸らす事はなく、突き放すようでいて、だがどこか傷ついたような声音に、大典太は喉奥で、ぐぅ、と低く呻く。
この反応を大典太は知っている。
朧気ながらも相手を好いているのではないかと恋心を自覚し、その思いを抱いているのは自分だけだと、互いに片思いだと思っていた時のそれだ。
確かめるためとはいえ試すような事をして無駄に傷つけた事を即座に後悔し、大典太は素直に、すまなかった、と詫びの言葉を口にしてから、鬼丸の頭を宥めるように柔く撫でる。
それにすら眉を寄せる鬼丸を前に、これまで当たり前にやっていた事が今の彼にとってはおかしな事なのだと、大典太は改めて実感したのだ。
「だが、冗談ではないと言ったら、どうする?」
桶に放った手拭いを絞りながら問うてみれば、鬼丸はなにを言われたのか理解できなかったか、は……? と間の抜けた声を漏らし動きを止めた。
じっ、と見つめたまま大典太が返答を待っていれば、じわりじわりと鬼丸の頬に赤みが差し、再度、は……? と掠れた音が転がり出た。
驚愕に見開かれた目は今にも零れ落ちそうだ。
「……からかうな。さすがに質が悪いぞ」
二度三度、無音で開閉された唇がようよう紡いだ言葉は予想通りのもので、自分に対して二度目の片思いをしている相手に、大典太は愛しさを募らせ眼を細める。
ここで何度本気だ、嘘じゃないと言ったところで、すぐには信じないのが鬼丸国綱という刀だ。
この時間は、今の鬼丸は、角の修復が済めば露と消えてしまうかもしれない。
だが、それまではまだ恋仲ではない男を一方的に、ぐずぐずに甘やかしてやるのもいいだろう。
毎日、少しずつ霊力を分けてやり、出歩ける程に回復したら手を引いて、庭を散策するのもいいだろう。
濡らした手拭いを胸元に滑らせ、からかってなどいないさ……、と静かに言葉を落とせば、鬼丸は、ふん……、と軽く鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「回復するまで俺と一緒じゃ息が詰まるかもしれないが、まぁ我慢してくれ」
なにしろ陰気な刀だからな、と大典太がやや歪に口端を上げれば、鬼丸は僅かに目を眇めるも一旦瞼を伏せた。
「……誰もそんな事は言っていない」
伏し目がちにそう口にした鬼丸は気怠げに右腕を上げ、自身の目元を覆う。
「それはむしろ、手を煩わせてるおれが言うべき言葉だ。すまない……」
自分の状態をよくわかっているからか、鬼丸はひとりで大丈夫だとは言わない。
彼が不意に見せるこのような素直な所を、大典太は甚く気に入っているのだ。
「なに、審神者に頼まれたのもあるが、俺が好きでやってる所もある。だから気にするな」
それよりも、と言い置いて、大典太は鬼丸の首の下に腕を一旦差し入れてから肩を掴み、そのまま抱くような形で上半身を起こす。
「喋りすぎて疲れたんだろう? 着替えてまた眠るといい」
力なく項垂れたつむじに向かって大典太が声を掛ければ、僅かに、ゆらり、と鬼丸の頭が揺れた。どうやら頷いたらしい。
「食事は頃合いを見て持ってくる」
「……わかった」
のそのそ、と新しい浴衣に腕を通しつつ既に夢の淵へと落ちかけているのか、柔く穏やかな鬼丸の口調に大典太は眦を下げた。
◇ ◇ ◇
手入れを受けたあと、審神者に療養を言い渡されてから数日は「食事だけで十分だ」と鬼丸は言い張っていたのだが、霊力が枯渇しているのは誰の目にも明らかであった。
「これも込みで俺はあんたについているんだ」
先日、いきなり霊力を流して驚かせた事を反省して、大典太は一言断りを入れてから鬼丸の手を取ったのだが、ゆうるり、と首を横に振られてしまった。
頑として受け入れない相手に対し、大典太は抱きすくめて否応なしに霊力供給をしてしまおうかとも思ったのだが、それは余りにも悪手であると即座に却下する。
「俺がそうしたいんだ。あんたが負い目を感じる事はない」
「……気遣いはありがたいが、お前の霊力は……おれには合わなくてな」
一瞬、視線を彷徨わせた鬼丸の様子に、大典太は即座にそれは嘘だと見抜く。
これまで幾度となく肌を合わせ、幾度となく彼の中に放ってきたのだ。
鬼丸の身体が大典太の霊力を拒否するなどあり得ない事だった。
だが、この場でそれを指摘する訳にも行かず、大典太は弱り切った顔で、ダメか? と鬼丸に問うた。
押してダメなら引いてみろというやつだ。あからさまに怯んだ鬼丸に大典太は内心で、畳み掛けるなら今だ、と勢いづく。
「馴染むまでゆっくり送る。無理だと思ったらすぐ止める」
他者との関わりを意図的に避けている節のある鬼丸だ。
こうまで懐深くまで入り込まれる事に抵抗があるのだろう。
それを踏まえた上で譲歩の姿勢を見せれば、鬼丸は喉奥で低く唸った後、不承不承と言った体で頷いて見せた。
じっ、と鬼丸を真摯に見つめてから大典太は、そっ、と壊れ物を扱うかのように右手を取り、掌同士を合わせて自分の手で蓋をするように包み込む。
大典太の体温を意識しまいと、鬼丸は何食わぬ顔を装いつつ視線を横へと逃がす。
「……いいか?」
「あぁ」
確認の声に鬼丸が頷けば、薄く薄く引き伸ばされた大典太の霊力が、すぅ、と抵抗なく染み込んでくる。
一度、不意打ちで流し込まれた時も感じたが、鬼丸の身体は慣らす必要がないほどに大典太の霊力に対して馴染みきっており、それだけに飽き足らず心地良いとさえ思っているのだ。
その事実に鬼丸は困惑し、気を抜くと腹の奥底から這い出ようとする身に覚えのない貪欲さに、奥歯を、ぎりり、と噛み締める。
もっともっとと際限なく求める様は浅ましく、なんと図々しい事かと、鬼丸は己の感情に胸を掻き毟りたくなるほどだ。
酒を酌み交わす仲とはいえ、そこに特別な感情はないのだ。少なくとも大典太には。
ここまで親身に世話をしてくれるのは、大典太の厚意も多少はあろうが、審神者に頼まれたからだと鬼丸は理解しているつもりだ。
「……もういい」
「まだだ」
軽く腕を引くも、ぐい、と強く引き戻され、鬼丸は眉間にしわを寄せた険しい顔で大典太を見た。
てっきりいつもの感情が読みにくい目をしているのだろうと思いきや、予想に反して柔い眼差しを向けられており、不意を突かれた鬼丸の体温が一瞬で上がる。
抑えの効かない顔の火照りに焦り、どうにか隠せはしないかと口元を掌で覆い、僅かに俯き顔を右に背けるも、それは無駄な足掻きであると鬼丸はわかっている。
いくら口元を隠し包帯を巻かれていようとも、髪の合間から覗く耳までもが赤くなっている事は明白だ。
「もう、いいと……言っているだろう」
「まだだ。全然足りないんだろう?」
柔く柔く霊力と共に染み込み、身の裡から蕩かすかのような、甘やかすかのような声音に鬼丸は「もうやめてくれ……」と泣き言のような音を唇の隙間から零すので精一杯だ。
「辛いか?」
「そう、ではないが……」
ざわざわ、と胸を騒がせ、背筋を柔く撫で上げられているかのような感覚に、鬼丸は困惑を隠せない。
鬼丸の息が自然と上がり始めた事に気づいたか、大典太は僅かに目を見張るも口には出さず、緩やかに送り込んでいた霊力を止めた。
身体は慣れた霊力に昂揚するも心が着いてきていないせいで、鬼丸は処理しきれないこの状態に混乱一歩手前と言ったところなのだろう。
「……落ち着け。大丈夫だ」
知らず眦に浮かんでいた涙を拭ってやれば、あ……、と無意識にか薄く開いた唇から小さな声が転げ落ちた。
「悪い、なんでもない」
緩やかに大典太の手を振り解き、鬼丸は気まずそうに視線を左右に彷徨わせてから、寝る、と短く告げ横になった。
「無理をさせて悪かった」
「いや……平気だ」
もぞ、と身動ぐ鬼丸に布団を掛けてやってから、大典太は折れた角の辺りには触れないよう器用に避け頭を一撫でする。
「隣の部屋に居るから、なにかあったら呼んでくれ」
襖だけで隔たれた部屋だ。異変があれば名を呼ばずとも大典太ならば気づくだろう。だが、敢えて明確に言葉にする事で、鬼丸が自分の意志で呼ばない限り絶対に来ないと言外に告げたのだ。
「……わかった」
布団に顔の下半分を埋めた鬼丸が応じた事を確認してから、大典太は静かに退室する。ひとりになった鬼丸が熱を帯びた身体をこれからどうするのかといった、不埒な想像を強引に頭から追い出し、時折漏れ聞こえる無意識に己の名を呼ぶ声も意識の外に追いやった。
◇ ◇ ◇
なんだその腑抜けた顔は、天下五剣の名が泣くぞ、などとぶつくさ言いながらもシーツをテキパキと取り替える大包平を眺めつつ、鬼丸は「天下五剣は関係ないだろう」と思うも口にすればその十倍の言葉が返ってくると踏み、壁に寄りかかったままなにも言わずに視線を窓の外へと向ける。
同じ顔ばかり見ていては飽きてしまうだろう? と三日月が冗談とも本気ともつかぬ事を言い出したのは三日前。鬼丸自身は「そんな事はない」と言いたいところであったが、大典太ひとりに負担を掛けている現状はやはり良くないとも思っていたため、任せる、と短く答えたのだった。
結果、今日は朝から大包平が鬼丸の元を訪れている。
今頃は大典太も食事中だろうか、とぼんやり考えていれば、作業を終えた大包平が鬼丸の正面へ、すとん、と腰を下ろした。
「喰わねば治るものも治らんだろう」
手の着けられていない膳を一瞥し眉を寄せる大包平に、そうだな、と返事だけはするも、鬼丸の視線は相変わらず庭へと向けられており、動く気配は微塵もない。
存在の維持に必要な霊力以外をすべて角の修復にあてている身体は、鬼丸自身が思っている以上にままならないものであった。
だが、それを説明したところでいらぬ気を遣わせるだけであると理解しているため、鬼丸は敢えてだんまりを決め込む。
常に微睡んでいるような茫洋とした鬼丸の様子が見慣れず落ち着かないのか、大包平は後ろ頭を、がしがし、と乱暴に掻いてから、できるだけ穏やかな口調で語りかけた。
「そこまで動くのすら億劫だというなら、大典太から少し霊力を分けて貰ったらどうだ?」
予期せぬ提案と挙げられた名に、昨日までのことが瞬時に脳裏を駆け抜け、鬼丸は不覚にも言葉を詰まらせる。
少量とは言え内部を巡る大典太の霊力に毎回、身を焦がさんばかりなのだ。
「な、んでそうなる……」
「なんでって、そこまで度量の狭い男ではあるまい? 世話役を任されたのはそれも織り込み済みという事ではないのか?」
全く他意のない大包平の言葉に変に意識している自分が恥ずかしくなったか、鬼丸は誤魔化すように口元を掌で覆い隠した。
「刀剣の横綱であるこの俺が分けてやってもいいんだが、それは貴様も望むところではあるまいよ」
「……そうだな。無駄に暑苦しいのが移っても困るな」
ふっ、と明らかに冗談だと言わんばかりに口角を上げる鬼丸にどこか安心したか、大包平も普段通りに胸を張り、失礼な奴め、と形ばかりの憤慨を見せる。
「さて、飯を食わせるくらい俺には造作もない事だが、ここは天下五剣の意志を尊重してやる」
さぁどうする、と箸を取り上げた大包平を、ちら、と上目に見やり、観念したように息をついてから差し出された箸に黙って手を伸ばす。
「零すなよ」
「……子供扱いか」
箸が何かを掴むたびにそれが口に運ばれるまで固唾を飲んで見守る大包平の姿は、端から見れば滑稽やもしれぬ。
だが、大包平とは何事にも妥協せず常に全力で、いかなる場面でも真っ直ぐに突き進む、そういう刀なのだ。
「食べたらどうする? 散歩……は無理か。なら風呂か? なにか読んでやろうか?」
やれる事は全力でやるぞ、と顔に書いてある大包平を、ちら、と上目に見やり、鬼丸は嘆息をどうにか抑え込んでから、寝る、と端的に告げたのだった。
鬼丸の世話を大包平に任せる事になった大典太は、休みを貰ったはいいが特にやる事もなく逆にそれを持て余している状態だ。
なにか手伝える事はないかとそれぞれ当番の者に声を掛けてみるも、一様に口を揃えて「大典太さんは休んでください」と返されてしまったため、下手に動き回るわけにも行かず先ほど縁側に腰を落ち着けたところであった。
鬼丸は大包平の勢いに押されてはいないだろうか、と心配になるも様子を見に行っては大包平に失礼だともわかっているため、更に身動きが取れない。
どうしたものか……、と無意識のうちに頭が下がり雪駄を引っかけた自分のつま先をぼんやりと眺めていれば、不意に、にゅっ、と緑色の物体が視界に飛び込んできた。
「もっと躍起になると思ったんだが、そうでもないのだな」
差し出されたキュウリを怪訝に見やってから、ゆうるり、と視線を上げれば、涼しげな顔には不似合いな泥を頬に付けたままの三日月の姿があった。
「良い出来だったのでな。少し分けて貰ってきた」
竹で編まれた笊ごと大典太に渡し、三日月はそのまま隣へ腰を下ろす。縁側から眺める庭には夏の強い日差しが降り注ぎ、若干目を眇めねばならず、正直なところ景色を楽しむといった風情ではない。
「……先のあれはどういう意味だ」
やや俯きがちに笊のふちを指先でなぞりながら大典太が問えば、三日月は首に下げた手拭いで額の汗を軽く押さえるように拭いてから、うん? と首を傾げた。
「言葉通りの意味だ。鬼丸との関係を喧伝してはいないが、気づいている者はお前が思っている以上にいるぞ」
「まぁ……特段隠してもいなかったからな。それがどうした」
「お前があまりにもいつも通りすぎて、逆に心配している者も多いという事だ」
落ち込んでいる様子であれば慰めることも励ますこともできようが、なんら変わったところがないとなると外野は下手に触れることができず、黙って見守るしかない。
「あぁ、そういう事か。だが、こればかりは俺が焦ったところで、どうにもならないからな……」
相も変わらず笊のふちをなぞりながら、ぽそぽそ、と言葉を落とす大典太はどこか楽しげで、まるで秘密の内緒話でもしているかのようだ。
根を詰めすぎないよう息抜きをさせる為に大包平を巻き込んだが、空元気ともまた違う様子に、いらぬ気遣いであったか、と三日月は内心で安堵の息を吐く。
「俺が言う事ではないと思うのだが、あまり意地の悪い事はしてやるなよ」
あぁ見えて繊細なところがあるからなぁ、と言いつつ、三日月はキュウリを一本取り上げると、そのまま良い音を立てて一口齧り取った。それに倣って大典太もキュウリを手に取り、ぼり、と齧る。
「……知ってる」
「そうだな。そうでなければ、あれを懐におさめる事はできんか」
じじいのお節介だ忘れろ、と柔く笑んで三日月は再度キュウリを齧った。
しばし並んで黙々とキュウリを囓っていれば、お前らは河童か、と大包平が呆れたように声を掛けてきた。
見れば彼の手には空のペットボトル容器がいくつも入った袋が握られている。
各部屋には小型の冷蔵庫があり、わざわざ厨へ行かずとも水分は確保されている。昨夜、鬼丸が消費したそれらを補充をするために、厨へ向かっているのだろう。
期待を裏切る事なく本日の役目を全うしていると知れた。
「鬼丸の様子はどうだ」
三日月の問いに大包平は一瞬ではあったが、唇をへの字に曲げると同時に眉根をぎゅっと寄せる。
「本当に、寝てばかりなのだな」
珍しくも言葉を選んだか妙なところで息を入れ、困ったように眉尻を下げた。
「どうにもやりにくい」
天下五剣と見れば一部例外はあるとは言え、基本的には食ってかかる大包平だ。
だが、そこにはある種の信頼のような物が築かれており、どの程度までならば我を通していいか、互いの許容範囲が自ずと定まっていた。
しかし、その許容範囲が今の鬼丸では推し量れず、言葉ひとつ投げるにしても加減がわからないのだ。
「いつまでもあのような腑抜けた顔をされていては困る。その無駄に溢れた霊力を分けてやったらどうだ?」
鬼丸本人にも言ったんだがな、と大真面目な顔で提案してくる大包平にどう返したものかと、大典太は思案顔で、ぽりぽり、とキュウリを囓る。
「おい貴様、真面目に聞け!」
「まぁまぁ落ち着け。お前もどうだ?」
ほれ、と差し出されたキュウリを、いらん、と清々しいまでの勢いで断る大包平に対し、三日月は気分を害した様子もなくいつも通りの柔い笑みを浮かべた。
「もっともな提案だがな大包平。そこは俺たちが口を挟む事ではないな」
笑顔ではあるが明確に釘を刺してきた三日月に、大包平はなにか言いかけるも、ぐっ、と唇を引き結び喉奥で低く唸る。
「……俺は正直、こいつとあいつがどんな関係かは知らん。知らんが……出来る事があるにも関わらずやらないのは愚かだという事はわかるぞ」
大典太に向かって真っ直ぐに言葉を投げかけ、返事を聞く前に大包平は、邪魔したな、と軽く頭を下げてから大股に歩き去った。
その後ろ姿を見つめる大典太に三日月は慈しむような眼差しを向けるも直ぐさま掻き消し、はっはっは、と緩い笑い声を上げる。
「いやはや。ぐうの音も出ない正論だな」
打算も含みもない性根が真っ直ぐな男の言葉は、迷いなく的確に急所を穿ち貫いていく物だ。
当時は知る事の出来なかった自分に片思いをしている頃の鬼丸の言動を改めて目の当たりにし、大典太はどこかむず痒い物を覚えつつも、心が浮き立っていなかったと言えば嘘になる。
すっかり項垂れてしまった大典太の背を、ぽん、と軽く叩いてから、よっこらしょ、とわざとらしい声と共に三日月は立ち上がった。
「だが、そうは出来ぬ事情があるのだろう? お前が良いと思う事をやればいい」
「……俺は、あいつを困らせたい訳じゃないんだ」
膝上に載せた笊のふちを指先でなぞりながら、大典太は独り言のようでありながら、だがこれだけは知っておいて欲しいのだとの、明確な意志を持って口を開く。
「俺は答えを知っているが、鬼丸はそうじゃない。どちらに転ぶとも知れぬ今だからこそ、大切にしてやりたい……」
大典太自身は分けてやれる物なら今すぐにでも、それこそ限界まで霊力を分けてもいいとまで思っている。
だが、先日のように戸惑わせ、混乱させ、泣かせたいわけではないのだ。
相手の気持ちを知る術もなく不安だった過去と、未来の答えを知っている大典太だからこそ、焦らず無理強いはしないと決めたのだ。
「そうか」
大典太の胸の内を確と受け止め三日月は多くは返さずも、その声音は染み入るように深く、そして包み込むように優しかった。
◇ ◇ ◇
酒が飲みたい、と不意に漏れ出た声に、薬研はピンセットを持つ手を止め、うん? と鬼丸の顔を覗き込んだ。
「酒か? そうだな、元々あんた酒量は多くないから大丈夫だとは思うが、念のため誰かと一緒に飲むなら構わないんじゃないか?」
再び折れた角の断面を消毒しながらの薬研の言葉に、そうか、と小さく返し鬼丸は大典太の顔を思い浮かべる。
酒と言えばこの男だが、ただでさえも世話を掛けているというのに、更に要求を上乗せしていいものか悩むところだ。
鬼丸の入浴に手を貸した男は今、一日の疲れを癒すためゆっくりと湯に浸かっている。そのまま隣の部屋へと引き上げるであろう大典太を、わざわざ呼んで酒を持ってこさせるのはさすがに気が引けた。
「俺っちが付き合ってやりたい所だが、生憎と明日は遠征任務が入っててな」
「いや、戯れ言だと流してくれて構わない」
そんな贅沢を言える身ではないしな、と僅かに目を伏せた鬼丸に気がつかないフリをして、薬研は角にガーゼを当て手際よく包帯を巻いていく。
「もう少し伸びればテープで止められるんだけどなぁ」
ははは、と冗談めかしてはいるが恐らく本気の発言だろう。それはやめろ、と鬼丸が苦笑混じりに返したのとほぼ同時に、するり、と襖が開いた。
「……なんだ、随分と愉快そうだな」
髪を下ろしたままの大典太が、のそり、と顔を出し、そのまま二人の傍へと寄ってくる。
「お、ちょうどいいところに来てくれた。鬼丸が酒を飲みたいそうだ。ちょっと付き合ってやってくれねぇか?」
「それは構わないが……いいのか?」
身体に障るのではないかと僅かに眉を寄せる大典太に、薬研が「なぁに、酒如きで霊力は左右されないだろ?」と笑ってやれば、それもそうか、と難しい顔のままではあったが大典太は納得したようだ。
「だが、ほどほどにな」
ぼんやりと目を開ければ月明かりが差し込む部屋は青く沈んでおり、窓の外からは虫の声が涼やかに響いている。
頬に触れている白磁の肌はしっとりと滑らかで、一定の間隔で上下しているその下から響く鼓動にも乱れはない。
するり、するり、と髪を梳く手は少々ぎこちないが、それもまた彼らしく思え、自然と口角が上がる。
乗せていただけの手をはだけた浴衣の胸元へと滑り込ませ、ゆるゆる、と撫で回し、吸い付くようなその感触に、随分と久しぶりな気がする……、と思ったのと、頬の下の鼓動が跳ね上がったのは同時であった。
髪を梳いていた手も即座に離れ、起きている……のか? と微かに動揺を滲ませた声に、大典太は瞬時に覚醒した。
今の彼は褥を共にし、肌を合わせたことのある『彼』ではないのだ。
がばり、と身を起こし鬼丸を見下ろせば、ぐっ、と唇をへの字に引き結んだ顔がそこにあった。
「……夢、を……」
カラカラに渇いた口内に張り付く舌を無理矢理に動かし、大典太は言葉を押し出す。
「子虎を、撫でている夢を……見てた」
「おれはそんな可愛いものじゃないだろう」
掠れ声の言い訳を信じたか、鬼丸は、ふは、と小さく笑い、ゆっくりと身を起こした。大典太は、すまない、と詫び、乱れた浴衣を直してやりながら、ちら、と窺うように鬼丸の顔を見る。
「俺は、寝落ちたのか?」
「寝落ちたというか、どう言ったものか……」
ただ寝落ちただけならば、鬼丸の胸を枕にするような事態にはならないだろう。最悪の事態が脳裏を過り瞬時に、さぁっ、と顔から血の気が引いた大典太を前に、鬼丸は、くつくつ、と喉奥で笑った。
「急におれの肩を掴んだと思ったら『寝ろ』と押し倒してきて、お前もそのままおれの上でぐっすりだ」
ちびちび、と舐めるように盃を進める鬼丸に合わせて大典太も普段よりはゆっくりと盃を傾けていたのだが、酌をしてくれる鬼丸が「なんだ、調子でも悪いのか?」とからかい半分心配半分の顔で煽ってくるものだから、ついつい普段通りに水でも流し込むかのように飲んでしまったのだ。
それでもいつもならば意識を失うようなことにはならないが、自分でも思っていた以上に疲れていたようだと、大典太はここに来て自覚する。
すまなかったな、と今度は鬼丸が詫びの言葉を口にした。
「ただでさえも迷惑を掛けているのに、おれの我が儘に付き合わせた」
これっきりにする、と大典太の腕を、ぽん、と軽く叩き、鬼丸は申し訳なさそうに頭を下げた。
確かに大典太は他者の世話をするという慣れない状況に疲労感はあったが、迷惑だと思ったことは一度もない。相手が鬼丸であるならば尚のことだ。
「あんたは悪くない。俺が自分の状態を見誤っただけだ」
決して軽くはない大典太を胸に乗せたまま鬼丸はどれほどの時間、固い畳の上に横になっていたのか。
正面から後ろに回した手で、そっ、と背をさすりながら、鬼丸の耳に唇を寄せる。
「それにあんたが酌をしてくれると酒が更に美味くなるから、ついつい飲み過ぎてしまっただけだ」
だからこれっきりだなんて言わないでくれ、と吐息混じりに吹き込めば、ピン、と鬼丸の背筋が伸びた後、酔っ払いめ……、と苦々しく零された声音は微かに震えていた。
突き飛ばさないまでも軽く押しやるくらいの事はしてくると思っていた大典太は、自分の腕の中で大人しくされるがままの鬼丸を意外な面持ちで見下ろす。
背を撫でていた手に力を込め緩く抱き寄せれば、さすがに気まずさが勝ったか鬼丸が僅かに身動いだ。
「立てるか?」
「あ、あぁ……」
布団まではたかだか数歩の距離だ。とうに酒精など抜けきっているのはわかっているが、互いにそこには敢えて触れず、大典太は鬼丸を抱き締めるように支える口実にし、鬼丸は秘めた思いを吐露する事も出来ぬまま間近に感じる大典太の体温に胸の奥を焦がす。
酒のせいに出来る状況下であっても、そうおいそれと口を割らないのが鬼丸国綱という刀だ。
だが、このような端から見れば行きすぎた接触行為を受け入れている時点で、鬼丸は大典太の事を特別に思っているのだと容易に知れた。
気がつけば、とろり、と瞼が半分閉じかかっている鬼丸の顔を、ちら、と盗み見て、大典太は相手を強く掻き抱きたい衝動を、ぐっ、とやり過ごす。
布団に身を横たえた鬼丸は大典太の手が離れると同時に、ことり、と眠りに落ちた。その寝顔が穏やかな事に安堵の息を吐き、大典太は瞼に掛かった白銀の髪を指先で、さらり、と軽く払ってから、自身の寝床へと戻って行ったのだった。
◇ ◇ ◇
ちり、りりん、と軽やかに響く音に誘われるように、ゆうるり、と鬼丸の瞼が持ち上がる。僅かにではあるが音がしたと思しき方向へ顔を巡らせたことに気づいたか、大典太は手元の書物から顔を上げ、どうした? と短く問うた。
「……音が……」
これまでこの部屋ではしなかった類いの音がした事に鬼丸が怪訝な顔を見せれば、立ち上がった大典太が窓辺に下げられた物を緩く揺らす。
釣鐘を模した青銅色の風鈴が奏でる、ちりりん、と夢うつつに聞いた音に、鬼丸は小さく、それか、と漏らした。
「遠征先で手に入れたからと、先ほど前田たちが持ってきた」
「……そうか」
心なしか沈み込んだ声音に大典太は首を傾げ、迷惑だったか? と窺うように声を潜めれば、鬼丸は否定の意を込めて首を横に振る。
「吉光の奴らの気遣いはありがたく思う。だが、大包平の言う通り、おれは随分と腑抜けているようだ」
複数人が部屋を訪れた事にも気づかぬほどに深く寝入るなど、これまではなかった事だ。ままならぬ己の身体に更に歯がゆさが増し、鬼丸は奥歯を強く噛み締める。
「自覚があるのは結構なことだ」
窓辺から鬼丸の側へと移動し、大典太は枕元へ、すとん、と腰を下ろした。
それに……、と口にしかけるも一旦口を噤む。
他者の気配に敏感な鬼丸が一切目を覚まさなかったのは、傍に大典太が居るという安心感からだろう。それを指摘するのは容易いが、出来うるならば鬼丸自身に気付いて欲しくもあったのだ。
「まぁ、俺からすれば腑抜けているくらいが、無理をされるより余程いいがな」
手にした団扇で風を送りながら大典太が柔く言葉を紡げば、鬼丸は困ったように眉尻を下げる。
「……いつまでかかるかわからないんだぞ。お前にどれだけ面倒を掛けるか……」
「なんだ。そんな事を気にしているのか。言っただろう? 俺が好きでやってると」
療養生活に入ってから一ヶ月。
思うように回復せぬ身体に対する苛立ちと不安に加え、他者の手を煩わせ迷惑を掛けているという罪悪感。
刀の本分を全う出来ぬ焦燥感。
根が真面目で繊細な太刀の心は今、大きく乱れているのだろう。
「気楽に構えてろと言ったところで、あんたには無理な事はわかってる。だからせめて回復の一助になるよう、俺は霊力を分けてやりたいと思っている。それこそこうして話している今も、だ」
足りない分を他で補う。これ自体は理にかなっていると鬼丸も理解している。
だが、供給の際に生じる自身の身体の反応に戸惑い、この状況下で劣情を催す自分を嫌悪し、なにより大典太に知られる事を恐れた。
「……気持ちはありがたいが……やはりそれは……」
遠慮したい、と続くはずであった言葉は、不意に手を握られた事により途切れた。
「慣れない事に戸惑っているのはわかっているつもりだ……」
焦らず無理強いはしないと決めていたが、ここいらが潮時か、と大典太は一旦、唇を引き結び、握った手をゆっくりと己の口元へと引き寄せる。
「俺は、こうやってあんたに触れられる事に喜びを感じているし、下心だってある」
突然の告白に鬼丸は零れんばかりに目を見開き、薄く開いた唇は微かに震えている。
戸惑わせ、混乱させ、泣かせたいわけではないとの思いは未だ変わらない。だが、胸に抱いている物のせいで、辛く苦しい思いをして欲しい訳でもないのだ。
「あらゆる所に触れたいし、口も吸いたい」
「待て、お前は一体、なにを……ッ」
指先を軽く吸われ、鬼丸の息が詰まる。
「身体の奥の奥まで暴いて、俺で満たしたい」
「まっ……て、くれ……」
覆い被さるように顔を寄せてきた大典太の髪が、さらり、と鬼丸の頬を擽る。
「……好きだ」
唇に触れるか触れないかの距離で囁かれ、鬼丸は何事かを紡ごうとするもそれが音になる事は無かった。
柔く重ねられた唇に、握られたままの手が、びくり、と跳ねる。
「あんたは、どうなんだ?」
答えを知っていてこの問いは卑怯だとわかっているが、こちらの手の内を晒した以上、鬼丸の口からはっきり聞かなければ、先に進めないのだ。
大典太がまさか自分の気持ちに気付いているなど知るよしも無い鬼丸は、これは都合の良い夢なのではないかと一瞬、逃避しかけるも、はむ、と下唇を柔く食まれ、舌先で唇の端から端までなぞられては、現実なのだと認めざるを得なかった。
「俺とこうするのは、嫌か?」
「……嫌では、ない」
「触れられるのは、嫌か?」
するり、と首筋に触れた掌がそのまま滑って鎖骨に達する。更にその下の肌に触れようと、指先が寝間着の袷を割るように真っ直ぐ下ろされていく。
ひとつひとつ確かめるように問うてくる大典太に逃げ道を着実に塞がれ、鬼丸は観念したように、ふるり、と首を横に振った。
「嫌では、ない」
認めると同時に、ぶわり、と顔に熱が集まり、じわり、と視界が歪んだ。
「お前の霊力が身体を巡る度に、身が灼かれる思いだった。腹の奥が疼いて、熱くて、苦しかった……」
絞り出すかのような鬼丸からの告白に、あぁやはり辛い思いをさせていたのだな、と大典太の眉が寄る。
「身を案じてくれているお前に劣情を催しているなど、知られたくなかった」
恥ずべき事だと、唇を噛む鬼丸の腹に掌を宛がい、柔く押し込む。
突然の事に驚愕で目を見開いた鬼丸を確と見つめながら、大典太は、ゆうるり、と口角を上げた。
「俺はずっと、ここに直接注ぎ込みたいと、思っていた」
痛みがない程度に押し込み続けてくる大典太の熱っぽい声に、鬼丸の尾てい骨から背骨に沿って、ゾクゾク、と痺れにも似た感覚が駆け上がる。
「もっと……触れてもいいか?」
確認でありながら有無を言わせぬ響きに、鬼丸は若干顔を強張らせるも、あぁ……、と肯定の言葉を漏らすと同時に、するり、と大典太の頬を撫でた。
不安を隠し切れていない鬼丸の表情を目の当たりにし、大典太は、きゅう、と胸が締め付けられる思いだ。
今の鬼丸からすればこれは『初めて』の行為なのだ。
あの時の鬼丸もこのような顔をしていたのだろうか……と思い出そうとするも脳裏を過るのは、伏せた白い背中と汗で首筋に張り付いた銀糸だけだ。
当時は自分の事で精一杯で事を進めるのに必死過ぎて、相手を気遣う余裕すらなかったのだ。
なんの準備もしていないため本当に触れるだけになるが、優しく丁寧に扱おうと恐る恐る浴衣の帯に手を掛けたその時、ふは、と鬼丸の口から笑いが零れた。
「お前、そんな顔をしていたんだな」
両の掌で大典太の頬を包み、やわやわ、と捏ねるように触れてくる鬼丸は、どこか意地の悪い顔をしている。
「ものすごく、必死だな」
先までの不安げな様子は微塵もなく笑みをたたえている鬼丸を、ぽかん、と見下ろしていた大典太だが、途端に脱力したかのように相手の肩口に頭を落とした。
「思い出した、のか……?」
「おかげさまですっかりと、な」
世話を掛けた、と大典太の背を、ゆるゆる、と撫でながら鬼丸は宵闇色の髪を鼻先で掻き分け、耳元に口を寄せる。
「お前の思慮深さには頭が下がる」
これまでの事を振り返り、逆の立場であったなら自分がどう動くか想像もつかない、と鬼丸は内心で緩く首を振った。
「このまま気持ちを隠し通してしまうのではないかと、ヒヤヒヤした」
「そうだな、自分でもかなり強情だったと思う」
本当にあんたは扱いが難しい、とぼやく大典太に鬼丸はどう返した物かと考えるも、すまん、と素直に詫びるしかなかった。
「正直、最初はそこまで深刻に考えていなかった。ぐずぐずに甘やかしてあんたがどんな反応をするか見たいと思っていた。思っていたんだが、想像以上に頑なでそれどころじゃなかった」
のそり、と身を起こした大典太は弱り切った顔で鬼丸を見下ろしながら、未だ包帯に覆われている角の根元を、やわり、と撫でる。
「心のどこかで、またあんたを惚れさせてみせるとの驕りがあった」
浅はかすぎて恥ずかしい、と莫迦正直に告げて大典太は目を伏せた。
自己評価の低さを垣間見せながら、不意に自尊心の高さを見せる。そんなところも全てまとめて大典太光世という刀を、鬼丸は好ましく、愛しく思っているのだ。
大典太の気持ちを、思いを受け入れた瞬間、かちり、と何かが収まるべき所に収まった気がしたのだ。
そして、靄に覆い隠されていた記憶が明瞭になり、目に見える世界が一段階明るく鮮やかになった心地であった。
もしここで互いに気持ちを伝えず、何事もなかった顔で日々を過ごし、二度目の片思いを貫き通していたらどのような未来が訪れたのか。
知りたいような知りたくないような複雑な心境を押し隠し、鬼丸は宵闇色の髪を、くしゃり、と乱した。
◇ ◇ ◇
軒下に並ぶ朝顔の鉢の前に立つ鬼丸に気付いた大包平は、僅かに歩調を速め大股にやって来た。
「ひとりか? 大典太はどうした」
濡れ縁に立つ大包平を見上げるも鬼丸はすぐには答えず、一拍おいてから、ゆうるり、と口を開いた。
「部屋の掃除をするからと、追い出された」
淡々と告げられた内容自体は勿体ぶるような事ではないが、説明するかはぐらかすかをあの一拍の間に考えたのだろう。
「そうか。だが、出歩けるようになったとはいえ本調子ではなかろう。無理はするなよ」
そうだな、と返しつつも鬼丸は鉢の前から動こうとしない。
「なんだ、朝顔など珍しくもないだろう?」
支柱に絡みつく蔓は、鬼丸の背丈とほぼ変わらない位置まで伸びている。
「……花が咲いたんだな」
短刀たちが育てているのは知っていた。
誰の鉢が一番多く花をつけるか競い合っているのだと、観察日記をつけながら皆が笑っていた。
だが、鬼丸の記憶にあるのはまだ支柱を必要としない大きさであった。
改めて長い事臥せっていたのだと実感する。
「お前にも世話になった。礼を言う」
すっ、と流れるような動作で下げられた頭を大包平は驚愕の眼差しで見るや、慌てたように鬼丸の肩を、がっし、と掴んだ。
「おい、まだ調子が悪いのではないか!? それともなにか変な物でも食べたのか!?」
「……おれだって礼くらい普通に言うぞ」
失礼な奴め、と大包平の手を払いながら鬼丸がぼやけば、それはすまなかった、と詫びつつも大包平は戸惑いを隠せない。
あの天下五剣の中でもずば抜けてとっつきにくそうな刀が、なんのてらいも無く頭を下げるなど思いも寄らなかったのだ。
こほん、と仕切り直すようにひとつ咳払いし、大包平はまっすぐに鬼丸を見据える。
「何はともあれ、ここ数日の回復力はめざましい物があったと聞き及んでいる」
「おかげさまでな」
あれから毎晩これまでとは比べ物にならない量の霊力供給を受けているのだ。これで回復しない訳がない。
「あれか? 大典太がやっとやる気になったのか?」
以前、大包平は大典太に発破を掛けた事があるが、今の発言には勿論、他意はない。
受け取り方に寄っては下衆の勘ぐりになりかねないが、彼はそもそも大典太がどのような供給手段を取っているかも知らないのだ。
大包平の言う「やる気」と大典太の「やる気」は似て非なる物だが、それを説明する必要は無い為、鬼丸はだんまりを決め込む。
「全く。なぜ出し惜しみをしていたのか理解できんが、まぁいい。全快したら俺と手合わせしろ」
びしっ、と鼻先に指を突きつけてきた大包平を上目に見やり、鬼丸は隠す事無く、はぁ……、と溜息をついた。
「なんでおれが」
「鈍りきった身体を鍛えてやると言っているんだ。覚悟しておけ」
一方的に約束を取り付けるや、じゃあな、と踵を返した大包平だが、三歩進んだ所で、ぴたり、と足を止めた。
「首のそれ、他の奴らには見せない方がいいぞ」
何を言われるかわからんからな、と肩越しに指摘されるもその場では理解が及ばなかった鬼丸だが、大包平の背中が見えなくなったところで何か思い当たったか、あー……、と低い声が漏れ出た。
大典太が触れた箇所などいちいち覚えていないが、確実にそれだろう。
情交の跡を目の当たりにしても変に騒がず、指摘だけで立ち去った大包平に感謝するべきか? と鬼丸は暫し悩んだのだった。
2025.12.07