壮途の青に 空港のロビーには、飛行機の発着を待つ人々の忙しげな喧騒がとめどなく溢れ流れている。人波の合間を縫うようにして進みながら、響也はよく知った後ろ姿を探して視線を巡らせていた。
先ほど会った脚本家の彼女いわく荷物預けのカウンターへ行ったという話だったから方向はこちらで合っているはずなのだけれども、いかんせん人出が多い。手に持った少し大きめの封筒が、響也の歩調に合わせてかさりと乾いた音を立てる。
「伊織!」
雑踏の向こう、行き交う旅行客の隙間にようやく探していた後ろ姿を見つけて、呼び声を投げかけた。ちょうどカウンターでの手続きを終えた様子の彼がこちらを振り返り、響也を見つけて立ち止まる。
「響也」
彼とこうしてまともに顔を合わせて話すのは、およそ一週間ぶり近くになるだろうか。シャッフル公演の仔細な概要が明かされてからというもの、チーム・ベガの面々はロンドン行きの準備に忙殺されており――無論、響也の所属するチーム・アルタイルが早々に稽古を開始したことも理由のひとつではあるのだが――ほとんどやり取りのないまま、出発の日を迎えていた。
「来ていたのか」
「当たり前だろ。俺だけじゃなくて、アルタイルのほかのメンバーも来てるよ」
「そうなのか?」
「染谷さん以外はね。本当は来たがってたけど、ホンの執筆に掛かりきりで」
「そうか」
響也の説明に、彼が短く頷いて応える。当然といえば当然なのかもしれないが、相変わらずの彼の調子が随分と懐かしく思えた。
「それで、これ、マリアさんから預かってきた書類。向こうの稽古場とか、宿舎について書いてあるそうだから、移動中に目を通しておいてくれ」
「わかった。ありがとう」
響也が手渡した封筒の口を軽く開いて中身を確かめたあと、彼の静かな色の両目がついと持ち上がって響也を見る。響也も彼を見ていた。視線が出会う。かちり。
「……、そろそろ時間だよな、」
見送るために用意してきたはずのほんの少しの言葉が、どうしてか喉に貼りついて出て来ない。ほとりと落ちた空白を途切って紡いだそれは海の向こうへ発とうという彼へ宛てるにはあまりにもそっけないもので、続けたかったなにかは雑踏のざわめきに取って代わられる。
「……ああ」
それはどうやら彼も同じだったようで、やはりなにがしかの言葉を探すようなわずかな間のあと、至って簡潔ないらえが返される。
渡すべきものを渡し、たとえ本心に添いきらなかったとしてもやり取りを終えたのだから、いつまでもここで彼を引き止めているわけにはいかない。じゃあ、と言い置いてから踵を返しかけた響也の背に、彼の声がぶつかった。「響也、」
「……その、ひとつ、頼みがある」
「頼み?」
予想していなかった言葉に、思わず目瞬きをひとつ。首を傾げつつ響也が彼へと向き直ったのを確かめるように目を合わせてから、彼は口を開いた。
「明後日放送される、動物番組を録画しておいてくれ」
三チャンネルで、夜八時からだ。
「………………、は?」
「ッ、ハシビロコウが出るんだ!嘘じゃない!」
「いや、別にそこを疑ってるわけじゃないぞ!?……っていうか珍しいな、ハシビロコウが出るのに録画忘れてきたのか?」
彼がハシビロコウの熱烈なファンであることは響也も十分すぎるほど承知しており、少し前にどうにか番組録画に関する最低限の操作を身につけた(というよりは、最終的に録画手順を連ねた手書きの説明書を作成した)のをきっかけに嬉々として録画にいそしむ姿も知っている。
その彼が、録画――よりにもよって愛するハシビロコウの出る番組の!――さえ失念してしまうほど多忙だったのか。純粋な驚きから響也がこぼした問いに、けれども彼からはひどくもの言いたげな視線が返ってきただけだった。
「……俺がハシビロコウの出る番組を録り忘れるわけないだろう」
「え?」
「ッ、なんでもない!」
万が一録れていなかったときの保険だ、保険!
なぜかやけぎみにそう答えた彼の目元が薄く上気していることに気が付いて、響也はもう一度遅い目瞬きをひとつ。――それから、思わず肩を揺らして笑いだした。
「おい、笑うな響也!」
「っ、ふ、あはは、ごめん、ごめんってば!」
綻ぶ口元を片手で隠しながら、咎める声に謝罪を返す。
彼が不器用に寄越したささやかな約束が、胸裡をあたたかく揺らして包むのがわかる。つい今しがたまで喉元に貼りついていたものが、呆気ないほどするりとほどけてとけてゆく。
「わかった、録画しておくよ」
「ああ」
「伊織」
「なんだ」
「気をつけて」
「……ああ。行ってくる」
彼らしい確かな芯を感じる穏やかな声とまなざしがまぶしい。実りある旅路を祈りながら、「行ってらっしゃい」とそっと返した。
***
20180224Sat.