アンシンメトリー 今日もラジオは甘い恋人達のために、バラードを運んでくる。
ドリカムもユーミンもはっきり言って聞き飽きた。どんなおいしいチョコレートでも三日食べつづければ飽食気味になる。ましてやこの二時間の間延々と流れつづける、名曲といわれるラブソングの量といったらなんだ。やれ「愛してる」「君が欲しい」「あなたこそ全て」と連呼され続ければ、それがどんなに好きな曲であっても賭けてもいい、絶対に嫌になる。
だいたいなんで松任谷由美でかかる曲が『アニバーサリー』や『円舞曲』ばかりなのだ、今の季節だったら『ノーサイド』あたりが素晴らしく映えるじゃないか。
しかも、しかもだ。それらの曲がかかるたび、グリコのごとく見知らぬ他人の恋愛話までついて来るときたら。
下駄箱で待っていた少女時代、ホテルの部屋で分け合うゴディバ、首が通せない手編みのセーターの思い出などなどをDJの歯切れのよい声で聞かされて、次にかかるのは「去年のバレンタイン、勇気を出して憧れの先輩にチョコを渡しました。何度も失敗してやっとまともな形になったブラウニーです。おお、苦労したんですね。そうしたら……なんと先輩の返事はOK! それは良かった。努力が報われた、って奴ですね、そのあと二人で先輩の部屋に行き、渡したばかりのブラウニーを食べながら聞いたのがこの曲です。これを聞くたびに甘い思いに包まれます……。ご馳走様でした。では、ラジオネームむーらんさんからのリクエストで」宇多田ヒカルの『ファーストラブ』だそうだ。甘い思いに浸っているところ悪いが、この曲は失恋ソングだ、それこそクリスマスにワム! を聞くぐらい縁起が悪い。前途多難どころかお先真っ暗といっても良いぐらいだ。
何かにいちいち突っ込みながら、こんなに胸がむかむかさせてるぐらいならそもそもラジオ自体を聞かなきゃいいのだろうが、ここが我ながら不器用なところで、どこかで気を散らすものがないと、今の精神状態では仕事に集中するどころかどこまでも落ち込んでしまう。しかも、常日頃愛用しているオーディオは調子が悪くなってしまい修理に出しているから、音楽を聞くこともままならない。昔の記憶を穿り返しながら引っ張り出してきた、埃を被った型古のラジカセはチューナーがいかれていてこの局以外がかからない。じゃあ電源を切ればいいとなったところで最初の部分に戻るわけだ。
いっそのこと居間でテレビでも見ながらの方がマシかもしれない。
と考えて、昨日とりあえず実行してみたところ、やはり山のようなバレンタイン特集と、今若手ナンバーワンの美形俳優横田駿と女優川下みずほの恋愛スキャンダルでもちきりで、やっぱり耐え切れなくなりまた書斎に逃げ込んだ。
「……では次のリクエスト、ラジオネームオロナミンTさんから、B’zの」
お、と有栖は思わず耳を澄ます。この砂糖責めのようなラブソング攻撃も一旦収束して、熱いハードロックがようやっとお目見えするらしい。
「大ヒットナンバーですね。『今宵月の見える丘に』」
家に一人なのをいいことに、盛大に舌打ちをした。
畜生、なんてこった。
そんな一リスナーの心情なんかに構っていられないとばかりに濃い響きのギターが流れ出した辺りで、電話が盛大に鳴り響いた。
ありがたい。この状況から抜け出せるなら、と不意の出来事に遠慮なく飛びつく。仕事は外部からの介入で中断されるのであって、決して進んで逃げるわけではない。
矢のような速さで受話器を取ろうとして、ふとある顔ぼんやり浮かんできた。今最も話したくない相手だ。
もし相手が思ったとおりだったらどうしようか。今のままだとまともな会話が出来るとは到底思えない。では、現状を素直に話すか? いや、それが出来るなら苦労はないのだ。そう考えるうちに、ぴたりと手の動作が止まってしまう。
持ち主の気持ちなど知らない電話機は、それでも電子音を鳴り響かせ続ける。2コールほど余計になったところで、ぐずぐずと覚悟を決めて改めて受話器を取った。
「……はい、有栖川です」
『グーテンモーゲン?』
「ああ、朝井さんですか」
『ほほう、感心にももう起きてたんやね』
「悪いですか」
『あら、なんか元気ないんね。さては片桐さんからと思って警戒したんか?』
締め切り近いんか? と京都在住の女流推理作家はからからと笑った。
二時間後、有栖を乗せた新快速は二分ほど遅れて京都駅に滑り込んだ。
盆地である京都の冬はとてつもなく寒い。僅か三十分しか離れていないというのに、大阪のそれとは比べ物にならない程だ。ホームに降りた途端襲ってきた冷気に、有栖は思わずコートの併せをぎゅっと締める。
京都に来るのは今年初めてだ。用事がなかったから、というのもあるがそれ以上に来たくなかったから避けていたというのが正しい。去年は初詣ツアーと題してわざわざ市バスの一日パスまで買ってあちこちの神社仏閣を拝み倒したものだが、今年は初詣に行く気力さえなかった。
コンコースに上がる階段を登りながら、有栖ははぁ、と白いため息をついた。
『アリス、よかったらこれからこっちきいへん?』
先ほど電話を掛けてきた朝井は、時候の挨拶も近況報告もすっ飛ばしていきなりこう聞いてきたのだ。
「なんでです、やぶから棒に」
『なんや、都合悪いんか? 本当に締め切りがやばいとか』
「締め切りは二十日過ぎですから、まだなんとかやばくはないですが、でも」
『だったら時間取れるやろ? 私、今週の末からちょっと日本離れるんよ』
「海外ですか? ええやないですか、うらやましい」
『北半球なら今が一番安いんよ。学生達の卒業旅行が始まる前の、寒い時期っていうのがね。ってそんなことはどうでもええんやけど、それでな、帰ってくるのが二十五日過ぎ』
「うわ、優雅な日程ですね」
『ふふん、その代わり締め切りの前倒しがきつかったわ。まあそんなわけで可愛い後輩にバレンタインの贈り物をしてあげられへんわけやな』
有栖と知り合ってからというもの、朝井は毎年バレンタインにはなんらかの贈り物をしてくれているのだ。それは聞いたこともないメーカーの、一粒で板チョコが何枚も買えてしまうトリュフだったり、トラッキーを模った固いチョコだったりした。ちなみに去年は「前見た映画にあったやつでな、この前作り方聞いたんよ」といって差し出された唐辛子入りホットチョコレートだった。これは爆弾かと覚悟したそれは意外においしくて、世の中には面白いことを考える人もいるもんだ、と感心したものだ。
それにしてもあまりにマメものだから、どうして毎年律儀にくれるのか、と以前訊ねたことがある。朝井はその問に対し、あっさりと「プレゼントが好きなんや」と答えたものだ。後から聞いたことだが、片桐にも毎年ゆうパックでなにかしら送っていて、そして付き合っていた赤星には毎年手作りのなにかを渡していた、とのことだった。
だからといって前倒しにしてまで、やってもらうのは申し訳ない。その考えがストレートに口から出た。
「朝井さん、お気持ちはありがたいですが。でもべつに無理せんでもええですよ」
『なんや、先輩がせっかく心を砕いてるのに、それを無碍にするんか?』
「無碍だなんて、そんな」
『ならそうやね……、駅ビルのミスドに一時間後、平気?』
「い、一時間ですか?」
『それはさすがに急か。ならさらに三十分追加』
そうして、電話は会話の始まりと同じく唐突に切れ、まだ少しは温かった大阪から冷え切った京都まで、こうして四の五をいわずに出てくることになったのである。
本来ならそれこそ何の躊躇もなく朝井の好意を受け取っていただろう。しかし、今はまだ気分が底を打ったままだ。
自由通路の先に広がる空は薄く延ばしたような冬の青空だ。これで天気も悪かったら全てを天候と気圧のせいにも出来るのに。
「……ま、しゃーないなぁ」
有栖は誰に聞かせるでもなく呟いた。そして「よっしゃ」と小さな声で気合を入れる。カラ元気でも元気、とは昔聞いた言葉だが、今はそれを実践するしかない。
気持ちを出来る限り切り替えて、有栖は改札から通路へと歩き出す。朝井の待つミスタードーナツは京都駅中二階の吹き抜けにある。空調が聞いているといっても遮る壁がないゆえに構内はやはり寒い。待たせる時間は短いほど良いに決まっている。
すこし歩調を速めながら、グランディアの前を通り過ぎる。と、
「ちょっと、どこいくのよ」
「……っと!」
むんず、と突然腕をつかまれ、慣性の法則により前につんのめってしまった有栖は、この失礼な人物にきつい一瞥を与えて、抗議の声を発しようと口を開きかけた。
頭部をすっぽりと覆った白い毛糸の帽子に殆ど隠れるほどのショートヘアに今流行りの赤い淵の細いメガネ。その奥にはやや黒目がちの勝気そうな瞳が有栖を見詰めている。控えめに顔を飾る化粧は寧ろ元の造詣のよさを如実に浮かび上がらせ、その事に気付いたと同時に、有栖は言葉に詰った。年の頃は自分より少し下から二十代ぎりぎりといったところか。疲れた印象を与える肌は、しかし手入れが良くされてるのか皺一つ無い。誰に似ているわけではないが、ちょっとハスキーな声とあわせて、スカーレット・オハラを演じた頃のビビアン・リーのような印象を受ける。まずなによりも気丈さと美しさに目がいくタイプだ。
女は有栖ににらまれても全く動じなかった。それどころか、唇をちょっと尖らせて、
「……ったく、人を待たしておいて、さらに気付かないでいくなんて失礼通り越して最低よ」
「は?」
「でもいいわ、夕ご飯『ほとおり』で。当然奢りでしょ?」
「……はぁ?」
『ほとおり』といったら京都の料亭の中でも名店の中の名店、ランチでも梅で三万は下らないといわれている押しも押されぬ大名店ではないか。その証拠にそのような店に精通しているわけでもない有栖も聞いたことがある。
しかしだ、なんでこの女性に奢らないといけないのだ?
「ちょっと、あなた……」
「さ、行きましょ。麗しの都路へ!」
「い、行きましょ、ってそもそも……」
「ねぇ」謎の女性は有栖の耳元にそっと唇を寄せた。甘ったるい匂いが薄く鼻腔をつく。同時に二の腕に感じる柔らかい感触にまた言葉を失ったところに、想像以上にどすの聞いた声が鼓膜に届いた。「黙って言うことを聞いて」
「はい……、って、な、なんで」
「駅前まででいいのよ、付き合って」
女性はさらに体を寄せてきながらにこにこ笑いながら小声で話してくる。だからか有栖もついつい小声で返答した、
「そなこと言われても、待ち合わせがあるんです」
「ほんの五分だけ、あなたの時間を頂戴。あんな暢気に歩いてたんだから命に関わる用事じゃないでしょ」
「暢気、ってあなた。そ、それに人に見られたらどうするんです」
「私は構わないの。……あ、それとも待ち合わせって恋人かなんか? いいじゃない、焼餅焼かせなさいよ」
「さっきからなに勝手なこと言ってはるんですか……っ!」
確かに傍から見たら恋人同士がいちゃつきながら歩いているようにしか見えないんだろうな。と頭の片隅でぼんやりと考えてしまう。こんな場面を見られたら、もうどんな言い訳も通用しないだろう。
……見られる、って誰にだ。
深くため息をついた有栖を見て、女性はいよいよ観念したらしい、と判断したらしい。「大丈夫、言い訳には付き合ってあげるから」と上機嫌で告げてくる始末だ。
きっと京都は鬼門だったに違いない。こんなんだったら無理無理にでも仕事を進めていればよかった。
後悔先に立たず、という格言を噛み締めながら、有栖は女性と中央口へと降りるエスカレーターに乗り込む。ちらりと目をミスドへと走らせたが、ざっと見た限りでは朝井の姿は見当たらないようだ。なによりも彼女にこの状況を見られなさそうなことに有栖は安堵した。
「彼女さん、そこのお店で待ち合わせ?」
「……彼女やありません。先輩です」
「またまたぁ。そんな『見られたら困る』って顔してるくせに」
そんなにはっきり出ていただろうか。有栖はむっとして「だったら」と言いかけたところで、二人は一階へと降り立った。右手には市バスのターミナル、左手には改札。こんなことになるのならこっちから出てくればよかったのかもしれない。
駅の外へ出ると、女性はさりげなく体を離した。かすかながら伝わっていた体温がなくなったことも手伝って、有栖は一度大きく震えた。寒いなんてもんじゃない。
駅前の案内板の辺りまで引っ張られていったところで、彼女はまた唐突に立ち止まった。
「ねえ、言葉からして、こっちの方よね?」
「ええまあ、大阪ですけど」
「だったらもう一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」
有栖が女性の顔を見たその時。
「しっかし、アリスも隅に置けんなあ」
後ろから聞こえてきたのは、耳慣れたハスキーボイス。
……しまった。
恐る恐る後ろを振り返る有栖の横で、今度はさっきはじめて聞いたばかりのハスキーボイスが響く。
「ああ、あなたがこの人の恋人!」
「こいびと? 私が? 誰の?」
朝井が思わず声を失うのも気にせず、女性は今度は有栖に向かって、
「で、アリス、ってあなた?」
「……ええそうです、なんか悪いですか。それに先ほども言いました通り彼女は俺の恋人やありません」
むっとした感情を隠さずに訂正を入れると、瞬時に立ち直った朝井がアリスに問い掛けてきた。
「アリス、何なんこの女性。ひょっとして今の彼女?」
「それがですね、朝井さん……」
「違いますよ」
有栖がなにかいう前にあっさりと否定すると、彼女は左手をさり気なくあげて見せる。
今まで気付かなかった、薬指に控え目に光る指輪をいとおしそうに見詰めてから、女性はしおらしい声で朝井に告げた。
「それよりもすいません。彼氏お借りして」
「やから彼氏ちゃ……、あ」
朝井は女性の顔を見ると、何かを思い出した、と言わんばかりに、急に声を上げた。
「どうしました、朝井さん、ひょっとして、お知り合い?」
「お知り合い、っていうか……、なあ、アリス?」
逆に何かを問い返されたが、有栖にはその「なにか」をさっぱり推し量れない。なので、
「はい?」
とまた朝井に聞き返してみた。
「……いや、そうかそうか。へぇー。」
「な、なに感心してるんですか、朝井さん」
「いや、何っていうか。アリスらしいなあ、思って」
「何がです」
「色々とな」朝井は誰かを彷彿とさせる意地悪い顔で笑って見せると――文字通りチェシャ猫のように、だ――いままでのやり取りをにこにことして聞いていた女性に向き直った。
「改めまして、朝井小夜子です」
「朝井、小夜子さん……。ああ、ご本拝見させて貰ってます。はじめまして、久米田瑞穂です」
「読んでおられるとは光栄です、そしてこちらが」
手を華麗に差し出して「私の後輩に当たります、有栖川有栖」
「ああ、だからアリス、と……。改めてはじめまして、有栖川さん」
「あ、はい、はじめまして……」
突然なにかを納得したらしい女性陣から完全に取り残され、ついうっかり呆然としてしまった有栖に朝井がにこやかに一言、
「アリス、いったいどうしたんか知らんけど」
「どうしたもこうしたも」
「なんか、面白そうやんか、なぁ」
面白そう、ってあなた、と突っ込む気力は彼にはなかった。
有栖はついつい空を仰ぐ。
やっぱり今日は厄日に違いない。
南禅寺に行きたいんです。
久米田は有栖たちにそう告げた。
「あと……、石庭と出来れば銀閣寺に京都御所も」
「方向ばらばらやないですか」
「あ、そうなんですか?」
普段は車で移動してるから、そういう距離感とか全然ないんですよ、とのんびりと久米田は告げた。
最初に感じた尖がったような部分は、今の久米田には感じられない。どっちが素なのか、有栖には見当もつかない。秋の空以上に女性というのは捉えにくいものだ。
――お前の場合、ただ単に鈍感なんだろ。
最も思い出したくない人間の冷笑しているような台詞を思い出してしまい、思わず憮然としてしまった。ついでに想像の向こうにいる人物に向かって、うっさいわ、お前がそもそもややこしいリアクションを返すから悪いんやろが、と悪態をつくことも忘れない。
「……あの、そんなにヘンなこと、いいましたか?」
急に苦虫を噛み潰したような顔になって黙り込んだ有栖に向かい、久米田がそろそろと問うてくる。しかし違いますよ、と反応しようとした有栖よりも先に、
「いや全然ヘンちゃうよ。石庭なら竜安寺と思うんやけど、それなら御所も銀閣寺も今出川通一本やし。ただ、南禅寺がな、ちょっと外れとるんよ。でも、久米田さんの一番の目的地はそこやろ?」
「はい」
「そうやね……、今日はどっちにしても平日やから御所は見れんし、その前を通過するで妥協出来るなら、竜安寺から銀閣寺に行って、蹴上まで下るころにはいい時間になっとると思うんやけど、どう?」
「完璧です! さすが朝井さん、地元の人は違いますね」
「ふふん、伊達にあちこちからやってくる親戚担当などなどを案内し続けとるわけやないし。久米田はんも今日はま、大船に乗ったつもりで」
「朝井さん!」
「なんや」
完全に蚊帳の外に置かれた会話を傍から聞いていた有栖は、ちょいちょいと袖をひきながら朝井に小声で問いただした。
「今日、俺に用があって呼び出したん違います?」
「奢るんのは昼でも夜でも構わんしな。それに困っとるお嬢さん放りだすのも気分が悪いやんか。なによりも……、後輩の淡い恋心は是非観察したいしな」
「な、なに言うてるんです!」
「冗談やって。そんな顔赤くせんでもええやん。そもそも人妻に手ぇ出す甲斐性はないもんなあ」
「朝井さん、怒りますよ」
「ごめん、今のは確かに言い過ぎやね」あっさりと謝罪すると、朝井はでもと続けた。
「でもなんです?」
「いや、やったらそんな顔したらあかんよ。気を抜くと寂しそうになっとる。そういうときはなんかでパーっと心を晴らすのが一番。うだうだ悩んどるとろくなことにならんからな。そして」
わざと言葉を切って、有栖の目を覗き込む。
「なにあったか知らんけど、さっさと先生に謝り。そうやないとイイ男二人に囲まれて飲む、っつう今日の予定が台無しや」
「――っ! なんで火村が出てくるんですか!」
「そもそもここに来ること自体渋ってたんか。そうしたら答えは絞られるやろ。友達っていってもこじれたら大変やで? 早め早めが全ての処方、や」
そして有栖の反論を待たずに、
「久米田はん、パス買ったならあのA乗り場の205番ー」
と言いながらさっさと歩き出してしまう。一瞬踵を返して大阪に戻る、という選択肢も真剣に検討した有栖ではあるが、すぐにむすっとしたまま朝井達の後に続いた。多分こういう性格まで見抜かれているから、朝井には敵わないのだ。
「ほら、丁度バス来とるで」
向こうで無邪気に手を振る女性二人に、有栖はおざなりに手を振り返して歩き出した。
七条通を西に走り、西本願寺を右手に見ながら市バスは西大路へと走り続ける。他の季節よりは少ない観光客達を乗せた車内は、それでも日常通りにそこそこに込んでいた。三人は一番奥に並んで座っているが、話しているのは朝井と久米田ばかりで、有栖はぼおっと窓の外を見ているばかりだ。
「あの……、やっぱり」
「気にせんでええよ。久米田はんもわかっとると思うけどちょっと鈍い部分もあるから、今は他の考え事で一杯なんやろ」
勝手なことを言われている。が、朝井の読み通り他の考え事で一杯なので今は咎める気にもならない。
ちらりと横目で見る久米田は年相応にしっかりとしているようで、最初の出会いの突拍子のなさまで含めて――朝井が暗に茶化したように有栖の好みだ。今、改めてそう思う。
しかし、最初から今に至るまでどこかのぼせるような感覚を有栖は覚えなかった。今は彼女が既婚だから無意識にブレーキが掛かっているのだろうし、出会ったばかりの頃は何よりも混乱していたから、そんなことを思う余裕がなかったのだろう。
「……言い訳、かな」
「どうしました?」
「いや、独り言です」
不思議そうに自分を見ている久米田に苦笑いで答えて、有栖は改めて今度は北へと向かっているバスの外を見る。
火村と喧嘩したんだろう、という朝井の指摘は半分合っていて半分は見当違いと言えた。傍から見れば仲たがいに見えるのだろうがその実は複雑だ。
ただの喧嘩だったらよかった。そうしたら自分もこんなごちゃごちゃとした気持ちにならなかったのに。
喧嘩なら答えも見出せるだろうに。
「……有栖川さんも悩んでるんですか?」
久米田がそっと聞いてくる。有栖はそれを否定せずに、
「も、ということは久米田さんも」
「そうですよ、そうでなきゃ一人旅なんてしようと思いません。ただ、ホテル出る時にちょっとややこしい人に会いまして……。目の前にいた有栖川さんを巻き込んでしまいました。ごめんなさいね」
改めて頭を下げられて、有栖は「いやいや」と返した。いかにもこの人と待ち合わせしてましたー、なんて芝居を打つような状況とはどんなものなのか興味はあるが、あえて首を突っ込まない方がいいだろう。
「有栖川さんは、先ほど朝井さんが言われていたようにお友達とのことで?」
「……この路線に乗るのは二回目なんです。最初は学生のときで、東京から出てきた友人を案内して、そんときは下ったんですけどね」
あえて違うことを答えた。が、久米田は大体を汲んでくれたらしい。
「この年になると、年月にも甘えてしまって、身動きが取れなくなったりもするんですよね」
もう若くはないってことですよねー、と、しみじみという。
「そうなんですわ」
「さっき朝井さんともそんな話をしてたんです」
「朝井さんと?」
「そや」
朝井は鮮やかに笑って続けた。
「後悔先に立たずって本当、ってね」
「朝井さん」
彼女がそういうことには重みがある。なんと返すのがいいのか有栖が考えたその時にバスのアナウンスが金閣寺道についたことを告げた。竜安寺に向かうにはここで12番か59番のバスに乗り換えることになる。
「せっかくやから金閣寺も見てきます? かなり急ぎ足になっちゃうけど」
「見てきます!」
「じゃ、決定ー。降りるで、有栖」
「あ、はい」
後輩という人種の常ですぐに返事をする有栖に久米田はくすくすと笑った。
本当に文字通り燦々と輝く金閣寺から、幸いにもすぐに来た12番バスに乗って竜安寺へと向かう。
この石庭を見るのは(関西に長年住んでいるからこそ)二回目で、前来たときは庭の正面、垣根の向こうにある桜が恐ろしいほどに咲き誇る春だった。「こいつはすげえな、東京とは確かに違う」と呟く火村の声に満足して、さらに出たところにある庭の桜はもっとすごいらしいと、重要文化財の数々を大して鑑賞することもなく二人で先を急いだことをふと思い出す。今よりも幾分若い声で控えめながらも感嘆を漏らす彼を見ると、京都育ちで趣味が仏閣巡りという友人から桜の名所を聞き出した甲斐があったと、胸の中でしみじみと思ったものだ。
あれから十年以上経ち、今はどういう因果か女性二人と枯山水を眺めている。まだ二十代になったばかりのころは趣きなど全然判らなかったものだが、今はこの静寂のなかに秘められたものの末端の末端に、ちょっとだけ、触れられるような気がした。あの時紅に染まっていた桜は、今は黒い枝を寒々しく見せているだけだ。
急ぎ足でそこそこに境内を見て回り、鏡容池と言われる大きな池を簡単に眺めてからまたバス停へと戻る。道が込んでいなければ銀閣寺まではそれほど掛からないという。
寺を見ている間、本日の主賓である久米田はいちいち感動した様子でわーとかへーとかを連発しながら歩いている。どうやらツンとした雰囲気はよそ行きで、こちらこそが地であるらしい。なんにしても案内しているほうにすれば、こう反応があると嬉しいものだ。
「だいぶ明るくなってきたな、彼女」
59番のバスを待ちながら、朝井はそっと有栖に告げた。
「みたいですね。やっぱ気晴らしは必要ってことですかね」
「そ、逃げるっていうのも世の中には必要なプロセスやからね。逃げっぱなしはもちろんあかんけど。……アリスはまだなんか憑かれとるなあ」
「つかれてる、ってなんです」
「思うんやけど、考えすぎちゃう?」
「なにがです」
「いやなあ、庭見てるとき、なんか柔和な顔になったなあ、と思ったら急に険しくなったりして、百面相も傍から見てたら面白いけどな、年長の経験から言えば、思い出に甘く浸れるときは大抵答えは出とるものやで。過去を振り返れるっていうのはある程度冷静になれた証拠でもあるからなあ。なのに、その本人は悩みっぱなしや」
「つまり?」
「今日は質問が多いな。だから、出した結論に自分だけ納得しとらん、ってことやないかな、って。どう?」
「……どうなんでしょうんね」
有栖はどこか疲れたように応じた。
「しかも投げ遣りやなあ」
朝井の言葉に曖昧に笑ったところで、久米田が「バスが来ましたよー」と告げた。彼女の方はとりあえず心の安定を取り戻したらしい。それは結構なことだ。
三人を乗せたバスは来た道を戻り始めた。途中で今出川通に入りそのまま東へと進み、銀閣寺方面へは烏丸今出川から川原町今出川の間で乗り換えとなる。その時乗る系統は今でも暗証出来る。学生時代、歩いて友人の家へ行くのが面倒なとき、そのバスに乗って北白川まで向かったからだ。
本当に京都という街は、全て学生時代と火村の思い出に繋がるところだ。行く先々でなんらかの思い出の欠片を拾ってしまう。それば自分が営業マンとしてあちこと飛び回りながらも作った時間で、二人揃って飲みに行った場所だったり、助教授のフィールドワークに助手として同行した場所だったり、学生時代自転車の後ろに乗って向かった先だったりと様々だが、いずれの場所も――苦い辛いといった感情はあっても、思い出したくもない、なんてことはなかった。
いつからそこまで深く入り込んでいたのだろうか。
「京都はあの人の思い出しかないんです。あと仕事の」
「へぇ、旦那さんとはここで知り合ったんですか」
二人の会話に思わず驚いてしまう。一瞬自分の考えが伝播したのかと思ってしまった。
「ええ。大切な街なんです。だから……」
久米田はそう言って静かにはにかんだ。
有栖は、彼女が何故この街に来たのか、なんとなく判った気がした。自分と同じような小路に入り込み、しかし彼女は逆の行動に出た。
その思考回路が羨ましくもあり、一方滑稽に見えなくもなかった。
外の風景はいつしか西陣の終りに差し掛かっている。正面に見えてくるであろう赤煉瓦と築地の建物は、今最も避けたい場所の一つだ。だが有栖一人の感傷に世界が付き合ってくれるはずもなく、程なくして有栖たちはバス停に降り立った。
「さて、目の前に見えるのがご希望だった京都御所。春に一般公開するときは桜も綺麗だからそんとき来るとええよ。そして後ろが、こちらにいる有栖川先生の母校、英都やね。建物は重要文化財」
「へぇー、さすが昔天皇さんが住んでただけあって、大きそうですね、御所」
久米田が目の前の建物に目を丸くしてるのを横目に、有栖は朝井を思わず睨んだ。この英都前のバス停に降りたのは彼女が仕組んだことだからだ。
「ええやん、別に。っていうかそこまで避けるのってはっきりいって異常やで?」
「……異常で結構です。今はほんま、会えないんですよ」
「そんなに深刻なんか」
「というか知らない女性連れたらなに言われるか判らないし、それに……あ、ほら、入試ですよ、今日。関係者以外の立ち入りを禁ず、ってありますね。すると火村先生は試験監督と採点で暫く大忙しやなあ」
途中から口調が明るくなったことは自分でも自覚している。でも今日は確実に彼に会わなくて済むし、多分学校からも出ていないに違いない。
「その火村先生っていうのが、有栖川さんの悩みの種なんですか」
バスが来ないかと背伸びしながら車線を見ていた久米田が聞いてくる。
「そう、この人の親友やね。いまはなんか知らんけどややこしくなっとる見たいだけど。……なあアリス」
朝井は優しく告げた。
「逃げてばかりっていうのは、あんたらしくないな。なにから逃げてるんの」
「……バス、来ましたよ。この時間だと銀閣寺もゆっくり見れませんね」
途中から久米田に話し掛ける有栖に、朝井は小さくため息をついた。
――すいません、朝井さん。こればっかりは朝井さんにもいえないんですわ。
有栖は心の中で詫びながら、久米田をさりげなくエスコートする。
やっぱり胸はときめかなかった。
恋愛中毒だと思ったことはないが、やはり妙齢で美しい女性に心を動かされないというのは問題じゃないか。
そう言い切った有栖に、火村は一瞬絶句して、その後なにか寂しそうに微笑んだ。
ニュースではどこどこの大型ツリーがなんだといったことをのんびりと流している。年末の忙しい時期だが特に事件といった事件は起こっていないようで、ローカル局が伝えるのは暖かい風景ばかりだ。
「……大体、なんで君にそんなこといわれなあかんのか、理解できんわ」
「なら、なんでそんな必死になって抗弁してるのか、是非教えて欲しいね」
「誰が必死や!」
『……今年の傾向はアットホームでハンドメイド。この料理教室では、ローストチキン講座が大盛況ですー』
女性アナウンサーが明るくレポートするその声が、場違いな程にリビングに響く。しかし、テレビを消す気にはなれなかった。すぐ訪れるであろう沈黙の重さに耐えられないことは、容易に想像出来た。
テーブルの上には口紅がついた安物のシャンパングラス。キャメルと果物に似たパヒュームの香りが混ざった部屋の空気は、それでなくても重い。
そもそも関係もなにもない。気が付いたら手近な存在に互いに手を伸ばしていて、ずるずると友情の枠からはみ出していった。
それだけのはずだ、恐らく。なのに、
「……わかった。邪魔したよ」
と玄関に向かった彼を引きとめたのは、一体なんだったのか。
「ま、待て火村。帰るんか、このまま」
「お前ねえ、一体どうして欲しいのか言ってくれよ。……あれか、俺は全然気にしてないから、と許しを与えろとでも言うのか?」
「実際そうやんか」
思わず零れてしまった言葉は、小声だったにも関わらず火村に届いたらしい。彼が強張ったことはなんとなく感じられたが、しかしもう取り返しはつかないだろう。
「火村、だって君、一人でも大丈夫なんやろ。俺がおらんでも平気やん。なのにそんな顔をするのはずるい」
「本気でそう思ってるのか……」
「言い換えるか。君が必要なのは、俺やない。――俺かて同じやし」
「アリス」
その声色に潜むものに気付いて、有栖は思わず身を引いた。
「火村、やめ」
「いいや、やめないね。――アリス、俺は」
「やめって言うとるやろ!」
「――リス、アリス降りるで」
朝井に声をかけられ、有栖は「あ、すいません、ぼーっとしてて」と慌てて立ち上がる。
二月に入り日は大分長くなったとはいえ、四時前はもう夕方だ。
結局銀閣寺はパスして大人しく乗り換え、あとは彼女の最終目的地である南禅寺に向かうだけである。南禅時といえば枯山水と三門、そして水道橋がある。
「やっぱりここにはお仕事で来られたんですか?」
「ええ。旦那に会ったのもここなんです」
「へえ。それは思い出の地ってやつやな」
巨大な門に向かって歩いていけば、向こう側に法堂が見えてくる。その上の空は薄く雲が広がり、一日の終りを静かに告げるように薄い赤に染まりつつあった。
「疏水の方に行っていいですか」
久米田の提案で、三人そろってふらふらと方向を変える。
「……私って気丈で強い女だ、って見られるんですよ」
ぽつり、と久米田が言った。
「いつも最後は『大丈夫、君は強いから。でも彼女には俺が必要なんだ』って言われるんです。何が大丈夫なのか知らないけど」
有栖自身も、最初は久米田のことをそれくらい強そうな女性だと思っていたから、思わず苦笑してしまう。
「それ判るわ。一人でも平気だから、って振る理由にはならんのに、男はよく口にするんよね」
朝井の口調には実感が篭もっている。彼女もまた同じことを何度も言われてきたのだろか。
「ありがとうございます。……でも、一人でも平気な人なんて、本当はいないでしょ。大丈夫だから、っていって置いていかれる方の身になって欲しいんですよ」
「はは、俺は言う立場の人間やから、耳が痛いですわ」
「有栖川さんは、あんまりそういうこと言わないタイプに見えますけど。やっぱり相手は庇護したいって思うもんなんですか」
「そう、ですね」
つい語尾が鈍ってしまう。久米田はそれをどう解釈したのか、少し微笑んだ。
「旦那とはそんなときに出会ったんです。丁度この辺」
煉瓦つくりの水道橋の前で、久米田は立ち止まった。
「ははん。すると旦那さんは君は一人やない、って言うてくれた人なんか」
「当たりです。あの人は優しくて。――気が付いたら全てが当たり前になってて、突然怖くなったんです。際限なく許してくれるから、この人との関係はなんなんだろう、って」
「で、彼との思い出探しの結果、答えは出た?」
「はい、朝井さん、それに有栖川さんも――」
その台詞は途中でかき消された。突然がさりと音がしたと思ったら、向こうから「川下さん!」という声と共に人が突進してきたからだ。
「え?」
「危ない!」
「アリス!」
次の瞬間、有栖は天と地がひっくり返っていた。タックルされたんだ、と自覚すると同時に突然全身がずきずきと痛み出す。
「あんた、一体何者なんだ!」
「何者って……」
「やめて下さい山元さん! その方は推理作家の有栖川有栖先生でこちらが『凍える街』の朝井先生! 二人とも私を案内してくれただけです!」
「案内って、……って『凍える街』の朝井先生!? え、この人はそれじゃマスコミとかじゃないの? 間男でも?」
「当たり前です!」
「ま、まおとこって……」
辛うじて出せる範囲で、圧し掛かっている男に抗議の声を上げようとしたその時。
「あーあ、山元さん駄目ですよ、一般人にそんなことしちゃ」
「あなた!」
「あなた?」
声のした方を振り向けば、やや小太りしためがねの男性がにこやかにこちらを見ていた。
「えっと有栖川さん、でしたっけ。妻がご迷惑をかけたようで……。山元さんどいて差し上げないと」
「あ、そ、そうですね。す、すいません。大丈夫ですか?」
慌てて自分を押し倒した男に今度は労わられる。
「……ええ、辛うじて」
けほけほと軽く咳をしながら、有栖は周りを見渡した。朝井、久米田の旦那、自分を押し倒した山元に、川下と呼ばれた久米田――。
久米田瑞穂は、かわしたみずほ。かわした、かわした……。
「――、って、女優の川下みずほ?!」
「アリス、ほんまにいま気が付いたんか? ……ほんま、アリスらしいわ」
朝井が一言、心底呆れたように呟いた。
久米田孝一、職業はサラリーマン。
名刺を差し出しながら、瑞穂の旦那である男は丁寧にお辞儀をした。自身も五年間営業マンをしていたから、有栖もつい営業マンらしい仕草でお辞儀をし返してしまう。
「山元さんから電話がありましてね。急にオフになった、って判った途端、彼女が飛び出したっていうから」
「お仕事は大丈夫なんですか?」
「ええ、幸いにも上司が理解ある方で、土曜出勤の代わりに半休をいただけました。それに」
「それに?」
有栖は隣にいる男を見る。視線の先には山元にくどくどと説教を垂れられている瑞穂と、横に携帯でなにやら話している朝井がいる。厄日としか言い様もない一日は終わろうとしていた。
「……僕はですね、有栖川さん。彼女の旦那であることがときどき信じられません。世間だって認めてくれないでしょう。あの川下みずほの旦那がこんないけてない男なんてねえ」
「そんなことないですよ」
「いえ、面と向かってはそういっても、心の中は違うもんです。あ、有栖川さんがそうといっているわけではありませんよ、ただ世間というのはそういうものだということです。世間では認められない関係だと思ってます」
「――」
有栖はつい、久米田の顔を見た。
「でもね、有栖川さん。でも僕が彼女に惚れたのは事実だし、今でも愛してます。どんな関係だろうがそのことを忘れなければ大丈夫だと思うんです。時々、どちらかが忘れちゃうんですけどね」
――私と横田くんがあんな風に言われても、この人ったら「違うって判ってるし、本当でも構わないんだ、君が僕を好きなら」で済ますんです。そうしたら本当にこの人私のこと好きなのかな、私はこの人のこと好きなのかな、って思って。
先ほど瑞穂が漏らした一言が、不意に蘇った。いつも曖昧に誤魔化してから迷ったみたいです、と瑞穂は申し訳なさそうに告げた。降って湧いたオフを幸いとばかりに二人の関係を見詰めなおすべく京都を見て回りたい、と山元に言ったところ却下されて(当たり前だ。彼女はスキャンダルの渦中にいるのだから)、つい口から「もう友人に案内を頼んであります」といったところに歩いてきたのが有栖だったらしい。
そしてこんなことに巻き込まれた。
「好きって言う前に一緒にいたいね、っていったら、そのままプロポーズになっちゃったから、どこか宙ぶらりんのままなんでしょうねえ」
のんびりと告げる久米田に、有栖もつられてのんびりと笑ってしまう。
その時、向こうから「アリス」と自分を呼ぶ声がした。
「どうやら、そちらのスケジュールは決まったようですね」
久米田はすっと有栖に手を差し出した。「すいません、へんな夫婦喧嘩に巻き込んでしまって。……でも妻が会ったのがあなたと朝井さんでよかった。ありがとうございます」
「……いえ、こちらこそ。それに」
「それに?」
「似合うとる、そう思いますよ。お二人ともヘンに不器用なところが特に」
「……ありがとうございます」
心底照れたように笑う久米田を有栖は温かい気持ちで見た。本当によい旦那さんだと思う。川下瑞穂は見る目があったということだ。
寺の外には朝井達が待っていた。
「アリス、山元さん達がさっきのお詫びも込めて、駅まで送ってくださるって」
「ほんまですか?」
「ええ、先ほどは本当に……」
もう何度目か判らないほど謝ってくる痩せた彼に、有栖は「本当にいいですって」と伝えた。
「じゃあ、車を……。久米田さん、車、どこに置きましたっけ?」
「ああ、じゃあ僕も行きますよ。……奥さん、来ますか」
「ええ。じゃあ、お二人とも待ってて下さいね」
そうして三人が一旦去っていくのを有栖と朝井は見送った。日は山の向こうに消えて夜が近づきつつある。
「……で、アリスの問題は解決した?」
「まだ、半分ってところです。でも、見失ってたことは見えました」
「そか」
「ねえ、朝井さん」
「なんや」
「よく考えたら、好きな人がいるのに、他の人に心が揺れないなんてこと当たり前ですよね」
「……アリス、あんたの悩みって火村先生がらみやなくて、そんな単純なことやったんか?」
「いや、もっと単純なことです」
「単純?」
ついオウム返しした朝井に有栖は明るく笑って言った。
「そもそもはじめてもいませんでした」
「そりゃ、単純やな」
朝井は呆れたとばかりに肩をすくめる。が、
「丁度ええやん。チョコでも用意して。女の子から、っていうのは日本だけの風習らしいから、欧米に習ってプレゼントでも贈るとか。気持ちを贈るのにはもってこいの時期やな。で」
「で?」
「それとは別に、火村さんともはよう仲直りせなあかんよ? そうしたら土産のクグロフ渡せんしな」
「そうですね、善処しておきます、っていうか土産のクグロフってなんです?」
「まあ見たらわかるから」
頼むで、と朝井は肩を叩きながらいった。
年が明けてから今日までずっと機嫌が悪いと噂され、ゼミ生と院生、事務員の足も遠のいた研究室を、煙草の煙で埋め尽くしながらイライラと書類を作成していた火村は、ノックの返事も待たず急にドアを開けて入ってきた有栖に驚き、無言で机の上に投げ出された板チョコ気付いて訝しげに目を細め、カレンダーでつい日にちを確認するに至ってついに言葉を失った。
「遅うなったけど、この前の返事しにきた。……俺も好きやで?」
そう告げられた途端、余りのことに瞠目した火村を心底いとおしく思って、有栖は心から笑った。