新婚さんちへいらっしゃい
同期の源髭切は不思議なやつだった。だった、と過去形なのは俺が最近になってやっと、こいつのことがわかり始めたからである。
「ねえ、ちょっとこの書類の処理手伝ってくれないかな。今日早く帰りたくって」
「なんだよ、嫁さん怒らせたのか?」
隣のデスクに座った源がクリップで止められた書類の束をぱたぱたとさせながら言うのに、俺はからかってそう言った。源は苦笑して首を捻る。
「うーん、怒ってはないと思う、思うんだけど、僕が思うだけだから」
「何したんだよ」
「何もしてないつもりなんだけどねえ」
ふふふとそれでも楽しそうに笑う源の左手の薬指には、きらきらの指輪がはまっている。一応言うが、こいつは俺の同期であり、もっと言えば新卒の平社員であり、癪なことにずば抜けて顔の整った男だ。ただし、前述したとおり既婚者の。
何がどうしてどうなって、源がこんな若いうちから結婚したのか俺は知らない。一度だけ顔を合わせたことのある源の奥さんは、いたって普通の同年代の女の子に見えた。実は源は熟女趣味で年上の女と結婚したんじゃ、なんて少し予想していた俺はますますわからなくなった。
それに源ときたらガードが固くて何を考えているのかもわからない上に、自分の話は全くしない。おかげさまでついこの間まで源の生活やら何やらは謎に包まれまくっていた。
でも、最近は。
「最近飲み会も多いし、残業もかさんじゃってるからねえ。今日は定時で帰ろうかなって」
やや疲れた調子で、源は首元に指を入れてシャツを緩める。男の俺でも腹立たしいくらい絵になる仕草だ。
「まあ繁忙期ともなると仕方ないよな。今からやれば終わるだろ」
「よろしく頼むよ、ごめんね」
「源は嫁さんに怒られるのが何より嫌なんだもんな」
俺がふざけて言ったことにも、源は「うん」と肩を竦めて素直に頷く。
「おかえりって言ってもらえないのが、一番堪えるんだよねえ」
相も変わらず謎の多いやつだが、案外普通の、好きな子に嫌われると落ち込む男らしいと気づいたのは最近のことだ。
「ありゃあ、やっぱりだめだ。ご機嫌斜めかあ」
ううーんと言いながら、源がスマホを眺める。普段、源は滅多に自分の私物を表に出さない。スマホは常にスラックスのポケットに収まっている。
それが今日はデスクの上に出っぱなしだ。そういうときの源は十中八九、奥さんからの連絡待ちをしている。昼休みになってお弁当を開ける前に、源はスマホの画面を見た。
「昼前もなんか送ってなかったか」
「晩御飯なあにって送ったんだけど。見てもいないみたい。今日何かあったかな」
「嫁さん、専業? なわけないか」
俺だって同じ新卒の平社員だ、源の給料くらいは見当がつく。とてもじゃないが、奥さんを養いきるほどじゃない。まあ、もしかしたら既婚者の源は別な手当なりなんなりついているのかもしれないが。そうはいったって大差ないだろう。基本給は同じなんだし。
「家にいていいよとは言ってるけど、落ち着かないみたいでちょっとね。でも今日は出てないはずなんだけどなあ」
ぽちぽちと源は何か打ちかけて、やめる。まあ、しつこく連絡するのも向こうからしてみれば鬱陶しいかもしれない。いくら美形でも許されないこともある。
「やっぱり今日は早く帰ることにするよ」
スマホを伏せてデスクに戻し、髭切はかぱりとお弁当箱を開けた。機嫌が悪そうだとかなんとか言いながら、お弁当はちゃんとしている。奥さんの不機嫌は源の気のせいじゃないのかと俺は思った。連絡がつかないのは何かの手違いとかで。
自分はコンビニのおにぎりのビニルを向きながら、なんとなく笑ってしまった。二枚目も形無しだな。
「そうしろよ」
しかしいただきますと手を合わせた源は箸を持ち、それから「あ」と唐突に言う。
「……あ、そうだ、君今日うちに来ない?」
「は?」
ぼろっとおにぎりを落としかける。急に何を言い出すんだ。
「ね、ほら。前においでよって言ってから来れていなかったし」
名案と言わんばかりに源が晴れやかな顔でこちらを見る。
「いや、いやいやいや。急じゃ奥さんも困るだろ」
「大丈夫だよ、弟が就職決まって出て行って今は僕と奥さん二人だし、今連絡しておくから」
さっき伏せたばかりのスマホを取り上げる。いや、仮に機嫌が悪くなかったとしてもこれがとどめになるんじゃないのか。俺は青ざめた。俺は既婚者ではないが、かつて自分の母親が急な父親の上司やら同僚やらの来訪でどれだけ悪態をついていたか見ている。
「やめ、やめとけって、な? 悪いこと言わないから」
「弟がいないと誰もとりなしてくれないんだよ、ね、今弟に聞いてみたけど奥さんが不機嫌なのに心当たりないって言うし」
「聞いたのかよ」
それでいいのかよ、社内の一番の美形が。いやまあ、既婚者だが。
ぱくぱくお弁当を食べながら、源はごちそうさまと手を合わせてささっと片付け始める。スマホをぱぱぱと弄っていいとも悪いとも言う前に、源は奥さんに連絡をつけたようだった。
「晩御飯僕が作るって奥さんに言うよ。それならあの子も楽だし」
「しかも源が作るのかよ……」
ややげんなりしながら返事をしたが、源は既にお弁当箱を洗いに席を立った後だった。
「君は何食べたい?」
「いや……惣菜とかでいいぞ別に」
「じゃあおむらいすにしよう、奥さんが好きだし」
メニューを俺に聞いた意味はあるのか。髭切は冷蔵庫の中身を思い出しているらしく、「うーん」とぼやきながら食材を籠に入れる。最寄り駅の傍にスーパーがあるからと、源は帰宅する前にそこに寄った。売り場なんかをさくさく進むところを見ると普段からよく来るのだろう。
「嫁さんと来るの? 普段」
なんとなく聞けば、卵のパックをそっと籠に置きながら源は振り返った。
「まあ、平日は奥さんが日中とか夕方に買い物してくれるけどね。土日は一緒に来るよ。お米とかお水とか、重たいし」
「それもそうか」
「あ、やらかしてしまったね。ポイントカードだっけ、奥さんが持ってるなあ。あと一個判子集めたらお皿もらえるとか言ってた気がするんだけど」
独り身かつ一人暮らしにはなんとも羨ましい話だ。こっちは最近疲労と孤独に耐えかねて魚でも飼おうかと思っているくらいなのに。
ひとしきり買出しを終えると、源は肩から斜めに提げた通勤鞄からエコバックまで取り出した。てきぱき籠からそれへ物を移し終えると、籠を片付ける。家まで歩いて少しだよなんて源は言った。
「嫁さん、学生のときの同級生とか?」
家にまで連れて行かれるのだから、多少聞いたっていいだろう。そう思って俺は源に尋ねる。普段の源はそんなこと一つも教えてくれなさそうだが、今日くらいは許してくれるはず。
なにかの雑誌の付録かなんだかしらないが、安っぽいエコバックを提げた源は、少し考えた後「ううん」と首を振った。
「高校のときの同級生」
「は? そんな付き合い長いの」
「あはは、付き合いってほど付き合ってはいないよ。ちゃんと僕の相手してくれるようになったのは大学に入って暫くしてからかなあ。それまでは僕が一方的に後をついて回ってただけで」
「ついて回ってた?」
あははと源は笑ったが、それはそれで怖いぞ。なんでもない当たり障りのないことを聞いたつもりだったのに、思いも寄らない薮蛇を突いた俺は頬を引き攣らせた。いや、もののたとえだろう、きっと。
卵の位置を確認しながら、源はよいしょとエコバックを提げなおす。酒はいるかと聞かれたがそれは断った。だから卵を割ってしまいそうなものは一緒に入っていないのだけれど、念のためだろう。
「二年生のとき席が隣だった女の子なんだ」
「それだけ?」
「それだけだよ。僕が居眠りばっかりするものだから、隣の自分は苦手な数学で代わりに当てられて困る。せめて数学の時間だけは起きていてってお願いされてね。じゃあ君が起こしてくれるかいって言ったら怒られて」
「そりゃそうだろ」
とんでもない馴れ初めじゃないか。だが源のほうはふわふわした髪を歩くペースと一緒に揺らしながら、珍しく楽しげに話していた。
「何度『僕の彼女になってくれる?』ってお願いしても断られてねえ。『髭切君は面倒くさいので嫌』って言われて」
「いやまあ、これだけ聞いたら俺もそう思うよ」
「あはは、受験のとき追いかけて同じ大学受けたら呆れてたなあ。もっといいところ行けたでしょうって」
「なんでそこまでしたんだよ。いっそ怖いわ」
ストーカーじみていても美形なら許されるのか。そんなはずないだろう。呆れ果てて俺が言えば、源はこちらを見てやや小首を傾げ瞳を細めて笑った。定時丁度に上がれたおかげで、まだ空には夕日が残っている。源の明るい髪の色はそれによく反射した。
「……きらきらしているものをね、探してたんだ」
きらきら。突然出てきた随分可愛らしい響きの言葉に、俺も首を傾げる。
「……なんだよそれ」
尋ねると、源は肩を竦めた。
「弟がね、そう言ったんだよ。遅刻ばっかりでよくないって注意されたから、つまらないから学校に行く気がしないって僕が言ったんだ。そうしたら、弟がそういうものがきっと僕にもあるって」
「高校つまらなかったのか?」
「まあ、割と器用なほうでね。大抵のことは一度教わるか本を読むかすればわかってしまって。だから学校は退屈だったんだ。弟も行っているから行こうかなってくらいで」
確かに、同期の中でも源は優秀なほうだった。大抵のことは最低限の説明でできるようになる、人当たりもいい。凡庸な俺に比べれば、先輩にも上司にも可愛がられて出世するだろうなあという気は今からしていた。それゆえに仕事が集中しているとも言うが。
「弟はとても真面目でね、僕に嘘なんか吐いたことはないから。きっと弟の言うとおりそういうものがあるんだろうなって思っていたよ。そうしたらそれが、僕には女の子の形をしていたってだけで。僕にとっては、それだけなんだ」
それだけ、と源は繰り返す。
よくわからないような、わかったような。だがとにかく惚気られたことはわかる、ちくしょうめ。これでは仕事が出来て顔もいい男という源の特徴に、更に「高校のときからの好きな子を射止めた」なんて幸せすぎるエピソードが追加されただけだ。そういえば奥さんにお土産でも買えばよかったと思いながら、俺は源について歩いた。
まあ、それだけ源が入れ込んでいるのは理解した。にしても奥さんは何で源と結婚したのだろう。おそらく、「髭切君は面倒くさい」という指摘は非常に正しい。俺もここまでだとは思わなかった。源みたいな美形には女なんて死ぬほど寄ってくるだろうし、その上でやたらと奥さんに構いたがるのは知っていたが。
「で、未だに面倒くさがられて機嫌損ねるとおかえりも言ってもらえないのか?」
惚気を聞いたんだから多少からかったって問題あるまい。そう思って俺は揶揄したのだが、源は「ううん」と首を振った。
「言ってくれるよ。おかえりもおはようもおやすみも、欠かしたことなんて一度もない。怒っててもちゃんと毎日言ってくれるよ」
「おい、今朝そう言ってもらえないのが一番堪えるって言ってたろ」
夫婦仲にまで文句のつけようがないのか。なんなんだ。
俺が一人暮らしをする部屋よりはやや綺麗なマンション前まで来ると、源はポケットからキーケースを取り出した。オートロックか、防犯しっかりしてるな。インターホンのパネルにある鍵穴に鍵を差して回し、エントランスを解錠する。
「うん、それが一番堪えるねえ」
「でも嫁さんしないんだろ、そんなこと」
「しないよ。僕がそれ一番嫌がるってわかってるから」
エレベーターに乗って、ぽちっと源がボタンを押した。上のほうの階なのがちょっと癪だな。
「じゃあいいじゃん。なんでそんな慌てて機嫌取ろうとするんだよ」
エレベーターが到着して、俺と源は小奇麗な廊下を歩いた。コツコツと先を行く源の革靴が響く。
「怖いからだよ」
「え?」
ふわりと夜風に源の髪が揺れる。部屋は突き当たりだった。
「そんなこと絶対しないってわかってるから、家に帰ればおかえりって言ってくれるのがわかっているから、ある日突然それがなくなってしまうのが、怖いからだよ」
問い返す前に、ピンポーンと源がインターホンを押した。がちゃがちゃとチェーンと鍵が外される音がする。
「おかえりなさい」
源の後ろにいる俺は、あいつがどんな顔をしているのか見えない。ついでに言うと、高身長の源で奥さんも見えない。
「ただいま」
ただ、嬉しそうな、安堵したような声だけが聞こえる。
紹介が異様なまでにふわっとしていた。
「こっちが、同僚の、えーっと」
「同期なんだし隣のデスク座ってるんだからいい加減名前くらい覚えろよ!」
「えっと、初めまして」
「あっ、初めまして」
俺の叫びなど一切気にしない源は、よいしょとシンクにエコバックを下ろした。冷蔵庫にあらかたのものをパタパタとしまう。部屋は綺麗だった。さほど広いわけではないが、まあ新婚の家庭らしいというか何というか。空気がふわふわしている。俺の一人暮らしのさもしい部屋とは違う。途中あった一室がたぶん寝室だろう。
「夕飯、本当に髭切君が作るの? 私準備しなかったけど」
「うん、大丈夫大丈夫。君は同僚君と話してて。僕の奥さんなんだから浮気しちゃ駄目だよ。ちょっと着替えてくるね」
ネクタイを緩めた源は、じゃあなんて手を振ってリビングを出て行く。俺の前でいちゃつくんじゃない。
「いきなり誘って迷惑じゃなかったですか。髭切君いつも突拍子がないから」
「あっ、いや、大丈夫です。こちらこそすいません。いきなり夕飯一人増えたら面倒ですよね」
いや、源が作るんだったか。奥さんは俺のジャケットを回収するとハンガーに吊ってくれた。というか「髭切君」なんだなあとぼんやり思う。高校のときの同級生だと思えばそれも自然か。
見れば見るほど、奥さんは普通の人に見えた。源がずば抜けて顔がいいからかもしれないけれど、それにしたって派手な風ではない普通の子だ。ちょっと楽しげに奥さんは笑って俺に言う。
「髭切君が友達連れてくるなんて初めてです。まあこれまでは膝丸君が家にいたからかもしれないですけど……」
「膝丸?」
「あ、髭切君の一つ下の弟で。この間までうちにいて」
ああ、噂の弟か。ちょっと見てみたかった。源同じで欠点が一つも見当たらない男がこの世にもう一人いるなんて信じたくもないが。
ラフな服に着替えてきた源は、非常に手早くオムライスを作り始めた。日頃から器用な様は見てきているし、どうせ料理もできるんだろうと思っていたが本当にだめなところが一つもないな。
「ありゃ、ねえ君、こんなのあったっけ」
キッチンから源が言う。俺に茶を出してくれようとしていた奥さんは振り返った。俺もつられてそちらを見れば、源は何やら調味料の瓶を振っている。
「ああ、それ膝丸君が置いていったの。余ったから義姉さんが使ってくれって。ちょっと高いやつ」
「そう。凝り性だからねえ、弟。同僚君好みはー?」
「え、基本なんでも食べるよ」
「じゃあ好きに作るね」
なんというか、不思議だった。源がスーツではないし、目の前には奥さんが座っているし。手持ち無沙汰に出してもらったグラスのお茶に手を伸ばすと、奥さんが申し訳なさげにいう。
「ごめんなさい。今日ちょっとスマホを持たないで買い物に出かけちゃって、そうしたら髭切君何か勘違いしたみたいで」
ほら見ろ、たまたま見られなかっただけじゃないか。俺は慌てて首を振った。
「あ、いえ全然。いつも残業ばっかりなんで、丁度よかったんじゃないですかね」
「毎日大変ですよね、一年目は。私は気楽に働かせてもらってるので、悪い気もするんですが……」
「家にいていいよって、僕は言ってるんだけどねえ。君一人くらい僕が頑張って食べさせるよ」
「いや無理だろ」
新卒の平社員舐めるなよ。俺がじっとり皿を持ってきた源を見ると「ありゃあ」と笑う。運ぶの手伝うよと奥さんも立ち上がって、俺も座っているのは落ち着かなくて一緒になって食卓の仕度をした。
奥さんの隣に座る源と、向かいの俺。三人揃っていただきますと手を合わせる。最近自炊もしていない悲しい独り身は誰かとの食事も久しぶりだ。というか美味い。本当に何か苦手なことはないのか、源。
「美味しいかい」
ニコニコとしながら源が奥さんに聞く。ケチャップでハートを描かれたオムライスにスプーンを入れながら、奥さんは微妙そうな顔で答えた。
「美味しい」
「よかった、おかわりあるよ」
上機嫌に源は言うが、俺はちょっとこれは聞かねばなるまいと思ってスプーンを片手に問う。いや本当に美味いな。
「源、お前何か苦手なこととかないのか? 何でもできるよな」
「そんなことないよ」
素知らぬ風で源は言うが、そんなはずない。ちょっと体を傾けて奥さんに寄ると、源は笑って尋ねる。
「君は僕の駄目なところなんてたくさん上げられるよね? 昔からたくさん面倒だって言うもの」
「それ、今聞くの?」
奥さんもスプーンでオムライスを口に運びながら言う。いや、美味しいんだ本当に。食べる手が止まらないくらいには。
源はくるくるとスプーンを回しながら、それでも聞く。
「いやいやあ、ちょうどいい機会じゃないか。僕も君がどんなところが嫌なのかわかっていれば直せるんだし」
「そりゃあそうかもしれないけど」
「前はそんなに連絡たくさんしてこないでもって言ってたじゃないか。そういうところ?」
「前って、それ高校生のときの話だよ。だって、髭切君すごい頻度でメールしてくるし。近所の猫が伸びしてたとか、弟の寝言が面白かったとか」
日記かよ。俺は呆れた。それは面倒くさい。
「だって、本当に面白かったんだもの。君にも教えたいなあって。君は返事あんまりくれなかったよね」
「どう返事したらいいかわからなかったから……」
「ねえ同僚君、酷いと思わない?」
「思わないな」
えぇ、と源は言う。思うわけがないだろう。興味のない相手にそんなことされてみろ、迷惑極まりない話だ。
「奥さんはなんでそんな相手の面倒を」
「えーっとそれは」
「先生に頼まれたんだよね。僕が真面目に学校通うようにって」
「ありがちだなあ」
教師も手を焼くわけだ。人のいい奥さんは断れずにそのままずるずる源の相手をし……というわけだろう。ちょっと同情する。
しかし、と俺は思った。欠点なら別なことでもよかっただろうに、源は連絡のことについて固執して聞いている気がした。よく相手を見ながら、喧嘩にならないようにじっくり奥さんの話を引き出している。
「でも最近は君のほうから連絡してって言ってくるよね。僕は言われた通りにちゃんとしているよ」
「帰りが遅かったりすると、色々タイミングがあるし」
「じゃあ今日は?」
あ、と俺はここでやっと気づいた。
気にしているんだ、今日返事がなかったことを。
「できるだけ午前中のほうが、君も困らないと思ったから。一日の予定は早めに伝えるようにしていたんだけど」
新卒の俺たちは、当然ながら初めてする作業も多い。慣れてきても、初めの一年は仕方がない。年間の流れがわからないし、作業の優先順位だって見当がつかない。だから午前中の進み具合で、程よくわかってしまう。今日は帰りが遅くなりそうだとか、そうでなさそうだとか。
源は独り身の俺とは違う。家で待っている奥さんがいる。今日のように夕飯の都合や、風呂の都合や、色々あるだろう。接待で飲み会になんてなったら、食事はいらなくなるし。
「僕も家で待っている君に迷惑を掛けたくはないから。要らないときは早めに要らないって言わないといけないってわかっているよ。遅くなるときもね。君は起きていてくれるけど、帰りがいつになるかとか、鍵を閉めて寝ていてだとか。それは君に言うべきことだと思っているんだ」
ね、と源は奥さんに優しく囁いた。
「……そうは言っても、髭切君飲み会の後だって私のご飯食べるじゃない」
そりゃあ、居酒屋の脂ぎった食事より奥さんの料理のほうが食べたいだろう。ふふふと源は笑った。
「君が作ってくれたご飯だし。食べるのは好きだから」
「夜中の食事は太るもとだよ」
「太りそうになったら一緒に運動してもらおうかな」
奥さんは困ったように眉をしかめてやや俯く。さっきは「スマホを置いて買い物に出かけてしまった」と言っていた。恐らく源にも同じように伝えたはずだろう。
「冷蔵庫の中身、あまり変わっていなかったよ。今日、お買い物行かなかったんじゃない? 判子も、溜まっていなかったし」
源の穏やかな問いにもしや、と俺の頬を冷や汗が伝った。
買い物が嘘だったとしたら。スマホを持たずに奥さんは一体どこへ。まさか源はここまで見越して第三者として俺を呼んだのか?
かさむ残業、夫婦仲の亀裂、妻の浮気、破局、離婚。縁起でもない単語が俺の頭を行き来する。新卒で既婚者の源はバツイチになるのか、こんな早くに。
固唾をのんで俺が黙りこくっていると、源は瞳を伏せて、それでいて口元は笑ったままで問う。
「……僕が午前中に帰り遅くなるねって連絡するとき、君は返事は遅れてもいつもすぐに見てくれていたね。でも今日はそうじゃなかった。もしかして嫌に」
「ちが、それはまた!」
焦ったように奥さんが叫ぶ。また?
「また?」
源が顔を覗き込むと、奥さんはウッと口を噤んだが源が動かないので諦めた。
「……残業だろうなって思って、それで」
それで、と奥さんが繰り返す。
……ああ、なんだ。鈍く、今は彼女もいない俺にもわかる。待っている連絡ほど、内容を見るのは怖いものだ。特に、自分が期待していないものでないとしたら。
「それで?」
「……」
もう、聞かなくたってわかるだろ。奥さんは黙ったが、源はにこにことしてそれを見つめ続けていた。
奥さんだって、「おかえり」を言いたがってるんじゃないか。心配しなくたって、言われなくなる日なんて来なさそうだ。
「……源、俺そろそろ帰るよ。明日もあるしさ」
役目は終わったようだし、俺は立ち上がって言った。すると顔をこちらに向けた。明るい表情だ。
「そう? 駅まで送ろうか」
「いや、近かったし。平気。ありがとな」
俺だって空気は読める。これ以上邪魔をする野暮はすまい。支度を整えて玄関まで出る。奥さんもその頃には笑って「また遊びに来てくださいね」と言っていた。
「ありがとう、君がいてくれて助かったよ」
エレベーターの手前まで見送りに来た源が言う。ふふんと俺は鼻を鳴らした。
「貸し一つな」
「ふふ、うん、覚えておくよ。じゃあ、また遊びに来てよね。同僚君」
エレベータが閉まるときひらひらっと源が手を振る。
いいや、勘弁してくれ。夫婦喧嘩は犬も食わない。俺ははははと力なく笑った。
食器を片して洗っていると、玄関が閉まる音がしてほどなくずしりと背中から体重がかけられる。なんとなく想像がついていたから、刃物には手をつけていなくてよかった。
「何か怒っているのかと思ったよ。返事がないのはまあ、慣れているけど。見もしなかったのは初めてだったから」
「……ごめんね」
一人でいると夜は長い。あまり気づきたくなかったことに、ここ最近は疲れてしまって。つい、遠ざけてしまったのだ。どうせ、遅くなるのなら後でも変わらないだろうと。
後ろから髭切君は私の手にした皿を取り上げると、泡を流して水切り場に置く。昔から背の高い髭切君は私を通り越して物を取ったりなんだりすることが多かった。
「ううん。僕もまあ、最初だから仕方ないかと思いすぎていたかもしれないからね。もうちょっと空気を読まずに早く帰ってくることにするよ」
空気を読まずに、なんて。私は思わずくすくすと肩を震わせた。そういえば、最近声を上げて笑うこともなかった。
「やめておきなよ、まだ新入社員だし」
「大丈夫大丈夫、適度にするから。朝早く出て行って、夜はご飯を食べて眠って。その繰り返しだったもの。もう少し夫婦らしいこともしようね、君と約束したことだし」
結婚してほしいと髭切君が言ったとき。就職が決まってすぐだった。髭切君は頭もよくて、きっともっといい大学に行けたはずだったのに。何故だか私について同じところに来てしまったのだ。それから四年間も、ずっと。
「もう諦めて、僕と幸せになってよ」
私より先に内定をあっさり取ってきて、髭切君はそう言った。
「苦労はさせないから。若いうちは、贅沢はさせてあげられないかもしれないけど。でも君一人くらい十分食べさせてあげる」
「……何、言って」
「その代わり君は僕のことを旦那さんにしてくれればそれでいいよ。毎朝おはようって言って、行ってらっしゃいって僕を送り出して。夜になったらおかえりって迎えて、ご飯なんかまずくたって構わない。でもおやすみって、毎日僕に言って。そうしたら」
そうしたら君を世界で一番幸せにするって約束するよ。
髭切君はそう言った。
正直なところを言うと……私は今になってもまだ、どうして髭切君が私を選んだのかさっぱりわからない。女の子なんて選び放題だっただろうにな、と思う。これは僻みでも何でもなく、事実だ。
でも、もし髭切君が。私がただ毎日おはようといってらっしゃいと、おかえりとおやすみを言うだけで幸せになれると言うのなら。「僕と幸せになって」と髭切君は言ったのだから。できるならそうしたいと私は思った。そう思わせてくれたのは、髭切君だ。
「……じゃあ、今度の土曜日に買い物に付き合ってもらおうかな。スタンプ貯めたら、二枚お皿がもらえるの。朝ご飯用に欲しいから」
朝、一緒にご飯を食べる用に。二人でおはようと言って、行ってらっしゃいと送り出す前に。これからずっとそんな朝が続くから。お皿はいくらあっても困らない。
「十分夫婦らしいでしょう?」
私が髭切君のほうを見上げて聞けば、髭切君はぱちぱちと瞬きをした後に、不思議な琥珀色の瞳を蕩けそうなくらい和ませて笑った。あーあ、そんな顔外でしていたら、きっと会社の女の子なんかはすぐに髭切君を好きになってしまうんだろうな。
「……うん、でもちょっとゆっくり起きて行くのでもいいな。朝はのんびり過ごして」
「そう?」
「だって金曜の夜なら夜更かししたって問題ないもの。あ、今日だって早く帰ってきたんだからいいよね」
蛇口をひねって水を出すと、髭切君は上から私の手を掴んで洗う。それからすぐに止めて引っ掛けてあったタオルで拭いた。
「えっ、なに」
「最近帰りが遅くて、君も早起きで寝るのが遅くなるのはよくないって思ってたから我慢してたんだよ。同僚君が早く帰ってくれてよかった」
早口でそう言い、髭切君はよいしょと私を抱き上げる。ピッとリビングの電気を消して、すたすた寝室へ進んだ。電気代もばかにならない、節電してくれるのはいいがそうではない。
「うわ、ちょっと、お風呂はっ? 溜めたのに!」
「後で一緒に入ればいいよ。ほら、夫婦らしいことしに行こうね」
えぇえ、と言いはするものの私は笑ってしまった。急ぎ足で歩く髭切君に抱き着く。
「新婚だもの、仲良くしないと」
やや浮かれた髭切君の声がおかしくて、うんと私は頷いた。