初恋は鋼の一生を左右する
「現世で普通に出会っていたら、君、僕のこと好きになっていてくれたかい?」
そう問えば、彼女は少しの間だけ沈黙して考えた。結構長い間であった。そんなに迷うことなのだろうか。
「どう、でしょう……ちょっとどうだか」
「えぇ? だめなのかい」
「いや、駄目ってわけじゃ。そういうわけじゃないんですけど、うーん」
そういうわけではないのなら、一体なんだろう。彼女が天井を眺めたまま考えているので、僕もその様子をじっと見つめる。その目は遠く遠くを見つめていた。
「もし、現世に髭切さんみたいな目立つ人がいたら、私近づかない気がするんですよね」
「えー」
「だって、顔立ちが整いすぎてるし、きっと運動も勉強も出来て……たとえば同じクラスなんかにいたら人気者ですよ。違う世界の人過ぎて、話しかけようとも思わないかも」
む、と僕は彼女と繋いでいないほうの手で頬杖を突いた。大変不本意た。今まで散々「刀だから」と断られたことや悩まれたことはあるというのに、同じ人間になったら係わり合いにさえならないかもしれないなんて。
「酷いなあ、せっかく同じ人間なのに。君ときたら僕を放ったらかしにするのかい」
「放ったらかしって言うか……あはは、髭切さんだって私みたいな地味なのは目に入らないかもしれません。他に女の子もいてって、そういう状況なら」
困った子、前からそうだった。僕はふうと息をつく。細かいことなんて気にしないでいてくれれば、もっと色々楽になったはずなのに。よしよしと額の髪を払って頭を撫でてやりながら、じゃあ、と僕は切り出す。
「試してみようよ、本当にそうなのかどうかさ」
「……どうやってですか?」
「んー、まあ、考えてみるけど。でもきっと楽しいと思うよ。君の言う、えーっと、学校? とかくらす? とか……君と一緒にそういうふうに過ごすのって」
そうだ、きっと、楽しいだろう。
刀としての本分を捨ててしまうわけにはいかないけれど、小休憩ということで。役目を十分に果たしたのだし、そのくらいいい目を見たっていいだろう。だから君が現世で送った生活を、僕も一緒に。
「普通、現世でだと男女はどうやって過ごすものなんだい?」
「そこ知るところからですか?」
「知っていて損はないだろう?」
「まあ、そうですね」
一緒に大きくなって、学校に通って、遊んだりして。それってとってもいいことだ。
「同じ年の頃がいいなあ、一人で過ごしてもつまらないから。それにそうしたら君ももっと僕に楽に話してくれるんじゃない?」
「同い年ならまあ、敬語だと変ですもんね。そういう場合って膝丸さんどうなるんでしょう」
「うーん、弟は弟だから、どうなったって弟だよ」
「あはは、じゃあ後輩になるんですね」
暫くの間、僕と彼女とはそうしてありもしない現世の生活を夢想してみた。
同じ学校に通って、一緒に家に帰って。勉強したり、休みの日は遊びに行って。小さい君が成長するのを傍で見ていられるのは楽しいだろう。制服なんていうものを着ている君も見てみたい。僕は今の年齢で、いつもじゃあじかよくて和装の君しか知らない。
「そのうち大きくなったら会社勤めなんかするんでしょうか。髭切さん、何の仕事するんでしょう。全然想像が付かない」
「まあまあ、君一人喰うに困らないくらいにはちゃんと働くよ。そうしたら結婚して、それから」
ああそれってとても、素敵なことだね。君と同じ時間の中で、人生の営みを送れるって言うのは。今度はこんなふうに、置いていかれることもない。僕と君と弟と三人で、一緒にどこまでだって行けるよ。
両手で彼女の手を握る。
「ね、約束だよ。次はそうやって、試してみよう。僕はそれでも君のことを好きになるはずだから」
「……また、何を根拠に」
「ふふ、刀でも君を好きになったんだもの。同じヒトなら絶対、そうだよ」
同じ生き物なら、きっと君も悲しいことがなくなるね。だから大丈夫、大丈夫だよ。もう泣かないで平気だから。
「なら、もし、本当にそうなったら」
「うん、約束だよ。そのときは……今度こそ、僕のことを好きだって言ってね」
それが僕と彼女の一度目のお別れだった。
上から下に雨粒が落ちるのを見る。昨日は天気がよかったのだが、今朝になって急に崩れ始めた。もう錆びる刃はないはずなのに、今の僕が雨を苦手だと思うのは器が女性だからかもしれない。僕がそれに気づいたのは、高校生になるかならないかの頃だったと思う。
「……姉者? 帰っていたのか」
「あ、弟。おかえりー」
ひらひらとソファから手を振る。そういえば休日のこのくらいの時間帯は買い出しに出ていることが多かったなとぼんやり思いだした。タイムセールだかなんだかで、食べ物が安いのだ。上着の肩を合わせ、椅子に掛けると弟はこちらにやってくる。
「どうしたのだ、姉者。まだひと月経っていないはずだが」
「ううん、ただお前の顔を見ておこうって思ったんだよ」
足をソファの上に乗せてしまっていることを怒られるかと思ったが、弟は「ふむ」と言うとそのまま隣に座った。
僕が彼女の家に転がり込んで弟はこの部屋に一人で生活していたはずだが、荒れた様子もなければ汚れてもいない。流石、きちんとやっているらしい。
「何かあったのか?」
「うーん、ふふ、あの子、思い出したみたい」
「む、よかったではないか」
よかったんだろうか。僕は曖昧に笑ってまた窓の外に目をやった。長雨だ、朝からずっと降り続いている。雨用の靴にすればよかったなと僕は思った。靴に染みると気持ちが悪いから好きではない。ヒトになってから、何故だか「前」は無視できていた些末なことが酷く気に掛かる。不便だった。
「……具合が悪いなら茶でも淹れよう。その体は天候に左右されやすいと前に言っていたな」
弟が立ち上がりかけたので、僕は首を振った。腕を伸ばしてよしよしと頭を撫でる。僕より細くさらさらとした髪はくしゃくしゃと乱れた。
「ありがとう、でも大丈夫。そろそろ帰るよ」
「あちらに戻るのか?」
「うん、まだ、少しあるから」
ひとつき、と約束した。だから帰る。ひとつきとわざわざ区切ったのは、自分にとってもそれが潮時だと思ったからだ。僕はともかく、あの子は今女の盛り。それは同じ女の身である僕には一番わかる。もちろん、盛りなんてヒトの子が勝手に定めたことで彼女が僕にとって綺麗に見えなかったことなど一度だってないのだけれど。
それでもここはヒトの世なのだ。ならばその身勝手にも思える規定に従わねばならない。仮初とはいえヒトとして生まれた以上は。
弟は再び僕の隣に腰を下ろす。僕よりずっと重い弟が座るとソファの柔らかい布地は僅かにそちらに傾いだ。
「主は何か言っていたか?」
「ううん、吃驚してた」
「それは、まあ、驚いただろうな」
「うん。目を丸くしてね、それから口を何度かぱくぱくして、黙っちゃった」
彼女のそういう姿がありありと想像できたのか、弟は困ったような、やれやれというような苦笑いを浮かべて肩を竦める。まあ僕もそれは予想の範疇の反応だった。
「でも次の日にはあまり変わらなかったよ。普通に起きてきて、『朝ご飯何にする?』って聞かれちゃった」
「それはそれですごい話だな」
ぱちくりと弟も瞬きを繰り返す。彼女も丁度同じような顔をしていたので、ふふと僕も笑ってしまう。でも彼女はもうそういう表情しかできなかったのだろうとも、思う。
「そうだよねえ……でも、すごい頑張ってるんだと思うよ」
普段通りに過ごすことを、頑張っていた。変に何かを問い詰めたり聞くこともなく、ただこれまで通り。それが今の彼女の精一杯だとわかったから、僕も何も言わずに彼女と一日過ごした。
「兄者」
窓を見たままの僕に、ぽつりと弟が呟いた。それに僕は首を振る。
「今はお姉ちゃんだよ、膝丸」
自分が女の子だと分かったときよりも、僕は自分がヒトの子であることの方に驚いた。そんなことがまさか本当にあるものなのだなあと。確かに彼女と「約束」はしたけれど、彼女との再会を信じていたわけではない。しかしそう生まれたのなら、それはそれ。いつかきっと彼女には会えるはず。そう頓着はしなかった。同じヒトなのだ、変わりはすまい。
けれど「弟」が生まれたとき、僕はどうやら自分の考えが誤っていたらしいことに気付いた。
「中身は兄者で変わらぬだろう」
膝丸は繰り返したが、僕はそちらを向いてもう一度首を振る。
「まあね。でも、お姉ちゃん。僕は今お姉ちゃんなんだよ」
弟は弟のままで変わらなかった。それから何振か、見知った顔をこれまでの人生の中でも見かけた。けれど僕のように「女」になっていた刀はいなかった。彼女の同僚になったらしい加州君だってそうだ。
だからきっと、これは罰なのだ。
「色々気付いたよ、僕、色んなことわかってなかったんだなあとかね。この狭苦しい体になってみて初めて、あの子があのときどれだけ怖かったのかわかる。僕があの子から何を取り上げて、今何を奪おうとしているのかわかるよ」
「兄者、しかし」
「そうじゃなきゃ、あの子はあんな風に死ななくて済んだはずだった」
ぐっと膝丸が顔を歪めた。弟だって忘れているはずもない。看取ったのは僕でも、弟もあの子を見送ったのだから。
彼女は、最期僕を庇って死んだ。
そんなことしなくてよかったのに。安全な場所にいてくれれば死なずに済んだ、それなのにあの子はそこから飛び出してきた。僕が折れると思って、たった一太刀で死んでしまった。大きく手を広げて立ちふさがった後姿を覚えている。
「僕が好きだなんて言わなければ、きっとあの子は一振の刀の破壊くらい仕方ないって割り切れたはずだった。立ち直るには時間が必要だったかもしれないけれど、そんなの生きていればどうにだってなるよ」
それを僕が奪った。諦めるという選択肢を、彼女から。
彼女は口には出してくれなかったけれど、最後の最後まで僕を好きでいてくれた。でもそんなことをあんな風に証明してくれなくたってよかったのに。
「……それでいいのか兄者、いや、姉者」
「……」
「確かに今は貴女も彼女も女子かもしれぬ。だが、そうではないだろう。貴女が本当に願ったことは、そうしてほしいと思ったことは別ではないのか。そう在りたいと思ったことは他の場所に、今だからできることだって別にあるだろう」
弟の言葉に目を閉じる。それはとても正しく、真っ直ぐな意見だった。でも僕はそれに「うん」と頷くことしかできない。彼女にそれを提示することが、選んでもらうことが、彼女の幸せだと今の僕には思えない。
だってやっと、平和なところまで来られたのだ。あの子を縛るものはもう何もない。戦いも敵もいない。望んでいたかもしれない、得たかもしれない幸せを何の苦も無く手に出来るはずなだ。
「……思えばずっと、ずっとあの子の後姿を追いかけてたのかな、僕。ただ、隣を歩きたかっただけなのに。たった一言好きだって、返してほしくて」
振り向いてほしくて、追いかけて追いかけて。最期まで、僕はあの子の背中しか見られなかった。今はもう、刀の僕はどうしたらいいのか見当さえもつかない。
でもそれでも、もし彼女が幸せに笑っていてくれたのなら。それが今度は僕が目指すべき場所なのかもしれない。
何故、忘れていたのだろう。
鋼の煌めきと、あの場所で過ごした日々をどうして記憶から消してしまえたのだろう。あんなにも鮮烈な思い出と感情と、それから痛みさえも。
その答えは簡単である、私が死んだからだ。
「約束だよ」
まさか本当にそうなるなんて思ってもみなかった。髭切さんはどうだったのだろう。再会を信じてあんな約束をしたのだろうか。
髭切さんは、前に私のことを好きだと言ってくれた刀だった。どうしてだかわからなかった。なんで取るに足らない、こんな普通の審神者のことを好きになったのか。聞いても髭切さんはいつも柔らかく微笑んで「君がとても、生きているから」と言った。益々わからないなと私は思った。
そんな私と髭切さんのお別れはあまりにもあっさりしたもので、ある日ぽっくり死んだというだけ。髭切さんに看取られて、私はその人生を終えたはずだった。いまいちぼんやりしているけれど、満足はしていた。ただ、思い残すことがあるとすれば……。
「あっ」
ガコンと揺れた電車に、思わず隣の乗客とぶつかってしまう。迷惑そうな顔を向けてきた乗客にすみませんと頭を下げた。いけない、普段ならこんなことはないのだが。
あまり思考の整理がついていなかった。眠いのもあってぼんやりする。とはいえ昨夜はきちんと早い時間帯にベッドに入ったのだ。「寝る前だからココア温めちゃおうよ」なんて笑う髭切を宥め、カフェインで余計目が覚めるよなんて言いながら。
……いや、髭切さんか。
本当に、何故忘れていたのだろう。今となってはそのほうが疑問だった。しかし荒唐無稽な話だ、覚えていたとしても信じるほうが難しい。まさか刀の付喪神がヒトになっているなんて。
「おはよー」
電車を降りたときポン、と軽く背を叩かれた。振り返って息が止まりそうになる。
「っ、か、しゅうくん」
「……どうかした? 幽霊でも見たような顔してるけど」
加州清光。昔の私の初めての刀だ。本当にどうしてこれまで思い出すことができなかったのだろう。こんなに傍にいたというのに。
「あの、清光」
恐る恐るそう声を掛けてみると、「加州君」はきょとんとして首を傾げた。
「え、なになに? どうして俺の名前のほう」
「ごっ、めん、ごめんね、いや何でもなくて」
覚えていないのだ。私は慌てて口を噤んだ。そうか、刀剣男士といえど皆が皆前の記憶を維持しているわけではないのか。そもそも、この「加州君」は私の清光ではないかもしれない。審神者だって星の数ほどいたはず。私のように第二の人生を歩んでいる元審神者だって、それなりにいてもおかしくない。
ではなぜ、髭切さんは……。ぎゅっと提げていた鞄の肩紐を握った。
記憶を維持したまま、それも女の子で。膝丸さんは弟のままだった。それなのに髭切さんだけ女性になって。
「どうしたの? やっぱなんかあった? 昼でよければ話聞こうか、でもあんたお弁当?」
心配げな表情で加州君は聞いてくれた。赤い瞳がこちらを覗き込んできて、思わずどきりとする。今はスーツのはずなのに、あの深紅のマフラーが揺れたような幻影を見る。
「う、ううん! 大丈夫、大丈夫だよ、ありがとう」
「そう? ま、なんかあったら言ってよね」
ひらっと手を振り加州君は行ってしまう。私は何とも言えない気持ちでその姿を見送った。
「主、じゃーまたね!」
昔同じ動作で戦場へ駆けて行った後姿を思い出す。マフラーをはためかせ、ヒールのブーツを鳴らして。
何かある度に、いつも審神者の私を気に掛けてくれた。頼れる相棒だった清光。覚えている、いや、思い出したというのが正しいのだろう。
今の「加州君」は、私の同僚。入社式で隣の席だったのが切欠で仲良くなった。面倒見がよく、仕事もできて社員の中でも人気者。でも彼女のことは教えてくれないのだ。聞くとちょっと赤くなって、焦ってスマホなんかは隠してしまう。そのくせ彼女とお揃いのアクセサリーなんかは自慢げにつけている。
……生きているんだな、と当たり前のことを思った。
いや、当たり前ではない。彼らにとっては初めてのことだ。何がどうしてそうなったのかわからないけれど、今はそうして至って普通の人生を歩んでいるのだ。
それはなんて愛おしくて、幸せなことなのだろう。
「思い出さなくて、いいからね……」
私はただぽつりと呟いた。
いけない、切り替えていかなければ。今の私は審神者ではない。一社会人である。そう、もうあれは遠く過ぎ去った日々なのだ……けれど。
ヴヴと鞄の中でスマホが震える。気が乗らなかったが、見ないわけにもいかない。必要な連絡だったら困る。私はデスクの上に鞄を置いてからそれを取り出した。彼氏だとしても髭切だとしても、今はどう返したら。そんなことを考えながら画面を見ると、全く違う人、いや元刀からのメッセージだった。
「すまない、今日時間が取れないだろうか。君の職場の近くまで行く。いつでもいい」
膝丸さんだ。私はいくらか迷ったが、結局「お昼なら」と返事をした。
「呼び出しておいて、遅くなってすまない」
一二時にと約束して五分経つか経たないかという頃、膝丸さんはガタンと音を立てて私の正面の椅子をに手を掛けた。私の勤務する会社から膝丸さんの会社までは距離があるはずだが、膝丸さんはわざわざ私の職場の近くの喫茶店まで来てくれたのだ。
「あ……」
しかし何と呼びかけていいか悩んで、結局口を噤んでしまった。その様子を見て膝丸「さん」は苦笑し、腰を下ろす。
「普段通りで構わない。君に『膝丸君』と呼ばれるのは、心地よかったゆえ」
幾分か迷ったけれど、私は何とか笑顔を作って頷く。それでいいといっているのだから、従おう。
「……じゃあ、膝丸君」
「うむ。息災なようで、何よりだ」
笑んだ顔は以前よりずっと穏やかなものに見えた。黒いスーツに身を包んで、コーヒーを飲む「膝丸君」は私の知る「膝丸さん」よりずっと穏やかな表情に見えるから不思議だ。顔や姿は殆ど変わらないのに。
だが恐らくそれが「普通のヒトとして生きる」ということなのだろうと思うと胸が苦しくなる。それは、私がずっと皆にしてほしかったこと。
「兄者……ではないな、姉者から聞いた。君も全て思い出したと」
「全てってほどじゃ、ないと思うけど。色々抜け落ちてはいるよ」
「大切なところがわかっているならば、十分だ。姉者は最後まで君が何も思い出さぬことまで覚悟していた。それでいいと言っていた。君は普通のヒトの子なのだからと」
一体どんな気持ちで、これまで髭切さんは私の傍にいたんだろう。なんとも言い難い気持ちで俯き、湯気を上げている紅茶の入ったマグを両手で持つ。高校と大学と、それから社会人になってからのしばらくを一緒に過ごしてきたのが、あの髭切さんだと俄かには信じがたいのだ。それが嘘だなどと思っているわけではない。そうではないのだけれど。
「驚いただろうな。それが普通だ」
膝丸君は何でもないように言って、マグカップをソーサーに置く。量はさほど減っていない。どうやら猫舌は人間になっても変わらないらしい。
「うん……ちょっと不思議なところはあったけど、本当に女の子の、友達みたいだったから……」
「ああ、それは姉者が自らが女であることにさほど頓着していないからだろう」
「えっ」
ずるりと肘を突いていたテーブルからずり落ちそうになった。
「頓着してない? なんで」
「何でも何もないぞ。姉者が自分で言っていた、まあ仕方ないよねと。女なら女で楽しいこともあるからいいとも。やったことないし、女体も楽しいかもしれないね、なんて」
あまり似ていない声真似で膝丸君が言う。
そ、そんなあっけらかんと己の性転換を認められるものなのだろうか。思わず口を開けて驚いてしまったが、数拍置いてからどうしても笑いがこみ上げてくる。
いや、らしいといえばらしい。確かに、髭切さんはそういう刀だった。いいことも悪いことも、それはそれとして受け入れる。その上でどうしたらいいか、どうしたいか考える。そういう鷹揚で、優しい刀だったのだ。だから傍にいるのが心地よかった。私は以前、最期までその優しさに応えることが出来なかったけれど。
「君の話も楽しげにしていたぞ」
「……私の話?」
「ああ。中学の頃、俺の部活の大会に応援で姉者が来てな。君を見たと嬉しげにしていた。ちっとも変わらない、可愛い女の子だったと」
中学の、頃。まだ私は髭切と出会っていないはず。けれど何度か運動部の交流試合のような行事には顔を出したことがある。もしかして、その中に髭切さんがいたのだろうか。
「高校の入学式では不機嫌だったな。同じ学校にいるのに気づきもしない。同じ教室にでもいなきゃ一生気づいてもらえないような気がする、部活にも入りやしないし。どう君に声を掛けたらいいかと、姉者なりに考えていた。君は知らないだろうが、あれで姉者は高校に入学する前にかなり努力したのだぞ」
「な、なにを?」
ふふと膝丸君はおかしげに肩を揺らした。懐かしむように琥珀色の瞳を細める。
「君に何としても気付いてもらわねばならぬとな。化粧に、服に。それまであまり頓着しなかったものだが」
「嘘」
私は思わず言ってしまった。だって私の知っている源さんは、最初から最後まで完璧な女の子だった。髪の毛はいつもふわふわで綺麗にまとめられて、高校生らしいうっすらピンク色をしたリップだとか。
「嘘など吐くものか。俺はその為に三つ編みと編み込みができるようになった。髪だけは俺が会得した方が早かったのだ。可愛らしい女子になればいやでも君の目に留まるだろうと。まあ、うまくいかなかったか、君と話せなかったかでどうしたものかと考え込むことが主だった」
確かに、私と源さんは二年生になるまで殆ど接点がなかった。勿論見かけたことくらいはある。当然源さんはよく「学年一可愛い女の子」と噂の的だったから、知ってはいた。目で追ってしまうことだってあった。
けれど、そうだ、それこそ「自分とは違う世界の子」なんだと思って。
膝丸君はやや視線を伏せて続けた。
「やっと同じクラスになって、君が後ろの席に座って。ふふ、今でも覚えている。席替えの日は君を見つけたときと同じくらい嬉しそうだった。その日姉者は俺のクラスまで来て、わざわざ筆記具の替えの芯を置いて行った」
紺色のセーラー服の襟を隠す長さの、金色をしたふわふわの髪。悪戯っぽい顔で、飴色の瞳を和ませて。桜色の爪をした指先を口元に当てて言う。
「忘れたってことにするから……内緒だよ」
自分よりも背が高くなった弟に、髭切さんはそう笑った。
「心底、幸せそうだったぞ。姉者は」
琥珀色の、髭切さんと同じ瞳で膝丸君は微笑む。
あの日、振り返った髭切さんはどんな気持ちだったのか。もしかしたら、その後姿を見つめていた私よりも、ずっと。
ぽたりと落ちた涙がマグカップの中に溶け込む。いけない、と慌ててハンカチで目元を押さえた。膝丸君は少し冷めたらしいコーヒーに再び口をつける。
「……わ、たし、髭切さんに、どうしたら」
心の中がぐちゃぐちゃだ。以前からのものと「源さん」に出会ってからの感情が、すっかりない交ぜになってもうわからない。
「君がそのように悩むだろうから、姉者は思い出さなくていいと考えていたのだろうな」
静かな声音で膝丸君はそう言った。それはただ穏やかな言葉だ。責めたり怒ったりはしていない。だから私は一度だけ鼻を啜ると、今度は「膝丸さん」に声を掛ける。
「膝丸、さんは」
「……うむ」
「混乱、しませんでしたか? 髭切さんのことで、どうしたらって。だってあんなに兄者兄者言ってたのに、お姉さんになっちゃったんですよ? アイデンティティの危機じゃないですか」
「君、俺のことをそんな風に思っていたのか」
膝丸君がやや強張った顔で言った。いや、そこまでではないのだけれど。ハンカチで鼻を押えながら私は首を一応程度に振っておく。
「驚きはした。だが戸惑いはなかった」
「どういうことです?」
膝丸君はパッと手を上げてウェイトレスを呼ぶと、メニューを指して二つケーキを頼む。
「どうあったとしても、俺と兄者は兄弟だ。それが男であろうと女であろうと関係はない。兄者が姉者になろうと、仮に俺が弟から妹になろうと、それは変わらぬ。今はたまたまその器が女子だというだけ。俺にとってはいつまでも変わらぬこと」
器が女の子だというだけ。本質は変わらないのだ、何も。
私が何も言えずにただ視線を伏せていると、注文通りケーキが二つ銀の盆に乗って運ばれてくる。流石に二つは食べられないと思っていたのだが、膝丸君は一つを自分の前に、もう一つを私のほうに指してウェイトレスに置かせた。結構甘そうなショートケーキなのだが、膝丸君は気を遣って自分の分も注文したのだろうか。
「だが君が俺と同じように思う必要はないのだぞ」
「え……?」
小さく華奢なフォークを手に持ち、膝丸君はそれを白いクリームに差す。
「俺と兄者が兄弟であることは、千年も昔から定められたこと。これから先も変わっていくことがないこと。俺が姉者を受け入れたようなことを、君が急にするのは無理だ。だからいい。俺のように、思う必要はない」
「そう、なんでしょうか」
「ああ。君は君として今ここで生きている。その上で、『今』の君が考えるのが一番だと俺は思う」
柔らかな生クリームを口元に運ぶと、膝丸君はなんと顔を綻ばせた。記憶の上では膝丸さんはさほど甘いものが得意ではなかったはず。ああでも、そういうことがきっと膝丸君も楽しめるようになったのだ。
「姉者とよく話してくれ。弟の俺から言えるのはそれだけだ」
「……うん、ありがとう、膝丸君」
緩やかに膝丸君は髭切とよく似た顔で笑った。やっぱり兄弟だなと私は思った。
「ところで、このショートケーキはお気に入りとか?」
「む、取引先で出されてな。存外美味かった。いいものだな、こういうものも」
あはは、と私は膝丸君と顔を見合わせて笑った。
深く息を吸ってから、鍵を捻る。きっと先に帰ってきているはずだ。僅かな明かりがカーテンの向こうに見えていた。きっと、私が戻るのを待っている。
「ただいま」
小さくそう言ってから、下駄箱の上に鍵を置く。本丸に比べたらこんな玄関はちっぽけで、三和土も狭く廊下も短い。こんな呟きでも聞こえるだろう。案の定すぐにドアが開いて、見慣れた顔が覗く。
「おかえりー、遅かったね」
にこにことした笑顔。今日は黒いハイネックのニットにタイトスカート、暖かくて楽だからとあのニットはお気に入りなのを知っている。
「お腹空いちゃったから晩御飯作っちゃった。だから明日は君がお弁当作ってね」
そう言い置いて戻って行こうとする後姿に、私は呼びかけた。
「髭切さん」
ぴくりと髭切さんの肩が震える。私は息を吸って、もう一度呼びかけた。
「話をしましょう、髭切さん」
ゆっくりとこちらを振り返ったのは「源さん」ではなかった。
「……君にそう呼ばれるの、久しぶりだなあ」
光沢のあるストッキングを履いた足でこちらに歩み寄り、髭切さんは私のことを前よりは低い角度で見下ろした。それから柔らかく私を抱きしめる。以前と同じ抱き方に涙が出そうだった。
「髭切、さん」
「うん、そうだよ。君の刀だった僕だよ」
言いたいことがたくさんあった。それは謝罪でもあり、感謝でもあり、未練でもある。伝えたかった気持ちがいくつもいくつも、今になって溢れ出す。
「立っているのもなんだから、座って話そうよ。君もその格好じゃ疲れちゃうし」
「は、い」
体を離した髭切さんが笑って私の手を引っ張る。言われるままにそうしてリビングに歩いていくと、クスクスと髭切さんは笑った。
「珍しいよねえ、君が僕の言うとおりについてくるのって。いつも勝手にどこかに連れて行くなって怒ってたのに」
「え、あ、それは」
確かに、刀だった頃の髭切さんはよく私をどこかに引っ張って連れ出すことが多かった。こんな風に手を引っ張って、仕事の合間や休んでいるときなんかに。
「君って、息抜きが苦手そうだったから。僕なりに色々考えてはいたんだけどな」
うーんと首を捻りながら髭切さんはソファに座って足を組む。私はそれに苦笑しながら隣に腰を下ろした。キッチンからはいい匂いがする。もう、夕食を作ってくれていたらしい。刀の頃はあまり料理が得意とは言いがたい腕前だったけれど、今の髭切さんは毎日のお弁当を作れるくらいなのだ。そのことになんだか笑ってしまう。
「それにしては、突拍子もなさ過ぎるんですよ。急にあちらこちらに引っ張っていかれては、私も驚きます」
「そっかあ。それは失敗しちゃったな。……それで、僕と何を話したいのかな」
髭切さんは組んだ手を膝に当てて微笑む。穏やかな瞳だった。いつもの「源さん」とそう変わらない。
「全部、話してください。最初から」
そう言えば、髭切さんは首を捻って髪を揺らした。それからゆるやかに笑って手をポンと打つ。
「うーん、長くなりそうだね。お茶でも淹れようか。ご飯って気分じゃないだろう?」
「手伝います」
二人でシンクに立つ。髭切さんはもう勝手知ったる様子で食器棚からマグカップを二つ取り出した。私の部屋にあったマグの一つを髭切さんは気に入って使っている。
「お茶のほうは君が淹れてくれる? 君の方がうまいから」
「わかりました」
「練習はしたんだけどねえ、やっぱり君の方が上手だったみたい。何かコツでもあるのかな」
そんなのは意識したことがないのだけれど。私はお湯を沸かし、缶を開けてポットに紅茶の茶葉を入れる。髭切さんはその間にちょっとだけマグを温めていた。丁寧な支度を見るに、本当に練習をしたようだ。
「それで、最初からだっけ」
「はい」
「最初からって言われると難しいな、僕は最初から僕だったから。さっきも言ったよ、僕は髭切。君の刀だった髭切。今は君の高校のときの同級生」
ティーコゼーを被せてタイマーを付ける。髭切さんはしげしげとそれを見ていた。ティーセットをお盆に乗せてソファに戻る。夕飯の前にお茶の時間になってしまった。
ピピピとタイマーが鳴るのを待ち、私はそれをマグカップ二つに注ぐ。私は砂糖を一匙だけその中に入れた。髭切さんはいつも通りどばどばとこちらの胸やけがしそうなくらい砂糖をぶち込んでいく。ちゃんと溶けるのだろうか、その量は。
「もう、ずっと記憶があったってことですか?」
「あったよ。君のことも、弟のことも覚えていた」
「……約束のこともですか?」
くるくると回していたスプーンを抜いて、髭切さんはマグカップに口を付ける。膝丸さんと違って、髭切さんは熱いものも平気なのだ。
「覚えているよ、ちゃんとね」
何でもないように、髭切さんは言う。
「現世で普通に出会っていたら、僕のこと好きになってくれるかなって。試してみようって。まあ本当にこんなことになるだなんて思ってなかったけど」
「……本当ですよ」
「まさか女の子になっちゃうなんてさ。想像もしなかったよねえ」
ふふふ、なんて可愛らしく髭切さんは笑った。私にはまだそうはできそうになく、ただ同じように紅茶を飲んだ。いつもより渋い気がするが、きっとそれは気のせいだろう。
「それで? 試してみて君はどうだった?」
まだ湯気の立ち上るカップを一度テーブルに戻して、髭切さんは尋ねる。
「どう、って」
「ふふ、人間生活って楽しいねえ。僕も初めて知ったよ。当たり前だけど」
細く長い指を伸ばして、髭切さんは指折り数える。
「生まれてから、幼稚園、小学校、中学校……まではあんまり面白くなかったな。なんだかね、すんなり進んじゃったんだよそこまで」
「あ、えっと、エスカレーター式の学校行ってたんですっけ」
そう言えば前にそんな話を聞いたことがある。源さんは確か、弟の膝丸君と中学まではエスカレーター式に進学できる私立に通っていたはずだ。所謂お嬢様お坊ちゃま学校というかなんというか。
「そうそう、いやあ、あそこはちょっとつまらなかったな。皆なんだか、金太郎飴みたいで」
「金太郎飴って……ふふ」
言いたいことはわかる、型にはまっていると言いたいのだろう。大雑把な表現がらしいというかなんというか。私が思わず笑ってしまうと、髭切さんも少し瞳を和ませた。
「だからね、高校に入って君に会ってからはもっと楽しかったよ。ノート見せ合いっこしたり、お弁当広げておしゃべりしたり」
「髭切さん、英語の授業の度に私のノート写しに来てましたよね」
「だってあれだけは苦手だったんだもの。今でも得意じゃないよ、ひとしきり勉強はしたけどね」
成績優秀な源さんだったけれど、英語の時間ばかりは「うーん」と首を捻りながら板書したり音読していたものだ。まあ今となっては合点がいく。そりゃあ、元が日本刀では苦手だろう。それは仕方がない。
「それから大学生になって。学校は別になっちゃったけど、その分君と夜遅くまで電話したりしたねえ」
「気付いたら朝だったりするんですよね。でも授業中にメッセージ大量に送ってくるのはちょっと」
「ふふ、でもあのすたんぷ? 好きだったんだよ僕。大人になって、働き始めて。僕らはそれでも仲良しの友達だったよ。一緒にお買い物に行ったり、お茶を飲みに行ったりさ」
初任給で、一緒に初めてデパートのコスメ売り場に行った。同じブランドで、隣に座ってファンデーションの色味を見てもらった。私はそれが肌に合わなくて、結局リップグロスだけはお揃いにしようと買って。
「……僕はね、やっぱりこうなっても君のこと好きだなあって思ったよ」
タイトスカートの下で足を組み直して、髭切さんは楽しげに笑う。美しく伸びた足は筋肉質だけれど、以前とは全く違う。女性の足だった。華奢なパンプスなんかがよく似合ってしまう足。
少し力を込めてマグカップを握った。いくらか躊躇って大きく深呼吸をしなければ私はその言葉が言えない。
「好きだと、思いました。あなたを」
初めて口にしたのに、こんな気持ちになるなんて。
髭切さんは黙って聞いている。一言発するだけでどうしてこんなに苦しくなるのかわからない。空気が通り抜けるはずの場所を握り拳が塞いでしまっているような閉塞感がある。それをいなすように私はもう一口紅茶を口に含んだ。けれど詰まった拳は抜けるどころか押し込まれるようにどんどん奥へといってしまう。視界が滲んだ。
「いえ、違うんです。本当はずっと、好きだったんです。でも言えなかった。そう言うための勇気が私になかったんです」
審神者だった頃、私は確かに髭切さんのことが好きだった。恋をしていた。
優しくて穏やかで、傍にいると安心する陽だまりのような髭切さんのことが好きだった。髭切さんは辛いときや悲しいとき、敏感に気付いてそっと寄り添ってくれた。温かな愛情を押し付けることもなく、ただ与えてくれていた。それがあの戦場の中でどれほど幸せなことだっただろう。
けれど私はその髭切さんの愛情に応えることができなかった。好きだと口に出すだけの覚悟がなかったのだ。今も、昔も。それは変わらなかった。
うん、と一つ髭切さんは頷く。目を閉じて古いアルバムを捲るような、懐かしそうな表情の笑みだった。
「刀だから。僕は刀だったから。君はいつもそう言ってた。僕には最初それがどういう意味かさっぱりわからなかったよ。もっと大雑把でいいって、好きなら好きでそれでいいんじゃないかいって。何度か君にも言ったと思うけど」
確かにそれは髭切さんがよく繰り返してきた言葉だった。そうできたら楽なことも理解できる。けれど割り切ることはできなかった。ヒトならざるものへの畏れ、またそれと縁を結ぶことへの恐怖。本能的に私は髭切さんへの好意に対して怯えていた。
「でも、僕もこの体になって初めて君の怖がった理由がわかった」
何度か髭切さんは自分の手を握ったり開いたりした。
「僕が怖いなって思ったわけじゃないよ。でも君が何を恐れたのか、少しは理解したつもり。この窮屈で、不便な体でやっとわかった。普通から離れることも、それから君が本当に僕のことを大事に思っていてくれたから、好きだって言ってくれなかったこと」
……責任を取れないと思った。かつての私は、そう思っていた。だからたったの二文字を口にすることができなかった。ただそう告げれば色んなことが楽になるかもしれないとわかってはいたけれど。
髭切さんは好きだと言ってくれる、大切にしてくれる。けれどその真っ直ぐな想いに報いることが、人間の私にはできない。別な生き物だ、生きるスピードが違う、価値観が違う。そんな髭切さんの刃生に私は責任を持つことができないと思った。それなのに好きだなんて言えない。口になんてできなかった。
「ごめん、なさい、私」
「……うん、わかってる。だからこれは僕の罰。こんな約束をしたことへの罰、君に好きだと言った罰。これは君のせいじゃない」
髭切さんは私の手を取って、両手で包む。それは柔らかい女の人の手だった。やはり、刀を握るようなそれではなかった。豆など一つたりともなく、節だってもいない。昔のような力強さはどこにもない。
けれど優しさは変わらない。そのことに余計胸が苦しくなる。
黙りこくって静かになった室内で、ヴーと低い振動音が響いた。髭切さんが首を回す。視線の先にあったのは私の鞄だった。鳴っているのは私のスマホだ。出る気にもなれないで私がそのままでいると、髭切さんのほうが立ち上がってそれを取りあげた。
「……駄目じゃないか、ちゃんと彼氏とは連絡を取らないと」
髭切さんはこちらにスマホを差し出す。確かに着信履歴は彼からのものだった。私がそれを受け取れないでいると、髭切さんは「はい」とスマホを手にちゃんと持たせる。
「掛け直してあげなよ。ただでさえ僕が来て、ずっと会っても話してもいないんだろう?」
「……でも」
「その間に紅茶を淹れ直しておくよ。君がしているのを見ていたから、今度はうまく淹れられるかも」
にこっと笑って髭切さんはポットを持ち立ち上がる。観念して、私はスマホのロックを解除した。シュンシュンと湯が沸きはじめる音がする。それにコール音が被った。
「……もしもし、ごめん、今出られなくて」
「ああ、ごめん、今忙しかったか?」
「ううん、どうかした?」
ああ、そんな高いところからお湯を注いだら跳ねてしまう。電話に応えながらはらはらとキッチンの髭切さんを見ていたら、案の定だったのか熱そうに手をひらひらとさせていた。普通に淹れればいいのに何故見よう見まねで高い位置から淹れようとしたのか。
「最近あんまり話せなかったから、どうしてるかなと思って。仕事から帰るのも早いよな、例の料理とか、練習か?」
「うん、まあ、ぼちぼち。でもうまくいってなくて」
「じゃあたまには外で食べないか? 楽して気分転換すれば上手くいくかもしれないぞ」
ピッと髭切さんがタイマーをセットする。あれが鳴るまでは三分だ。
「予定、見ておくね。ごめん、今ちょっと火を見てるから。また連絡する」
「ああ、わかった。じゃあ」
赤く表示された通話終了ボタンを押し、耳からスマホを離した。ポットを持った髭切さんはうーんとそれを眺めている。
「跳ねたお湯、拭いてくれましたか」
「うん。なんだっけ、本で前に読んだんだよ。高い位置から注ぐといいって」
「それは慣れないと跳ねます、また後日試してください」
「そうするよ」
アラームが甲高く鳴り響いて、それに手を伸ばして止める。髭切さんは空になったマグカップの中に新たに湯気の立ち上るものを足した。私は先程より一匙多く砂糖を入れるが、うまく溶けずにじゃりじゃりとそこに蟠る。
「行っておいでよ、でえと」
「え?」
砂糖どころかミルクまで注いだ髭切さんは、ありゃと首を傾げながら混ぜていた。そりゃあ溶けないだろう。
「しばらく放っておいてるんだろう? 土曜日とか」
「でも」
土曜日と言ったら、ひと月と約束した最後の日。その日には髭切さんは出て行ってしまう。
「今度は止めに行かないから。もう、寄り道しようなんて、言わないから。行っておいでよ」
「でもっ、そんなの」
「君は今、普通の女の子なんだよ」
ね、と髭切さんが首を傾げると着けているイヤリングが揺れた。
「審神者じゃない、僕の主でもない。普通に幸せになれる。やっとそうなれるんだ」
「……それでも、私」
「ううん、それでいい、それでいいんだよ。君は幸せにならなくちゃ。あんなに頑張ったんだもの。自分でだってわかっているだろう? 君は他のヒトの子だって好きになれる。幸せになる術を今は持っている。言ったじゃないか、どうしていつも少し苦しい方を選ぶんだいって。審神者のときからそうだった。君は周りのことばかり優先して、自分が辛くても大丈夫って笑うんだから。悪い癖だよ?」
諭すような穏やかな口調。髭切さんの琥珀色の瞳に嘘はなかった。心の底からそう思っているのだ。私に幸せになるように言っている。
「約束は、もう果たしてもらったよ。今好きだって言ってくれたじゃないか。だからそれでいい。ね」
それでもスマホを握りしめて動けない私を見て、髭切さんは微笑んでぽんぽんと二度その手を柔らかく叩いた。
「でもその代わり、僕、六時までここで待っているよ」
「……六時?」
「ふふ、高校のときはそのくらいには帰らないといけなかったから、わかりやすいだろう?」
六時頃までなら学校の前のバス停に十分間隔でバスが来る。だからそれまでならと、私と源さんはよく委員会の片づけや図書館やらで時間を潰した。六時になったら、また明日。ひらひらと源さんは手を振って膝丸君のいる剣道場へ。「弟ー」と鈴の鳴らすような声を背後に聞くのがとても好きだった。
「だから僕、それまでは君のことをここで待っているよ」
手弱女の指が私のものに絡む。両手で私の手を引いて、唇を寄せた。
「荷物も何もちゃんと自分で持っていく。大丈夫、次に会ったときは君の言う『高校の同級生』だってできる。君の友達をやっているのも僕はとても楽しかったんだよ。でもそれまでは僕に、君に恋をしていさせてね。それから後は約束なんて忘れちゃっても構わないから」
土曜日の六時まで、それまでは。
ぎゅっと私の手を握ると、髭切さんは再びにこりと笑った。
「ご飯冷めちゃったね、そろそろ食べよう。君の好きな肉じゃがだよ。よくお弁当に入っていたよね、高校の時も」
「……うん、楽しみ、だな」
そう答えると、「髭切」は瞳を和ませた。
土曜は非常にいい天気であった。カーテンを開けて息を吐いてしまう。そんな青空だ。
「ふぁあ、ありゃ晴れてる」
くしゃくしゃと髪を掻き乱しながら髭切が起き上がった。寝巻にしているティーシャツが肩からずり落ちている。私は慌ててそれを直した。
「ずれてるずれてる」
「んー、大丈夫、君と違って胸で引っかかるか、らっ、いてっ」
ぱこんと軽く頭を叩いておいた。ふざけたことを言っていないで朝ご飯を作るのを手伝ってほしい。髭切はあれから一度も、寝ぼけた振りをしてベッドに潜り込んだりしては来なかった。
トースターに食パンを二枚入れる。焼けたらもう一度同じだけ焼かねばならない。髭切が三枚分平らげるからだ。その間に髭切は欠伸をしながらジャムを取り出し、マグカップも二つ出してきた。この一週間髭切は美味しい紅茶の淹れ方を練習している。
「あ、ほら見て見て、うまくできた」
「え? あ、ほんとだ」
唐突に呼ばれたので何事かと振り返れば、髭切が右手に持ったポットを高く持ち上げてマグに紅茶を注ぎ込んでいた。最初の一日二日はだばだばと零して叱りつけていたものだが、ようやく習得したらしい。
「ふふ、これで美味しく飲めるかなあ」
「普段から美味しかったけどね?」
「そう? でも僕には君の淹れたほうが美味しかったんだ」
三枚と一枚でトーストを分けてジャムを塗り、いただきますと二人で手を合わせる。私が一枚食べ終える間に、髭切は二枚と半分口の中に入れていた。食べるのが早い。ちゃんと噛んでいるのだろうか。
いつも通りミラーを二つ机に並べた。髭切は前髪をピンで上にあげ、私は横に留める。ベースのファンデーションを塗り、ビューラーで睫毛を上げたところでぱっと髭切に手を押えられた。
「何?」
「今日は僕にやらせてよ」
私のメイクポーチからアイライナーを取り出して、髭切は目を細めた。指が頤に添えられる。キャップを片手で外すと、髭切はそれを持った。
「目を閉じて」
言われるままに私は瞳を閉じた。いつもはそんな風に思わないのに、ややひんやりとしたアイライナーの先が瞼を縁取るようになぞっていく。右から、左へ。それから左から、右へ。
ガチャガチャとメイク道具を髭切は探る。アイシャドウを自分のものと、私のものを出して並べた。髭切は膝丸君からいくらかもらうのか、単色のものをばらばらと出して来てはうーんと眺める。
「行商さんみたい」
「ふふ、どれがいい?」
「オススメでお願いします」
「うーん、じゃあこれ、僕のオススメ」
単色のアイシャドウからいつも私が使うものより少し明るい色味のものをいくつか選び、髭切は蓋を開けてブラシに着ける。
「ちょっと派手な気がするんだけど」
「んー? いいんだよ、このくらいで。いつももっと明るいものを使えばいいのにって思ってたんだ」
ブラシで塗ったものを、髭切は自分の指の腹でぼかした。柔らかい指の腹が瞼を擦る感触がやや気持ちいい。
「マスカラ塗るよー、目を閉じちゃだめだよ、つくからね」
「う、わかった」
「いい子いい子」
常々メイクがうまいなあと思っていたが、髭切は手際よく私の顔にどんどんメイクを施していく。普段自分でするよりずっと綺麗にできているからすごい。仕上げに、と髭切はリップグロスに手を伸ばした。それは唯一私と髭切が揃いで使っているコスメだ。
「ん……と」
見分けがつくように、髭切の方には白いリボンが巻いてあるそれ。私は何もつけていない。けれど髭切はリボンがついたほうを手に取った。
そっちじゃないとは言えない。髭切は蓋を捻って開けると、縁にチップを擦って付き過ぎた分を調節した。
「塗り直せないから落ちないように、気をつけてね」
お揃いの赤い、良い匂いのするリップグロス。頤を親指で押えられ、軽く唇が開く。髭切のそれも同じような形を描いた。
下唇から上唇にチップが滑る。
「……じゃあ飲み物は全部ストローにしないと」
私がそう言えば、髭切は琥珀色の瞳を和ませた。
肩から鞄を下げ、パンプスのストラップを留める。髭切は玄関まで見送りに来た。ヴヴと鳴ったスマホを見てみれば、彼氏から待ち合わせの確認メッセージ。横からそれを覗き込んだ髭切はくすりと笑う。
「僕と違って君は忘れっぽくなんてないのにねえ、わざわざ念を押さなくたって」
「髭切だって約束は忘れたりしなかったじゃない」
私と約束したときは、基本的にちゃんと時間通りに現れていた。いつだって。今も昔もそうだった。
それには答えずに、髭切はポンと私の背を叩く。
「じゃ、行ってらっしゃい」
「……うん」
三和土で一歩踏み出す。今は十一時、髭切との約束まで七時間。
「ねえ、髭切」
振り返っても髭切は何も言わない。穏やかに微笑んでいるだけだ。片手をあげ、ひらひらと振って言う。
「またね」
ぱたんと静かに玄関を閉めれば、中からガチャリと施錠される音がする。ぐっと口を噛み締めようとして、髭切が塗ってくれたリップが落ちてしまうとやめた。
踵を返し、マンションの廊下を進む。カツカツとヒールの音が響いた。髭切は私に幸せになるべきだと言った。その意味を介していないわけではない。むしろわかりすぎるほどに理解している。髭切が私を思ってそう促したことも。
幸せになれない、私と髭切では。結局そういうことだったのだ。
「……そんなのずっとわかってたのに」
こんな風に思い知らされなくたって、ずっと。涙が零れそうになって上を向いた。これからデートなのに、こんな目で行くわけにはいかない。せっかく髭切に綺麗にメイクしてもらったのに。
足早に進む。何かから逃げているような気持ちになって酷く嫌だ。この一週間ずっと考えた。どうするのが一番いいのか、何が最善なのか。けれど答えは出なくて、それならばせめて髭切の言うとおりにと決めたはず。
ヴヴとまたスマホが鳴り、私はそれを見た。先程彼には返事をしたはずだが……とメッセージアプリを開きかけ、着信だったことに気付く。普段滅多に表示されない名前がそこには浮かんでいた。
「……もしもし?」
「あ、やっほー。今平気?」
「加州君……」
どうして今電話してきたのだろう。私は足を進めながらスマホを耳に当て直す。まさか前のことを思い出してしまったのだろうか。
「どうかしたの?」
「ううん、ちょっとさ。今暇? あんたなんか今週元気なかったじゃん。気分転換にお茶でもどうかなーって」
ホッと安堵の息を吐く。どうやらそれは杞憂だったらしい。心配してわざわざ連絡してきてくれたあたり、やはり「清光」だなあと思うけれど。再び足を足を進めながら、明るい加州君の声に答える。
「ありがとう、でもそんなこと言って彼女に怒られるんじゃない?」
「えー? 大丈夫だよ、俺あんたに声かけるってことは彼女に言ってあるし。俺の好きになった子はそんなつまんないことじゃ怒んないの!」
くすくす笑って自慢げに加州君は返してきた。それに私もつられて笑顔になってしまう。先程まで到底そんな気分にはなれないと思っていたのに、不思議だ。
「ふふ、ごちそうさまです」
「へへ……って違う違う、それで、暇?」
「あ、えっとね、ごめん。これから予定があって」
少し、急がないと。私は腕時計に目をやった。電車の時間に間に合わない。駅までの道を僅かに早足で向かおうとする。そう、これでいいのだ。そう決めたはず。だから前へと。
「あー、そっか、ごめん、今あんたの家って源さんいるんだっけね」
「……」
「源さん、なんだかんだいつもあんたのこと考えてたし。あんたが元気ないのに気付かないはずなかったか」
そーだよね、なんて明るい声に胸が詰まる。
何か言わなくてはと思うのに、声が震えるのが怖くて口を開けない。私が黙っているのを、加州君はやはり元気がないか、何かで落ち込んでいると考えたようだった。優しい励ます口調で加州君は続ける。
「まーちょっとべったりだと思わないこともないけどさ。でもいい友達じゃん。あんたのこと一番に考えてくれてるのは確かだから。今日は一日パーッと遊んでさ、元気だしなって。ね、あんたが元気ないと俺も調子狂うよ、なんでか」
指で目元を押える。そこを伝ってぼろぼろ涙が落ちていくのがわかった。行かなきゃ、行かなくちゃ。髭切さんがそうしろと言ったのだ。幸せのために前に進まなくてはならないと。そうであってほしいと。決められないなら、腹をくくれないなら、せめてそれくらい叶えたい。
ああでも、そうしたら髭切さんはどうするんだろう。私が幸せになったとしても、髭切は。
「あのね、加州君」
「ん?」
「好きな人が、幸せになれって私に言うの」
そうするのがいいと言う。やっと普通に幸せを掴めるのだから、それが正しいのだと。
「昔から好きな人だったの。でもその人と一緒にいるのは難しくて、いつも好きだって言えなかった」
「うん」
「今はちょっと、状況が変わって。それでも難しいことは変わらないんだけど。でもその人は幸せになれるんだから、わざわざ辛い方を選ぶんじゃなくて幸せになればいいって。忘れて前に進むのがいいって言うんだけど」
「……うん」
加州君の相槌に、訥々ととめどなく話す。
「私、どうしたらいいんだろう」
いつもそうだった。
審神者だったときは髭切さんの呼ぶ声に振り返ることが出来ず、今は源さんの背を追えないでいる。私が唯一走り出せたのはあの最期の瞬間だけ。髭切さんを庇うために駆けだせたあのとき。不甲斐なくて意気地がなくてそれを嫌だと思うのに、足を踏み出せない。
「……なんだ、答えは出てるんじゃん。そうでしょ?」
ほうと加州君は柔らかく息を吐いて言った。私は口元を押えたままで、それに耳を澄ます。
「今俺に、『好きな人』って言ったじゃん」
「かしゅ、くん」
「好きだった人じゃなくて、好きな人って。あんた最初に言ったじゃん」
あははなんて軽い加州君の笑い声。それで一息に肩の力が抜けた。「好きな人」、無意識に話していた。加州君の記憶を刺激しないようにと、髭切の名を出してはいけないと思って。
は、ははと同じように力なく笑う。足はもう完全に止まってしまっていた。
「ねえ、俺は忘れるだけが前に進むことじゃないと思うよ」
優しい声音が昔の「清光」と重なる。
「好きだってそいつにちゃんと言った?」
髭切さんはもういいと言った。「今言ってもらえたからもういいんだよ」と。でもあんな風に伝えたかったわけじゃない。あんな苦しくて、辛い言葉で口にするべきではなかった。
「難しくたってなんだって、結局はあんたがどうしたいかじゃないの? じゃないと本当に言えなくなっちゃうよ、好きって」
ぐっと唇を噛み締める。リップグロスはきっと滲んでしまっただろう。メイクだってぐしゃぐしゃだ。でももういい、もういいのだ。
「加州君」
「んー?」
鼻を啜り何度か瞬きを繰り返す。それからはっきり口にした。
「ありがとう。……彼女とこれからも幸せにね」
あはっという明るく楽しそうな声の後、加州君は答える。
「あんたも、じゃあまた会社でねー」
スマホを耳から離す。そのまま、そのまま幸せでいて、私の大切な刀。新しい人生を、どうかと、私は加州君に対してそう思っていた。そうであってほしいと祈ったから記憶も戻ってほしくなくて、ただ何もかも忘れていてほしかった。
でもきっとこれは、髭切が私に願った気持ちと同じなのだ。ならば、私がするべきことはたった一つだけ。
私が選ぶべきものは、もうずっと変わらない。そのためにもう一度出会ったのだ。
「ああ。君は君として今ここで生きている。その上で、『今』の君が考えるのが一番だと俺は思う」
膝丸君の穏やかな声を思い出す。今の私、今ここに生まれてきた私がどう思うか。
来た道を戻るのはあまりにも簡単だった。ヒールが折れてしまうかもしれないと思いながら全力で走る。別に折れたっていい、辿りつければあとは何とかなる。マンションのエントランスでバンとエレベーターのボタンを叩いたが、上の階にいて降りてくる気配がない。もういい、大した階数ではないから階段を使う。
一段を飛ばすのは流石に厳しく、手すりを掴んで体を前に押し出すようにしてできるだけ早く駆けあがる。鞄の中で喧しくなるスマホの隣にあった鍵を引っ掴み、回して玄関を開くと、何故かそこには髭切が座りこんでいる。
「……君、なんで」
「ひげき、う、わっ」
ガクンと足元がいきなり崩れた。やはり全力疾走に加えて階段を駆け上がったのはヒールに多大な負荷をかけていたらしい。限界を迎えて折れたそのせいで、私は前に倒れ込む。髭切が目を見開いて座ったまま私を抱き止めた。
ばくばくと自分の心臓が鳴っているのが聞こえる。だがその合間合間で、とくりとくりと別な音も響く。これは髭切の心音なのだろう。
「……忘れ物?」
違うと言いたかったけれど、荒く息を吐いているせいでそれもできない。私は辛うじて首を振った。
「じゃあどうしたの? もうすぐ待ち合わせの時間だよ」
「ひげ、きりこそ……っ」
こんなところに座りこんで、私が出て行ってまだ一五分も経っていないのに。六時までここにいるつもりだったのか、本当に馬鹿だ。昔からそうだった。大事なことは、自分の本当の気持ちは誰にも言わないで隠して、相手を押しだす。私よりよっぽど辛い方を選んでいるではないか。
肩を揺らしながら、髭切の体に腕を回す。汗が額に滲んで前髪が張りついている気がした。せっかく綺麗にメイクをしてもらったけれど酷い状態なのは間違いない。でもいい、それでもいい。
やっと呼吸を落ち着けて顔を上げる。髭切は体を起こした私を支えるようにした。
「戻ってきちゃ、だめだよ。僕六時までは待ってるって言ったじゃないか」
「待ってるから帰ってきたんだよ」
「わからず屋だなあ。ちゃんと話したのに」
「何言ってるの、大体背中の押し方が中途半端なんだよ。けじめつけるなら私と一緒に家を出るくらいしなよ、なんで待ってるなんて言ったの」
そう言えば、髭切はむっと口を引き締める。美形の不機嫌そうな顔は怖い。特に今は刀だった頃と違ってきちんと化粧しているだけ倍増で怖い。
「ひとつきって区切ったんだからいいじゃないかそのくらい」
「その割には人の気引きまくってたじゃない、大学の後輩とか同級生とか、会社の男の子食いまくって」
私が噛みつけば髭切は余計不満げにした。その調子だ、それでいい。前みたいに隠し通されるより、こんな風にぶつけてくれた方がすっきりする。大体髭切は高校生の頃から自分の考えを言わな過ぎる。
「だって君いつまで経っても腹をくくってくれそうな素振りさえ見せないから。高校のときから僕のこと好きだっただろう」
「そうだよ! 好きだったよ! ずっと好きだったんだよ!」
ああ、やっと言えた、ちゃんと言えた。泣き出しそうになったのを我慢して、私は髭切の首に腕を回して抱き着く。
「好きだよ……っ大好きだよ、髭切」
髭切が息を呑んだのがわかる。困ったように、何度か私の肩のあたりを髭切の手がうろうろとした。
「……うん、でも」
「好きになったよ、私、刀でも女の子でも、髭切のこと好きになったよ。だからもう、それでいいの、いいでしょう? 他のヒトも好きになれるけど、私は」
今度こそ選びたい、髭切のことを。
抱きしめてくれる体はとても柔らかかった。腹立たしいことに私の倍くらいあるバストだとか、細くしなやかなウエストだとか。指だって細くて、きっと今日も整えられた爪は丸く桜貝のような色をしているだろう。
でも、私と同じ。それは全部、私と同じ形。
だからきっと、幸せもそうだろう。それがどんなものであったとしても、どこにあったとしても。今は二つ、重なり合う形をしているはずだ。
「……ふふ、僕お揃いで着たいなあ、うぇでぃんぐどれす、だっけ?」
ずるずるとする鼻を啜ってから、私は答える。
「やだよ、全然サイズ、違うのに」
「ううん、絶対、絶対そうする。僕と君、試そうって言ったことはたくさんあったもの。これからはずっと、そうやって今度こそ隣同士を歩いてね」
振り返っても、前を向いても、追いかけようと走ってもいないはずだ。髭切はずっと隣にいたのだから。隣を歩こうと、していたのだから。
「おばあちゃんになる前に、気がつけてよかった」
そう呟けば、ふふふと笑った髭切の体が微かに揺れる。
「おばあちゃんになっても、君としたいことがたくさんあるよ。まずは君のお化粧と唇を塗り直して、新しい靴を買いに行こう。綺麗に折れちゃったねえ」
楽しげに笑う声に合わせて、私もふふふと肩を揺らす。それからうん、と一つ頷いた。