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    しおり
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    しおり
    ③やるべきことが多すぎる


    「いい? 最初は手引書読んでわかんないことは全部俺に聞くこと。俺がいなかったら主。わかんないことはいったん置いといていいから、勝手にやらないこと!」
    「わ、わん!」
     村雲は執務室の前でひとまず元気に返事をした。篭手切が初めは挨拶が肝心だと言っていたのだ。受け取った手引書を抱えている村雲を見て、加州は片眉を上げて肩を竦めた。
    「譲っといてなんだけど、大丈夫かなぁ」
     襟足の辺りを掻きつつ加州がぼやく。そういったってもう代わってくれると言ったのだから、引くつもりはない。隣に立っている彼女がどこか愉快そうにくつくつと笑った。
    「まあ、雲さん丁寧で真面目だから大丈夫だよ。それじゃ今日からよろしくね、雲さん」
    「わん!」
     パタパタと尻尾が千切れんばかりに揺れるのがわかる。わかるが今に限っては本当に嬉しいので許可する。
     何故なら今日から、村雲は近侍なのだ。
    「じゃー俺、基本広間か部屋にいるようにするから。なんかあったら本当にすぐ言ってよね」
    「わかった。あの、加州」
    「ん?」
     頭の後ろで指を組み、くるっと踵を返した加州を呼び止める。振り返った加州に言わなくてはならないことがあった。
    「ありがとう」
     村雲か彼女かならば、必ず彼女の味方になると言いながら加州はいつだって村雲のことも気にかけてくれていた。それをきっとどこかで村雲のことを認めて、近侍を譲ってくれたに違いないのだ。
     ぱちぱちと加州は何度か、切れ長の瞳を瞬いた。やや迷ったようだけれど、やめて再び背を向け、どこかぶっきらぼうに言う。
    「……やめてよねー、別に応援してるわけじゃないんだから。じゃ主、またね」
    「うん、またね」
     加州が行ってしまうと、彼女もくるりと向きを変えて執務室に入る。村雲もとにかくその後をついて行った。彼女は屈むついでに「ぱそこん」のどこかを指で押して、座布団の上に正座する。それから突っ立っている村雲の方を見上げ、隣を指し示した。
    「座って?」
    「う、うん」
     そろそろと村雲はそこに腰を下ろした。「隣」自体には何度も座ったことがある。お腹が痛くて甘えるときも、彼女が村雲を心配してくれたときも、こうして傍らにいたことはある。
     けれど今日の「隣」は、やはり緊張する。
    「まずはその日誌を開いて。右上の欄に自分の名前書いてね。あと日付と、一応天気。一日の終わりに、残りの欄を書いて」
    「うん」
     筆記具を握って、村雲は彼女の指示通り記入する。隣の頁には、加州の細い筆跡で昨日の日誌が綴られている。あとでちゃんと読んでおこう。村雲もこのくらいしっかり書けるようにならなければならないのだ。
    「じゃあ頑張ろう」
     村雲が日誌を記入したのを見てとって、彼女は言った。それにいくらかどぎまぎとしつつも、村雲はしっかりと頷く。
    「うん……。頑張る」
     きっとすることは、想像以上に多いだろうけれど。
     だが頭を左右に振り、ぎゅっと村雲は両手で日誌を握り締めた。


    「村雲さん、この書類なんですけど。あ、すみません、今忙しかったですか」
    「村雲、備品の補充の件なんだけど」
    「まっ、待って、待って! お腹痛いから待って!」
     思っていた五倍くらいやることが多い。
     次々に来る事務担当の松井や他の近侍の承認を得たい刀なんかに、ビャッと叫びながら村雲は手引書に向き直る。
     それに、こいつがいけない、この「ぱそこん」がいけないのだ。全くもって使いづらい。この、きいぼおどなるものがよくない。震える人差し指一本で、村雲はぽち、ぽちとそれを叩く。数字、数字ならばすぐに打てる。
    「雲さんゆっくりでいいよ。それから松井君はちょっと待って、この備品は蔵の奥の方にあった気がする。探すから買い足さなくていいよ」
     てきぱきと隣にいる彼女が村雲を宥めつつ、刀剣男士の列を捌く。聞いたところ、一番午前中が忙しいのだと言う。政府からの連絡が入ったり、昨日午後あったことの処理があったり、色々立て込むのだと彼女から説明は聞いたが想像以上だ。
    「……村雲、慣れるまではパソコンよりもタブレット端末を使ったほうがいい。いつも持たされてる通信端末が大きくなったようなものだから」
     松井が村雲の手元を覗き込みながら言う。また知らない単語が出てきた。今朝からもう何個目だ。
    「たぶれっとってなに!」
     ギャンと大きく吠えた村雲など全く気にもせず、松井は座布団から腰を上げて執務室の棚を探る。
    「主、持っていたはずだね。出してもいいかな」
    「松井君ありがとう、その棚に入ってる」
    「もう、くそっ、くそぉ、堀川ごめん、書類、先に預かるから……待たせてごめん……」
     どちらにせよ、何をどう判断して承認すればいいのか村雲にはわからない。目を通して、手引書を読んで、それでもわからなければ主か加州に聞かなければ。ひとまず先頭で待っていてくれた堀川にそう言えば、堀川はにこりと人、いや刀当たりの良い笑みを浮かべて首を振る。
    「いえ、大丈夫ですよ。僕の用はそれほど急ぎじゃないので」
    「うぅ……ごめん……」
    「ああ、村雲、あった。タブレットだけじゃできないこともあるけれど、ひとまずはこのほうが記入が楽だ」
     出て行った堀川を見送り、唇を尖らせながら村雲が松井の方を見ると、松井は確かに手に通信端末を大きくしたような板を持っていた。それを受け取りつつ村雲は帰ろうとする松井の袖を掴む。
    「お願いだから部屋に戻ったらぱそこんの使い方教えて」
     松井は特に顔色を変えることなく、静かに頷いて顔周りの髪を耳に掛けた。
    「それは構わないよ。村雲は通信端末も問題なく使えているし、五月雨よりよっぽど電子機器には強いから。すぐに使えるようになるよ」
    「松井君、お待たせ。今月の中間収支ありがとう、ちょっと食費が多いね、気を付ける」
    「ああ。でも誤差の範囲だから。それじゃあ、主。村雲、無理しないように」
     ゆらりと緑の上着を揺らして松井が執務室を出て行く。刀の波が一段落したとき、彼女がコキンと首を鳴らした。
    「一段落したかな、雲さん、堀川君の書類一緒に見よう」
    「……うん」
     堀川の書類は、和泉守と連名の二週間後の休暇願だった。彼女は編成表を持ってきて開く。
    「雲さん、この本丸では一応一週間先までは編成を組んであるんだけど、絶対この編成じゃなきゃ駄目ってことはあんまりなくて、そうだな、例外は」
    「……休暇願だってわかってたら、すぐに、返事できたかもしれない」
     堀川の丁寧な字で書かれた二週間後の日付を見て村雲は呟く。直前に処理しようとしたのが備品補充や予算に関係することで、すぐに判断できないと思ったから。堀川もその類かと思って帰してしまった。休暇願は最低でも二週間前に申請しなければならないことは、村雲も知っていた。顕現したときに加州に教わった。だから、もしかしたら。
    「雲さんが近侍になって一日目ってことは、皆わかってるよ。だから少しくらい時間がかかったって誰も怒ったりしなかったでしょ?」
    「……でも」
     静かな声で主が諭すのを、村雲はやはり唇をへの字にして聞いていた。
     わかっている、そんなの。堀川も責めなかった。これまでここに来た刀の誰も、嫌な顔一つせず一振でバタバタしている村雲を待っていてくれた。それに加州が渡してくれた手引書は大変わかりやすく、初日の今日はこれでも、きっと徐々にこの内容を頭に入れていけばそのうち慣れるかもしれない。
    「でも、でも」
     ただ村雲が悔しいのだ。
     うまくやれない。うまくやりたいのに。料理がすんなりとうまくいった分、もどかしくて悔しい。いきなり難易度が上がったのはわかるけれど。それでも悔しい。
    「うぅう……」
     彼女が宥めるように村雲の背中を撫でる。村雲はせめて情けなく泣かないように、口を引き絞って堀川の書類に判子を押した。
    「写しを取るのも忘れないようにね」
    「うん……」
     村雲の隣にある機械に書類を通すと、どういう仕組みなのだかそっくりそれが写されて出てくる。処理が終わったものは原本を申請者に返して、写しを保管するよう今朝言われた。
    「よろしくお願いします……」
     村雲がそう言って彼女に写しを手渡すと、はいと返事をした彼女はそれを受け取って編成表を整理しているのと同じ書類綴じにしまう。
    「うん、これで大丈夫。あとで堀川君に原本返してね」
    「はい……」
     先が思いやられる。お腹が痛い。でもとにかく今日は部屋に戻ったら松井に「ぱそこん」を教わって、それから手引書を読まなくては。またやることが多い。
    「大丈夫? お腹痛い?」
     彼女がこちらを覗き込むので、村雲はギッと歯を食いしばったが、それでも彼女が背中を摩る。村雲のほうは近侍の仕事に慣れなくても、彼女は村雲の世話に慣れっこなのだと気づいて、はぁあと長く息を吐いた。それから彼女の肩に頭を乗せて寄り掛かる。
    「お腹摩って……」
    「はいはい」
     背中を丸めている村雲の頭を撫でながら、彼女が穏やかに宥める。これでまだ一日の半分、折り返しなのだから頭も痛い。
    「できなかったらどうしよう……顕現してすぐに手伝ったときは、もう少しうまくいったのに」
    「あれは清光も傍にいて一緒にしてたから。本格的にするのは初めてなんだし。初日の午前だよ? 気にすることなんか何もないよ、大丈夫大丈夫。平気だよ」
     やはり優しい声で彼女に励ましてもらっていると落ち着く。ぐすぐすと鼻を啜りながら、村雲は彼女の方を見つめた。
    「うう、主、お腹痛い、膝、貸し」
     そこまで言いかけて、ハッと村雲は我に返る。
     だめだ、撫でてもらうだけならまだしも、膝なんか借りたらこれまで通り弱いままである。ガバリと勢いよく村雲は体を起こした。
    「てくれなくていい!」
    「え、いいの?」
    「だって膝なんか借りたら弱いままじゃ」
    「あ、そっか」
     主に至っては気にしてもいない!
    これはこれで由々しき事態である。村雲は慌てて彼女の袖を握った。
    「俺まだ主のこと好きなんだから、わかってるよね」
    「いや、わかってるわかってる」
    「諦めてないからね、明日にはぱそこん、打てるように」
     いや、明日は厳しい気がしてきた。明後日? 今週中? いや、今週といったって村雲自身にも出陣だの内番だのあるし、それに篭手切のれっすんもあるし。やはり思ったより時間がないのでは。
    「とっ、とにかくすぐできるようになるから!」
     村雲がそう捲くし立てると、彼女は何度か瞬きをした後にふふふと少し笑った。両袖を村雲に掴まれたままで肩を揺らす。
    「わかったわかった」
    「ほんとに? 絶対忘れないで」
     不安になって村雲は念を押した。彼女が多忙を極めていることは、この午前中だけで身をもって実感した。だがそれはそれとして、それを彼女に忘れられては困る。村雲は彼女に好きになってもらいたいがために、こうして遮二無二頑張っているのだ。それだけはいつも頭に置いておいてほしい。
     だが彼女はじっと村雲を見つめた後、静かに一つ頷いて答えた。
    「……忘れないよ」
     どこか、独り言のような。それは小さな彼女の呟きだった。
     そう言って、欲しかったのに。ざわざわと嫌な感じが村雲の胸の辺りに広がる。忘れないでいてほしいのは確かだけれど、そんな顔してほしいわけではない。
    「……もうちょっと気軽に、考えて返事して」
     彼女の顔を覗き込んで村雲は言う。それに気軽に考えてくれれば、もしかしたら村雲のことだって好きになってくれるかもしれないし。
     すると彼女はわざとらしく眉を上げ、笑って答える。
    「気軽に考えることじゃないでしょ?」
    「えへへ」
    「じゃあお昼食べに行こっか。午後も頑張ろうね」
    「うん!」
     よいしょと先に腰を上げた彼女が、袖を掴んでいる村雲の手を引っ張る。つられて立ち上がって、村雲は彼女の後をついて行った。
     難易度は高いが、やはり近侍でいれば彼女といる時間は十分に長くなる。それだけでも、収穫としては十二分だ。とても嬉しい。
    「隣でお昼食べてもいい?」
    「二席並んで空いてたらね」
    「えぇ」
     クスクス笑う彼女の声に、村雲は弾んだ足取りで続く。


     持ってきた書類を差し出す。初日最後の村雲の仕事だった。
    「ありがとうございます。忙しいときに、すみませんでした」
    「ううん、すぐに答えられなくてごめん」
     部屋にいた堀川に村雲が書類の原本を渡すと、堀川は丁寧に頭を下げて礼を言った。それからすぐに折れないように休暇願を棚にしまう。同室の和泉守はいなかった。
    「村雲さん、今日から近侍なんですよね。頑張ってください」
    「ありがとう。まだ何もできないけど……」
     村雲が小さな声で言えば、堀川は首を緩く左右に振った。
    「初日ですから、仕方ないですよ。そういえば、篭手切さんから聞きましたけど、村雲さん料理も練習してるんですよね」
    「うっ、う、うん」
     思わず体が強張る。そうか、篭手切もとても顔が広いのだ。特に同じ脇差相手だと篭手切は屈託なく同じ年頃の友達のようにはしゃいだりもする。堀川国広は厨をよく任される刀剣男士で口もかなり堅いほうだ、篭手切もそれで料理のことを相談したのだろう。
    「大丈夫ですよ、料理を練習していることは誰にも言ってません」
    「あっ、あぅ、うん、ありがとう」
     堀川は笑顔で唇に人差し指を当ててくれたが、堀川が言わずとも恐らく自分の恋は全本丸に知れ渡っているだろうことをふと思い出して村雲は身を竦めた。というか現に堀川も村雲の事情は承知済みなのがいい証拠である。恥ずかしくてお腹が痛い。
    「はい! ですから今日のお礼に、主さんの好きな料理教えますね!」
    「え、い、いいの? お礼って言ったって、俺は判子押しただけで」
    「いえいえ。主さんは、揚げ物を作ったとき余ったパン粉で作ったどおなつが好きなんです」
    「どおなつ……?」
     それはあの、たまにおやつに出てくる穴の開いた丸いお菓子だろうか。村雲が首を傾げていると、堀川は笑顔で続ける。
    「あの丸いのじゃあないです。もっと簡単で。コロッケですとか、そういうのを作ったときにパン粉が余ることがあって。その余りに、卵と砂糖を絡めて、サッと揚げてしまうんです」
    「卵と、砂糖」
    「はい、パン粉が余っているときしか作れないので、主さんとても喜ぶんです。今度作ってあげてください」
     ぱん粉、卵に砂糖。村雲は口の中で繰り返した。覚えておこう。喜んでくれるのなら、それは嬉しいし。
    「ありがとう、今度ぱん粉……? があるとき作ってみる」
    「はい、ぜひ。あっ、でも今くらいの時間は食べさせないでくださいね、体に悪いので」
     ふふ、と堀川は笑った。加州も同じようなことを言っていた。村雲もつられて少し笑う。
     いやしかし、サッと揚げる、というのはどの程度なのだろう。篭手切に聞いたらわかるだろうか。用が済んだので帰ろうとしながら、村雲は考えた。それにしても、主は甘いものが好きらしい。卵焼きもだし、煮物も……。
    「……主さん、平気だ平気だって言って、いつも突っ走っていくでしょう」
    「え?」
     ぼそりと堀川が口にした言葉に、村雲は顔を上げた。堀川の唇は変わらずに微笑んでいたけれど、視線はやや伏せている。
     そこではたと、村雲は気づいた。堀川は、ずっと前から本丸にいる刀である。だから、もしかしたら。いや、間違いない。
     堀川は、彼女が九死に一生を得たという怪我を負った出来事を知っているのだ。
    「できるだけ、見ていてあげてください。無理のない範囲で、構いませんから」
     お願いします、と堀川は静かに頭を下げる。
     ふと、村雲はその疑問に思い至ったが聞くことができなかった。彼女の言葉が脳裏をよぎる。どんな刀剣男士にも、そういう時期はある。堀川にも、彼女のことを好きだった時期があるのだろうか。
     だとしたらどうして、その気持ちが「違うもの」だと気づいたのだろう。
     いつ、「主」として、彼女を好きなのだと気づいたのだろう。
    「村雲さん? 大丈夫ですか?」
     立ち尽くしているこちらを堀川が心配そうに見つめた。ついしくりと痛んだお腹の辺りに当てそうになった手を下ろす。
    「ううん、ありがとう。じゃあ、また」
     堀川に礼を言って、村雲は再び廊下に出た。主からは最後に本丸内を見回ってくるように言われたのだ。風呂場の様子を見て、広間、厨と。村雲は言われた通り本丸を歩き回り、声を掛けてから戻る。彼女もどこかに呼ばれているのか、執務室には誰もいなかった。勝手に帰るわけにもいかないし、彼女におやすみも言いたいし。村雲は朝記入した日誌の残りを書いてしまってから、ちらりと文机の上のそれを見る。ちょっと気が重いけれど、仕方ない。あまり時間がないのはもうよくわかった。こういう時でもないと。
    「……ぱそこん、練習しようかな」
     座り込んで、折りたたまれた「ぱそこん」を開く。今日昼食を摂ったとき、松井から言われたのだ。教わった通り、文章を打つ機能を立ち上げる。
    「こういうのは、慣れだから。文章をひたすら打ち込んで」
    「ひ、ひたすら?」
    「うん、ひたすら。知ってる文章をずっと打ち込むのがいい。本でも何でも、写してみて」
     松井は淡々と村雲に告げた。ひたすら、文章を。どうやらコツやら近道はないようだと村雲が青ざめたとき、隣にいた五月雨が笑顔で村雲の肩を叩く。
    「雲さん、奥の細道が、おすすめです」
     それは流石に量が多いのでは。村雲は思ったけれど、松井の方は同意して頷く。
    「ああ、いいかもしれない。適度に漢字変換もある」
     忘れていた。基本的に、江は皆妥協だのなんだのしないのだ。こうといったらこうなのである。はあぁと溜息を吐いて村雲は「きいぼおど」に手を伸ばした。
    「えーっと……」
     かた、かたと普段彼女が叩くよりも遅いそれが執務室に響く。元々、こういった地味な作業は割と得意だ。気は重かったけれど、始めてしまえば集中できる。たどたどしい打鍵音を立てながら、村雲はぽちぽちと一文字ずつ打ち込む。ひらがなだけではだめだ。変換し、この、きいぼおどに並んでいるものの中で一番大きなぼたんを最後に押さなければその文章は完成しないのだそうだ。
    「う、てたぁ……」
     はあと息を吐く。先は長そうである。今日はもう色々あって疲れたのだ。村雲は適当にそれを指で押す。カタカタカタと小気味よい音は楽しいのに。
    「……月日は百代の過客にして、なんだっけこれ」
    「ぅわあっ」
     突然後ろから声を掛けられて、村雲は飛び上がった。彼女がじっと画面を見つめている。いつの間にか彼女も戻ってきていたらしい。集中していて気が付かなかった。
    「おっ、おくの、ほそみち」
    「ああ、そっか、五月雨だ」
     すぐに気付いたらしい彼女はよいしょと隣に座る。自分の「ぱそこん」を片手で何やら操作してふうと息を吐いた。それからこちらに向き直る。
    「はい、じゃあ雲さん、今日のお仕事おしまい。初日お疲れさまでした」
    「こっ、こちらこそ、お疲れさまでした」
     彼女が丁寧に頭を下げたので、村雲も慌てて畳の上に手をついて礼をした。一日が異様に短かった。やることがどんどん目の前に積まれていくのに、時間ばかりが瞬く間にすぎる。目が回るかと思った。
     うーんと伸びをしながら、彼女が村雲の日誌に目を通して、最後に判子を押す。
    「どうして奥の細道なんて打ってたの?」
    「えっ、いや。俺、このぱそこん、まだ全然使えないから。松井に、知ってる文章をひたすら打って練習するしかないって言われて」
     だがそれにしたって、かなり時間がかかりそうだけれど……。村雲は先程無意味に打ち込んだ文字を消す。まずはこの文字列から覚えなくてはならない。気が遠くなりそうだ。
     彼女はそれを聞くと、楽しそうに後ろ頭を掻いて首を傾げる。
    「そっか、まあでも確かに、こういうのは慣れだから。そのうちでいいよ。数字打ててるだけでも大分助かるし」
     数字を打つのに難がないのは、村雲が元々計算が得意だからだ。算盤も、比較的使える方ではある。でもこれは算盤ではないから、同じようにはいかない。
    「でも、そのうちじゃあ時間、かかるから。……練習していってもいい? 主は先に寝てていいから」
     少し眠いけれど、やっぱり練習しておきたい。執務室は彼女が帰れば無人になるから集中できる。
     村雲がそう申し出ると、彼女はパチパチと目を瞬いた。思いもよらない申し出だったのか、欠伸をしそうになっていたのが止まる。
    「え、今から?」
    「主は寝ていいから。ぱそこんと、場所だけ貸して」
    「それはいいけど。もう遅いよ。寝て明日にしたら? 雲さんお風呂もまだだし」
     それはそう、なのだが。
    「に、二束三文だから、お風呂なんてちょっとあればいいし」
    「いやなに言ってるの、お風呂に二束三文関係ないから。疲れてるんだからちゃんとお湯に浸かったほうがいいよ」
    「負け犬の俺がお風呂なんて浸かったって……」
    「当たり前だけど私は清潔な人のほうが好きだよ」
     ぐっと村雲は言葉に詰まる。それを言われてしまうと辛い。
    「じゃあお風呂はちゃんと入るから! 主はもう寝ていいよ、遅いし」
     村雲は現在五月雨と同室なのである。村雲が夜更かししてぱそこんの練習をすると、五月雨が寝る邪魔になる。頼めば五月雨は「大丈夫ですよ」と言うだろうが、五月雨はかなり規則正しい生活をしているのでそれは心苦しいのだ。このぱそこんは画面が光るようであるし。
    「ちょっとだけだから、お願い貸して」
     微妙な顔で彼女は村雲を見つめる。だがストンと肩の力を抜いた後に、一度息を吸って体勢を正した。
    「じゃあ終わるまで見てる」
    「えっ」
     それは困る。村雲は一刻も早く彼女を寝かせたいのだ。正直なところ、こんなに仕事量があると思っていなかった。無理をせずにさっさと休んでもらいたい。それに、加州が生活能力がないと言っていたのが一日で理解できた。面倒くさくなるのか平気で水分補給も食事もおろそかにしようとする。毎日こうならば夜食をちゃんと用意しなくては。また時間が足りない理由ができた。
     しかし彼女の方は先程閉じたはずの書類綴じを開いた。完全に仕事をする構えである。
    「やらなきゃいけないことは腐るほどあるし」
    「何言ってるの? 寝てよ!」
    「無理しなくていいって朝言ったよね」
     そう言われると何も言い返せない。村雲が正座したまま俯いた。
     焦っても、どうにもならないことはわかっている。けれど気持ちが急いてしまう。やらなくてはならないことがどんどん増えるのだ。
    「そんなに焦らなくても、大丈夫だよ」
    「……でも」
     村雲がそれでも言い淀むと、彼女は一歩分こちらに膝を進めた。
    「もうこの短い期間で雲さんは料理もできるようになったし、近侍になって、今日は一日無事に終わったよ」
     ……ああ、そうだった。穏やかで、優しい声音に強張っていた体が緩む。
    初めて彼女を好きになった日も、それからもずっと。彼女がこうしてそっと村雲の背中を支えるようにして肯定してくれた。焦ったり、捻くれたりするたびにいつも。
     だから村雲はいつだって、彼女のことが大好きで、早く同じように彼女に自分を好きになってほしくて、それで。
    「……それとも雲さんが数日で近侍やめるなら話は別だけど」
     にやっと笑った彼女が俯いている村雲を覗き込む。
     もうわかる、この顔は村雲を揶揄っている。
    「やめない!」
    「じゃあある程度やったら寝ようね」
     むきになって答えた村雲に、彼女はさらっと答えて書類を捲り始めた。村雲は昼同様に唇をへの字に曲げたけれど、彼女は我関せずでカリカリと何か書きこんでいる。
     頑固なのだから、本当に。村雲は自分を棚に上げてぱそこんに向き直った。少しやって、寝る。彼女も寝かせる。よし。
    「眠かったら寝てね」
    「はーい」
     カタカタときいぼおどを叩きつつ、村雲はちらっと横目で彼女を見る。
     疲れたし、眠たい。もう早く横になりたい。でも、隣に彼女がいてくれるのだからやっぱり、近侍は悪くないと思ってしまうあたり……村雲は現金であった。


    「……うん、いいんじゃないかな。誤変換もないし」
    「そ、そう?」
     昼下がり、松井が読み上げた文章をかたかたとその場で打ってみせる。速度はまだないが、やっとこのきいぼおどの配置にも慣れてきた。おかげで少しは近侍の仕事もやれることが増えてきたのだ。
    「それにしても、短い間に頑張ったね。それだけ慣れておけば、そのうちもっと早くなるよ」
     しげしげと松井が村雲の手元を見つめたので、ちょっと得意になってカタカタきいぼおどを叩く。前はきいぼおどを見て打ち、更に画面を見て確認しなければならなかったが、今は画面を見るだけで文章を打てる。
    「すごいでしょ? 雲さんここで毎晩頑張ってたんだ」
     隣で一緒になって見ていた彼女が、嬉しそうに笑って松井に言う。
    「……えへへ」
     ふふと松井も微かに微笑んだ後、体を起こし髪を耳に掛けた。
    「うん、じゃあ次は表計算かな」
     久方ぶりに全然知らない単語が出てきた。ちょっと楽しくかたかたとしていた村雲は硬直する。ぱそこんは、文章を打つだけの機械ではないのか。
    「えっ、ひょ、なに?」
    「表計算ソフト。使えたほうが楽になる。僕がいつも事務室で使ってるソフトだよ」
     松井は、毎月月末になるとげっそりとした表情で部屋と事務室を行き来している。ブツブツと数字を呟き、たまに様子を見に行くと一心不乱にぱそこんを叩いていることが殆どだった。だからその時期だけは、松井はれっすんを免除されるほどで。
     もしかしてそのとき使っているソフトのことか。
    「まだやらせるの……?」
    「そうは言っても主も表計算ソフトは使う。そうだろう、主」
     松井に聞かれると、彼女はいともたやすく頷いた。
    「え、うん。政府から送られてくる形式がそうだったりするし」
    「ほら」
    「くっそお……」
     うぅと呻きながら村雲は松井に示された緑色のソフトをじっとりと睨む。仕方ない。これも近侍だから、近侍でいられるからだと思えば……いや少し辛い。
    「だから無理しなくていいって」
     事務仕事に戻るからまた今度教えると村雲に言って出て行った松井を見送って、彼女がくすくすと笑いながら言った。
    「でも使えた方がいいんだよね」
     気が重い。文机の上に顎を置いて村雲は呟いた。すると彼女はうーんと言いつつ、自分のきいぼおどを叩く。
    「まあね」
    「ほらぁ……」
     だがこればっかりは松井に教わらないと何もできないので、村雲は仕方なしに置いてあった処理前の書類を手に取る。かたかたと記録だけ打ち込んだ。
     それを彼女はじっと見つめていたが、そのうちに少し横にずれて村雲のすぐ隣に来る。
    「……一番使うファイル、使い方教えてあげる」
    「え?」
    「ちょっと貸してね」
     彼女は手を伸ばすと、村雲のぱそこんを操作して一つ「ふぉるだ」を開いた。これは作った書類を整理しておくための戸棚だと松井が教えてくれた。
    「ここにね、編成表が入ってるんだけど」
    「編成?」
    「そうそう。毎朝発表してもらうやつ。これで作って、紙で保管もしておかなくちゃいけないし、政府にも提出する義務があって」
     カチカチと何度か「まうす」で「くりっく」すると村雲のぱそこんに緑のソフトが立ち上がる。そこには真四角の方眼紙のようなものが描かれており、日付と部隊名、刀剣男士の名前がつらつらと書かれていた。
    「タブで月ごとに保管してる」
    「たぶ」
    「下のやつ。年月が書いてあるでしょ? それで、新しいのを作るときはこうやって前のの月のデータでタブごとコピーを作る。見ててね。まずマウスの右をクリックして」
     カチ、カチと彼女は説明しながら村雲の前で操作を見せる。特に難しいことはしていないように見えた。
    「やってみて」
     彼女が体を起こして村雲に促した。村雲はおずおずとマウスに手を伸ばし、彼女がしていた通りに繰り返す。右クリック、コピーを作成、タブの日付を書き換える。
    「ほら、できたでしょ」
    「……案外簡単だった」
    「ね?」
     緩く微笑んで、彼女は村雲の方を振り返った。思わずどきりと胸が鳴る。自分の文机の前に戻りつつ彼女は続けた。
    「表計算ソフトって色んなことができるけど、百使いこなすのは難しいし。私も使いきれてない機能とかあるよ。わからなくなる度に調べてる」
    「そうなの?」
     てっきり、すっかり丸ごと全部使えるようにならなくてはいけないのだと思った。すると彼女の方が苦笑して首を傾げる。
    「……今はよっぽど松井君の方が私よりできることが多いんじゃないかな。まあそれはそれとして、いきなり全部できるようになろうとしなくていいから」
     なんだ、そっか。そうなんだ。安堵した村雲はホッと息をついて脱力する。
    「よかったぁ、またやらなきゃいけないことが増えたのかと思った」
    「あはは、タイピングもそんなに焦ることなかったのに。……本当に短期間に色んなことができるようになったね」
     頑張ったね、と彼女は言った。
     彼女にそう言ってほしかった気持ちは確かにあるのに、いざ現実に褒めてもらえると面映ゆい。村雲は思わず身を縮こめた。
    「ほ、褒めてなくていいんだ」
     すると彼女はいつもの悪戯っぽい笑顔で村雲を覗き込む。
    「ほんとに?」
    「う、ちょっ、ちょっと褒めて、ちょっとだけ」
     慌てて村雲が言うと、彼女は瞳を和ませた。
    「……うん、本当に、頑張ってると思ってるよ」
     心の中が、温かくなる。
     たった一言だけ、それだけなのに。思わずぎゅっと衣服を握る。嬉しくて、どこか気恥ずかしくて、それでも幸せで。村雲は彼女を好きになってからずっとそうだ。
     それを村雲はずっと恋だと思っていた。とても幸せな恋なのだと。きっとそうだと、思っているけれど。
    「じゃあ頑張ってる雲さんにちょっと書類の記入手伝ってもらおうかな」
    「え、うん。手伝うよ」
     冗談めかして彼女が言うのに、村雲はハッとして頷く。彼女は村雲に書類を渡してファイルを開き、打ち込むよう頼んだ。画面には編成のものと同様に刀の名前と日付がつらつらと書かれている画面が映し出される。
    「これは内番の記録、なるべく被らないようにしてて。この書類の通りに畑と馬と手合わせと、記入してくれるかな」
    「わかった」
     村雲の返事を聞くと、彼女は微笑んで立ち上がった。一度だけ伸びをして、村雲に言う。
    「ありがとう。私はちょっと厨の方にさっき呼ばれたから、顔だけ出してくるね。ついでにおやつもらって、すぐ戻るから。帰ったら休憩にして食べよう。今日は色々落ち着いてるし」
    「わん!」
     なんとか打ち込みが早くなったおかげで、初日のような慌ただしさは今のところなかった。近侍になってから少し経って、村雲も慣れてきたというのもある。それでもやることが多いという「月末」や「期末」はまだ経験していないのでそれがやや恐ろしくはあるのだが。
    「……ねえ、雲さん」
    「なに?」
     執務室を出ようとする寸前で、彼女は不意に呟いた。書類に手を伸ばしかけていた村雲は顔を上げてそちらを見る。彼女はこちらに背を向けていた。
    「……嫌じゃないの? 私は雲さんのこと、好きにならないって言ったんだよ」
     落ち着いている、と彼女が言った通り本丸の中は珍しく静かだった。誰かが話している声なんかもすべて、どこか遠くに聞こえる。彼女の声だけが盆に張られた水のように平坦だった。
    「刀剣男士としては雲さんのこと愛せても、雲さん個人のことは絶対に好きにならない。そう言ったんだよ。もうわかるでしょう? 私は頑固なの。ここで刀剣男士の皆が幸せに暮らせるようにしたいっていうのは、絶対に諦められない。だから一度そう決めたら、曲げられない」
     村雲は少し、彼女の背中から視線を下げた。
     まあ、確かに村雲の前で彼女が何か主張を変えたことは一度もない。最初に無理だと言ったから、手掛かりさえくれなかった。厳しいことを言われているはずなのに、村雲はそれでちょっと笑いそうになってしまった。どうしてだろう。
    「雲さんが頑張るのは、私も嬉しい。でもそれは、私が雲さんの主だからなんだよ。雲さんが強くなれば、ここでできることが増えるなら、それは雲さんがここで過ごしやすくなるってことだから、審神者の私は嬉しい。それだけなんだよ。雲さんが頑張ってることが、私にとっても都合がいいことってだけ。雲さんが私のことを好きな気持ちが都合がいいだけなんだよ」
     酷なことを、言われている。
     それはわかっている。けれど何故だかどうして、村雲の胸は今、痛んでいない。
    「嫌なら、いつでもやめたっていいんだよ。それでも、私は雲さんに対する態度を変えたりしないから」
     やめてもいいと、それでも自分は村雲の主でいることは変わらないと言われるのはもう何度目だろうか。
     最初からずっと、村雲の恋は望み薄だった。どれだけ頑張っても、彼女は自分の態度を変えなかった。何度だって強くなるまでは考えないと釘を刺した。褒めてくれる、認めてもくれる。けれど、村雲の気持ちには応えてくれなかった。
     だがそれでもどうして、村雲は辛くなかったのだろう。
    「……いくらでも俺の気持ちに付け入ればいいよ」
    「……」
     こちらに背を向けて立ったままの彼女に、村雲は言った。
    「俺は二束三文の負け犬だから。主に利用してもらう価値なんて本当はないんだ」
     ほんの少しだけ、そう言ったとき彼女がこちらを振り返ろうとした。それがどうしてだか、村雲にはわかる。ずっと、わかっている。
     きっと、それがわかっているから辛くないのだ。
    「だから主が付け入ってくれるなら、それでいいよ。俺も主が刀剣男士の俺のことを好きだって気持ちに付け入ってるんだから。だって俺が好きだって言ってる間は、主は俺のこと無碍にできないし」
     ね、と明るく言っても彼女は返事をしなかった。でも、ちゃんと聞いてくれているのだろうと村雲にはわかる。
    「負け犬だけど、犬だから。裏切らないって雨さんも言ってた」
     一度、二度、彼女の背中が上下する。それからゆっくりこちらを振り返った。悲しんでも、喜んでもいない。けれどどこか澄んだ目で彼女は村雲を見つめた。
    「……手が止まってる」
    「あっ、わん!」
     村雲は慌てて書類の一番上を取った。馬当番、馬当番の欄はどこだ。カタカタと刀剣男士の名前を打ち込み始める。彼女はその姿をしばらく眺めると、いつも通りの明るい声で言った。
    「じゃあすぐに行っておやつ、もらってくるね。ちょっと待ってて!」
    「うん、……行ってらっしゃい」
     彼女が手を振るのに、村雲は振り返した。少し速足で足音が遠ざかっていく。
     本当は、どうにもならないのかもしれない。村雲がどれだけ頑張っても、彼女が村雲に振り向いてくれることはなくて、やっぱりこの恋は終わってしまったのものなのかも。
     それでも、あの夜決めたのだ。やることが多くても、考えることが山積みでも絶対に。何かを頑張ることは苦手だけれど、それでも彼女のことが好きすぎて、諦めることができなかったから。
    「……でもちょっと多いな」
     領収書仕分けもそうだけれど、こういう細々とした作業苦手なんだな。
     ちょっとだけ笑って、村雲はカタカタと刀剣男士の名前を打ち続けた。


    「主、遅いな」
     村雲は小さく呟く。すぐに戻ると言っていたのに。もうとっくに内番の記録は打ち込んでしまっていて、暇を持て余して打ち込みの練習を始めてしまったが、それでも彼女は帰ってこない。厨から戻る途中でどこかで誰かの手伝いでもしているのだろうか。それなら村雲もそちらに行った方がいいのでは。だが、執務室を無人にしてもいいのだろうか。誰か尋ねて来たりしたら。
    「……加州に、聞いてみようかな」
     最初にわからないことは聞けと言っていたし、彼女がいないときはどうしたらいいかだとか教えてもらうのは悪いことではないだろう。部屋か広間にいると言っていた、行ってみようか。そう悩んでいると足音が聞こえてきて、村雲はパッと立ち上がり出入口の方に向かった。
    「主!」
    「ぅわっ! えっ、なに」
    「え、あ、加州……」
     村雲が主だと思った足音は、どうやらおやつを持ってきた加州の足音だったらしい。お盆を持った加州が立っている。ぶつからなくてよかった。しかしおやつなら彼女が持ってくると言っていたのに、どうして加州が運んできてくれたのだろう。
     しゅんとした村雲を見て、加州は片眉を上げる。そのまま執務室に入ると、文机の上にお盆を置いた。村雲はもう一度中庭、それから奥の廊下に目をやる。彼女が戻ってくる気配はない。
    「そんなあからさまにがっかりしないでよね。なに、主いないの?」
    「あ、うん。見回りから戻ってずっと待ってるんだけど。帰ってこなくて」
    「ふぅん。それでタイピングの練習してたわけね」
     そう言われて振り返れば、屈んで膝を抱えた加州が村雲のいじっていたパソコンを覗き込んでいたので、村雲は慌ててそこに飛びついてパソコンの蓋を閉じた。
    「まだ練習中だから!」
    「でも練習の題材に奥の細道選ぶ? 渋すぎない?」
    「あっ、雨さんが好きだから!」
     焦る村雲を見て、にやっと加州は笑って立ち上がる。
    「ま、いーや。頑張ってるみたいだし。最初はバタついてたみたいだけど」
    「……今頑張ってるから」
     ぶちぶちと村雲が言っていると、加州は笑ってひらっと手を振り、執務室を出て行く。
    「主、どっかで誰かに掴まってるかもだし。探しに行って来たら?」
    「え、いいの? ここ誰もいなくなっちゃうけど」
    「いーよ。主が一人の方が気になるし」
     そうか、そう言われてみればそうだ。村雲は再び勢いよく立ち上がると、執務室を飛び出した。
     とはいえ、一体どこにいるのだろう。全く見当がつかない。村雲も見回りでひとしきり本丸内は歩いたけれど、その間彼女とはすれ違わなかった。もちろん本丸は広いから、それは全く不思議なことではない。けれど見て回る箇所は限られているわけだから、もう一度畑や厨なんかに行ってみるべきだろうか。
    「でもその間に主の方が帰ってきちゃった、ら」
     ひとまず厨の方に向かっていた村雲は、足を止めてスンと鼻を鳴らした。
     甘い匂いがする。厨の方じゃない。菓子の甘いそれでもない。村雲は厨の手前で廊下を曲がった。刀剣男士の居住する棟でもない、物置だとか、鍛冶場があるほう。資材の匂いに交じって別な香りがする。最近、いつも身近にあったもの。彼女の匂いだ。小走りで人気のないその辺りを進んでいると、小さな声を村雲の耳がとらえた。
    「……はい、わかっています」
     主の声だ。きょろきょろと村雲は周囲を見回した。部屋らしい部屋はない、けれど納戸だろうか、木戸があるのを見つけて村雲は耳をそばだてた。
    「いえ、ですから」
     当たりだ、中から主の声がする。そっと少しだけ戸をずらす。隙間からは彼女の背中が見えた。誰かと話しているようだけれど、他に誰も見えない。さほど広い場所でもないから、彼女は一人だろう。村雲が首を傾げていると、耳元に通信端末が見える。どうやら相手はそれらしい。
    「仰ることもわかりますが」
     若干だけれど、彼女の声が普段よりも硬い。少なくともこの本丸の刀剣男士相手の連絡ではない。それに刀剣男士相手の連絡をこんなコソコソと取る必要ないだろう。と、なると一体誰だ。政府の誰かだろうか。審神者なのだから、それは何も不思議なことではないが。
     けれど何よりも、緊張したような彼女の声音の方が気になった。あれではまるで、何かに叱られているような。
    「っ!」
     と、思っていたらまさに何か喚いているような声が微かに響いた。村雲も驚いて飛び上がる。通信端末越しで、何を言っているのかまでは判別できない。しかし村雲にまでしっかり聞こえるようなそれ。彼女も顔をやや通信端末から離した。
     その喚き声はしばらく続き、収まった頃に彼女も耳の位置を戻す。
    「……はい、わかりました。今日中にお送りします」
     彼女は静かに答えた。どうやら話は終わりらしい。村雲がはらはらしながらその後姿を見つめていると、彼女は通信端末を持っていた手をおろし、はぁあと長い溜息を吐いて蹲った。
    明かりもなく、薄暗い場所だと随分小さく見える背中。
    「主!」
     急いで村雲は扉を開けて傍に寄る。狭い納戸ではもうこれ以上誰も入れそうになかった。首をもたげた彼女が屈んだまま振り返ってこちらを見る。
    「……あれ、雲さんなんで」
    「どっか痛い? 大丈夫? 篭手切、こういうときは薬研か、呼んで」
     ずるずると身動きして半回転すると、彼女は体ごと村雲に向き直って首を振った。
    「大丈夫大丈夫、どこも痛くないから。ありがとう」
    「でも」
    「平気平気。それより何でここにいるの?」
     穏やかに笑って彼女は聞くので、村雲は拍子抜けした。先程はかなり、疲れて見えたのだが。
    「主、待ってても帰ってこないから」
    「でもよくわかったね、ここ。ただの納戸なのに」
    「廊下歩いてたら匂いがして、俺鼻がいいから」
    「匂い?」
     彼女が訝しそうに首を傾げる。それでハッと村雲は気づいた。
     まったく気にしないでここまで追ってきてしまったが、彼女の匂いを辿って来たと口にするとあまりにもちょっと、アレではないか。
    「ちがっ、最初から匂いを辿るつもりはなくて、最初は、厨に向かってて」
    「匂い、ねぇ……」
     やはり彼女も微妙な表情で村雲を見上げている。違う、決して変な意味ではない。普段から常にそういうことをしているわけではない。
    「鼻がいいのも困りものだなぁ」
    「ごっ、ごめん、今日だけだから! 今日だけ、たまたま!」
     ……実のところを言うと、本当は何度か彼女がどこにいるのか探すのに鼻を頼ったことはあるけれど今日は黙っておくことにする。
    「あはは」
    「からかわないで、ね、本当に今日だけだから」
    「わかったわかった」
     誤解をされたくはなかったけれど、彼女が笑いだしたので村雲はやや安堵した。本当に先程まで、あまり元気がなさそうに見えたのだ。
     ひとしきり笑った後に、はあと彼女は息を吐く。まだ村雲も彼女も何度の板間に座り込んだままだった。
    「……ごめんね。聞いてたんでしょ?」
     村雲は肯定も否定もできずに視線を伏せた。聞いていたのは確かだ。
    「なんだか今日は調子悪いな。かっこ悪いところばっかり見られて」
     きまり悪そうな言葉とともに、彼女は襟足のあたりを掻く。村雲は慌てて首を振った。むしろ気になることがある。
    「いつも、あんな風なの?」
     まだ会ったことがなかったので気にもしていなかったが、各審神者には担当の政府役人がいると加州からもらった手引書に書いてあった。政府の上層部への窓口になったり、たまに視察に来る人間なのだそうだ。それがまさか、あんなに怒鳴ったり喚いたりする人間だったなんて。
     しかし彼女はあっけらかんとして首を左右に振る。
    「いいの、あんなクソ親父のいうこと。気にしてないから」
    「クソ親父っ!?」
     とんでもない単語が彼女の口から飛び出してきたので、村雲は思わずひっくり返った声で復唱してしまった。ああと彼女は口を押える。
    「あ、ごめんつい本音が」
    「ほ、本音? いや、ううん、クソ親父はそうかもしれないし」
     事情はまだ分からないけれど、端末越しにあんなに怒鳴るのだ。村雲は怒られるのはもちろん、大きい声で叱られるのも嫌いである。自分だって同じことをされたらクソ親父と思うだろう。ましてや主相手にそんなことするなんて、うん、クソ親父で間違いない。
    「お腹痛くなってない?」
    「大丈夫大丈夫、まあよくあることだし」
     彼女は軽い調子で言ったけれど、村雲はそれでも心配だった。
     大声で怒られて、気分がいいことなんてきっとないはずだ。自分の落ち度なら落ち込むだろうし、そうでないとしたら傷つくだろう。
     腑に落ちない村雲の様子を見てか、彼女がさらに付け加える。
    「それにほら、私強いって言ったで」
    「っ傷つくのに、強いも弱いも関係ない!」
     思わず強く反論してしまった。彼女が吃驚したように目を開く。
    「……雲さん」
    「傷は、傷なんだ……強くたって弱くたって、傷は傷だよ。痛いものは、痛いんだ」
     だからついていい傷なんて、一つもないはずなのだ。
    「自分は大丈夫だって、決めつけないで……俺のお腹が痛くなる」
     知らないところで彼女が怒鳴られていると考えるだけで、辛い。そして苦しい。
     村雲がお腹が痛いと言えば、どんな程度のものでも江の誰かが気にかけてくれる。彼女だって、どうしたのかと寄り添ってくれる。痛みがそうでもないからと言って、誰も邪険になんてしない。それと同じだ。痛いは痛いのだ。
     毎日頑張っているのに、それこそ脇目も振らずに、色んな無理をしているのに。どうして大丈夫なんて言うのだ。どうして怒鳴りつけて怒ったりするのだ。
    「……ごめんね」
     静かに、彼女が答える。視線を上げると、彼女が眉を下げて、それでも少しだけ笑った。
    「ありがとう、雲さん」
     ……クソ親父、本丸に来たら覚えてろ。村雲は内心で呟きながら、口をへの字に曲げて腕を伸ばし彼女の手を握る。
    「そもそも主だってこんなところでこそこそ隠れて怒られなくたって……」
    「ごめんごめん」
     ぶちぶち呟く村雲に、彼女が言った。あははなんて軽く謝っているが彼女もわかっているのか。今もお腹が痛いんだぞ。じっとりと村雲は彼女を見つめる。
     いや待て、それよりも先ほど何か聞き捨てならないことを言っていたのを思い出した。ぎゅっと村雲は彼女の手を握り直して問いただす。
    「何か今日中に送るって言ってなかったっ?」
    「え、やだそこまで聞いてたの」
    「何送るの、また夜更かしするつもり? というか俺に黙ってるつもりだった? 手伝うよ」
     さっさと寝かせたいし、夜更かしを免れないのならそれはそれで夜食を作っておきたい。この間、空き時間で見た料理番組の肉じゃがを試しに作ってみたいのもある。
     彼女はやや、悩んで眉間に皺を寄せた。村雲はまだ、近侍としてやはり日が浅い。もしかしたら村雲には困難な作業なのかも。
    「難しいことなの……?」
     それならそれで、加州を呼んでくるしかない。多少いじけたい気持ちにはなるが、それはそれ。あとで彼女に甘えればいい。
     だが彼女は首を振った。
    「いや、難しいと言うよりは……作業自体は打ち込みができればいいから、雲さんにお願いできるんだけど。時間がかかるの。前は一週間かかった」
    「えっ、じゃあなんで今日中なんて」
    「今日中ってあのクソ親父に言われちゃって」
     本当にクソ親父じゃないか。
     村雲があまりのことに唖然としていると、彼女がひと呼吸おいて居住まいを正した。
    「ごめんね、もう少しして政府から正式な告知があったら雲さんにも言うつもりだったんだけど」
    「う、うん」
    「ちょっと前に政府から特別通告があったの覚えてる?」
    「あ……覚えてるよ。主が広間に皆集めてたの、だよね」
     こうも刀剣男士の数が多くなってくると、大抵の連絡事項は本丸内の掲示板で行う。当日の編成、内番の割振、厨当番や事務担当からのお知らせ。そういう連絡は全て掲示板に所狭しと貼られるものだ。
     それが珍しく、というか村雲が来てからは初めて、全刀剣男士が大広間に召集されるようなことが先日あった。あのときは加州が近侍として説明に立っていたのを覚えている。
    「大侵寇、だっけ」
    「そう。合戦場で敵に異様な動きがあった。それは近いうちに遡行軍が大規模な攻撃を仕掛けてくる可能性だって政府は判断したの。それで各本丸にね、既存戦力の底上げをするように通達が来た」
     そうだ、覚えている。政府は修行を終えて極の姿となった刀剣男士はもちろん、練度が上がりきっていた刀剣男士も再度最前線に立たせるように指示してきた。それでひっきりなしに出陣できるように、多岐にわたる編成を組まねばならなかったのだ。
    「数字だけ見ても、いつも通りの日課とか、月課よりずっと達成目標が高いし、戦績によって数字で政府からの評定がつく。しかも実際に行うならもっときついものになるのも目に見えてた。だから事前に皆で話し合ってもらって、それを清光と取りまとめて、無理のない出陣計画を組んで提出したの」
    「そう、だよね。疲労度が溜まるからって、結構細かく聞かれた気がする」
     この程度の間隔で出陣することは可能か、どの合戦場に出陣経験があるか、刀種や極の姿であるかないか、様々な要因によって刀剣ごとに異なる。例えば村雲は、顕現してからこちら屋外の夜戦への出陣が多かった。それは村雲が打刀で投石での遠戦が可能であり、夜目がある程度効くためである。昼戦にももちろん出陣は可能だが、敵の強さによっては厳しい合戦場もある。
     サッと村雲は青ざめた。あの話し合いと擦り合わせを、今日中にしなくてはならないのだろうか。しかもそれで終わりではない。出陣計画を取りまとめて提出する作業だってある。
    「なっ、なんでやり直しになったの?」
     それを作ったとき、近侍は加州だったはず。主と加州に限って手を抜いたとは考えられない。
    「……足りないって」
    「えっ?」
    「出陣回数、足りないって」
     彼女は珍しくはっきりと顔を顰めて顔に手をやった。
    「ちゃんと規定の数は満たしてるものを出したの。でもうちの普段の戦績ならもっといけるはずだから、練り直せってお小言」
    「練り直しっ? 規定は満たしてるのに?」
    「……甘いんだって。私の考え方が」
     悔しそうに、彼女は唇を噛み締める。
    「刀剣男士は私が想定してるよりずっと頑丈なんだから、もっと出陣させていいって。今回の訓練は刀剣破壊もないから、もっとやれるはずだって」
     えぇ……と村雲はやや身を引く。それはその通りで、何も間違ってはいない。確かに刀剣男士は丈夫ではあるけれど。
    「ちょ、ちょっとそれ、酷くない?」
    「酷いよ、酷いに決まってる。有り得ないよ。思い出したら腹立ってきた」
     彼女は即座に答えた。それどころかかなり怒っているようで、村雲が握っている手に力がこもる。
    「そんなモノとして刀剣男士を扱うなら、自分たちと同じ人間の体にする必要なんてない。同じ体にして、同じように生活させて、それなのに」
    「……」
     けれど、役人の言うことは間違っていないのだ。そう思ったが村雲は黙っていた。
     何も、間違っていない。刀剣男士は当然ながら身体能力は人間よりも優れている。加えて破壊さえされなければ、手入れで全て元通りになる身体だ。人間のように簡単に死なない。
     同じ姿であっても、彼女とは決して違うモノなのである。
     それでも、これだけ怒ってくれる。人間と同じ扱いを村雲たちが得られないことを、これほどに。
     そう思えばなんだか、村雲は幸せな気持ちになってしまうのだ。
    だがよほど腑に落ちないのか、彼女は腹立たし気に更にまくしたてる。
    「研修で散々相手は付喪神で上位の存在なんだから敬えとか言ってるくせに、どの口が言うんだろう。今度パワハラで申告してやろうかな」
    「……えへへ、うん」
    「なんで笑ってるの」
     ムッとして彼女が言うので、村雲は慌てて首を振った。
    「う、ううん、でも出陣計画なんとかしないと」
    「皆にもう一回相談しないと……。出陣の計画、もう一度決定版として回しちゃったし」
     もうすぐ日が落ちる頃合い、時間はあまりにもない。擦り合わせさえ完了すれば、打ち込み作業は村雲にもできるだろう。
     ひとつ、村雲は息を吸いこんだ。
    「……俺が皆に頼んでくる」
    「え?」
    「主は出陣計画、見直して。どこをどう増やせばいいか考えて。それは俺より加州のほうが得意だと思うから、加州呼ぶ」
     ぎゅっと一度だけ彼女の手を握って、村雲は立ち上がった。
    「大丈夫、何とかする。何とかするから」
     皆、自分みたいな負け犬のなんかの言うことを聞いてくれるか、わからないけれど。
    「雲さん!」
     パッと村雲は納戸を飛び出した。執務室に駆け戻り、ぱそこんを取って踵を返す。広間なら、この本丸内で一番刀がいるはず。足早にそちらに向かって廊下を進み、襖に手を掛け……指が少し震えた。
     怖い。
     村雲は、ここに来て間もない新参者。練度はある程度上がっていても、力量ではまだまだ劣る。それに二束三文の役立たずだ。頭を下げるのは惜しくない。けれどそれで、聞いてくれるかどうか。村雲なんかの言うことに、耳を傾けてくれるかどうか……。
    「……でも、言わなきゃ」
     ぐっと持ち手にかかる指に力を込める。
     彼女の、ためだ。
    「あのっ」
     ガタっと音を立てて勢いよく襖を開く。夕飯前で机の配置をしているもの、空き時間に自由に過ごしているもの、やはりたくさんの刀がいた。大きな音を立てたので、当たり前だが一斉に皆こちらを見る。
     うっ、と村雲は言葉に詰まった。
     なんと言えばいいかなんて決まっている。簡単だ、出陣計画を練り直すのを手伝ってほしい。ただそれだけ。
     それだけなのに。
    「……雲さん」
     パタパタと後ろから彼女が追いかけてきた足音が聞こえる。僅かに首を回せば、彼女がこちらを見ているのがわかる。
     ……言わなくては。
     頑張っている、彼女の力になりたい。
    「あ、の」
     ぐっと唇を引いて、村雲は顔を上げる。指先が震えて、酷く冷たい。お腹は限界を超えてもうひっくり返りそうだった。鳩尾のあたりがひくひくと痙攣して、声を発するのも辛いけれど。
    「手伝って、ほしいことがあって」
     前に全員ですり合わせをした出陣計画を、返されてしまったこと。まだまだ数を増やすように政府から言われたということ。できるだけ詰まらないようにしながら、ゆっくり村雲は言った。
    「それで組んだ編成、今日中にやり直さなきゃ、いけなくて」
     一息に、村雲は頭を下げる。結っていた髪が前に落ちてきた。
    「お願いします、手伝って、ください」
     声を振り絞って、村雲は言った。駄目だと言われたら、何度でも同じことをする。服の膝のところを握り締めた。
     首のあたりに視線を感じてひりひりとする。本当はきっと短い間だろうが、五分も、十分も頭を下げているような気がした。やはりだめなのだろうか。ぎゅうと歯を食いしばったとき、手前の誰かが息を吸った。
    「おう、いいぜ」
    「え……」
     あっさりと返事をしてくれたのは、和泉守兼定だった。顔を上げると、堀川と同じ色をした瞳と視線がぶつかる。
    「この間国広と休みもらったしな。近侍さんがこんな頭下げてんだ、いっちょやってやろうじゃねえか」
    「……いいの」
     村雲が繰り返せば、和泉守は首を傾げてもう一度頷く。
    「当たり前だろ、俺たち同じ本丸の刀なんだからよ。国広ぉ、書くもん寄越しなぁ!」
    「はいはーい。じゃあ机の配置変えないと」
     夕飯用に机を並べていた堀川が元気よく返事をする。それからにこりと笑った。
    「大丈夫ですよ村雲さん、皆でやればきっとすぐ終わります」
    「堀川……」
     にわかにガタガタと広間が騒がしくなる。広間にいなかった刀も、各々で呼びに行ってくれたようだった。瞬く間に遠征に出ているもの以外が集まり始める。
     ぽんと背中の中央を誰かが叩く。振り返ると、彼女がすぐ後ろに立っていた。
    「……ありがとう。これから長丁場だね」
    「主……」
     柔らかい彼女の声に涙が出そうになって、村雲は慌てて下唇を噛んだ。村雲の背中を摩ると、彼女も隣で頭を下げる。
    「皆ごめん。一度組んでもらったのを直す手間をかけるけど」
    「何言ってんの、差し替えしてきたのどうせあのクソ親父でしょー?」
     一足先に編成表を机に広げた加州が、頬杖をついて言う。「あの」と言われる辺り、政府の担当役人がこうして何かを言ってくるのはやはり初めてではないようだ。もし来たら吠えようと村雲は思った。
    「皆でやろ。村雲、どうすればいいか、指示出して」
     加州が歯を見せて笑って言った。村雲は一度だけ頬のあたりを手の甲で拭う。
    「っ加州は主とどこ直したらいいか見て。他の皆は、六振の部隊編成組んでほしい。そしたら、どういう順番で、どこに出陣するか決める」
    「おっけー。ささっとやっちゃお」
     パンパンと加州が手を叩く。村雲は手前の机でぱそこんを開いた。きいぼおどの前で手を握ったり開いたりする。
     ……長い夜になりそうだ。


    「お、わったぁ」
     広間に集まってくれた刀剣男士たちを解散させたのは十一時すぎのことだった。日付が変わって早二時間。村雲が一心不乱に刀剣男士たちの名前を打ち込んだ編成表を、彼女は政府の担当役人に送信した。
    「送った、お疲れ様……」
    「日付変わっちゃったけど、いいの?」
     隣でぐでってと文机の上に倒れこんだ村雲が聞くのに、彼女はひらひらと手を振った。
    「平気平気、明日あの人が朝メール開くまではセー、フ?」
     なんて村雲に返事をしているとピロンと音を立ててメールを受信する。件の担当役人だった。開けば確認した旨が書いてある。これで受理するとも。
    「え、まだ仕事してたの」
    「えぇ? 丑三つだよ?」
     彼女の呟きに村雲が体を起こして画面を覗き込む。受信時刻を確認して、お互い顔を見合わせた。
    「やるねえクソ親父」
    「案外待っててくれたんだね、クソ親父」
     二時まで政府のデスクで待ち構えていたのだろうか。なんとなくその姿を思い浮かべ、彼女はふっと吹きだした。するとつられたように隣の村雲も笑い始める。
    「あは」
    「へへ」
    「あはは」
     夜中でもう皆が寝静まった本丸はしんとしている。その中でひとしきり、彼女と村雲は笑い続けた。作業をずっとしていて、気持ちが妙に高揚していたのもある。
    「一緒に起きててくれたみたいだから、今回は許してあげようかなあ、クソ親父」
     彼女がふふふとまだ残った笑いを零しながら手の甲で口元を押さえると、村雲は口を尖らせて胡坐をかいた。それからするすると結んでいた髪紐を取る。跡がついた髪は元々の癖もあってふわふわしていた。
    「えー。俺は次来たら絶対吠える」
    「吠える?」
    「吠えるよ」
     むくれた村雲が面白くて、彼女はまた少し肩を揺らした。それからふと気づいて傍に避けてあったお盆に手を伸ばす。
    「雲さん、こんな時間だけどお腹もすいたし作ってもらった夜食食べない?」
    「食べる」
     ラップに包まれたおにぎりを手渡す。これは厨当番の歌仙が作っておいてくれたものだ。一区切りついたらと思っていたら、こんな時間になった。いただきますと手を合わせ、二人してぺりぺりとラップを剥がす。冷めてしまっているが、十分美味しい。
    「あ、おかかだ。美味しい」
     彼女がそう言えば、村雲は顔を上げた。大分眠そうな目をしている。
    「おかか、好きなの?」
    「うん。雲さんのも一緒?」
    「うん」
     もごもごと口を動かしているものの、集中力が切れたせいか村雲の視線は大部怪しい。とろんとしているというか、かなり頑張って開けている様子が見て取れる。
    「雲さん?」
    「……やしょく、つくりたかったな」
    「え?」
     きちんとおにぎりを一つ食べてから、村雲は力の入っていない手でラップをくるくるとまとめる。
    「このあいだ……にくじゃがのつくりかた、みたから」
    「うん」
     見たって何でだろう。テレビの料理番組だろうか。最近熱心に料理番組を見てはメモを取っていると、篭手切が言っていた。
    「でも、おかかも……こんど、おそわっておくね」
     しかし村雲はふわふわとした口調でそう言うと、遂に限界が来たのかこてんと手前に倒れる。そこには彼女の膝があった。
    「……やっぱりなんだかんだ言って結構、図太いんだよなぁ」
     彼女は自分の膝を見下ろして、小さな声でぼやいた。膝に倒れこんできた張本人は既に眠りに落ちてしまっていて、下手をするとどうしてこの体勢になったのかも覚えていないかもしれない。恐らく一時間、いや二時間くらいは平気で目を覚ますことはなさそうだ。その間自分もここから身動きは取れないだろう。ふぅと息を吐いて、彼女は下半身はそのままで上半身を倒し、文机に頬杖を突く。ねむい。もうここで眠ってしまおうか。
    「……」
     正直なところ、彼女が想像していたよりもずっと、村雲は粘り強く、諦めが悪かった。
    もちろん彼女だって、村雲に到底できないことを押し付けて、向こうから投げ出してくれないかなんて阿漕なことを考えていたわけではない。それでもかなり無理なことを言った自覚は彼女にだってあったのだ。大体自分より強くなったなんて誰が判別する。彼女がだめだと言ってしまえば、それで終いではないか。
     だがそれ以外に、何と答えたらいいのかわからなかった。
    「……あはは、ピンクのふわふわ」
     膝の上にある村雲の頭を撫でる。髪の毛はちょっと癖がついて、ふわふわで。作業の途中で上着を脱いでしまったので、髪よりも濃いピンクのセーターを着た背中が穏やかに上下していた。よく眠っている。
    「あったかい」
     諦めたって、よかったのに。
     彼女にとって刀剣男士に好意を向けられるのは、初めてのことではない。もちろんそれは親愛、敬慕という名前の感情が大半で、必ずしも恋愛感情ではなかった。
     それに稀に恋愛感情に似たようなものを抱くような刀剣男士も、ここでの生活や肉体に慣れると、やはりその気持ちを「主」に対するものに次第に変化させていった。それが彼らが諦めたがゆえのことなのか、恋ではないと理解してのことなのか、彼女にはわからない。知る必要もないと思っている。どういう経緯であったとしても、彼女が彼らを愛していることは変わらない。ここで共に生きる、大切な仲間であることも。
     だから、村雲がもしも途中で諦めてしまったとしても、彼女はきっといつも通りのことだと思っただろう。仮にそれでも村雲が彼女の傍が心地いいと言うのなら、好きなだけそこにいればいいと言っただろう。
     それが彼女の、主としてすべきことだ。
     でも、段々わからなくなってきてしまった。
    「……寝ちゃうか」
     彼女はそろそろと慎重に村雲の頭を持ち上げて、自分の膝の代わりに座布団を差し入れた。物音を立てないように注意しながら、押入れから毛布を取り出す。大分暖かくなってきたから、これだけでも風邪を引くことはきっとないはず。彼女は村雲に毛布を掛けた。
     ここに一人だけ寝かせておくわけにもいくまい。彼女はもう一つ座布団と毛布を取り出すと、パチパチと明かり常夜灯にして自分も少し離れて横になった。
    「おやすみ」
     返事がないとわかっていながら、それでも声をかける。うつ伏せで、首だけ横を向いていて、寝違えないだろうか。気持ちよさそうに眠っている村雲の顔を見つめて、彼女は思った。
     ……もう、わからないのだ。
     自分は村雲に諦めてほしいのか、それとも、そうでないのか。
     どんなことがあっても、彼女はここにいる刀剣男士を好きにはならない。ひたすらに審神者としての任に当たることが、彼女が唯一、ここにいる刀剣男士たちに報いる術だと思っていた。
     もう何年か前の、あの日から。
    「目が覚めてすぐに、すみません審神者様。手足が動くようでしたらどうか、手入れをお願いできませんか」
     彼女が九死に一生を得て、何とか意識を取り戻した日。枕元に立ったこんのすけが言ったのはそんなことだった。
     襲撃に遭った彼女の本丸の刀剣たちは、彼女が処置を受けている間に政府の方であらかたの手入れをしてくれたと聞いている。手が回らなかった刀がいたのだろうか。そうしてまだ満足に身動きのできない彼女が、車椅子に載せられて連れて行かれた部屋にいたのは、もうヒトとしての体の形を保っていない塊だった。
    「きよ、みつ」
     すぐに近寄って抱きしめてやりたかったのに、それも彼女の体の状態では叶わなかった。
     包帯で覆われた顔の隙間から聞こえるあえかな呼吸で、辛うじてまだ生きているとわかる程度。彼女がそれを加州清光だと判別できたのは、たった一本胴体に繋がっていた右手の爪が、この怪我を負ってなお不思議なくらい美しい赤だったからだ。
    「損傷の程度が激しく、政府の方で下手に手を入れると破壊の恐れがありました。こうなると審神者様から手ずから修復をしていただけませんと」
     聞けば、清光はこんな体になるまでずっと、戦って戦って、政府からの救援まで持ちこたえたのだと言う。何のためにそんなことをしたのか、もう聞かなくてもわかった。清光が政府の手によって回収されたのは、彼女が倒れていたすぐ傍なのだ。
     彼らは自分がどんなに頼りない審神者でも、慕ってくれる。大切にしてくれる。その純粋過ぎる気持ちに応えるには、他のことに脇目も振らずに、ただ「主」でいることしかないと思った。だから誰か一振、特別な相手は決して作らない。そんなことはしない。皆等しく、彼女の大切で、大好きな仲間なのだから。
    「……」
     そろそろと、布団の端から手を出し、伸ばす。隣からは相変わらず規則正しい寝息が聞こえていた。指先にほんの少しだけ温かい体温を感じて、彼女は手を引っ込めた。
     夜中まで、彼女からの出陣計画を待っていた政府役人がいるように。そして彼女の立てた出陣計画通りに、戦いに赴く刀剣男士がいるように。この戦は、易しいものではない。
     彼女の明日の命さえ、保証されたものではないのだ。
    「おやすみ、雲さん」
     もう一度だけ、彼女は呟いた。
     返事はない、なくていい。ただ目を閉じて、彼女は深く穏やかな呼吸の音を聞いていた。

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    2023/01/29 16:38:29

    ③やるべきことが多すぎる

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    #刀剣乱夢 #雲さに #女審神者
    昨年完売した雲さに本のWeb再録です。

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