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    しおり
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    どうしても君と幸せになりたい


     もう、あまりよく覚えていない。
     それを自分が意図的に忘れてしまったのか、本当にずっとずっと昔のことで記憶が薄らいでしまっているのか、髭切にはわからなかった。ただそのどちらだったとしても、自分の目の前で起きたことには変わりがないのだが。
    「……愚かな子」
     目の前で倒れ伏したヒトの子に、髭切は呟いた。屈みこんで、血でべとつき固まりかけた髪を撫でる。最期まで戦い抜こうとしたその手には刀装が握られていた。こんなものを髭切に渡すために、結界の内から出てきてしまったのか。
     よかったのに。そんなことしなくても、よかったのに。髭切は刀で、戦うのが本分。その過程で折れてしまったとしても、それは仕方のないことなのだ。それなのに、どうして。
    「君が生きていてくれないと、僕は何もできないよ」
     ただでさえ、百年も生きられない命なのに。
     愚かでかなしい、命だ。
     ああだから、今度は、次の主ができるならきっと――。
    「……約束を果たすときが来たぞ、髭切」
     次に目を開けたとき、髭切の前に立っていたのはまだ若い女の子だった。



    「いや、いやいやいや、何やってるんです?」
     彼女が寮の部屋に戻ると、髭切が間取りのちょうど中央に配置していたはずの衝立を取っ払っているところだった。上着を椅子に引っ掛けて、黒いシャツ姿の髭切が衝立を抱えて振り返る。
    「あ、おかえり。今戻ったんだね」
    「ただいま帰りました、けど。何でそれ動かしてるんです?」
     いくら審神者養成学校の寮の部屋が広く取られていようと、やはり寮は寮なのでワンルームだ。それを彼女と髭切の二人で使うなら、どうしても仕切りはいる、そうでなければ着替えだの何だのどうすればいいのだ。だから髭切が教育係になって、この部屋に同居することになって、一番に置いたのがあの衝立である。彼女と髭切はあれを挟んで端と端にベッドを置いて今は寝起きしているのだ。
    「ああ、もうこれ要らないかなって思ってね」
    「は?」
     要らない? どうしてそんな発想になる。
     だがそれを問いただす間もなく髭切は衝立を壁のほうに寄せてしまった。そして今度はあろうことかベッドを移動させようとし始める。それには流石に慌てて、彼女も止めに入った。ずず、と音を立てて動いたベッドを押しとどめると、髭切はにこりと笑う。
    「おや、手伝ってくれるんだね、ありがとう」
    「いや、いやいや、違いますけど? えっ? 何を、何をしてるんですか?」
    「これ、くっつけてしまおうと思ってね、君のと」
    「はあ?」
     何を言っているのだ何を。わけがわからない。いよいよ彼女の頭は理解を諦め始めたらしく、ただ首を傾げることしかできなくなってしまった。
    「く、くっつける? どうしてです?」
    「言ったじゃないか、僕は君と幸せになるよって。手続きも終わって正式に僕は君の刀になったんだし、こんな隔てがあるのは寂しいよね。だからなしにしよう。僕は君の刀なんだもの。そうだよね」
     それはあなたが駄々を捏ねたからでしょうと彼女は叫びだしたい気持ちになった。しかしそうしたところで絶対に髭切を納得させることは不可能なのでやめる。この髭切という刀、直感で動いているようでその実「超」がつく合理主義者なのだと彼女は将棋のような教授を受けたときに理解した。言葉でこの刀に勝てるはずがない。
     髭切のいうとおり、彼は正式に彼女の刀剣となった。今までと何が違うのかと具体的に説明すれば、これまでの髭切は政府からの霊力供給で顕現していたのだが、彼女とパスを繋ぎその霊力で励起されている状態になったということだ。彼女は初期刀よりも本丸を持つよりも先に刀剣男士を所持することになったわけである。
     無論そんな前例はないし、しかも相手が癖のありすぎる髭切ともなれば大問題。政府でもそんな許可を出していいものだろうかと揉めに揉めたのだが、それをごり押したのは他でもない髭切だった。
    「だって、僕はもう決めてしまったよ、この子を主にするって。それって、君たちがいいかどうか決めるものじゃあないよね」
     にこりと笑って政府のお偉方にそう言い放った髭切を見て、彼女は思わず鳥肌が立ったものだ。神様だ、この刀は、モノでありヒトの身を持つ武器であり、そして間違いなく一柱の神なのだ。
     そういうわけで、彼女は名目上政府所属の審神者として登録された。流石に本丸なんて目の届かないところにやるわけにはいかなかったのである。所持刀剣は髭切のみ。養成学校を卒業こそしていないが、形式上もう審神者も同然だ。
     審神者になるなんて自分には無理だと思ったばかりだったのに、なんたること。彼女は逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、それもできない。何故ならそれは、髭切が許さないからである。
     ひとたび、神がそうと定めたのだ。それを覆す力など、ヒトの子の彼女は持ち合わせていない。
    「で、でもほら、着替えとか、私寝相も寝起きも悪いですから、衝立は要りますよ! ねっ?」
     もう大まかなことは仕方がないとして、こういう細々としたことは譲れない。彼女はベッドが動かないよう押さえながらそう言った。いくら髭切にヒトとしての意識が薄かろうと、彼女は女の体で髭切は男性なのだ。恥じらいとか倫理的な問題とか色々ある。だから絶対にだめだ。
    「そう? 僕は気にしないよ。今だって毎朝起こしてあげているし。大した問題じゃないよ」
    「い、いやいやいや、大問題です。寝てる間にベッドの隙間にはまり込んでもなんですからっ」
    「うーん」
     髭切は暫く考え込んだのち、「うん」とひとつ頷く。よかった、納得してくれたのだろうかと彼女が思ったのも束の間、ガコンと音を立てて手元にあったはずのベッドが吹き飛んだ。あんぐりと口を開けて彼女はベッドが瞬間移動した方向を見る。ぴったり、彼女のベッドの横に髭切のものが移動していた。
     片や髭切はといえば、上げた右足を静かに下ろす。どうやら、一蹴りして一気にベッドを移動させたらしい。
    「うんうん、これだけぴったりくっついていれば大丈夫。君がはまり込んだりなんてしないよ。そうだよね」
     にこにこと笑いながら、髭切は彼女の両肩を掴んでベッドの前に連れていく。
     いや、ぴったりというか若干めり込んでますけど……とは流石に、彼女も口には出せなかった。
    「はっはっは、うむ、仲がよいことはいいことだ」
    「仲がいいの一言で片付けないでください……」
     三日月宗近のおおらかな笑い声に、彼女はがくりと肩を落とす。三日月は微笑んで棚から茶菓子を取り出した。
     扱いがほぼ一人前の審神者になったとはいえ、彼女にはまだまだ経験が足りない。そのため継続して、三日月宗近との面談は行うよう指示された。だから一週間に一度、彼女は変わらず三日月とこうして話をしている。
    「あれも頑固な性質の刀だからなあ、仕方がない。多少は諦めてしまったほうが楽だぞ」
    「それはわかってます……」
    「はは、まあ度が過ぎるようであれば俺から諌めよう。だがきちんと互いを理解することもこれからは必要だ。そなたはわかっているだろうが」
    「……はい。早速、要請があったので」
     政府とて、ただで彼女に髭切を与えている余裕はないということである。髭切の要求を呑み、彼女に所有を認めるが、その代わりに政府所属の審神者としての仕事は果たしてもらうというわけだ。
     養成学校での勉強は知識でしかないということを、髭切の教育で嫌という程実感した彼女は既に気が重い。この間の不意の戦闘ですら未だに夢に見て嫌な気持ちになるのだ。要請があった分心づもりができるとはいえ、恐ろしいことに変わりはない。
    「日取りはまだあったはずだな、心を整えておくといい」
    「わかり、ました」
    「見たところ、さほど難しいものではなかった……などという言葉は気休めにしかならんだろうな、すまん」
     三日月は柳眉をさげて彼女の頭を撫でた。それには緩く首を縦に振って返事をする。腹をくくってしまえば楽なのはわかっているが、そう簡単に行けば苦労はしない。
    「ねえ、もう時間だよ? 時計はちゃんと見てくれなくちゃ」
     うう、と彼女は額に手を当てる。だが声の主である髭切のほうはそんなの気にしないで彼女をひょいと抱えあげた。これには三日月もやや困った笑顔で口を開く。
    「髭切、お前がわざわざ来ずともこの子は部屋に戻るぞ」
    「でも三日月宗近、君いつも面談の時間が長引くからね。僕は僕の主を迎えに来ただけだよ」
    「俺も仕事ゆえ。給料分は働かねばな」
     三日月がそう言えば、髭切は髭切でにこりと笑って踵を返す。彼女は慌てて三日月にぺこりと頭を下げた。
    「じゃあ僕も自分の仕事をするよ。この子を立派な主にしないと」
    「わかったわかった。ではな、また会おう」
    「はっ、はい、ありがとうございました!」
     カツカツと革靴の音を立てながら、髭切は三日月の面談室を出て廊下を進んだ。どうやら部屋に戻るつもりらしい。政府所属の審神者として登録されてから、彼女の扱いは養成学校仮卒業ということになったのでもう授業はない。だが髭切は「立派な主にする」と言っていたし、また部屋で将棋に見立てた指導でもするのだろうか。
     がちゃりと扉を開けて、髭切は彼女を部屋の中央に下ろす。衝立を退かしてベッドを寄せた分、部屋の真ん中はやや開けていた。気がついたらテーブルまで端にやられている。
    「髭切さん? またご指導ってことなら用意しますけど」
    「ううん、平気。今日はこれでいいよ」
     うーんと伸びを一つすると、髭切は彼女から距離を取って歩き出した。それに付き従おうとすると、髭切は手でそれを制する。
    「髭切さん?」
    「うん、じゃあ、僕を倒してみよう」
    「は?」
     彼女は訳が分からず立ち尽くす。しかし髭切は首を傾げて視線を天井のほうに持っていった。
    「とりあえず僕は手を抜くとして、本体は使わないでおくね」
    「当たり前ですよ!」
     そんなことされたら死ぬ。というか、倒すってなんだ。
     髭切は腰から太刀を引き抜くと傍にあったベッドの上に置いた。それは重みの分だけ布団に沈み込んでいく。
    「右手……も使わないでおこうか。それから、えーっと」
    「待っ、待って、待ってくださいって、倒すってなんです倒すって」
    「そのままの意味だよ? 僕を地面に倒してみせて」
     にこりと笑うと髭切はひらひらと手を振った。なるほど部屋を広く開けた意味はそれかって……わかるはずがあるか。彼女はやはりまた目を白黒とさせて口を開けたり閉めたりする。
    「護身術は学校で教わったはずだよね? 成績表に項目があったもの」
    「ま、まあ一通りは」
    「じゃあ何を使ってもいいよ。とりあえず僕を地面に倒れさせることが出来たら君の勝ち」
     嘘だろう……、本体は使わないとはいえ仮にも、刀剣男士相手に。彼女はもう何度目かの涙目になったが、泣き落としが通じる相手ではないのでとりあえず考える。だがあまり長考すると前回同様突然負ける可能性もあるので迅速にだ。
     髭切はただ笑顔で、自然体に立ったままこちらを見ていた。周囲にあるものを武器に取るとは思えない。髭切は手加減をすると言った。きっと彼女が武器を取ることは許可しても自分は丸腰を貫くはず。
     最早何が一番の良策か判断がつかなかったが、彼女はとりあえず足を肩幅に開き腰を落とした。髭切の言うように護身術は必修科目である。審神者なんて職に就いていてはいつ何時生命の危機に瀕するかわからない。だから最低限の武術は習う。彼女も一通りはやったが、一番体術の評価が高かったのだ。
    「うん、いい姿勢だね。基礎は出来ていると見た」
    「一応程度ですが、習いましたから」
    「ふふ、じゃあどこからでもかかっておいで。先輩が胸を貸してあげる」
     そんなことを言われても、なんて言ってはいられない。彼女は既にちょっとめげそうではあったが、ぐっと足を踏み込んで髭切の腰のあたりを目掛け飛び込んだ。地面に倒せばいいということなら、一番に組みつくべきはここである。だがさっと髭切に避けられた。「ですよね!」と叫びたくなる。勢いに任せた彼女は何歩かよろけたが、避けざまに髭切が首元を引っ掴み体を起こさせた。
    「あはは、いい子いい子。そうだね、いい狙いだと思うよ」
    「ぐえっ」
    「はい、じゃあ次はどうする?」
     力の差は歴然としているのにまだやるのか。しかしご満悦な髭切に何かを言うことなどできるはずもなく、仕方なしに今度は首元を狙う。倒すのが無理なら一撃必殺を狙うまでだ。
     手加減をされているし、髭切が彼女にのされるはずもないので、彼女は躊躇いなく手を拳にして握った。何かを見極めようとしているのはわかっている。だったら、髭切に対して全力で向かっていくしかない。
    「っ」
    「おお、そうきたか」
     飛びかかるようにして髭切の首元目掛け腕を伸ばしたのだが、髭切はサッと左手で彼女の手首を掴むと今度は逆に足を引っ掛けてこちらの体勢を崩してきた。あ、まずいこれはこっちが床に倒れる、と彼女は悟る。更にそれだけではない、髭切はこちらを倒した後に膝を彼女の肩の上に突いて完全に動きを封じた。
    「うぐっ!」
    「はい、君の負け」
     体重は掛けないようにしてくれているおかげか、重たくはない。しかし一切の身動きが取れなかった。肩の付け根を正確に膝頭で押えられている。下半身をばねにして起こそうにも、起点となる部分が固定されているのだ。
     髭切は立ち上がると彼女の腕を引っ張って起こした。それからぱんぱんと肩や背を叩いて埃を落としてくれる。
    「痛くない? どこか打たないように気を付けたつもりではあるんだけど」
    「へ、平気です」
    「えーっと、ちょっとごめんね」
     ひょいと髭切は彼女の腕を掴むと服の上からぐにぐにと揉んだ。
    「ぅえっ?」
    「うーん、足もかなあ」
     驚きで硬直している彼女の足元に屈みこみ、今度はふくらはぎのあたりを同じように触って確かめる。それからそのまま髭切は手を足の付け根に向かって滑らせた。
    「ヒッ」
     流石にこれ以上は色んなものに差し障りがある! 彼女が髭切の形のいい頭を引っぱたこうかどうしようか考えた瞬間、髭切は立ち上がった。
    「やっぱりかあ、うん、わかったよ」
    「な、なにが、何がわかったんですか」
     人の腕や足を撫で回して何がわかるというのだ。彼女が一歩後ずさりながら尋ねると、髭切は笑顔で指を立てこう言った。
    「筋肉が足りないね」
    「……は?」
    「基礎的な動きができてるのに、どうしてあんなに遅いのかなあって思ったんだよね。なあんだ、力が足りないだけかあ。なら何とかなるね、今日から頑張ろう」
     彼女が何も理解しないうちから、髭切はうんうんと頷いて納得し始める。白い上着を翻してどこかに行こうとさえしていた。彼女の困惑など全く気にもしていない。だが前回「今日から頑張ろう」と言われたときも散々な目に遭ったので、彼女は恐る恐る確認した。
    「あの、頑張るってその、具体的には……?」
     髭切は振り返って微笑むと、さっと手を伸ばして彼女の腹を擦った。思わずぞわぞわとした感覚が彼女の背を走る。
    「ぎゃっ」
    「だからね、こんなに柔い体なんかじゃいざというときしっかり動けないんだよ。それは大丈夫?」
    「ま、まあ、わかり、ますけど」
    「だったらきちんと、対策を考えなきゃ。心配しなくていいよ、君を主にするって僕が決めたんだからね。ちょっと出てくるから、君は待っていて。先にお風呂を使っておくといいよ、僕は後でいいから。あ、晩御飯はお肉が食べたいな」
     ひらりと手を振ると髭切は部屋から出てどこかに行ってしまう。ええー、何もわからない。彼女は呆然と立ち尽くしたが、今更髭切の我が道を行く精神に疑問を抱いたところでどうしようもないと考え直し、言われたとおりまずは夕飯の用意を始めた。



    「はい、じゃあそこに横になって」
     夕飯を食べ終えた後、先にお風呂に入ってと言われた彼女が寝巻きに着替えて部屋の戻った途端に髭切はそう言った。
    「……横になる、とは?」
     まだ寝るには早すぎる時間だ。いや別にそうしたって構わないのだが、何で。しかもなぜベッドの上。髭切はといえば、なにやらジャージに着替えて既にベッドの上でにこにことしており、立ち尽くしている彼女の手を引いた。
    「そのままの意味だよ。髪が濡れているね、下に敷物をしておこうか」
    「いや、いやあの、何でです? 何でまた」
    「仰向けに横になってね」
     彼女が困惑している間に、髭切は勝手にこちらの背に腕を回すと体を仰向けに倒させる。しかし背を摩ると「ん?」と首を傾げて彼女の顔を見た。
    「おや? 君こんなの胸につけて寝るのは苦しいと思うよ? 取ってしまおう」
    「ぎゃっ!」
     ベッドを強制的にくっつけられてしまった以上、一緒に寝るのはもう不可避だ。というか髭切は理詰めで反論したところで納得してくれる相手ではない。だから彼女もそのあたりは腹をくくるしかないと決めた。しかし相手にその気はなくとも自分は自衛をするべきだと思い、寝巻きのボタンはしっかり留めてやや苦しいがちゃんと下着をつけていたのだ。それなのに髭切ときたら、いとも容易くそのホックを服の上からパチンと外してしまった。
     金色の髪が鼻先をくすぐる。電灯を背にしているせいで逆光になった髭切の顔がやたらと近い。
    「あ、ああああ、あのっ」
     今度こそ彼女は動転した。こればっかり、こればっかりは流されていい問題ではない。だから彼女は髭切の体を押し返そうとしたのだけれど、それよりも先にあっちが体を起こした。
    「膝をしっかり立ててね。僕が重石になるから、痛かったらちゃんというんだよ」
    「え……?」
    「よいしょ」
     足を直角に曲げられて、その立てた間に髭切は自分の足を通すと胡坐をかいた。ちょうど、彼女の足の甲の上に座っているような形である。これは、これはもしかして。彼女は不意に正解にたどり着いた。
    「腹筋ですかっ?」
    「うん、とりあえず五十回。数えてあげるから、君は体を起こすだけでいいよ。じゃあ頑張ろう」
     ふくらはぎを抱え込み、本当にぎっちり足を固定される。髭切の長い手足は彼女の体躯には余っており、その分だけまるでトレーニング器具のようにしっかりと押さえられていた。
    「えっ、なんでまた腹筋なんて」
    「方法はあっているはずだよ。ちゃんと他のこういうのが得意な刀剣に聞いてきたから。えーっと、山、山……髪が青い彼だよ」
     よりにもよって一番厳しそうな……。カッカッカというあの独特な笑い声が聞こえたような気さえして、彼女は仰向けのまま顔を覆った。本気だ。本気で髭切は彼女に筋肉をつけさせるつもりなのだ。髭切は笑顔でそのままつらつらと続ける。
    「これ以外にも、背中と足と腕、ちゃんと鍛えられるように方法を聞いてきたからね。あと食事も気をつけたほうがいいんだって。やっぱり君はもう少し食べなくちゃだめだね、このあたり少し足りないよ」
    「ひゃあっ!」
     脇腹の辺りを髭切は無遠慮に撫でる。頬がひくつく。謎将棋で勝ったかと思えば、今度はなんてことをさせられるのだ。だがそんな彼女の叫びをよそに、髭切は元気よく言った。
    「それじゃあ、頑張ろう」
    「うう……わかりましたっ!」
     こうなればもう自棄だ、自分で自分の生存率を高めているのだ。
     彼女は頭の後ろで手を組み、腹立ち紛れに上体を起こした。胸部を膝につけた瞬間髭切は嬉しそうに「はい、一回目」と笑う。五十回までは随分かかった。
    「は、はっはっは、そうか、まさかそうくるとは」
    「笑い事じゃありませんっ! うっ……」
     叫ぶと腹筋が痛い。ぐうと唸って体を折る彼女の背を未だ笑いながら三日月が撫でた。これは筋肉痛なんてものではない。急激に鍛えられた体のいたるところが鋼のように強張り悲鳴を上げる。鬼、あれは鬼だ。鬼トレーナーだ。
     彼女が根を上げそうになると「僕の主はもっとやれるよね?」なんて笑顔で言って叱咤する。諦めるなんて許してはくれない。倒れこんだところで「小休止かな? あと少しだからね」と続きを強要される。それも腹筋だけではなかった。背筋もやらされたし腕立て伏せも床でした。腕立ては「君だけじゃあ不公平だね」なんて髭切も一緒だった。倍の速さで終わった。
    「それだけじゃないです、すごい食べさせられるんです」
    「ふむ、具体的にはどうなんだ?」
    「お茶碗がどんぶりになりました」
     彼女が真顔で言えば、ぱちぱちと目を瞬いた三日月が再びあっはっはと大声で笑い出した。何度も言うが笑い事ではない。
    「ふ、ふふ、いやあすまん。そなたには冗談ではすまないからなあ」
    「本当ですよ……」
    「して、成果は出ているのか?」
    「そりゃ、まあ……」
     彼女の体には確実に筋力が付きつつあった。やはり山伏国広直伝のトレーニングは伊達ではないらしく、髭切が指定してくる食事のメニューにはたんぱく質が増え、筋トレだってむやみやたらとさせられているわけではない。翌日の筋肉痛と効果を考えて、連日するわけでもない。
     髭切を倒すのは不可能でも、彼女には自分の体が着実に前よりも動くようになっているのがわかった。だから、髭切は遊んでいるわけでもなんでもないのだ。本当に、彼女を鍛えているだけなのである。
    「うむ、ならばよい、よいことだ。あれも満足だろう。他はどうだ? 寝台を繋げられたと前は言っていたろう?」
    「あ、ああ、あれですか。あれも気には、なっていたんですが」
     しかしそこでも浮き彫りになったのはまたもや髭切の異常性だった。
     初日のトレーニングの後、ぐったりとした彼女はもうそのまま寝てしまおうと思ったのだ。けれどそこで、繋がったベッドを思い出しげんなりとした。まだこの問題があったと。だが髭切は自分も寝支度を整えると、なんでもないようにベッドにあがりこみ明かりを消してさっさと布団に入った。
    「落ちてしまうといけないから、君が壁側で寝るといいよ。おやすみ、運動したからきっとよく眠れるね」
    「は……はい、おやすみなさい」
     そこからおやすみ三秒である。髭切はあっという間に眠りに落ちた。なるほど、と彼女はそこで気がつく。髭切はやっぱりモノなのだ。
    「髭切さんは君と一緒に幸せになりたいだとか、そんなことは言っても……別にそれはたとえば私のことを『好き』ってわけじゃあないんですよね。ただ私に『主』でいてほしいってだけで」
     なんだかやはり、齟齬がある。彼女の考えや常識と、髭切との間には大きな隔たりがあるのだ。考え方が違う。
    「それが悲しいか?」
     ヒトのように穏やかに美しく笑う刀が彼女に聞いた。髭切の笑みとはまた少し、違う。彼女は首を振って答えた。
    「いいえ……、悲しいというよりは、少し、切ないです」
     髭切に男女間のそういう感情が理解できないのは、いっそ好都合ともいえた。彼女は髭切とどうこうなりたいわけではない。むしろ普通に、平穏にいたい。だからそれでいいはずなのに、ヒトとの隔たりを感じるたびに心が痛む。それでも在る自分の背負った命の重みを感じて、やはり苦しくなる。
     同じ姿かたちをしてはいても、違う。でもどうかわかってほしい。その体や心は、同じようには無理でもヒトに近づくことはできるのだと。だってそうでないと、彼らはいとも簡単に自分のそれを手放してしまう。モノゆえの、無情さで。
    「あと気にならないからって、スポーツ用の女性用下着を普通に買ってこられても困ります」
     どんよりとしかけた部屋の空気をごまかすため、彼女は冗談めかしてそう言った。三日月はわずかに眉を下げたけれど、それでも微笑んでくれる。
    「はっはっは、それはそうだな」
    「……三日月」
     そのとき、キイと音を立てて扉が開いた。三日月が振り返ると、僅かに開いた隙間から何かの車輪と華奢な足が覗く。彼女の角度からは、それしか見えなかった。
     しかし三日月はさっと立ち上がると扉のほうに向かい、僅かにかがんだ。それでやっと、彼女は見えた車輪は車椅子のものだとわかる。
    「ん? どうした」
    「通達、急ぎみたいだったから」
    「おお、あいすまん。……ちょうどよかった、今渡してこよう」
    「うん、じゃあ、部屋に戻る」
    「いや待て、俺も付き添う。主はそこにいるといい」
     三日月はドアを閉めなおすと、彼女のほうに向き直る。それからやや厳しい表情で、彼女に封書を手渡した。
    「政府からの通達だ。明日がそなたの初仕事になる」
     彼女はじっと、その真っ白な封書を見つめた。いよいよだ。



     一応審神者としての仕事になるわけだし、正装をするべきかと養成学校に入学したとき支給された巫女服を手に取ったがそれは髭切に止められた。
    「それはまだ君にはうまく着こなせないだろうから、やめたほうがいいよ」
    「着付けなら習いましたよ?」
     彼女がそう答えれば、髭切は柔らかな笑顔のまま首を振った。
    「ううん、これだとまだ君はうまく動けないと思うんだ。だからいつもの服でいいよ。そっちのほうがいい。それより僕の上着の紐を結んでほしいな」
     こちらの手から巫女服を取り上げて、髭切はにこにことして彼女の前に立った。まあ、いいかと彼女は深く追求するのをやめる。確かに、慣れない和装では転んだりなんだりするかもしれないし。
    「普通の蝶々結びしかできないですよ?」
    「構わないよ」
     白い上着についた金の紐を手にとってしゅるしゅると真っ直ぐ伸ばす。それから長さが揃うように結び始めると、不意に髭切が右手を上げて彼女の頭の上に乗せた。
    「緊張している?」
     穏やかな声に、彼女は顔を上げた。身長が高い成人男性の体をした髭切と彼女とでは、やはり見上げる形になる。琥珀色をしたあのビー玉の瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。その目にはやはりまだ、三日月ほど人間味のある心配や気遣いは感じ取れなかったけれど、それでも髭切が彼女のことを気にかけているのはわかる。
    「……少し。してないっていえば、嘘になってしまうので」
    「あはは、そっか。大丈夫、大丈夫。いい子、いい子」
     よしよしと髭切は彼女の髪を撫でた。暖かい生きている手に、また胸が苦しくなる。手が止まりかけ、彼女は慌ててきゅっと蝶の羽の部分を引っ張った。
    「今日は引継ぎの審神者のところに、事務手続きをしに行くんだったね」
    「はい、なので、特に戦闘の危険性はないって三日月さんも」
    「そう、まあ、もしそうなっても僕がいるから大丈夫。僕は君の刀なんだから。主の君のことは僕が守るよ」
     蝶の尾の形を整える。襟を正す振りをして、彼女は髭切の左胸に指先を当てた。僅かにだが、やはり動いているのが伝わる。心臓の音。
     深くは聞けないが、いつも頭のどこかにあった。髭切の、死んだという前の主のこと。聞くことなんてできないし、三日月は「きっと忘れてしまっているだろう」と言っていた。図録でも、髭切は長い間刀として生きていたせいで色んなことがどうでもよくなってしまっていると記載がある。だが、顕現してすぐに目の前で主をなくして、ヒトの体と心を持って、どうでもよくいられるはずなんてないのに。
    「……死には、しませんから」
     彼女には、そう伝えることしかできなかった。
     忘れてしまっているのなら、それでもいい。深く聞いて、思い出させるのは酷だ。だったら彼女にはもうそう約束することしかできない。
    「もし、戦闘になったとしても私は髭切さんを置いて、死にはしませんから」
     臆病な自分は立派な主にはなれないかもしれない。一緒に幸せになるのもできればご遠慮願いたい。けれど、ただ自分が死なずに生きていることで、この刀のまだ生まれたままの心をこれ以上傷つけずに済むのなら。だったらせめて、それだけは果たしたい。
     髭切は何も答えなかった。ただその目でじっと、彼女を見つめているだけだった。だから手袋と籠手をした暖かい手を、彼女は繋いで引く。
    「行きましょう、髭切さん」
    「……うん。いざ、出陣だね」
     にこりと笑って髭切は彼女の手を握り返した。



     審神者にも色々で、必ずしも皆が皆いい人で、物を大切にしていて……というわけではないらしいというのは現世の社会と同じらしい。
    「……これはちょっと、酷いね」
     転送ゲートから降り立った髭切が眉間に皺を寄せる。彼女も口には出さなかったが、本当は持っていたハンカチで鼻を覆いたかった。
     アルコールの匂い、要は酒臭いのだ。彼女は酒に明るくはないけれど、それでもこれらの鼻を突く匂いが決していいものではないことはわかる。嗜むなんて程度の量でもないことも。
     すると髭切が彼女の前にふわりと立った。すると僅かながら日向の匂いでアルコール臭は軽減される。
    「主、若い君の体にこれはあまりよくないから、下がってていいよ」
     慣れない酒の匂いだけで酔いそうだった彼女には有難い申し出だが、それでは流石に示しがつかないので彼女は首を振った。これでも審神者としては初仕事だ。
    「平気ではないですが、大丈夫です、ありがとうございます」
     本丸の玄関の前に立つと、向こうから誰かがカラカラと引き戸を開けてくれる。やや顔色が悪いが、それは加州清光だった。彼女とその背後に立つ髭切を見て、加州はハッとする。
    「あ……今日来る政府の審神者ってあんた?」
    「は、はい、そうです。よろしくお願いいたします」
     彼女はぺこりと頭を下げたけれど、髭切はただ立っていただけのようだ。加州はやや会釈をして玄関を大きく開ける。中からはやはりムッと濃い酒の匂いがした。加州が気遣わしげに彼女のほうを見やる。
    「あんた、まだ若そうだけどこの匂い大丈夫? 一応、窓とかは開け放ってあるんだけど」
    「だ、大丈夫です」
    「……そ、きつくなったら言ってね。上がって」
     玄関に一歩足を踏み入れると、やはりアルコールでぐらぐらした。しかし何度か頭を振ってしゃっきりさせると、靴を揃えて廊下にあがる。髭切は一度ぐるりと視線を巡らせた後に同じようにした。
     今日彼女に課せられた任務は、本丸を引き継ぐための事務手続きである。この本丸の審神者が辞職し、他の審神者がここを継ぐことになったためそのための書類やら設備の確認やらが必要なのだ。
    「さほど難しいことではない。政府の手引書もある。初任務には妥当なところだろう、気負うことはないぞ」
     封書を渡してくれた三日月宗近はそう笑って彼女を励ました。彼女も戦闘任務ではなかったことに胸を撫で下ろす。やはりまだ戦闘は恐ろしい。突然のことには対処ができるか自信がないし、こういった事務ならばそんなこともないだろう。
     それにしても、だ。
    「審神者って、死ぬ以外で引き継がれることもあるんですか?」
     単純な疑問として、彼女はそれを三日月に尋ねた。一応彼女も審神者育成学校に通っていた身だ。審神者という職に対して無知なわけではない。だから死亡以外での引継ぎなんてそうあることではないのもわかっていた。
     その問いに三日月は若干困ったような顔をして首を傾げる。まずいことを聞いただろうかと彼女はどきりとした。
    「まあ、ヒトの子にも様々だということだ。政府が不適任だと判断した場合はそういうこともある」
    「……解雇ってことですか?」
    「そういう言い方もあるな」
     急に自分の手元にある封書が重くなった気がして彼女は俯いた。なるほど、審神者にも色々。三日月は目を閉じて静かに彼女に忠告した。
    「よく見ておけ、そなたが道を違えぬよう。何が正しいかなぞ、すぐにはわからんものだが……そなたの正しいと思うことを見定めるためだ。それは先人から学ぶほかない」
     ぎゅっと手にした書類を持つ手に力を込める。大丈夫、事務処理をするだけだ。彼女は周りに悟られないように静かに深く息を吸った。すると上からふわりと暖かな手が上からそれを握る。顔を上げると、あの琥珀色の瞳が彼女のほうを見つめていた。
    「大丈夫だよ、君には僕がついてるからね」
     ……それもまあ、今の彼女には一つ悩みの種ではあるのだが。
     しかしそれでもその体温に安堵した彼女は僅かに笑って正面を向いた。先を行ってくれていた加州清光が奥の一室の襖に手を掛ける。
    「主、政府からのヒト、来たから。開けるよ」
     すっと背筋を伸ばし、彼女は唇を引き締めた。
     噎せるような酒の匂いが部屋から漂う。奥にいたのは中年の男性だった。政府から事前に資料をもらっていた彼女は、その男が確かにここの審神者であることを確認する。政府の写真と比べて些かやつれ、無精髭は生えていたけれど間違いはなさそうだ。
    「政府より使いとして参りました審神者です。よろしくお願いいたします」
     緊張でやや声が震えたものの、彼女は何とかその男に向かって頭を下げた。気怠そうに男は彼女を見ると、何も言わずに視線を逸らす。挨拶はなかったが、黙っていても仕方がない。彼女は手引書にあった通り手順を進めた。
    「本日は本丸の設備の確認、および審神者様の署名等を頂きに参りました」
    「……話は聞いてる、書類を寄越せ」
     部屋に入り、上から渡すのもなんだと思い彼女は正座すると男に封書を差し出した。男はひったくるようにそれを取り、乱雑に封を切るとざっと内容を確認する。それからばさりとこちらに返してきた。
    「これで設備は間違いない。あとは何が必要なんだ」
    「あっ、えっと、ここと、ここに署名を」
     男は無言で筆を取りそれらに記入を始めた。その間特にすることもなく、彼女は執務室の中を見渡す。
     実は、彼女は本丸という施設内に足を踏み入れるのも初めてなのだ。それはまあ一足飛びに政府所属の審神者として髭切の主になってしまったからなのだが……とにかく珍しいわけである。そんな彼女の様子を見て、ふんと男が一つ鼻を鳴らした。
    「あんた、随分若いな」
    「あっ、はい……すみません、新米なもので」
    「養成学校の卒業生か」
    「まあ、あの……そうです」
     正確には卒業していないのだが、経緯を説明するにも手間取りそうだったので彼女はそう答えた。自分が例外中の例外なことは彼女もわかっている。
    「政府所属ってことは、前線経験もなしか。馬鹿だなあんた、もっとましな進路選べよ」
    「……主ってば、早く書いちゃいなよそれ」
     男の言葉を遮り、加州がそう促した。酒でくだを巻いているのだろうか。
     きっと男も十も承知のはずだ。適性が見つかってしまえば逃げられない。審神者とはそういう職だ。彼女だって、適性が見つかってたまたま養成学校に入学という段階を踏んだだけ。もし、条件が違えば最初から初期刀を選び本丸に着任していただろう。
     運が良かっただけ、ただそれだけだ。
     加州の声を鬱陶しげに男はひらひらと手を振る。それから皮肉気に笑った。
    「わかってるよ、今書くよ。お前だってせいせいしてるだろ、俺みたいなのが主じゃなくなって」
    「……そんなわけないじゃん」
    「どうだかな。おいあんた、見たところ後ろにいる髭切が近侍か? あんた気を付けろよ、こいつらヒトじゃないんだ。頭にそれだけは刻んどけよ」
     男は彼女の背後にいる髭切を指差して、はははと笑いながら傍にあるグラスを空にした。彼女は指を差されたのにつられて髭切のほうを振り返る。髭切は穏やかな笑みを口元に浮かべたままだった。
    「どれだけ体温があっても、モノだ。刀なんだよ。折れりゃいなくなる。いいか、傷ついても手入れすりゃすぐに直る。ヒトじゃない、こいつらはヒトじゃないんだ」
     ……ヒトじゃない。
    「いくらヒトの形をしてても、本質は違うんだ。俺達なんかと考え方が同じだと思うな、感じ方も同じだと思うな。あんた見たことないだろ? こいつら腕の一本や二本とれたって、普通に笑って帰ってくるんだ。こいつらは、ヒトじゃない!」
     刀剣男士は……ヒトじゃない。
     真っ直ぐと自分を見つめている琥珀色の瞳を彼女は見た。それからやっと、振り返って口を開く。
    「……やめてください」
    「……あ?」
    「そんな悲しいこと言うのは、やめてください」
     ああ、わかった。何故三日月が彼女に「よく見ておけ」と言ったのか。酒臭い男を見て、苦しくなる。あれは、自分がそうなるかもしれなかった姿なのだ。
    「怖かったんですね」
    「……何がだ」
    「ヒトじゃないって言い聞かせないと、刀剣男士の皆さんが傷つくのが、見ていられなかったんですね」
     ぐっと拳を握りしめる。加州が目を見開いて男を見る。
     彼女も、そうだ。今だってそうだ。髭切たった一振でも、自分の背負った責任と命の重みで潰れてしまいそうになる。今でも何度もあの最初の戦闘を思い出すのは、あの日の恐怖があるから。
     自分が何もできないことで、髭切が折れてしまうかもしれないという、途方もない恐怖があるからだ。
     だから逃げたのだ。この男は、酒に逃げた。そうでないと自分の心を保てなかった。潰れてしまうところだった。うまく大切にできなかった、だけなのだ。
    「……私も怖くて、逃げるところでした」
    「……やめろ」
    「でも、やっぱり、ヒトじゃなくても、皆さんは」
    「やめろ」
    「やっぱり生きてるって」
    「やめろって言ってるだろおおおおっ!」
     ばっと傍にあった酒瓶を手に男が立ち上がった。傍にいた加州が「主!」と叫んで止めようとしたが間に合わない。しかし彼女の体は反射的に動いていた。
     男の動きは髭切よりずっと遅い。あの軽やかさも、しなやかさもない。ただ酒瓶を手にこちらに向かってそれを振り下ろそうとしているだけだ。彼女はさっと腰を上げると畳についた腕を軸にしてぐいと体を捻って避ける。それと同時に破裂音と共にどすと何もない場所に酒瓶が落ちた。
    「……っは、え?」
     男の動きを交わした彼女が振り返って顔を上げれば、髭切が本体を手に立っているのが見えた。どうやら破裂音は髭切が本体の鞘で男の手首を打ったものだったようだ。いくら鞘とはいえ相当痛かったらしく、男はううと唸りながら蹲っている。加州も呆気にとられてその様子を見ていた。
     あー、これはもしや傷害ってことで問題になるのだろうか。どうなんだろう。しかし先に動いたのは向こうであるし……。突然のめまぐるしい出来事にいっそ冷静になりながら、それでも頓珍漢なことを考え始めた彼女はとりあえず髭切に声を掛けねばと口を開いた……のだが。
    「あー、ひげき、り、さん」
     気がついたら日向の香りに包まれていた。上背のある髭切にがばりと抱き着かれたせいで仰向けに倒れそうになり、ぐっと腕を畳に突っ張って耐える。胴にしっかり腕を回して、髭切はこちらにしがみつくようにして彼女を抱きしめている。
    「……ほらね、言ったじゃないか。和装なんかしたら、まだ君は動けないよって」
     肩のあたりからそんな声が聞こえて、ぱちぱちと何度か瞬きをした。それからなんだかおかしくなって、くつくつと笑う。
    「でもだいぶ体が軽くなりましたよ」
     広い背中を撫でてやりながら、彼女はそう答えた。



    「よん、じゅう、はち」
    「はーい、あと二回だよ」
     ぐっと歯を食いしばりながら髭切が足を固定している少女が体を起こす。五十回程度であればそんなに問題がなくなってきたかなあなんて髭切は考えた。前よりずっと時間も掛けずにこなせるようになってきた。
    「全く、お主は先に手が出るのをなんとかせねばな」
    「そう? 僕何か悪いことした?」
     先日、額に手をやりながら、三日月宗近は髭切にそう言った。案の定髭切があの男に鞘とはいえ籠手打ちを食らわせたのが問題になったらしい。おかげで髭切は監督役の三日月宗近から説教をもらったのだ。とはいえ、髭切は主に害をなされそうになったので対処しただけ。怒られるようなことは一つもないはずだが。
    「いいか髭切の太刀、よく覚えておけ。俺達はヒトの子よりずっと力も強く頑丈にできている。俺達がちょっとのつもりで叩いてもはずみで殺してしまうやもしれんぞ。ヒトではないのだ、加減を知れ」
    「なんだか今日、それ何度も聞いたなあ、その『ヒトじゃない』っていうの」
     そんなのわかっているのにねえ、と髭切はぼやく。三日月宗近も息を吐いた。
     自分をヒトと同じように思ったことなど一度もない。今だって、体がヒトなだけ。髭切はヒトなんかではない、刀だ。この体は、自分自身を振るうためにある仮初のものに過ぎない。戦うという目的に伴って与えられただけだ。
    「まあ、前にそう言ったらあの子に泣かれちゃったんだけど」
    「……そうだろうな」
    「でも僕もあの子にはわかってもらわないと困るなあ。僕は刀であの子はヒトなんだって。そうじゃないと死んじゃうんだもの。ねえ、三日月宗近。ヒトの子は自分の脆さを知らなすぎだよ」
     あの男の件だってそうだ。見るからに男は怒っていた。きっと彼女が口を噤めば、言葉を止めれば、酒瓶を振り下ろされるなんて事態は回避できただろうに。あんな酒瓶一つでも、頭に当たればきっと死んでいた。それがわからなかったわけではあるまい。
     しかし三日月宗近は笑んだ顔のまま首を振った。その違うという動作すら、髭切にはよくわからない。
    「言わずにはおられなんだのだろう。それで救われたものもいる。あの本丸の加州が言っていたぞ。『主を誤解したまま別れずに済んだ、ありがとう』と。あの娘に伝えておやり」
    「誤解、ねえ」
     髭切に籠手を打たれたあと、男はまるで子どものように泣いていた。「だって仕方がないじゃないか、怖いものは怖かった」、「うまく大事にしてやれなくて悪かった」と。あの本丸の加州がその背を撫でてやっていたけれど、やっぱり髭切には解せない。
     割り切ればいいのだ。戦う役目は髭切達刀に任せればいい。だって自分たちは刀なのだから。それ以上でもそれ以下でもない。この身は、そのためにある。ただそれだけのこと。何をそんなに悩むというのか。
    「手厳しいな。お前の主とて同じことで悩んでいるだろう?」
    「ああ、あの子もね。でも、あの子はいいよ、いい主になる。しっかり強くなっているし、生きることを優先できるもの。今回だってちゃんと避けられたからね」
    「いい主か」
    「うん。だからね、僕はどうしてもあの子と幸せになりたいんだよ。だって、温かかったからね、ちゃんと」
     何故だか思わず抱きしめて確かめていた。ちゃんと生きているかどうか。傷はついていないか、死んでいないか。でも彼女の体は温かくて、耳を胸に押し当てればきちんと脈打っているのが聞こえて、柔らかくて。とても気持ちがよかったのだ。だからそれがずっと続けばいい。だからどうしても、あの子がいい。その為に「だったら幸せに生きろ」と彼女が言うのなら、そうしてもいい。こちらの条件を呑んでもらうのだから、髭切だって彼女の言うことの一つくらい聞く。
     まあ、モノの自分には何が幸せに生きることなんだかさっぱりわからないが。ただ自分をしっかり使うために長生きしてくれるに越したことはない。それだけだ。
    「ご、じ、う……っ!」
    「はい、よくできました。いい子、いい子」
     はあーっと主が仰向けに倒れて、髭切はにこにことしてその様子を眺めた。うん、強くなっている。確実に。これならきっと長生きする。
     万が一のことがあったとしても、きっと生きのびてくれる。間違っても髭切の目の前で、死んだりはしないだろう。
    「ねえ、僕と絶対に幸せになろうね」
     彼女の立てた膝に頬杖を突いて、髭切は彼女にそう言った。すると仰向けに倒れたままの彼女は若干嫌そうな顔で髭切を見やった。
    「……一応ちゃんと言っておきますけど、私普通に、人間の男の人と幸せになりたいです。怖いのはごめんですし、人間離れもしたくありません」
    「ふふ、いいよ別に。僕の主でいてくれるならね」
     ヒトの子は脆い。きっとこの子だって、百年やそこらで死ぬだろう。でも、それでも、それでもだ。
    「君が、寿命はたった百年かも知れないけど。でもその百年の間、ずうっと僕の主でいればいいなあって。僕が思うのはね、ただそれだけなんだよ」
     そう、それだけだ。
     彼女は髭切の顔を見て、はあと溜息を吐いた。それから小さく「そうですか」と返事をする。
    「それで、五十回くらいなら腹筋大丈夫になってきましたけど。回数増やしますか?」
    「え? うーん、どうしようかな」
     そこでふと、髭切の頭を抱きしめたときの彼女の腕や胴の感触がよぎった。しなやかだけれど、柔らかくて気持ちよかったのを覚えている。これ以上鍛えたら、もう少し硬くなってしまうだろうか。
    「……五十のままでいいや。うん、そうしよう」
    「わかりました」
    「はい、じゃあ次は背筋を頑張ろう。あと柔軟もしようね、君は女の子で体が柔いから、きっといいばねになるし」
    「うう、はい……」
     まあ、いいだろう。その分は自分が強くなればいい。髭切はそう考えて、次は彼女に何を教えようかなと微笑んだ。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/03/20 13:59:43

    どうしても君と幸せになりたい

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    #髭さに #刀剣乱夢 #女審神者
    新米審神者と教育係の髭切の話

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    ・オリジナルの女審神者がいます。
    ・モブ審神者がいます
    ・独自解釈、捏造設定を含みます。
    ご注意ください。

    pixivに以前掲載していたものです。

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