適材適所 主君が風邪を引かれました。
いつも近侍として主君の審神者業務の補佐をされていらっしゃるのは、初期刀の山姥切さんですが、それ以外の生活面でのお手伝いは、僕、前田藤四郎と山姥切さんのご兄弟刀である堀川さんです。
主君のお出かけの際の荷物持ちや護衛、お着替えの手伝い、食事の際のご準備などを対応しておりますが、いつからかこの役目は僕と堀川さんが中心となっていました。僕が戦に出る時は堀川さんに、堀川さんが出陣の時は僕が、という風に示し合わせたわけではなかったはずなのですが、お互いに僕たちは互いの予定と主君の予定は頭に入れて行動をするのが当たり前になっていたのです。
本日は、遠征で堀川さんがいらっしゃらず、昨夜中に引き継ぎを受けていたので、朝主君の部屋にお声をかけに伺いましたが、室内に入る前からいつもと違う気配がしておりました。
「主君。前田です。ご起床されていらっしゃいますか?」
いつものように、まずは襖越しにお声をかけると、弱々しい掠れた声で入室を許可されました。内心様相が違うことに慌てていましたが、ここで表情に出しては懐刀としての面目が保てないと思い、平常心を装って早速中に入りました。
「失礼します。いかがなされました?」
「前田。薬研を、呼んできてくれるかい?」
僕が主君から次に聞いたお言葉は、それでした。
「珍しくわかりやすく落ち込んでるんだな」
今朝の様子を反芻していたところに、ちょうど思い描いていた刀が上から僕の顔を覗き込みました。
「薬研」
「大将なら問題ない。今は飯もちゃんと食って寝てるところだ。季節の変わり目に喉から来る風邪に弱いって本人が言ってたからそういうものなんだろうな」
そう言いながら、彼は僕の隣に座り、間には本日のおやつの草餅とほうじ茶の盆を置きました。主君の住まわれるお部屋は母屋の一番最奥ですが、ここはそこから一番遠い別棟の厩近くの裏庭に面した縁側です。日当たりは特定の時間はとてもいいのですが、今は湿ったような地面の質感の空気がいっぱいに広がっています。ほうじ茶の芳しい香りが場違いなほどに。
「主君からこんな遠いところにいていいんですか?」
「寝てる相手の側にいてもやる事はないしな。それに、気にしいの連中がしょっちゅう様子を伺ってるからなんの問題もない。せっかく淹れた茶が冷める前に少しくらい付き合ってくれよ」
「はい。ありがとうございます」
こういうところは、初鍛刀の薬研はとても目敏いです。
特に、兄弟刀たちの心の機微については。
僕からうまくなにも言うことが出来ずにいると、茶を含んで、すぐに本題に入りました。
「別に、俺っちじゃなくたって、病人の世話なんてすぐに出来るようになる。特に前田はいつも大将の世話焼いてるんだから、変化にも気付きやすいし、面倒見がいいからな。教えてやるから、次からは頼むよ」
「でも、主君は薬研を真っ先に頼られました。それは事実です」
「だから、大した話じゃない。現世の薬を取り寄せたいから買ってこいって言付けだけだ。世話を焼くのはお前の本分だろう?」
「しかし……」
一口、二口と、それだけで草餅を飲み込み噛み砕いてしまうと、パンパンと威勢良く両の手を叩いて粉を落とす仕草は、繊細な見た目よりも豪快さに重きを置いた薬研らしい動作でした。
僕のほうは、お茶と草餅を、一口ずつ、前歯で小さく口に入れては飲み込むだけです。いつもは草餅の草いきれの風味が顔中に広がるのが嬉しく好物だと思っていたのに、味があまり良く分からずあんこの甘みだけが舌に残ります。
僕の言葉の続きを待っているのか、薬研はすでに飲み下したはずのお茶を持て余した黒い指先でつまむようにして持ち上げていました。
「僕ではきっと、力不足です」
わかっていたのです。
少し厳しいのでは、ということを。
お食事の好き嫌いがあればそれを諌め、夜更かしをされて寝不足とあればお小言を言い、戦績が上がらない日があれば肩を落とされるのを戒めていました。主君たるもの、いつでも堂々としていてほしいという僕の勝手な想いから。刀という「物」にすぎないこの僕が。
あまりにも近い距離と、お側に置いてもらえているという自信が、いつしか慢心となって僕の態度を冗長させていたのでしょう。
だからこそ、こんな肝心な時に、一番側に居たのに、頼られることもなく、その手を伸ばしてもらえない。
大きな武勲はありません。
しかし、いつでも、僕は、お仕えする方の力になりたいと思い、顕現してからそのように過ごして来ました。
けれど、その思いは、主君にとって、重荷となっていたのではないか、苦しみとなり、あのお優しい方に厳しく詰め寄ってしまっていたのではないか、と今更、そのお側に居られないことで、僕は自分の不甲斐なさを痛感しています。
堀川さんに少し親近感があるのは、そういうところが薄っすらと似ていると、勝手に僕が思っていたからです。彼もまた、身内に対してこそ厳しさを発揮される方なので。
口にせずとも、僕の言いたいことはやはりわかっていたようで、薬研は小さなため息を落としました。
もしくは主君からも常々苦言が呈されていたのかもしれません。初期刀の山姥切さんとはまた違った信頼を初鍛刀の彼は預けられていますから。薬研は、いつも、上手に飴と鞭を使いこなしているように、僕には見受けられるのです。それは、とても器用なように。
こんな時くらい、厳しい環境から少し離れて、心置きなく心身共にゆっくりお休みされるのが体調不良には一番だと伺いました。それならば、僕がお側になんていないほうが、きっと主君は落ち着くはずです。そう思えばこそ、こんなところで一人縁側で脚を揺らしていたのですが。
「大将が」
午前中いっぱいは薬研と山姥切さんしか主君に直接お会いしていません。昼食以降は僕はここにいたのでわかりませんが、人が少ないこの場所では主君の様子は噂話でも聴こえていませんでした。
「前田を心配していた」
「え」
「さっき帰ってきた堀川も念のために熱は確認したんだが、問題なかった。いつも堀川と前田が側にいるから、どちらかに移っていないかってな。ここ数日は疲れが溜まっていた自覚もあったらしい。それならさっさと頼ってくれていいんだが、俺たちの大将ってのは、やっぱりお側に置いてる誰かさんたちに似ていて頼るってことを中々してくれないのさ」
そう言いながら薬研の黒い手が僕の額にそっと置かれました。
「まあ、お前も大丈夫そうだな」
「僕はそんな……」
「自覚がないまま、熱発が起こることもあるんだってよ。
あとは、ようやく前田が言ってたことの意味がわかったって楽しそうにしてたぞ」
「僕が言ってたこと?」
「いつも忙しなくて、ようやくゆっくり聴くことが出来たって。鳥の声が聴こえて、いい天気が見えて、寝てるとそういうのが嫌でも目に入るってな。前田が言っていた通りで、安心したってよ」
僕の額に置かれた、いち兄よりも小さいけれど僕より少し大きな手は、そのまま頭の上に持ってかれて、てっぺんのつむじのところを、ゆっくりと、前後に往復しました。いち兄とも、鯰尾兄さんとも、骨喰兄さんとも違う撫で方でした。
「移しちゃいけないってんで、急いで下がらせたって言ってたから、余計に気にかけてなぁ。普段からちゃんと前田や堀川の言う通り節制しとけばよかったって、自分の体調より、今日出陣出来ない俺たちのことを気にかけてた。
大将は、なにも気にしちゃいねえよ」
主君が、そんなことを。
僕を、慮る、そんなもったいないお言葉を。
まるで頭を撫でられると水が溢れる仕組みのからくり人形みたいに、目元が熱くて、頭が痛くて、目から涙が出るのが止められません。歯を食いしばって、顎が痛いし、目の前が滲んで薬研の表情すらわからない。
きっと、憎らしいほど、いい笑顔を浮かべているのでしょうけれど。
「懐刀だろ? 自信を持ちな。
あの人は、自分にとって、正しいと思った刀を側に置いている。お前は選ばれたんだ。これからも、大将を頼むぜ」
「はい」
悔しいけれど、その言葉を、きっと僕は、薬研に言われたかったのかもしれないと、初めて気づきました。
「そろそろいい時間だな。大将に葛湯でも作って持っていってやろう。あとは、その顔も見てもらわないとな」
「え、僕はいいですよ! 移るといけないですし!」
「ははははは! 人間の病気が刀に移ってたまるもんか。俺は移らんと思うがね。大体前田や堀川の心配はしたのに、俺っちやまんばの旦那についちゃそんな心配微塵もしてなかったがな」
「え!? 移らないんですか!?」
「さあな? そういう細かいこたぁ、俺っちは知らねえからな。あのキツネに聞いたほうが確実だと思うぜ」
そうして、薬研が再び来た時と同じように盆を持って立ち上がろうとしたのを制し、盆をさっと奪うように持ちました。
「わかりました。共に参りましょうか」
「ははっ。その方が、お前らしい」
「褒め言葉と受け取っておきます」
厨の前で山姥切さんにすれ違いましたが、薄っすらと見える口元が少しだけ微笑んでいるように見えました。
きっと、明日は、また、いつも通りの日常になることでしょう。