【閃華27サンプル】沼地のある本丸ー雲の峰がひときわ高く立つころー【修行に拗らせお手のもの!3】見られた背中
この本丸の初期刀は山姥切国広。
初鍛刀は薬研藤四郎。
この二振は、この本丸の最初期から顕現したため、本丸を切り盛りし、育て、共に成長し、現在二つの柱となっている。
そして、僕は、六振目に顕現したにっかり青江。
この本丸で短刀以外に初めて顕現した大脇差だ。
*
自分の目の前で一緒に洗濯物を畳んでいる堀川の、光りを受けているようにいつもキラキラと輝いている浅葱色の瞳は丸くクリクリとしていて、本当に自分と同じ刀種なのかと最初は疑ってしまった。その小柄な体躯と相まって、自分と同じ脇差と一瞬気付かなかったくらいだ。まあ、すぐに自分のほうが例外なのだと後々鯰尾と骨喰が来た時に気が付いたのだけれど。
本日は、錬度の統一のため初期刀殿が短刀たちを率いて戦場へと出かけている。まだ本数が少なく、太刀が不在で短刀たちが主力を務めるこの本丸では、定期的にこうして錬度の調整を行っていた。全員で出陣しては一斉に家事をやっていた時もあったが非効率的ではないか? と話題になり、最近は試しに二振り程度居残って家事当番を行うことにしている。
で、現在脇差二振りで食事の準備や洗濯などの家事を済ませているところだ。まあ、これはこれで家事の得意不得意があるため、当番には改善の余地がありそうだが。
「青江さん、今日の夕飯どうしましょうか?」
「主が今日は発注していた野菜が届くって言っていたよ。なにが届くかは知らないけれど。
昼すぎだと言っていたから、みんなが帰ってくる前に風呂の準備をしている頃合いには届くんじゃないかな。それを見てから献立を決めようか」
「そうですね。野菜は大丈夫だけど、お肉はあったかなぁ」
「後で冷凍を見ておくよ」
「ありがとうございます! まだ、料理はあまりうまく考えられなくて……」
「僕だって切って煮るか、炒めるくらいだよ。主がそれしか出来ないっていうから」
そんなたわいもない会話が途切れ途切れ続きながら、お互い手を止めることなく、洗濯をして、干して、乾いたものを取り込むところまで来た。
僕の次に顕現した脇差は「堀川国広」。
ここの初期刀である山姥切国広の兄弟刀と聞いた。
最初は二人ともぎこちなかったけれど、いつからか互いを「兄弟」と呼び合う仲になったようだ。あの初期刀はなかなかに責任感が強いのに、肩の力を抜くのが下手くそで、時々部屋で丸まっていたのを知っていたから、息をつける相手が出来たことは、素直によかったと思ったものだ。
あの当初のぎこちなさを見たときは、余計にまんばの重荷にならないかと不安にならなかったといえば嘘だけれど。
堀川は、まるで「脇差」の見本みたいに他人の世話を焼くのが上手かった。
自分にはどう接すればいいのかと恐る恐る接していた短刀たち(薬研以外)が、堀川にはあっという間に懐いていたのを見て、自分の至らなさを見せつけられたような気がした。
そもそも、自分は頼られるような刀ではないのだ。
どうすればいいのか、わからないから。
の、はずだった。
気が付いたら、ここに顕現してからというもの、日々の雑事に追われている。
基本思考がネガティブな初期刀が落ち込んでいる暇もないほど、生身の身体というのはただ生きるためだけに要することが多過ぎた。
短刀が多いから、高所にあるものを取るために必要な身長だけを求められて踏み台代わりに呼ばれては食器を出し、トイレットペーパーを補充し、掃除道具を片付ける日々。
面倒くさくなってまんばと一緒に低い位置に戸棚をカスタマイズしたのが自分から最初に起案した仕事だった。
お風呂に入ったらすぐに眠くなるのが今剣。ひどい時は食事をしながら眠ってしまうのが秋田。風呂からこっそり逃げようとするのが小夜。姿が見えないと思ったら狭くて暗いところならどこでも寝てしまうから一日の終わりに愛染を探すのがもっぱらの日課になっていた。
みんな最初は「青江さん」と声をかけるのにも躊躇いがあったのに、「慣れない」なんて言っても毎日は来るもので、戦に出て、帰ったら食事を作って、ワッと食べて(作るのは大変なのに食べるのは一瞬なのはなぜなんだ)、風呂の用意と入ってからの片づけをしてたらアッという間に夜。
そこらじゅうに転がってる短刀たちをまんばと一緒に拾って布団に放り込んで最後の灯りを消すのが自分の役割になっていた頃、堀川がやってきた。
毎日を暮らし、生活をするのに精一杯で、自分らしさなんて、考える暇もなかった。
そんな僕は、大層格好悪かったに違いない。
堀川は、料理こそ初めてでわからないとボヤいたのを見たものの、掃除にしろ、洗濯にしろ、慣れるのが早かった。
話せば朗らかで、明るくて、なにをしていても楽しそうだった。
短刀たちより少し大きいくらいで親しみやすかったのだろう。僕と違って踏み台にされているのを見たことはなかった。今でも今剣は僕をわざわざ呼びつけるというのに。
洗濯物をたたむのが早くて上手い。気が付いたら洗濯は堀川の領分になっていた。
小さな小夜の着物や愛染のTシャツを、器用に丁寧に、しかし手早く畳んでいく。自分のほうが早くこの身を得ていたはずなのに、堀川のほうがよっぽど手先も、態度も、人間のようだった。
自分よりも、よっぽど、堀川のほうが、頼りになる。
*
「意外だなぁ。青江さんて、そんな他人の評価なんて気にするような刀だったんですね」
うっかり、堀川は自分と違ってすごいね、と零したのが最後、聞き上手は恐ろしい。
しかも、さりげなく貶されているような。
ただ、言葉の強さと表情は噛み合っていない。彼は、すごく、笑顔満開だった。悪意の欠片も見られない、清々しいほどの笑顔である。
久しぶりだった。こんないい顔の、堀川なんて。
手作りのすすめ
この本丸の初期刀は山姥切国広。
初鍛刀は薬研藤四郎。
この二振は、この本丸の最初期から顕現したため、本丸を切り盛りし、育て、共に成長し、現在二つの柱となっている。
そして、俺は、十六振目に顕現した和泉守兼定。
格好良くて、強~い兼定派にして、堀川国広の相棒だ。
*
国広がいない。
それは別によくあることだ。内番だったり、出陣だったり、万屋に出掛けたり、山籠りに同行したりと、相棒のいるところは毎日違うので、必ず把握しているわけでもないが、今日は遠征で本丸にはいない。
かなり多くの刀が遠征に行けるようになり、今日は三部隊全部が遠征に出ている。今まではそこまで刀数を割けなかったが、部隊全部を出してもなお、ようやく本丸に残るだけの余力が出てきたところだ。
この本丸では、朝晩は厨当番がいるので用意されるが、昼食は各自自由だ。料理が好きな刀がいれば、昼食も含めて作ってくれることも多いが、今日は誰も厨にいない。残った刀たちで粗方の内番を終わらせ、ようやく一息ついたところで、昼食の準備をしようと厨に向かっていた。残っているのは、俺と、初期刀である別の国広の山姥切、そして秋田、五虎退、愛染と初期からいる短刀たちばかりだ。
知ってる限り料理が得意なものたちもいないので、適当に握り飯でも用意しようと思い立った。作り方くらいは、いっつも国広が差し入れてくれるのでわかっている。黒いインナーの袖を捲り上げながら厨の入り口にかかった暖簾をくぐると、サイズは違うが見慣れた赤茶色のジャージが立っていた。
「まんば」
「カネサン」
「その呼び方やめろ。言うならもうすこし滑らかに言え」
「そうか。カネサン、腹減ったのか? これからまとめて作るから暇なら手伝え」
「相変わらず人の話を聞かねえな。ていうか、え、お前が作るのか?」
厨に入る時は絶対に布を外せ、という主命があるため、厨にいる間は布を外しているが、きちんとエプロンと三角巾を締めている。その顔が少し苦味を含んだ口元を作り、憮然とした声を返した。相変わらず煽り耐性がめちゃくちゃ低い。こちらとしては単純な疑問を口にしただけなのだが。
「見くびるな。簡単なものならひと通り作れる。今日は本数も少ないしな」
思わずといった風に「へ〜」と声が出てしまう。
「手伝いに来たんだろ。一緒にやってもらうぞ」
「へいへい」
「ただし、味に文句をいうなよ」
たまの酔狂
見惚れるようなさらりとした流れる金髪に、翡翠の輝きを放つ瞳。白磁のような肌と無駄のない筋肉に覆われしなやかに大地に伸びる手足。爪先までが作り物めいた造形をして、個別に見ても、全体としても「美しさ」を表現しているように見える。
だが、その姿は薄汚れた布で全身を覆っている。隠されれば見たいと思うのは心を持つ者の性分であり、美しい姿を隠すのは雲隠れする月のようだと揶揄される。しかし、本人はそう言われればすぐさま噛みつくように応えるのだ。「綺麗って言うな」と。
そう噛みつくその視線こそも、気高いものにしか許されない鋭くも全てを見つめる強い光を宿すというのに。
*
思えば出会いは最悪だったと思う。
アイツは初期刀。俺は初期刀候補でありながら「選ばれなかった」一振り。通常の顕現を待つ身として、ここに呼び出されてみれば、すでに新選組の仲間たちは全員揃っていて、初期とまでは呼べない頃合いの本丸に顕現を果たした。
俺の名は、加州清光。二十三振り目に顕現した打刀。
元主を同じとする大和守安定に歓迎されて、今ここに至る。
この本丸の初期刀は、山姥切国広。その目を見張るほどの美しい姿は、しかし本人の本意ではないらしい。
そんな見目をしていながらにして、自らの美しさを否定するような言動を取るアイツが、俺は気に入らなかった。
「清光君、兄弟にキツイこと言ったでしょ。昨日から落ち込んでて大変なんだから」
「言った? いつ?」
朝洗面台で顔を合わせた堀川が苦笑いしながら俺に問う。記憶になくて思わず洗顔しようとしていた手を止め、昨日の記憶を思い出そうと空中に指を立てた。
「ああ、もしかして、昨日の目線合わないってやつかも?」
「多分それ」
「仕方ないじゃん。アイツ、短刀相手だとちゃんと視線合わせるくせに、打刀以上だと顔も合わせようともしないんだもん。相手に失礼だろ。
一緒の部隊で出陣するっつって打ち合わせしてんのに、やる気あんの? 命預けあうんだぞ?」
「まあまあ。最初は誰に対してもあんなものだから。慣れてきたらわかるようになるって」
「堀川は兄弟だからって甘やかしすぎ。甘くすんのは和泉守だけにしてよ」
「そうかなぁ。甘やかしてるつもりもないんだけど」
「これだから身内贔屓は……」
そういうものの、堀川に対しての嫌悪感は全くない。旧知の仲でもあるし、現在は部屋も一緒だ。ここに顕現してからの人間の生活の仕方はほとんど堀川が教えてくれたし、感謝をしている。
だが、お前の兄弟はダメだ。
「ま、今日初めて一緒に出陣するんでしょ? それなら楽しみにしてて」
「はあ? 初陣では必ず初期刀と一緒に出陣する慣わしっていうのは聞いたけど、別にそんなのいらねーし。お前とか安定から聞くからいいよ」
「安定君も顕現したばかりなんだって。僕とは錬度も違うし、刀種も違うでしょ。同じ打刀なんだから、兄弟の戦い方はしっかり盗んできてよね」
そういって送り出してくれた堀川の気持ちを俺は無下に扱った。
こんな、自分のことを卑下して見下しているような奴に、一体何を学ぶというのだ。
ここの主は本当に見る目があるというのだろうか。
顕現したての俺の率直な気持ちはコレだった。
初めての出陣の手順を山姥切国広からレクチャーされ、工程を確認する。
教え方は丁寧だとは思った。だが、目は合わないし、声も小さい。
思わず時々「聞こえないんだけど」と突き返す。時折、一緒に出陣していた和泉守が「いびるなよ」とやんわり宥めてくるくらいには機嫌も悪かった。
だが、いよいよ戦場に出て、すわ戦闘だ! となった瞬間からが、見物だった。
正直、舐めていた。本当に。
それを見抜けなかった自分も情けなかった。
山姥切国広は、本体を抜いてからがすごかった。
全身を覆っているはずの布は明らかに視界を遮っているように見えるのに、どこに目がついているのか、どこからの敵の攻撃も読んでいたように素早く身を翻し、無駄な動きがなかった。前も後ろも、部隊の一振一振の様子も、それぞれのケガ、刀装の状態など、一目で判別して無理のない範囲で下がり、無茶な指示は決して出さない。
むしろ指示を出さずに、隊員の意見を聞く。流されるわけでもなく、かといって人の意見を横取りするでもなく、穏やかに、たおやかに、静かなのに時に苛烈に鋭く部隊をまとめる様は、慣れてるなんてもんじゃなかった。
とっくに、当たり前かもしれないが、歴戦の戦士の表情だった。
戦っている最中のアイツの顔は、美しいだけじゃなかった。強くて、恰好よくて、自信に満ち満ちていた。
写しと侮っていたのを、確かに後悔したのは、俺のほうだ。
初陣では敵ではなくて、山姥切国広に圧倒されて帰っただけだった。
自分の刀を振るうことにがむしゃらで、周りの様子なんてほとんどわからなかったし、仲間の動きも、敵の陽動や作戦も考えるまで頭が回らなかった。
なんにも出来なかった。
俺は、アイツの域になんて足元にも及んでいない。まさにそんな状態を突きつけられた。こっちは顕現したて、アイツは初期刀、つまり一番戦闘経験が豊富、比べるのもおこがましい。だけど、実際に現実を突きつけられて、愕然とした。
悔しくて、悲しくて、なにがムカつくって、普段のアイツとのギャップだったけど、結局責任を押し付けてる時点で俺のほうが弱いことになるから、この想いは全部自分で引き受けてこれから俺が見返してやるしかない。どうせ、アイツにとっては新しく増えた刀剣の一振りでしかないだろう。
絶対に、横に並び立ってやる、と思った。
出て来た時とは、全く逆の気持ちになっていたことに、自分で気が付きもしないほど俺はアイツの戦い方に魅入られていた。
そんな苦過ぎる初陣を終えて本丸に帰還すると、堀川が待っていた。
「お帰り」
「ただいま」
それぞれが挨拶をしたり、気を抜いて言葉を発す。山姥切国広は兄弟と目線を合わせると、「主に帰還の報告をしに行く」と言ってさっさと行ってしまった。残されたのはいつまでもその背中を見ていた俺と、そんな俺を見ていた堀川だけ。和泉守は知らぬ間に風呂に向かっていたらしい。
「どうだった? 強いでしょ? うちの兄弟」
堂々と宣戦布告され、思わず苛立ち、睨み付けるが、俺の表情なんて見慣れている堀川は満面の笑みだ。
全く、この兄弟バカめ。
留守の守り
この本丸の初期刀は山姥切国広。
初鍛刀は薬研藤四郎。
この二振は、この本丸の最初期から顕現したため、本丸を切り盛りし、育て、共に成長し、現在二つの柱となっている。
そして、俺は、十七振目に顕現した鯰尾藤四郎。
一期一振を筆頭とする粟田口刀派の、一振にして、脇差。
過去のことはあんまり覚えていないけど、ここで起こったことは、結構覚えているつもりだ。
いや、ずっと、覚えていようと思っいる。
たくさんの、弟たちとの思い出について。
*
俺が顕現した頃は、弟たちと一緒に出陣することが多かった。
太刀の数がまだ少なくて、皆で交代して出陣していた頃のことだ。錬度の差もあまりなく、俺たちはまだまだみんな横並びで楽しかったからよく覚えているのかもしれない。
だが、次第にいよいよ戦いは苛烈さを増してきていた。
かつてない強敵に、打ち砕かれる刀装。途中撤退が続く日も多く、どうすればこの状況を打破できるのかと、日々どこの部屋からも誰かが話し合っていた。
第一部隊を率いるのは、初期刀の山姥切国広さん。通称まんばさん。今までも多くの戦いの先陣を切ってきた切り込み隊長として活躍していたが、この本丸最高錬度の彼の実力を持ってしても、統率するのに困難が見え始めていた。まだまだ、部隊全体、いや、本丸全体の経験が足りていなかったのだ。
軍議が開かれるのは、その時の近侍部屋として与えられていたまんばさんの部屋。
部隊員の入れ替えも随時行われていたけど、主力となっていたのは、山姥切国広、燭台切光忠、大倶利伽羅、堀川国広。あとは随時打刀の誰かが入れ替わる。
そして、短刀・薬研藤四郎だった。
透明な森
この本丸の初期刀は山姥切国広殿。
初鍛刀は、我らが粟田口短刀が一振、薬研藤四郎。
この二振は、この本丸の最初期から顕現したため、本丸を切り盛りし、育て、共に成長し、現在二つの柱となっています。
そして、私は、二十五振目に顕現した一期一振。
粟田口刀派にして唯一の太刀、そして、長兄です。
*
粟田口は数が多い。
本丸での生活に当たって、数が多いというのはそれはそれで生活するのに必要な工程が増えるということである。まるで「人間」のように食事や洗濯をしなくてはならないし、なによりその準備がどれほど大変かというのは当然だが本丸に顕現してから初めて知ったことだった。
生身の身体というのはなんて不便なのだろう、という思いとともに、こんなにも面倒くさいことが次第に尊いことだと気付いた。たくさんの弟たちの笑顔を引き出せる。弟たちが楽しそうに過ごす、その一つ一つが、この本丸での生活で得られたことだ。
一緒になにかを行うことが、これほどに絆を深めることになるとは、これもまた、まさに顕現し、人の身を得なければわからなかったことである。
ただ、やはり、食事の準備も洗濯も、掃除も、数が多ければ多いほど必要とすることは多い。主力となって家事を行ってくれているものに協力するのは当然のことだと刀派の長兄として考えた。
私自身は、料理はあまり得意ではないが、それ以外の人海戦術が必要とされるものならば、数の多い粟田口の本領発揮である。
配膳や、大掃除、洗濯もの畳みなどを兄弟で分散し、時に一斉に行う姿は、いつしか本丸の日常風景となっていった。
しかし、現在夜戦を中心とした京都を攻略中の弊本丸では、昼夜逆転した生活を送る短刀たちが続出していた。
なのに、なぜこの弟はここにいてゴロゴロしているのだろうか?
「薬研。
寝るのなら、部屋に行きなさい。先ほど見たら秋田と乱も仮眠を取っていたよ。お前もまた今夜出陣なんだろう?」
「ん~、まあな」
生返事だけが返ってきたが、動く気配はない。
仕方ない、連れて行ってあげるべきだろうか。と、思わず腰を上げかけたところで、大量の洗濯物に囲まれていた堀川殿が声を上げた。
「まあまあ、一期さん。別にいいじゃないですか。そういう時もありますよ」
堀川殿は、この本丸でも比較的早くに顕現しており、薬研とも夜戦も昼戦も含め多くを共にした戦友のような関係だ。薬研を見つめる目もとても優しい。思わず、その言葉に上げかけた腰を下ろした。
「しかし、堀川殿。こうして貴方が仕事をなさっているところで、こんなゴロゴロしているのはさすがに失礼ですし……」
「僕なら気にしていませんから。大丈夫ですよ」
「はあ、そうですか。かたじけない」
そういっている間も薬研は珍しくゴロゴロと何をするでもなく、本当に床に転がっている。
実際には、薬研がこんな風に転がっているところなど、ほとんど見たことがなかった。
*
薬研藤四郎は、この本丸で最初に鍛刀された刀だ。主殿からも大切にされているのがよくわかり、顕現した時にその話を聞いた際は真っ先に誇らしさが先に立ったのをよく覚えている。
一方で、最初に皆を引っ張る立場となったからなのか、薬研は他の兄弟たちと違い、なかなか甘えることをしない。
時折、脇差の鯰尾にはひっついているのを見かけたことはあるが、それもかなり珍しいことのようで鯰尾に聞いても「ここまで手なずけるの、大変だったんだから」と小言を言われる始末。
つまりは、私の顕現が遅い、といまだにチクチクと言われているのだった。
だが、薬研が心置きなく甘えているであろう人物が二名いる。
一振り目は、初期刀・山姥切国広。まんば殿には、かなり遠慮のない言葉使いをしているし、話すときの表情も明るい。その表情が私に向けられることは今のところはあまりないというのに。
そして、もう一振りはこの堀川国広殿。まんば殿の兄弟刀である。やはり初期から共に本丸の運営に深く関わってきた仲であり、互いに意見をぶつけ合った結果の信頼の賜物なのだろう。裏表のない関係性はここにも垣間見える。正直、羨ましい。
秋田や五虎退、乱など、甘えるのが上手い短刀たちは私の顕現を目に見える形で喜び泣き、身も心も飛びついてきた。
少し大きい鯰尾や骨喰などはそこまで過剰な表現こそせずとも、それでもきちんと喜びが目に見えていたものだ。
薬研ただ、一振りが、少し遠くから、私を見ていたのが、初日の話。私を鍛刀したのは、薬研だというのに。
今なら、それが、どう接すればいいのか困惑していたのだとはわかっていても、なかなか縮まらない距離に、兄である私のほうが情けなくも肩を落とす日々である。
そんな薬研が、ゴロゴロしている。
私の前では、そんなみっともない姿をさらしたことなどなかったのに。
「薬研君、お茶でも入れる? お昼ご飯は食べたの?」
「食った。ちょうど起きたら燭台切の旦那がいてうどん作ってくれた」
「それならよかった。でも、僕喉が渇いたからお茶いれるよ。一期さんもいりますか?」
「あ、は、はあ。かたじけない。では、お言葉に甘えて……」
「はい。ちょっとお待ちくださいね」
そういって脇差らしい素早さですぐに部屋を出ていった。ふと時計を見るとそろそろ八つ時だ。なるほど、厨の様子を見に行ったのかと合点する。
転がっていた薬研がこちらを見ていた。が、目が合うと、すぐに顔を逸らされた。
「薬研。本当に、今日はどうしたんだい?
珍しいじゃないか。そんな風にゴロゴロして。普段は堀川殿と同じように、誰がどうしたこうしたって呼ばれては出ていって、呼ばれなくても騒ぎがあったら首から突っ込むのがお前じゃないか」
「……いち兄、俺のことそんな風に思ってたのか?」
うつ伏せになって、顔だけをこちらに向けた薬研が不服そうな声を上げた。額の上にあった眼鏡をかける。どうやら転がるのには飽きたようだ。もう一度身体をごろりと回転させて仰向けになり腹筋だけで起き上がって軽く胡坐をかいて私の隣に座った。黙々と続けている洗濯もの畳みをどうやら手伝ってくれるらしい。常に手袋で覆われている黒い手が粟田口の刺繍のあるタオルをおもむろに手に取った。慣れた仕草で畳みながら世間話を始める。
「聞いたか? いち兄。あの話」
「あの話? どれのことだろう?」
沼辺にて
俺は、山姥切国広。
この本丸で最初に顕現した、通称「初期刀」だ。
明日、この本丸で初めて鍛刀した刀が、修行に行く。ここでは、初めての修行だ。
いつか、言い出すだろうとは思っていたが、先ほど、主に言われた。もっと前から決まっていたのだろうに、知らされたのが前日というのが、今とても身に堪えている。受け止めきれていないのは、俺だけだというのだろうか。
*
朝型の刀は多い。
むしろ寝坊をするような刀は決まっていて、呑兵衛か、怠惰のどちらかだ。それでも戦闘や日常生活に支障のある生活をしている奴はいないのが救いだが。
俺も決して朝一番というわけではないが、最初期から早くに目が覚めるので早くから行動をしていた。
今も朝飯前に手合わせに行く連中を見送って、静かに屋敷を出てきたところだ。
この本丸には「沼」がある。
この本丸の屋敷の裏に、ゆるやかな丘と竹藪があり、先が見えないほど生い茂っていた。
最近の刀たちは知らないだろうが、その先には何があるのかと、初日に主と薬研と三人で探検をしたのだ。
池ではない。湖でもない。
大きすぎず、小さすぎず、本丸の池よりは大きかった。無理に渡れないほどでもないので、湖ではないとのことだった。俺も薬研も、池と沼と湖の違いもわかっていなかったが、ここを「沼」だと覚えた。
泥や水中の草木が多く、中を見通せない。しかし、水がひどく濁っているようでもなかった。手を入れて水をかき混ぜると泥水のように濁るが、しばらくしたらまた水の流れで回った土が下に落ち着いて上部に綺麗な水が残る。
深さがどれほどかはわからないが、本丸の囲いの外ではあったので、放っておくことになった。力仕事の出来る振り数が揃ったら、間違えて誰か滑り落ちないように柵でも作ろうと言って。
この沼の先になにがあるのかはわからなかった。
沼の先には、見えにくいが、不透明な膜のようなものがこの本丸全体を覆っているのが見えたから。
あるじが言うにはこれが、本丸の周囲を守る「結界」とのことだった。この結界の近くに居座る沼。俺は、この沼を、好ましく感じ始めていた。
基本的には、屋敷の周囲に張られた柵の外に出ることは禁止されていた。
馬に乗って充分に走らせても事足りるくらいの敷地は用意されていたし、畑用の敷地や、中庭の池、振り数が増えるに連れ増設された居住部分、それだけでも十分な広さがあったが、さらに柵から外に出る手段は、戦場に行くために通る「正門」、通称「ゲート」のほかに、裏門、西門、青龍門、朱雀門、など、各々が生活していく中で勝手につけた名前がいつの間にか定着し、必要があれば増設し、正門の大きな門以外にも小さな勝手口がいくつか作られた。この小さな出口の使用用途は、本来外に出ることが禁止されているので、洗濯物が飛んで行ってしまったり、馬が逃げていったのを追っていく時、包丁がかくれんぼで外に出てしまったのを探す時くらいなどだったが、皆、おおむね柵の中の生活で皆満足していたのだろう。
誰からも「沼」の話を聞いたことがなかった。
中庭の池の話はよくみんな話題に出す。
海の話も浦島が好んでするし、テレビからの映像でも兄弟の瞳のような海の映像を俺も見たことがあった。
だが、誰からも綺麗ではない「沼」の話は聞いたことがなかった。もちろん、俺も話したことなどない。あの最初の日に主と薬研と話してから。
裏門から出て、生い茂る竹藪を通ると、次第に坂道になる。少し息切れするくらい昇っていき、少し下ったかと思うあたりで、突然目の前が開けて、沼が現れる。うっそうとした竹林の中、光りがそこにだけ射しているように。
池と違って鯉のような大きな魚は泳いでいないが、小さな骨みたいな魚は見かけることがあった。オタマジャクシに蛙や昆虫、鳥を時折見かけることはままある。
雨上がりに行くと、沼の中が澄んでいるのがよく見えた。通常は逆らしいのだが、不思議なことにここではそうだった。
本丸の敷地内の外れに当たるので、誰かが来ることはほとんどない。
雨上がりの早朝にだけ、俺は一振りで、ここに来る。
そして、俺以外にここに来るのは、俺が知る限り、たった一振り。
だから、雨上がりの翌日の晴れた朝、そいつに逢うためには、ここが一番よかった。
「やっぱり来たな」
「それはこっちのセリフだ」
いつもは朝に弱い薬研が、すでにそこに待っていた。