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    HOME9(前)「わー、すごい! 広い!」
     もはや住み慣れてしまった水希でも、たびたび広さを感じてしまう住まいを前に、弟が歓声を上げる。
     素直な反応を見せる弟に、車でライゼズから送ってくれたスティーブンは笑っている。ともすれば病院ごとあちら側にいたという弟は、水希たち以上に異界に慣れているかもしれないが、それでも一人でHLを歩かせるわけにはいかない。弟には、水希みたいな力はないから。彼は、普通の人類だ。
     小さい頃から社交的で、友達の多かった弟は、玄関で迎えてくれたヴェデッドとさっそく打ち解けている。その早さには圧倒されてしまう。
    「スティーブンさん、ごめん。うるさくなるかも」
     こっそり小声で謝る。
     良く言えば賑やか。悪く言えば喧しい。その評価は、受け手によって変わる。
     水希にとって彼が唯一無二の弟であるように、弟にとっても水希は姉貴だ。三年間生き別れていた片割れが、どんな人の元で、どんな暮らしをしていたか。気になって、直接見たいと言うのは、当然のこと。
     仕事柄、スティーブンは警戒心の強い男だ。たとえ子どもの頼みでも、断るかもしれない。そう思ったが、予想は外れて、スティーブンは快諾した。考えてみれば、広い住居を利用して、時には友人(ではなかったときもある)を招きホームパーティを開く一面もある。水希の弟だから他人の家で滅多なことをするわけがないし、邪険にする理由はなかった。
    「気にしなくていい。久々に人界のものに触れて、はしゃいでるんだろう」
     スティーブンの言う通りだ。
     三年間、一緒にあちらへ行ってしまった人たちと助け合ってきたと言っていたが、彼ら以外に人類の存在しない世界だ。ストレスが溜まらないわけがない。弟は大丈夫なようだが、発狂した人だっていたのではないだろうか。
    「それではお食事にしましょうか」
    「はーい!」
     ヴェデッドに促されて食卓に移ろうとしたが、聴覚が微かにバイブ音を捉え、足を止めた。
    「ウィ、スティーブン」
     ポケットからスマホを取り出し、スティーブンが通話に出る。
     彼は端的に応じるだけだったが、ライブラの招集だとわかった。電話を切ると、申し訳なさそうな顔でこちらを見る。
    「すまない。急な仕事が入った」
     別に珍しいことではない。むしろ、これからゆっくり食事をするところだったのに邪魔されたスティーブンが不運だ。彼が謝ることではない。
    「アタシも手伝う?」
     超能力では対抗しきれない血界の眷属ならともかく、大抵の面倒事は水希も役に立てるはずだ。
    「いや、君はここに残りなさい」
     優しく微笑みながら、しかしきっぱりと断られた。
    「万が一、君に何かあったら、僕は君の家族に合わせる顔がなくなる」
     そう言われてしまうと、水希は何も返せなくなる。
     奇跡の街と呼ばれているが、一個人にとって本当に都合のいい奇跡はそうそう起こらない。行方知れずだった弟たちが無事で、また一緒に暮らせる日が来るなんて、実現するとは思ってなかった。つい身構えてしまうほどの幸運だ。超能力者特有の直感で、目の前にいる人間が弟だとわかっていても、信じられなかった。レオの義眼で何の仕掛けもない人類であることを確認してもらってようやく、現実味が追いついてきている。
     せっかく再会できたというのに、もし水希が命を落とすようなことがあったら、スティーブンたちが水希を護ってきてくれた意味がなくなってしまう。
     残念、と眉を下げる弟に、ゆっくり寛いでと返し。スティーブンは世界を救いに行ってしまった。
     今日はこの街のどこで、何が起きているんだろう。そんな疑問に次いで、少し先の未来を想像する。
     家族と共にHLを発てば、こうしてスティーブンを見送ることはなくなる。HLで世界を揺るがすような事件が起きても、人界にそのニュースが流れることはなく、ましてや世界のため暗躍するライブラの活動を知る術はない。裏社会と関わってしまった水希と、ライブラの縁が完全に断たれることはないだろうが、スティーブンならきっと、水希の元へ何の情報も渡らないように手を尽くすだろう。
     スティーブンの訃報ですら、水希には届かないかもしれない。
    「忙しい人なんだね、スティーブンさん。何してる人なの?」
    「会社のけっこう偉い役職の人」
     いくら水希の超能力を知る弟でも、秘密結社ライブラの名を出すわけにはいかない。ヴェデッドだってこの場にいる。
     実質ナンバーツーの立ち位置にいるのだから、説明を大幅にカットしているだけで、嘘は言っていない。弟も深くは突っ込んでこなかった。
    「わあ、美味しそう!」
    「ふふ、どうぞたくさん召し上がってください」
     ヴェデッドはずいぶんと張り切ってくれたようだ。豪華な食事を前に、弟は目を輝かす。
     仕事を終えたヴェデッドが帰ってしまうと、あとは姉弟二人だけだ。
    「ママも来れたらよかったんだけどねえ」
    「しばらくは病院食だからね」
     母の体内から、生命エネルギーを奪っていた種子の摘出は終えている。意識も回復したが、ずっと人繭状態で延命されていたのだ。当然すぐに動けるわけがなく、リハビリも必要になる。
     動けたとしても、この家まで連れてこれたかどうか。母は、あの紐育崩壊を経験してから今日まで意識がなかったのだ。霧から現れた異界存在への恐怖が、新鮮さを保ったまま解凍されたようなもの。異界の者たちが市民として歩き回っている街など、ごめんだろう。
     水希だって、今でもあの一夜の白い悪夢を見る。異界人の患者と接することもあった弟はケロリとしているが、まさか恐怖を一切忘れたわけではあるまい。
     母に限らず。健康になればすぐにでも外界に出たいと願う患者は、多いはずだ。
    「明日はどうする? 休みもらってるんでしょ」
    「うん! 忙しいのに、みんな気を使ってくれたんだ」
     異界に流れ着いた運命共同体として、良い関係を築けていたのだろう。弟から聞く病院スタッフたちに、悪い印象は一切ない。
     水希と違って、弟は真っ当に生きてきたはずだ。弟は、善良な人間だから。
    「水希、学校行ってたんだよね? 学校のお友達には会えないかな」
    「授業があるから、その後なら。連絡しとく」
    「ああ、そっか、平日だっけ。感覚なくなっちゃってるなあ。水希は授業、出るの?」
    「ううん、休む」
    「サボりだ、いっけないんだ~」
     学校には、水希のように大崩落を経験した子は少なくない。家族を失った人もいる。弟を紹介したら、驚き、「よかったね」と喜んでくれるだろう。
     察しの良い者なら。水希が転校することにも、想像がつく。
    「水希? どうかした?」
     食事の手が止まっていた。弟は怪訝そうに水希を見つめている。
     自分は、ここからいなくなる。
     ここにいられるのは、きっと一月も残されていない。
     心の底が、ひんやりと冷える思いに囚われた。

       *

    「水希?」
     呼ばれて顔を上げる。
     レオが水希の顔を覗き込んでいた。
    「どうした、こんなところで。具合悪い?」
     水希は病院の庭にいた。街内に数多ある施設の中で、怪我人や病人が集まる病院は、極めてセキュリティが高い。多少、ベンチに腰掛けてぼうっとしても、悲惨な目に遭うことはそうそうない。あっても、即死すらしなければ、すぐに高度な医術で延命される。
     レオと会うのは、ライゼズが出現して以来だ。数日ぶりなのに、もっと長い間会っていなかったような錯覚がする。
    「ううん……」
     答えた声は、自分でもわかるほど力がない。
    「レオは……ザップさんのお見舞い?」
    「うん」
     答えながら、しかしレオは水希の横に座った。
    「水希は、お母さんの?」
    「弟も、ここにいるから」
     同僚たちからは休め休めと言われているそうだが、「お世話になったし、ここにいられるのはあと少しだから」と、今日は働いている。母はこの病院にいるから、休憩時間に顔を出すこともできる。
    「なんだろう。久々に君の顔を見た気がするな」
     柔らかく笑いながら、レオは言う。
    「ライブラには、顔を出してる?」
    「あんまり……」
     あれから、本部には一、二回しか行っていない。
    「弟を連れていけないし。行っても、仕事割り振ってくれないし」
     二度目に行ったとき、執務室にはスティーブンを含め、誰もいなかった。別室にいたライブラのスタッフへ訪ねると、ちょうど出動要請があって、戦闘員は出払っていた。
     待っていれば、時期に皆戻ってくる。そう言われたが、水希は先に帰ってしまった。
    「ああ、それは、うん……もう、水希を危険な目には遭わせられないからね」
    「それは……わかるんだけど。スティーブンさんだって、忙しそうなのに」
    「ライブラだけじゃなくて、君の転校手続きとか、色々あるもんな」
     スティーブンは何も言わないが。水希はライブラと深く関わった人間だ。しばらくは外で警護に当たる人材を確保するために、牙狩りと連絡を取り合っていることを知っている。
     静かに、けれど確実に。水希が外へ出るための準備が、進んでいる。水希が何かをするまでもなく。
     水希がすることなんて、せいぜい荷造りぐらいだ。それは遅々として進んでいない。家中にある私物を片付けようと手に取るだけで、気分が滅入ってしまった。
    「レオ」
     ちらりと病棟へ視線を走らせる。
    「ザップさんのところ行かなくて良いの?」
     あの男は、存外寂しがり屋だ。レオのことも、本人は決して認めないが、後輩として可愛がっている。
    「面会終了までまだ時間あるからね。水希こそ、お母さんは?」
    「ママは……弟がいるし」
    「でも、水希の顔だって見たいんじゃないか。いくら同じ顔でもさ」
     水希は、その問いには何も返せなかった。
     心を読む力。周りからは便利だと言われるし、相手の本音がわかるなら人付き合いもしやすそうだと思われている。実際、そういう面があるのは否定しない。上手く活用すれば、他人より器用に生きることは可能だ。
     しかし。知りたいことだけじゃなく、知らない方が良いことまで、読めてしまう。
     父親が、母親が。心の内では水希のことをどう思っていたのか、水希は幼い頃からよく知っている。
    「水希」
     義眼が隠されているレオの糸目は、どこを見ているのかわかりづらい。しかし今は、強い視線を感じた。
    「君が、ここで悩んでいたことは、家族に話せること?」
     どきりと心臓が跳ねた。
    「それとも、スティーブンさんなら話せる? スティーブンさんがダメなら、俺が聞くよ」
     実際のところ、水希にもよくわかっていないというのが正直なところだった。
     何かがずっと、喉の奥に引っかかって、塞がっているような感じがするのだ。
     とにかく落ち着かなくて、居心地が悪い。水希から、あらゆる気力を奪おうとしてくる。足元の地面が不安定になるような心地まで覚えて、ここ何日か眠れなかった。
    「わかんない……」
     そう返すのがやっとだった。
    「自分でも、何を考えてんだか」
     レオが口を開く。
     けれど彼が声を発するより先に、横やりが入った。
    「おうおうおう、陰毛頭。女男まで、先輩様を放ってなーに道草食ってんだ」
     信じれない気持ちで振り返る。それはレオも同時にだ。
     松葉杖をついたザップが、こちらに迫っていた。わりとしっかりとした足取りで。
    「……レオ。ザップさんって、えらい大怪我でここに運ばれたんだったよね?」
    「うん。生きるか死ぬかの瀬戸際。しかも、縫合された後にまた大怪我してたし」
    「何でもう動けてんの?」
     レオは力なく首を振る。
    「俺らの感覚で測るのが間違ってるんだよ、きっと」
    「二人揃って何つー言い草だ。まずは先輩様への心配が先だろーがよい」
    「よくここにいるってわかったね?」
     喫煙所は反対方向のはずだ。そもそも、タバコを吸っていい身体じゃないが、ザップが律義に守っているところを見たことがない。
    「あの小っちぇー女医が、お前らを見かけたっつーからよ。俺様から直々に来てやった」
    「それは、ええ、怪我してるところを無理させちゃってすみません」
    「レオだめだよ、謝ったらつけあがるもん。どうせ後で行くんだから、待ってたら良かったのに」
    「辛気臭ぇ顔してるかと思ったら、生意気言いやがってクソガキが」
     怪我に響くから止せばいいのに、腕で小突いてくる。包帯にぐるぐる巻かれて太さが増したそれで叩かれたところで、痛くも痒くもない。強いて言うなら鬱陶しい。
    「水希チャンってば、俺らと会えなくなるのが寂しいんでちゅか~? ん~?」
     その一言に、男の意図がどれほどあったことか。いや、どうだろう。年下をからかってやりたいという意地の悪さから、適当なことを言っててもおかしくない。ザップだから。
    「バッカじゃないの」
     努めて感情を込めずに言おうとしたが、負け惜しみが滲みでてしまった。
     にやにや笑う顔に、念力で意趣返しをしたくなったが、これでも怪我人だ。憎き食獣動植物を倒すために身体を張ったMVPでもある。乱暴なことをするわけにもいかず、グッと耐える。
     こういうとき、水希の場合は「手が出そう」ではなく「念力が出そう」になるから厄介だ。手だったらザップは簡単にいなせるが、念力はそうもいかない。
     何だか馬鹿馬鹿しくなった。溜息を吐いて、立ち上がる。
    「アタシ、もう帰る」
    「おー。次は手ブラじゃなくてケンタッジーな」
    「また太るよ」
     病気でもない成人男性が、毎日病院食で満足できないのはわかるが。あんないかにも身体に悪そうな食べ物を病院に持ってくるのは抵抗がある。
    「水希」
     最後にレオが呼んだ。
    「一度、スティーブンさんとゆっくり話した方が良いよ」

       *

     スティーブンは思いのほか早い時間に帰宅してきた。
     今日もやはり片づけする気分が乗らなかった水希は、ソファの上で脱力していた。そんな水希を「だらしない」とか小言を言うわけでもなく、むしろ逆に気づかわしげに見た。
    「少年から聞いたが……確かに、少し顔色が悪いな」
     額に手が当たる。熱がないことは水希にもわかっている。けれどスティーブンの手の感触は悪くない。少しかさついて、氷使いのわりに温かい。水希とは筋肉量が圧倒的に違うから、スティーブンの方が熱く感じるぐらいだ。
     これぐらいの接触は、今の水希たちにとっては自然なことだ。最初は、顔と名前を知るだけの、赤の他人のおっさんだったが、それはスティーブンにも言えること。手がかからないぐらいには成長している代わりに、色々と気を使わねばならない年齢でもある。
    「疲れたかい。急に色んなことが起きたからね」
     急に。
     本当に急だ。
     ずっとこの家に厄介になるわけではないことは、水希にもわかっていた。自立できる年齢になったらこの家を出て、レオみたいに一人暮らしをする想像をしたことは、何度かある。
     でもそれは何年か先のつもりでいた。だからそう、まだ戸惑っている気持ちがある。
    「ザップは病院で大人しくしてたか?」
    「今んとこ看護師とかには手を出してないっぽい。あの病院じゃ、滅多なことをしたら先生が黙ってないんじゃない」
     そもそも病院で新たな流血沙汰を出すのがご法度である。
    「今後ともあそこを頼りたいが、ずっとHLにはいないそうだからなあ」
     母を含め、人界に戻るつもりの患者たちが回復するまでは、HLに浮上すると聞いている。一段落すれば、またあちら側へ消えてしまう。
    「お母さんは、どう」
    「先生は順調に回復してるって言ってた」
    「昨日、クラウスと会いに行ったが、随分と滅入ってるようだなあ。無理もない」
     二人の訪問は弟からも聞いている。クラウスが立派な花束を持ってきてくれたから飾ったと、嬉しそうに話していた。
     母のいる病室は、同じ境遇の人類だけが入院しているが、室外に出れば異界人も患者として出歩いている。母同様、病室から出るのも恐ろしいと籠りがちな患者は少なくない。化け物共をこの病院から追い出せ、なんて暴れた人もいたとか。
    「皆は……」
    「ん?」
    「ライブラの皆は、どうしてる? 今日はレオとザップさんに会えたけど、昨日はクラウスさんとタイミング合わなかったし」
    「変わらず元気にしてるよ。そうだ、ツェッドからの伝言。明後日に芸の予定があるから、ぜひ弟さんと見に来ないかって」
    「行く。弟、そういうの好きだから喜ぶよ」
     しかしそれぐらい、伝言じゃなくてメールでも送ってくれればいいのに。
     ここ何日か、スマホに届くメッセージは極端に減った。
     きっと、気を使われているのだ。
     スティーブンが水希の髪をかき混ぜる。
    「こっちのことは気にしなくていい。俺たちより、家族との時間を大事にしないと」
     手が離れていく。
     何かが軋む音がした。
     それは実際に聴覚が捉えたものかもしれないし、水希の心の内で生じた何かかもしれない。
    「アタシ、ここに残っちゃダメかな」
     零れ落ちるように、言葉が出た。
    「え?」
     気だるげに、でも優しげに垂れていた目が、見開かれる。
     水希も自身の発言に驚かされた。
     一気に全身から汗が噴き出す。
     何てことを言ってしまったのだろう。しかし、勝手に舌が動いてしまった。無意識に、水希は吐き出してしまった。
     目を逸らしていた本音を。
    「何を言ってるんだ?」
     茫然と呟き。
     すぐさま我を取り戻したように、水希の肩を掴んだ。
    「馬鹿なことを言うんじゃない」
     強い口調で、スティーブンは言った。
    「せっかく家族の元に帰れるんだぞ。君はもう、こんな危険な街にいちゃいけない」
     熱を込めて説得するスティーブンの口調とは対照的に、水希の指先は冷えていく。
    「外の生活が不安か? なに、すぐ慣れるさ。君はもう一人じゃない。家族と一緒に、安全な外で──」
     派手な音を立てて、窓ガラスが割れた。
     すかさず水希を腕の中に庇い、スティーブンは臨戦態勢をとる。
     だが違う。これは敵襲ではない。
     水希のせいだ。
     いつもは抑えている念動力が、暴走した。
     初めてのことではない。ストレスを感じたり、動揺したときに同じことは何度も起きた。この家に来てからも、食器を数枚ダメにしている。けれどここまで派手に物を壊したことはなかった。このアパートの窓は、HLの技術を取り入れた特別製だ。簡単に割れるものじゃない。
     スティーブンもすぐに水希の仕業だと気づいたようだ。水希を護っていた腕が緩む。
     水希はそのままスティーブンの胸板を押した。
     身体は呆気なく離れる。
     謝るべきだと思った。「ごめんなさい」と。わざとではない。ちゃんと謝れば、スティーブンだってわかってくれる。
     しかし何の言葉も出てこなかった。
     堪らず、水希は走り出す。
    「水希!」
     玄関側にスティーブンが立っている。必然的に、足先はたった今割れた窓へ向かう。
     ベランダに散らばったガラス片が、靴の下で音を立てる。
     柵の上に跳べば、眼下にHLの街並みが広がった。

       *

     馬鹿なことをした。
     何度呟いただろう。しかしそれは無駄に回数を増やすだけで、アパートに帰るという選択肢は頭の隅に追いやられ続けている。
     深夜とはいかないが、周囲の街灯がどれも点灯される時間だ。本来なら、水希ぐらいの年齢の人類が一人で出歩く時刻ではない。今はまだ大丈夫だが、そのうち警察に声をかけられるだろう。
     これはまったく意図してないことだが、水希はスマホを持っていなかった。充電器につないだまま、外に飛び出した。つまりスティーブンがGPSで水希を探すのは不可能である。
     本当に馬鹿なことをした。
     スティーブンは他人だ。一時的に保護者役をやってくれていただけで、親のように我がままを言って甘えたり、困らせていい相手ではない。愚かな大人たちに巻き込まれた子どもへの同情、留置所に送った父親をみすみす死なせてしまった負い目、何より水希のような危険人物を野放しにはできないという義務感から、水希を拾ってくれたのだ。弟が見つかるかもしれないこの街からどうしても離れたくないと望んだ水希を匿う義理など本来はなく、彼の厚意によって成り立っていた生活だった。それは水希もよくわかっていて、だからなるべく良い子でいようと努めていたのに。
     犬猫じゃないのだ。人間一人、居座りたいなど、軽率に言っていいことではない。
     今頃、呆れかえっているだろう。
    「水希」
     雑踏をかき分け、にゅっと出てきた手が水希の腕をつかんだ。
    「み、見つけた……」
     ゴーグルをかけたレオが、息を切らせながら水希を見上げていた。
     そうだった。GPSなど必要ない男がいた。
     水希の純粋な腕力は、ライブラ最弱だ。非戦闘員のレオですら振り払えない。念力は、ついさっき暴走させたばかりだから、使いたくなかった。
     それに、ここでレオを置いて行ってしまったら、夜のHLに彼を一人きりにしてしまうことになる。ライブラから脱退する身であっても、組織の重要人物を危険に晒す行為は、気が咎めた。
    「スティーブンさん、心配してたよ」
    「嘘だ」
    「嘘じゃないって。超焦ってた。今すぐ探してくれって。あんなスティーブンさん、見たことないよ」
    「ダウト」
    「俺の心、覗いてもいいよ」
    「見たくない」
    「見たくないかあ」
     めちゃくちゃを言って、腹を立てるかと思ったが、レオは意に介した様子がない。
     思えば、水希と同い年の妹がいるのだ。女子の癇癪で動じないあたり、ザップとは違った意味で女に慣れている。
    「帰りたくない」
     観念して、今の気持ちを白状した。
    「わかった。でも、スティーブンさんには、俺といるって連絡するよ」
     レオはあっさり頷く。
    「そうだ。お腹空いてない? もういい時間だし、どこかでゆっくり──」
     ぐう、と腹が鳴る。
     水希のではなく、レオの腹が。
    「──食べようか」
     顔を真っ赤にして、絞り出すように最後まで言いきった。
     つい吹き出してしまう。
    「お腹減ってるの、そっちじゃん」
    「し、仕方ないだろ! これから食べようって時に呼び出されたんだから!」
     つまり、水希がアパートを飛び出していなければ、今頃は夕食も終えて寛いでいたわけだ。
     水希の腕を掴んだまま、レオが歩き出す。
    「ダイナー……はちょっと遠いな。霹靂庵でどう?」
    「別にどこでも……あ、待って、タンマ」
    「ん?」
    「財布持ってない」
     スマホと同じく、置いてきてしまった。レオみたいに、衣服のあちこちに金を忍ばせる習慣もない。
    「いいよ、ラーメンぐらい、俺だって奢れる」
    「いいの?」
    「うん」
     朗らかに笑って、さあ行こうと促してくる。
     その顔を見下ろしていたら、水希も少しだけ食欲が沸いてきた。引っ張られずとも、自然と足がついていく。
     急激に、喉の渇きを覚えた。
     人々の体臭が、むっと押し寄せる。その中には血の匂いが混じっていた。温かで、新鮮な、血の匂い。
     とても美味しそう。
     水希は足を止める。
    「水希?」
     振り返るレオの顔を、水希とはまた違った視点から、誰かが見ていた。誰かの五感を、水希は感応した。
    (見つけた)
     誰かは、ゴーグルの奥で閉じられた瞼の奥を凝視し、舌なめずりする。
    (神々の義眼)
     背後だ。
     振り向くと、イタリア系の男が腕を上げながら、こちらに突進していた。顔かたちは人間そのものだが、腕は刃物のように変形している。
     レオへと降ろそうとした腕を、念動力で止めた。
     己の顔に迫っていた刃に、レオが息をのむ。
    (緋いオーラ……)
     精神感応力は、神々の義眼が捉えたものまで、レオの意識を通じて水希に知覚させた。
     普段、彼らを認識するには鏡を使うが、今はその必要もない。
     血界の眷属ブラッドブリード
    「これは……?」
     宙で不自然に静止した己の腕を、眷属が不思議そうに呟く。
     その目が、レオの隣に立つ水希を見る。
     眷属が動くより先に、その胴を〝掴んで〟道路に叩きつけた。四肢が痙攣し、口から唾液と一緒に血が飛び出す。
    「水希……!」
    「レオ、下がって」
     ゴーグルで見えづらくしようが、眷属ぐらい過敏な生き物なら、その奥で稼働する義眼の存在に気づいてしまう。
     水希を探すため、義眼を使って歩き回っていたレオを、偶然にも見つけてしまったのだろう。
     レオのトラブル吸引体質を甘く見ていた──いや。
     そもそもの原因を作ったのは、水希だ。
    「クラウスさん、レオナルドです。今、水希と一緒なんですが──」
     すぐさまライブラへ連絡を取るレオと、眷属の間に立つ。眷属はもう、折れた骨も傷ついた内臓も修復を終えている。しっかりと両足で立ち、背中から幾本もの腕を生やしては、様々な攻撃器官へと変形させる。
     争いごとには慣れた街の住民たちも、これは避難必須の危険事態だと察知して、我先にと走り出す。押されて転んだ者がいても、お構いなしだ。わが身を率先して、その上を踏みつけて逃げていく。
     道路には、運転手が逃走のため乗り捨てて行った乗用車やトラックが残されている。水希はそれらを〝持ち上げ〟眷属に向かって投げつける。
     水希に血を操る能力はない。
     水希の血は、血界の眷属にとって餌だ。〝転化〟される恐れがある。
     そこらの一般人が〝転化〟されるのとはわけが違う。超能力者が〝転化〟された前例はないと聞いているから、〝転化〟後に力が使えるのかどうかは不明。もし超能力が継続するようであれば、ライブラにとって最悪な屍喰らいグールになる。
     この場にいるのが水希だけだったら、逃げの一択だったが。
     背後にはレオがいる。眷属が狙っているのは、彼が持つ義眼だ。彼を連れて逃げても、追いかけられるだけ。むしろ、被害範囲を無駄に広げるだけになる。
     クラウスたちが到着するまで。血を吸われないよう細心の注意を払いながら、水希がレオを護らねばならない。
     もし万が一、水希の力が及ばず、〝転化〟されそうになったら。
     再び恩人たちの敵になってしまう前に、己の命を絶つ。
    ティウス(夢用) Link Message Mute
    2023/02/18 0:00:00

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    番頭の養女夢
    夢主視点
    ※オリ主/名前変換なし
    次で最終話です

    #夢界戦線 #夢小説 #オリ主

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