【番外】Hello,shining!9バレンタイン
バラの匂いというやつは、とにかく強烈で特徴的だ。花に詳しくない水希でも、嗅げばバラだとわかる。
甘ったるい芳香に包まれながら、バラの花束を抱えるレオを見下ろす。
「ベタなの持って来たね……」
「いやあ、だって、こういうの贈ってみたかったし。今日ってそういう日じゃん」
バレンタインの贈り物の定番と言えば定番だ。花屋で頭を悩ませる男や、貰って大喜びする女の心を感応したことは幾度もあったけど、自分が貰うのは初めてだ。あんまり張り切りすぎて引かれるのを恐れたのか、食費削ってまでプレゼント買うのは絶対にやめろと水希が言い聞かせていたからか。本数が控えめで、派手過ぎないデザインだ。
「受け取ってくれる?」
実家が季節のイベントごとをとことん楽しむ家柄だったのもあるが、誰かとイベントを過ごさぬまま大人になった水希のためだろう。レオはこういったことに手を抜かない。孤独だった時間が、レオとの時間で上書きされるように。
「俺だって、今まで家族一緒に過ごしてたイベントが一人になるのは寂しいし」。それもまた本音の一つだと思う。
そっと手に乗せられる。
「……飾ってくる」
そう答えるので精いっぱいだった。
花を飾る習慣はないが、去年のクリスマスにレオから花瓶をもらっている。本当はこのときに花束を考えていたらしいが、「花をあげても、水希の家に花瓶なかったの思い出して」と変更したらしい。今日やっと、しまい込んでいたクリスマスプレゼントが役立つ日が来た。
「ここ置いてよ、ここ」
レオがテーブルの中心を叩く。
「ええ、目立つじゃん」
「だから良いじゃんか」
贈り主の要望なら仕方ない。テーブルに置くと、ふにゃふにゃ締まりのない笑顔を浮かべた。なんだか、貰った水希以上に満足そうな顔である。まあ、素直に受け取れない水希の方に問題があるのだが。
「自分ん家にバラがあるって、変な感じ」
「やっぱり、貰うの初めて?」
「そりゃね。並んだでしょ」
「それなりに。人界の純粋なバラ売ってる店に皆集中するから」
綺麗なバラを買ったつもりが、異界植物との交配種で人体に有害な毒を持ってました、なんてことがあったら破局待ったなし。この街に住む男性たちは、プレゼントの花を選ぶのも大変だ。外の男性たちも、この時期になると忙しそうだった。
男と間違えられて、花屋の店員にバラを勧められたことを思い出した。そんな水希が女性として贈られる日が来るのだから、この街はなんでも起こるものだなと奇跡を感じた。
ベリーショート
精神感応力と念力。
両方の力を持った水希は、戦闘において有利に立ちやすい。敵の動きを先読みして対処できるし、目に見えない攻撃は敵にとって避けにくい。戦闘経験がほぼない水希が前線で活躍できるほどに、これらの力は便利だ。
しかしどんなものにも弱点はある。意思を持たぬ相手からの攻撃は読めないし、念力で働きかけるのは実体を持つ物だけ。水希も自覚していることだが、経験が浅いために、つい己の力に頼り切って脇が甘くなることがある。
例えば、重火器が搭載されたドローンで狙われた場合。操作する人間が近くにいない限り、視界に入るまで水希は気づけない。戦闘に慣れた者なら、微かな音でも聞き分けて気づけるかもしれないが、水希の五感はそこまで敏感ではなかった。
「水希くん、危ない!!」
真っ先に気づいたのはザップ、続いて弟弟子のツェッド。水と油みたいに反発することの多い二人だが、ここぞというときは驚くほどの連携を発揮する。目線を交わすでも、呼吸を合わせるでもなく、まるで最初から取り決めていたかのように。ツェッドの血糸が水希を手繰り寄せ、ザップの炎がドローンを燃やし尽くした。
ギリギリのタイミングだった。ゴウと熱風が皮膚を嬲り、眩い火の粉が網膜を刺激する。何かが燃える強烈な臭いが鼻腔を襲った。
「周りをよく見ろ女おと、こ……」
後輩に厳しく怒鳴りつけようとした声が急激にしぼむ。
「……ああっ!」
水希を抱きとめたツェッドが悲痛そうな声を上げた。
*
シャキン、シャキン。ジョキジョキ、パサパサ。
「いかがでしょう」
鏡がなくても、ギルベルトがぐるりと水希の周りを回ってくれれば、彼の視界を通して出来栄えがわかる。水希はうーんと唸る。
「せっかくだし、もうちょっといけます?」
「もちろんですとも」
チャキチャキ、ジョッキン、ハラリ。
「うん、いい! 軽くなった!」
満足し、大きく頷く。
「お似合いですよ」
「ギルベルトさん、ありがとうございます!」
美味しいコーヒーを淹れれて、運転技術にも長け、ヘアカットも軽々こなす。執事なんて、フィクションでしかお目にかかったことがないが、ここまで色々なことができないと務まらない職業なのだろうか。それともギルベルトが特別すごいのか。
頭を撫でてみる。チクチク手のひらに刺さる感覚がくすぐったい。伸ばした髪が指の間をするする通る感覚も気に入っていたが、これも悪くない。
「おお……ずいぶんバッサリいったな」
さっそく事務室に行ってギルベルトのカット技術をお披露目すれば、振り返ったスティーブンが目を丸くした。その奥には正座したザップと、その上に乗っかるチェインに、仁王立ちしたK・K。
「あらぁ、水希ッち……せっかく綺麗な髪だったのに」
実に痛ましい顔でK・Kが嘆く。
「ザップッちったら、女の子の髪を燃やすなんて!」
「いやだからそれはわざとじゃ、いででででで!」
「でもザップさんが助けてくれなかったら、髪どころか首ごとごっそりなくなってたんじゃないですかね」
飽きるまで伸ばしているだけだったので、特別未練はない。むしろ一気に頭が軽くなる爽快感に、気分がいいぐらいだ。ちょっと火加減を間違えただけのザップが可哀想になったので(と言っても、原因は二日酔いという自業自得なわけだが)、フォローを入れると渋々K・Kは留飲を下げた。チェインも大袈裟に溜息を吐きながら、膝から降りる。やっと解放されたザップが立ち上がろうとしたが、長時間の正座にやられたらしい。悲鳴をあげて床をのたうち回った。
emergency
〝声〟が脳を揺らす。
(水希!!)
うたた寝していた水希は、ハッと目を覚ました。
すぐに意識のアンテナを張る。今のはスティーブンの〝声〟だった。
(緊急事態だ! 今すぐ来い!!)
焦りや恐怖が氾濫する。参謀役を務める副官らしくない勢いの強さに、眩暈がしそうだ。ちょっと抑えてほしいと言いたいところだが、残念ながらこの力は受信機能しかない。
スティーブンが水希を電話やメールではなく念を飛ばして呼び出すのは、初めてではない。むしろ距離が離れてなければしょっちゅうだ。曰く、番号や文面を打つより早いと。否定はしないが、ライブラで特に水希の能力を警戒してたであろう男が、一番活用していることに疑問は生じないのだろうか。
(早く! 早く!!)
いったい全体何事だ。こんなに取り乱した上司を見たことがない。
声が弱まり、辿りづらくなる。水希に念じる余裕もないらしい。おそらく取り込み中なのだろう。とてつもなく厄介ななにかを前に。
血界の眷属ではないはずだ。であれば水希が呼び出されることはない。堕落王が魔獣パーティでも始めたか、どこぞのバカが邪神でも召喚したか。何であれ、仕事に呼ばれたのだから行くしかない。スティーブンのスマホにワンコールだけ電話して(テレパシーを受信した合図だ)、急いで家を飛び出す。
車よりはバイクの方が小回りが効くが、騒ぎの中心へ向かえばどうしたって渋滞に阻まれる。
水希は己が乗るバイクを〝持ち上げ〟た。
人体と比べれば車体はずっと頑丈だ。それでもうっかり変形させないよう注意しながら、クラクションを鳴らし続ける車やトラックの上を進む。最近身につけた、緊急時の移動方法だ。
前方で土煙が上がる。気づけば眼下の車には誰も乗っていない。みんな車を捨てて逃げたのだ。水希もバイクから降りて、渦中に飛び込む。
氷の壁が魔法のように立ち現れた。しかし一瞬で砕け散る。あの氷の分厚さと頑丈さを水希も知っている。これは余程の相手だ。
「ぐあっ」
瓦礫の向こうから、上司が吹っ飛ばされてきた。
「スティーブンさん!」
駆け寄ろうとした足が、地面に縫いつけられた。
なにかが圧し掛かったかのように身体が重くなる。
とんでもないプレッシャー。
水蒸気と砂埃の向こうをじっと見る。足を踏みしめ、息を吸い、吐く。
――来る。
赤い物体が飛び出してきた。
超常的な力を持っていても、水希の肉体は普通の――平均よりやや脆弱な人類のものだ。人並の動体視力では、それがなにかを捉えることはできなかった。
判断できたのは、ただ一つ、止めなければ水希が死ぬということ。
「うわ――」
眼前で〝止める〟。ぎりぎりだった。風圧で髪が揺れる。
ようやく、襲いかかってきたものを視認できた。
鼻先三寸で停止したのは、拳だった。
十字架が飾られたナックルには見覚えがある。こんな特徴的なものを装着する人物は一人しか考えられない。
「ボ、ボス?」
大型トラックかと思うほどの迫力だったが、実際は遥かに小さな人類だった。人類にしては大きい方だけれども。
どうしたんですか、狙う相手間違えたんですか。言葉が喉の奥でつっかえる。
前髪の隙間から覗く翠の眼に射すくめられた。
ドクッ。心臓が跳ね上がる。
足が僅かに後方へ動く。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
フーッ。鋭い犬歯が覗く口から漏れる息は、獣のように荒い。
おそらく、山で熊に出くわした人はこんな心地なのだろう……。水希はそんなことを考える。ここは都会のど真ん中で、相対するのは人間だが。
「ボス……あの……?」
相手は野生の熊ではなく、人間だ。人間には言葉がある。水希は震える声で呼ぶ。
しかし応答はなかった。
代わりに空気が唸る。
「危ない!!」
左拳にばかり集中して、他が疎かになっていた。空を裂き、右拳がボディを狙ってくる。水希は反応できない。
右半身が氷に包まれる。普通ならそのまま固まるが、クラウスの馬鹿力の方が上回り、表面に張られた氷はすぐに罅割れる。それでも時間は稼げた。水希の首根っこを掴み、スティーブンが後退する。常日頃から「お嬢さん」と呼ぶ上司にしては、珍しく雑な扱いだった。それぐらい余裕のない状況ということだ。
「無事か」
「し、死ぬかと思った……」
遅れて汗がどっと噴き出した。少しでも気を抜いたら、膝から力が抜けそうだ。
ライブラの一員として日々世界の脅威と戦っているが、力があるから前線でイキっていられるだけで、水希は特別勇敢ではない。ご乱心召されたクラウスを前に、ほぼ戦意を失っていた。