【番外】Hello,shining!15センチネルバース
あ、やばい。そう思ったときには遅かった。
濁流のように押し寄せる視覚情報に圧倒され、他の五感が急激に弱まっていく。自分の声も、瞼を焦がすような熱も、あっという間に遠ざかる。周囲に立つ木々についた葉っぱ一枚一枚、その裏に潜む虫、枝の上を駆ける小動物。さらに遠く、木々に隠れて見えないはずの、町の向こうに聳え立つ山脈の輪郭がはっきりと。顕微鏡と望遠鏡を同時にのぞき込んでいるかのように、肉眼では捉えられないほど小さなものから、遥か遠くのものが視認できる。見えているはずなのに、あまりの多さにもはや何を見ているのかわからない。
おえっ。
口の中に酸味と苦みが広がった。
「聴こえる?」
誰かが耳元で囁いている。
次に知覚したのは臭気だ。己の吐瀉物の臭いに、また吐き気がこみ上げる。えずくと、背を擦られる感覚がした。思い出したように、目の奥が焼けるように熱くなる。いや、本当に焼けているのかもしれない。焦げた臭いに、ぞっと背筋が寒くなる。
「聴こえるの、レオナルド」
中性的な声が再び問いかけた。
「き、きこえ、る……」
息も絶え絶えに応えると、「よし」と軽く背を叩かれる。その手の持ち主を見ようとしたが、瞼が持ち上がらない。
「今なにかを見るのはやめた方が良い。またゾーンに入るよ」
ゾーン。
聞いたことはある。センチネルやパーシャルが陥る現象だ。この厄介な義眼が埋め込まれるまでミュートだったレオは、自分の身に降りかかるとは思わなかった。
ゾーンに入ると、自力では回復できない。ガイドの力が必要になる。こうしてレオが意識を取り戻せたということは、傍らにいる誰かはガイドになる。
「立てる?」
肘を引かれるが、平衡感覚を失って立てそうになかった。眩暈までする。
「じゃあ、誰か呼んでくる」
「待って」
喉の痛みに耐えて呼び止める。
「家族には心配させたくない……」
長男のレオに異界のなにかが埋め込まれただけじゃなく、妹まで盲目になったばかりなのだ。ようやくレオが吐かなくなって両親も一息ついたばかりなのに、ゾーンで昏睡状態になりかけただなんて知ったら、余計な心労をかけてしまう。
かと言って、家族以外の第三者を呼ばれるのも困る。目の前にいるガイドにはもうバレているだろうが、別の誰かにまで義眼のことを知られるわけにはいかない。
「そうは言ったって、アンタ、たぶん火傷してるよ。黙ってたってすぐバレる」
「それでも……せめて自力で歩きたい。ちょっと休んだら落ち着くと思うし」
実際、話している間に気分の悪さは薄れてきている。
はあ、とため息が聞こえた。
「わかった……。とりあえず冷やす物持ってくるよ」
*
「目を閉じて……って、閉じてるか」
水希の言う通り、レオは常に瞼を閉ざしている。人の物ではない眼球を隠すためでもあるが、薄い皮膚一枚であっても見えすぎる視界が少しはマシになる気がするのだ。レオは正式な視覚パーシャルではない。透視ですら可能なこの目は、瞼越しでも周囲を視ることができる。
「じゃあ、シールドを解いて」
最近、ようやく張り方を覚えたシールドを解除する。
とろりと意識が溶けていく。眠りに入る寸前のような、心地よい感覚だ。
脳の甘い痺れに伴い、頭痛と眩暈が収まっていく。
「リラックスしててね、シールド構築しなおすから」
パーシャルに目覚めたばかりのレオがゾーンアウトして以来、ガイドである水希とは週一でガイディングしてもらっている。
最初は断られた。ガイディングはガイドの特別授業でしかやったことがない、プロに頼んだ方が確実だと。
ガイディングは時にガイドがリスクを負うこともあるから、彼女の言うことは最もだ。しかしレオには、そうほいほいとガイドに頼れない事情がある。それは一度レオの心に触れた彼女には説明するまでもない。そもそも、この田舎町にはプロのガイドなどおらず、遠方のガイドを頼るには金も手間もかかる。ただでさえ妹が大変なのに、レオのことにまで家族に負担をかけたくない。けっきょく、「失敗しても責任は負えない」と渋々了承してくれた。
レオは水希以外にガイドを知らないので、彼女が上手いか下手なのか、自分たちの相性が良いのかもわからない。それでも近所にガイドの彼女がいてくれて大助かりだった。彼女がいなかったら、シールドの張り方もわからなかったし、義眼の扱いに慣れるのだってもっと時間がかかっただろう。
「水希、今日は俺の家来ない?」
気を抜いたら眠ってしまいそうな意識をなんとか保ちつつ、問う。
ガイディングはいつも水希の家でしている。家、というかその横に建つ納屋だ。祖母と二人暮らししている彼女は、納屋で寝泊まりしているらしい。祖母となるべく顔を合わせたくないからと言っていた。
レオが一番落ち着ける場所が良い、と言われたのでここを選んだ。本来ならレオの部屋のはずだが、自分の家だと両親や妹に要らぬ気遣いをさせてしまう。
「母さんがキッシュを焼いたんだ……かなり美味いぜ」
「礼ならもう貰ってるよ」
彼女の言う通り、レオは毎回お茶菓子を持参している。センチネルはガイドを必要としているが、ガイドは違う。水希の場合、プロじゃないからと金銭を断られているので、100%善意だ。レオはもちろん、家族も水希に感謝している。
「それに、苦手なんだ……他人の家とか」
「水希、呼ばれたことあるの?」
彼女に家へ招くような友達がいただろうか。レオは、彼女の家に呼ばれた人間第一号の自信がある。
「言うよなあ、アンタ」
どれぐらい時間が経っただろう。雑談をしている間にシールドの再構築は終わり、気分はすっかり良くなった。
今日持ってきたクッキーを口に放る。歯ごたえと舌ざわり、甘さをしっかり近くして、己の五感が正常であることを確認した。
「水希は、ハイスクール卒業したらどうすんの?」
「そりゃ、この町を出るよ」
「出て、どこに?」
「ここじゃなきゃどこでも良いけど……弟がこっちに留学するから一緒に住もうって言ってる」
「いいじゃん、それ」
水希に弟がいることを知ったのは、最近のことだ。写真も見せてもらったことがある。
「俺はさ……やっぱり行こうかなって」
「HLに?」
家族にはまだ話していない。誰かに打ち明けるのはこれが初めてだが、前から考えていたことを水希は察していたはずだ。
ガイドはセンチネルに対して精神感応力と共感能力を発揮する。何度もガイディングをしているから、レオの心の内は彼女に知られているわけだ。同年代の女の子に心を読まれるのは抵抗があるが、背に腹は代えられない。彼女は口が堅いし、言っては難だが吹聴する相手もいないだろう。レオの弱さや卑怯さを嗤うこともしなかった。気恥ずかしさは残るが、今では安心して心を預けられる。
「反対されるんじゃないの」
「それでも……行くよ。ミシェーラの眼を取り戻さないと」
踏み出すべき一歩を、出すべき言葉を出せなかったダメな兄貴だから。せめて。
妹も両親もレオを責めたりしない。しかしレオは自分が許せない。だから義眼の扱いに困っているレオを心配する両親の優しさが心苦しくなるし、気遣ってくれる妹に「お前の方が大変だろう」と諭したくなる。
思うままにレオが口にすれば、彼らはより一層悲しむだろう。自分のことを責めてくれなんて言ったら、困らせるに決まっている。そう思うと、レオは己の呵責を身の内に留めて、穏やかに過ごすしかない。
不思議なものだ。水希とは友達ですらなかったのに、家族にも言えない感情を赤裸々に見せている。
「HLか……」
数年前、突如現れたあの街は、未だに世界の注目を浴びながら謎に包まれている。
「アタシも行こうかな」
ぽつりと水希が言った。
幽体離脱
神工品と呼ばれる義眼は、レオに様々なものを見せる。あらゆるセンサーでも捉えることのできない『緋き羽根纏いし高貴なる存在』を捉えたときの周囲の反応は忘れられない。外の人界であれば義眼だけが見えるものとそうでないものの区別がつきやすいが、ただでさえ異質なもので溢れかえるHLは判断しにくいことが多々ある。
だから、偶々目に入った人類が「普通ではない」ことに気づくまで、時間を要した。気づいただけならそのまま何事もなかったかのように明後日を見れば良かったのに、それより早く相手もレオの視線を受け止めてしまった。
サラリーマン風の男が、その人類と擦れ違う。肩がぶつかるはずが、そこに誰もいないかのように肩がすり抜けた。
吸血鬼なんて伝承の存在が実在する街だ。いまさら幽霊らしきものを見たって、まあいるだろうなとしか思わない。
ただ目が合ったのには焦った。さらにその幽霊らしき人がこっちに歩いてくるから、嫌な汗が背中を伝う。
こんなときどうするか? ――とにかくその場を離れて見なかったことにする。
レオは踵を返し、人混みの中に紛れ込む。
うっかり危なさそうな人にぶつからないよう避けながら、ちらと確認する。
──やっべ、ついてきてる!
ホラー映画で見るようなおどろおどろしさは感じられないけれど、幽霊に付き纏われて無事で済むとも思えない(そもそも本当に幽霊なのかすらわからないが。不可視の人狼みたいなものかもしれないし)。視力が人並外れているから視えるだけで、レオに祓ったりする力はない。追いつかれたら憑りつくのでは、そんな嫌な想像をしていっそう足を速める。
昼休憩のために事務所を出たばかりなので、入り口はすぐそこだった。急いで駆け込み、ドアを閉める。今にもすり抜けてくるのでは、そう恐れたがその様子はなかった。
警戒は解かず、事務所への廊下に出る。幽霊は、見当たらない。
腹は減っているが、再び外に出る気にはなれず、執務室に戻った。
「どうしたのかね。休憩に出たのでは?」
デスクから、怪訝そうにクラウスが尋ねる。
「いやあ、幽霊らしき人と目が合って、追いかけられちゃって……」
「幽霊?」
眼鏡の奥から、鋭い視線がレオとその背後を交互に見る。レオも今一度振り返ったが、誰もいない。
「今もそこに?」
「いないっすね。撒けたみたいです」
あの摩訶不思議などこでもエレベーターと言えど、幽霊まで運ぶことはできなかったらしい。呪術的な防衛機構が働いたのかもしれないが。
*
ハロー、ミシェーラ。どうやら兄ちゃんは幽霊に憑りつかれてしまったようです。
……なんて言ってる場合ではない。
足元には、口から泡を吹き出して倒れ伏したチンピラ。彼の数メートル先に、昼間に見た幽霊が立っている。
レオはまだ目の前で起きたことが呑み込めていなかった。ぶつかったフリをしてレオから財布を抜き取った男が、急に苦悶の声を上げてばったり倒れたのだ。厳つい見た目に反して持病持ちだったのかと駆け寄ってみれば、首元を抑えて気絶していた(ついでに意識がないうちに財布も回収しておいた)。危険はなさそうなのでほっとして顔を上げ、レオは凍りついた。
振り切ったと思っていた幽霊が、レオを見下ろしているのである。
やばい、これ全力で走っても逃げれるのか。捕まったらどうなるんだろう。もしかして、呪われたり?
理不尽が溢れる街だが、偶然視えただけで付き纏われるのは納得いかない。他人様に死んでも恨まれるようなことをした覚えはないのだから。幽霊の様子を伺いながら、じり、と地面を踏む足に力を入れる。
幽霊がなにか喋った。しかし、聞こえなかった。
「えっ?」
思わず聞き返す。幽霊は眉を潜めて、もう一度話す。けれど無声のままだ。唇とその奥の舌が動いているのは、義眼がはっきり捉えている。なのに、音声として聞こえない。
神々の義眼は、視力に特化した神工品だ。幽霊の声は対象外のようだ。
コミュニケーションが取れないことは、相手にも伝わったらしい。不機嫌そうに唇が引き結ばれる。それはレオが想像する幽霊らしくない表情で、むしろ実体がないらしいことを除けば生きた人間そのものの反応だった。
改めて、幽霊を観察する。
歳はレオと同じぐらい。細身で、レオより背が高い。ザップやツェッドぐらいだろう。神経質そうな顔立ちは中性的で、服装もどっちつかずだから判断できない。色白の肌は、包帯グルグル巻きのギルベルトと比べたら、まだ生気を感じられる。
「うぅ……」
伸びていたチンピラが唸る。幽霊で手一杯なのに、こっちまで目覚めたら困る。焦るが、チンピラは再び潰れたカエルのような声を上げた。
よくよく注視すると、首が見えないなにかに締められているかのように、不自然に細くなっていた。口から出た舌がうねうねと蠢き、再びぱたりと力を失くす。
幽霊は冷めた目でチンピラを見下ろしていた。
「今のは、君が?」
幽霊は小さく頷いた。
*
名前は水希。年齢はレオと同じ十九歳。ちなみに女の子。幽霊になったのは、三年前。紐育が崩壊する騒ぎで右往左往していたところ、気づいたら今の状態になっていたらしい。レオの前で見せた、チンピラの首を絞めた能力――念力は生前からのものだとか。
……というのが、レオがどうにか彼女から聞き出せた情報である。
『それで? その幽霊のお嬢さんは、今も君の部屋に?』
「はい」
敵意は感じられなかったし、彼女のおかげで小銭しか入れてなかったとはいえ財布を取り戻せたのだ。無下にも出来ず、人目を避けるために一旦家に上げたが、正体不明の幽霊のことを報告しないわけにもいかない。危険性は感じられないことを先に述べたが、それでもスティーブンの声には呆れが滲み出ていた。
『どうやって彼女から事情を?』
「筆談で。ペンを動かしてもらってます」
念力で思ったようにペンで細かな字を書くのは難しいらしく、少々歪な筆跡ではあるものの、読めないことはない。
『君に憑りついた理由は?』
一人住まいの狭い部屋だ。薄っすらと聞こえたのだろう、心外だという顔で水希がこちらを見る。
「いえ、別に憑りつかれたわけでは……その、困っているみたいで。成仏ができないって」
三年間彷徨う中で、レオが初めて彼女を見れた人間らしい。もしや祓ったりもできるのではと期待されたのだが、残念ながらレオができるのは視ることだけだ。目に見えて落ち込んだ彼女に、報告がてら知識を借りれないかと上司に連絡したわけだ。
『心残りがあるってことか』
「心当たりはないみたいなんですけどね。強いて言うなら、弟さんが気がかりってぐらいで」
『家族の事を調べれば良いのか?』
幸い本人の生前の記憶がはっきり残っているので、秘密結社の情報力を持ってすれば特定は難しくないだろう。それをする義理があるかは別として。しかし他に類のない眼を持つ構成員に、素性の知れない幽霊が付き纏うぐらいなら……と。仕事を増やすことになって申し訳ないが。
「本人も確証はないようなので、できたら強制的に成仏できる方法があったら知りたいそうです」
『幽霊らしくないことを言うなあ』
それはレオも同意だ。自力で成仏できないとは、難儀なものである。
『霊能力のある術師には当てがある。明日紹介してやるから、連れてくると良い』