【番外】Hello,shining!10ブチ切れた話
血飛沫が舞う。
小さな身体が痙攣しながら傾いでいく。その動きは、スローモーションに切り替えたかのように、ゆっくりに見えた。
「レオ!」
「レオ君!」
水の中に潜っているみたいに、先輩たちの音がくぐもって聞こえる。
心臓が大きく脈打つ。息を吸おうとしたが、うまくいかない。
驚くべき早さで、身体の芯からなにかが一気に膨張する。
前にもこんなことがあった――思い出すより先に、理性が押しつぶされた。
*
この街で秘密結社に属していれば、嫌でも血には見慣れる。なにせ主力の戦闘員たちが、己の血を媒体に戦うわけなので。
しかし床が、壁が、天井が──ペンキをぶちまけたように真っ赤に血塗られた空間は、気分が悪い。全身を希釈しているので、チェインの靴や服が汚れることはないが。
この現場に似た光景を、写真で見たことがある。
十二年前、幼い水希が起こした事件だ。
ある者は壁に叩きつけられ、またある者は首をねじ切れられ。目立った外傷はないが血を吐いている者は、おそらく内臓を潰されたのだろう。とにかくどいつも強力なエネルギーによって致命傷を負っている。
『チェイン。中はどうだ』
廊下からドアに顔を突っ込み、死体が転がっているのだけ確認して、また次の部屋に進む。
「一人も生存者が見当たりません。水希も」
『GPSは動いていないから、中にいるはずだが……』
世界の危機は、運が悪いと同じ日に同時発生することがある。銀猿とツェッド、レオに水希──この四人は、ある宗教団体が所有するビルに潜入する任務を割り振られていた。少人数だが、戦力はあるし、索敵能力もある。できない采配ではなかった。
しかしアクシデントというものは、起こるときは起こる。
レオが派手に負傷し、それを目の当たりにした水希が暴走した。
その勢いは凄まじく、我を忘れた彼女の巻き添えもあり得ると判断し、ザップたちはレオを連れて一旦離脱。別任務に当たっていたチェインたちは、一報を受けすぐさま応援に駆け付けた。
ライブラに加入してから水希が暴走したのは初めてだ。まずは念力の通じないチェインが、立ち入りの封鎖されたビルに侵入している。
ヒタ……ヒタ……。
廊下の奥からまるでホラー映画で聞くような足音が響き、つい身構える。チェインこそ幽霊みたいな能力持ちだが。
「……いました」
ビル内部の人間すべてを虐殺した割には、綺麗な姿で。汚れてるのはせいぜい足元ぐらいだ。
己の手を汚さずに人を殺せる。水希の力はそういうものだ。
力を使い果たしたのだろう。疲れ切った顔で、澱んだ目がチェインを見る。
唇が小さく動く。
「ママ……?」
この場にいたのがK・Kだったら、迷いなく駆け寄って彼女を抱きしめていただろう。チェインは代わりに、頭を振って水希の手を握る。
「レオなら無事。病院で治療を受けてるよ」
*
レオの見舞いを終えたクラウスが水希の病室へ向かうと、彼女は目を覚ましていた。
「ボス……」
外傷はないが、超能力を酷使したことにより四十度を超える高熱を出していた。視線は定まらず、声は弱々しい。
この少女があの惨劇を生み出したなど、第三者には想像もつくまい。
「レオは無事だ。後遺症もないそうだ」
彼女がもっとも知りたがっているであろう情報を伝えると、ゆっくり目を瞬きする。
「よかった……」
それは心からの安堵だ。
水希はずっと独りで生きてきた。弟だけは彼女を愛していたが、物理的距離は大きい。誰にも知られるわけにはいかないと、他者と一線を隔しながら育ち、他人と関わることを拒みながら成長した。
未だ謎の多い能力でも、わかっていることはある。多大なストレス負荷があると、制御が難しくなる。孤独な幼少時代を過ごしながら目立った事故を起こさなかったのは、相当な自制を要しただろう。誰の力も借りずに隠し通したほど、彼女の忍耐は強い。
しかし彼女が長年積み上げてきたバリケードが、崩されつつある。
レオナルドが彼女の前に現れたことで。
他人と距離を取ることで保ってきた平穏はもう続かない。誰かが隣にいるということは心強い一方で、落ち着かないのだろう。水希の精神状態は、レオの存在に影響を受けるようになってきた。昨日は、その影響が悪い方に出てしまった。
「ボス……あの……」
「話すべきことはある。だが今は、ゆっくり療養し給え」
彼女が言いたいことはわかる。
結果的に任務は遂行されている。ライブラは世界の均衡のため、力で解決することも少なくない。不殺を掲げている組織ではなく、アクシデントがなくても多少血が流れることはあっただろう。
しかし理性を失い、激情に任せて暴走してしまうのは問題だ。味方や水希本人までも傷つく恐れがあるし、望まぬ結果を生み出しかねない。
実際、過去の事件の後、水希の両親はPTSDを発症し、通院した記録がある。おそらく子どもを二人も面倒を見る余裕がないと、水希を祖母に押し付けたのだろう。彼らは彼らで苦しんだだろうが、大人から碌なケアをされずに一人で大きな秘密を抱えてきた水希の孤独を思うと、胸が痛む。
──ママ……?
錯乱状態で発されたあの一言は、水希の傷が今も根深く残っていることを証明している。
*
自分の声で目を覚ました。溺れたみたいに息苦しく、喉を震わせて酸素を求める。全身に嫌な汗をかいていた。
最悪な目覚めだ。毎日ではないにしても、幼い頃から繰り返している。けれど慣れない。一度夢に見てしまうと、もうダメだ。その日は絶対に眠れない。
病室は薄暗く、西日で薄っすらオレンジに染められていた。水希以外に、誰もいない。精神感応力を持った彼女のために、個室にしてくれたからだ。
起き上がる。眩暈がしたが、堪えながらゆっくりとベッドから降りた。
だるい身体を引きずるように、通路を歩く。
レオナルドのいる病室に辿り着いた。個室ではない。入ると、ベッドは人類だけでなく異界人で埋まっている。
彼は眠っていた。
椅子を引き寄せ、ベッドの脇に座る。
包帯で覆われた胸部は、呼吸に合わせて上下している。水希はぼんやりとそれを眺めた。
この胸が切り裂かれ、血飛沫が噴き出てからの記憶はほとんどない。守らなければ、戦わなければ、そんな衝動に突き動かされていた。一緒にいたザップとツェッドはすぐにその場を退散したから無事だったが、あのまま留まっていたら巻き添えを喰らっていたかもしれない。敵味方の区別がついていた自信がなかった。
言葉で指摘されたことはないが、周囲の人間が、水希がレオナルドをどういう目で見ているか邪推しているのを知っている。水希自身、他人の心を見て育ったから、自分の中に巣食うようになった感情が何であるのか、自覚がある。
それにしたって、自分がおかしいことはわかっている。惚れた腫れたで説明できるレベルではない。
おそらくは、七歳の頃に負ったトラウマがおかしな形で表に出るようになったのだろう。レオナルドに何かあると、平静を保てなくなってしまった。
「水希?」
驚いた。いつの間に目を覚ましたのだろう、レオナルドが――糸目なのでたぶんだが、こちらを見ていた。
「来てくれたのか? でも、顔色酷いぜ。無理しちゃダメだ」
自分の方が酷い具合なのに、心配そうに言う。
レオナルドにとって水希は、たくさんいる友達の内の一人に過ぎないだろう。まさかこんなに重苦しい感情を抱かれてるとは想像できまい。