Hello,shining!6 HL。不条理で無慈悲、平和とは程遠い狂騒の街。
人界と異界がごっちゃとなった混沌の街に居を据えて、早半年以上が経つ。魔道や呪術なるものが実在すると聞いた水希はてっきり空を箒に乗った人間が飛んでたりするのかと思っていたが、そうでもなかった。某魔法学校を舞台にしたファンタジー映画のような光景の想像を裏切り、実態はB級パニックホラー映画。モンスターものの映像を撮りたければ、CGを使わずともこの街でなら手っ取り早く撮影できる。
賭博場で稼いだ金で、壊した部屋の弁償を済ませた水希は、大家と別れた。
きっちり支払ったことで大家は留飲を下げてくれたが、水希への印象は悪くなっただろう。
幸い大きなトラブルに発展することはなかったけれど、引っ越した方が良いかもしれない。
生まれつき備わっていた念動力の暴走は、今までにも何度かあった。この街で、アパートの部屋が吹っ飛ぶなんて日常茶飯事だし、その原因も千差万別だから、そうそう怪しまれることはないとは思う。しかし、念には念を、だ。
そんなことを考えながら、アパートの階段を上る。
カンカンカン。
精神感応力を利用して、賭博でうまく稼ぐ方法にも慣れてきた。次は今よりも治安の良い地域(安全性が高くなると、もれなく家賃も高くなる)で物件を探そうか。
カンカン──。
清掃のバイトは、どうするか。賭博だけで充分稼げる。でも、まともな働き先を止めたなんて弟に知れたら、勘繰られそうだし。
カン。
階段を登りきったところで、足を止めた。
水希の部屋の前に、〝なにか〟がいる。
異界生物なのは間違いない。ブツブツとした真っ黒な肌。四本脚は節くれ立っていて、手先に細い毛がびっしり、虫の脚みたいで気持ち悪い。
「キキッ!」
猿の鳴き声。見れば、異界生物の肩に、手のひらサイズの小さな白猿が乗っていた。音速猿だ。名の通り、いやそれ以上に早く移動できる音速猿は人間の眼で追うことはできない。自身の目ではっきりと捉えるのは初めてだ。
水希の足音に気付いたのか、猿の鳴き声に反応したのか、猫みたいな目(三つある)がギョロリとこちらを見る。
率直に言って、近づきたい容姿ではない。失礼だが。
遅れて、血の匂いに気付く。
異界生物の方からだ。よく見れば、青紫色の体液が滲んでいる。たぶん、血だろう。種別は違うが、血の匂いは人類と変わらないらしい。
「誰? なにしてるの、そんなとこで」
声をかけたくないが、部屋の前に居座られたら、そうしないわけにもいかない。
異界生物の口が開く。パクパクと開いては閉じてを繰り返すが、人語らしきものは発せられない。ウサギみたいに、声帯がないのだろうか。
敵意は感じられない。
代わりに、水希の全身を痛覚が襲う。
(水希)
唐突に、頭の中にレオナルドの〝声〟が響いた。
先日、もう会いに来るなと言ったのに。
たった今上ってきた階段を振り返る。
しかし、誰もいない。今レオナルドの思考が流れ込んできたのだから、すぐそこにいると思ったのに。
(俺だよ。レオナルド。お願い。気づいて。お願い)
思考は途絶えない。近くにいる。
アパートに着く前なのだろうか。
(こっちだ。水希。こっち。君ならわかるだろう)
頭の中に強く響く。
これほどの強さなら、肉眼でも見える距離のはずなのだが。
(こっちを見て。お願い。精神感応力者の君なら)
ぎくり、と身体を強張らせた。
まさか。
恐る恐る、部屋の前で蹲っている、傷だらけの異界生物を見つめる。
(見た。こっちを。わかって。お願い。わかって)
異界生物も、水希を見つめている。
(お願い。俺だ。助けて。助けて!)
切羽詰まったレオナルドの思考は、目の前にいる異界生物から発せられている。
信じられない気持ちで、水希は問う。
「まさか、アンタ……レオナルド?」
*
この街に来てから、レオは数えきれないほど怪我を負った。
自分で手当てをすることもあれば、クラウスの多才な執事ギルベルトに手当てをしてもらうこともあったり。医者や看護師のように手際よく処置してくれるギルベルトはもちろん、素人のレオと比べても、包帯を巻く水希のそれはあまり器用でないことがわかる。
「悪かったね、下手で」
レオはなにも言ってないのに、水希は口をへの字にして包帯をぎゅっと結ぶ。
反射的にフォローしようとしたけど、相変わらず口から出るのは呼気のみ。いや、正確に言うと、一応発声はされているのだ。人の耳では捉えられない音域で、だが。音速猿のソニックは人類より五感が優れているために、聞き分けられるみたいだけど。
「それで?」
歪ながらも包帯を巻き終えた水希が、胡坐をかく。
「いったい、なにがどうなって、そんな気色悪いことになったわけ? レオナルド」
改めて、二重の意味で衝撃を受ける。
一つは、一枚もオブラートを被せずに「気色悪い」とはっきり言われたこと。まあ、レオも今の身体は好ましいものとは思えないが。
もう一つは、本当に水希が目の前にいる異界生物を、レオだと認識していることだ。
上司たちの推測は正しかった。
水希は精神感応力者で、レオの心を読んでいる。
きっと、今も。
「そうだよ」
承知の上で押しかけたのはレオだが、落ち着かない気分だ。
「で、なにがあったの」
二度も聞かれて、答えようにも、この身体は人語を話せない。
しかしジェスチャーで伝えるには事情が複雑すぎる。今レオはスマホを持っていないから、水希に借りて文字を打つか、紙とペンがあるならそれを使わせてもらうか。
「……話せないわけね」
頷く。
「なにがあったか、順に思い出せる?」
……これは、頭の中を覗くつもりか。
「その方が早いんだよ」
それは、確かに。きっと、そうなのだろう。慣れない身体で文字を打ったり書いたりするより。超能力を持たないレオにはわからないことだけど。
水希に促され、レオは事の発端を思い出す。
ピザ屋のバイトで配達をしていたときだ。もう配達予定のピザは残り少なく、それを終えればライブラの事務所に行く予定だった。同じく事務所に向かうつもりだったらしいザップが、まだバイトが終わってないのに「乗せてけ」なんて無理やり乗ってきて。商品のピザを盗み食いされないよう死守しながら、配達先に辿り着いたのだ。
ザップを停めたバイクとともに残し、レオだけが注文されたピザを手にアパートメントへ入って行った。
そこまではいつも通りだった。
けれどレオが配達先を訪ねた途端、なぜかピザごと部屋の中に乱暴に引っ張り込まれ、なにやらわからぬうちに強烈な眩暈に襲われたかと思ったら(数秒ぐらい意識を失っていたかもしれない)、目の前に自分が立っていた。
そう、自分の顔が、レオを見下ろしていたのである。
鏡? いや、ドッペルゲンガー?
当然、レオは混乱した。
ニタニタ意地の悪い顔で見下ろしていたドッペルゲンガーは、事態を呑み込めずにいるレオになにも告げず、部屋を出ていこうとした。
動転しながらも、正常な思考回路は僅かながらに残っていたらしい。或いは、優先順位がわからなくなるほど、仰天していたのか。ピザの代金を受け取っていない! なんて、今考えればそれどころじゃないことを思って、ドッペルゲンガーを追いかけようとした。
そこで、もう一つ重大な事実にやっと気づく。
レオが、レオナルド・ウォッチではなくなっていることに。
繊毛がびっしりと生えた虫のような脚。ぶつぶつと凹凸の多い、黒炭のように黒光りする肌。
どこからどう見ても人類ではない肉体。
これはどういうことかと、いよいよ焦ってレオはドッペルゲンガーを追って、部屋の外に出た。
外にいたのは、悲鳴をあげてザップの方へ走り寄るドッペルゲンガー。
「助けて、ザップさん!!」
レオの危険信号は、黄色をすっ飛ばして、赤が点滅した。
一瞬で、己の身になにが起こったのか、そしてドッペルゲンガーの目的を悟った。
──違います、ザップさん! そいつは俺じゃない!
そう叫ぼうとした。けれど慣れない舌でどうにか発音した英語は、ザップの耳に届かなかった。
その後のことは、あんまり思い出したくない。というか、思い出せない。とにかく無我夢中で誤解したザップの攻撃から逃れて、死に物狂いであの場から去った。
酒・女・クスリと趣味がクズの見本市のような男だが、今回ばかりはザップのクズな嗜好に助けられた。あのときザップは、大量の飲酒とクスリをキメて女性とよろしく遊んだ後のグロッキー状態で、本調子じゃなかったのだ。そうでなきゃ、レオはザップの血刃にばっさり斬られていた。
誤解せざるを得ない状況だったとはいえ、仲間に本気で刃を向けられた瞬間を思い出し、身震いする。
死ぬところだった。本当に。
「なるほどね」
水希の目は、ググりながらなんとか巻いた包帯を見ている。
「身体の入れ替えられた、と」
さすがなんでもアリなHLと言うべきか。
映画で見たことあるシチュエーションが、まさか我が身に降りかかるとは思わなかった。入れ替わる相手が可愛い異性の人類ではなく、醜くひしゃげた異界生物なのが辛い。
しかも人語でコミュニケーションできないのがハード過ぎる。レオの身体に乗っ取った誰かがいるであろう事務所に行ったところで、今度こそ事情を説明する前にプチっと殺られてしまうだろう。レオを狙ったのだから住所は割れてると思われ、帰るわけにもいかない。鍵だってないし。
どうしよう。
途方に暮れたレオだったが、たった一人だけ、今のレオの現状を察せるであろう人物がいたことに思い当たった。
そんなわけで、一縷の望みを抱いて、水希の元へ来たわけだ。