Hello,shining!5 レオの故郷には、大きな湖がある。
視界いっぱいに広がる、透明度の高い碧。対岸には森林が広がり、さらに向こうには真っ白な雪を被った山脈が並ぶ。自然豊かなことしか褒める点のない町だったけれど、あの静かな迫力を放つ場所は、人に勧めても良いレベルだと思う。
妹はあの風景をいたく気に入っていて、よくせがまれては車椅子を押して連れて行ったものだ。
その湖で、時折、水希を見かけた。
いつも声をかけるには遠すぎる距離で、独り佇んでいた。たぶん、声をかけられたくなかったんだと思う。そんな気配をレオもミシェーラも察して、そっとしておいた。
水希も、あの風景が好きだったのだろうか。
そんなことを、今になって思い返す。
季節や時間帯にかかわらず、常に霧が立ち込めるこの街は、視界が悪い。日が陰ってくると、よけい酷い。おまけに今日は、いつにも増して霧が濃い。
点灯し始めた街灯の下、霧の中から水希の青い瞳が鮮やかに浮かび上がる。いつも獰猛さを潜ませる彼女の瞳は、一言「青」とは表現できない、複雑な色をしている。ウルトラマリン、エメラルドグリーン、ネイビー、コバルト。ちょっと光の加減が変わると様々な青が現れる。まるで海みたいに。
続いて、細長い体躯が現れる。
レオより身長が十センチ以上は高く、体重は十キロ以上軽いであろう痩せ型体型。さすがに十キロは言い過ぎだと本人は否定しているが、レオは信じていない。絶対十キロは差がある。あと少し……せめて五キロぐらいは肉がついていれば、理想のモデル体型なのに。
今日は、水希と映画に行く約束をしていた。
地下闘技場『e-den』で会った際、雑談しながら試合を観戦してたら、レオが気になっていた映画を水希が観たいと言ったのが切っ掛けだ。レオの知り合いに、その映画に興味を持ってる人は他にいなくて、せっかくだから一緒に観ようとレオが誘った。一人でゆっくり観るのも好きだけど、誰かと感想を言い合うのも悪くない。そう思って。ここじゃ、話の通じる知人はけっこう貴重だったりする。
待ち合わせ場所に先に来ていたレオは「やあ」と片手を上げる。
「太った?」
それが人に最初に言うことか。しかもそんな明け透けに。
呆れつつ、ライブラでも何人かに指摘されたお腹を撫でさする。
「やっぱり……?」
先日、数千人規模の集団記憶喪失事件に巻き込まれたレオは、ここ一ヶ月の記憶がない。どうやらその空白の一ヶ月の間に、連日バーガーを食べ続けていたらしい。ジャンクフードは安くて美味いが、太りやすい食べ物だ。バーガーは立派な栄養となって、レオの脂肪を増やした。
幸い、水希と映画の約束をしたのは公開一月以上前のこと。約束したときに連絡先を交換していたのもあって、かろうじてすっぽかすことにはならなかった。
「記憶喪失だっけ。まだ戻らないの?」
「うん、まったく」
連れ立って、映画館に向かう。
路地からタコ足のような触手がニュッと飛び出し、通行人を捉えてビルの隙間へと引きずり込む。足元をバスケットボール大の芋虫のような異生物が這い、近くを通りがかった女性が悲鳴を上げて跳び退く。通りの向こうでは、半神性存在と思わしき巨大ななにかが悠々と闊歩する。
レオはこの光景に慣れたものだが、中にはこの異様な街の風景に発狂する者もいる。というか、一昨日そんな人を見かけたばっかりだ。この街じゃ、狂人なんて珍しくない。
目の前を、肉塊がパンパンに詰まった自動車が横切る。異界人が乗ってるか、あるいは異界生物が寄生したものか。
レオがどちらであるのかを判別するより先に、肉塊詰めの自動車がクラッシュした。異界と融合しようが、ここは大都会。車通りは多く、一台、二台と続けて衝突していく。玉突き事故だ。HLで自動車事故なんて日常茶飯事だが、今目の前で起きたそれは一段と被害が大きい。レオの背丈ほどの巨大なタイヤで走る超々大型トラックまでもが、巻き込まれて横転した。
レオと水希の真横で、バスが傾ぐ。一瞬ヒヤリとしたが、幸い、こちらに倒れてくることはなかった。不運にも車の下敷きになってしまった通行人が数名いるようだが。
「うっわ、ひでえ……」
「これはまた派手な……」
超々大型トラックの運転手は、ほぼ無傷だったらしい。横向きになった運転席から、異界人が飛び出した。慌てたように、荷台の方へ駆け寄っていく。見れば、事故の衝撃のせいだろう、荷台のドアが僅かに開いている。鍵が壊れたみたいだ。
よほど大切な荷を運んでいるところだったのか。血相を変えて(たぶん。青緑色の肌をした異界人だから、顔色の変化がわかりづらい)荷台のドアを閉めようとした異界人が、内側から勢いよく開いたドアに弾き飛ばされ、数メートル吹っ飛んだ。
「まずい」
水希が呟く。
なにが? と問おうとしたが、レオは声を発することなく、口を開けたまま静止した。
小麦の袋に穴が開いて、中身がザーッと溢れ出すように。
タコ足の生えたクラゲみたいな魔獣、虫のような複眼を光らせる狼のような魔獣、外の世界の生物では例えようのない奇妙な成りの魔獣――。
荷台から一匹、二匹と魔獣が現れだした。
それらは荷台から飛び出すや否や、人類も異界人もおかまいなしに、近くにいる人たちを襲いだす。
「やばいやばいやばいやばい」
レオはもちろん、水希もそれなりに長くこの街を生きる住民だ。突然の危機に硬直することなく、すぐさま惨劇に背を向け、走り出す。
空からトラックぐらい大きな大空亜蟲が降ってきたり。路上で組織犯罪集団の派手な抗争が勃発したり。ショッピングモールで魔法陣が暴走して大事故が起きたり、高層ビルが爆破して瓦礫が降り注いだり。どんなに慎重に生きようと、突発的に命の危機に見舞われることがあるのが、このクソったれな街だ。
輸送中だったと思わしき魔獣が、不幸な事故で往来に放たれることだって、時にはある。
駆ける足は緩めず、背後を振り返る。蟹みたいなハサミを振りかざす、カマキリじみた魔獣がすぐそこにいた。
逃げ切れない。
迷う間はなかった。
レオは瞼を開く。
──視界混交!!
普段は瞼の奥に隠している義眼を使い、魔獣の視界をレオたちから反らす。ハサミは見当違いの方向へ振り落とされる。こちらの頭を粉砕する気だったのか、アスファルトが粉々に砕けた。その威力にぞっとする。
眼窩に嵌る人のものではないそれに水希が遠慮のない視線を注いでるのがわかるけど、説明する暇はない。
「伏せろ!」
水希が叫ぶ。
ライブラに加入してから、何度も修羅場を潜り抜けた賜物だろう。咄嗟に身を屈むと、頭上をなにかが通り過ぎた。
面を上げて見た先。レオたちの前を走っていた異界人に、魔獣が飛び掛かっていた。鋭い牙が異界人の首に食い込み、頭がもげる。異界人の断末魔が途切れた。
ただ映画を観に行くつもりが、とんだ地獄絵図に巻き込まれてしまった。
「まずい」
前方と後方を、魔獣に挟まれた。近くの建物に逃げ込めないか見回したけど、どこも既に入り口を締め切っているし、一番近くの喫茶店なんてバリケードを築いている最中なのが、ドアにはめられたガラス越しに見える。今更助けを求めて入れてもらおうにも、誰も開けちゃくれないだろう。レオたちを迎え入れるついでに、魔獣までご来店しかねないから。
周囲の無事な通行人は、あっという間に減っていく。無事に逃げおおせた者、逃げ切れずに魔獣に食い殺されている者。レオと水希はまだ無事だけど、退路を断たれ、取り残されてしまった。
「誰か通報したかな」
「しただろうけど、HLPDだってすぐには来れないんじゃないの」
これだけの騒ぎだ。レオが連絡しなくとも、ライブラの人たちにも、この騒ぎは伝わっているだろう。幸い、この通りは事務所からそんなに離れていない。十分足らずで、誰かしら駆けつけてくれるはずだ。
ただ問題なのは、それまでにレオたちが生き残れるかどうかである。人間の足の速さじゃ、魔獣から逃げ切れる気がしない。
じりじりと距離を詰めてくる魔獣たちを見回す。
背が、喫茶店の外壁に触れる。
追い詰められた。
レオも、水希も。
助けが来るまで、何分かかるだろう。
魔獣が一体、こちらに飛び掛かってくる。
義眼で魔獣の眼球をあらぬ方向へ動かし、攪乱させる。咄嗟に水希を引き寄せ、頭を庇うように抱きしめた。魔獣が跳躍した方向はややずれ、レオたちのすぐ横の壁に激突した。鋭い爪が、髪の先を掠ったのを感じた。
よっぽどの勢いだったのか、衝突で抜け落ちそうになった牙を煌めかせて、魔獣がこちらに向き直る。あまりの恐ろしさに、ますます腕に力が籠もる。それはもはや女の子を守らなければという男の矜持というより、ただ傍にある同じ境遇の人間に縋っているようなものだった。頭の端で、爪が食い込んでいることに気づいたけど、指先から力を抜く余裕はなかった。
今度は、周囲にいる魔獣たちすべての視界を支配し、めちゃくちゃに入れ替えてやった。テレビのチャンネルを切り替えるように、次々と立ち位置の異なる視界に、魔獣たちは足を止め激しくかぶりを振る。中には混乱の果てに、どうにか正気を取り戻そうとでも思ったのか、壁や地面に頭を打ち付けるものもいた。
よし、いいぞ。そう思った。
けれど、眼球のあたりが徐々に熱を持ち始める。
神々の義眼は、扱いが難しく、長時間使用すると発熱する。それでも使い続ければ、周囲の皮膚が火傷するし、視神経を繋いだ先の脳までダメージを負うリスクがある。
だが数分ぐらいだったら、火傷で済むだろう。
「レオナルド」
腕の中で、水希が息を呑む。
たぶん、レオの目元が焼けていることに気付いたのだ。
「大丈夫、すぐ助けが来るから……それまでの辛抱だ」
視覚ではなく、聴覚や嗅覚を頼りにしたのか。壁にぶつかったのとは別の魔獣の触手が、レオの足首に巻き付いた。
あっと声をあげた瞬間には、強く引っ張られ、立っていられず尻餅をつく。水希も膝をついた。その拍子に、身体が離れる。手が離れ、レオの爪が水希の頬を掠ってしまい、白い肌に赤い線が走る。
レオの体重など小動物程度にしか感じられないのだろう、引く力は弱まらない。どんなに視覚を狂わされようと、一度得物を捕らえてしまえば、喰うのは簡単である。
レオを捕らえた魔獣の口が、ぱかりと開く。涎が地面に垂れるのを見て、それどころじゃないのに不潔だと思った。
少しでも抗おうと地面に這いつくばるが、掴めるものはなにもない。
舌打ちが聞こえた。
「ギャッ」
突如、魔獣の首が空を仰いだ。
いや、仰いだなんてもんじゃない。首があり得ないほどに反り返り、後頭部が背中と密着した。
魔獣によってはそんなのさしたダメージにならないものもいるだろう。けれど、こいつは違った。涎混じりの血を吐き、頽れた。
レオは茫然と、息絶えた魔獣を見つめる。
「ガアッ!」
別の魔獣が牙を剥き、現状を思い出す。
急いで足首に絡まっていた触手を外そうとするが、それより先に、魔獣が宙を浮いた。
ジャンプしたのではない。なにか……目に見えないなにかに持ち上げられたように、地面から離れたのだ。
魔獣の意思ではないらしい。驚いたように首を捻り、手足が宙をかく。
次の瞬間、重力に従う以上の勢いで、魔獣が地に叩きつけられた。
レオの位置からも、魔獣の骨が折れた音が聞こえた。
魔獣の身体は一瞬だけ痙攣し、力が抜ける。
もう一匹、謎の死を遂げた。
また別の魔獣が血を吐き、その場に倒れる。血は人間の赤いものと違って、黄色く、それがまたグロテスクだった。
レオは吐き気を催した。
正体不明の現象によって屠られていく魔獣たちを、吐き気に耐えながら眺めるしかできなかった。
*
その現象が収まり、周囲にいた魔獣がすべて倒されるまでに一分足らず。さらに一分後に、ザップたちが現場に到着した。
水希はいない。ザップたちが来るより先に、「帰る」とだけ言って去ってしまった。
「いったい、なにがあったのかわからないんですよ。この眼でもなにも視えなかったし」
別の通りにまで逃げた魔獣の駆逐が完了してから、再びレオが襲われた場所まで戻り、クラウスたちに見たものを話した。
「フム」
クラウスとスティーブンは、事切れた魔獣一体一体を見回す。
「で、そのとき一緒にいたのは、かのお嬢さんだけだったと」
「はい。他の人たちは逃げ切ったか、魔獣に……」
その先は言わずもがな。
「クラウス」
「うむ」
スティーブンの呼びかけに、クラウスは頷く。
まるで二人はわかっているかのように。
「これ、いったい……なんですか?」
「少年も、フィクションでなら見たことあるんじゃないかな」
ぐるりと、もう一回だけ魔獣たちの死骸を見やる。
「おそらく、これは念動力だ」
「念動力」
スティーブンの言葉を繰り返す。
「超能力だよ」
この街が出現してから、人類は魔術や超常化学、異界生物が実在することを思い知らされた。レオもその一人だ。
SFで扱われる超能力なるものが本当に存在することを、聞いたことはある。が、それを目の当たりにしたのは初めてだ。
念動力というと、念じるだけでモノを動かしたりできる能力、というレオの認識で間違いないだろう。思念なんて実体のないもの、レオの義眼でも見えなくて当然だ。
しかし、凄まじい力だなと思う。
折られた魔獣の首はレオの胴回りより太く頑丈そうだし、落下死させられた魔獣の体重はレオの何倍あるだろう。あれだけの力技を、念じる、それだけでできてしまうのだ。
「でも、誰が……?」
レオの問いに、スティーブンは黙って見つめ返す。ザップを見ると、葉巻に火をつけていた。
最後にクラウスを見たとき、まさかと疑念が持ち上がる。
「まさか──」
クラウスが首肯する。
「彼女は超能力者だ」
怪訝そうな顔でドアを開けた水希に、レオは笑いかけた。
「やあ」
ピザを持ち上げ、水希に見せる。それと、レンタルした映画のDVD。
「こないだ、映画見損なったからさ。別の作品だけど、同じ監督のを借りてみたんだ。どう?」
「どう、って……」
水希は面食らったようにピザとDVDを見比べる。その頬には、レオが引っ搔いてしまったときのかすり傷が薄っすら浮かんでいる。
前に映画を観に行く日取りを相談したときに、今日はバイトがないと聞いていた。故郷にいたときと変わらず、どこかに一緒に出掛けるような友達もいないみたいだったから、たぶん家にいるだろうと思っていた。
頭を掻き、水希は背後を見やる。指先に絆創膏が貼ってある。
「ありえないぐらい散らかってるんだけど……」
「ピザちょっと冷めるけど、俺んちでも良いよ」
「いや……」
少し躊躇う素振りを見せて。
レオに部屋の中が見えるように、水希が脇にどく。
「うわ」
想像以上の散らかりっぷり──いや、想像を裏切る散らかりようだった。
ゴミとかガラクタが積み上げられた汚部屋ではない。猛獣が暴れまわった後のように、部屋の中にあるものが散乱しているのだ。割れた窓ガラス、倒れた冷蔵庫、真っ二つに折れたローテーブルに、食器の破片。
まるでポルターガイストだ。
きっと、片付け中だったのだろう。指先の怪我は、窓ガラスか食器の破片で傷ついたとみた。
「どうしたの、これ?」
「うん、まあ……ちょっと」
言葉を濁される。言いたくない事情らしい。
追及するつもりもないので、レオは腕をまくる。
「片付け、手伝うよ」
「えっ」
室内に入り、キッチンの空いたスペースにピザとDVDを置く。たぶん、終わる頃にはピザが冷めきってるだろうし、映画を見る時間もないだろう。
「あ」
水希に向き直る。
「服とか、俺が見ちゃいけないやつだけ、先に片づけてくれる?」
下着類はまだレオの眼に触れてないからセーフだろう。
「本気か……」
「え? うん。だって、一人じゃ大変だろ?」
それに、とレオは自分の頬を指でつつく。
「ここ、怪我させちゃったお詫びに」
水希はなにか言いたげだったけど、諦めたように肩をすくめて、部屋の片づけを再開した。
うっかり眼に入らないよう背を向ける。手持ちぶさたに壁や天井を観察すると、あちらこちらになにかがぶつかったり擦れた跡が残っていた。
レオは昨日、通りで起きた惨劇を思い出す。
これも彼女の超能力でついた傷なのだろうか。
「……なんで来たの」
「ん?」
「なにも訊かないし」
布が擦れる音。次いで、クローゼットを開け閉めする音。
「君から、僕に会うことはないと思ったから」
「…………」
図星だろう。水希は押し黙った。
「それと、訊かないのはお互い様じゃないかな」
レオだって、水希の前で義眼を使った。誰がどう見たって、今のレオの眼は、人間の眼球と違う。
普通なら、その眼はどうしたって訊くだろう。でも水希はなにも問わない。
だからレオも、水希に昨日のことを説明を求めたりしない。
レオは眼のことだったら、水希に知られても大丈夫だと思う。ライブラのことは話せないけど。水希は吹聴して回る子じゃないし、そもそもそんな相手がいるようにも見えない。
「……火傷」
「火傷?」
「目のあたり、焼けてたよね。もう大丈夫なの」
水希が気遣ってくれるとは、珍しい。まだ少しひりつく目の縁を指でなぞる。
「あの後、冷やしたから。もう平気」
「そう」
「服、片づけた?」
「うん」
「じゃ、そっち手伝うよ」
「サンキュ」
*
レオが片づけを手伝ったのは、はたして正解だったのか。
斜めっていたベッドを壁際に戻したり、倒れていた冷蔵庫を立て直すのは、女の子一人じゃ普通は難しいだろう。けど、水希はあの細腕に似合わない怪力を持っている。魔獣をぶんぶん振り回していたのだ、家具や家電をちょっと動かすぐらい、わけないと思う。
でも、二人であらかた片付け終わったら、スッキリした。ベッドの上にまで散らばっていた、窓や皿の破片も捨てたから、今日水希が眠るときに困ることもない。
気づけば遅い時間で、レオはピザを一緒に食べるのも諦めて、帰ることにした。これは人界でも言えることだが、HLで夜遅くに出歩くのは危険だ。生還率がぐっと下がる。
「ピザ、持って帰ったら」
「いいって、水希だって片付けで疲れたろ? 冷めちゃったけどさ、ゆっくり食べて」
「他人に奢るような余裕、あるわけ?」
「バイト先で、割引してもらえたやつだから、へーき。俺の財布の心配より、水希はもっと食べた方が良いよ」
「しょっちゅうカツアゲされて金欠のくせに、アタシの食生活を心配してどうする」
言ってくれる。
「でも、ほら、君のおかげでこうして今日も生きてるわけだし」
あの場で水希が一緒じゃなかったら、レオの命はなかった。
水希は一度口を開き、なにか言おうとして、けっきょくなにも言わずに唇を引き結ぶ。
片付け中に、何回か見た動作だ。
なにか言いかけて、でもやめる。口から洩れるのはせいぜい、溜息のような吐息だけ。
癖なのかもしれないし、言いたいことをなんでも言えるほどレオとは関係を構築できていないからかもしれない。たぶん、後者。
「じゃ、戸締りには気を付けて」
「アンタも、内臓カツアゲされないように」
「アハハ……」
レオもそれは祈るしかない。
水希の部屋は、アパートの二階。レオは水希に見送られて、階段を下りる。
階段を降り切ったところで振り返る。
水希は玄関の前で、レオを見下ろしていた。
「レオナルド」
また、口を開いて閉じる動作をした。
けれど今度は、言葉を完全には飲み込まなかった。
「もう、アタシとは会わない方が良い」
「えっ?」
聞き返す。けれど水希はそれ以上言わない。
「俺、なにかした?」
「なにも」
暗くて、ちょっと離れていても、レオの視力なら水希の表情がわかる。
少なくとも、レオに腹を立てているようには見えない。
口の端が捲れる。
自嘲するような笑い方。
「別に、アンタが悪いわけじゃない。でも……これ以上、関わるのは良くない」
*
「えっ」
クラウスからの命に、レオは困惑してみせた。
スティーブンは横目でクラウスを見やる。超常秘密結社ライブラの長として当然の指示ではあるが、クラウス個人としては気が進まないものなのだろう。デスクの下で、胃のあたりを手で押さえている。岩石のように厳つい外見に反して、中身は繊細なのだ、クラウスという男は。
しかし、この決定を取り消すわけにもいかない。
ライブラにとって、レオがこれ以上、水希という少女と接することを許すことはできない。
「水希には会うなって……それは、えっと、どういうことでしょうか……」
動揺しながらも、レオは問う。当然の疑問だ。
「あのお嬢さんが悪い連中と繋がっていた……ってことはないけどね」
心労による胃痛と戦うクラウスの代わりに、スティーブンが口を開く。
彼女が敵対組織の人間というわけではない。その事実には、レオは少しだけ安堵したように息をつく。
「彼女は超能力者だ。それは君もその眼で見た。念動力を使うところをね」
「はい」
「それだけだったら、問題ないんだがね」
彼女がライブラに害意さえなければ。
「少年。君も知っているだろうが、超能力ってのは、いくつか種類がある」
「発火能力とか、瞬間移動とか……ですか?」
「そう」
超心理学の知識がなくとも、映画やゲームといったフィクションに触れていれば、その存在を知る機会はあるだろう。
「水希が使えるのは、念動力だけじゃない、と?」
「少なくとも二種類の能力を扱えると、僕たちは推測している」
スティーブンは一度言葉を切る。
レオに心底同情しながら。
「彼女は血界の眷属を見分けれた。それに、姿を消したチェインにも。これは念動力じゃ説明できない」
ライブラは元々裏社会で化け物退治をしていた連中の集まりだ。ライブラの構成員に超能力者はいないが、そういった不可思議な能力には慣れている。だがレオは違う。レオが話を理解していることを表情を見て確認しながら、ゆっくり説明する。
「それと、彼女が賭博場のルーレットで異様に強いこともだ。念動力でサイコロを自在に動かすことは可能だが、誰にも不自然に見えないように転がすのは難しい」
「はあ」
主に吸血鬼を相手に戦ってきたスティーブンたちなので、超能力というものに詳しいわけではない。中には、聞いたことのない能力もあるだろう。けれど現時点で、こちらが知る内のもので、これらを可能とする能力がある。
「それもこれも、彼女が人の心を読める精神感応力者であるなら、すべて説明がつく」
レオの顔が固まる。
次いで、彼の内面で吹き荒れる嵐のような混乱は、察するに余りある。水希が超能力者だと悟ったとき以上の衝撃を覚えていることだろう。
レオは善良な人間だ。
しかしそんな彼でも、同年代の女の子に考えていたことが筒抜けだったなんて、とてもじゃないが耐えられることではない。スティーブンだって、レオの立場だったら羞恥や嫌悪で暴れ回る。心を覗かれて動じない人間なんて、クラウスぐらいだ。
「そ、それは……」
レオの声は、ショックで震えている。
「それは、俺、俺の心も読んでた、ということでしょうか……」
「おそらくね。どの程度読めるものなのかはわからないが」
そればっかりは、スティーブンでも推し量れない。
「なにはともあれ、俺たちが危惧しているのは──」
知らぬ間に精神という最もプライベートな領域を踏み込まれていたレオが哀れでならないが、それはいったん置いといて。
ゆっくりではあるが親睦を深めつつある同郷の友人と距離を取れと言った、最大の理由だ。
「彼女が、その能力でライブラの情報を得ることだ」
汗を拭きだし、顔を真っ赤にしたレオは、それでもなんとかスティーブンの話についていく。
「えっ……ああ、そうか、俺がライブラにいるってことも……」
「筒抜けだろうな」
赤く染まっていた顔から、ざっと血の気が下がる。
あまりにも憐憫を誘うレオの反応に、スティーブンは気にするなと片手を振る。
「精神感応力なんて、傍から見てわかるもんじゃない。彼女が君を通してどれだけライブラのことを知ったのか想像するのは恐ろしいが、現時点でライブラの情報が売られた様子はなし。その点は、気に病むな」
もし彼女が情報をライブラを敵視する誰かに流そうものなら、レオに接近禁止令を出しているどころではない。
「レオナルド君」
胃痛をやり過ごしたらしいクラウスが、ようやっと気遣うように声をかける。
「彼女が我々に害意がなくとも、ライブラの情報を得たがる者に狙われる可能性がある」
はっとレオは口を閉ざし、クラウスを見つめ返す。
それも、スティーブンたちが危惧する一つだ。
ライブラはその活動内容故に、あちらこちらで恨みを買っている。その飛び火が彼女を襲う可能性を否定できない。
「この街でせっかくできた同郷の友との関りを絶たせるのは、我々も心苦しい。だが──わかってくれるね?」