別れ話それを見た瞬間、全身の血液が全部抜け落ちたような感覚に陥った。急激な体温の低下で指先が震え、目眩がする。否、体温が低下したと言うのはあくまで感覚的な話であって、実際のところはそんなことはないのだろうけれど。そんな事がどうでもよくなるくらいに、アズールの頭の中は真っ白になっていた。ここまで生きてきた23年間。これ以上の失態はない。失敗もない。こんなに絶望を味わったこともなかった。
「……アズール? どうしました、顔色が悪いですよ」
様子に気付いた片腕が執務室のデスクに座ったアズールに訊く。その声すらどこか遠いところから聞こえているかのようだった。
「いえ……今日はもう、出ても?」
「はい。先程の打ち合わせで全て終了です」
彼が言い終わるが早いか、椅子を転がす勢いで立ち上がってコートを羽織りながら部屋を飛び出す。向かうは港町にある小さなリストランテ。アズールの実家の系列店だった。
『今日の予定:一件
19:00 リストランテ カンターレ
イデアさんと食事』
現在の時刻──22時38分。
海の見える場所を、と言うのはアズールの母が決して譲らなかった。やはり海底から始めたリストランテなだけに、海の近くでシーフードを振る舞いたいというのが根底にあったらしい。もう少しか都心の方が人が来るのでは、と言う提案も、うちに来たいと思う人だけが来てくれたらいいのよと笑って躱された。言い出すと中々曲げない人だと言うことは、息子である自分が一番よく分かっている。モストロラウンジの系列店。去年、アズールは両親の営むリストランテを買収し、モストロラウンジの兄弟店として両親の夢だった陸への進出を共に実現した。
開店当日、一等大きな花を送ってくれたのは、他の誰でもないイデアだった。青と紫と、海面と海底をイメージさせるそれに、両親も大いに喜んでくれた。客足が途切れなかったのも、空席管理やアテンドがスムーズだったのも、彼の功績だ。カンターレはアーシェングロット家の大切な店であり、また、イデアとアズールにとっても大切な場所になった。
海風が寒い。テラス席はビニールカーテンと暖房で温めていて、冬でも海を見ながら食事ができる。テラス席の一番奥に青い髪を見つけた瞬間、ほっとしたのと同時に緊張が走った。もう、長針と短針の逢瀬は目の前で、約束の時間から優に4時間が過ぎている。
有り得ないミスだ。幾ら予てから取引を持ち掛けていた相手から漸く色好い返事をもらえたからと言って、絶対に忘れてはいけない約束だったのに。正直に言うと、彼との約束に遅れたのは今日が初めてではなかった。ここまでひどい遅刻はなかったけれど、いつも、一時間、二時間と遅れていた。その度、彼は忙しいから仕方ないよと笑ってくれていたから、今日こそは絶対にと思っていたくせに。
何と言い繕っても仕方がない。どうやったってアズールが悪かったのだから、平身低頭、誠心誠意謝るしか手段はないのだ。すうと大きく息を吸ってから一度止めて、ゆっくり吐き出しながらテラスに向かう。いつかに彼からプレゼントされた革靴がひどく重たかった。
ビニールカーテンを避けて中に入ると、コートが必要ないくらいに暖まっている。店内からちらと覗いたのは店長だ。普段は海底のリストランテにいる両親に代わり、ここを仕切ってくれている。無論、アズールのことは知っているし、度々一緒に訪れているイデアのことも知っていた。だから、今日のこの状況もきっと理解した上で、見て見ぬ振りをしてくれたのだろう。一度肩を上下させて、キッチンへと引っ込んで行った。
「……イデアさん」
「うん」
アズールが到着してから一度も顔を上げようとはしなかったけれど、来ていたことには気付いていたのだろう。呼び掛けに静かに頷いた彼が、読んでいた小説をぱたりと閉じた。
「今日は、申し訳ありませんでした。直前まで大きな取引があり、つい……約束を失念してしまいました。このお詫びは必ず」
深々と頭を下げる。ビジネスライクだと思われるかも知れないが、これが自分達のスタイルだ。感情的になるよりも、常に冷静で合理的であれ。と、頭では分かっていても、やはり心臓はバクバクとうるさいし、掌は汗でびっしょりだ。暫く待ってみるものの、イデアからの反応がない。そろりと顔を上げてみると、ラタンチェアの肘置きに両肘をつき、長い脚をゆったりと組んだ彼が右手の骨ばった長い指で何かを数えていた。
4、5、6。
「僕が4年の時から数えてもう6年? 早いね」
「は、はい……」
穏やかな語り口。自らの開発した魔導工具や研究成果を生業にしている彼が編み出した対人スキルだ。ゆったりと、優しく話す。
「学生の頃は黙ってても近くにいるし、それこそ部活もあったし、何より寮生活だったから意識しなかったけど。学園から出ると中々あの距離感は難しいよね」
確かにその通りだと思う。学園内ではばったり廊下で会うこともあったし、部活や寮長会議、イベント事でどうやったって顔を合わせていた。けれど、イデアが4年生になってからは中々会うことも難しくなった。
「だからさ、頑張らなきゃいけないんだよね」
離れてしまわないように、会えなくとも心が繋がっているように。卒業を前にして、その事に危機感を覚えたらしいイデアがアズールにくれたのは彼の髪と同じ色の魔法鉱石のネックレスだった。互いに互いの魔力を込めて交換したそれは、今でも肌身離さず着けている。アズールの宝物だ。
「卒業してすぐにモストロラウンジの2号店開けて、ヴィル氏と共同でコスメティックカフェ開けて、レトルトの販売始めて、宅配事業やって。すごいよね」
「……」
何が言いたいんだろう。ここへ遅れて来た理由を詰められるならまだしも、功績を並べられて褒められるだけと言うのは居心地が悪い。ゆったりと座ったままの彼は肘掛に腕を置いたまま、腹の前で指を組んでいた。
「このお店も、ご両親喜んでたもんね」
「その節は……イデアさんにもお世話になりました」
「とんでもない。僕なんて少し手伝っただけですよ」
こういう時の口調は、自分に似ているなと思う。以前、商談の時の話し方はアズールを模しているのだと言っていたけれど、あながち嘘ではないのだろう。この話し方をするということは、今目の前にいるのは恋人ではなく、商談相手だ。アズールは知らずごくりと喉を鳴らす。
「しかし、学生の頃の君は可愛かったな。工学なんて微塵も興味がないのに、僕の論文を一生懸命読み込んで」
「微塵もなんてそんな、」
「新しいシステムが欲しいとか、マシンが欲しいとか。可愛らしく見上げてお強請りして。僕が君にぞっこんなの分かってたから扱いやすかったでしょう」
「なっ、」
「図星ですかな」
にぃと上げられた口の端に、腹の底から頭の先へとマグマの様な熱が駆け抜けた。頭に血が登り、顔が熱くなる。きっと、真っ赤になっているに違いない。
「童貞陰キャを手玉に取るのは楽しかったですかな? キミ、当時から女王だなんだって言われてたもんね。さぞやモテてたんでしょうなあ。僕に隠れて何人かキープがいたりして」
「イデアさん!! 何なんですか一体……! それ以上言うと怒りますよ……!」
衝動に任せた声は思ったよりも大きくて、遠くでぼおんと鳴いた汽笛がなぜだか頭に響いた。波の音に砕けたアズールの声を、確かに受け止めたのであろうイデアが一笑に付す。らしくなく、からりと笑った彼が同時にぬらりと立ち上がった。
卒業して数年。イデアとアズールの身長差は12センチに開いていた。リーチ兄弟と比べればまだ近いけれど、でもやはり近くで見下ろされると圧迫感がある。切れ長な目を細めたイデアは完全なる無表情だ。店の灯りがあるとは言え、ほぼ真っ黒である海の闇に引き摺られて寒気がする。
「それはこっちのセリフだよ。美形実業家とか持て囃されて気持ちよくなっちゃった? いつも必死なのは僕ばっかりで、キミは僕を振り向いたことなんてなかったくせに」
「そんなこと……!」
「ないって言い切れる?」
アズールはアズールなりに、イデアを想っていたつもりだった。誕生日には必ずケーキとプレゼントを用意したし、何でもない日にだって、一緒に出掛けたりゲームをしたり、彼の隣に居続けた。イデアの言うような浮気など一切したことがないし、そもそもキスやセックスは彼以外を知らない。それでは足りなかったのだろうか。ならば一体、彼は何を求めていたのだろうか。欲しいものがあるのなら、欲しいと言ってくれないと分からない。足りないのなら足りないと伝えてくれなくては継ぎ足すこともできない。
「僕は……僕なりに貴方を想って……」
どうしたら伝わるのか分からなかった。眼前の男は静かに怒りをたたえていて、その眼が酷く冷たい。その眼差しを、アズールは知っている。
好きとか嫌いとか、怒っている悲しんでいるではなく、ただただ、興味がない、だけの、それ。
ぐいと引っ張られた感覚に驚いて顔を上げた。次いで、首の後ろでばちりと何かがちぎれる音。痛みよりも音に驚いて思わず首をさすって、違和感に気付く。ネックレスチェーンがない。彼にもらってからずっと外したことのなかったそれの感触がない。まさかと勢いよく顔を上げてイデアを見ると、彼の手にふたつの鉱石が揺れていた。
「か、返して、」
「どうして? もう必要ないでしょ」
「だめ、ダメです、それは僕の、」
「僕の、なに?」
思い出?
ふうわりと持ち上がった青い唇と、弧を描いた金の瞳。その前でぱきんと儚い音を立てて割れた鉱石が、スローモーションのようにウッドデッキに散らばった。思わずその場に這うようにして、その欠片を拾い集める。けれどもウッドデッキの隙間は広くその合間に幾つか落ちてしまった。店内に背を向けているせいで光源も足りなくて小さな破片は見えない。
「あ、ああ……!」
涙は出ない。けれど泣いているようなか細い声が漏れた。ひとつ、ひとつと欠片を拾うたび、学生の頃からの彼との思い出が蘇る。
初めて出会った講堂近くの廊下。初めて話した部室。あそこは色んなことがあった。告白をした。キスをした。喧嘩をした。仲直りをした。イグニハイド寮はいつだって薄暗くて、けれど奥の部屋ではいつも彼が優しく迎えてくれた。初めてセックスしたのもそこだった。オクタヴィネルにはあまり来たがらなかったけれど、閉店後のモストロラウンジで、人魚の姿を認めてくれた。綺麗だと言ってくれたのは今でも耳の奥に焼き付いている。
目視できる最後の欠片は、彼の革靴の爪先が触れるところに落ちていた。震える指先で摘み上げた欠片を、ぎゅうと掌に包み込んでから縋るように顔を上げる。
膝。腰。腹。胸。見上げた顔は、天井からの明かりで逆光になっていたけれど、アズールが好きだった月の瞳だけははっきりと見えた気がした。
「 」
ぱきん、
悲鳴のように甲高く、何かが割れるように小さく。アズールの胸の奥の奥で何かが割れる音がした。泣くことすらできない。ただその、目の前の大きな、底が見えない喪失感と言う名の底なしの穴を呆然と眺めることしかできなかった。
彼の革靴に、見覚えはなかった。
恋が終わりを告げた話。