君のくれた傘ああしくじったな、と思ったのは、建物から出てすぐの爪先をぱたぱたと小さな雫が叩いたからだ。雨予報なんて出てたっけ。首の後ろで一つにまとめた髪が乱れるのも気にせずに後頭部を乱暴に掻く。タクシーを拾うか、今ならまだ傘がなくとも歩けるか、判断に迷った手でスマホを確認した。
そういえば今日、アズールはこのイデアの研究室の近くのレストランに視察に行くと言っていた。もしかしたら合流できるかも知れない。立ち上げたメッセンジャーアプリにメッセージを作っていく。
『乙〜今日近くのレストランに来るって言ってたけどもう用事終わった? 雨降って来た』
アズールのことだからきっと、朝起きて一番最初にニュースをチェックして、天気予報もばっちりなはずに違いないと謎の信頼を置きながらメッセージを送った。
そうしている間に雨粒が次第に大きくなって、ぱちんぱちんと爪先で弾ける。もしもアズールが傘を持っていて、用事が上手い具合に終わったタイミングだったとしても、二人で一本の傘はちょっとダメなくらいに降り始めてしまうかも知れない。そうなったらやはりタクシーかと思った所へ、スマホが震えた。
「も、もしもし」
メッセンジャーアプリだとばかり思っていたものだから、画面を見て慌てて画面をタップして通話を始める。まさか電話をかけてくるとは思わなかった。近くにいますよ、とか、一緒に帰りますよ、とか、そんな言葉を期待して。
『イデアさん? 今朝あなたが出かける時に今日は雨だから傘を持って行くようにと言ったはずですが?』
背後のざわめきの様子からしてまだ外にいるようではあった。叱る声が刺々しくて思わず背中を伸ばす。
「あ、あー……そう、だったね、」
『……どうせ聞いてなかったんでしょう。ゲームのログインにお忙しそうでしたし』
これは随分と機嫌が悪そうだ。仕事で何かあったのか、またはイデアが話を聞いていなかったことを怒っているのか。後者は当然あるとしても、それだけでこんなに怒るとも考えにくくて、不機嫌の理由を考えてみる。けれども思い当たることはそうもなくて、アズールの話を半分聞き流しながらソシャゲのログインをこなしていた朝の自分を恨んだ。
「まあ、うん、あ、それで、もう視察終わって帰るなら一緒に」
『その前にごめんなさいでしょう』
溜息と共に零された呆れた声が近くて、言い訳と共に丸まった背中のまま恐る恐る顔を上げる。
「どうせ持って行かなかったんだろうなと思ったので」
差し出された折り畳みはいつかにアズールがプレゼントしてくれたもの。おずおずと受け取って、通話を終わらせたスマホをポケットにしまった。
「この埋め合わせはこの後の食事でいいですよ」
「え? もう食べたんじゃないの?」
「どうせなら傘を届けてからにしようと思って、これからです。イデアさんはもうお済みですか?」
「う、ううん、まだ、じゃあその、この後一緒にランチでも……」
おずおずと差し出したデートの誘いを受け取ったアズールが顰めっ面を脱ぎ捨てて、喜んで、と笑ってくれた。
雨は少しずつ勢いを増し始めたけれど、何せ僕には傘がある。恋人のくれた特別な傘が。
先に歩き出したアズールから一拍遅れて広げた黒い傘は内側が深い紫色になっていて、その艶やかな色と、そこから連想する愛しい人に青い唇をふふと緩めてその人のところへと小走りで駆け出した。
次はゲームより僕を優先してくださいね。