すずらん 植物園の片隅で見掛けたそれは、他の花に囲まれて素通りされてもおかしくないくらいにささやかに咲いていた。触れたらちりんと音を立てそうな白い花の形に興味を引かれて、羽織っていた白衣を汚さないように気を付けながらその場にしゃがみ込む。魔法薬作りにもあまり登場しないそれが何であるのかはよく分からない。後で調べてみようとマジカメで写真を撮ってから立ち上がった。
愛用の魔法薬用植物辞典を開いてみるも残念ながらそこには掲載はなく、やはり魔法薬には使われないものなのかと辞典を閉じる。しかし植物園で育てているのであれば何かしらの用途があるのだろう。まさか自生した植物なのだろうか。紙をめくる音だけがさらりさらりと響く、インクと紙の匂いが充満した図書館の大きな本棚の間を背表紙を視線でなぞりながら移動する。単なる植物辞典になら載っているだろうか。抱えていた本を戻し、ふと目に付いた本を手に取った。
「花言葉」
そう言えば、それぞれの植物には花言葉というものがあって、花をプレゼントする時にはそれを踏まえると女性には喜ばれるらしい。あれは確かモストロ・ラウンジのテーブルにも花を飾ろうかと検討していた時に、陸出身者の寮生が言っていたのだったか。結局、海をモチーフにしたモストロ・ラウンジでは陸の花を使うことはしなかったので、それ以上調べたりすることはなかったのだけれど。
あまり開かれた様子のないその本をぱらぱらとめくってみる。目的は例の白い花だ。幸い花の色別に分類されていたため、案外すぐに見付かった。
「すずらん……ふふ、見たまま」
それを見た時に鈴の音を想像したのは間違いではなかったらしい。大きく印刷された写真は、植物園で見たものと同じく大きな葉に隠れるように連なる小さな膨らみが可愛らしかった。
「幸せの再来、純粋」
確かにアズールもあの姿からはそういった、きれいなものを想像した。純潔、謙虚、と続けられているその言葉たちに納得して本を閉じる。少しだけ拝借して部屋に飾ってもいいだろう。本棚にそれを戻しながら腕時計を確認して図書館を後にした。
誰に許可を取ったら株分けしてくれるだろうか。電子申請が効くならイデアが知っているかも知れない。夕陽がかかる廊下を通り抜けて部室のドアを開けると、誰かが勝手に持ち込んだ古びたソファの上に寝転がっていたイデアが首だけを持ち上げて手を上げた。
「イデアさん、植物園の花を株分けして欲しいんですが、誰に申請出したら許可をもらえるんですか?」
「いや拙者植物園の責任者じゃないんで」
「知ってますけど、電子申請書とかないんですか?」
「えっ、息を吸うように他人を使って来るじゃん……」
腹の上で開いているノートパソコンがあるのだから、それでついでに調べて欲しいと、そこまで言葉にしなくてもアズールの要求を汲み取った彼が溜息交じりにぱちぱちとキーボードを叩く。
「ちな、何の花? あそこって確か区分けされてて、それぞれ担当者が違ったような」
「すずらんが欲しいんです。部屋に飾ろうと思って」
手近な椅子に座ってそう言うと、パソコンから持ち上がった視線がアズールを一瞥してからまたすぐ画面へと戻された。
「育てられんの?」
「分からないです、その辺は所有者の方にも聞いてみようかと。イデアさん、ご存知ですか? すずらんの花言葉」
「……知らんでござる」
「純粋とか、純潔とかなんですって。僕にぴったりじゃないですか」
「いや厚かましいにもほどがある」
「なんですか?」
「いーえ」
テーブルに両肘を着いて組んだ指先に顎を乗せて微笑む。ノートパソコンに隠れるようにして身を縮めたイデアにふんと鼻を鳴らして、今日は何をしようかとゲームのラインナップを頭の中に広げてからマジカメを開いた。
「ちなみにさ」
植物にはまるで興味がないのかと思いきや、不敵な笑みを口許に乗せたイデアがソファから身を起こす。ぎしりと軋んだ音が笑ったようだった。
「すずらんて毒があるの知ってる?」
「え?」
「その強さ、何と青酸カリの十五倍」
ソファから立ち上がり、アズールの前に腰を下ろしたイデアが楽し気に肩を揺らす。単なる植物辞典であったのならその情報も記載があったかも知れないけれど、アズールが先刻読んでいたのは花言葉辞典であったせいで、そこまで調べ切れてはいなかった。
あんなに可愛らしい見た目から想像がつかないくらいの毒性だ。何度か目を瞬かせたアズールに、イデアがノートパソコンの画面を差し出す。
「それでもよろしければ」
「……別に食べるわけじゃないですから」
表示されているのはすずらんがあった区域の責任者の名前と、メールアドレス。毒があったところで、口にしなければ害はないはずだ。内ポケットから取り出したメモ帳に名前とメールアドレスを控える。
「見た目にそぐわず強い毒を持ってるだなんて、どこぞの人魚のようですなー」
「おや、お褒めに預かり光栄です」
メモ帳をしまったのを確認したイデアが楽し気に笑いながらノートパソコンを閉じた。
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