TO麺×$ 41 階段を下りて、一階の廊下を進む。建物の奥、なだらかな坂になっている細い廊下を進むと、警備員にぺこりと頭を下げられた。灰色の鉄製のドアが重たい音を立てて開けられ、更に奥へと進む。
ドアを隔てたそこはロビーとは打って変わって、質素なリノリウムの廊下に薄汚れた白い壁、廊下にはコーヒーポッドと紙コップ、差し入れのお菓子がいくつか。ライブハウスのバックステージは何度も来たことがあったけれど、ホールサイズは初めてだ。思わずきょろきょろと見回してから、はっとする。
「ケイトさん、いいんですか? バックステージなんて」
「え? だってバックステージパスもらったでしょ?」
「面識もないのに厚かましいんじゃないのかい?」
「へーきへーき。ていうかリドルちゃんの幼馴染じゃ~ん」
軽く笑ったケイトさんにリドルさんも、それはそうだけど、と声を落とした。面識がないという点で言ったら、僕とカリムさんなんて百パーセント面識がないんだから、こんな所場違いなのではないだろうか。大体バックステージパスといっても、入り口で手渡されただけで希望したわけでも希望されたわけでもない。所々に設置されたテレビにはステージが映し出されていて、今正に最後の演奏を終える所だった。
かき鳴らされたギターとベース。締めくくるドラムと共に、打ち上げられる特効の銀テープ。それに手を伸ばす客席。会場後方の固定カメラから映されている映像は、状況を把握するためのものであるため、かなり引きの映像だ。
『今日はどうもありがとう』
マレウスさんの声に続き、メンバーが楽器を置いてファンサービスを始めるとともに、廊下が慌ただしくなる。ここにいるスタッフ達は、公演中よりも公演前後の方が忙しいのだろう。ケイトさんによって廊下の途中にある休憩所へ押し込められ、廊下をばたばたと走り回るスタッフ達をただぼんやりと眺めた。
「規模がデカくなるとこれだけの人が動く。機材も会場もお金かかるし、人でも必要になる。だからこそ、できるだけ満足して帰ってもらえるような内容にしないとだね」
タオルを片手に走る人、モップを抱えて走る人、インカムで何かを話しながら早足で通り過ぎる人。目まぐるしく動くその人達に思わず息を飲んだ。
会場では退場のためのアナウンスがかかり、一気にざわざわと騒がしくなる。同時に、このバックステージの廊下もどやどやと足音と人の話し声が大きくなった。
休憩所は廊下の片隅。ドアや壁はなく、ただぽっかりと空いた空間にテーブルセットが一つ置かれているだけの場所であるから。ステージから繋がったその廊下を、当然たった今公演を終えたメンバーが通りかかる。
こちらを丸で気にせず楽屋に向かう彼らの雰囲気に圧倒されて動けない。レオナさん、イデアさん、トレイさん、最後に、マレウスさん。足早に楽屋へ向かった彼らを見送ると、大人しくイスに座っていたオルトさんが立ち上がった。
「兄さんに会いに行ってもいい?」
「ん~、多分この後取材あるから、ちょっとだけな。取材終わったらまた会えるから」
「やった! アズールさんも一緒に行こう」
「えっ?」
言いながら腕を引かれ、たった今彼らが歩いた廊下に踏み出す。慌てたリドルさんが何か言いたげにしながらも付いて来て、エースさんに案内されるがまま、楽屋へと連れて行かれた。
ライブ後は体力も気力も使って相当疲れるのを知っているだけに、このタイミングで挨拶というのは随分と憚られてしまうけれど、ここまで来てしまったら仕方がない。本当に一言挨拶をするだけにしよう。
「エースっす~、オルトくん連れて来ました~」
エースさんが楽屋の引き戸をノックして、中に声をかける。ドアは案外すぐに開いて、顔を出したのはトレイさんだった。近くで見ると随分と背が高い。
「よう、オルト久し振り」
「こんにちは、トレイさん! 今日はどうもありがとう!」
オルトさんの髪を撫でた彼が、汗を拭った顔を上げて僕らを見た。
「おお、リドル。来てくれたのか」
「う、うん……疲れてるところ悪いね」
「気にするな」
ちらと寄こされた視線にぺこりと頭を下げると、同じように会釈を返してくれる。この場合、何と挨拶すべきなのかと考えている内に、まあ入れよ、と招き入れられてしまって、結局トレイさんには何とも言えなかった。
楽屋はさほど広くはないけれど、僕らのやるライブハウスよりは全然ましだ。部屋の奥、三分の一ほどの辺りからカーテンが引かれ、その手前に置かれたソファでツアーTシャツ姿のレオナさんがスマホをいじっている。人の気配にちらと目を上げ、僕らを見て少しだけ目を細めた。
「ああ、幼馴染か」
「そうそう。あとイデアの弟な」
ふうんと鼻を鳴らした彼の視線は何故か僕に固定されていて、居心地の悪さに少しだけ眉を寄せた。会った事はないはずなのに、何だか値踏みをされているようで。
そうこうしている間に、レオナさんの奥側でカーテンが少し開いた。どうやら向こう側は着替えのスペースらしい。ステージ上で着ていたTシャツはもう汗で汚れているから、この後の取材用に新しいものに替えているのだろう。
開いたカーテンの向こうから顔を出したのは、マレウスさんだった。反射的にどきりと胸が鳴って、思わず姿勢を正す。近くで見ると彼も随分と背が高く、不思議なオーラがある。色気というべきか、迫力というべきか。
「……なんだ、マレウスのファンか?」
揶揄するようなレオナさんの声にはっとして彼に視線を戻すと、冷やかすようににやにやとしていて、その態度に不愉快になる。レオナさんの発言を受けたマレウスさんが一瞬考えるような間を置いてから、部屋を横切って僕らの前にやって来た。すと差し出された手に首を傾げる。
「握手でいいか」
「……いえ、別に僕は、」
確かに、顔の造形もいいしスタイルもいい。声もいいし歌もうまい。目の前でまっすぐに見詰められると心臓が落ち着かなくなるのは事実なのだけれど、決してファンというわけではないし、とその手を取るのを躊躇った。
「オルト?」
カーテンの向こうからもう一人。長い髪をTシャツの襟首から出しながら、イデアさんが出て来る。
「兄さん!」
慌てたようなオルトさんの声を不思議に思ってマレウスさんの身体を避けて部屋の奥の様子を伺った。如何せん、マレウスさんの身体で完全に隠されてしまっていて、カーテンの方が見えなかったのだ。逆に、イデアさんの方からも僕の姿は見えなかったのだろう。突然マレウスさんの脇から人の顔が現れた事に驚いたらしい彼が、喉の奥を引き攣らせた。
「えっと、あの、マレウスさんが握手を、その」
「え? なに? どういう状況?」
混乱している様子のイデアさんと、慌てているオルトさんから視線を外し、改めてマレウスさんを見上げる。差し出された手はそのまま待機し続けてくれているのが何となく申し訳なくなってその右手に恐る恐る手を出した。
「待っっって、」
いつの間にかマレウスさんの後ろまで来ていたイデアさんがマレウスさんの右腕の袖を引いたものだから、僕の手は彼の指先にすら触れないまま行き場を失う。
「俺のファンだというから」
「え⁉ いつ⁉ いつそんな事になったの⁉」
「わからない」
「ま、待ってホント? ホントに?」
「えっ? いえ、あの、」
マレウスさんと入れ替わるように突然イデアさんに詰め寄って来られて、状況に頭が追い付かない。ファンなのかと言われると、確かにドキドキはするのだけれど、これがいわゆるファン心理であるのかどうかと言われるとよく分からなかったし、そもそも初対面であるイデアさんに詰め寄られる覚えもない。
「アズール氏マレウス氏みたいなの好きなの⁉」
「……はい?」
焦った声でそう言った口調には聞き覚えがあった。あの日。街中で追いかけっこをしたあの日に、〝ベースを担いだ〟蒼い髪のイデアさんと同じそれだった。