TO麺×$ 44 アルバム制作は順調に進み、リリースイベントもエースさんを中心に滞りなく進んでいる。お渡し会とは名ばかりで、実際にCDを渡すのは一番手前にいるスタッフ。その後、メンバー三人からは名刺サイズのサインカードを渡すことになっている。
「き、緊張、する」
「大丈夫だって、CD渡すだけなんだから」
随分先のイベントを思って緊張に身体を固くしているスタッフの肩をカリムさんが笑いながら軽く叩いた。
随分前から物販やはがしのスタッフとして働いてくれているエペル・フェルミエは、地方出身のアイドル志望だ。インディーズアイドル雑誌の片隅に出ていた僕らを見付け、自らアルバイトとしてこの事務所の門戸を叩いてくれたのがきっかけ。顔は整っているし、レッスンを続ける根性もある。どうにか彼女もアイドルとして押し上げてやりたいと思うけれど、正直まだ自分たちですら暗中模索の日々であるのに、人の事まで構ってやる余裕はなかった。
「アズール、お客様がお見えです」
ジェイドの声に顔を上げ、執務スペースから隣の応接室という名のリビングへと移る。ほぼ同時に客が姿を現した。
「忙しいのに悪いわね」
「いえ。ヴィルさんほどでは」
どこか不機嫌そうなヴィルさんにソファを勧め、正面に腰を下ろす。別室で映像資料を見ていたリドルさんも合流し、ジェイドが人数分の紅茶をテーブルに並べた。
「資料見てくれたかしら」
「はい」
「なら話は早いわね。どう、うちの事務所に入らない?」
「えっ⁉」
ヴィルさんの提案に声を上げたのはエペルさんだ。アルバイトである彼女に、先日予め僕ら宛にメールで送られて来たヴィルさんからの提案書は見せていない。ちらとエペルさんに目をやったヴィルさんが、値踏みするように彼女を見てからまた僕を見る。
「正直言ってあまり時間がないわ。ネージュたちに後れを取るわけにはいかないのよ」
ネージュ・リュバンシェ。ヴィルさんにとってはライバルに位置づけられる人気俳優。
ネージュさんの人気にあやかり、彼女の事務所はいま若手育成に力を注いでいるらしい。元からそこそこ大きい事務所ではあったのだけれど、ここへ来て他の事務所の若手アイドル、俳優、アーティストに声をかけ、更に規模を拡大させているのだそうだ。
ヴィルさんもそこへ誘われたが、ネージュさんはあくまでライバルであるがゆえに同じ事務所には所属したくないらしい。かと言って、相手方がそれなりの戦力を所属させた事務所となると、ヴィルさんの事務所もそれなりの規模とはいえ今のままでは立ち向かえなくなる時が必ず来る。そこで、僕らのような小さな事務所で活動しているアイドルや俳優を掻き集めて対抗勢力を作り上げようという事らしかった。
「でも、僕らだけでは全然戦力にならないと思いますけど」
「大丈夫よ。アンタたちは絶対この先売れるわ」
何を根拠にしているのかは分からないけれど、ヴィルさんのその断言は何だか妙な説得力を持っていて、そう言ってもらえた事が少しだけ自信になる。
「だから力を貸して欲しいの」
まっすぐに見据えて来る眼が真剣だ。思わずごくりと喉を鳴らして、一度深呼吸をした。既にトップスターの地位にいるヴィルさんにここまで言われて断るという選択肢はない。無論これから条件を詰めて、そこで合意に至らずという事はあるかも知れないけれど、恐らくそこは心配ないだろう。彼女が無理な条件を契約に入れて来るとは考えづらい。
「わかりました。是非一緒に戦わせてください」
「助かるわ。それと、」
ちらと上げられた視線の先で、エペルさんが肩を跳ねさせた。
「あの子は?」
「アルバイトをしてくれているエペルさんです。アイドル志望で」
「そう。丁度いいわ。事務所設立したらアンタもタレント登録しなさい。ちゃんと教育すれば絶対に伸びるわよ」
「は……はい!」
「ヴィルと同じ事務所になるのか?」
「心強いね」
嬉しそうに笑うカリムさんとリドルさんに一度頷く。ヴィルさんが声をかけて回っていれば、事務所への転属人数はすぐにそれなりの規模にはなるだろう。そうなると一気に大所帯だ。
アルバム制作、イベントの準備、契約書の作成に下準備。エペルさんもタレント登録するとなると、彼女の分のタレント契約書も用意しなくては。忙しくなるなと頭の中であれこれ案件を整理していると、ふと隣にいたリドルさんに肩を叩かれた。
「イベントの準備はカリムがやるし、アルバムの進行はボクがやるよ。契約関係はアズールの方が詳しいだろうから、任せてもいいかい」
「……もちろん」
契約に関することは、弁護士である義父から教わる事もできる。ならばそこは僕が担当するのが適任だろうとは思っていた。リドルさんの自然な采配に感謝して、ヴィルさんを含めその場の全員でこれからの簡単なスケジュールを打ち合わせる事にした。
ヴィルさんを見送った後、入れ違いに戻って来たエースさんとフロイドに事情を説明すると、エースさんは思ったよりも好反応を示してくれた。彼は第三者的視点を持っていて、案外こういう事にはシビアだと思っていたけれど。
「いいじゃないっすか。後ろ盾はデカい方がいいし。ただ、ある程度融通効くようにしておかないとよくある〝方向性の違い〟とかになりかねないんで、そこだけは気を付けた方がいいと思いますよ」
何でもない事のようにそう言った彼に内心で感心した。こういう所が彼の一番の評価ポイントだ。エースさんの言う通り、これまでの僕らの活動から著しく反するような事を事務所側から強いられるのだとしたら、今回の契約そのものは辞退するしかない。けれど、ヴィルさんのこれまでの活動や振る舞いを見ている限り、恐らくそこまでの拘束はされないだろうと思う。
「エペル、よかったな! 一緒に頑張ろうな!」
「は、はいっ」
カリムさんに肩を叩かれたエペルさんが嬉しそうに笑った。以前からヴィルさんのファンだと言っていたし、ヴィルさんの元でレッスンもちゃんとしたものを受けられたらきっと彼女は僕らと、いや、僕らよりも成功する可能性があると思う。負けてはいられないなと開いたノートパソコンでヴィルさんの事務所について調べ始めた。既に何度か下調べは済んでいるのだけれど、改めて所属タレントや事務所の場所などを確認する。一度は名前を聞いた事があるようなモデルや俳優が多い中で、僕らのような駆け出しのアイドルというのはかなり気後れしてしまうが、負けてなるものかと改めて腹に力を込めた。
「そしたらこの事務所なくなっちゃうの? 居心地よかったのに」
フロイドがソファに転がって残念そうな声を上げる。賃貸料も馬鹿にはならないし、この事務所は引き払って現在の彼らの事務所を拠点とするのがいいだろう。幸いマンションからも遠くない。
「アズール達はいいけどさあ、俺達は向こう行って何すんの?」
「今と変わりませんよ。マネージメントやら雑用です」
「雑用」
けらけらと笑ったフロイドに少し笑って考える。業務提携契約であるケイトさんはさておき、従業員契約のエースさんの今後については保障する必要がある。とは言え、移籍するタレントはどこも同じようなものだろうから、そこまで考えられているだろうけれど。しかし、エースさんは専属という訳には行かなくなるかも知れない。小器用な人であるし、専属であるのは逆に勿体ない気がした。
「ま、一緒に移籍できるなら行った先での仕事なんてなるようになるっすよ」
笑ったエースさんに肩の力を抜き、読んでいた新事務所についてのツイペディアのサイトを閉じる。ふと、ブラウザが表示したニュースサイトの見出しに興味を惹かれ、何の気なしにクリックしてみた。
「……え?」
ニュースはまさに、ネージュさん達の事務所の話題だった。彼女の事務所に転籍すると噂されるそうそうたるアーティスト名が並ぶ中、そのひとつ。つい先日初めてその名前を知った、イデアさん達のバンドの名前がそこに記載されていた。