人魚の歌に夢を見る ピコン。
小さく音を立ててメッセージボックスにフラグが立った。新規メッセージの受信。何気なくマウスでそれを開けると、『フレンド申請』というタイトル。腕組みをして、もう年季が入って来たゲーミングチェアの背凭れを撓らせた。
もう何年もやり続けているオンラインゲームは、最早イデアの生活の一部だ。大学に籍は置いているものの、学生とは思えない研究結果と論文で結果を出し、授業は家からオンラインでよしという特別待遇をもぎ取ったのは一年生の後期の頃。三年生も終わりが見えて来た今も、定期的な研究と論文でオンライン授業の生活を続けている。つまり、完全なひきこもりだ。
暫くぼんやりとフレンド申請を眺める。長いことやっているこのゲームで、今時点で一緒にプレイをしているメンバー以外には基本新規フレンドの募集はしていない。と言うのも、イデアの所属するギルドは少数精鋭ではあるが、毎月のランキングでも必ず上位に入るくらいのギルドだ。そのせいでフレンド申請は定期的にそれなりの数が来る。毎回相手をしていたら、すぐにフレンド枠がいっぱいになってしまう。だから基本的に新規フレンドは断っているのだけれど。
「ああ……さっきの初心者……」
マウスを持っていない左手で、血色の悪い唇をむにむにと摘んで弄ぶ。また少し考えてから、ふとマウスを操作した。
『フレンド申請を受け付けますか?』
『YES』
自分でも驚くくらい珍しい。けれど何となく、先刻助けてやった初心者プレイヤーの印象が良かった。それと、気が向いただけ。ただそれだけだった。
初心者丸出しの装備で、操作だって覚束なくて、回復のひとつもできないし、攻撃も当たらない。いっそ清々しいくらいなポンコツだった。戦闘終了後、アイテムだけ拾って立ち去ろうとすると、その場でくるくると回り出すものだから。
『どうしたの』
放っておけなくて、ついメッセージを送ってしまった。イデアのアバターの頭の上に表示されたフキダシの中にテキストが表れる。一瞬回転が止まり、しんと場が静まった。恐らく、読んでいるのか、または返信を打っているのか。リアクションを待っていると、やがて彼の頭の上に、ぽんとフキダシが表れた。
『たすかりました』
末尾には可愛らしいタコの絵文字。なぜタコ。思わずぶっと噴き出し、すぐに返事を打ち込む。
『いーよ。初心者でしょ。頑張って』
『はい』
素っ気なく見えるけれど、恐らくタイピングが遅いのだろう。早く返事をしたいけれどタイピングがついて行かずに、簡素なテキストのみになってしまうのだ。初心者あるある、と思いながらその場を立ち去り、再び別のクエストに勤しんだ。
それから数分後、その彼からフレンド申請が届いたのだ。恐らく今頃彼のフレンド枠にイデアの名前が表示されているはずだ。次にログインした時にまた会えるだろうか。このゲームを始めた頃のことを思い出して、少し笑った。
「せんぱーーーーーい」
「ひえ、」
なんて感傷に耽る間もなく、アパートのチャイムがこれでもかと連打され、玄関のドアの向こうからあまり聞きたくない声が響く。本当は開けたくないけれど、ドアを開けない限りこのチャイム連打と大声が繰り返されることはもう身を持って知っているから、慌てて椅子から降りて遠くない玄関に駆け寄った。
「こ、こえ、でかい」
「あー、もーまた、暗い中でゲームしてー」
「君は僕のお母さんか……」
「おっじゃまーーー」
家主をぐいと退かして、ぽいとスニーカーを投げ捨てたフロイドが勝手知ったる風に家の中に入る。190cmを誇る大学バスケの選手と、上背はあってもひきこもりのイデアでは基礎体力が違い過ぎた。彼は軽くのつもりでも、利き手で薙ぎ倒すようにされたらイデアの身体は簡単に壁に激突する。ぶつかった右肩が痛かった。
「せんぱいまだこのゲームやってんの」
「い、いいでしょ別に……何の用?」
先輩という呼称の通り、フロイドはイデアの大学の後輩だが、それ以前に腐れ縁の幼馴染でもある。大学に入ってから突然に先輩と呼ぶようになった。
実家が隣同士で歳が近いとなれば、本人同士が馬が合わなくても何かにつけて家の行き来は生じるものだ。やれお裾分けだの回覧板だの。それがここまでずるずると続いてしまっただけのこと。彼はいま大学の寮で生活をしている。イデアのアパートからはそう近くはないはずなのに、こうして定期的に現れるのは何故なのか。イデアにとっては苦手な幼馴染以外の何物でもない無いのだけれど、彼はそうではないのだろうか。
「カーチャンが送って来た果物のお裾分け~」
「ああ……どうも……」
差し出された紙袋の中には桃がいくつか入っている。ひどい偏食のあるイデアだが、果物全般は好きだ。本当は果実そのものよりも缶詰の方が好きなのだけれど、折角頂いたのだから有り難く受け取っておく事にする。
「大学行かねーの?」
「必要ない」
「ふーん」
「用事終わったら帰れよ……」
この幼馴染は決して、学校においでよ、とは言わない。イデアが学校と言う場所をどれだけ嫌っているかを知っているからだ。1Kの狭い部屋に180センチ超が二人いては随分と狭いし、そもそもあまり他人を家に入れたくないので早く帰って欲しい。
点けっぱなしのパソコンが、ポコンとイデアを呼んだ。誰かがメッセージを送って来たらしい。タイミングが悪いなと内心舌打ちをした。案の定音に気付いたフロイドがパソコンを見る。
「メール来てるよ」
「いい、いい。放っておいて。て言うか見ないで」
「満月さん。アハッ、厨二っぽい」
ああ、あの初心者くんだ。イデアの承認に気付いたのか。ここにフロイドがいなければ、少しほっこりした気持ちになれたものを。
「ねえそろそろ、」
言いかけたイデアを遮るように、フロイドのパンツのポケットでスマホが鳴った。持ち主に似てマイペースなヤツめ、と謎の苛立ちを覚えながら電話を取ったフロイドに溜息を吐く。
「はーい。あー、ジェイドー? なになにー?」
通話の相手は寮のルームシェア相手らしい。一年の頃から同じ部屋らしい二人は一目会った時から意気投合したのだと聞いていた。イデアも数回無理矢理会わされたことがあるが、何だか他人と思えないくらいにフロイドに雰囲気が似ていて、世の中には自分に似ている人間が三人はいると言うしな、などと考えたものだ。
「……うん、……うん、」
ふと、先刻までの騒がしい感じが消えて、神妙な面持ちになっているのに気付く。何事かあったのかと様子を見ていると、視線に気付いたらしいフロイドが一瞬困ったように眉を下げた。
「これから帰るねー」
言い終わらない内に通話を終了させる。本当にこいつのこういう所苦手だわ。苦い顔でそれを見ていると、言葉の通りさっさと玄関に向かう。どこまでも彼は自由だ。
「じゃあ帰るねー」
「はあ……ああ、桃、お礼言っておいて」
「んー」
生返事だけを残した幼馴染が出て行った玄関が閉まる。訪れた静けさにほっと息を吐いて、鍵とドアチェーンを締めた。人と話すのはエネルギーを使う。何だか少し疲れて、のろのろとゲーミングチェアに戻った。
『満月』からのメッセージは、クエストを手伝った礼と、承認への礼だった。
『また一緒にクエストしてください。それまでにレベル上げて強くなっておくので!』
「それまでに、て」
大体毎日ログインしているんだが。最短で明日会ってしまうかも知れないんだが。なんて。吐息で笑って、ディスプレイを消す。うんとひとつ伸びをして天井を見上げた。
フロイドの指摘の通り、この部屋は間接照明しかないせいで煌々と明るくなることはない。パソコン近くの照明を切ると、海中をイメージした青い光が天井をぼんやりと照らした。ベッドとパソコンと言う必要最低限のものしか置いていないせいでひどく殺風景だ。
ふと身体を起こして、再びディスプレイを点ける。ディスプレイ横のスイッチャーで接続を切り替えると、連動したパソコンがふぉんと音を立ててスリープモードから起動した。
画面の中には、イデアだけのアクアリウムがある。透き通った海。行き交う魚達はそれぞれ美しい色や形をしていた。デジタルで飼う分には逃げ出しもしないし、死んでしまったりもしない。イデアのためだけに、半永久的にそこで泳ぎ続けてくれるのだ。
イデアはむかしから海が好きだった。それこそ物心つく前から。貝殻や魚のキーホルダーをよく欲しがったし、水族館が大好きだった。子供の頃親に連れて行ってもらったのは八割水族館だ。お陰で色んな土地の水族館に詳しくなった。フロイドも海は好きだったようで、子供の頃はよく一緒に海水浴に行った。フロイドは泳ぐのが上手で、時々泳いで帰って来なくなるんじゃないかと思うほどだった。
この大学を選んだのも、海があるこの街に住めるからだ。普段は引きこもっていても、海を見るためなら外へ出る。フロイドもそれを分かっているから、本当に外に連れ出そうとする時には、海に行こう、と誘うのだ。
それに。ずっとやっているあのゲームも、海がベースのストーリーだからやっている。海底に沈んだ伝説の大都市を巡るオンラインゲーム。海のグラフィックがとても綺麗で、イデアはいつもある岬から海を眺めていた。
画面の中の小さな海を眺めて目を細める。ちらと時計を見てから、ディスプレイの前からキーボードをどかした。空いたそこへ顔を伏せ、眼だけを上げて様子を伺う。そろそろかな。思ったのと同時に、画面───否、水槽の端に脚の先が見えた。この水槽は海を切り取ったもので、水槽の端を過ぎても海は続いている。つまり、いま見えた脚の先は水槽の向こうの海からやって来たそれだ。
「おいで」
呟くように言うと、見えていた脚がもうひとつ、またひとつと増える。紫紺の爪先が四つになったころ、漸くそろりと小さな手が現れた。次いで覗いた、小さな顔と銀色の髪。
「アズール」
優しく呼びかけると、水槽の中に小さな人魚が全身を現した。銀髪は左サイドが少し長く、海水に揺れている。きりとした眉と涼し気な目元。口元にはちいさなほくろがひとつ。下半身が蛸の人魚が、イデアに向かって微笑んだ。
イデアの渾身の「人魚型AI・アズール」。
この子を創り出した時に浮かんだ名前は、酷く舌に馴染んで、そのままその名をつけた。誰にも知られていない、イデアだけの、人魚。
人々の行き交う街は酷く歩きづらくてイライラする。ぶつかりそうになる度、ちっと舌打ちをして寮への帰路を急いだ。
部屋に帰ると、そこには既にジェイドが帰宅していて、ベッドサイドで本を読みながらフロイド待っていたようだ。
「遅くなった。で?」
「せっかちですね」
「そりゃそうでしょ」
ただいまもなく問い掛けたそれに苦笑される。けれどそれにも構っていられないくらいに、フロイドは急いでいた。だって、ジェイドが電話をかけて来たのは。
「で、アズールはどこにいんの」
生まれた時から探していた。ずっと探していた半身は、やっとこの大学で見つけた。あとひとり。フロイドにとっては絶対に見つけなければならない、幼馴染。
何故かアズールを見つけるよりも、ジェイドを見つけるよりも先に、最初に見つけたのはよりによって大事な幼馴染を奪って行った男だった。愕然としたのは事実だけれど、イデアといたらアズールに会えるかも知れない。悔しいけれど二人は強く結ばれていたから。そう思っていたのに。
「イデアさんは思い出しました?」
「ぜんっぜんダメ。思い出す気ないんだよ。その程度だったんだって~」
肝心なイデアは、あの頃のことを覚えていない。魔法が存在した、あの世界のことを。アズールのことを。フロイドもジェイドも、こんなにはっきりと覚えているのに。
「で?」
「どうやら随分と遠いところにいるようで……会うのは難しそうです」
「んなの関係ねえ。どこなの」
「極東の地です」
それを聞いて、愕然とする。地図で見たって真反対と言っていいくらいのそこは、飛行機を乗り継いで一日以上かかる土地だ。単なる大学生であるフロイドやジェイドが簡単に行けるところではない。あー、と意味のない声を漏らして床に座り込んだ。
「……アズールは俺達といたくなかったのかな」
ぽつりと落とした弱音にジェイドが眉を下げる。
「そんなはずないですよ」
それは自分にも言い聞かせるような音で、ふたりの小さな部屋に溶けた。
こぽこぽと小さな音がスピーカーから漏れる。イデアのアクアリウムの中から懸命に外を覗こうとしている人魚の仕草が幼くて、つい頬を弛めてしまう。
プログラムは容易ではなかった。元々はイデアの漠然としたイメージをオンラインで知り合った絵師に描き起こしてもらったところから始まったこの一人プロジェクトは、ここまで来るのに二年近く。何度も何度もリテイクして、漸く納得が行く外見に行き着いた時には担当絵師に「二度とお前の依頼は受けない」と苦笑いされた。それを元に立体に起こし、モーションをつけ、人工知能を入れる。こうして書き出せば簡単そうに思われるかも知れないが、三面図を作るのも一苦労、モーションはまずソフトを入れるところから、人工知能はほぼ一ヶ月寝ずにプログラムした。フリーのソースがあったのかも知れない。けれど、アズールに他人の手を入れたくなかった。
『いや俺の手は使ったじゃないですか』
「ふひひ、ジャミル氏は別でござる」
イデアの交友関係の中で最も絵が上手くて、ラフに会話ができる相手。ひとつ年下のジャミルは例のゲームで知り合ったギルド仲間のひとりだ。住んでいる場所は国すら違うけれど、気の置けない数少ない友人。
『で、できたんですか?』
「うーん、まあ……」
歯切れの悪い言い方に通話相手が続きを待つ。首を傾げているんだろうな、というごそりという音がした。
「声が決まらなくて」
小さく零すと、何となく想定していたのか、ああ、と納得される。幾ら見た目ができて、動いて、考えられたとしても、声は魂だ。と、イデアは思っている。どうしても納得の行く声に出会えずに、ディスプレイの中の人魚は眠ったままだ。
『ボイスバンクもダメでしたか? あそこはプロアマ問わずにボイスサンプル沢山あったでしょう』
「聞いたけどダメでした」
『そうですか。じゃあ諦めたらどうですか』
「早い早い。諦めが早い」
ヘッドフォンの向こうから、はー、とため息が聞こえる。面倒だ、と言うのを隠さないのは彼の美点でもあるけれど、ちょっと傷付く。とは言え、自分が面倒なことを言っているのも理解しているからそれ以上は続けるつもりはなかった。
『だったら声が見つかるまでテキストボックスで凌ぐか、海中からの音声だから乱れてるとか言う設定で人工音声使ったらどうですか?』
両方考えたのだけれど、踏ん切りがつかなかった。けれど、人魚はもう身体を得て、動きを得て、頭脳を得ている。いつまでもイデアの都合で眠らせ続けるのは可哀想だ。ジャミルからしたらたかがプログラムにと見えるかも知れないけれど、創作者と言うのはそういうものだ。自らの手で創り出したものは最早自分とは切り離されたところに存在する愛すべき子供であり、分身。
「考えてみる、ありがと」
言いながら、イデアの指先がぱちぱちとキーボードを叩く。黒い背景に白や赤、黄色の文字列が所狭しと打ち込まれて行った。
初めてその瞼を持ち上げて、そのブルーグレーの瞳を見た時、泣きそうになった。
ここまでの苦労の結晶だという感動だったか、その愛らしさへの悦びだったのか、または全く別の何かだったのか。ツンと痛む鼻の奥を誤魔化すように一度鼻をすすって、震える指先でディスプレイに触れる。水槽越しの彼に触れることは当然叶わなかったけれど、ぱちぱちと目を瞬かせて辺りを見回した人魚がこちらの存在に気付き、のそのそと海底を這うように近付いてイデアの掌にその小さな掌をそっと触れさせた瞬間、ついに溢れた涙が机を濡らした。
そうして生まれたアズールは、未だに声を持たない。人魚は美しい声を持ち、人を惑わす唄を歌うと言うけれど、この子は歌すら歌えない。そう思うと申し訳なさでいっそ悲しくなるけれど、あちこちに落ちているものを拾っては観察したり、泳ぎ去る魚をずっと眺めていたり、好奇心に満たされた人魚を見ていると少し心が軽くなる。
「いつかキミの声を見つけてあげるからね」
囁きかけると、水中に届いたイデアの声にアズールが振り向いた。にぱと笑った顔が幼くて庇護欲が刺激される。
完成したなら見せてくださいよ、と言うジャミルの当然の要求すら断固としてお断り申し上げるくらいには、この存在を独り占めしておきたかった。