TO麺×$ 45 発売されたアルバムは、その日から絶好調! というわけには当然いかず、いつもよりも少し多く売れたかなという体感程度で、コンセプトを変えたからと言ってすぐに結果が出るはずもないかとがっかりしながら売上表を閉じる。
とは言え、手を休める暇はない。反応は悪くなかったし、方向性は一旦これでいいとして、あとはひたすら宣伝だ。幸いなことに、事務所転籍の前借としてヴィルさんがいくつかラジオや地方番組の出演枠を流してくれていたし、とにかく露出を増やすしかない。
「つーかケイト先輩何してんすかね」
出演番組の情報を整理しながら、エースさんがパソコンから目を離さないままに呟いた。
例の、移籍記事が出た頃からケイトさんは本業が忙しいからと僕らからは少し距離を置いている。時々イベントの出演枠を回してくれたりするのは、エースさんが代わりにさばいてくれていたから、僕らとしては問題はないのだけれど。
「ライバル事務所になるからもう関われないとかなんすかね~?」
拗ねたようなエースさんの言い方に視線を落とした。ライバル事務所。そうなるのか。正式移籍はこのイベントを終えた、来月を予定している。仮契約も済んだし、あとは粛々と準備を進めるだけ。それが終わったら、イデアさん達とは〝敵〟になるのか。
「トレイからは普通に連絡があるし、そこまで気にしてないんじゃないか?」
衣装発注のために資料をテーブルに広げていたリドルさんが口を挟む。事務所同士がどうであれ、流石に幼馴染関係にまでひびが入る事はないだろう。同じことを考えたらしいエースさんが曖昧に流した。
「とにかく今はアルバムの売上を考えることが先ですよ」
「へーい」
お渡し会は明後日だ。イベントの衣装はアルバムのジャケットに使ったものと決めてあるし、イベントに向けての準備はもう特にやる事はない。CDお渡し係のエペルさんにも今後の布石になればと今回はちょっと可愛い衣装を用意した。いまの体制でやる最後のイベント。接触イベントはこれから先もあるだろうとは思うけれど、何となく、イデアさんが来てくれるのはこれが最初で最後のような気がした。
会場からほど近い自動販売機の影。目の前には呆れた顔のデュース氏が腕組をしていて、最早苛立ちを隠そうともしていない。わかる、わかってる。早く行かないとイベントが終わっちゃうし、デュース氏は拙者を捨て置いてでもイベントに参加したいんだろうし、でもそうもできなくてイライラしているんだろう。でも、どうしても一歩が踏み出せない。
「……そんなに嫌なら行かなくてもいいんじゃないですか?」
遂にデュース氏の口から溜息交じりにそんな言葉が落ちてしまった。彼は、先日のライブでのやり取りを知らない。僕が変な嘘を吐いてしまった事も、そのせいで彼女を怒らせてしまった事も。全部自分が悪いのだけれど、それらのせいで会場に赴く一歩が踏み出せずにいる事を、彼は知る由もないのだ。ちらと腕時計を確認したデュース氏の踵が一歩下がり、会場へと方向転換をする。
「僕は行きますよ。イベント終わっちゃうかも知れないですし。ただ、」
いつだってまっすぐなこの子は、うじうじと動けずにいる僕をやっぱりまっすぐに見詰めて、凛とした偽りのない眼で僕を刺した。
「約束を破るやつは最低だと思います」
曲がったことが嫌いなデュース氏に、嘘の話をしたらこうやって断罪されるんだろうか。デュース氏の言葉にジェイド氏を思い出す。
『ちなみに、アズールは嘘を吐かれるのも嫌いですが、約束を破られることも嫌いです』
「……謝るって決めたくせに」
一度思い切り深呼吸をして、マスクの上から両手で頬を叩く。歩き出したデュース氏の背中を追いかけると、振り返った黒い瞳が待ってましたと笑ってくれた。
会場に入ると、既にイベントの終了時間も近かったせいでホール内に人は少なく、順番はもう終わったけれど、遠目に彼女らを眺めていたい人や、敢えて遅い順番で入った人がちらほらといった所だった。こうしたイベントは得てして最後の方に来る客ほど熱量が高い人間が多いのだ。僕らが会場に入ると、さわりと空気が揺れた気がする。珍しい、TOじゃん、というのは恐らく僕の事を指していて、注目されている事に逃げ出したくなった。
「シュラウド先輩、先にどうぞ」
「えっ⁉」
こういう時は後輩が先なのでは、と言いかけてレーンに目をやって納得する。手前から、CDお渡し係のスタッフ、リドル氏、カリム氏、アズール氏と並んでいた。そうなると、僕が先に行くと万が一アズール氏の所で長く止まった時に後ろのリドル氏の所にデュース氏がいることになるので、レーンに空白が生まれずに済むのだ。と、事前にデュース氏から説明を受けていた。流石プロだ。接触イベントに慣れていないオタクとしてはその情報はとても助かる。
恐る恐る列に並んで、CDを受け取る。いつも物販にいる子だ。目を丸くしたリドル氏からメッセージカードを受け取った。
「いつもありがとうございます」
はきはきとした声に思わずぺこりと頭を下げる。営業用の笑顔とわかっていても、何となく直視が出来ずにフードの中に視線を隠した。
「来てくれてありがとう!」
からりと笑ったカリム氏とは面識がないけれど、裏表のないその笑顔に少しだけほっとする。いや、僕の事を知らないからこその安心感なのかも知れない。メッセージカードを受け取って、震える足をどうにか次へと進めた。
顔を上げるなんてとんでもない。長机を前にメッセージカードを構えたアズール氏の手元と、新しい衣装のお腹の辺りをフードとマスクの隙間から泣きそうな気持ちで見詰める事しかできなかった。隣からはデュース氏の声がして、リドル氏と話をしているのかなと思う。目の前にいるのに、ただ無言で立ち尽くす僕に、ふとアズール氏の手が動いた。
「約束は守ってくれたんですね」
カードから離れた右手が僕のフードに触れて、少し持ち上げるようにされると、強制的に開かれた視界にアズール氏の困ったような笑顔が飛び込んで来る。ここは現場だ。本当は話したくもないと思っていても、プロとしてファンサービスをしてくれているのかも知れない。
「……嘘を、ついてごめん、」
涙で詰まるように掠れた声でそう言うと、アズール氏は僅かに顎を引いた後、ふと笑った。
「今日約束を守ってくれましたから。特別に許して差し上げます」
次はないですよ、と頬を膨らまして、カードを差し出される。震える手でそれを受け取って、許された気の緩みに、思わずえへへと不細工な笑い声を漏らした。
「ライブ楽しかったです」
「こ、こちらこそ……来てくれてありがとう……」
本来ならこの場ではその台詞を僕が言われる側な気がするけれど。同じことを考えていたらしいアズール氏が、あべこべですねと言うのにつられて頷く。
「これからも、ライブ来てくれますか?」
「え? も、もちろん」
「……イベントも?」
「あー……ぜ、善処します……」
こんな風にアズール氏とお話できるのは嬉しいには嬉しいんだけど、やっぱりちらほら残っているファンからの視線が痛いし、何を話せばいいのかわからないし、何より今日は握手がないからまだいいけれど、彼女の手に触れるのはやっぱりどうも憚られる。いや、あの日しがみつかれたりしたし、今更ではあるんだけれど、僕から自発的にというのはまだハードルが高いのだ。
「……ライバルになってもですか?」
「え?」
ぽつりと落ちた質問に思わず間の抜けた声を出してしまう。もじもじと動いていたアズール氏の指先に気を取られていたせいもあって、咄嗟に返事をする事ができなかった。ライバル? 何の? 僕の聞き返しにはっとしたように顔を上げたアズール氏が慌てて首を振る。
「な、何でもないんです。また来てくださいね、必ずですよ」
作られた笑顔に違和感を覚えつつ、はがし係のフロイド氏に肩を叩かれ、会話は中途半端に終わってしまった。またねえ、と僕を列から追い出すフロイド氏の向こうで俯いたアズール氏の薄暗い表情がどうしてか頭から離れなかった。